2023年10月21日土曜日

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。

 広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。




2023年10月20日金曜日

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー(Kjeller)飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。




 爆撃の元となった攻撃は、1943年11月18日、イギリスのノーフォークを拠点とするアメリカ軍の第2航空師団に所属するアメリカ第8陸軍空軍のB24リベレーター重爆撃機によるキェラー飛行場への空襲で起こった。ドイツ占領軍が1943年11月18日木曜日にキェラーで特別軍事演習を計画していた。キェラー飛行場で、ドイツ空軍機、エンジン、部品の修理・整備は、ドイツの3大工業・整備会社によって行われた。1943年11月18日朝、搭乗した第2AD爆撃集団の約107機が空襲に参加した。キェラー飛行場の対空砲台にいたドイツ軍の対空砲兵は、差し迫った攻撃はすべて軍事演習の一環として、空砲で発砲した。アメリカ軍の約78機のB24爆撃が、約230kg爆弾を合計約838発のをキェラー上空に投下して空襲した。空襲によって、終戦までキェラー飛行場での整備活動は事実上停止した。 キェラー空港はノルウェーで最初に設立された空港である。ドイツ軍により、1940年4月8日からノルウェー侵攻が勃発して、4月10日に4月10日にキェラー飛行場は占領され、6月10日にノルウェーは制圧された。終戦後の1945年5月9日、キェラー飛行場はノルウェーに明け渡された。

 帰還機で2人のアメリカ人乗組員が死亡、1人が負傷、91人が行方不明となり、うち30人が中立国スウェーデンに抑留された。アメリカ軍側はキェラー飛行場の爆撃で約200人以上のドイツ軍兵士が死亡、400人が負傷したと推定した。BMWの現場近くの塹壕に身を隠した多くのドイツ軍兵士が生き埋めで死亡したという。飛行場に実際に落ちた爆弾とは別に、半径2キロ以内に約140発の爆弾が落とされた。民家6軒が破壊され、6軒が大破した。民間人3人が死亡、数人が負傷した。1943年11月18日のアメリカ軍の空襲後に、ドイツ軍のキェラー飛行場のの修理・整備基地に爆弾の煙が立ち昇った。




2023年10月19日木曜日

アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所を1945年5月5日に解放した後に、5月12日にバラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

オーストリアのリンツ近郊にあるグーゼン強制収容所は、アメリカ第3軍第11装甲師団の部隊によって1945年5月5日に解放された。長引く死、過酷な労働、獣姦、大量絶滅の強制収容所であった。グーゼン強制収容所で殺された捕虜の総数、収容されていた最大人数は、開放時には不詳であった。1945年5月12日にアメリカ軍が解放した際に発見された死体であった。マウトハウゼン強制収容所の副収容所であった。アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所の解放後、バラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

 アメリカ軍が到着して解放した後も、収容者たちは毎日約100人の割合で、高度な飢餓で死亡し続けた。収容者たちは、収容所は主にヨーロッパ全土からの政治犯のためのものだったと調査官に語った。しかし、グーゼン収容所では一時期、未知数のアメリカ人飛行士が虐殺されたことが判明した。囚人たちは、立っていられないほど衰弱するまで近くの石切り場で働いて、その後ドイツ軍に虐殺された。グーゼン強制収容所は、ガス室、火葬場にて、ドイツ軍が虐殺した犠牲者の処分に使った通常の効率的な手段を備えていた。第三軍部隊は、不潔なベッド、ゴミ捨て場、道路、荷車、貯蔵室、火葬を待つために置かれた冷蔵室で、収容者の死体を発見した。ドイツ民間人は、アメリカ軍によって、腐敗した死体を適切な埋葬のために運び出すよう強制労働された。

 ガス室で死んだ者もいれば、ベッドで餓死した者もいる。遺体は、まともな埋葬のために、貨車に積み込むために通りに運び出された。未知数のアメリカ人飛行兵がグーゼン強制収容所で殺された。男たちは近くの石切り場で、体力が衰えるまで働かされ、その後に殺された。1945年5月8日に、12歳以上のドイツ民間人を、解放されたグーゼン収容所で死体処理の任務に出頭させた。ドイツ、オーストリア、ポーランドの捕虜と、1940年に約4,000人のスペイン共和国人、1941年には4,400人のソ連軍捕虜をグーゼンに収容した。1940年と1941年の平均余命は6ヶ月であり、1940年から1942年の囚人の平均体重は40kgであった。




