2023年11月5日日曜日

イスラエル軍が2023年10月31日に、パレスチナ自治区のガザ北部のジャバリア難民キャンプを空爆した。パレスチナ住民が難民キャンプの瓦礫の中から11月1日に、パレスチナ難民の死体を回収した。

イスラエル軍が2023年10月31日に、パレスチナ自治区のガザ北部のジャバリア(Jabalia)難民キャンプを空爆した。ガザ北部のパレスチナ住民が難民キャンプの瓦礫の中から11月1日に、パレスチナ難民の死体を回収した。イスラエル国防軍とパレスチナ保健当局によると、10月7日にハマス過激派がガザ地区からイスラエルへの攻撃を開始して、それに引き続くガザとヨルダン川西岸地区でのイスラエル軍の作戦以来に、約8,500人以上のパレスチナ人と少なくとも1,400人以上のイスラエル人が死亡した。面積1.4平方kmのジャバリアは、ガザ地区の8つの難民キャンプの中で最大で、約11万6000人の難民登録者が住んいた。ジャバリアは1948年、イスラエル建国に伴う戦闘の中、パレスチナ人難民を保護するために設置された。

 イスラエル軍は、ハマス武装組織の地下司令部の破壊を主張して、多数の民間パレスチナ人の犠牲者を出したガザ北部のジャバリア・難民キャンプへの攻撃を正当化した。10月27日からイスラエル軍によるハマス武装組織に対する地上作戦が勃発した。ガザ地区北部にあるジャバリア難民キャンプの真ん中で、渦巻きのように、周囲の建物や生物すべてが崩壊した。11月1日に、パレスチナ住民は、イスラエル軍がガザ北部地区のジャバリア難民キャンプを空爆した後に、埃と瓦礫の混乱の中で、死体を探した。2回目の空爆は11月1日に、ジャバリア難民キャンプのファルージャ地区で攻撃された。11月2日朝、ガザ保健省は、2度連続した空爆されたジャパラ難民キャンプで、合計約195人が死亡して、約777人が負傷して、約120人が行方不明となったと発表した。11月2日に3回目の空爆がジャバリア難民キャンプを未攻撃した。

 イスラエル軍に地下トンネルがあるとされた被爆地域の多くの家屋は、攻撃の後に衝撃で地面にクレーターができ、周囲の家屋が崩壊した。イスラエル軍は、ハマス民兵司令官を標的にして、ガザ北部地区の地下トンネルに潜伏した約50人の民兵を殺害したと報告した。ハマス武装組織は、10月31日のイスラエル軍のジャバリア難民キャンプを砲撃して、拘束した7人の人質が死亡したとハマスは報告した。海岸沿いの飛び地にある少なくとも5つの難民キャンプが攻撃された。











Warning: Palestinians recover bodies from the rubble in Jabalia refugee camp following an Israeli airstrike, Nov. 1, 2023. (EFE/EPA/MOHAMMED SABRE).


2023年11月4日土曜日

広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、原爆病で死亡した被爆者を病理解剖をする臨時剖検室が広島逓信病院に設置された。広島逓信病院の臨時剖検室は、血便などの使用上から赤痢を疑われた被爆者を隔離するために急増して設置された病棟の一部であった。赤痢の疑いから解放された後に、臨時剖検室となった。

 広島逓信病院の付近の板小屋で1945年10月11日に玉川忠太教授が、死亡した被爆者の病理解剖をした。広島原子爆弾の8月6日に投下されて炸裂して被爆して、広島逓信病院にて原爆症で死亡した被爆者を病理解剖した。広島医専の玉川教授は、被爆者の病理解剖を、8月29日から10月13日までの剖検記録を残した。その助手として、内科の宮庄州男医師が病理解剖の記録した。

 8月6日に原子爆弾が炸裂して、広島が壊滅した直後から、病理解剖された原爆犠牲者の剖検記録が残存した。広島医専の玉川教授が、8月29日から10月13日にかけて病理解剖した19事例の全てが揃って残存した。病理解剖は、広島逓信病院(広島市中区)付近の板小屋で行われた。原子爆弾の放射線の早期の影響を調べた貴重な病理記録となった。玉川教授を初代教授とした現広島大大学院分子病理学研究室が保管している。

