2023年3月26日日曜日

2022年11月24日に、ウクライナのザポリージャ州のノボソローネにて、産婦人科病棟で出産した2日に、新生児の赤ん坊の男子であるセルヒイ・ポドリャノフは、ロシア軍のミサイル攻撃で殺害された。

2022年11月24日に、ウクライナのザポリージャ州のノボソローネ(Novosolone)にて、産婦人科病棟で出産した2日後に、新生児の赤ん坊の男子であるセルヒイ・ポドリャノフ(Serhii Podlianov)を、ロシア軍のミサイル攻撃で殺害された。母親のマリア・カミアネツカ(Maria Kamianetska, 36)は、祖母のテチアナ・スヴィストゥノヴァ(左)と妹のリューバに抱かれて葬儀をした。ウクライナのザポリージャ州ノボソローネの墓地で、生後2日のセルヒイの棺桶を、母親はじっと見つめ、泣き叫びながら棺桶に近づいた。










Warning: Maria Kamianetska, 36, is held by her mother, Tetiana Svystunova, left, and her sister, Lyuba, as she mourns her baby son, Serhii Podlianov, on Nov. 24, 2022, in Novosolone, Ukraine. (Heidi Levine for WaPo )

 2022年11月24日午前2時頃、母親が授乳を終えて、横のベビーベッドに寝かせた時点に、病院の産科病棟にロケットが撃墜してレンガ壁を砕いた。病院の壁は崩れ落ち、母子は瓦礫の中に閉じ込められた。母親は生存して瓦礫の中から救い出したが、赤ん坊の男子のセルヒイだけが殺害された。母親はベッドから体を起こし、ベビーベッドに向かって突進した。母親は、空っぽで愕然とした。赤ちゃんは爆風でベッドから飛び出した。母親が出産した産婦人科病院は、ロシアが併合したと主張するウクライナの4つの地域の一つのザポリージャ州のヴィルニャンスク町にあった。ザポリージャ原子力発電所から約170kmの距離にあるノボソローネの病院付近は、11月以降に特にミサイル攻撃の頻度が高くなった。11月21日午前8時20分に誕生した約6kg弱の健康な男子で、4人目の子どもだった。

 ウクライナ検察庁は、11月24日までにロシア軍の侵攻により殺害されたウクライナの子ども440人以上であると公表した。それに生後2日目のセルヒイも含まれた。救助隊員が産科病棟の残骸を探しながら、セルヒイは人形のように地面にうつ伏せになっていた。葬儀の赤ん坊の目は閉じられ、顔にはまだ小さな擦り傷が残っていた。祖母と義理の姉が母親の腕を掴み、立っているのを助けた。母親は棺桶の中に身を乗り出し、赤ちゃんにそっとキスをした。神父が水をかけた後、2人の男が丁寧に棺桶を地面に下ろした。遺族が墓に土を撒くと、遠くで砲撃音が鳴り響いた。兄と妹2人は、セルヒイの墓に連れて行かれたのは、葬儀の後であった。両親は、悲劇を子どもたちに見せたくなかった。










Warning: Maria Kamianetska kisses her son during his funeral. (Heidi Levine for WaPo)

2023年3月25日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した新興善国民学校の救護所には、9月中旬に外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。

 長崎原子爆弾の爆心地から南へ約3kmの地点に新興善国民学校の救護所があった。被爆直後から日を追って被爆患者の患者が急増した。各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。新興善国民学校の即席の救護所には、9月中旬には、外来患者の被爆患者が殺到していた。新興善特設救護病院の外来診察室は、かつては新興善国民学校の職員室であった。9月上旬頃は、その窓ガラスは割れ、備品や調理器具が散乱していた。新興善国民学校は全壊や火災を免れていた。新興善国民学校の救護所に運ばれてきた被爆患者は、最低限の医療を受けた。その医療状態が徐々に改善されるのは、8月16日以降からであった。他の救護所も徐々に、病院の医療機関に統合されて、新興善国民学校が10月23日に統合される最後の救護所となった。

 新興善国民学校は類焼から免れて、鉄筋コンクリートで堅固で被爆直後から救護所として活用された。教室は診察室や被爆患者の病室、被爆患者の入院の場として使用された。炎天下を毎日トラックに乗って、長崎市内の爆心地方面の防空壕を調査して廻り、被爆患者を新興善国民学校に収容した。新興善国民学校の各教室とも超満員であった。独りで歩いて或は連れられて来る外来患者の被爆患者が殺到した。特設救護病院として10月初旬まで使用された。10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学が移管決定して10月23日に移設した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。

 長崎原子爆弾が炸裂した、1945年8月9日直後に、長崎の医療体制に大きな打撃を与えた。生き残った医師や看護婦が救援活動を始めた。医療設備や物資が不足して、応急処置すらできなかった。爆心地付近の焼け野原に救援列車を走らせ、近隣の市町村の病院へ被爆者を移送した。夕方には海軍病院の救援隊が入り、夜には近隣の町から警備隊や消防隊を中心とした救援隊が到着し、被爆患者の救援に当たった。




