2023年1月20日金曜日

イタリアの国営テレビ局RI24は2005年11月8日に、イラク戦争にてアメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたファルージャのイラク軍兵士や民間人の遺体など、凄惨な映像を放映した。

イタリアの国営テレビ局RI24(Radiotelevisione Italiana)は2005年11月8日に、アメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたイラク軍兵士や民間人の遺体、電気ドリルで穴を開けられた男性の遺体、負傷した個人への砲撃など、凄惨な映像を放映した。RAIのビデオでは、空から発光物質が降ってきた。内側から溶けた死体が映し出した。元アメリカ軍兵士が、イランのファルージャの住民に白リン(White Phosphorous)弾を使用したと証言した。ヘリコプターからの白リン散布作戦の映像が映し出された。イタリア人ジャーナリストのスグレナさんらは、アメリカ軍から残虐行為の報道を阻止された。

 白リン弾は、自然燃焼して、燃焼時に酸素を奪う国際禁止兵器である。大量の水がなければ、白リン弾の消火は実質不可能である。白リン弾は開かれた場所でも、隠れた兵器にも効果があり、兵器を破壊する。白リン弾が人体の中まで焼き尽くした。リン燃焼で形成された窒息性ガスは、火による死を免れても毒ガス死した。兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は、1899年にオランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後に、禁止リストは常に拡大した。

 2005年3月3日に、イラク保健省は、アメリカ軍が2004年11月にファルージャ市をほぼ壊滅させた攻撃で、マスタードガス、神経ガス、燃焼剤などの化学兵器を使用したと公表した。アメリカ軍の攻撃の間に、逃げ惑う住民が、溶けた死体を見たと語った。アメリカ軍が死体を溶かすポリスチレンと航空機燃料の毒性化合物であるナパーム弾を示唆した。その他、マスタードガスや神経ガスが使用された証拠も発見した。毒ガスによって死んだ野良犬、猫、野鳥を何百匹も発見した。記事を掲載したアメリカメディアは、1つのウェブサイト上だけであった。アメリカ軍の重大な国際条約違反の報道を無視した。国防総省は、2004年12月の時点ですでに守勢に回った。イスラムのウェブサイトでの告発や、ファルージャに対する白リン爆弾、プロパン爆弾、ナパームの使用を宣伝するGIブログや事後報告によって劣勢となった。白リンは照明用と使用したと主張した。

 イラク戦で、アメリカ軍が国際的に使用が禁止されている白リン弾や濃縮ウランなどを使用した。致命的な破壊兵器により、約150万人以上のイラク人が暗殺され、100万人以上が行方不明になった。戦争中の真っ只中の避難民は約700万人を超えた。イラク侵攻後の悲惨な人道状況は世界最悪です。劣化ウラン感染やその他の化学物質汚染により、先天性欠損症やがんが増加して、毎年5歳未満の子供約4万人が死亡した。




2023年1月19日木曜日

1979年10月31日にフィリピン南部ミンダナオ島にて、旧市庁舎に配属されたフィリピン軍第6IB兵士は、ナタンコップ・ロマプナットと彼の家族全員の7人を銃剣で虐殺した。

1979年10月31日午前0時に、フィリピン南部ミンダナオ島にて、マラウィ(Marawi)にある家は、旧市庁舎に配属されていたフィリピン軍第6IBの兵士に囲まれた。彼らは居住者に降りてくるように命じた。ナタンコップ・ロマプナット(Natangcop Romapunut)と彼の家族を除いて、全員が降りてきた。兵士達は家に上がり、7人の家族全員を銃剣で虐殺した。殺されたのはロマプヌットさん(60歳)、妻のカリモダンさん(58歳)、未亡人の娘ラヤマンさん(45歳)、娘のベドリ・サリックさん(21歳)、その夫サレム・サリックさん(24歳)と若い夫婦の子供2人(4歳と生後7カ月)であった。11月には、ラナオ地方で反政府勢力の活動が活発化すると、軍は報復に出た。反乱軍に入り込めないので、イスラム社会全体を対象にした弾圧作戦であった。

 ラナオ(Lanao)のマラナオ(Maranaos)族は、ミンダナオ島のイスラム教徒が受けた最も残虐なマルコス政権下の軍事行動の犠牲者であった。虐待に関する資料を入手することは困難である。部外者は軍とイスラム教徒の両方から疑いの目で見られている。マラナオ族はラナオの街の人口のほとんどを占めている。彼らは明るくカラフルなマロンを着て通りを歩いている。市場はいつも混雑している。マラナオの少年たちはメロディーを歌いながらアイスドロップを売っている。しかし、重装備の兵士が通りを歩いたり、戦車に乗ったりして、その光景はしばし崩れ去った。1978年10月4日に、またしてもフィリピン軍の奇襲作戦が行われた。マラナオ人約58人が拘束され、中には反乱軍と認める書類にサインさせるために拷問を受けた者もいた。ボールペンで両目をつぶされた人もいた。

