2023年3月3日金曜日

1941年秋に、フィンランド南東部からソ連の北西部にわたるカレリア攻防戦の林道で、ソ連軍のT26戦車がフィンランド軍により撃破された。その爆破された戦車の周囲に殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。

1941年秋に、フィンランド南東部からソ連の北西部にわたるカレリア攻防戦の林道で、ソ連軍のT26戦車がフィンランド軍により撃破された。その爆破された戦車の周囲に殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。フィンランド軍部隊が、その破壊した戦車の側から南下した。

 第ニ次世界大戦の1941年6月22日に、ドイツ軍はソ連への侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始した。その直後にソ連・フィンランドの継続戦争が勃発した。カレリア地峡攻防戦にて1941年6月30日に、フィンランド軍は南方への攻勢に転じて、カレリア地峡からソ連軍を一掃する侵攻した。ソ連のレニングラードとフィンランドの間にある狭い土地は重要な防衛拠点であり、冬戦争の以前はフィンランドの領土だった。地峡は冬戦争(1939年11月30日〜1940年3月13日)で最も激しい戦闘が行われた。フィンランドの3軍団が攻め込んだ。挟撃作戦が開始され、8月末までにヴィイプリを奪還し、ポルランミにソ連軍の3個師団を閉じ込めた。1941年12月までに、フィンランド軍は地峡の全域を取り戻し、新たな防衛線を敷いた。ドイツ軍はレニングラードを占領することを望んだが、フィンランド軍は拒否した。

 東カレリア攻防戦にて1941年7月に、フィンランド軍の司令官マンネルヘイムは、フィンランド軍が最も成功した攻防戦となるラドガ湖東部の豊かな農業地帯である東カレリアを奪還するための作戦を開始した。フィンランド軍の2つの軍団と、オイヴォネン集団のドイツ軍第163師団を巻き込んだ。捕獲されたソ連軍の戦車の多くは、第1ヤーカリ旅団とともにラグス群(後のフィンランド・パンサーリ師団)に編入された。第5師団は7月10日に、コルピゼルカで素早く突破口を開いた。攻撃はすぐにフィンランドのソルタヴァラ町を奪還し、ソ連の2個師団をラドガ湖に閉じ込めて侵攻した。1941年9月末には、失われたフィンランドの領土をすべて回復した。マンネルハイム司令官は、ソ連の東カレリアの残りを占領して攻勢をかけた。より短く、より防御しやすい前線を確保ができた。10月に、第4師団と第8師団がカレリア地峡から移送されて前線を強化した。先鋒は南下し、約3日以内にラグス集団はラドガ湖とオネガ湖の間のシヴァリ(スヴィール)川沿いの安全な防御位置に達した。

 1941年10月1日、オネガ湖畔のペトロスコイが陥落した。1941年12月6日の独立記念日に、冬戦争で失われた地域がフィンランドに復帰したを宣言した。冬戦争で避難した難民が故郷への再移住を開始した。フィンランド軍は約26,000人の兵士を失い、国土を回復させた。ソ連軍は、約60,000人の兵士が戦死傷した。フィンランド軍は東カレリアを占領し、1944年までそれを保持した。




2023年3月2日木曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いにて、日本軍兵士が彼の野戦砲の側で一緒に殺害された。日本軍兵士の死体の中央手前には手榴弾が保持されていた。

太平洋戦争のペリリュー島の戦い(1944年9月15日から11月27日)にて、日本軍兵士が彼の野戦砲の側で一緒に殺害された。日本軍兵士の死体の中央手前には手榴弾が保持されていた。野戦砲の日本軍兵士が、アメリカ軍が砲撃されたのは、あまりに前方に侵攻しすぎていた。野戦砲の日本軍兵士は、アメリカ軍を敵の支援部隊として、日本軍の砲撃が、アメリカ軍の上を通過して、後方で爆発した。不幸なことに、日本軍の野戦砲と識別して救ってくれたアメリカ軍兵士が、戦車から降りた時に日本軍の狙撃手に撃たれて殺害された。アメリカ軍兵士は小道に沿って潅木の端に一列に並び、伏せをして、出来るだけ身を隠そうとした。ペリリュー島では最初から最後まで、硬い珊瑚の岩を掘ることは困難であった。アメリカ軍兵士は自分の周りに石を積み上げたり、丸太や瓦礫の陰に隠れたりした。

 日本軍の反撃は、過去の太平洋戦争の経験から予想された荒々しく自爆的なバンザイ突撃ではなかった。ペリリュー島上陸日である1944年9月15日に、経験豊富なアメリカ軍兵士は、日本軍兵士はバンザイ攻撃をすると独断的に主張していた。日本軍の反撃はバンザイ攻撃よりは、戦車と歩兵の連携した攻撃であると判明した。飛行場を慎重に横切った日本軍の歩兵約1個中隊と戦車約13両は、左側のアメリカ軍に全滅された。

