2023年7月13日木曜日

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

 第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日から1996年8月31日に、ソビエト連邦の崩壊後のロシアが、チェチェン独立運動の鎮圧する紛争であった。第一次紛争はロシア軍の屈辱的な敗北に終わり、チェチェンは壊滅的な打撃を受けた。人口約105万人のチェチェン共和国は、約4万人から約8万人が死亡、20万人が負傷し、数十万人が移民や難民となった。都市、町、村は消滅し、チェチェン市民は、ロシア軍とチェチェン反乱軍や武装派閥などによる広範な残虐行為にさらされた。グロズヌイのチェチェン系住民の大半は、家族と繋がる田舎に逃げ、主にロシア系民族は行き場を失い、市内に残された。

 第一次チェチェン紛争は、ソビエト連邦崩壊後の不安定な情勢から、少数派民族の民族共和国が独立を主張した。チェチェンでは、1943年と1944年にソ連がチェチェン人を中央アジアに大量に強制送還した。旧ソ連空軍大将のジョハル・ドゥダエフが権力を掌握し、1991年にチェチェン共和国の独立を宣言した。チェチェン政府が、1994年11月29日のエリツィン大統領の最後通告に従わず、ロシア軍はチェチェン奪還を命じられた。第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日にロシア軍の空爆作戦で始まり、地域の町や都市が攻撃された。

 第一次紛争では、約25,000人のロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへの三方面から侵攻した。ロシア軍は山岳や森林地帯で、チェチェン軍による待ち伏せや戦術的撤退に遭遇した。首都グロズヌイに到達するのに12月25日まで要した。ロシア軍はグロズヌイへ大晦日に悲惨な略を進めた。ロシア軍は市街に入るや否や壊滅して、約60時間で約2,000人が死傷した。ロシア軍部隊は撤退中に放棄された。

 ロシア軍は1995年1月に約40,000人を増強してグロズヌイへの再攻撃した。空爆と大砲でグロズヌイを地区ごとに組織的に破壊した。1月4日の砲撃開始後に、ロシア軍の侵攻は遅延した。チェチェン反乱軍が都市ゲリラ戦術で、小部隊が壕から出てロシア軍を待ち伏せ攻撃した。最後のチェチェン人戦闘員を都市から追い出すのに2月8日まで要した。約5週間の紛争中にグロズヌイだけで、約27,000人の民間人が死亡して、全市民の約6%に相当した。

 ロシア軍は、チェチェン全土で侵攻して、町や村を組織的に消滅した。1995年4月までにチェチェンの約90%がロシアの支配下に置かれた。征服した領域では、ロシア内務省MVD部隊が、反乱軍や反乱支持者の容疑のある村落の浄化作戦で、残虐行為が行われた。強制収容所が設置され、広範な虐待とともに、民間人が集団拘束された。 

 1995年6月、チェチェン共和国のテロリスト集団が、隣国ブディョンノフスクの病院を占拠し、約1,500人の人質をとった。病院を襲撃したロシア軍の試みは何度も失敗し、約150人の人質が犠牲になった。交渉によって停戦が合意されて、第一次紛争は終結した。チェチェンの反乱は1995年10月に停戦を終了させ、第二次反乱期を開始した。ロシア軍は、チェチェンゲリラ襲撃を受けて、ロシア軍の死傷者の大半はこの段階で発生した。ロシア軍は守勢に回ったため、重爆撃戦略を頻繁に利用できなくなった。強制収容所や浄化作戦は続いた。ロシアのメディアはソビエト崩壊後に紛争の悲惨な映像を流し、ロシアの世論を急速に戦争に反対させた。

 1996年8月6日、1,500人のチェチェン人戦闘員がグロズヌイに潜入し、約12,000人のロシア人守備隊に奇襲攻撃を仕掛けた、大胆なチェチェン人によるグロズヌイを襲撃した。ロシア軍部隊は孤立した集団に追い込まれ、チェチェン人の数は効果的な防御態勢を敷いた増援部隊によってすぐに増強された。ロシア軍の反撃が撃退された後、ロシア軍は市街を包囲し、8月19日にチェチェン人に対し、市街から退去する48時間の最後通告を与えた。閉じ込められた約30万人の市民が大パニックに陥った。8月20日に砲撃が開始され、逃げ惑う多くの市民を襲った。ロシア軍は1996年8月22日にチェチェンからの撤退を命じられ、痛烈な敗北を喫した。8月31日までに、正式にロシア軍が撤退して、チェチェンの事実上の独立を認めるハサヴ・ユルト協定が調印された。





2023年7月12日水曜日

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュにより首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュによりカンボジアの首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。4月17日に、クメール・ルージュは勝利を収めて首都プノンペンに入城した。数時間以内にカンボジアを、国家への奉仕する農村社会に変革して崩壊させた。住民約200万人を田舎へ強制退避させる命令を下した。在留した外国人がタイ国境に追放されて、民主カンプチアにおける大量虐殺の目撃者を失った。1975年から1979年の間の犠牲者のうち約50万人から約150万人は、クメール・ルージュが引き起こした強制労働と飢餓が死因となった。