 玉川(1897年~1970年)は、1945年春に、広島医専の認可に伴って、岡山医科大助教授から広島医専の教授に転任した。8月6日は広島医専の疎開先であった現安芸高田市にいた。8月8日に広島市内へ入った。広島県庁に、病理解剖の許可を求めたが断られた。

 「脱毛、皮下溢血、未知の病変の続発する報に接したので、今は一刻の猶予もならぬ」と8月27日に再び広島市内に向かった。岡山医科大学の後輩で広島逓信病院の蜂谷道彦院長に協力を要請した。蜂谷道彦院長は「原子症」への注意を院内に張り出して、病理解剖の必要性を感じた。玉川教授は、宇品陸軍船舶司令部の暁部隊が、広島逓信病院の裏庭に建てた木造バラックで病理解剖した。玉川教授は、板壁を外して解剖台などを作った。10月13日までに19症 例を解剖した。復員した病院医師や来援の岡山医科大生らが助手を務め、口述を書き留めた。

 「広島市に於ける原子爆弾症の剖検記録19例」の論文は、GHQ占領が明けた1953年に刊行された日本学術会議の「原爆災害調査報告集」で公表された。広島大医学部の玉川教授は、原爆ケロイド患者の表皮からがんの転化を発見した。GHQに接収された病理・組織標本などは1973年にアメリカ陸軍病理学研究所から日本へ返還されて、旧広島大学原医研などが保管した。




2023年11月3日金曜日

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。

日本軍により、ゲリラ活動の容疑でフィリピンのマニラ市民が1945年2月に銃殺された。日本軍は、マニラ市内で激闘を継続する中で、非戦闘員である多数のマニラ市民を、抗日の抵抗勢力として虐殺した。1945年2月13日付けの日本軍大隊に、フィリピン人を殺害する時は、弾薬と労力を無駄にしないように、1カ所に集めよと命令した。さらにフィリピン人の死体は、建物の中に集めて焼却する、あるいは河中に投ぜよと命令した。マニラの戦いの初日の2月3日にダイパック貯木場で約115人のフィリピン人の虐殺から、ゲリラの容疑者の虐殺が勃発した。2月9日から、ゲリラ容疑者の個人攻撃から組織的な大量虐殺に移行した。

 マニラの大虐殺は、マニラのレイプとも呼ばれ、第二次世界大戦末期に発生したマニラの戦い(1945年2月3日~1945年3月3日)にて、日本軍がフィリピンの首都マニラ市で、フィリピン 市民に対して行った残虐行為である。日本軍だけでなく、アメリカ軍の砲撃や銃撃によって殺害された民間人の総数は、少なくとも10万人と推定された。アメリカ軍の軍事作戦は、戦闘中のフィリピン人非戦闘員の死者総数の約40%を引き起こした可能性がある。

 1ヶ月に及ぶマニラの戦いは、約10万人以上の市民の死と街の完全な荒廃をもたらした。太平洋戦争でアメリカ軍が戦った最悪の市街戦の戦場となった。日本軍は戦闘中に、フィリピン市民に対して大量殺人を行い、アメリカ軍の武力は多くの人々を巻き込み殺害した。マニラの戦いにて、アメリカ軍兵士は約1,010人が戦死して、約5,565人が戦傷した。日本軍兵士は、約16,665人が戦死して全滅した。

 日本軍兵士は絶え間ないアメリカ軍の砲撃にさらされ、確実な戦死や捕虜に直面した。苦境に立たされた日本軍は、銃撃戦に巻き込まれたフィリピン市民に怒りと苛立ちをぶつけた。マニラ大虐殺となる激しい残虐行為を何度も行った。日本軍は陣地を守るため、フィリピン人の女性や子供を人間の盾として前線に押し出した。生き残ったフィリピン人は、日本軍によって殺害された。日本軍兵士は、壕や溝に手榴弾を打ち込み、ライフル銃の射撃や銃剣の刺突で生存者のフィリピン人を虐殺した。日本軍のマニラ大虐殺は、1937-38年の南京大虐殺に匹敵した。




2023年11月2日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、セルビアのパンチェヴォ市の墓地にて、ドイツ軍に絞首刑で処刑された市民の死体が1941年4月23日に吊るされた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、セルビアのパンチェヴォ市の墓地にて、ドイツ軍に絞首刑で処刑された市民の死体が1941年4月23日に吊るされた。セルビアのパンチェヴォにて、その2日前の夜に2人のドイツ軍親衛隊が撃たれて殺害された。その報復として、18人の市民がドイツ国防軍によって射殺された。さらに男性17人と女性1人の市民が絞首刑に処された。