 ペリリュー島の上陸日に、第1海兵師団の死傷者数は、戦闘の厳しさと日本軍の防衛の獰猛さを反映した。上陸初日の夜は、小さな日本軍の潜入部隊が、アメリカ軍を何度も襲う過酷な戦闘であった。アメリカ軍の師団参謀は、上陸日の死傷者数を約500人と予想したが、熱中症患者を除いた死傷者数は約1,111人に上った。ペリリュー島の戦いでアメリカ軍の死傷者は約1,336人、戦傷者約5,450人、歩兵第81師団の死傷者は約1,393人、うち戦死者約208人、アンガウル島では歩兵第81師団の戦死者196名を含む1,676名が犠牲になった。日本軍は推定約10,695人が犠牲になり、さらに約301名が捕虜として捕らわれた。




2023年3月1日水曜日

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部のサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師を殺害して、ARP監視員と看護師たちが死体を死後処置した。

第二次世界大戦にて1943年1月20日に、イギリスの首都ロンドン南東部にあるサンドハースト・ロード学校をドイツ軍の戦闘爆撃機が攻撃して、38人の子供たちと6人の教師が殺害されて犠牲になった。学校現場には、空襲警報(Air Raid Precautions, ARP)監視員と看護師たちが集合して、死体の死後処置をした。写真には当然のことながら検閲のマークがついて、イギリスでは公表不可となった。

 サンドハースト・ロード校(Sandhurst Road School)の空襲事件は、1943年1月20日にドイツ軍のロンドン空襲にて、ロンドン南東部のキャットフォードのミナード・ロードにある学校が深刻な被害と犠牲を受けた。ドイツ軍の戦闘爆撃機が、午後12時30分に約500kgの爆弾1発を学校に投下して炸裂した。38人の子供(学校で32人が死亡して、さらに6人が搬送された病院で死亡した)と6人の職員が死亡した。さらに60人が負傷して、多くの被爆者が瓦礫の下に何時間も埋まった。

 学校空襲で、学校の食堂にいた24人の生徒と2人の教師が死亡した。さらに5人の児童が階段で、9人が2階の教室で死亡した。職員室も破壊されて、3人の教師が死亡した。その他1人の先生は理科室で死亡した。その他に約60人が負傷した。空襲で死亡した38人の児童と6人の教師のうち、31人の児童と1人の教師がヒザー・グリーン墓地の民間戦死者区画に集団埋葬された。

 ドイツ軍の空襲は、1月20日の正午にドイツ占領下のフランスの飛行場から離陸した。ドイツ軍の戦闘爆撃機はテロ襲撃として、あらゆる標的を攻撃した。イギリス空軍が、このテロ攻撃の約3日前にドイツ首都ベルリンを爆撃した。ヒトラーは報復の空襲を要求した。非効率の警報システムから、ドイツ軍の爆撃機が到着するまで空襲サイレンは鳴らなかった。爆撃機はまず学校を通り過ぎた後に、復路で爆撃を行った。別の戦闘爆撃機は運動場や地元の通りにも空爆を行った。

 空襲警報は、空襲の危険から市民を守るために、イギリスで策定された多くの組織と指針である。1920年代から1930年代に空襲対策への政府の機運が高まり、1937年には爆撃事件の報告を行うレイドウォーデンサービスが設立された。各地方自治体はARP監視員、使者、救急車の運転手、救助隊、警察や消防隊との連絡を組織する責任を担った。

電撃戦ではドイツ軍の爆撃が激しくなり、ARPは爆撃の報告や対処に中心的な役割を果たした。空襲のサイレンを管理し、人々を避難所に誘導した。1941年からは、ARPの正式名称を民間防衛局(Civil Defence Service, CD)と改め、より幅広い役割を担った。 




2023年2月28日火曜日

イラン・イラク戦争末期の1988年3月16日深夜に、イラク軍の化学兵器の毒ガス攻撃により、イラン国境から約15km離れたイラク国内の人口約8万人のハラブジャで犠牲者の死体が路上に散乱した。

イラン・イラク戦争末期の1988年3月16日深夜に、イラク軍の化学兵器の毒ガス攻撃により、イラン国境から約15km離れたイラク国内の人口約8万人のハラブジャ(Halabja)で犠牲者の死体が路上に散乱した。民間人を中心に約5,000人が毒ガス死した。地下室に避難した住民は、リンゴのような異臭を感じ、爆弾の音は静音であった。羊やヤギが道に落ちたり、鳥が木の枝から落ちたりと、不吉な予兆もあった。やがてクルド人は、化学兵器の影響を感じ始め、目を刺すような痛み、抑えきれない嘔吐、震え、混乱した。逃走する住民は、地上に立ちこめるガスの煙と白い粉に巻き込まれた。祖父母も子供も含め、多くの人が体調を崩し、路上で命を落とした。クルド人は、トルコ、シリア、イラン、イラクの4カ国が交わる広大な地域に住む独自の国家を持たない約4000万人の民族であり、国際的ジェノサイドに翻弄された。