 1968年1月にニクソンがアメリカ大統領に就任したとき、ベトナム戦争から名誉ある終結を公約した。北ベトナムからの軍隊や物資が、カンボジアを経由して南ベトナムに流入していた。北ベトナム軍に対抗するために、ニクソンは前任のリンドン・ジョンソン大統領が始めたカンボジア空爆作戦を劇的に拡大させた。1969年3月に、ニクソンは北ベトナムの補給路を寸断するため、カンボジア東部で大規模な爆撃作戦をアメリカ空軍に密命した。1970年4月に、アメリカ軍と南ベトナムの地上軍がカンボジア東部に侵攻して、共産主義者の聖域を攻撃した。一方、北ベトナム軍はカンボジアの奥深くへと侵入して、クメール・ルージュのために農村の大部分を占領し始めた。ニクソンはその後に、北ベトナム軍の補給路を断つため、カンボジアへの地上侵攻を開始した。

 カンボジアはベトナム戦争の当事者ではなかったが、アメリカ軍のカンボジア爆撃は、第二次世界大戦中にアメリカが投下したすべての爆弾の総トン数を上回ったと推定された。アメリカ軍の爆撃機は、カンボジアの約113,000以上の地点に約270万トン以上の爆弾を投下し、戦闘員と民間人に多大な犠牲をもたらした。カンボジア空爆作戦で何万人ものカンボジア人が死亡し、何百万人もの人々が難民化した。大量爆撃の投下による破壊と1970年のアメリカ軍の部分的な占領により、その後に大量虐殺を執行する共産主義のクメール・ルージュ政権の台頭を促して、クメール・ルージュの政権は、約200万人のカンボジア人を虐殺したと推定された。




2023年7月11日火曜日

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びていた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。フランス北部への侵攻が始まって、戦争の暴力の悲劇的な道標であるドイツ軍兵士の死体を、降ろす者はいなかった。1914年12月6日付けのル・ミロワール(Le Miroir, 写真週刊誌)の一面に掲載された。特に興味深い戦争に関する写真資料を掲載して刊行した。




  ル・ミロワールは、1910年に創刊した写真を多用したフランスの定期刊行の写真週刊誌である。日刊紙であったル・プティ・パリジャン(Le Petit Parisien)の付録であった。ル・プティ・パリジャンは、1876年10月15日から1944年8月17日まで発行されたフランスの日刊紙であり、第一次世界大戦前夜には、ル・プティ・ジュルナル、ル・マタン、ル・ジュルナルとともにフランス4大日刊紙の一つであった。

 ル・ミロワールは、1914年8月8日から戦争報道に切り替えた。1914年12月6日付けの一面では、木に吊るされたドイツ軍兵士の死体を掲載した。第一次世界大戦中に、ほとんどのヨーロッパ戦線の後方にいるフランス国民に、ル・ミロワールは、戦場で暴力が勃発していることを実にリアルに伝える機関紙として機能した。戦争を語るには、戦争の暴力を再現しなければならなので、実際の出来事の代用として、視覚的衝撃である写真を利用した。未発表である第一次世界大戦の最も衝撃的な写真を入手して、ル・ミロワールに掲載して出版することを可能にした。第一次世界大戦中は、紙不足のためにページ数が少なく、主に写真のを掲載して、価格は25セントで刊行した。第一次世界大戦が1914年7月28日に勃発して1918年11月11日に終結後に、ル・ミロワールは、1920年7月8日からは、写真だけのスポーツ雑誌に変貌した。1939年8月29日発行の1084号をもって休刊した。




2023年7月10日月曜日

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。8月31日夜に、ロシア軍の塹壕内に大突撃をした。塹壕内には、戦死した日本軍兵士とロシア軍兵士の死体が散乱した。首山堡の攻略は、猛烈な犠牲を極めた。1904年8月30日未明、第二軍と第四軍は首山堡塁に対して攻撃を開始した。しかし、ロシア軍の強固な陣地に阻まれて苦戦し戦線は膠着した。8月31日には後に軍神の橘周太が壮絶な戦死を遂げた。戦況を打開するため、第一軍は8月30日夜からひそかに太子河の渡河を開始した。遼陽東方のロシア軍の側面に回り込めた。9月1日には 第二師団が饅頭山を、第十二師団が五頂山を占領した。

  側面に展開した第一軍に退路を危惧したロシア軍は、第二軍、第四軍と対峙した部隊を第二防御線へ撤退させた。その一部を遼陽東方へ投入した。苦戦した第二軍は、退却を始めたロシア軍を追撃しつつ、首山堡一帯を占領できた。今度は第一軍がロシア軍の猛攻を受けた。各方面共に戦線は膠着状態であった。ロシア軍は奉天方面での決戦に向けて9月4日にロシア軍は撤退を命令された。

 日本軍は約13万余の軍隊を集め、ロシア軍もまた約22万余の軍隊を有して、遼陽の戦いが勃発した。8月28日に総攻撃するも、とくに遼陽前面の首山堡の線ではロシア軍主力が第二、第四軍を迎え撃ちたれた。右翼の第一軍だけが侵攻を続け、最右翼の第十二師団は8月30日の夜中に、遼陽を通って遼河に流れる太子河の上流で渡河して、ロシア軍の背後をつく構えを示した。ロシア軍防衛線の中心である首山堡の陣地をできるだけ早く突破するように8月31日に第二軍に命令した。首山堡に突撃を敢行して9月1日に占領した。突撃を指揮して戦死した陸軍歩兵の橘周太は軍神に扱われた。遼陽の戦いで、134,500人の日本軍の死傷者は約23,500人、224,600人のロシア軍の死傷者も約20,000人とされた。