2023年3月24日金曜日

ヒロの大虐殺は、ブラッディ・マンデイとも呼ばれ、1938年8月1日にハワイ州のハワイ島の北東部のヒロで発生した事件である。約70人以上の警官が 非武装のデモ隊約200人のうち約50人を負傷させた。

ヒロ(Hilo)の大虐殺は、ブラッディ・マンデイとも呼ばれ、1938年8月1日にハワイ州のハワイ島の北東部のヒロで発生した事件である。約70人以上の警官が ストライキ中の非武装のデモ隊約200人を解散させようとし、デモ隊のうち約50人を負傷させた。群衆を解散させようとした警察官は、催涙ガス、ホース、最終的には機動隊は、銃をストライキの抗議者に向けて発射し、約50人の負傷者を出した。大虐殺には至らず、死者は出なかった。

 中国人、日本人、ネイティブ・ハワイアン、ルソ、フィリピン系アメリカ人などさまざまな民族の抗議者であった。国際港湾労働組合など、さまざまな労働組合の抗議者であった。長い間対立していた異なる集団が、その差異を捨てて、インター・アイランド・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(Inter-Island Steam Navigation Company)に抗議した。港湾労働者ハリー・カモク(Harry Kamoku)に率いられた組合は、アメリカ西海岸の労働者と同等の賃金、クローズド・ショップやユニオン・ショップを要求した。1935年11月22日に、カリフォルニア出身の活動家ハリー・カモクが、ハワイ初の多民族組合であるヒロ港湾労働組合を組織した。

 ストライキは1938年2月4日に始まり、オアフ島ホノルルで、SSフムラ号、SSハワイ号、SSワイアレ号、SSフアラライ号の4隻の汽船からの荷揚げを中止させた最初の抗議活動を起こした。8月1日にインターアイランド・スチーム・ナビゲーション・カンパニーが所有する蒸気船SSワイアレールの到着に対して抗議した。ハリー・カモクはペペケオ岬の沖合で汽船を発見し、午前8時30分には組合員の大半が到着した。全員で約200人のデモ隊が押し寄せた。警察は労働者たちに、船に乗ることも、近づくことも許されないと告げた。約200人の労働者が集まったときにデモは頂点に達した。デモ隊は解散を命じられるも従わずに、警察の武力行使が執行されて、負傷した入院者が出た。警察は最初に約12個の催涙弾を群衆に投げ込んだ。警察は消防車のホースからデモ隊に海水を噴射した。警察が、銃剣でデモ参加者の背中を刺した。午前10時20分頃に、警察本部長は警官に群衆に発砲するよう命じた。少なくとも16発の弾薬が発射され、女性2人と子供2人が撃たれ、発砲は約5分ほど続いた。



2023年3月23日木曜日

地雷によりドイツ軍兵士の犠牲が発生して、イタリアのパルチザン容疑者らに死刑で1945年3月10日に報復した。11人のイタリア人のパルチザン容疑者と1人のフランス軍兵士を略式で絞首刑と射殺して処刑した。

第二次世界大戦のイタリア戦線において、ボスコ・デッレ・カスターニュの虐殺が、1945年3月10日にイタリア北東部のベッルーノで起こった。ドイツ軍のポリツィア連隊ボーゼン軍第2大隊が、地雷によりドイツ軍兵士の犠牲が発生して、イタリアのパルチザン容疑者らに死刑で報復した。11人のイタリア人のパルチザン容疑者と1人のフランス軍兵士を略式で絞首刑と射殺して処刑した。

 1945年3月7日にイタリアのベッルーノにて、ドイツ軍は射撃場にて、アドルフ・ヒトラーを描いた2枚の巨大なプラカードを発見して、それにはよく狙えと書かれた。ドイツ軍兵士はすぐにプラカードを取り除こうと走った。直後にその周囲の地雷によって、4人が即死した。さらに14人が地雷に負傷して、その内に4人が死亡した。南チロル人大隊は、報復として約50人のパルチザンの処刑を要求した。その中でドイツ国家憲兵隊は、報復対象者は10人に限定した。

 バルデニヒ刑務所に収容されたイタリアのパルチザン10人が栗の森に強制連行された。若いイタリアのパルチザンは、背中に後手に留めて、ベッルーノを見下ろす小さな栗の森に向かって一列に悲劇の死刑の行進をした。1945年3月10日朝に、ベルーノの北にあるボスコ・デッレ・カスターニュで絞首刑に処された。絞首刑されたままで2日間も放置された。ドイツ軍兵士は刑務所に戻ってみると、ジュゼッペ・チビエンを処刑するはずが、栗の木で同音異義のジョバンニ・チビエンを絞首刑したことに気づいた。ドイツ軍はジュゼッペを刑務所から連れ出し、ダンジェロ兵舎の中庭で射殺した。1945年3月10日の犠牲者は合計で11人になった。