 ハラブジャでは、マスタードガス、サリン、VX神経ガスの混合ガスが投下され、推定5,000人が殺害された。イラク軍は、ハラブジャを空襲して窓やドアを壊し、人々を地下に閉じ込める前線爆撃の後に、サリンとマスタードなどの致命的な化学兵器が投下された。ガスは空気より重く、窓もドアもないため、地下室や防空壕に無防備に閉じ込められていたのである。イラン・イラク戦争でサダムは、再び反抗を始めたクルド人に対する大量虐殺を行った。1980年代後半に、イラク軍は約5万人から約18万人のクルド人を、化学兵器を多用した恐ろしい手段で殺害した。レーガン政権は、サダムがクルドの市民に神経ガスを使用しても、サダムを支援し続け、イラクに対して軍事援助を送った。

 神経剤は極めて致死率が高く、青酸カリの強力な毒物よりもはるかに強い。ピンの頭に乗るほどの量でも2分以内に死に至る。通常、暴露後に約25分以内に死亡する。神経剤は、蒸気の形で吸い込んだり、液体の形で皮膚に触れると死に至ることがある。極端な場合には、痙攣と呼吸不全が起こり死に至る。基本的な神経剤はG系と呼ばれ、サリンやタブンなどがあり、VXのV系より強力である。V系は無臭で無色の液体である。G系は無臭でも、少し果実の匂いや茶色の外観を持った。




2023年2月27日月曜日

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。

日露戦争の旅順総攻撃にて、1904年秋頃に髙梁畑の側で、殺害されて仰向けになった日本軍兵士の死体が散在した。その死体の側に、ライフル銃が放置された。その写真は、アメリカ人のバートン・ホームズ(Holmes Burton)が日本軍の第3軍に従軍して撮影した。第三軍は、日露戦争にて1904(明治37)年5月29日に編成され、司令官は乃木希典である。日露戦争後の1906年(明治39年)1月26日に解散した。司令官は、第1回旅順総攻撃を8月19日から、第2回旅順総攻撃を9月19日から、第3回旅順総攻撃を11月26日から指令した。ホームズの日露戦争の写真が、日本の職人の筆に助けられてひときわ異彩を放った。日露戦争の撮影時期は1904(明治37)年秋から1905年の初めである。 

 写真がすべて人工着色された点は貴重である。ガラス乾板に筆で精細に彩色するもので、作業はすべて日本人の職人が行った。ホームズは技術に惚れこみ、のちに世界各地で撮った写真を日本に送り、着色させた。当時も従軍写真家・画家、従軍記者は内外を問わず決して少くはなかった。日本陸軍陸地測量部による膨大な記録も残っている。写真に色をつける器用な手先は、日本人に求められた。明治初期のすぐれた写真技術者である下岡蓮杖は、外国人の土産用に絵蒔絵の装釘をほどこした日本風俗の四ツ切大着色写真帳を売り出して、遠く欧米の骨董屋に並んでいた。その弟子の鵜飼玉川はコロジオン法のガラスの膜面に着色している。上野彦馬は土産用に水彩着色のミニュアチュール風な風物写真を輸出している。

 ホームズが初めて日本を訪れたのは1892年(明治25年)の秋22歳のときであった。以後、1932年まで10回にわたり日本の土を踏む。当時として驚くほど広範囲に世界各地を撮影した。写真が色彩を求めたのは自然の成行きだった。スライドで見せたらどんなに人が驚くかとホームズが考えた。軍装に詳しい方がみると、その着色上いくつかのミスがある。フランス式、イギリス式、ドイツ式と幾多の曲折を経てきた軍装に関して、職人も通暁してなかったろう。多年の保存で生じたキズやかびの跡さえも新鮮にみえる。日本軍の写真とロシア軍の写真が、どうして一緒に撮れたのかという疑問も湧く。他の人の写真が入っているのは、ホームズの写真が報道を旨としないためである。世界の各地を歩きまわり、成果をトラベローグという名で全米で講演した。約百万フィートの映画も撮影している。写真家でなく、旅行家とした表現方法が成り立ったのも、やはり良き時代であろう。日本でも、明治来、旅行案内の幻灯が町々を回って、写真はマジック仕立ての旅へのいざないとなった。

 



2023年2月26日日曜日

プーチン・クレムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP)は、2022年3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡し、約16153人が戦傷したとネット発表した。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後の2022年3月5日に、ウクライナのシトニャキ(Sytnyaky)付近にて、ロシア軍とウクライナ軍の間で直前に激しい戦闘があった。その道路脇に、殺害されたロシア軍兵士の死体散乱した。



   







Warning: A corpse of a dead Russian soldier sits on the side of the road where there was recent heavy fighting between Russian and Ukrainian forces, near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. (MARCUS YAM / LOS ANGELES TIMES)

 プーチン・レムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP:Komsomolskaya Pravda)は、3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡して、約16153人が戦傷したとネット発表した。3月20日にKP紙のウェブサイトに掲載されたKPの記事のスクリーンショットである。ロシア国防省の報告を引用して、ウクライナ戦争開始以来に、約9861人のロシア軍兵士が死亡したと報じた。約4時間後、この9861人の数字が記事から削除された。その後、同紙の編集者は、この情報の公開はハッカーの攻撃によ数値であると発表した。



