2023年7月9日日曜日

2023年6月16日ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配のケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。

2023年6月16日、ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカ(Nova Kakhovka)ダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配地域ケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。6月6日、ウクライナ南部のケルソン地方のノヴァ・カホフカダムが決壊して、町が水没した。ロシアとウクライナは崩壊の原因を互いに非難している。ウクライナ当局ロシア占領下の南部の町の浸水は減少したが、瓦礫の下には遺体が残った。ロシア軍がドニプロ川の西岸で砲撃を続けているため、資源が不足している。

 ロシア軍が占領しているホラプリスタンの浸水した地域の破壊は壊滅的であり、瓦礫の下にはまだ死体が埋まっていたと、ウクライナ軍政部は、6月21日にテレグラムに投稿した。水位は徐々に下がっているが、ホラ・プリスタンの東部、中部、沿岸部は部分的に浸水したままである。浸水した町の家屋の破壊は壊滅的である。死者の死体は瓦礫の下に埋もれている。町の大部分ではガスも電気も供給されておらず、町の一部の下水道はまだ水没している。

 2023年6月6日未明に、ノヴァ・カホフカダムと水力発電所が崩壊した後に、水位が上昇を続けて、ケルソン地方の占領地域は壊滅的と公表した。住民は、救助もなく、水もなく、ただ浸水した集落の家の屋根の上にいるだけであった。人、動物が死んだ。浸水した家々の屋根からは、溺れた人々が浮かんでいるのが見える。向こう側にもそれが見える。ケルソン地方の占領地域から人々を脱出させるのは非常に難しい。6月7日から、ケルソンでの捜索・救助活動は本格化するも、発砲や着弾する大砲の音は継続していた。ケルソン地域全体で1,400人以上が避難し、ドニプロ川西岸の1,800戸以上の家屋が浸水した。

 ノヴァ・カホフカダムは重要なインフラであり、ザポリツィア原発を含むウクライナ南東部の大部分とクリミア半島に水を供給している。ウクライナ農業省は、1万ヘクタールの農地が氾濫して、ウクライナ南部の畑は砂漠化する見込みを公表した。6月6日午前3時頃に、ロシア軍はカホフカ水力発電所を爆破し、水位を上げてドニプロ川のアプローチと左岸、そこにある集落を氾濫させた。ウクライナ軍が今後反抗攻勢を困難にした。但し、ダムが故意に攻撃されたのか、それとも決壊が構造的な欠陥によるものなのかは不明のままである。衛星画像では、橋の一部が失われたのは6月1日から2日であった。










Warning: Volunteers and municipal workers grab the body from a flooded house in the town of Hola Prystan in the Kherson region, Russian-controlled territory, after flood waters receded following the collapse of the Nova Kakhovka dam, Ukraine on June 16, 2023. (Stringer/Anadolu Agency)

 

2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年7月7日金曜日

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。焼死体は炭化して原型をとどめなかった。遺品から死者数を割り出した。鉄かぶと、ボタン、がま口の口金などで推定した。身元不明者が多く、都内70ヵ所からの公園、寺院、学校などに仮埋葬された死体は約7万7,000体を超えた。警視庁発表では, 3月10日の死者は8万3,793人で、傷者は約4万918人となった。3月10日の死傷者数は計12万4,711名 (警視庁) から, 19万6,132名(帝都防空本部)までの開きがある。

 3月9日夕にマリアナ基地から爆撃目標である東京に飛び立ったB29爆撃機は、日本大本営発表は約130機だった。アメリカ軍側発表は約325機、合計約1,700トンの高性能焼夷弾を搭載した。3月9日22時30分に、警戒警報が発令された。

 本格的な東京大空襲爆撃は、3月10日の零時の打刻の直後であった。3月10日零時8分に、アメリカ軍B29爆撃機の先頭機が, 深川地区(現在の江東区)に侵入して、第一弾を投下した。木場2丁目付近に被弾して、次いで白河町2丁目、三好町1〜2丁目付近も被弾した。材木町から最初の火災が発生した。束ねた材木も無数の運河に浮かぶ丸太も、マッチ棒のように火を噴きはじめた。2分後の零時10分に、火災は隣接した城東区 (江東区) にも発生した。北砂町2〜5丁目付近が帯状に被弾し、約2分経過した12時12分には本所区 (墨田区) が空襲された。一区当り約20〜25万人からの過密地帯の町を、猛火はわずか約2分間隔で跳躍した。第一弾投下から約7分遅れて、零時15分に空襲警報が発令された。7分差の遅延が、逃げまどう庶民にとって致命的な瞬間になった。

 焼夷弾の豪雨は、本所区を南北に縦断し、直線上の大火流線は、運河で刻まれた江東地域を包囲した。3月10日零時20分に、火災は浅草区(台東区)にも発生した。牛込区 (新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区 (文京区)、麹町区 (千代田区)、芝区 (港区) なども相次いで被弾した。独立火点が次々に合流し、一挙に大火流になった。浅草区、日本橋区に広範囲に拡がった猛火は、甚大な火の粉を吹きあげ撒き散らし、巨大な火玉となって宙を飛び交い、幅約200メートルの隅田川を越えて、向島区 (墨田区)と合流した。真紅の火炎帯は、わずか半時間のうちに下町全域へと波及した。B29爆撃機は、目標の周囲に火の壁を作った後、逃げまどう人々にねらいを定め、電柱や屋根に接近した超低空で、連続波状的な無差別焼夷弾爆撃へと移った。

