2023年8月29日火曜日

チェコスロバキアのテレジン収容所には、食料もなく、多くの被入所者は餓死したり病気で死亡した。元の人口は約6,000人で、1943年には約10万人も強制収容された。病気・飢餓・過労で、1日に約300人が死亡した。

テレジン(Theresienstadt)収容所には、食料もなく、多くの被入所者は餓死したり病気で死亡した。テレジン収容所は、元の人口は約6,000人で、1943年には約10万人も強制収容された。毎日、病気・飢餓・過労で、1日に約300人が死亡していた。

    1939年3月に、ドイツ軍はチェコスロバキアのプラハに侵攻して、チェコスロバキアは解体された。チェコスロバキアの首都プラハから北方約60kmに位置するテレジンに、1941年11月24日に強制収容所が設置された。テレジンは、18世紀に設置された周囲の深い堀と厚く髙い土塀で囲まれた要塞を、収容所で利用した。約40万人ものユダヤ人を、テレジンに強制収容した。1942年1月20日にウィンゼー会議にて、ユダヤ人絶滅計画を発表した。

  1942年に、ナチスはテレジンに住んだ約7000人のチェコ人を追放し、ユダヤ人居住区の閉鎖的な環境に隔離した。ナチスは、テレジン収容所を、当初はドイツ、オーストリア、チェコ、西ヨーロッパから集まった高齢、特権階級、有名なユダヤ人の収容所とした。1942年秋から、十両以上もの貨物列車が、強制労働できない人をテレジンから東方の絶滅収容所であるアウシュビッツ強制収容所に強制連行された。テレジンを、アウシュビッツへの中継地となった。

  約15,000人の子供たちがテレジン収容所を通過して、授業、運動活動、芸術などの厳しい日課で教育が継続された。彼らは絵を描き、詩を書いた。しかし、戦争が終わるまでに、生き残った子供は150人以下から1,100人以下だった。44歳の女性画家であるフリードル・ディッカ―・プランディスが、禁止されている命がけで絵画教育に立ち上がった。1944年10月6日には、画家のフリードルも東部に強制連行された。

  1944年5月15日に、国際赤十字の視察団がテレジンを訪問した。恐怖や処刑により絶対服従させた被入所者には偽装させた。1944年11月がテレジンからアウシュビッツへの最後の強制連行となった。ドイツ軍は5月3日に国際赤十字に移管して、ソ連軍が1945年5月10日にテレジン強制収容所を解放した。その10年後に子どもたちの名前の入った約4000枚の絵画がトランクに発見された。テレジン収容所に送られた約144,000人のユダヤ人のうち、約33,000人がテレジンで死亡して、約88,000人がアウシュヴィッツやその他の絶滅収容所に送られた。終戦までに生存したのはわずか19,000人だった。




2023年8月28日月曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年3月1日に火山灰の砂浜の塹壕の中に、多数の殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。日本軍兵士の周りには、浜辺や海中に残骸となった装備が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年3月1日に火山灰の砂浜の塹壕の中に、多数の殺害された日本軍兵士の死体が横たわった。日本軍兵士の周りには、浜辺や海中に残骸となった装備が散乱した。アメリカ軍は硫黄島に上陸して、橋頭堡から、日本軍守備隊に突撃して掃討した。アメリカ軍は装甲ブルドーザーを投入し、戦車が通行できる通路を確保し、火炎放射型のジッポー戦車も投入して日本軍陣地の撃破を行った。

 アメリカ軍は、地形が複雑で戦車の支援を受けれず、火炎放射器や爆薬やバズーカで日本軍の陣地を一つひとつ攻略した。日本軍は隠されたトーチカや地下陣地から射撃を加えた。アメリカ軍は、2月26日には512人、2月27日は硫黄島上陸後で最悪となる792人の死傷者を出したが、殆ど侵攻できなかった。3月2日には主要陣地の1つであった382高地を、約610人の多大な傷者を被りながらも攻略した。その後も激戦は続いて、アメリカ軍も日本軍も夥しい犠牲を出した。382高地の周辺の戦場を肉をミンチにする肉挽き機(Meat Grinder)と呼称した。

 硫黄島で最も手ごわい日本軍の防御は、浜辺でも、摺鉢山の頂上でも、飛行場へと続く平原でもなかった。山麓や小山、割れ目や洞窟、低木の森や岩の崖など、日本軍守備隊の防衛線の骨格となった地味な風土にあった。日本軍は、硫黄島の南部周辺の丘や谷に、迷路のように入り組んだ、変装された、厳重に補強された陣地を築いた。銃撃用の窪みや土嚢を積んだ洞窟から、厚さ約1.2mの鉄筋コンクリートの壁を持つ巨大な陣地まで、多岐にわたった。戦略的に侵攻して通り抜けるのは非常に厳しかった。

 砕け散った木の切り株、尖った岩、露頭、渓谷など、クレーターのような黒い灰の浜辺は、肉体的にも感情的にも、恐怖、混乱、恐怖を共有した。この混乱した筆舌に尽くしがたい硫黄島の戦場の地獄で、何千人もの両軍の兵士が命を落とした。アメリカ軍は3月26日に、海岸付近の部隊と航空隊員に対する日本軍の最後のバンザイ攻撃後に、ついに硫黄島の安全が宣言された。アメリカ軍は4月4日に硫黄島の地上を制圧をした。小さな硫黄島をめぐる約4週間の戦闘(2月19日から3月26日)で、アメリカ軍兵士は約25,851人の死傷者を出し、うち約5,931人が死亡した。日本軍兵士は約17,845人以上が戦死して、捕虜は約1,033人に及んだ。