 3月20日のネット記事で、KPがロシア国防省の数字を参照して、2月24日にロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に、約9861人のロシア軍兵が死亡したと記載された。ロシア軍当局が、公式に3月2日に認証したのは、約498人の戦死と約1597人の戦傷したロシア軍兵士だけであった。3月22日にロシア国防省で殺害されたロシア軍兵士に関する情報は皆無であった。KP紙のウラジミール・スンゴルキン編集長はイギリスBBCに対し、約9861人の戦死数は、ハッキング攻撃の結果であると示唆した。

 ロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に約1ケ月間の犠牲者は、ほぼ1万人のロシア軍兵士の殺害を示唆した。1980年代のアフガニスタン戦争では、ソ連軍は約9年間で約1万5千人のソ連軍兵士が殺害された。アメリカ軍が主導した9年間のイラク戦争で殺害された連合軍兵士の死者数の約4825人(アメリカ軍約4,507人、イギリス軍約179人、その他約139人)の2倍以上に達した。アメリカとウクライナ当局は、ロシア軍の死者数を約7000人以上から1万人近くと推定した。モスクワ当局は、3月上旬に新しいメディア法を導入して、ロシア軍に関する誤報には厳しい罰則を課した。3月5日に、ウクライナのシトニャキー近郊の荒原には、殺害されたロシア軍兵士の死体が横たわった。



















Warning: A corpse of a Russian soldier lies in a field near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. Los Angeles Times / Polaris

2023年2月25日土曜日

広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、一戦災患者治療所と掲示された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に落下して炸裂した。その直後から、広島逓信病院にも、原爆症の治療を求めて被爆者が外来棟に殺到した。その外来の入口には、「一戦災患者治療所」と掲示された。火勢が弱まった8月6日夕方から、多数の被爆者が広島逓信病院に押し寄せた。外来病棟には、外来待合室、手術準備室、外科診察室、化膿性手術室などがあった。1935年に広島逓信局の付属病院に外来棟が設置された。中国郵政局は、1995に広島逓信病院の外来棟の一部を、被爆資料室として改修して保存された。2018年に広島市に寄贈されて限定公開された。

 広島逓信病院は、爆心地から北北東に約1.3kmの東白島町10番10号に位置した。鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、原子爆弾の爆風で、すべての窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫からの炎上などにより、2階の内部はほとんど全焼した。広島逓信病院の職員約48人中に、約5人が死亡して、約25人が被傷した。病院関係者は確保された医薬品や衛生材料、食糧で、緊急的に救護した。広島逓信病院は、広島市内に残った数少ない病院として、医療と調査で重要な活動をした。

 広島原子爆弾の爆心地から約2km以内で残存したのは約1.6kmの広島赤十字病院と広島逓信病院のみとなった。共に市街中心部における医療拠点となった。約150人の重症被爆者らで、広島逓信病院は足の踏み場もなく、約50人が外庭にも散在した。被爆前の入院患者は、空襲に備えて、原子爆弾に被爆する8月6日の約1カ月前から疎開と待避して、元入院患者の人的被害はやや軽微であった。




2023年2月24日金曜日

日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された女子の死体が、南京市街に散乱した。日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。

日中戦争において、中華民国の首都南京での南京の戦い直後に 日本軍による民間中国人の大量殺戮が、1937年12月13日に始まり、6週間にわたる1938年2月上旬まで大量虐殺が勃発した。日本軍が、第ニ次世界大戦でも集団強姦、略奪、放火など他の第二次世界大戦でも最悪の戦争犯罪も行った。日中戦争にて、1937年12月4日から12月13日の南京戦にて、日本軍は南京を占領した。日本軍は、戦死が約15,58人と戦傷が約4,619人の犠牲が出た。中国軍側は約50,000人が、戦死と捕虜の犠牲となった。日本軍の南京大虐殺により、虐殺されて殺害された子女の死体が、南京市街に散乱した。

 数多くの南京の中国人民衆は、女性の尊厳を守るために日本軍と命をかけて闘った。三茅宮付近の若い婦女は、一群の日本軍兵士に家から引っぱり出され、強姦された。彼女の夫は身を挺して日本軍兵士と格闘した。彼は日本軍に捕えられ、身体中を刀で刺され、気絶し死亡 するまで罵り続けた。一人の青年が、日本軍を大声で罵った。彼は日本兵に押し倒され、電柱の上に縛られて、頭を砕かれ殺された(前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。柏果樹の婦女の伝如芬は、隣家の出産直後の婦人を身を挺して日本軍兵士と格闘した。最後に日本軍の暴行をのがれて、隣家の家族7人と入水自殺した(「新華日報」1951年3月3日)。木屐巷の回教徒の張長生は、日本軍が家の婦女の強姦に激怒して、日本軍兵士の一人を大きな棒で打ち倒した。2人目の日本軍兵士を待機した時に、日本軍兵士の銃撃により殺害された。(「幸いにも生き残った者の訴え」、南京市政治協商会議文史資料 研究委員会編『史料選集』侵華日軍南京大虐殺史料専稿集、所収)。