 絞首刑の死体で真ん中に吊るされている女性はレストランを経営していた。その地下に、ドイツ軍が墓地に通じるトンネルを発見して、狙撃兵の逃走経路と疑われた。女性はレストランのオーナーであり、そこから墓地へと続く秘密の約200mの通路があった。絞首刑の2日前の夜に、墓地からドイツ軍親衛隊の2人が射殺された。絞首刑になった容疑者はすべて墓地の周辺で捕まった。ドイツ軍のプロパガンダ部隊に所属したカメラマンが大虐殺を撮影した。

 1941年4月6日から4月18日に、ドイツ軍によるユーゴスラビア侵攻の際に、パンチェヴォは占領された。1941年4月12日に、ドイツ国防軍兵士らが、国家降伏前にユーゴスラビア王国軍の3人に襲われた。準軍事組織であるマンシャフト(Mannschaft)の9人のヴォルクス・ドイッチェ(volksdeutsche)隊員、親衛隊SSの師団ダス・ライヒ(Das Reich)隊員が襲撃された。襲撃の報復として、36人のセルビア人を絞首刑と銃殺で殺害した。ユーゴスラビア侵攻は、第二次世界大戦中の1941年4月6日に始まり4月18日に占領して終結した枢軸国軍によるドイツ軍主導のユーゴスラビア王国への攻撃であった。




2023年11月1日水曜日

1967年10月10日にバジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体と2人のゲリラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストがゲバラの死体を囲んだ。

1967年10月9日、エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)ら22人のゲリラ部隊は、アメリカのグリーンベレーとCIAの諜報員に訓練、装備、指導されたボリビア軍兵士によって捕獲されて39歳で死刑に処された。1967年10月10日に、バジェグランデの病院の洗濯室で、ゲバラの死体が国際報道陣に公開された。ボリビア軍兵士やジャーナリストが、ゲバラの死体を囲んだ。洗濯台下には、2人のゲリラの死体が地面に倒れた。2人とも胸部を露出して、体の傷口には緋色の血がついて、ショールを巻き、あごひげを生やした。

 1967年10月7日、ある情報提供者がボリビアの特殊部隊にユロ渓谷に、ゲバラがゲリラと野営している場所を知らせた。10月8日に、20人前後のゲリラ部隊と、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉が率いるボリビア政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられた。ゲバラは縛られて10月8日の夜に、近くのラ・イゲラ村の荒廃した泥の校舎に連れて行かれた。10月9日の朝に、ボリビアのレネ・バリエントス大統領はゲバラの殺害を命じた。ゲバラがボリビア軍との戦闘で戦死したように見せるため、ゲバラの頭部を撃たないように命じた。

 マリオ・テランという27歳のボリビア軍の軍曹が、ゲバラを処刑するために小屋に入った。ゲバラは10月9日午後0時45分頃からテランにより全部で9発撃たれ、足に5発、右肩と腕に1発、胸と喉に1発であった。絶命せず、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いて殺害した。10月9日に午後1時10分に死亡が確認された。処刑後にに、ゲバラの死体はヘリコプターの着陸用スキッドに括り付けられて、検死と防腐処理のために、ボリビア南東部のバジェグランデの病院に運ばれた。10月10日に病院の洗濯台でコンクリートスラブの上に横たわるゲバラの写真が撮影された。1997年までゲバラの死体は行方不明で、バジェグランデの集団墓地に埋葬された。再発掘された遺体は、キューバに送還され、1997年にキューバ国家の栄誉を讃えて再び埋葬された。




2023年10月31日火曜日

日本本土の秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。

秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン(Pegun)島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。切腹者に日本刀で介錯して斬首した頭部が切断されて血まみれに散乱した。

 太平洋戦争にて1944年11月15日に、アメリカ軍はマピア(Mapia)諸島のペガン島に上陸した。アメリカ軍B25戦闘機は、ペガン島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加えた。日本軍兵士は、次々と斃れて多数の死傷者を出して、ペガン島の北方に退避した。ペガン島にいた一部の日本軍兵士は、珊瑚リーフを渡り、北のブラス(Bras)島へ退却した。