2023年8月27日日曜日

ウクライナ北部のチェルニヒフで、地元の男性がロシア軍のミサイル攻撃後に殺害された死体を覆っていた。男性は、その後に覆われた死体の側に悲嘆して座った。

ウクライナ北部のチェルニヒフ(Chernihiv)で、地元の男性がロシア軍のミサイル攻撃後に殺害された死体を覆っていた。男性は、その後に覆われた死体の側に悲嘆して座った。その直後の映像には、屋根が吹き飛ばされた劇場を含むひどく損傷した建物、ぐちゃぐちゃになった車、血まみれの服を着て瓦礫の中を歩く生存者たちが写っていた。劇場前の広場は、宗教的な祝日である「救い主のリンゴ祭」を祝って、教会から戻った人々が、聖別されたリンゴの入ったバスケットを手に、活気に満ちていた。ミサイル攻撃後に、劇場の屋根の破片が広場に散乱し、近くの車やレストランの窓ガラスも粉々になった。

 ウクライナ北部のチェルニヒフ州の州都チェルニコフに、2023年8月19日にロシア軍がミサイル攻撃した。チェルニヒフ中心部の中央広場を直撃して、6歳の少女を含む7人が死亡して、144人が負傷して、その中で41人が入院したとウクライナ当局が発表した。負傷者144人のうち15人は子どもであった。死亡した少女の名前はソフィア(Sofia)であった。負傷者144人の中で15人は警察官であった。その犠牲者のほとんどは車に乗っていた。教会から帰りに、道路を横断していた時に犠牲となった。8月19日は、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領が、スウェーデンに訪問に到着して時点にミサイル攻撃が勃発した。

 チェルニヒフは、首都キエフから北方へ約145kmに位置して、緑豊かな大通りと何世紀もの歴史を持つ教会があった。チェルニヒフへの攻撃は、主の変容の祝日である正教会の休日と重なった。被害を受けた劇場前の広場や周囲の建物には瓦礫が散乱して、駐車中の車両も大きな被害を受けた。歴史的な劇場の屋根は、ミサイル攻撃によって剥がされた。その直後に、屋根が吹き飛ばされた劇場を含むひどく損傷した建物、ぐちゃぐちゃになった車、血まみれの服を着て瓦礫の中を生存者たちが歩いていた。ウクライナの救護隊員が、ミサイル攻撃の現場で作業した。

 2022年2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻によって、チェルニヒフ包囲戦が勃発した。ロシア軍は占領に失敗して、代わりに首都キエフへの代替ルートを通じてチェルニヒフ市を迂回した。2022年3月6日に、ウクライナ政府はチェルニコフに英雄都市の特別称号を与えた。ロシア軍の包囲戦は3月31日に解放された。

















Warning: A man covered a dead body after a Russian attack, in Chernihiv, Ukraine, August 19,2023. A man sit beside a covered dead body after Russian attack. (National Police of Ukraine via AP)

2023年8月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に1945年9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。

1945年8月9日に炸裂した長崎原子爆弾に被爆した3歳の男児が、約1月間後に原爆病が発症して、大村海軍病院の八病舎に9月7日に収容された。入院時には、呼吸音が粗裂で、腹部が膨張していた。両手と両足に水疱が残存していた。水疱が治癒した後には、その痂皮が多数に付着していた。男児の頭部の頭皮は脱毛して、水疱が治癒した後に瘢痕が形成された。男児の入院時記録には、原爆病に関する傷病名は未記入であり、入院後の経過も不詳となった。

 原爆症が出現するまでの潜伏期間は、被爆者の爆心地からの被爆距離と相関する傾向があった。爆心地から約750m以内は、炸裂日から被爆症状が出現した。爆心地から約1kmの被爆では約4日後に原爆病が出現した。爆心地から約1kmから約1.5kmの被爆者は、約10日目から原爆病が出現した。被爆直後には全く外傷もなく異常を認めなかった被爆者は、その後に倦怠感、食欲不振、40°Cにおよぶ発熱などが出現した。同時に、多くの被爆者に頚部リンパ節の腫脹や疼痛、咽頭痛、嗄声が出現した。その後数日して、水様、粘液様および血性の下痢が出現し、血尿も出現した。脱毛は、初期は帽針頭大の広がりから、やがて点状出血も全身に広がり、同時に口腔内や歯肉からの出血や鼻出血が始まった。

 多くの被爆者の口の周囲には奇妙なヘルペス様の発疹が認められた。死期が近まるにつれてそれは壊疽様となり著明な悪臭を伴った。末期には血圧が低下した以外は、心機能に異常は認めなかった。多くの被爆者は終末期的な肺炎を引き起こした。多くの被爆者が胃痛を訴えたが、回虫を認めたが、嘔吐は認めなかった。末期には視力障害などの中枢神経障害が出現した。約30cmの所から指の数を認識が出来ない状態となった。中枢神経障害を呈さなかった被爆者は、著明な貧血や高熱が出現した末期にても、精神状態に異常を認めなかった。外傷の傷口が治癒傾向を示しても、やがて肉芽は壊疽状態に陥り腫脹した。注射部位は感染し、壊死を起こした。(大村海軍病院、塩月正雄、原子爆弾の人体に与える影響: The Effect of theExplosion of the Atomic Bomb on the Human Body.1945年9月10日に報告。)




2023年8月25日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線からソ連赤軍が近づた1945年1月30日から31日の夜に、ポーランド国境のゾンネンブルク強制収容所で、多くのヨーロッパ諸国から収容した約819人の政治犯が処刑された。