 日本軍に関する中国研究者の約11論文から子女の虐待と虐殺が示唆された。一部の婦女は強姦される前に自殺を選んだ。范式記者の報道では「市内の婦女は皆、日本軍に蹂躙されることは耐えがたいので自殺しており、毎日平均数百人にものぼる」と伝えた (前掲『侵華日軍南京大虐殺史稿』)。下浮橋の清真寺の老僧の楊桂芳の2人の娘は、日本軍の強姦を拒否して、沙洲提に踏び込んで自殺した。逸仙橋付近の数人の婦女は、日本軍に捕えられた後、強制的に衣服を脱がされ、死を賭して闘い、日本軍兵士を痛罵しつづけた。彼女達の中には耳をそぎ落され、舌を切られた者もいた(「新華日報」1951年3月3日)。ある婦女は日本軍の魔の手を何度も機智を働かせて逃げた。彼女はきちんと服を整えて日本軍が来るのを待ちつつ、ゆっくりと大きな字で「日本兵は獣だ」と揮毫した。最後には日本軍に銃撃されて殺害された。(『被占領区惨状記』第五冊、 中国第二歴史文書館蔵)。

 少なからぬ婦女は、日本軍兵士と体力の差も顧みず、勇敢に闘い、日本兵を殺傷した。ある小学校の女教師は、かつて五度も日本兵にからまれたので、その後手を尽して銃を手に入れベッドの下に隠しておいた。日本兵がまた現れた際、彼女は五人の日本軍兵士を撃ち殺し、最後には従容として義に殉じたのであった(「新華日報」1951年2月26日)。下関保善街に住む婦女、馬さんは、日本軍が強姦しに来た時、酒で 日本兵を酔わせ、しかる後に夫と隣人の助けを得て西瓜を切る時に使用する大きな包丁でこの日本軍兵士を殺害し、その死体をこっそりと埋めた(「新華日報」1951年3月2日)。下関鮮魚巷79号に住む若い女性、朱二クーニャンは、日本兵が暴 力を以て彼女を室外にひっぱり出そうとした時、日本兵が腰に下げていた刀を猛然と奪い、日本軍兵士に切りかかった。他の日本軍兵士に続けざまに三刀切りつけられ、流血にまみれてその場で死亡した(「新華日報」1951年3月1日)。

 奇しき女性"と呼ばれている李秀英の日本軍の奸淫暴行に反抗する闘争の事蹟には深く感じる処がある。1人の日本軍兵士が彼女を強姦しようとした時、彼女は日本兵の腰に下げていた刀の柄を握りしめ、全力で日本軍兵士と奪いあい、日本兵に咬みついた。日本兵はアァと叫び声をあげたので2人の日本軍兵士が加勢に来た。そこで彼女は1人で3人を相手に闘うこととなったが、身体、顔など合わ せて37ヵ所も切りつけられ、気を失ってしまった。その後、父親の看病のもとに7ヵ月間入院加 療し、やっと健康をとり戻したのであった(前掲『侵華日軍南京大虐殺史料』)。




2023年2月23日木曜日

第二次世界大戦末期の西部戦線にて、ドイツ国内でオランダ国境付近にて、連合国軍の空挺部隊によるライン川越える攻撃の際に負傷した落下傘兵を、1945年3月24日にアメリカ軍第17空挺師団の衛生兵が手当した。

第二次世界大戦末期の西部戦線にて、ドイツ国内でオランダ国境付近にて、連合国軍の空挺部隊によるライン川越える攻撃の際に負傷した落下傘兵を、1945年3月24日にアメリカ軍第17空挺師団の衛生兵が手当した。第17空挺師団の落下傘兵と衛生兵は、ライン川渡河を確保する連合軍空挺部隊のヴァーシティー作戦中の1945年3月24日に、戦死傷した兵士をヴェゼル近くの救急救護所に運搬した。背後には、頭上のワイヤーやパラシュートなどが散乱した。戦争写真家のロバート・キャパが、アメリカ軍空挺部隊と一緒に飛び降りて撮影した。ドイツの機関銃が、宙ぶらりんの落下傘兵士たちをねらって銃撃した。

 ヴァーシティー作戦(Varsity Operation、1945年3月24日)は、連合国軍が発動した空挺部隊の作戦である。約16,000人以上の空挺部隊と数千機の戦闘機が参戦した。ライン川北部を横断して、北ドイツに侵攻した。ハンミンケルン村とヴェーゼルの町付近のライン川東岸に2個空挺師団が上陸して、西ドイツのライン川を渡る足場を確保した。

 アメリカ軍第18空挺団の2個師団を降下させ、重要地域を占領して、連合軍地上部隊の侵攻を支援した。イギリス第6空挺師団は、シュナッペンベルク村とハンミンケルン村を占領し、ディアスフォルターの森の一部をドイツ軍から排除した。アメリカ軍第17空挺師団はディアスフォルト村を占領し、残りのドイツ軍を掃討した。占領した地域を保持し、ドイツ北部への全般的な侵攻に参戦した。