2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2023年3月21日火曜日

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。

日中戦争にて、日本軍が1937年12月13日に中国の南京城を陥落した。中国民国の元首都であった南京城の南門付近に、多数の中国軍兵士が殺害されて、死体が散乱した。日本軍による南京空襲の後に、死体が南京市内に散らばった。南京の非軍事施設に対する日本軍の大規模な爆撃によって、民間人の被害が引き起こされた。民間人の犠牲者を隠蔽するために、南京空襲に関連するすべての写真は不許可写真とされた。中華門前の地面一面に死体が散乱して、至る所に血痕があった。日本軍の空襲により、南京城の多くの場所は混乱した。



 日本軍は1937年12月初旬に、南京郊外に到着した。12月9日未明に、日本軍は南京の城壁に到着した。中国軍に24時間以内に降伏を要求した。12月9日13時頃に、中国側が交渉に応じないと判断し、攻撃命令を出した。14時頃に、南京で厳重に守られた光華門を攻撃した。光華門の中国軍は約1,000人に及び、日本軍は多くの死傷者を出した。最終的には武力で中国軍を圧倒して、日暮れまでに、光華門の一部を破壊し、日本軍が押し寄せて最後の中国軍の守備兵を追い出した。12月12日に最後の中国軍が北の義江門を保持したが、中国軍の指揮官から兵士まで、四方八方に逃げ始めた。中国軍兵士は商店を略奪して、軍服や武器を捨てて、市民の中に紛れ込んだ。北方の義江門の中国軍は、退却を阻止して、数千人の中国人が義江門の中に押し寄せ、通り抜ける多くの中国人を脱走兵とみなして発砲した。12月12日17時頃に中国軍は、河川に避難の規模を拡大した。18時頃に避難は本格化したが、大混乱に陥った。数千人の中国軍兵士と多くの避難民が埠頭への道を埋め尽くて大混乱に陥った。

 12月13日午前に、日本軍が入城し初めて、光華門の経由と中山門や太平門経由が続いて、約5万人が入城した。12月13日の午後、日本軍の2つの小さな川船団が南京の港に到着した。日暮れには、日本軍は南京の戦いの勝利を宣言した。日本軍が南京を侵略した1937年12月13日から1938年1月31日まで約6週間にわたり南京大虐殺が勃発した。



2023年3月20日月曜日

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1942年冬にクリミア半島南部のジャイラ山脈で、ドイツ軍親衛隊はパルチザンを銃殺した。その死体の衣服から武器や身分証明書を探し出した。

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1942年冬にクリミア半島南部のジャイラ山脈で、ドイツ軍親衛隊はパルチザンを銃殺した。その死体の衣服から武器や身分証明書を探し出した。1941年から1942年末のパルチザン集団には食糧基地の喪失と飢餓がゲリラ運動に損害を与え、ほとんどのパルチザン部隊で飢饉が出現した。ドイツ軍占領当局は、地元のタタール人をパルチザンに対立させた。ドイツ軍の恐怖が、すぐに住民を征服者に対抗させた。

 クリミアのパルチザンは、戦争の残りの期間もジャイラ山脈に住み続けた。ナチス・ドイツ軍の占領下のクリミアでは、約200以上の地下組織や約2,500人規模のグループが活動し、ゲリラが鉄道のサボタージュやドイツ軍の守備隊を攻撃した。ドイツ軍は、彼らを鎮圧するための無駄な報復、人質、大量射殺と悲惨な戦術に頼った。ソ連から弾圧を受けていた少数民族のクリミア・タタールの民族主義者は、現地人やゲリラと戦うドイツ軍の懲罰的な分遣隊に協力した。1941年末から1942年初めにかけて、ドイツの懲罰部隊はフェオドシアで約12,000人、ケルチで約7,000人を射殺した。何千人もの人々がクラスニー強制収容所などに入れられた。

 1943年7月にクルスクの戦いでドイツ軍はソ連軍に大敗した後に、ソ連軍の大規模な反撃をした。赤軍はドニエプル川から越えて侵攻した。ソ連軍の大侵攻の過程で、再びクリミアを封鎖して、ドイツ軍をクリミア半島に封じ込めた。1944年4月8日に、ソ連軍はクリミア半島北部で攻勢を開始して、約3日後にクリミア東部からドイツ軍を一掃して、5月9日にセヴァストポリを完全に赤軍が占領してクリミアは征服された。クリミア・タタール人はクリミアの領土から追放され、5月18日から6月1日までにウズベキスタン親衛隊の地域に特別な入植者として永久に再定住された。