2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年10月17日火曜日

ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ北東部のポルタヴァから撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタヴァ市民の死体が、路上に積み上げられた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ地方北東部のポルタヴァ(Poltava)から撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタワ市民の死体が、路上に積み上げられた。焼け焦げの死体を、ポルタヴァ市民が取り囲んで眺めた。

  第二次世界大戦中に東部戦線で、ウクライナ地方のポルタヴァの町は甚大な被害を受けた。1941年9月18日のバルバロッサ作戦で、ドイツ軍がポルタヴァを占領してから、その後約2年間にわたりドイツ軍に支配された。ポルタヴァでは約22,000人以上のユダヤ人が、アインザントグルッペンにより郊外一帯に偽って召喚されて虐殺された。1943年9月にソ連軍のステップ戦線の部隊が攻勢を展開して、ボルスクラ川を強行突破した。ソ連軍は、約3日間の激戦の後に1943年9月23日に、ウクライナ地方の中心地であり、ドニエプル川の東にある強力なドイツ軍防衛拠点であったポルタヴァの町を占領した。

 ウクライナ地方のドニエプルの戦いにて、特にポルタヴァでは苛烈だった。ポルタヴァはドイツ軍が厳重に要塞化され、守備隊は万全の態勢を整えていた。ソ連軍の攻勢を大きく鈍らせた数日間の戦闘後、ソ連軍はポルタヴァを迂回して、ドニエプル川に向かって突進した。激しい市街戦が約3日間続いた後に、ドイツ軍のポルタヴァ守備隊は打ち破られた。1943年9月末には、ソ連軍はドニエプル川下流に到達した。ドニエプルの戦いの犠牲者は、ソ連軍が約29万人の戦死または行方不明、ドイツ軍は、102,000人が戦死または行方不明となった。

 ポルタヴァの町の解放の戦闘に作戦したソ連軍兵士に、スターリンは「諸君の指揮するすべての部隊に感謝の意を表する。祖国の自由と独立のために戦った英雄たちに永遠の栄光を。ドイツの侵略者に死を!」。ポルタヴァは、1944年6月からアメリカ軍の戦闘機がドイツ本土へのシャトル爆撃であるフランティック作戦で使用した空軍基地の一つとなった。





2023年10月16日月曜日

イスラエル・パレスチナ戦争で、死体が散乱するガザのアル・シファ病院内にて、パレスチナ人医師は、2023年10月11日にイスラエル軍の空爆で死傷した子供を治療した。

イスラエル・パレスチナ戦争で、死体が散乱するガザのアル・シファ(al-Shifa)病院内にて、パレスチナ人医師は恐怖と混乱の中で、2023年10月11日にイスラエル軍の空爆で死傷した子供を治療した。

 イスラエル軍の空襲で包囲されたガザ地区では、負傷したパレスチナ人が懸命に救命するも、死体袋の数は増え続けた。荒廃して廊下は薄暗いガザのダール・アル・シファ病院に、新たな死傷者が到着した。病院の緊急治療室の各所にうめき声や痛みの叫び声が響き、死傷者はフロアで治療を医療関係者から受けた。塩素の強烈な臭いが漂う中で、病院の医療関係者はモップを持って、死傷者の血で汚れたタイルを掃除した。

 イスラエル軍により包囲されたガザ地区への空爆が始まってから約9日目の10月15日でも、壊滅的な被害の大きさに、病院は戦争で疲弊して限界に達した。イスラエル軍の空爆による破片が、自宅から逃げ出した21歳の弟サレムの腕を直撃し、腱を切断した。病院の手術室は、何百件もの重篤な手術であふれた。

 パレスチナのハマスの戦闘員が、イスラエル軍の要塞化された分離障壁を突破して、約1,300人以上のイスラエル人を殺害して1週間以上が経過した。イスラエル軍は約10年ぶりにガザへの地上侵攻に備えた。ガザへの地上攻撃は、パレスチナ人の死者数を増加させる。包囲された飛び地で、過去4回の戦争の犠牲者をすでに上回った。ガザの病院への物資供給が十分でなく、イスラエル軍が200万人以上の人口を抱えるガザの飛び地への食料、燃料、水、電気の供給を断つ決定を下した。民間人の死者数が急増する可能性がある。