 北北西の風はさらに勢いを増し、地上の大火災にあおられ、火の海の沸騰となり、瞬間風速25〜30mに達した。火は風を呼び、風により火事嵐となった。地表の温度が白熱状態になり、炎は瞬間的に激流した。火の玉は不気味なとどろきを上げて、道を走り、川を渡り、家屋をつらぬき、逃げまどう人々を、つぎつぎと渦中に巻きこんだ。各署の消防自動車は消火活動に全力を上げた。直撃弾を受けて隊員もろとも火の塊になったのを皮切りに、次々に大火流に呑まれ車を焼失し、隊員は猛火の餌食になった。東京都消防隊の犠牲は、消防自動車焼失が約96台、水管焼失が約1,000本、隊員の焼死、行方不明は125人、警防団の死傷者500名以上にもなった。

 主な犠牲者は、非戦闘員の女、子ども、 年寄りの下町庶民であった。住居を無断で退去、避難とは防空法で固く禁じらた。危機的状況でも、バケツリレーなどの防火手段に身をゆだねた。人々は、あきらかに逃げおくれた。被害の中心地の江東地域は、荒川放水路と隅田川とに挟まれ、縦に横に無数の運河で刻まれた。橋が焼失して、運河は人々の退路を断った。水中へ難を逃れた人は多かったが、一命を取りとめた人はすくない。両岸から火炎と熱風、黒煙が川面を吹きなぐり、水面から首だけ出した人びとは一瞬に髪を焼かれて死んだ。火炎の前に煙にまかれて一酸化炭素で中毒死した人、 酸素の急速な減少によって窒息死した人、水温のあまりの低さのためのショック死、凍死、溺死も多かった。

 避難場所と指定された学校校舎に逃げこんだ人々も、ほとんどが痛ましい犠牲となった。安全なはずの鉄筋コンクリートの建物は、たちまち窓ガラスが溶け、荷物や衣服に火炎がまとわりついて白熱状態となり、建物もろ とも人間焼却炉に一変した。炭化した死体が何層にも山積し、講堂がぎっしりとカン詰め状態になった。火に追われた人びとが入口からなだれ込み、先の扉は内扉になって、開扉するひまなく大勢の人びとが積みかさなり、 悲惨な状態に至った。空襲警報の解除は、3月11日午前2時35分で爆撃は終了し、B29爆撃機の機影はなくなった。地獄の却火が鎮火したのは, 明方午前8時過ぎであった。一夜明け東京は、見るも無残な廃墟と変わった。東京29区に被害が波及し、約27万戸の家が焼けて、約百万人からの都民がその住居を失った。




2023年7月6日木曜日

ドイツ軍はソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフの集団墓地にて、ソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペンは、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。

ドイツ軍は1941年6月22日にソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフ(Kraigonev)の集団墓地にて、大量のソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペン(Einsatzgruppen)は、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。ソ連民間人で、共産党員と疑われた者は、ソ連赤軍将校や男性ユダヤ人とともに処刑に選ばれて処刑された。アンザックルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された。占領下のソ連におけるドイツ戦線の背後で、人種的政治的な敵の容疑者を殺害した。

  主なる殺害方法は大量射殺であった。アンザックルッペンは容疑の犠牲者を一網打尽にした。しばしば夜中に、町や村のはずれまで行進や車で連行した。犠牲者は服を脱がされ、小集団になって掘られた墓穴まで歩かされて銃殺された。容疑の犠牲者をうつ伏せにして、首の後ろにピストルを突き射殺した。ユダヤ人を溝の中に下がらせ、すでに射撃された者の死体の上に横たわらせ、死体の山をどんどん増やしていった。広い河川の近くに住むユダヤ人は、はしけに乗せて陸地から離れて曳航させた後に溺水させた。アインザッツグルッペンは、ユダヤ人に集団墓地を掘らせ、生き埋めにした報告もある。1941年10月に、ルーマニアのドイツ軍対応部隊は、オデッサの約19,000人のユダヤ人を、フェンスで囲まれた広場に集めてガソリンをまいて火をつけて焼死させた。

 1941年7月の最終週にはソ連軍の抵抗が強まって、ドイツ軍の進撃は減速し始めた。1941年夏の終わりにアインザッツグルッペンは、手に入る限りのロシア人ユダヤ人を虐殺する大量殺戮作戦を開始した。1941年5月に人種的に劣等なユダヤ人その他を抹殺する激しいイデオロギーに洗脳を受けた約3,000人のアンザッツグルッペン隊員は、4つの主要グループに分散されて、ユダヤ人狩りを開始した。移動虐殺隊は、ドイツ軍が広大な土地を素早く占領したドイツ占領下の最初の約22ヵ月間にポーランドで起こったユダヤ人に対する残虐行為をした。ソ連当局が未公表にした大量虐殺を最大限に利用した。アンザッツグルッペンは町や村のユダヤ人住民の名簿をユダヤ人社会の指導者たちから入手した。組織的抵抗の可能性を減らすために、コミュニティ指導者を最初に殺害もしばしばあった。地元のユダヤ人たちが、ユダヤ人の隣人の捕獲と殺戮に参加するように勧誘した。ドイツ軍は1941年9月19日にウクライナのキエフ市を占領して、約65万人以上の捕虜を押収した。アインザッツグルッペン部隊は、9月29日と30日にバビ・ヤール渓谷で、約3万3000人以上のユダヤ人を大量射殺した。