 ソ連時代の大半は、クリミアはロシア共和国の一部でとなった。1954年にソ連政府はウクライナ共和国に移管した。ソ連崩壊後に、1997年5月に分割条約によってロシアとウクライナは、クリミアを新たに独立したウクライナが保持するを合意した。2014年3月に、ロシアは急遽実施された住民投票により同半島を併合し、大きな国際危機を引き起こし、その後2022年2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻の起点となった。




 

2023年3月19日日曜日

2023年1月28日に、ウクライナ東部のドネツク州のシヴェルスク近郊の戦場の前線にて、殺害されて横たわったロシア軍兵士の死体が放置された。ウクライナ軍兵士が、死体の横で検死した。

2023年1月28日に、ウクライナ東部のドネツク州のシヴェルスク(Siversk)近郊の戦場の前線にて、殺害されて横たわったロシア軍兵士の死体が放置された。シヴェルクスクは、2022年7月以降ににドンバスの重要な輸送拠点である激戦地のバフムートの北方約30kmに位置した。ウクライナ軍兵士は、放置された多数のロシア軍兵士の死体の横に立って検死した。






 




Warning: The bodies of Russian soldiers lying on the ground on the frontline near the Ukrainian town of Siversk, Donetsk region, on January 28. Picture: Anatolii Stepanov/AFP

ロシア軍は、ウクライナ軍の防御を突破するために、捕虜や訓練不足の徴兵の大群による肉弾戦をウクライナに浴びせた。生贄の軍隊の死体は、荒野に放置された。ロシア軍は、戦闘行為に追われて、棺桶に入った兵士をほとんど祖国に帰していない。ロシア軍兵士の死体は、放置され、積み上げられ、移動火葬場や即席の炉で火葬され、急いで埋められ、放置されたまま、腐ったり凍ったりした。

 ロシアは長い間、対外戦争にロシア軍兵士の死者数を軽視した。行方不明の届け出があれば、家族の補償金をロシア政府は支払わなくて済む。ロシア軍の損失は死傷兵約18万人程度に近づいた。ウクライナ軍の損失は、兵員約10万人、民間人約3万人を伴った。

 冬間にロシア軍の戦術が変わり、第一次世界大戦の塹壕戦で、数千人のロシア軍兵士は塹壕に並んだ後に、ウクライナ軍の防御陣地に突入を命じられた。多数の死体は、氷や雪の中に積み上げられ放置された。人命の軽視と死体の山は非常にロシア軍的な特徴となった。限られたスペースに何百体もの死体があると、深刻な健康リスクになる。死体は腐敗する。バクテリアは増殖する、病気を広げ、水路を汚染した。冬は死体が凍って、死体の搬送が容易になる反面、土を掘って素早く墓を作るのは困難となる。

 ウクライナ東部のドネツク州のバフムート市周辺での戦闘は、第一次世界大戦の塹壕戦と化した。ウクライナの広大な開けた農村部が戦場となった。戦車、塹壕、大砲、迫撃砲は、戦略兵器ではなく、殺人機械となった。凍てついた大地に塹壕を切り開き、部隊の援護にあたる。戦術も、塹壕から次々と兵士を送り出し、敵陣に突進した。











Warning: A Ukrainian soldier stands next to the bodies of Russian soldiers lying on the ground on the frontline near the town of Siversk on January 28. Picture: Anatolii Stepanov/AFP

2023年3月18日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月10日に爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出し付近でおにぎりを持った母親と男子に出会って写真撮影した。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日夕方に集合と約束した道ノ尾駅を目指して、山端庸介は県道沿いに被爆地を北上しながら写真撮影を続けた。爆心地の南南東約1.8Kmの井樋ノ口の救護所での炊き出しの風景を撮った直後に、その付近でおにぎりを持った母親と子供に出会った。8月10日、山端庸介は夜明け午前3時から約12時間かけて夕暮れまで廃墟を歩き回り、約119コマもの破壊の様子を撮影した。山端庸介はその約20年後、8月10日に浴びた放射線の影響か、48歳の若さで癌で死亡した。

 彼らはおにぎりを一つずつ握りしめて、呆然とたたずむ母親と子供の全身写真と、少年の上半身のアップ写真をそれぞれ撮影した。少年は頭に包帯を巻いて、その上に防空頭巾をかぶっていた。顔にはいくつもの血痕が残った。母親の頭や顎にも包帯が巻かれていた。二人ともうつろな表情ではあるが、カメラのレンズを見詰めた。少年の背中に白い紐が結わえられ、母親が右手でそれをしっかりと握りしめていた。母親は離れ離れになることを怖れていた。

 29歳の母親は長崎県五島列島出身で、長崎原子爆弾が被爆した当時は長崎市内の呉服屋で働いていた。その子供の男子は3歳であった。母親と子供の写真には、少年のくぐもったような影のあるまなざしと、縫い跡のような顔の血痕、おにぎりを握る小さな指先は、原爆写真を見る人の印象を激しく揺さぶった。少年時代の自分の姿や、自分の子ども、あるいは孫の姿とついつい同期しまう。母親と子供の写真は、アメリカではじめて被爆者に注目して編集された『ライフ』の原子爆弾の特集や、『写真記録 原爆の長崎』の 表紙として世に注目された。山端庸介の原子爆弾の写真のなかでも印象的な原子爆弾の写真一枚になった。