第二次世界大戦の東部戦線からソ連赤軍が近づた1945年1月30日から31日の夜に、ゾンネンブルク(Sonnenburg)強制収容所で、多くのヨーロッパ諸国から収容した約819人の政治犯が処刑された。ポーランド国境のオーデル川沿いのフランクフルトから来た親衛隊の分遣隊とゲシュタポの一団が、強制収容所の中庭で大虐殺を行った。午後10時頃に、看守は囚人を10人ずつグループに分けて強制収容所の中庭に連行した。ゲシュタポは、約800人以上の囚人を壁に並べて射殺した。生存者は、後頭部を狙った機関銃で殺害された。虐殺の後、死体の一部に火を放った。2月2日にソ連軍兵士がゾンネンブルク収容所に入ると、中庭にまだその死体が横たわっていた。処刑場の死体の中で4人が生存した。

 ベルリンから東に約95kmのポーランド国境のスォンスにあったゾンネンブルク強制収容所は、1934年4月23日に公式に閉鎖されるも、実際には使用された。1939年9月に第二次世界大戦が始まって以来、強制収容所または懲罰収容所は、1945年まで占領地の反ドイツ的な市民に対する強制収容所・労働収容所として存続した。強制収容所には政治犯がおり、全員がナチス第三帝国に反対していた。1945年1月30日にゲシュタポが強制収容所の撤退を命令された時点、ソ連赤軍はゾンネンブルクからわずか35kmの地点にいた。強制収容所は拷問に支配され、収容所の東の地下と西の棟は、拷問部屋と呼ばれる独房に分離された。囚人は疲れ果て、意気消沈し、恐怖に怯え、多くの囚人が死を選び、自殺した。

 ゾンネンブルク(現在のスンスク)は、ナチス第三帝国の最初の強制収容所だった。1933年4月4日に、最初の囚人の移送がゾンネンブルクに到着した。1933年の初めに政権を握ったばかりのアドルフ・ヒトラーの政敵が囚人の中心で、直ちに粛清を開始した。首都ベルリンの地下貯蔵室が臨時監獄になったが、すでに過密状態だった。ゾンネンブルクはベルリンから約95kmにあり、ベルリンと鉄道で結ばれていた。劣悪な労働条件、栄養状態、拷問、医療の欠如により、囚人の間で致命的な伝染病が蔓延した。強制収容所の囚人たちは、共産主義者、社会民主主義者、平和主義者、ユダヤ人、カトリック教徒、プロテスタント、労働者、政治的専門家など、国家社会主義に嫌悪された市民たちばかりだった。




2023年8月24日木曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍兵士がベトコンの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコンの戦死者の死体の横を通り過ぎた。ブー・トップの戦いで、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の第1歩兵師団第1旅団兵士がベトコンなどの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコン(VC: 南ベトナム解放戦線)の戦死者の死体の横を通り過ぎた。同日真夜中にブー・トップ地区での激しい戦闘で、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。アメリカ軍のブー・ドップ(Bu Dop)基地は、1963年11月に設置されて、ベトナムとカンボジアの国境に近いビンフオン県ブードップ地区に位置した。

 1967年11月29日午前0時頃に、ベトコンは要塞化されたアメリカ軍のブ・ドック地区を攻撃した。11月29日午後10時頃には、ベトコンの迫撃砲とロケット弾がブ―・ドップ基地に飛び込んだ。ロケットは掩蔽壕に直撃し、アメリカ軍兵士の4人全員が死亡した。数百人のベトコン兵士が、砲撃が終わると、滑走路の東側から突撃して、森から約200m横切ってブ―・トップ基地を突撃した。アメリカ軍は榴弾砲を、突撃したベトコンに撃ち込んで、強行突撃する多くのベトコン部隊を倒した。アメリカ軍の戦闘爆撃機F-100がベトコンが潜伏する森に、爆弾と大砲で攻撃した。ベトコンの突撃は挫折し、すぐに森の中に撤退した。アメリカ軍の死傷者は死者約7人、負傷者11人、ベトコンの戦死者は、31人の死体が残存した。

 その後に1週間も、アメリカ軍はブー・ドップ周辺のベトコン部隊と衝突を続けて、毎晩迫撃砲弾が着弾した。ブ―・ドップ基地に対する2度目の大規模なベトコン攻撃に対抗して、アメリカ軍は12月4日にブー・ドップ滑走路の基地を強化した。その2日後に、アメリカ軍はベトコンの侵攻が目標としたブー・トップの南東に射撃基地を設置した。12月8日午前1時頃に、アメリカ軍はベトコンの陣地を攻撃し、主力突撃隊がロケット砲下で侵攻した。アメリカ軍の砲兵隊は、非常に短い交戦距離下で、高火力砲弾でベトコン部隊を切り裂いて、基地の外線への到達を阻止した。アメリカ軍の空爆、武装ヘリコプター、迫撃砲で、ベトコンはさらなる損害を受けた。その後に、ベトコンは12月8日午前3時頃にブ―・トップ地区から撤退した。アメリカ軍は翌日の12月9日に、ベトコンの死者の約49死体と、軍の死者は4体を検死した。その後に、ブ―・トップ基地は1970年12月31日に南ベトナム軍に移管された。




2023年8月23日水曜日

1911年10月18日に、辛亥革命の武昌蜂起によって、漢口郊外の六家廟駅付近での戦闘で、反乱軍と清国軍の両軍兵士が殺害された。その両軍の死体が、漢口郊外の六家廟駅付近に散乱した。