 空挺部隊はいくつかの失敗を犯し、特にアメリカ第17空挺師団所属の第513落下傘歩兵連隊の落下傘兵が、パイロットの失敗で降下地点から外れ、代わりにイギリス軍の降下地点に着地した。両師団はライン川の橋を占領し、ドイツがイギリス地上軍が、ドイツ軍の進撃を遅らせた。両師団は約2,000人以上の死傷者を出したが、約3,500人のドイツ軍兵士を捕らえた。第二次世界大戦の連合軍の最後の大規模な空挺作戦であった。




2023年2月22日水曜日

レバノン右翼のファランジ民兵は、1982年9月16日から18日にシャティーラとサブラ難民収容所のパレスチナ難民とレバノン市民を、イスラエル軍と連携して攻撃して、9月16日から2日間で約2,000〜約3,500人のパレスチナ難民とレバノン市民を殺害した。

イスラエル軍が支援するファランジ民兵は、1982年9月16日から18日にかけて、シャティーラとサブラに収容されたパレスチナ難民とレバノン市民を、イスラエル軍と連携してファランジ民兵が攻撃した。9月16日から2日間で約2,000〜約3,500人のパレスチナ難民とレバノン市民を殺害した。徹底的に破壊尽くされ瓦礫と化した。虐殺は9月16日木午後6時から9月18日土午後1時まで、約43時間も継続した。9月19日に、シャティーラ難民キャンプの虐殺を撮影した。周辺は虐殺により変形した死体が瓦礫に埋まって散乱した。死体は腐敗が著しくウジや死臭で充満した。

 中東戦争のレバノン内戦で勃発した最も悲惨なサブラとシャティーラ(Sabra and Shatila)虐殺事件の一つである。レバノンの首都ベイルートの南西に位置するパレスチナ難民キャンプは、南北に隣接した南シャティーラ地区および北サブラ地区は、レバノンの首都ベイルートの南西に位置した。パレスチナ難民は、1948年のナクバ(アラビア語で大惨事)の犠牲者であり、イスラエルの建国に伴って、シオニスト民兵によるパレスチナの激しい民族浄化から避難した難民であった。1948年のナクバで、北部地域の約10万人以上のパレスチナ人が追放され、祖国に帰る道が閉ざされてレバノンに避難した。9月15日朝に、イスラエルはベイルート西部に侵攻し、難民キャンプを閉鎖して脱走不可にした。レバノンの次期大統領であったバチール・ジェマイエルの暗殺をPLOの実行犯とするファランジュ民兵に、イスラエル軍は、サブラとシャティラの難民収容所を包囲して、ファランジュ民兵に侵入と虐殺の執行を認可した。

 大量殺戮の証言から、虐殺、身体切断、レイプ、集団墓地などの悲惨な虐待と虐殺が記された。余波の映像が、世界中のテレビで放映され、世界的な憤りを引き起こした。国連総会では、1982年12月16日にサブラとシャティーラの虐殺をジェノサイド行為と宣言する決議した。レバノンやイスラエルの戦闘員や関係者は、虐殺の戦争犯罪に対して一人も処罰されなかった。イスラエルのシャロン国防相は、1983年2月14日に辞任したが、2001年に首相に選出された1993年にイスラエルとオスロ協定が結ばれ、パレスチナ自治政府(PA)が発足する前に、PLOは本部をチュニジアに移した。




2023年2月21日火曜日

第一次世界大戦にて、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ捕虜収容所で、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。毎月に数個の集団墓地の墓穴に約300から500体の死体が埋葬された。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ(Bunzlau)捕虜収容所では、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。その死体を埋めるために、毎月に2から3個の集団墓地を掘る必要があった。それぞれの墓穴には約300から500体の死体が埋葬された。見捨てられた無残な死体を集団墓地に投げ込む度に、血や汚物の跡が、集団墓地の縁に残った。死体は穴に投げ込まれ、土を被せられた。















 

  




Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p118, 龍渓書舎, 1988年)

ロシア軍兵士の死体を共同墓地に集団埋葬するのに、ドイツ軍はロシア人捕虜に強制労働させて、集団墓地にロシア人の死体を詰める作業を強制した。共同墓地は、毎日ロシア人捕虜は共同墓地を設置した。斜めに立位して待機しているのが、ロシア人の死体を集団埋葬したロシア人捕虜であった。共同墓地に積み上げられた死体から衣服なども略奪されていた。ドイツ軍兵士は、敵国であるロシア軍兵士の死体は、憎しみながら虫けらのように扱った。





 






Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p109, 龍渓書舎, 1988年)

 第一次世界大戦にて、ルーマニア王国は1916年8月27日に、ロシア軍のブルシロフス攻勢を受けて、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。ルーマニア軍は、1916年12月6日にドイツ軍により首都ブカレストのワラキア地域を喪失して、国境付近まで退却した。1917年12月に、ルーマニアは10月革命によりロシア軍の撤退により休戦に追い込まれた。1916年末にはルーマニア古王国領のうち、西モルダビアだけがルーマニア軍とロシア軍の支配下に残存した。ハンガリー・ルーマニア戦争が、1918年11月13日から1919年8月3日まで勃発して、ルーマニアはハンガリーを一時的に占領して第一次世界大戦後に返還させられた。