 母親は銭座町(爆心地の南1.6km)で、夫と三人の娘、長男との六人暮らしだった。一家は自宅や自宅付近で長崎原子爆弾に被爆して、負傷したが6人とも生き延びた。母親は74歳で死亡した。死亡する一年前に証言した。「下まで降りてきたら、井樋口のところで、わたしも息子も主人も下宿人の人もみんなおにぎりを一つずつもらいました。三菱製鋼所のところに仮救護所があったのでそこへ行こうとしたら、(山端庸介から)「写真をとらせてください」 と声をかけられたとです。私は子どもだけ写されたと思うとりました。私もいっしょに写されたと知りませんでした。いやー、みじめな写真です。見たくもありません。あの時のことは思い出したくもありません」(「〈おにぎり親子> は生きていた!」「証言1990~ヒロシマ・ナガサキの声 第4集』汐文社)。



  当時3歳だった少年の消息を知る人によると、この少年は現存した。しかし、県外に嫁いだ姉妹が差別を恐れて、被爆したことを明かさずに生きてきたので、名乗り出ることができない、そっとしておいてほしいという。


 従軍カメラマンの山端庸介は多くの長崎原子爆弾の写真を撮影して記録に残した。原爆写真を焼却処分せずに、密かに東京に持ち帰り、毎日新聞(1945年8月21日)読売報知新聞(8月23日)朝日新聞(8月25日)東京新聞(8月25日)に掲載された。正式降伏した9月2日から日本を支配したQHQは、原爆報道を検閲して厳禁の封印した。その後、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発行されて解禁された。

2023年3月17日金曜日

1919年1月末に、エストニアのヴァルク周辺の5つの集団墓地から、ボリシェヴィキのテロ行為による犠牲者107人の死体が発見されて、約67人が人質として強制連行された。

1919年エストニアのヴァルクにて、権力を掌握しようとしたボリシェビキは、エストニアのエリートのなかから選んだ人質を処刑して殺害した。1919年1月末に、ヴァルク周辺の5つの集団墓地から、ボリシェヴィキのテロ行為による犠牲者107人の死体が発見されて、約67人が人質として強制連行された。

 ボルシェビキはロシア内戦に勝つために全社会集団の政敵を根絶する必要があった。ユダヤ人主導のロシアの赤軍がエストニアに侵攻し、エストニアの知識人やツァーリストのロシア人難民の虐殺が1919年に勃発した。赤軍は、世界最悪の大量殺人者の一人であるユダヤ人のレオン・トロツキーが建設して率いた。ユダヤ人の最高司令官のジノヴィエフの発した言葉は、「情け容赦なく、誰一人惜しむことなく、我々は敵を数百、そう、数千人単位で殺そう。自分の血で溺れさせよう。そうだ、ブルジョアジーの血の川を全部作ってしまえ、さらに血を増やせ!。できるだけ多く!」

 ボルシェビキが権力を掌握して以来、社会主義革命が反対派を容認せず、中央集権的な権力を維持した。トロツキーはボリシェヴィキの主力である赤軍を組織した。チェーカーは、ボルシェビキ政権の反対者を迫害する機能を持つ秘密警察として、1917年10月ロシア革命を起点に形成された。ロシア革命の偉大な指導者と見なされていたレーニンは 1924年に亡くなり、トロツキーとスターリンの間の権力闘争の余地が生まれた。

 ロシア内戦が勃発して、1918年後半から1919年前半にかけて、チェーカー特別部隊によって、ストライキ労働者に対する大量虐殺が発生した。生活環境の悪化とメンシェヴィキや社会主義革命派の労働者の逮捕によっていくつかの大規模なストライキ(時には赤軍部隊の反乱も)が引き起こされた。それはチェカ特別部隊によって厳しく弾圧された。最も暴力的な弾圧(ストライカーの虐殺や処刑)は、労働者が反ボルシェビキ軍を支持した白人や社会主義反対派(S-Rやメンシェビキ)を征服したウラル地方、またはストライキや反乱が起こったときに戦略的軍事拠点を占領したアストラハン地方で、最も血なまぐさく大量虐殺が勃発した。