2023年7月5日水曜日

ペリリュー島に1944年9月15日にオレンジビーチに上陸したアメリカ軍と日本軍は白兵戦を繰り広げた。アメリカ軍は、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の戦死者を仮埋葬する前に、死体の身元の確認を急いだ。

ペリリュー島に1944年9月15日にオレンジビーチに上陸したアメリカ軍と日本軍は白兵戦を繰り広げた。アメリカ軍は、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の戦死者を仮埋葬する前に、死体の身元の確認を急いだ。海岸陣地の日本軍は、銃剣での白兵戦をアメリカ軍に挑んだ。海岸一帯では、アメリカ軍と日本軍の敵味方の死体が折り重なり殺戮の場と化した。死体数は 明らかにアメリカ軍の迷彩服が多かった。アメリカ軍は第一次上陸作戦は敗退して、海上に引き揚げた。

 太平洋戦争にて、1944年9月15日午前5時にペリリュー島をのぞむ海上は、見渡すかぎり大小のアメリカ軍艦艇で埋め尽くされた。直後に、戦艦と重巡が砲門を開き、ペリリュー島の日本軍に艦砲射撃を開始した。同時にアメリカ軍は一斉にペリリュー島へ上陸作戦を開始した。アメリカ軍の上陸地点は、日本軍が西浜と呼ぶ南部海岸だった。

 アメリカ軍が上陸した西浜に、日本軍は6カ所の前線陣地を設けた。西浜に押し寄せたアメリカ軍は、海岸線から約13km付近で約50隻余の輸送船から、兵士を満載した約20隻の大型舟艇で、艦砲射撃の砲弾の援護下で、次々と海岸線に送り出した。大型舟艇群から上陸用舟艇約300隻で、午前7時30分頃に隆起珊瑚礁に接近した。舟艇から水陸両用車に乗り換え、海岸に殺到した。日本軍が一斉に反撃を開始した。8時30分頃に、ついにアメリカ軍の一部が、イシマツ陣地付近からアヤメ陣地にいたる海岸に漂着するも、第一次上陸は失敗して、海上に引き上げた。 

 その次にアメリカ軍は、西地区と南地区を迂回した間隙から強行突破した。アメリカ軍は上陸して、橋頭堡を確保した。日本軍は、斬り込み決死隊を編成し、戦車隊を加えて反撃した。日本軍の軽戦車は、アメリカ軍の対戦車砲とバズーカ砲が一斉に火を吹き、次々と崩壊した。ペリリュー島の日本軍はバンザイ突撃を避け、アメリカ軍に一発一殺主義を貫いた。オレンジビーチの戦闘は一週間くらいで、その後は日本軍は日中は洞窟陣地の中にいて、夜になってゲリラ戦の毎日であった。次第に日本軍兵士は減り、損害は大きいも、アメリカ軍の損害も甚大であった。アメリカ軍には増援が続々到着した。日本軍には一兵も一発の弾丸も補給されなかった。日本軍はやむなく前線陣地を撤収して、山岳地帯の洞窟に撤退して潜伏した。

 日本軍は、隆起珊瑚礁の山々に削り広げた洞窟陣地や堅固なコンクリート製トーチカに立てこもった。西地区の海岸線に椰子林で、日本軍とアメリカ軍が対峙して、敵味方入り乱れての殺し合いとなった。日本軍は『突っ込めェ!』の合図で穴を飛び出した。アメリカ軍の第一線は黒人兵士が多く、多くの黒人が殺害された。起き上がり拳銃を向ける息のあるアメリカ軍兵士に、日本軍兵士は弾で撃たずに銃床でぶん殴った。傷ついて椰子の木の陰に隠れたアメリカ軍兵士は、日本軍も次から次へと、海岸では敵味方入り乱れた白兵戦が展開された。




2023年7月4日火曜日

1934年10月にスペイン北部でアストゥリアス蜂起が、スペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨ兵舎前にて、反乱した労働者が殺害された死体が散乱した。

1934年10月にスペイン北部でのアストゥリアス蜂起が、フランシスコ・フランコ将軍が主導したスペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨの兵舎前にて、反乱した多数の労働者が殺害されて死体が散乱した。アストゥリアス労働者同盟は約1,700人が死亡して、約15,000人から30,000人が逮捕された。スペイン共和国軍は約260人が死亡した。