1911年10月18日に、辛亥革命の武昌蜂起によって、漢口郊外の六家廟駅付近での戦闘で、反乱軍と清国軍の両軍兵士が殺害された。その両軍の死体が、漢口郊外の六家廟駅付近に散乱した。反乱軍はこの日の戦闘では、清国軍を破った。清朝軍は10月18日の漢口の戦いから11月1日には反乱軍の漢口を、北洋軍が11月27日には反乱軍の漢陽を奪回した。武昌の都市は多数の犠牲者と廃墟と化した。

 1911年10月10日午後8時頃に、湖北新軍の第8鎮(師団)工兵第8大隊が、武昌蜂起が清国の警察隊に第一撃を放った。反乱軍はその後に、チワン台武器庫を占領した。武昌蜂起の勃発後に、郊外の南湖に駐屯していた砲台第8標準(連隊)は武昌の中和門(その後に動乱門と改名)から入城し、総督府攻略戦に参戦した。反乱軍は武州山頂に大砲を運び、虎光総督府を砲撃した。湖南・広東省総督の瑞蕾は漢口の大子門から列車で逃走し、反乱軍はその後、湖南・広東省総督府を占拠した。武昌を占領した後、反乱軍は咸陽の門を厳重に警備し、通行人をチェックした。

 1911年10月11日夜には、漢口にいた新軍第42軍第2大隊の兵士たちは反乱を起こして、楚望台の武器庫を占領して漢口を制圧した。10月11日正午までに、約500人以上の清国軍兵士が殺害された。10月11日に、反乱軍が武昌の全市を占領した。その後に、革命派は旧清国政府の湖北協議局に、中国民国の湖北軍政府を設置した。反乱軍は衛軍都府を設置して、将校の李源紅を軍政府の代表である都督に擁立した。10月31日に、湖北省の軍政機関紙である『人民網報』は、孫文の名で革命の成功を宣言した。孫文が武昌蜂起当時の革命党の指導者であると証明した。

 反乱を受けて、清朝は北洋軍の袁世凱に助力を求めた。北洋軍は武昌へ侵攻して、革命軍側は11月初旬に黄興が武漢に到着して指揮を引き継いだ。その後、北洋軍は革命軍の陣地を攻撃して、清朝軍は10月18日の漢口の戦いから11月1日には漢口を、北洋軍が11月27日には漢陽を奪回した。中華民国は袁世凱と交渉し、清朝廷を降伏させる見返りとして大総統の地位を与えた。1911年12月29日に、中華民国は臨時総統選挙で孫文を総統に選出した、1912年2月12日、隆裕皇太后は、皇帝溥儀の名の下で、清皇帝の退位を発表して、清帝国は終焉した。清朝軍は約8,000人が殺害されて、革命軍は約4,000人が殺害された。




2023年8月22日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年6月4日に日本海軍飛行場がある小禄半島に侵攻したアメリカ軍斥候兵士の側には、小禄半島の谷間にいて死傷したアメリカ軍兵士が倒れていた。

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍は1945年6月4日に沖縄那覇市南西部の小禄海岸から上陸して、日本海軍飛行場がある小禄半島に侵攻した。アメリカ軍斥候兵士の側には、小禄半島の谷間にいて死傷したアメリカ軍兵士が倒れていた。6月4日の時点では、日本海軍部隊が小禄半島のほぼ半分を攻防して奮闘していた。

 日本海軍部隊は1945年5月28日夜に、南方の真栄平から小禄海軍飛行場の旧陣地に復帰した。アメリカ軍が6月4日に水陸両用攻撃から小禄海岸に上陸して、侵攻速度を上げた。日本海軍部隊の守る小禄海軍飛行場陣地まで進撃した。日本海軍部隊の戦闘部隊は少なく、装備は劣悪であった。本隊は陸軍守備軍と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦した。5月26日の撤退で、残存の重火器を破却して、兵力も約4,000人とわずかであった。日本海軍部隊は、6月5日にはアメリカ軍に包囲せられ撤退不能となった。南部への後退命令を再発したが、守死の決意は固かった。6月6日に各所に「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と大田実少将は打電した。

 小禄半島に侵攻したアメリカ軍は日本海軍部隊の激しい抵抗を受けて大きな損害を被った。6月11日には日本海軍部隊の陣地を包囲した。小祿半島の攻防戦は約10日間も続いて、アメリカ軍の死傷者は約1,608人にも上った。日本海軍部隊の武器は貧弱であるも、アメリカ軍の死傷率は首里攻防戦を大きく上回った。日本海軍部隊は、6月11日にアメリカ軍の戦車群が洞窟司令部を攻撃中されて、自決して全滅して玉砕した。海軍司令部壕内で、6月13日に参謀5人が共に自決した。小禄地区を制圧したアメリカ軍は、日本海軍部隊の地下壕の洞窟司令部の特別捜索を行った。数百人の日本軍兵士が自殺した日本軍兵士の死体が横たわった。地下壕内の中央の部屋で5人の上級将校の死体を発見した。日本海軍部隊の司令部の地下壕があった丘を『提督の丘』と名付けた。小祿地区では6月12日と6月13日に、沖縄戦で初めて約159人の日本軍兵士がまとまって集団投降して捕虜となった。




2023年8月21日月曜日

ベルリン3月闘争が、1919年3月3日から3月14日まで勃発した。3月3日にゼネスト決議が承認された直後から、政府軍とストライキ参加労働者との間で暴動が始まり、約1,500人以上が殺害された。

1919年1月19日のドイツの選挙で社会民主党が圧勝した後も、政府軍と急進派労働者との間で街頭闘争が繰り返された。ドイツのほとんどの大都市でこの騒動が勃発したが、首都ベルリンで衝突が最も激しかった。社会民主党が賃上げと労働条件の改善を求めてデモを行うのに対し、反政府勢力は社会の根本的な変革を主張した。