 権利擁護団体は、2007年以来のガザ地区の包囲に加えて、ガザを完全に包囲する決定は集団的懲罰であり、国際法違反であると警告した。シファ病院の職員は、予備の発電機に残っているディーゼルを必死で節約して、必要のない診療科はすべて消灯した。シファ病院は、負傷者に十分なベッドがなく、医療関係者は現場で死傷者を治療した。トイレの水など基本的な生活必需品もない。手術室や医療関係者は、過酷な状況で24時間働いて、数時間しか眠れなかった。10月12日に、イスラエル軍はガザ北部に住む約110万人のパレスチナ人に南へ避難するように命じて、帰還の保証は与えなかった。それ後に避難したパレスチナ人の多くは、イスラエル軍の砲撃から解放されなかった。イスラエル軍の戦闘機が車列や脱出路の道路を攻撃した。

 激しい空爆の中で10月12日に、アル・ドゥラ小児病院には、打撲や包帯を負った乳幼児、顔に血がにじんだ幼児など、新たな患者が押し寄せた。イスラエル軍の空爆により、10月12日朝、ジャバリアの同じ家族の44人を含む少なくとも約250人が死亡した。ガザ保健省は、ドゥラー病院は砲撃を免れず、白リン弾の標的にされた。その後、避難を余儀なくされた。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、イスラエル軍はガザ地区で違法に白リン弾を使用したと述べた。

 イスラエル軍がパレスチナ人に対してガザ北部からの退去命令を出して以来に、いくつかの病院は、救命救急の患者を追い出せないと報告した。アル・アウダ病院は10月14日に、死傷したパレスチナ人を追い返したり、ドアを閉めれないと述べた。病棟は死傷者で満杯となった。イスラエル軍に圧力をかけるように、世界中の人道支援パートナーに訴えた。

 ガザ保健省は、イスラエル軍が意図的に救急車を爆撃して、戦争犯罪の国際規則に違反していると非難した。パレスチナ赤新月社(Palestine Red Crescent Society)は、10月15日の約30分間に4人の救急隊員が死亡したと非難した。シファ病院は、数日前に死体安置所が収容可能人数に達し、溢れ始めた。死体はウォークインクーラーの外に3段重ねにして、駐車場には何十体も並べて置いた。










Warning: Palestinian medics tend to children wounded by Israeli air strikes at al-Shifa hospital in Gaza City on 11 October 2023 (AFP)

2023年10月15日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年9月6日に、ドネツク州のコスティアンティニフカは、ロシア軍のミサイル攻撃を受けた。屋外市場の前にウクライナ市民の死体が横たわった。約17人が死亡、約32人が負傷した。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年9月6日に、ウクライナのコスティアンティニフカ(Kostiantynivka)市中心部は、ロシア軍のミサイル攻撃を受けた。砲撃後に、燃え上がる市場の前にウクライナ市民の死体が横たわった。ウクライナ東部のコスティアンティニフカで、ロシア軍の砲撃により、約17人が死亡して、少なくとも約32人が負傷した。その後にニューヨーク・タイムズは9月18日に、コスティアンティニフカの壊滅的な攻撃は、ウクライナの防空ミサイルの誤射により、ブーク発射システムによって発射されたミサイルであったことを強く示唆する証拠があると報じた。

 ロシア軍のミサイルがウクライナ東部の屋外市場を切り裂き、約17人が死亡、約32人が負傷した。ウクライナのドネツク州の最前線に近いコスティアンティニフカ市で、ミサイルの空爆によって、屋外市場を黒焦げの廃墟に変えて、死体が散乱した。屋外市場は、民間人居住地であり、軍事施設はなく、恣意的な無差別攻撃が勃発した。