 1978年末、マラナオ族からフィリピン軍による弾圧の報告書が届き、助けを求めるようになった。マラナオ族の報告書の最後には、助けを求める言葉があった。私たちマラナオ族の一人一人は、自分が次の犠牲者になる恐怖を常に抱きながら生きている。誰もが心の中に重い不安を抱えている。誰も家から出られなくなった。事件は、世間に知られないようにされている。私たちが軍の手によって苦しめられていることを知ることはできない。

 マラナオ族は、フィリピン南部ミンダナオ島中西部の南ラナオ州のラナオ湖周辺を居住地とする集団で、その大多数はイスラム教徒である。マラナオ語を母語として、人口は約86万9000人で、フィリピン全人口の約1.27%を占める。暴動やテロに1972年9月21日に,マルコス大統領は戒厳令を施行した。ミンダナオ地方西部では、イスラム教徒を含む先住民族(モロ族)による政府への抵抗運動を背景として、1960年代後半に分離主義運動が活発化した。1968年頃に設立したモロ民族解放戦線(MNLF)は、1972年以降に、独立運動からフィリピン軍に対する武力攻撃を繰り返した。さらに1977年から、イスラム国家の設立を掲げるハシムらが離反してモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2023年1月17日火曜日

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の副党首のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺した。

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の創設者で指導者であった副党首のホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。その犯罪首謀者は、社会主義指導者のインダレシオ・プリエトの護衛の1人であったルイス・クエンカ・エステバスであった。殺人犯は、共和国突撃警備隊のラ・モトリザダ旅団の一員であった。カルボ・ソテーロは、旅団所属のトラックで移動した分隊に捕獲されて、頭部で射殺して暗殺された。カルボ・ソテーロの暗殺は、前日7月12日の突撃警備隊のホセ・カスティーヨの暗殺に対する復讐であった。

 警察車両の乗員は東方墓地に行き、死体安置所のドア付近に、カルボ・ソテーロの死体を投げ込んだ。家族は警察に逮捕を報告して、7月14日朝7時頃から捜索を開始した。カルボ・ソテーロの死体は午前中に発見された。7月14日には、カルボ・ソテーロの葬儀が挙行された。その後の出来事は、暴力のスパイラルを助長した。突撃隊と呼ばれる都市警察の部隊と社会党(PSOE/UGT)の活動家の数名によるカルボ・ソテーロの殺害は、スペイン内戦の勃発に大きく影響した。

 カルボ・ソテーロの暗殺を起点に、クーデターが7月17日午後に、モロッコのメリリャ、セウタ、テトゥアンで守備隊が蜂起した。フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍は、カナリア諸島に左遷される予定だった。アフリカ軍の第19戦線のドラゴン・ラビードに乗り込んだ。フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置して、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった。7月18日から19日に、他の部隊が反乱を起こした。戦争状態を宣言して、権力の行使を主張し、左翼当局を逮捕あるいは暗殺した。7月20日にスペインは、2つに分割されて、29州が反乱を起こし、21州が共和党側に属した。フランコは、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出された。翌10月1日には総統に就任した。革命政府の政綱の中で、全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した。




2023年1月17日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
閲覧回数 600,000    
投稿数 2,345

2023年1月16日月曜日

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。しかし、見つかった遺骨は、約1万1千人余りの犠牲者のごく一部に過ぎない。その大半は、プレート川河口や海上の飛行機やヘリコプターから投下された遺骨であった。

 汚い戦争(Dirty War)が、アルゼンチンの軍事政権または独裁政権は、1976年から1983年にかけて、コンドル作戦(Operation Condor)の一環としてアルゼンチンで勃発した。国家テロのために、軍と治安部隊、アルゼンチン反共連合(AAA)による右翼、死の部隊は、あらゆる政治亡命者や社会主義、左翼 ペロニスト、モントネロス運動と容疑者を追い詰めて虐殺と虐待した戦争である。アルゼンチン軍の独裁政権が呼称した用語である。

 コンドル作戦は、アメリカ合衆国が支援する政治弾圧・国家テロ作戦であった。アメリカが支援した政治弾圧と国家テロの作戦で、情報操作や反抗者の暗殺も含んだ。約9,000人から約30,000人が殺害または失踪したと推定された。多くは国家テロにより、正式に記録は不可能だった。コンドル作戦に参加した他の多くの南アメリカ諸国と同様に、主要標的は共産ゲリラや左翼共鳴者だった。学生、戦闘員、労働組合員、作家、ジャーナリスト、芸術家、ペロニストゲリラを含む左翼活動家、容疑者の市民も、コンドル作戦の標的となった。失踪者は、独裁政権には政治的や思想的な脅威の人々、新自由主義経済政策に反抗的な人々も含んだ。社会・政治的反対勢力を黙らせる独裁政権が殺害した。