 1919年3月3日に、ベルリンの共産党はゼネストを呼びかけた。武装した労働者たちは瞬く間に、ベルリン市街を支配下に置くことに成功する。ベルリン3月闘争(Berlin March Battle)が、1919年3月3日から3月14日まで勃発した。ドイツ社会民主党(SPD)政権の国防大臣のグスタフ・ノスケが、ベルリン包囲状態を宣言した。グスタス・ノスケは旧ドイツ軍の退役軍人と将校からなる自由部隊の編成に同意した。約42,000人の準軍事民兵であるフライコルプスと志願兵が「ベルリンを取り戻す」ために約14日間を要した。1919年3月暴動の過程では、約1,500人以上が殺害された。数百人が社会民主党政権の政府軍によって処刑された。その内の約75人の死者が政府軍側であった。

 3月3日にゼネスト決議が承認された直後から、政府軍とストライキ参加労働者との間で暴動が始まった。午後から夕方に多くの労働者が、警察と衝突が始まった。3月4日から、政府軍がベルリン市内に侵攻し、装甲車と戦車が群衆に発砲した。無差別に住宅を攻撃し、地域全体が砲撃や空爆で廃墟と化した。3月のゼネストにて、恐ろしい屋上の狙撃兵から身を守るために、衛生兵らは赤十字の旗を掲げた。負傷したフライコルプスの戦闘員は、集合場所や病院に運ばれた。銃器を所持した者はすべて即刻処刑を認められた。ストライキに無関係な市民や戦争帰還兵が殺害された。フライコルプスの助けがあってこそ、社会民主党(SPD)は若い共和国の危機に直面して、自らの旗を血で染めた。




2023年8月20日日曜日

ウクライナ軍が2022年3月29日に奪還したハリコフ州東部のハリコフから北3kmのマラ・ロハン村の路上にて、ウクライナ軍兵士は、小屋の入口で地面に横たわる2人のロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。

ウクライナ軍がハリコフ州東部のハリコフから北3kmのマラ・ロハン村を2022年3月29日に奪還した。翌日にマラ・ロマン村の路上にて、ウクライナ軍兵士は、小屋の入口で地面に横たわる2人のロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。殺害されたロシア軍兵士の死体の前を探索した。ウクライナの警察官によると、2人のうち1人はカーキ色のズボンの上に私服を着た。血まみれの軍服に身を包んだロシア軍兵士は、榴散弾が飛び交う溝や出入口の隙間から死体が姿を現した。ハリコフ東部郊外の野原や家屋には、3月29日にロシア軍兵士の死体が十数体散乱した。マラ・ロマンを解放するために、戦闘はほぼ3日間続いた。ロシア軍はハリコフ周辺の戦線東部で、ウクライナ軍に包囲され、特に周辺のマラ・ローガン村に閉じ込められたロシア軍兵士が犠牲になった。





 ロシア軍は、ウクライナ侵攻で兵士の死体を火葬して、損失を隠し遺族への補償を回避した。ロシア軍兵士を行方不明とし、他の兵士の死体を無名の墓に埋め、他の死体を移動火葬場で処理した。ウクライナ侵攻での軍事的損失の増大に対して、本来の犠牲者数を隠蔽する方法を模索した。ロシア軍の隠蔽する戦術のひとつが死体の火葬であった。特別な移動式火葬場が占領地に運び込まれた。移動火葬場は最前線地帯に設置され、刺激的な悪臭は遠方にも漂った。ロシア軍は監視を避けて、火葬場をドニプロ川の右岸に設置した。肉の焼ける独特の臭いが周辺に漏れた。

 ウクライナ軍は顔認識を使って戦死したロシア軍兵士を識別し、写真を親族に送った。すでに8,600人以上のロシア人を顔認識して、582人の戦死したロシア軍兵の遺族に、顔認識の方式で連絡を取っているとワシントン・ポストが報じた。ロシア軍は、チェチェン紛争では、ロシア軍は死傷者の遺体も破壊した。ロシア軍は死亡したロシア軍兵士の死体をヘリコプターから峡谷に落とした報告もあった。死体の運搬に時間と資源を浪費を避けた。ロシア軍は、中東の若者や中央アジア人、ロシアの辺境に住む少数民族やシリアやアフリカ諸国での傭兵を再現した。

 ウクライナのドネツク州の戦況から、ロシア軍兵士の人犠牲者数がはるかに多かった。一部の死体は火葬にして、他の死体は無名の墓に埋葬した。死傷者数が少なければ少ないほど、指揮官の階級は上がった。部隊の士気を下げないために損失を隠蔽した。ウクライナ軍は、約43,000人のロシア軍兵士がすでにウクライナ侵攻で死亡したと2022年8月11日に公表した。ロシア軍が公式に死者数を発表したのは2回だけで、最後の2022年3月25日は1,351人に過ぎなかった。ロシア軍が占領したドネツク人民共和国やルハンスク人民共和国は、地元のKGBが質素な葬式を監督した。救急車がビニール袋に入った死体の回収を始めた。1体はバスの近くでベッドカバーで覆われて、もう2体は、数週間ロシア軍兵士たちが不法占拠した小屋の入口にあった。2022年12月15日に、ロシア軍のウクライナ侵攻の中に、ハリコフ州クピアンスク近郊を解放してウクライナ軍兵士は、ペトロパブリフカ村で発見されたロシア軍兵士の死体をビニール袋に入れて降ろした。