 コスティアンティニフカの市場の残骸があり、炎に包まれた車の近くには、黒焦げになった死体が服を着たまま通りに出ていた。新鮮なパセリを売る屋台の裏では、救助隊が血まみれの私服姿の女性の死体を発見した。ウクライナのコスティアンティニフカ市中心部が受けたロシア軍のミサイル砲撃後に、屋外市場で、救急隊員が死傷者に応急処置を施して、救急車で搬送した。消防士が炎を消火して、救急隊員は止血帯を装着し、担架や毛布などで死傷者を緊急車両に乗せた。ポスターや防水シートで覆われた死体もあった。地面に覆いかぶさった死体、屋外市場の屋台の火災を消した救急隊員、黒焦げになった車が屋外市場の近くにあった。救急隊員は、屋外市場の約30のパピリオンに火災を消火した。











Warning: A dead body lies on the ground in front of a burning market after a Russian shelling attack in the city center of Kostiantynivka, Ukraine, Wednesday, Sept. 6, 2023. More than a dozen people were killed and dozens more were wounded Wednesday when Russian shelling struck a market in the city in eastern Ukraine, officials said. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)


2023年10月14日土曜日

広島に1945年8月6日に原子爆弾が炸裂した爆心地の周辺は崩壊した。原子爆弾による熱風により炎上したバスの乗員は全員が死亡した。アメリカ軍の占領軍の兵士たちが、1945年9月に広島原子爆弾被災状況を調査した。

第二次世界大戦末期に、アメリカ軍によって広島に1945年8月6日に投下された原子爆弾が炸裂した爆心地の周辺は崩壊した。原子爆弾による熱風により炎上したバスの乗員は全員が死亡した。火災被害はとてつもない犠牲をもたらした。アメリカ軍の占領軍の兵士たちが、1945年9月に広島の原子爆弾による被災状況を調査した。

 被爆した直後には、消防隊や救助隊の人員も装備も剥奪されて、最悪な被災状況となった。爆心地から約500m以内にいた広島市民の90%以上が死亡した。1945年8月6日に広島に投下されて炸裂した原子爆弾爆によって、約14万人(そのほとんどは民間人)が死亡したと推定されている。原爆投下で死亡した人のおよそ半数は即死であり、その多くは熱線によって文字通り蒸発した。アメリカ軍の原子爆弾調査団が、1945年9月に広島市内に入り調査研究をした。

 1945年の原子爆弾の投下して炸裂後の1945年9月に、バーナード・ホフマンは広島と長崎の被爆現場にいた最初のアメリカ人の民間写真家となった。原子爆弾の破壊力の悲惨さを写真により垣間見せた。1936年に創刊された『ライフ』誌に被爆写真が掲載された。原爆投下後の広島の被爆の風景の写真である。原子爆弾が投下されて、乗員が死亡した黒焦げのバスの荒涼とした被災状況を、アメリカ軍の占領軍の兵士たちが調査した。



2023年10月13日金曜日

太平洋戦争のマリンの戦いで1943年11月に、撃沈された艦船のリスカム・ベイ空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の艦船レナード・ウッドから太平洋の海上に埋葬された。

太平洋戦争のマリンの戦い直後の1943年11月に、艦船のリスカム・ベイ(Liscome Bay)空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の船から太平洋の海上に埋葬された。USSリスカム・ベイ(CVE-56)で死亡した2人の下士官が、USSレナード・ウッド(APA-12)の乗組員によって海上に埋葬された。救助された乗組員のうち2人が死亡して、海に埋葬された海洋葬により、船、ボート、航空機などから死体を海洋に埋葬した。 

 1943年11月24日午前5時10分に、護衛空母で旗艦のUSSリスカム・ベイは、マキン付近に到着した日本軍の潜水艦I-175によってわずか23分間で撃沈された。I-175が発射した1本の魚雷が、リスカム・ベイの航空機爆弾備蓄庫を爆発した。リスカム・ベイは、魚雷の命中や破片の損傷から保護されない爆弾格納の最悪の場所に命中した。爆発は艦の半分を崩壊させた。機関室後部の前部隔壁より後方では誰も生存していなかった。爆炎が収まった時にはリスカム・ベイ」の後半部分の水兵は全員爆死した。 大爆発が艦全体を飲み込み、急速に沈没した。リスカム・ベイの攻撃が、マキンの戦いにおけるアメリカ軍の死傷者の大半を占めた。リスカム・ベイの約916名の乗組員のうち、約644名(将校53名、下士官591名)が死亡した。救助されたのは約272人であった。