 労働者の抗議行動は特にアストゥリアスで10月5日に勃発して、共産主義者、社会主義者、無政府主義者が肩を並べて戦った。鉱山労働者の武装集団が、オビエドとトルビアの武器工場を占拠した。アストゥリアスでは、赤衛隊を結成した労働者と農民の手に権力が移った。政府軍は急遽、アストゥリアス蜂起を鎮圧するために、民警隊、モロッコ人部隊、外国軍団を派遣した。アストゥリアスの州都オビエドで激しい戦闘が勃発した。政府軍は航空機と大砲の支援を受け、プロレタリアートの蜂起を流血で鎮圧した。アストゥリアスでは戒厳令が布告され、戒厳裁判所は死刑判決を下した。約3万人以上の労働者が刑務所に入れられた。死刑判決を受けた23人のうち、バスケス軍曹とヘスス・アルグエレス・フェルナンデスの2人が処刑された。

 1930年代のスペインでは、民主主義とファシズムの武力闘争が展開された。内戦が始まり、イタリア・ドイツの介入と西側列強とファシストとの共謀した民族革命戦争に発展した。1933年12月、急進的なファシスト指導者であるA.レルスが親ファシスト政権を樹立して、黒い時代(1934-1935年)が幕を開けた。聖職者や親ファシスト派が、次第に国家の指導的地位を獲得し、教会の古い特権が回復され、スペイン共和国初期に労働者が獲得した権利が取り消された。労働者の新聞は厳しく検閲にされ、労働者の不満の表明も残酷に弾圧された。

 ファシストの猛攻撃は、大衆によって強力に撃退された。1934年2月に、反ファシスト闘争に立ち上がったオーストリアの労働者と連帯する集会やデモが、スペイン全土で開催された。スペイン南部で約15日間続いた約50万人の農業労働者の6月ストライキは、ファシスト反動勢力に強力な抗議であった。9月初めに、バルセロナとマドリードの労働者は、約20万人以上の労働者が街頭に出て、ファシストの集会を妨害した。反ファシスト統一戦線を求める共産主義者のスローガンが、大衆の支持を高めた。何千人もの社会主義者や無政府主義者が共産党に入党した。スペイン社会主義労働者党内に強力な左翼が出現し、共産主義者との行動の統一を提唱した。1934年6月12日、共産党中央委員会全体会議は、統一戦線の創設を社会労働党執行委員会に提案した。社会党指導者たちは、社会党が創設した労働者同盟に協力するように共産党を招待して応じた。共産党は提案を受け入れ、同盟のメンバーを拡大し、反ファシスト勢力の団結のための労働者・農民の組織に変える任務を自らに課した。

 1934年10月4日、レルス政権は初めて反革命政党スペイン自治権連盟(CEDA)の代表を加えた。労働者の反発を招き、同日に招集されたゼネストは全土に広がった。ゼネストはマドリード、カタルーニャ、ビスケー、アストゥリアスなどの地方に広がった。1934年10月の武装闘争は多くは敗北に終わった。マドリードとバスコニアでは、社会民主主義指導者の分裂的行動が、スト闘争の武装蜂起に発展するのを妨げた。アストゥリアのプロレタリアートは孤立した。共産党は国民運動を指導するほど強力でなかった。労働者階級に対する農民の支持が不十分であった。




2023年7月3日月曜日

アメリカ軍の歩兵部隊が洞窟の陣地入口をつぶしながら摺鉢山に上っていった。日本軍は地上に姿を見せず、不意に地下の洞窟の入口から飛び出して、肉薄攻撃を繰り返して多数の死体が散乱した。

アメリカ軍の歩兵部隊が洞窟の陣地入口をつぶしながら摺鉢山に上っていった。日本軍は地上に姿を見せず、不意に地下の洞窟の入口から飛び出して、肉薄攻撃を繰り返して多数の死体が散乱した。地下陣地に潜伏した日本軍を、アメリカ軍は火焰放射器で洞窟内を攻撃し、入口を爆破し塞いだ。殺害された日本軍兵士の多数の死体が、硫黄島に散乱した。日本軍の攻撃はやがてゲリラ戦術に変わり、爆薬ごとに戦車に体当たりした。

 1945年2月19日早朝、アメリカ軍は硫黄島を大小の艦船約450隻で取り巻き一斉に砲撃を開始した。その後艦載機約120機が約10分間にわたってナパム弾を投下して、艦砲射撃が再開した。硫黄島上陸の直前の約30分間に約8,000発を撃ち込んだ。

  空爆による硫黄島の日本軍の損害は、戦死約75人、重傷約53人、軽傷約63人に止まっていた。日本軍の約21,000人は地下に構築した複郭陣地に潜って、洞窟式交通路によって連絡された。

  日本軍は、アメリカ軍の上陸部隊を引きつけて攻撃を始めた。海岸の橋頭堡は大混乱に陥って、上陸第一波の8個大隊は正午までに約5分の1から4分の1が死傷した。2月19日中に上陸した約31,000人は、全体では約8%の死傷者を出した。2月20日からアメリカ軍は最大の陣地の摺鉢山と千鳥飛行場の占領に全力を傾けた。全体が岩でできている摺鉢山に、上陸3日目の2月21日に、艦載機が空爆を繰り返し、艦砲射撃が休みなく注がれた。2月22日にアメリカ軍上陸して約51時間後の死者数を約644人、負傷約410人、行方不明約560人と公表した。全米で犠牲者が多いと非難が巻き起こった。