2023年2月20日月曜日

太平洋戦争で沖縄戦が猛烈な激戦となった1945年5月中旬頃に、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害され仰向けで戦死して、半挙上位の両腕は死後硬直して、死体に蝿が集まった。

太平洋戦争で沖縄戦が猛烈な激戦となった1945年5月中旬頃に、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて仰向けで戦死していた。沖縄の首里の周辺にて、多数の日本軍兵士の死体が荒野の戦場に散乱して取り残された。仰向けの日本軍兵士の死体の両腕は、死後硬直していた。半挙上した左上腕で、顔面を伏せていた。死体の全身には、蝿が集って腐敗して死臭が漂った。アメリカ軍の爆撃によって爆死したと推定された。沖縄戦の日本軍第23軍は、5月中旬には兵力、武器も枯渇して、原始的な洞窟や墓などに籠もって持久戦となった。日本軍の大本営は、沖縄戦は本土決戦の防衛として捨て石の玉砕戦となった。

 沖縄の地形は、すべてが防御に有利だった。稜線と急斜面の地形は、戦場を一連の小規模で悪質な銃撃戦に変えた。植物が密集していないため、日本軍はアメリカ軍を完全に監視できた。稜線の至る所にある洞窟やコンクリート製の沖縄古墳から、日本軍は連動しながら強烈で激しい銃撃をした。日本軍の大砲は、アメリカ軍から見え難い丘や尾根の側面に潜伏した多数の大砲によって、アメリカ軍に瞬時に照準を合わせて攻撃した。

 5月1日から戦線に投入された最初夜に、アメリカ軍第5連隊は日本軍の潜入部隊に襲撃された。その度に激しい肉弾戦が繰り広げた。早朝になって、アメリカ軍は日本軍の攻撃を撃退した。ある日本軍兵士の胸にはアメリカ軍の戦闘ナイフや銃剣が刺さり、ある日本軍兵士はアメリカ軍の銃剣で内臓が摘出された。ある日本軍兵士は、アメリカ軍の手榴弾の破片を浴びた。ライフルや機関銃の銃弾で穴が開いた身体状態で、戦場には日本人の死体が散乱した。夜間の戦闘に生き残って、戦場にいるアメリカン軍には物資が補給された。

 5月5日夜に、日本軍がアメリカ軍の後方に上陸して反撃に出て、アメリカ軍は攻勢から守勢に回った。アメリカ軍は夜の浜辺で激しい砲火を浴びて、日本軍を迎え撃った。日本軍の攻撃は、徹夜の戦闘で、約800人以上の日本人の死傷者を出す犠牲となった。5月6日朝、アメリカ軍は、残存して潜伏していた残りの約65人の日本軍兵士を追跡して、殺害した。日本軍の水陸両用の攻撃を撃退した後に、アメリカ軍は率先して反攻を開始して、約6,000人以上の日本軍兵士と約50門以上の大砲を撃破した。5月11日から30日にかけての戦闘では、アメリカ軍兵士は日本軍の敵地に約90m侵攻するごとに約200人が戦死傷する犠牲を伴った。




2023年2月19日日曜日

2023年2月2日に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の救急車付近で炸裂して、33歳男性のアメリカ人のピート・リードとウクライナ人女性は直撃されて殺害された。

ウクライナ東部の激戦地のバフムートで、アメリカ人ボランティアが、無料の診察と薬の配布の移動診療を行った医療援助関係者がロシア軍の標的型攻撃により殺害された。2023年2月2日昼に、ウクライナ東部ドネツク州のバフムートで、ロシア軍のミサイルが、医療援助関係者の2人が救護しようとした地点わずか数mに落ちて炸裂した。ロシア軍から飛んできたミサイルが、33歳男性のピート・リード(Pete Reed)のチームの白い仮設救急車を直撃した。エストニア出身のエルコ・ライディネンは、車の窓から携帯電話で撮影していた。その映像から2つの静止画は、救急車にミサイルが命中する直前と直後の瞬間を示した。最初の画像は、焼け焦げた車両を通過するミサイルを、2番目の画像は、爆発の衝撃を表した。ロシア・ウクライナ戦争で、医療関係者や施設に対する攻撃は数多くあった。ロシア軍は意図的に民間人を標的にしたことは否定した。

 爆発の煙の中で、意識を取り戻したサイモン・ジョンセンは、耳元で大きな口笛が鳴り、負傷して生存した。砲撃で頭部を負傷して、右耳の聴力を失った。彼はまだ自分の身体の部分を検証した。彼の隣では、同僚の衛生兵であるピート・リード(Pete Reed)が死んでいた。元アメリカ軍の海兵隊員のリードは、約4年前から医療支援団体グローバル・アウトリーチ・ドクターズ(Global Outreach Doctors)を設立して、1月からウクライナのバフムートの戦場に来た。負傷して治療を受けに来たウクライナ人女性の車は大破して、彼女を救助したリードも一緒に殺害された。ノルウェー出身の衛生兵のジョンセンと他のボランティアグループは、ほんの少し前に医療援助の現場に到着して、負傷するも生存した。ロシア軍が衛生兵や最前線の救援者を標的にしたダブルタップ(double tap)の典型例であった。