 一方、ブラス島への退却路を塞がれた数十名の日本軍兵士は、アメリカ軍の戦車で壊滅して、蹂躙された。日本軍兵士の戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。もはやこれまでと最期を決意した残存した日本軍歩兵第223連隊の約30人は、散兵壕内で手榴弾や切腹により自殺した。11月15日にジャングルの端で爆薬や切腹による集団自決を遂げた。アメリカ軍は、11月15日にペガン島を制圧した。アメリカ軍公刊戦の記録では、マピア諸島における日本軍兵士の玉砕した戦死者数は総数は151人であった。秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊が全滅して玉砕した。殺されなかった日本軍兵士は、ジャングルに逃げ込み、ほとんどが餓死した。

 マピア諸島は、西部ニューギニアの北方約190kmで、海抜わずか1mの扁平のサンゴ礁の小島群である。一番南に、長さ約4.2km、幅約400mの細長いペグン(Pegun)島が位置した。日本軍はペガン島と呼称した。太平洋戦争での玉砕戦は、大半は戦略の失敗による特異な戦術様態にもかかわらず、玉砕は負のイメージを払拭し、雄々しく散った勇士の姿を浮かび上がらせた。玉砕は作戦の立案者や指揮官の失敗を覆い隠し、日本軍首脳にとっては都合のよい言葉になった。まもなく、玉砕は全滅の代替え語になった。




2023年10月30日月曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。ソ連の赤軍がゼーロウ高地を突破した後の1945年春に、ベルリンへ向かう途上の道に、ソ連軍の戦車が延々と列をなした。弱体化したドイツ軍の空軍も、急ごしらえのドイツ軍の国民突撃大隊も、ソ連軍の進軍を阻止するには至らなかった。

 ベルリン方面では、ソ連軍は頑強に抵抗するドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。ドイツ軍司令部は、ソ連軍の行く手を阻もうと、使えるすべての戦力を戦闘に投入した。ベルリンの軍事学校は授業を停止し、学校の士官候補生と軍属も前線に送られた。ヒトラーはベルリンで、15歳から65歳まで全面的な戦争動員を宣言した。

 ソ連の赤軍歩兵は要塞化された建物からドイツ軍を叩き出し、砲撃はベルリン郊外の通りに築かれた石やレンガのバリケードを破壊した。ベルリン侵攻の初日4月22日には、最大で8000人のドイツ軍兵士が犠牲となり、47台の戦車と自走砲、150以上の野砲と迫撃砲が破壊された。ベルリン方面での戦闘は昼夜を問わず続き、1時間も途切れることはなかった。

 ドイツ軍は何万人もの戦闘員を集めてソ連の進撃を食い止めようとした。約6000両の戦車と自走砲、8000機の戦闘機、約4万1000門の迫撃砲と大砲で強化された約200万人以上のソ連軍の赤軍部隊にはドイツ軍は勝ち目がなかった。ソ連軍のベルリン攻勢は1945年4月23日に勃発した。4月29日までに、ソ連軍はドイツ軍を切り裂き、首都ベルリンの中心部まで到達した。5月1日に、ソ連軍はドイツ連邦議会議事堂を攻撃し、屋上に有名な戦勝旗を掲げた。5月2日に、ベルリン市内に残っていたドイツ軍の守備隊はソビエト軍に降伏した。




2023年10月29日日曜日

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザで、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザ(Hroza)で、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

 ウクライナ北東部のヒロザ村にあるカフェと食料品店に、ロシア軍のミサイルが激突し、建物は瓦礫と化し、追悼式中の51人が死亡した。2023年10月5日午後に、ハリコフ州のフロザ村のカフェと食料品店が攻撃された場所には、レンガや粉々になった金属や建材が山積みとなった。ミサイル攻撃は、ロシア軍の侵攻以来、ハリコフ州で最も甚大な被害をもたらした。ロシア軍による一度の攻撃で最大の民間人犠牲者の一つとなった。侵攻初期にロシア軍に占領されたが、2022年9月にウクライナ軍が奪還した。ロシア軍が2022年2月24日にウクライナ侵攻を開始する前に、ヒロザの人口は約500人と比較して、入植地のヒロザには約330人が住んでいて、ヒロザ村の5分の1が1回のミサイル攻撃で殺害された。