 摺鉢山は2月23日に占領されたが、2月23日に摺鉢山山頂に星条旗を掲げた写真で全米が感激した。日本軍の徹底抗戦は続いて、アメリカ軍は歩兵部隊が侵攻した。硫黄島の中央部・元山飛行場から玉名山を結ぶ線の洞窟から、砲兵隊の速射砲がアメリカ軍の戦車部隊を2月22日から約2日間阻止した。2月24日に元山飛行場をめぐり白兵戦が勃発して、日本軍は一時的にアメリカ軍を撃退した。アメリカ軍は戦力の増強をはかり、2月27日に元山飛行場を占領した。アメリカ軍は約8,000人が死傷して、日本軍も約10,000人が死傷したと推定された。3月14日、大本営あてに訣別の無電を打ち、3月24日に約400人がバンザイ突撃で組織的抵抗が終結した。残存兵は地下に潜り続け、終戦後に捕虜となった者は、最終的に約1,000人であった。




2023年7月2日日曜日

2023年6月19日に、ウクライナ軍の負傷兵が、ウクライナのドネスク州バクムト近郊の医療施設で応急手当を受けた。ウクライナ軍の医療関係者が、負傷したウクライナ軍兵に応急処置を施した。

2023年6月19日に、ウクライナ軍の負傷兵が、ウクライナのドネスク州バクムト近郊の医療施設で応急手当を受けた。ウクライナ・ドネスク州バクムト近郊の医療安定化地点で、ウクライナ軍の医療関係者が、負傷したウクライナ軍兵に応急処置を施した。ウクライナ軍の攻勢が前進し、ロシア軍が守勢に回る方向もあれば、逆にロシア軍が攻勢に転じ、ウクライナ軍が守勢に回る軸もある。一歩一歩、徐々に攻勢して、1メートル単位で戦線をかじっているとウクライナ国防副大臣が6月24日に報告した。 

 ウクライナの防空当局は、ロシア軍が2023年6月20日未明に発射した35機のシャヘド型爆発ドローンのうち32機を撃墜した。ロシア軍は夜間の無人機攻撃でウクライナの首都周辺地域を標的とし、攻撃は3時間ほど続いた。ウクライナの防空部隊が12機ほどを撃墜した。ロシア軍は、ウクライナの南部ザポリツィア地方を弾道ミサイルで攻撃した。ウクライナの前線後方での最近の空爆は、ウクライナの攻勢の初期段階と重なった。

 ウクライナ軍によると、ウクライナ東部のバフムート、ライマン、アヴディフカ、マリンカ周辺で激しい戦闘が起きている。ロシア軍は東部ドネツク地方の15の都市と村落を砲撃し、バフムート近郊のチャシフ・ヤールの3人を含む5人の市民を負傷させた。ロシア軍の焦点は依然としてウクライナの東部戦線にある。ロシア軍は、過去1日間に500回以上にウクライナ軍陣地を砲撃したと、ウクライナ軍参謀本部は報告した。ロシア軍はこの1週間で5,800回以上の攻撃を行い、277,000発以上の弾薬を使用した。ロシア軍国防省は、ウクライナ軍の南部戦線のピアティハツキへの反抗を撃退して、十数台の戦車、装甲車、ウクライナ軍兵士が犠牲となったと6月18日に報告した。















Warning: A Ukrainian wounded souldier gets the first aid at medical stabilisation point near Bakmut, Donesk region, Ukraine, June 19,2023 (AP Photo/ Libkos) 

2023年7月1日土曜日

広島原爆の爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。その側には、身内の家族がその側でお見舞いしていた。

 大芝国民学校は、広島原子爆弾に被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。大芝国民学校内では被爆者は出たが、被爆による即死者は特記なかった。被爆した直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあった。広島県知事は、8月7日に13箇所の救護所を告知した。その内に中山地区に大芝国民学校が含まれた。大芝国民学校は、8月7日から数百人の被爆者を救護した。

 大芝国民学校は、1926年4月1日に大芝尋常小学校が設置された。1929年に広島市大芝尋常小学校と改称した。1941年に広島市大芝国民学校と改称された。1945年8月6日に大芝国民学校は広島原子爆弾に被爆した。1947年に広島市立大芝小学校と改称された。

 広島原子爆弾の炸裂によって、直接に被爆した人数は、広島市衛生局が集計した。1995年の報告書『原爆被爆者動態調査事業報告書』では、主として爆心地から約2km以内の被爆者は約243,463人であった。そのうち1945年末までに死亡した人数は、約83,177人である。約2.0kmから約3.0kmの被爆者約67,538人にも、避難した人が多数いた。約20万人以上の人々が避難したと推測された。その避難した後に多数の被爆者が死亡した。その際、傷害を受けた被爆者(原子爆弾爆発時に広島市にて、外傷、火傷、放射線の傷害を受けた人を被災者と記す)は、自力あるいは他力で、その多くが何処かの救護所に避難したと推察された。




2023年6月30日金曜日

日本軍の沖縄戦は1945年5月3日の作戦会議決定から5月5日まで玉砕する総攻撃が勃発した。日本軍兵士が、アメリカ軍に胸部を射撃されて大量出血して射殺された。沖縄戦の戦場に日本軍兵士の死体が累々と横たわった。