2023年3月16日木曜日

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。犠牲者の中には、わずか10歳の少年も巻き込まれた。約100万人ものザイール人のキリスト教徒が、希望の行進を首都キンシャサの通りを挙行して、国民会議の再開を要求した。モブツ大統領の治安部隊は殺人的な武力で対抗して、少なくとも約30人のデモ参加者を殺害して、数百人が負傷した。他の都市の抗議活動でも死傷者が出た。国際的な反応により、モブツは主権国民会議を4月初旬に再開させた。モブツ政権と国民会議とは激しい交渉が行われた。8月3日に妥協合意に至り、野党連合のチセケディが大統領に就任した。モブツとチセケディの間の権力闘争は続いた。10月4日に、モブツに忠実な軍隊が、約2週間も銀行と国会議事堂を取り囲った。ザイールは、長年にわたる内紛、独裁政治、経済的衰退を経て、1996年には瀕死の状態で、1997年5月17日から周辺諸国の侵攻を受けて第一次コンゴ戦争が勃発した。 

 アフリカのザイール(現コンゴ)は、1990年4月24日に、内外の圧力によりザイールの一党独裁のモブツ大統領は複数政党制を導入した。1990年5月に、モブツの民主化から2週間後に、ルブンバシ大学の学生たちは、モブツ政権に反抗するデモを行った。学生らは治安部隊に攻撃されて、不特定な人数が殺害された。大虐殺により内部の反対と国際的な圧力が、主権国民会議の招集を余儀なくした。

 会議は1991年8月に初めて開催されるも、1か月以内に崩壊した。9月には、首都キンシャサにてザイール軍兵士が深刻な略奪をした。モブツ大統領の任期が満了直後の12月初旬に会議が召集された。1992年1月19日に、ングズ首相が政権交代のない会議を中断した。会議の中断は反対派を刺激して、1月22日の夜にザイール軍兵士たちが反乱して国営ラジオ局を占領した。モブツ政権は反乱をクーデター未遂と公表した。野党を容疑者として一斉検挙した。数日間、参戦したザイール軍兵士のうち11人は、3月に見世物の裁判にかけた。軍事裁判所は11人のうち9人に懲役刑を宣告した。その他の残余の兵士は、政府から逃亡者として不在で死刑が宣告された。





2023年3月15日水曜日

フランスの首都パリのヴァンセンヌ城の敷地内にて、1944年8月19日から勃発したパリ蜂起に対して、ドイツ軍親衛隊がレジスタンスを銃殺して集団埋葬した死体が発掘された。

フランスの首都パリのヴァンセンヌ(Vincennes)城の敷地内にて、1944年8月19日からパリ蜂起に対してドイツ軍親衛隊がレジスタンスを銃殺して集団埋葬した。8月24日に、アメリカ軍がパリ侵攻した数時間後に、ドイツ軍守備隊はヴァンセンヌ城の砦を撤退した。8月25日にパリを解放したアメリカ軍は、ヴァンセンヌ城で殺害された死体を発掘して身元確認をした。残存したフランス市民は自由になり、ヴァンセンヌ地区の住民が集められた。緊急対策チームのメンバーと赤十字の救助隊員は、ヴァンセンヌ城の溝の薄い土の下の共同墓地に埋まった死体の掘り起こした。

 1944年8月19日午後に、パリ12区のリヨン通りにある司法警察第4課からパリ蜂起が勃発した。私服で部署に戻ったフランス人の警察官たちが何度も出入りした。リヨン駅を占領したドイツ軍兵士が、午後5時頃に警察官の事務所に強行突入して、全員を逮捕した。捜索の結果、F.F.I.(French Forces of the Interior: フランス内戦部隊)の腕章が発見された。警察官たちをトラヴェルシエール通りに強制連行された。バスに乗り込まされて、ヴァンセンヌ城に向かった。数時間前に警察官と同様に逮捕された医者、金融関係者、石炭商もいた。銃殺隊を指揮するドイツ軍将校は、彼らを守衛所の小部屋に閉じ込めた。殺害した後に犠牲者の死体を埋葬する共同墓地の穴掘り作業が必要であった。パリ蜂起初日の8月19日に、武器の所持を発見された者は、ドイツ軍はF.F.I.のテロリスト戦闘員と見なして殺害した。

 8月20日午前9時から共同墓地の穴掘り作業が始まり、殺害された11体の死体が横たわった。警官の一人が、同僚の一人の死体に気付いた。窓から外したシャッターを担架代わり、死体を強制運搬させた。次の作業は、坑道へ向かう途中で血の跡を洗い流した。次の銃殺が行われる8月20日午後5時まで、いじめ、脅迫、殴打などの拷問が続いた。警察部隊幹部のシルベストリ警視総監は、集団から連行されて、尋問された後、銃殺された。彼はF.F.I.の腕章の容疑でも、レジスタンスに参加していなかった。8月21日朝に、新たな囚人が到着し、新たな銃殺の処刑が執行されて、新たな死体の落穴ができた。




2023年3月14日火曜日

1942年11月にドイツ軍が、スロベキアのツェリェ(Celje)で、パルチザンを屈辱して公開処刑により虐殺した。スロベキア人のパルチザンの死体が、ツェリェの歩道に散らばった。