 ロシア軍侵攻中の避難命令下にも、家族がヒロザに残存して、犠牲者の中には子どもたちも含また。フロザは、2022年末にウクライナ軍が奪還したクピアンスクの西約30kmに位置し、戦争の最前線にかなり近い。救急隊員は瓦礫の山を通り抜け、子供たちの遊び場に隣接する野原に死体を並べて散乱していた。何人かは白い遺体袋に入れられて運び出された。カーペットなどでかろうじて覆われ、手が不格好に突き出ている死体もあった。緊急サービス広報は、生存者の捜索は終了し、死者数は51人、負傷者数は6人、行方不明3人と発表した。死者の中には6歳の男の子も含まれた。埋葬中の兵士の息子(同じく兵士)も、息子の妻と母親とともに襲撃で死亡した。

 ミサイルが落下して炸裂時に、地元のヒロザの住民の約60人は、戦死した兵士のための礼拝の後に、追悼式の礼拝の席で食事をしていた。ロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルで攻撃されて、攻撃の標的を絞った。ロシア軍当局はフロザのミサイル攻撃はすぐにコメントを出さず、意図的な民間人殺害を否定した。ロシア軍がウクライナの住宅地やエネルギー、防衛、港湾、穀物などの施設を襲った攻撃で多くの犠牲者が出た。




















Warning: A local resident tries to identify bodies in Hroza, in Kharkiv region, Ukraine October 5 2023. Picture: SOFIA GATILOVA/REUTERS

2023年10月28日土曜日

1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである。原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。

長崎原子爆弾の被爆者の背中をケロイドが覆った。ケロイドは、瘢痕組織の上に成長する緻密な線維性の増殖である。1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである(日時・場所等不詳)。

 原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。爆心地から2km以内で熱線を浴びた人の約50~60%にケロイドが発生した。ケロイドは放射線と関係がある。ケロイドは被害者の心と体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドがある人は精神的にさらに苦しみ、背中や肩にケロイドがある人は肌を見せることを躊躇した。

 ケロイドは、原爆被爆者の火傷した皮膚が治癒する過程で形成された、不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えることからこの名がついた。爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆4ヵ月後に形成され、その後6~14ヵ月後に最も目立つようになった。ほとんどの瘢痕は約2年後に縮小して治癒した。

 太平洋戦争の末期となった1945年8月9日午前11時2分に、プルトニウムを核とする約21キロトンの爆縮型の原子爆弾であるファットマンが、長崎上空の約500mで炸裂した。推定7万人の長崎市民が死亡して、約6万人が負傷した。人口密度の高い九州西部の工業都市である長崎市の上空で炸裂した。長崎市は、取り囲む丘陵地帯により、原子爆弾の壊滅的な影響が広がるのを食い止めた。逆に、原子爆弾の破壊力を集中させ、爆心地に最も近い地域で原爆の威力をより強烈にした。長崎原子爆弾は爆心地から約914m以内にあった病院と医学部を消滅させた。爆心地から半径1.5km以内にいた人々は一瞬にして姿を消した。 




2023年10月27日金曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器で攻撃をした。損傷して、乗組員が焼け焦げて焼死して周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦い(1944年9月15日から11月27日)にて、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器にて攻撃をした。日本軍の95式軽戦車が損傷して、乗組員が火炎放射器で焼け焦げて焼死した死体が、戦車の周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、戦車の側から黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

 日本軍は、アメリカ軍を遅延させて最大限の死傷者と損害を与える戦術へと転換した。自然の地形を利用し、カモフラージュして、厳重に要塞化された陣地が、防御する日本軍側に有利な逆斜面やマスキングされた地形に構築された。日本軍の要塞、掩体壕、トンネル群をめぐる戦闘は、ペリリュー島の戦いを象徴した。アメリカ軍は、包囲戦の状況に陥り、ほぼすべての強拠点を隣接する陣地から孤立させて、火炎放射器とサッチェルチャージの爆破物を使用して、手と手を使った戦闘で破壊した。アメリカ軍が多大な犠牲を払って奪還したペリリュー島は、太平洋戦争の最終年に重要な役割を果たさなかった。

 アメリカ軍は火炎放射器部隊は主に、火炎放射車によりヘリリュー島で日本軍の洞窟、ピルボックス、壕を無力化し、戦場から身を隠すものを燃やすために、フレームトラクターを使用した。防御された陣地に隠れていた日本軍兵士は、逆斜面を直撃する燃え盛る太い燃料のアーチ状の棒の流れにしばしば捕まった。火炎放射器は歩兵よりも、戦車よりも先に動いて、丘に到達して攻撃が緩むと、戦車と歩兵が火炎放射器を支援した。火炎兵器の射程外の目標に火炎を運ぶために高圧ホースを使用した。高圧ホースを新装着した火炎放射器が、約55mの射程距離を達成して、その後の沖縄戦ですべてが使用された。