2023年8月19日土曜日

44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。

長崎市内で44歳の女性が、1945年8月9日にアメリカ軍により投下され炸裂した長崎原子爆弾に被爆して、木の枝により頭部を負傷した。同日8月9日に長崎市から北東約17kmの大村海軍病院に搬送されて収容された。彼女の頭部、顔面にわたりY字形の挫創があった。その創面から汚穢、中等度の出血があった。彼女のカルテの記録には、殺菌消毒薬であるリバノールガーゼを貼用することにしたという記事があるのみであった。

 ドイツ製薬メーカーであるバイエル社が、局所消毒薬のアクリノールを製品化して、1921年にリバノールの商品名で販売を開始した。アクリノールは、黄色の色素で、連鎖球菌、黄色ブドウ球菌等の化膿菌である一部の一般細菌類に対する殺菌消毒作用を示した。粘膜の消毒や化膿局所の消毒に使われた。感染に対する防御機能をもつ白血球、マクロファージがアクリノールで障害を受けるため2018年以降は販売が中止された。

 大村海軍病院は長崎県大村市にあり、長崎市から東北方向、大村湾を挟んで直線に約19kmほどの距離に位置した。大村海軍病院は本来は軍人のための病院であった。火傷の患者が多いのに薬にも不足した。クレゾール液を薄めてガーゼに浸し、リバノールガーゼの代わりに皮膚に張って交換の処置に留まった。大村海軍病院には長崎原子爆弾の投下されて、約9時間後から続々と被爆者が担ぎ込まれた。初日8月9日だけでも重症者が多く758人が搬送された。8月10日明け方までに収容者の100人以上が死亡した。8月10日にさらに300人を収容して、最終的な収容人数は、1,700人にも達した。

 大村海軍病院に、8月9日午後3時頃に警察から長崎市に死傷者が多数発生し、長崎市内炎上中との電話連絡が入った。陣内軍医中尉を隊長とし衛生兵、日赤看護婦を以て編成せる救護隊を派遣した。午後5時頃に大村市長山口尚章から電話があり、長崎の死傷者は無数であり、鉄道沿線の病院に収容された。負傷者は浦上から別仕立の汽車にて大村駅へ輸送し、大村駅から消防自動車を総動員して病院までの負傷者の運搬を行った。午後8時に長崎から負傷者が到着した。重症の被爆者を折り重ねて、詰め込んだ軍用輸送車とトラックが大村海軍病院に到着した。






2023年8月18日金曜日

1945年2月25日にフィリピンの首都マニラの戦いにて日本軍は、バンザイ攻撃にて「一人よく十人を倒す」戦法で突撃した。マニラ城内のゼネラル・ルナ通りの突撃で、アメリカ軍により9人の日本軍兵士が殺害された。

1945年2月25日にフィリピンの首都マニラの戦いにて日本軍は、バンザイ(Banzai)攻撃にて「一人よく十人を倒す」戦法で突撃した。マニラ城内のゼネラル・ルナ通りの突撃で、アメリカ軍により9人の日本軍兵士が殺害された。街路地に、バンザイ攻撃をして、アメリカ軍に殺害された9人の日本軍兵士の死体が倒れて散乱した。バンザイ突撃は、太平洋戦争にて連合国軍が、日本軍歩兵の自滅的な人波攻撃や群れを指した。日本軍兵士の戦意高揚する掛け声である「天皇陛下万歳」に由来した。特に太平洋戦争中に大日本帝国陸軍の戦術を指して、バンザイと短縮した。最終的に連合軍を妨害する手段として、戦闘が敗北と予見した自滅攻撃をした。

 2月23日朝までに、アメリカ軍はマニラ城壁内の政府庁舎内に日本軍の最後の部隊を孤立させた。城壁で囲まれたマニラを奪還するために、アメリカ軍は大規模な1時間に1万発もの大砲と迫撃砲を撃ち込んだ。アメリカ軍は、まだ城壁都市マニラを囲む一握りの庁舎内に立てこもる最後の日本軍部隊を排除した。日本軍兵士には、すでに生き残るという選択肢はなかった。何万人ものフィリピン人の男、女、子供を残酷極まりない方法で無謀にも虐殺して道連れにした。日本軍は最後の残存兵力を召集して、バンザイ攻撃をして自滅して玉砕した。アメリカ軍は大砲で立法院を破壊し、突撃部隊を送り込み、最後まで抵抗した日本軍が潜伏した建物は2月28日の正午に陥落した。

 太平洋戦争のアメリカ軍によるフィリピンの侵攻にて、マニラの戦いが1945年2月3日から3月3日に勃発した。アメリカ軍とフィリピン軍の両軍が、フィリピンの首都マニラで日本軍と激突した。1ヶ月間に及んだマニラの戦いは、約10万人以上のマニラ市民の死亡と街の完全な荒廃をもたらした。太平洋戦争にてアメリカ軍が戦った最悪の市街戦の戦場となった。日本軍は、戦闘中にフィリピン市民に対して大量殺人を行って、アメリカ軍の火力は多くのフィリピン市民を殺害した。日本軍の抵抗とアメリカ軍の砲撃は、マニラ建都以来の建築物や文化遺産の多くを破壊して荒廃した。マニラの戦いで、フィリピンでの約3年間の日本軍の占領期間(1942年~1945年)が終結した。

 マニラの戦いで、アメリカ軍兵士は約1,010人が死亡し、約5,565人が負傷した。日本軍による意図的なマニラ大虐殺と、日本軍とアメリカ軍の両軍による砲撃や空爆により、少なくとも約10万人のフィリピン民間人が死亡した。日本軍の死者数は、城郭都市内だけで約16,665人に及んだ。マニラの戦いにて、日本軍がフィリピンの首都マニラ市でフィリピン市民に対して残虐なマニラ大虐殺が勃発した。日本軍だけでなく、アメリカ軍の砲撃や銃撃によって殺害された民間人の総数は、少なくとも10万人と推定された。