 マキンの戦いが、太平洋戦争中の1943年11月20日から11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で勃発した。アメリカ軍はマキンの完全占領には4日間を要して、地上軍兵力よりも海軍の死傷者の方がかなり多かった。日本軍は約395人が戦死して、アメリカ軍が約763人が戦死した。アメリカ軍にとっての損害の比率は過大であり、太平洋戦争後半はアメリカ軍の攻勢期でも、アメリカ軍側の人的損失が日本軍側を上回った数少ない戦いとなった。




2023年10月12日木曜日

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中にアスファルトの路上は炎に包まれ、ハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中には、アスファルトの路上は炎に包まれて、多数のハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。全部で約13,000人の男性、約21,000人の女性、約8,000人以上の子供が犠牲になった。「ゴモラ作戦のコードネームで呼ばれたハンブルクの戦いは、1943年7月24日から7泊8日の空襲作戦だった。当時、航空戦史上最も激しい攻撃であり、後にイギリス政府高官から「ドイツのヒロシマ」と呼ばれた。地域絨毯爆撃のゴモラ作戦は、ハリスとチャーウェルがチャーチルを説得して立案した。空爆作戦も、すべてのドイツ人とイタリア人を憎むべき敵と見なした。

 イギリス空軍元帥サー・アーサー・トラヴァース・ハリスは、爆撃機ハリスとして 知られ、イギリス空軍内では「ブッチャー」ハリスとして知られた。彼は、第二次世界大戦中、ドイツ国内で何十万人もの罪のない女性、子供、老人を死に追いやった直接かつ意図的な軍事責任者であった。彼はニュルンベルクで被告とともに戦争犯罪の罪で裁かれるべきだった。チャーウェル子爵(リンデマン教授)は、ドイツの都市と市民に対する絨毯爆撃作戦の主席立案者であった。

 作戦は、イギリス空軍爆撃機部隊(RCAF飛行隊を含む)とアメリカ空軍第8空軍によって実施された。イギリス軍は夜間空襲を行い、アメリカ空軍は昼間空襲を行った。7月27日真夜中少し前、約800機近くの爆撃機がハンブルクを空襲した。異常に乾燥した暖かい天候、爆撃が一箇所に集中したこと、空襲の初期に使用されたブロックバスター爆弾による消火活動の限界から、いわゆる"火災旋風(Feuersturm)"が発生した。最大風速240km/h、最高温度800℃の大火災が発生し、市街地の約21km²が焼失した。アスファルトの道路は炎に包まれ、ゴモラ作戦による犠牲者の大半はこの夜に発生した。犠牲者の多くは避難所にいた。7月29日の夜、ハンブルクは再び約700機以上の爆撃機による空襲を受けた。ゴモラ作戦の最後の空襲は8月3日に行われた。多くが跡形もなく焼滅して、死者数は不明である。

 ハンブルクは、空爆以前は特に親英的であり、ヒトラーに対する抵抗勢力を形成する地盤であった。ハンブルク空襲は、親英感情をすべて消え去り、ヒトラーへの抵抗も焼滅した。ドイツ国民は、ゲッベルスの「恐怖の空襲」のプロパガンダを信じ、恐ろしい連語軍の攻撃からドイツを守る傾向が強まった。空襲は、戦争を短縮するどころか長引かせた。

 1943年7月にヨーロッパ戦域のアメリカ空軍将校のカーチス・ルメイはハンブルグ空襲を指揮した。彼は1943年9月に、同地で第3航空師団長に任命された。1944年8月に太平洋戦線に転属して、日本全土に対するすべての空襲作戦を責任者として執行した。




2023年10月11日水曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。1945年11月23日に写真の男性であるペドロ・セローノは、日本軍に虐殺されたフィリピン民間人の8人の遺体を発掘して、虐殺後に発見した頭蓋骨8個を展示した。アメリカ軍の政府関係者に虐殺された場所を特定して、頭蓋骨は日本軍の戦争犯罪裁判の証拠として使用された。