 ペリリュー島の戦いでは、アメリカ軍の犠牲者は、海兵隊の約1,336人が戦死、約5,450人が戦傷、第81歩兵師団の死者約1,393人(うち戦死者約208人)に及んだ。日本軍の犠牲者は推定約10,695人が戦死して、さらに約301人が捕虜となった。




2023年10月26日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト要塞を防衛した。ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて死体が廃墟に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト(Brest Fortress)要塞を防衛した。ブカレスト要塞の廃墟にて、ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて、死体が散乱した。

 ソ連ベラルーシ西部の国境にあるブレスト要塞は、ドイツ軍のポーランド侵攻2日目の1939年9月2日に、ブレスト要塞は初めて爆撃された。ブカレスト要塞をめぐる戦闘は9月14日から9月17日まで続いて、ドイツ軍がポーランド守備隊を鎮圧して占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書で、ブレスト要塞はソ連に割譲された。

 1941年6月22日からドイツ軍はバルバロッサ作戦で突如にソ連西部に侵攻して奇襲攻撃した。バルバロッサ作戦の初日にブレスト要塞の戦いが勃発した。6月22日04時15分に、ドイツ国防軍は何の前触れもなくブレスト要塞を攻撃した。ドイツ軍の強力な砲撃の後、突撃を開始した。ブレスト要塞は火の海と化した。周囲はすべて燃え上がり、ゴロゴロと音を立てていた。ソ連軍の兵舎では、天井に穴が開き、壁の一部が剥がれ落ち、すでに死傷者が出た。6月22日午前9時に完全にドイツ軍が包囲した。ソ連軍は6月26日まで持ちこたえたが、ドイツ軍の土木工兵が数か所の要塞を爆破し、ついにソ連軍の抵抗を打ち砕かれた。6月30日遅くに、ソ連軍はブレスト要塞の放棄を決定し、7月2日に生き残ったソ連軍の主力が脱出した。6月30日にはブレスト要塞内には組織化されたソ連軍部隊は残存しなかった。

 ドイツ軍の推定では、ブレスト要塞の攻撃で約7000人以上の赤軍兵士が捕虜となり、約2000人が死亡して、要塞からの脱出者はほんの一握りだった。ドイツ国防軍は500人以上が死亡し、約700人が負傷した。8月26日に、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニが要塞を訪れた。ソ連軍のプロパガンダにより、戦闘は7月20日まで続き、ソ連軍兵士は誰もドイツ軍に降伏しなかった物語として、赤軍とソ連国民の回復力と勇気の証とした。




2023年10月25日水曜日

太平洋戦争のブーゲンビルの戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル(Bougainville)の戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

 連合軍と日本軍のブーゲンビル島の戦いは1943年11月1日に勃発して、1945年8月21日に終結した。ブーゲンビル島はソロモン諸島にて約1万平方kmと最大である。日本軍は、ガダルカナル島から撤退した第十七軍の司令部を置いた。その兵力は第六師団、第十七歩兵団、南海第四守備隊などを中心に、最終的には約6万人から約8万人も駐留した。   

 1943年10月27日に、ニュージーランド軍がモノ島(トレジャリー島)に上陸して、日本軍の海軍陸戦隊の約200人を掃討した。10月27日にチョイセル島にアメリカ軍が上陸し、同島の日本軍守備隊約1,000人強との戦闘後に、11月4日には撤収した。11月1日、連合軍の第三海兵師団が、ブーゲンビル島のタロキナ海岸から上陸した。ラバウルの日本海軍航空隊が出撃して、タロキナ海岸付近のアメリカ軍艦船をブーゲンビル島沖海戦で攻撃した。上陸地点に最も近くのモシゲタに布陣した日本軍歩兵第二十三連隊は、約2,200人の兵力でタロキナ海岸に侵攻して、戦闘が11月8日に勃発した。約150対1もの格差があるアメリカ軍の火力に遭遇して、戦闘よりも虐殺に等しいと判断した日本軍の浜之上俊秋連隊長は、独断で撤退した。