2023年8月17日木曜日

レニングラード包囲戦は1942年1月になると、死体が病院や医院、階段や庭や街路に投げ込まれ、道路、溝、茂み、ゴミ捨て場にも遺棄された。ヴォルコフスキー集団墓地などや通りに死体が捨てられた。

1941年9月18日からドイツ軍の侵攻によるレニングラード包囲戦にて、爆撃で、飢えで、戦争で、ロシア市民が次々と死んでいった。最初の集団墓地は、レニングラードのフルンゼンスキー地区のヴォルコフスキー(Volkovskoye)墓地に出現した。死体は軽く、皮膚で覆われた骸骨となった。死体は、四輪荷馬車に山積みにされて搬送された。死体は、レニングラードの路上や戸口で拾われ、シーツに包まれて、親族には墓地まで運ぶ力がなかった。墓地に向かう途中のラスタナヤ通りに、死体を縛ったソリが放置された。墓地の入口には多くの死体が横たわり、集団墓地に運んでは埋葬した。1942年1月には、死体が病院や医院、階段や庭や街路に投げ込まれ、墓地や通りに死体が捨てられた。放置された死体が道路、溝、茂みに横たわり、ゴミ捨て場でも遺棄された。

 死体安置所は、1941年11月までに、約20×2.5×1.7mの約280の溝が、葬儀事業により、割当て区画に掘られた。死体安置所には、ドイツ軍の砲撃の犠牲者の死体が、分遣隊の輸送によって、敗戦地から搬送された。切断され、醜い人々の死体、頭、足、腕、頭蓋骨、乳幼児の死体、女性の死体なども搬送された。死体安置所では、親族が死体を探しまわった。

 絶え間ないドイツ軍の砲撃が、レニングラード人の命を引き裂いた。12月には、飢饉が街と住民に襲った。12月初旬には、街中でやせ細り、顔や足がむくみ、不安定な足取りで、栄養失調者が多くなった。様々な年齢の人々が、歩道やパネルに倒れ込んだ。路上で即死し、死体は路上に放置された。12月末には、病院が混雑し、収容を拒否された死体が、夜間、病院や医院、通りや広場に捨てられた。1941年12月期には、飢え、厳しい寒さ、薪の不足によるレニングラード住民の死亡率は247%も急増し、約42,050人に達した。

 必要な道具も体力もなく、穴を掘り、土や雪の層で覆って立ち去り、死体を墓地に投げ込んで立ち去る者もいた。通りに面した墓地の門の前、事務所や教会の近く、墓地に、小道、溝、墓の上、死体や棺桶が遺棄された。12月にはまだ死体は住民によって墓地に運ばれた。1942年1月には激減して、死体は病院や医院、階段や庭や街路に投げ込まれた。監視を避けて墓地や通りに死体を捨てた。毎日、死体が無造作に捨てられ、朝になると、家の門や階段の上に投げ出された。墓地の周辺では、遺棄された死体が道路、溝、茂みの中に横たわり、ゴミ捨て場でも発見された。1942年1月には、レニングラード市内で人肉食事件が発生した。墓地の警備が不足して、墓地からは死体の一部が盗まれ、市内に放置された死体は切り刻まれて盗まれた。





2023年8月16日水曜日

ポーランド人の葬儀屋が、墓地の底に並べられたワルシャワ・ゲトーのユダヤ人の死体の層を眺めていた。次々にゲトーのユダヤ人の死体の層ができ、石灰で覆われた。ひとつの穴には、多くのユダヤ人の死体を収容した。

第二次世界大戦の東部戦線となったポーランドの首都ワルシャワにて、1941年9月19日にオコポワ通り墓地の集団墓地で、ドイツ人のハインリヒ・ヨースト(Heinrich Jöst)がワルシャワ・ゲトーを撮影した。ポーランド人の葬儀屋が、墓地の底に並べられた死体の層を眺めていた。次々にゲトーのユダヤ人の死体の層ができあがり、石灰で覆われた。ひとつの穴に、これほど多くのユダヤ人の死体を収容できるスペースがあった。ゲトーの死体は互いに寄り添って横たわった。隣同士に、足を絡めて、あらゆる小さな空間を埋め尽くした。死体の多くは、ユダヤ人女性であった。

 ワルシャワ・ゲットーを、ドイツ軍の下士官であるハインリヒ・ヨースト軍曹は、1941年9月19日にワルシャワに駐留する部隊を休み、ゲットーで丸一日かけて写真旅行をした。9月19日は、彼の43歳の誕生日であり、その夜に、ホテル・ブリストルで、友人たちと祝賀会を開く予定だった。ホテルに向かう直前に、彼はローライフレックス(Rolleiflex)カメラで、ワルシャワのゲットーの写真撮影した。彼は複数の機会にワルシャワのゲトーに行った可能性もある。複数の場所で撮影した160枚の写真を撮るには、おそらく1日では十分ではなかった。1941 年 4 月、3.07km2のワルシャワ・ゲットーには約 45 万人が一人当たり7平方メートルで住んでいた。