 フィリピンの日本軍の戦争犯罪は、アメリカ軍主導により1945年10月開廷した山下奉文元大将のマニラ裁判から開始された。1946年7月4日にフィリピン共和国の独立後に、1947年4月までアメリカ軍主導で日本軍の戦争犯罪が裁判された。約1年半の間に、97裁判が開廷されて、215人の被告が起訴された。戦争犯罪の判決結果は、死刑は92人、終身刑39人、有期刑66人、無罪20人であった。マニラでアメリカ軍主導の戦争犯罪裁判は、1947年4月にフィリピンが独立した後の1947年4月に終結した。

 その直後の1947年7月から、フィリピン当局が残りのB級およびC級戦犯の裁判を引き継いだ。1947年から1949年にかけて、フィリピン共和国は、日本軍がフィリピンを占領していた時代に、戦争犯罪を犯した日本帝国陸海軍幹部155人に対し、73の戦争裁判を行った。その結果、1949年12月28日までに138人に有罪判決が下されて、79人に死刑判決が下った。73の裁判は、主にフィリピンにおける民間人の殺人、強姦、拷問から捕虜の非人道的扱いまで、猛威を振るった日本軍の戦争犯罪を対象とした。155人の日本軍の被告人のうち、149人が判決を受けた。日本軍の被告人のうち79人が死刑、31人が終身刑、28人が刑期の異なる判決を受けて、11人が無罪となった。1945年7月のカガヤン州の戦争犯罪を提訴されて、大村康雄(Yasuo Omura)中佐は、1949年9月12日に有罪の終身刑に判決されて、エルピディオ・キリノ大統領の1953年7月4日の恩赦で赦免された。




2023年10月10日火曜日

2023年10月7日にイスラエルのスデロットの警察署が、パレスチナのガザ地区のハマス武装勢力に制圧された。10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。

2023年10月7日にイスラエルのスデロット(Sderot)の警察署が、パレスチナのガザ地区からハマスの武装勢力に制圧された。翌日の10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。10月7日、ハマスの武装集団がガザ近郊のスデロットを攻撃し、イスラエル警察や一般市民と路上で銃撃戦を繰り広げ、町の警察署を占拠した。イスラエル警察の少なくとも20人が死亡した。ハマスの武装勢力は10月7日に国境フェンスを越えて襲撃し、周辺のコミュニティで数百人のイスラエル人を殺害した。

 2023年10月7日に勃発したガザ地区からハマスの奇襲攻撃は、イスラエルにとって過去数十年で最悪の死者数となった。最初の侵攻に約1,000人のハマス戦闘員が参戦した。ハマスの武装集団は、ガザを囲む国境フェンスを爆発物で突破し、オートバイ、ピックアップトラック、パラグライダー、スピードボートで海岸を横断した。多数の死者、多数の捕虜、そして猛攻撃への対応の遅れは、重大な諜報活動の失敗を指摘し、イスラエルが数十年に支配してきた人口密度の高い小さなガザ地区の領土の監視を配している長年の認識を根底から覆した。44人のイスラエル軍兵士を含む少なくとも約700人がイスラエルで死亡したとメディアは伝えた。イスラエル政府は正式にハマスに10月8日に宣戦布告した。イスラエルは過去40年間、レバノンやガザで大規模な軍事作戦を実施したが、正式な宣戦布告はなかった。

 10月7日から、ハマスの武装勢力は、女性、子供、老人を含む数十人のイスラエル人をガザ沿岸部に強制連行した。捕らわれの身や行方不明となったイスラエル人の親族が、霧の中で慟哭し、援助を懇願する様子が放映された。ハマスと小規模なイスラム聖戦集団は、イスラエル国内にて約130人以上を拘束し、ガザに強制連行したと主張した。イスラエルの治安部隊が、約400人のハマス武装勢力を殺害した。国連は、避難を余儀なくされたガザ住民の数は約123,000人を超えた。

 人口約230万人の小さな飛び地であるパレスチナのガザ地区は、ハマスの占領以来約16年間、イスラエルとエジプトによって封鎖された。ハマスに対するイスラエル軍の報復により、ガザの北東にあるベイト・ハヌーンの町の大部分を空爆で破壊するなど、約800以上の標的を攻撃したとイスラエル軍は発表した。パレスチナ保健省は10月8日に、子ども78人と女性41人を含む約413人のパレスチナ人が死亡し、約2,300人が負傷したと発表した。