  日本軍の歩兵第二十三連隊がタロキナ海岸上陸軍への攻勢を、中止して撤退した後に、日本軍の第十七軍は兵力を集中させて、攻撃の再開を準備した。その矢先に、ラバウルの日本軍の第八方面軍は、攻勢の延期を大本営から指示された。大本営は陸海軍部と早期攻撃を希望したが、第八方面軍は十分な兵力を集中した攻撃でないと、制空権も制海権も連合軍に握られた現状では、効果がないと延期で押し切った。攻撃の3日目で撤退した日本軍第二十三連隊長は、負傷して更迭された。一時は第八方面軍では、第二十三連隊長は敵前逃亡で軍法会議にかけるべきと強硬意見もあった。踏みとどまり攻撃を続行すれば早々に玉砕の全滅も予想されて、日本軍の方面軍の攻勢一時中止は当然だった。

  日本軍の第六師団はブイン地区から百数十kmもあり、一翼を担う第四十五連隊などは反対側、密林で覆われた山脈のタロキナ海岸の反対側キエタに布陣していた。3カ月余りをかけて、第六師団ほかに、在ブーゲンビル島の全兵力をタロキナ付近に集結させた第十七軍は、1944年3月8日、総攻撃を開始した。峻険なジャングルを切り開いて侵攻に時間がかかった。対する連合軍は、第14軍の約62,000人、そのうち第一線は第3海兵師団とアメリカル師団の計約27,000人だった。日本軍は、絶え間ない砲弾のなかで死守敢闘しが、1944年3月末に撤退のやむなきに至った。ブーゲンビル島の戦いの犠牲者は、日本軍は戦死その多くが餓死や病死で約2から3万人に上り、アメリカ軍は約1,243人が戦死した。日本軍は、終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないままに、国から見捨てられた多くの部隊が全滅した。




2023年10月24日火曜日

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。ロシアの農民の問題が、第一次世界大戦とロシア内戦による秩序崩壊によって餓死者が増大した。

 ウラジミール・レーニンが率いたボリシェヴィキが、農民の食料を奪うことで農民の力を削いだ。1921年から1922年まで続いたロシアの大飢饉で、約500万人以上が死亡した。第一次世界大戦による経済危機、5年間続いたロシア内戦、1921年の干ばつにより、約3000万人のロシア人が栄養失調に陥った大飢饉が発生した。最も被害が大きかったのが、ロシア南東部のヴォルガ川とサマラ川の合流点のサマラ市であった。レーニンは飢饉直後の1924年に死去して、後にヨシフ・スターリンがソ連の指導者となった。1920年代にロシアの飢饉は、広大なロシアのヴォルガ川とウラル川流域の約2,500万人が飢餓に陥った。1930年代には、スターリンによる農業集団化と富農撲滅運動により、ウクライナからソ連各地に大飢饉(ホロドモール)が発生した。

 特にサマラ市は、ロシア内戦により、戦争共産主義を進める赤軍部隊に食糧を供給するために、農民の農場から食糧の接収を命じて、窮状が悪化して最も被害の大きかった地域の一つとなった。さらにサマラの5月平均降水量は38.8mが、1921年には0.3mしか降らず、その後に深い霜が降り、数百万人が飢餓に直面した。サマラ市民は、草、土、犬、猫、革の馬具を食べることを余儀なくされた。飢餓が蔓延し、人々は生き延びるために想像を絶する人肉を摂取するようになった。

 スウェーデン生まれの北極探検家であるフリットヨフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)は、身分証明書や国籍証明書を持ってないロシア難民に、ナンセン・パスポートを考案した。無国籍者の身分証明書は、約50以上の外国政府によって認められ、ロシア難民が合法的に国境を越えることを可能にした。当初のロシア難民が、他の難民にも適用された。1922年11月にナンセンは、1922年度のノーベル平和賞を受賞した。




2023年10月23日月曜日

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まり、医療関係者や市民らが白い袋や毛布で死体を収容した。

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ(Shifa)病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まった。医療関係者や市民らが、白い袋や毛布で死体を収容した。その病院の中庭には血痕と複数の放火された車が散乱した。何万ものパレスチナ人の家族が、終わりの見えないイスラエル軍の砲撃から避難するのに、ガザ地区の壊滅状態にある病院に殺到していた。