1942年11月にドイツ軍が、スロベキアのツェリェ(Celje)にて、パルチザンを屈辱して公開処刑によって虐殺した。ナチス・ドイツ軍の報復によりスロベニア人たちを殺害した。スロベキア人のパルチザンの死体が、ツェリェの歩道に散らばった。民間人とドイツ軍兵士が通り見過ごした。周囲の観衆であるスーツ姿の紳士らはリラックスしながら談話した。彼らには緊張はほとんど見られない。ツェリェの歩道には死体、生存者、拷問を受けた人らが散在して混在した。ロープを飛び越えて保護区域に入って撮影された。顔の分離が難しい女性を右側の前景に配置した。彼女は頭を少し上げて、左に向けて、手を縛られて、あたかも誇らしげに立った。

 その後に、彼女がトンチカ・チェチ(Tončka Čeč)であることがわかった。彼女は1919年に共産党が活動を開始した頃に共産主義者になり、最初から女性の権利のために戦った。トルボヴリエの鉱山町で生まれ、子供時代には教育を受ける機会もなかった。彼女は党内で最も活発な人物の1人であった。ツェリェの通りで屈辱されて公開処刑を立ち会った後に、彼女は地元の刑務所に投獄された。その後にマリボルとゲシュタポ刑務所に投獄された。最終的にアウシュヴィッツ強制収容所に送還された。彼女は43歳で1943年11月13日に疲労困憊と発疹チフスになり毒ガス室で死亡した。

 1941年にナチス・ドイツ軍がユーゴスラビア占領後に、トンチカ・チェチはパルティザンのレビルスカ部隊に参戦して、1941年秋にレビルスカ部隊解散後には、ツェリェ地区で共産党幹部の指導員となった。1942年春に、彼女はスロベニア共産党地域委員会の最初の書記となった。コジャンスカ部隊と密接に協力し、解放戦線の普及と組織化に努めた。1942年8月末まで任務を遂行したが、ナチス・ドイツのゲシュタポに追跡され、トポロフ付近での短い衝突の後に負傷して捕らえられた。パルチザンであったトンチカ・チェチは、病院でドイツ警察の監視下で回復し、その後にツェリェの悪名高い刑務所に収監された。服役中に、彼女は数週間にわたり尋問と拷問を受けた。1942年11月7日にパルチザン部隊がドイツ軍と戦闘した後に、ドイツ軍は解放運動の共感者へ報復として、ツェリェで多数のパルチザンを公開処刑した。




2023年3月13日月曜日

アメリカ南北戦争の末期に、ペンシルベニア州のゲティスバーグの戦いが終結した1863年7月3日に、北軍の医師たちが、多数の殺害されて散乱した北軍と南軍の死体群と向き合って検死した。

アメリカ南北戦争の中盤に、ペンシルベニア州のゲティスバーグの戦いが終結した1863年7月3日に、北軍の医師たちが、多数の殺害されて散乱した北軍と南軍の死体群と向き合って検死した。その戦場であったカルプス・ヒルの丘陵地は、北軍の戦線の最右翼に位置して、激しい戦闘の戦場となった。アメリカ南北戦争の激戦地となったゲティスバーグは、7月1日から7月3日の約3日間の戦闘で5万人以上が死傷し、最も血生臭い戦いの一つとなった。ロバート・E・リー将軍が率いる南軍と、ジョージ・ミード将軍が率いる北軍のポトマック軍が戦った。北軍は約23,000人、南軍は約28,000人を戦死傷した。南軍のリーが計画していた北部への侵攻は終末を告げた。アメリカ南北戦争では、南部の南部連合がアメリカ合衆国を分離して南部の国を作るのを阻止するために、北部の連邦軍が激突した。この写真は、ジョン・ダウンズ・ロックフォート(1825年-1885年)が、1867年にカナダとアメリカを周遊した写真集に掲載された。

 ゲティスバーグの戦いの後に、ペンシルベニア州のゲティスバーグを囲む野原や丘には、何千もの北軍と南軍の兵士の死体が散乱した。労働者、兵士、町の人々は、1863年7月の暑さの中で、兵士の死体を埋葬するために、しばしば浅い塹壕や集団墓地に集団埋葬された。急ごしらえの不適切な埋葬は、死者への敬意よりも、生存者の必要性のために死後処置された。1863年10月下旬から1864年3月にかけて、約3,500人以上の北軍兵士が戦場から掘り出されて、共同墓地に新設された国立墓地に埋葬された。