Warning: Israeli police station stands by the bodies of militants outside the police station that was overrun by Hamas gunmen on Saturday, in Sderot, Israel, Sunday, Oct.8, 2023. Hamas militants stormed over the border fence Saturday, killing hundreds of Israelis in surrounding communities. (AP Photo/Ohad Zwigenberg)

2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年10月8日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。1月28日に、フランスAFP通信はシヴェルスク近郊の前線の塹壕で死亡したロシア軍兵士の死体の写真を公開した。

 シヴェルスクの戦いは、 ロシア軍によるウクライナ侵攻中に、2022年7月3日に始まったウクライナ東部広域攻勢のドンバスの戦いの一環であった。ロシア軍は7月28日にシヴェルスクとその周辺への攻撃を中止した。8月を通じて戦闘は小康状態となり、ハリコフ反撃で、ロシア軍は9月8日以降は、シヴェルスクの周辺の陣地から撤退した。

 2022年7月以来、主にワグネル部隊からなるロシア軍の民間軍事会社が、ドンバスの重要な交通拠点であるバフムトを攻撃している。ワグネルは、約4万人の受刑者を含む約5万人の戦闘員を送り込んだ。アメリカ財務省は、2023年1月26日ウクライナで活動するロシアの民間軍事会社ワグネルを国際犯罪組織に指定した。

 ウクライナ軍の要塞は、クラマトルスク、スロヴィアンスク、トレツク、シヴェルスクへのロシア軍の侵攻を妨げた。前線は、シヴェルスクから数kmの地点にあった。この方面の他の住宅地と同様に、シヴェルスクもロシア軍の砲撃を受けた。

 2023年1月27日にドネツク州バフムト地区のチャソフ・ヤルの町も砲撃に見舞われた。2人が死亡、さらに5人が負傷した。車だけでなく、住宅や行政の建物も被害を受けた。1月28日に、ロシア軍がドネツク州コンスタンチノフカ市にミサイル攻撃を開始した。住宅地が火災に遭い、高層ビル4棟、ガレージ、ホテル、民間車両が被害を受けた。少なくとも3人が死亡して、2人が負傷した。コンスタンチノフカへの砲撃後、ウクライナ当局は、NATOに対し、首都キエフに長距離ミサイルの供給を呼び掛けた。

 逆に2023年1月28日に、ロシア国防省は、併合したルガンスク州ノボアイダル村の病院に対する襲撃で14人が死亡し、24人が負傷したと発表した。病院施設では軍関係者と地元住民が治療を受けていた。病院がHIMARSミサイルシステムから砲撃を受けた。ウクライナ当局は、ロシア国防省の声明にコメントしなかった。タス通信は、破壊された病院の写真を公開した。















Warning: A Ukrainian soldier of the K2 battalion stood over the body of a Russian soldier lying in a trench on the front line near the town of Siversk, Donetsk region on 28 January 2023.(Photo by AFP/Anatoly Stepanov)

2023年10月7日土曜日

長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。

 長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。長崎原子爆弾により2軸車約63両のうち約16両の電車が破壊された。

 長崎市の浦上を中心とした被爆地は、焼け野原になっていた。路面電車の残骸だけでなく、ひっくり返って焼けている自動車の残骸もあった。線路の両脇は瓦礫だらけであった。長崎市内の被爆地は、東西を山で囲まれた南北に細長い盆地であった。浦上駅は爆心地より約1kmの至近距離に位置した。駅舎は全壊し構内には多数の遺体が散乱した。国鉄職員の人的被害も甚大で、勤務中の職員ら約70人のうち即死者20人を含む65人が死亡した。

 長崎電気軌道株式会社(長崎電鉄)は、長崎駅・大橋間のおよそ約3kmに及ぶ区間が壊滅し、主要施設、建物、車両、従業員に大きな被害を受けた。旧市内の全線も数カ月にわたって停止するに至った。車両の焼失破壊は約21両におよび、電柱の倒壊折損約120本、電線及び軌道の焼失数箇所にして、従業員の死者百十余名に達した。電車の運転不能となり休業に至った。損失電車は保有車両56両のうち、可動車の約半数であり、従業員(動員学徒・女子挺身隊を含む)の死亡は総員約500人のうち23%を占めた。長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されてから3か月後の11月24日に、再び路面電車が長崎の街を走り出した。