 ロシア軍によるウクライナへの本格的な侵攻が始まった2022年2月24日以来、最も激しい戦闘がバフムートの戦場で勃発した。ロシア軍とウクライナ軍の双方の兵士は、戦闘で毎日失われる数百人の命を理由に、肉挽き機と呼称した。ウクライナでは2月2日に、東部ドネツク州でウクライナ軍の拠点であるバフムトに加え、州都の南西のウフレダム周辺もロシア軍の侵攻により、激しい戦闘が継続した。



















Warning: Two stills taken from mobile phone footage show the moments before and after the ambulance was hit with a missile. The first image shows the missile streaking past a burnt-out vehicle; the second shows its impact.(Eriko Laidinen / CNN)

2023年2月18日土曜日

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難して、爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難した。

被爆者らが長崎駅前を爆心地の浦上方面から路面電車の線路に沿って、生存者が県道を歩行して避難した。爆心地より約2.5Kmの長崎市八千代町付近を避難していた。長崎原子爆弾で、唯一の被爆当日である1945年8月9日から最も直後に、8月10日早朝に撮影された長崎市内の写真と推定された。背景には、八千代町の西部ガス長崎支店のガスタンクがかすんで見えた。線路は、長崎県道飢えの長崎市内の路面電車の軌道上を被災者が避難した。

 1945年8月9日午前11時2分に、アメリカ軍は長崎市内に、広島に次いで第2番目の原子爆弾を投下して炸裂した。長崎市内は一瞬で廃虚と化し、約7万4千人もの多くの被爆者を殺害した。広島市内への原子爆弾の投下から、わずか3日後に、長崎市松山町の上空約500m付近で、炸裂したプルトニウム239型原子爆弾は、「ファットマン」と呼称されて、広島の原子爆弾の約1.3倍もの猛烈な破壊力であった。

 博多軍管区から8月9日に派遣された山端庸介らは、その後に8月10日午前3時に、長崎本線道ノ駅に到着した。それから上記を含めて滞在14時間で約100枚の写真を撮影した。山端庸介の写真の一部が『毎日新聞』(1945年8月21日)『読売報知新聞』(8月23日)『東京新聞』(8月25日)に掲載された。9月以降は連合軍総司令部 (GHQ) によるプレスコードにより、原子爆弾に関するすべての報道が規制された。





2023年2月17日金曜日

ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。アフガニスタンのムシャヒディンは何も言わず、ソ連侵攻後も生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。

ソ連のアフガニスタン侵攻は、1979年12月24日にアフガニスタンにソ連の軍隊が侵攻した。アフガン戦争(1978-92)で反共産主義のイスラムゲリラと対立したアフガニスタン共産党政府を支援するためにソ連軍は介入した。その後1989年2月中旬までアフガニスタンに駐留した。

 1978年4月に、モハンマド・ダウド・ハーン大統領率いるアフガニスタン中道政権は、ヌール・モハンマド・タラキ率いる左翼軍人に打倒された。その後、マルクス・レーニン主義の人民(ハルク)党と旗国(パーチャム)党が権力を握った。以前は人民民主党の組織から生まれ、クーデターの直前に不安な連合体として再統合された。新政府はソ連と緊密な関係を築き、アフガニスタン国内の反対勢力を冷酷に粛清して、大規模な土地・社会改革を開始した。敬虔なイスラム教徒と反共産主義者が多いアフガニスタン国民からは激しい反発を受けた。部族と都市の両方のグループから、政府に対する反乱が起こった。反対グループはすべて、ムジャヒディーン(アラビア語のmujāhidūn、「聖戦に従事する者」)と総称され、イスラム原理主義を志向した。

 1982年にアフガニスタンのボコハム(Bokoham)付近では、ムシャヒディンの負傷者を収容するために戦線近くの家である最前線の回復センターは、負傷したアフガニスタンのムジャヒディンの兵士でほとんど埋まった。ジャマカール青年は、腕と脚に重症の怪我をして、窓際に仰向けに寝ていた。

 ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。何も言わず、世の中の愚かさを生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。旧式のかばんから錠剤を配った。入院者は煮沸した水だけを飲み、ゆで卵とナンのみを食べて、肉、米、スープは絶食した。ムシャヒディンは、数ヶ月間絶えずソ連軍と戦った。ムシャヒディンは生きているだけで精一杯だった。カラシニコフを膝に挟んで何時間も座り続けた。頬骨が高く、黒髪のたてがみを持ち、目はうつろで、獰猛な印象を与えた。突然、他の誰かに牙を剥き、嘲笑うのである。最初は無視したり、宥めたり、プライドが邪魔して言い争いになり、最後は怒鳴り合いになった。