 ゲットーの悲惨さ、飢餓、集団墓地をより詳しく撮影した。ハインリヒ・ヨーストが亡くなる1年前の1982年に、ヨーストは写真をドイツ人のジャーナリストのギュンター・シュヴァルベルク(Günther Schwarberg)に引き渡した。ギュンター・シュヴァルベルクは写真コピーの複写を、イスラエルのヤド・ヴァシェム(Yad Vashem)にも渡した。写真を展示して、ホームページにも掲載した。ギュンター・シュヴァルベルクは、2001年に「ワルシャワのゲットー: ハインリヒ・ヨーストの写真(In the Ghetto of Warsaw: Heinrich Jöst’s Photographs)」というタイトルで写真集を出版した。




2023年8月15日火曜日

1945年の太平洋戦争の沖縄戦の終末期での残酷な洞窟戦の後に、日本軍兵士の遺骨が発掘された。1950年11月6日から7日に、沖縄戦にて数千人の日本人が自殺した断崖絶壁にて、遺骨が発掘された。

1945年の太平洋戦争の沖縄戦の終末期での残酷な洞窟戦の後に、日本軍兵士の遺骨が発掘された。1950年11月6日から7日に、沖縄戦にて数千人の日本人が自殺した断崖絶壁にて、遺骨が発掘された。沖縄戦は血なまぐさい戦いが続いて、特に巻き込まれた地元住民の死傷者が急増した。戦闘が最も激しかった沖縄島の南部で、隠れようと多くの人々が洞窟に集まった。日本軍は新たな要塞に退却して、負傷兵や民間人に手榴弾や毒薬を持たせて投降ではなく自殺させて、6月23日には牛島大将が切腹した。

















   1945年4月1日に沖縄島に上陸後の最初の1週間は、アメリカ軍の侵攻はほとんど抵抗に合わず、沖縄島の北部と中央部を占領した。4月8日に、アメリカ軍は、沖縄島の南部に突入し、最初の主要な日本軍の防衛線が築かれた丘陵の尾根の戦闘が、太平洋戦争で血みどろの白兵戦となった。アメリカ軍の優れた火力にも、日本軍は鋼鉄の壁の壕に守られた。各掩体壕を攻撃し、爆破しなければならず、両軍に多大な死傷者が出た。アメリカ軍は一列の掩体壕を破壊しては別を破壊し、殺害と破壊は何度も繰り返された。

 日本軍が壕を捨てて攻撃に転じて、初めてアメリカ軍は侵攻できた。日本軍は4月12日に反撃を開始して、日本軍の約185機の神風特攻機がアメリカ艦隊を攻撃した。6個大隊の日本軍がアメリカ軍陣地を襲撃した。神風機は着艦中の航空機を撃沈し、戦艦1隻、他の駆逐艦3隻、その他8隻を負傷させた。日本軍の6個大隊の突撃は、脱出して隊列に戻れなかった。

 4月13日、アメリカからフランクリン・D・ルーズベルト大統領の急死を告げた。アメリカ軍は衝撃を受けて沈黙した。しかし、新大統領ハリー・トルーマンは直ちに、日本が無条件降伏するまで戦争を続ける決意を再確認した。5月下旬、降りしきる豪雨は、沖縄を第一次世界大戦の悲劇の塹壕に似た泥沼に変えた。日本軍は降伏を拒否して戦争を続ける決意を固めた。アメリカ軍の砲撃は激しさを増して、6月初旬までに、アメリカ軍は約62,000人以上の日本人を殺害したと主張して、捕虜になったのはわずか465人だった。最後の日本人の抵抗勢力が洞窟の奥深くに隠れて、アメリカ軍が火炎放射器と高性能爆薬を多用した。孤立化し組織的抵抗ができない日本軍の陣地を、爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。

 日本軍は甚大な損害を被って、高火薬によって洞窟に封印された者を含め、死者約11万人近く、捕虜または降伏者は約1万人、撃墜された飛行機は約7,830機、沈没した艦船16隻に及んだ。沖縄の民間人の正確な死者数は不明だが、現地人口の約10~25%に相当する、約10万人以上であったことは間違いない。アメリカ軍も血みどろの戦いを繰り広げ、高い犠牲を払った。アメリカ軍兵士は約1万2000人以上が死亡し、約3万6000人が負傷した。戦艦34隻が沈没して、約763機の航空機が失われた。戦争以外の死傷者、特に戦争ストレスによる戦闘外傷病者は約2万6000人とさらに多く、沖縄戦におけるアメリカ軍の死傷者数は約72,000人以上となり、太平洋戦争のアメリカ軍の死傷者数のほぼ5分の1を占めた。次の日本本土を攻撃した場合の死傷者数を思い知らされて、1945年8月6日と8月9日の広島と長崎の原子爆弾投下の決断に至った。
















全国戦没者追悼式 2023年(令和5年8月15日) 日本武道館

徳仁(なるひと)天皇陛下のお言葉

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

 これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。

 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。


【Address by the Naruhito Emperor on the Occasion of the Memorial Ceremony for the War Dead (August 15, 2023)】

  On this Day to Commemorate the War Dead and Pray for Peace, my thoughts are with the numerous people who lost their precious lives in the last war and their bereaved families, as I attend this Memorial Ceremony for the War Dead with a deep and renewed sense of sorrow.

 Seventy-eight years have already passed since the end of the war. Our country today enjoys peace and prosperity, thanks to the ceaseless efforts made by the people of Japan. When I look back on the arduous steps taken by the people, I cannot help but be overcome with deep emotion.

 It is my sincere hope that we shall continue in unity of spirit to seek peace and the happiness of the people in the future.

 Looking back on the long period of post-war peace, reflecting on our past and bearing in mind the feelings of deep remorse, I earnestly hope that the ravages of war will never again be repeated. Together with all our people, I now pay my heartfelt tribute to all those who lost their lives in the war, both on the battlefields and elsewhere, and pray for world peace and for the continuing developments of our country.