 パレスチナのガザ当局は、2023年10月17日にガザ地区のアル・アフリ・アラブ病院の空襲で数百人が死亡と発表した。ガザ保健省は10月17日に、ガザ中心部で患者で満員であったアル・アフリ・アラブ病院への攻撃で少なくとも500人が死亡したと発表した。パレスチナ自治区を統治するハマス武装組織は、イスラエル軍の攻撃は戦争犯罪と述べた。SNS上で共有された画像は、建物が炎に包まれ、被害が拡大し、残骸の中に死体が散乱していた。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は言語道断であり、民間人の命を著しく軽視していると述べた。

 イスラエル国内で10月17日にハマスによる前代未聞の攻撃を受けて、イスラエル軍が10月7日に空からガザを攻撃し始めた。その後に砲撃からの避難を求める何万人ものパレスティナ人がガザ中の病院に逃げ込んだ。死体の中には患者や避難民のパレスチナ人も含まれ、病院の攻撃は国際的非難を巻き起こした。イスラエル軍は、病院での爆発をパレスチナのイスラム聖戦グループによるロケット弾発射失敗と非難した。イスラム聖戦グルーブは責任を否定した。

 病院攻撃を受けて、占領下のヨルダン川西岸地区や中東のいくつかの都市で反イスラエルの抗議デモが発生した。ヨルダンは10月18日に予定されたアメリカ、エジプト、パレスチナ自治政府の大統領が出席する予定の首脳会議をキャンセルした。パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長は、病院が標的となったことは、醜悪な戦争による虐殺であり、容認できないと述べ、アンマンでの会議を辞退した。ガザの保健省は、水曜日のアル・アハリ・アラブ病院での爆発はイスラエル軍の空襲によるものだと発表した。イスラエルは、爆発はパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)武装組織が発射したロケットの誤爆によるとした。PIJは疑惑を否定した。













Warning: People gather around the bodies of Palestinians killed in Israeli air strikes on the al-Ahli Arab Hospital in central Gaza after they were transported to Shifa Hospital. [Dawood Nemer/AFP]


2023年10月22日日曜日

ウクライナ東部のハリコフの都市中心部で、2023年10月6日にロシア軍のミサイルが雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

2023年10月6日に、ウクライナ東部のハリコフでのロシア軍のミサイル攻撃で10歳の少年と祖母が死亡した。ハリコフの都市の中心部で、ロシア軍のミサイル攻撃が雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

 ウクライナ北東部の都市ハリコフで、ロシアのミサイル攻撃により10歳の少年と祖母が死亡した。同地域の別の場所では、前日の攻撃で少なくとも約52人の市民が死亡した。ここ数カ月で最も犠牲者の多い攻撃のひとつとなった後に、市民たちは死者を埋葬する準備をしていた。10月6日早朝のロシア軍のミサイル攻撃後に、救急隊員が建物の瓦礫から少年の遺体を引き揚げた。少年はスパイダーマンのデザインのパジャマを着ていた。

 ミサイルの攻撃で、少年の祖母も死亡して、生後11ヶ月の子供も負傷した。ハリコフ市では、10月6日早朝に発射されたミサイルのうち1発が通りに着弾して、クレーターを残し、もう1発が雑居ビルに命中し炎上した。ハリコフ州当局は、ロシア軍の攻撃全体で、約30人が死傷したと述べた。その救助活動は続いている。ウクライナ軍当局者によると、ロシア軍はイスカンデルミサイル2発で攻撃したと報告した。

 ウクライナ当局は、前日の10月5日に、精度と破壊力を伴うロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルが、ウクライナ東部のホロザ(Hroza)村のカフェと商店を瓦礫と化し、少なくとも約51人の市民を死亡させた。ミサイルが命中したとき、カフェでは子供を含む約60人が通夜に出席していた。ウクライナ軍兵士のアンドレイ・コジールが戦死して、ホロザ村人が彼の死を悼むカフェの葬儀をロシアのミサイルが直撃した。ロシア軍は一瞬にして、コジールの未亡人、娘、息子、娘婿、娘婿の両親、叔父、叔母、その他の親族を殺した。ロシア軍のミサイル1発で、村の人口の6分の1が殺害された。















Warning: Emergency workers retrieved the body of a 10 years old boy who was killed in a Russian air attack that hit a multi-storey building in central Kharkiv, October 6, 2023.(AP Photo/ Alex Babenko)