日本軍の沖縄戦は1945年5月3日の作戦会議決定から5月5日まで玉砕する総攻撃が勃発した。玉砕する作戦により、日本軍兵士は圧倒的なアメリカ軍の攻撃を受けて多くが全滅した。日本軍兵士が、アメリカ軍に胸部を射撃されて大量出血して射殺された。沖縄戦の戦場には、日本軍兵士の死体が累々と横たわった。

 5月3日に同時に、東西の海岸沿いに2つの部隊が侵攻して、海上を迂回してアメリカ軍の背後を突くように逆上陸した。那覇の西海岸から日本軍の左上陸隊の約700人が大山付近に侵攻した。東海岸から右逆上陸隊の約500人が津覇から奇襲上陸をめざした。両部隊は一部は上陸して、アメリカ軍が激しく交戦して、両部隊はほぼ壊滅して、東西海岸の逆上陸は頓挫してほとんど全滅した。5月3日未明に、棚原高地で日本軍兵士の屍が累々と横たわり、重症の兵が呻いて全滅した。

 5月4日午前4時に、砲兵部隊がいっせいに半減した約200門の全火砲の砲撃を始めた。砲撃につづいて各部隊が突撃した。日本軍の迫撃砲陣地に対してアメリカ軍は猛烈な砲火で報復した。西原高地では、身体ごと衝撃する白兵戦が、山々の尾根で勃発した。小波川を越えて内間、小那覇付近で激戦となり、多数の死傷者を出した。一時的に四四・六高地を占領した日本軍は、圧倒的なアメリカ軍の戦闘機攻撃と戦車隊の逆襲を受けてほぼ全滅した。夜明けにアメリカ戦車隊に反撃され、中隊は全滅した。

 アメリカ軍陣地深く棚原高地を占領した。アメリカ軍は反撃に出た。5月7日に日本軍の残存部隊が撤退した。日本軍の戦車連隊は、前田南側高地をめざしたが、アメリカ軍は集中的に砲撃し、ほとんど全滅した。アメリカ軍に押しまくられ、アメリカ軍に取って代わられた。総攻撃の日本軍の前線からの報告は、日本軍の一方的苦戦だった。日本軍司令部は、5月5日午後6時、総攻撃を中止して、持久戦に持ち込んだ。玉砕覚悟の総攻撃による損害は大きく、日本軍の損耗は5月5日だけで約7,000人近くにもなった。

 沖縄戦が勃発して、日本本土はすでに沖縄を見捨てていた。サイパン、硫黄島が落ちた後、次は沖縄と台湾と想定された。閣議決定で、沖縄の市民を台湾に約2万人、九州に約8万人の疎開が決定された。台湾に疎開させるのは、日本軍は沖縄にアメリカ軍が来るこどを予期していた。沖縄の若年兵の精鋭の武部隊は沖縄戦の直前に台湾に転出させた。沖縄は日本本土の捨て石にされた。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びて、日本軍には沖縄を救う意識は少なかった。




2023年6月29日木曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、1942年3月にサン・ナゼール空襲後にイギリス軍兵士の戦死者の死体が散乱した。サン・ナザール空襲に参戦したイギリス軍約600人のうち、約169人が死亡、約215人が捕虜となった。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1942年3月にサン・ナゼール(St. Nazaire)空襲後にイギリス軍兵士の戦死者の死体が散乱した。サン・ナザール空襲に参戦したイギリス軍約600人のうち、約169人が死亡、約215人が捕虜となった。1942年4月1日にドイツ海軍の船員が、桟橋で殺害されて地面に横たわるイギリス軍兵士の死体を見守って検死した。ドイツ占領下のフランスへの連合軍による最初の上陸作戦であり、ノルマンディー上陸作戦の約2年以上前である。

 フランスのビスケー湾に面したサン・ナゼール港で、ドイツ海軍が基地や潜水艦の発着場として使用していた。1942年3月に、サン・ナゼール港の海閘門を破壊して、当時ノルウェーにいた戦艦ティルピッツのドック施設を阻止するために、イギリス軍司令部が空襲を行った。3月28日の朝に、爆薬を満載した旧式の駆逐艦キャンベルタウンに乗った約260人余りが、約18隻の小型沿岸攻撃艇を従えて閘門に突入した。後続の攻撃により、小型艦船16隻と約170人のイギリス軍兵士が死亡または捕虜となった。ドイツ軍兵士の犠牲は、約360人が戦死した。キャンベルタウンの閘門を爆破・大破させた。ドイツ軍は第二次世界大戦の大半の間に、サン・ナゼール港の軍事施設を使用することが不可能になった。

 サン・ナザール港に上陸したイギリス軍兵士は、あちこちで爆発音が鳴り響き、弾丸や砲弾が壊れやすい標的を探して飛び交った。16隻の木造の小さなボートは、ドイツ軍の砲弾で炎上した。キャンベルタウン号からイギリス軍兵は、大きなポンプ場に向かって、爆薬でドアを吹き飛ばした。ドック前のポンプまで約12m降りて爆薬をかけた直後に、一団全員が爆発して死亡した。南側ケーソンの前にあったウィンチ付きの機関棟を爆破して、廃墟にした。約8kgの爆薬12個で北側ケーソンを損傷させた。ドックに係留されていた2隻のドイツ軍の戦艦などからの機銃掃射により、イギリス軍兵士に多数の死傷者が出て、約7人が死亡した。北側の巻き上げ機棟に雷管を当て、爆破した。