 埋葬から数ヶ月経った死体を運び出し、身元を確認する作業は、サミュエル・ウィーバーが監督した。北軍兵士のための軍人国立共同墓地の建設が進む中、南軍兵士の死体はさらに10年近く戦場に残された。1871年から1873年に、ルーファス・ウィーバーは約3,300体以上の南軍兵士の墓地への埋葬を監督した。その多くはバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地に埋葬した。彼の父サミュエルは、国立墓地の建設中に、南軍兵士が発見されると戦場に埋め戻した。彼とジョン・W・C・オニール博士の記録で、多くの南軍兵士が残存した埋葬場所がまだ特定できた。ハリウッド墓地記念協会は、ウィーバーにわずか数百ドルしか支払わず、ウィーバーは人件費と輸送費で約6,500ドル以上の借金を背負った。結局は、北軍、南軍を問わず、何千人もの兵士の死体が戦場から運び出され、墓地に埋葬された。ウィーバー夫妻は、すべての兵士の死体を探し出して、運び出すことは不可能であった。特にカルプス・ヒルのような森林地帯ではなおさら困難であった。アメリカの国立墓地が創設されるのは、南北戦争を契機とした。戦死者の追悼日の起源も、南北戦争である。















Japan No War (NGO) 日本平和市民連盟
2023年3月13日にBlogger投稿数は2,400回に達した。

2023年3月12日日曜日

激戦地バフムート郊外の野戦病院で、ウクライナ軍の負傷兵の治療をヤナ・リヒリツカは手伝った。2022年3月初旬に、彼女ともう一人の衛生兵は、野戦病院と前線を往来時にロシア軍の砲撃で殺害され戦死した。

2022年末に、ウクライナ軍に衛生兵として入隊したヤナ・リヒリツカ(Yana Rikhlitska)さん(29歳)は、金髪を三つ編みにして棺桶の中に横たわった。ロシア軍がウクライナ東部の都市を奪取するための三面攻撃で、崩壊されたバフムート郊外の野戦病院で、ウクライナ軍の負傷兵の治療を、ヤナ・リヒリツカは手伝った。2022年3月初旬に、ヤナ・リヒリツカともう一人の衛生兵は、野戦病院と前線を往来時に砲撃で殺害されて戦死した。

 ヤナ・リヒリツカは、2022年2月24日にロシア軍がウクライナに本格的に侵攻する直前に、ブラジルに滞在した。彼女は南米の国で数カ月間、アフロ・ブラジルの格闘技のカポエイラを練習していた。彼女はロシア軍のウクライナ侵攻後に、すぐにウクライナに帰国し、ウクライナ防衛のための募金活動や軍隊のボランティア活動を始めた。戦場の前線での衛生兵を決意したのは、間もなくだった。ヤナ・リヒリツカは、衛生兵になる前から激戦地のバクムートへ人道支援していた。戦闘中に、ウクライナ軍兵士も休息が必要になるが、ヤナ・リヒリツカはいつも戦場にて救護していた。ウクライナ軍に所属したオレクサンドル(Oleksandr)と2022年8月に出会って、戦争中に、2022年12月31日に結婚した。



 







Warning: Relatives gather next to the body of 29 year old Yana Rikhlitska, a Ukrainian army medic killed in the Bakhmut area, during the funeral in Vinnytsia, Ukraine, Tuesday, March 7, 2023. Just over a week ago, Yana Rikhlitska was filmed by The Associated Press as she helped treat wounded soldiers in a field hospital of Bakhmut area which has been pulverized as Russia presses a three-sided assault to seize it. (AP Photo/Thibault Camus)

3月7日に、ヤナ・リヒリツカは故郷であるウクライナ中央部のビニツィア市に集まり、最後の葬儀が挙行された。母親のオレナ・リヒリツカ(Olena Rikhlitska)の苦悶の叫びが朝の冷たい空気を突き抜けた。涙をこらえていた弔問客はもう涙を流した。「ああ、ヤナ、ああ、私の娘よ。 私の赤ちゃん、私の小さな子」と吠えた。彼女らは、バイタリティにあふれ、生涯を通じて人を助けたいという気持ちに駆られた。働いていたIT企業の人事部の同僚は、「彼女はみんなの母親のような存在で、みんなが集まる中心的な存在でした」と叫んだ。青と黄色のウクライナ国旗に包まれたリヒリツカの棺は、地元の墓地の軍事区画に運ばれて、再び開かれた。母親のオレナ・リヒリツカは灰になった顔で娘のヤナ・リヒリツカの頬を優しく撫で、最後にキスをした。棺が墓場まで運ばれ、銃声が鳴り響く中、泣きじゃくった。夫のミコラともう一人の親戚の支えだけが、彼女が地面に沈むのを防いだ。戦没者の墓の上にウクライナの国旗が何列もはためき、風になびいた。

 



















Warning: Olena Rikhlitska, second right, mother of 29 year old Yana Rikhlitska, a Ukrainian army medic killed in the Bakhmut area, cries during the funeral in Vinnytsia, Ukraine, Tuesday, March 7, 2023. Just over a week ago, Yana Rikhlitska was filmed by The Associated Press as she helped treat wounded soldiers in a field hospital of Bakhmut area which has been pulverized as Russia presses a three-sided assault to seize it. (AP Photo/Thibault Camus)