 国家再編成プロセスにて、軍事独裁政権は1976年から1983年までアルゼンチンを支配して、1982年までアメリカから支援された。1976年3月26日にフアン・ペロン前大統領の未亡人のイサベル・ペロン大統領を失脚して、アルゼンチン軍が政治権力を掌握した。議会と民主主義は停止され、政党は禁止され、市民の権利は制限され、自由市場と規制緩和の政策が導入された。アルゼンチンの大統領と閣僚は軍人の中から任命されて、ペロン派と左派は迫害された。軍部は、拷問、超法規的殺人、組織的な強制失踪を伴う反対派に対する国家テロ作戦を執行した。汚い戦争が勃発して、犠牲者の多くは民間人であった。市民権侵害と経済危機の悪化による国民の反発は、1982年3月19日にフォークランド諸島への侵攻を引き起こした。3月19日から6月14日にイギリスとのフォークランド紛争が勃発した。アルゼンチンは敗北して撤退した後に、軍事政権は崩壊し始めた。1983年にラウル・アルフォンシン大統領が選出され、ついに軍事政権は解放された。



2023年1月15日日曜日

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、2023年1月9日に負傷した兵士が搬送され、緊急手術するも戦傷が重態で死亡した。

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、負傷した兵士が緊急治療のために搬送された。医療関係者は兵士を救うために、2023年1月9日に約30分間ほど緊急手術したが、戦傷が重すぎた。ウクライナ軍兵士は破片がヘルメットを貫通し、頭部を負傷していた。














Warning: Ukrainian military medics carry an injured Ukrainian serviceman evacuated from the battle field into a hospital in Donetsk region, Jan. 9 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

バフムト周辺の激戦地から、2023年1月9日に戦傷した重態のウクライナ軍兵士をドネツク州の病院に、ウクライナ軍の衛生兵は緊急搬送した。直後から、ウクライナ軍医らが戦場から転送された戦傷兵士に、点滴を確保して全身麻酔をして緊急手術をした。緊急治療をするも、ウクライナ軍人は死亡した。その後に、その戦死者の死体を担架に乗せて運搬して死後処置をした。











Warning: Ukrainian military doctors treat their injured comorade who was evacuated from the battlefield at the hospital in Donetsk region, Ukraine, Monday, Jan, 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

 

 ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍は、破壊されたドネツク州のバフムト周辺のウクライナ軍陣地に対する猛攻撃を加速した。ロシア軍によるウクライナ侵略の一部である東ウクライナの支配権をめぐる数カ月間の猛烈な戦闘で、死者と荒廃の新たな悲惨な段階に達した。2023年1月9日深夜に、ドネツク州のバフムト周辺と塩の採掘と加工の都市ソレダールの戦況をウクライナ当局は訴えた。すべてが完全に破壊された。生命はほとんど残っていないソレダール付近の土地全体が、ロシア軍兵士の死体や空爆の傷跡で覆われている。狂気の沙汰である。

 1月10日深夜に、ロシアの民間軍事会社であるワグネルの代表であるドミトリー・プリゴジンは、ロシアのソーシャルメディアに音声を投稿した。ワグネルが、ソレダールを制圧して、中心部で戦闘を続けたと主張した。ウクライナ軍当局はワグネルの主張には関与しなかった。イギリス国防省は、ロシア軍とワグネル民兵が一緒にソレダールまで侵攻し、大部分を支配したと公表した。バフムトの北約10kmにあるソレダールの奪取が、ロシア軍の当面の軍事目標となった。ウクライナ軍は防衛線を深く保持し、補給路を制御した。ワグネルはロシア軍の戦争の補欠から、主要な構成要素になった。ワグネル兵士が、ロシアの戦闘員の約4分の1も占めた。

 10カ月半前にウクライナを侵略したロシア軍は、何度も撤退に見舞われ、勝利に飢えている。ロシア軍は2022年9月にドネツクと他のウクライナの3つの州を不法に併合して、戦況は膠着した。2022年11月にウクライナ軍が南部の都市ケルソンを奪還した後に、バフムト周辺で戦闘が激化した。ロシア軍は、自軍兵士の死体の上を侵攻して、大砲、ロケットランチャー、迫撃砲を大量に使ってウクライナ軍を攻撃した。

2023年1月14日土曜日

広島逓信病院の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、病室前で撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日土曜日午前8時15分に投下され炸裂して、広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、被爆者治療の陣頭指揮を取った(ヒロシマ日記、法政大学出版会)。焼け落ちたヒロシマ逓信病院の病室前で、蜂谷道彦院長は撮影された。8月11日に抜糸して、蜂谷道彦院長はヒロシマ逓信病院内を動けるようになり、さっそく院内回診、被爆患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するように指示した。

 1945年8月6日土曜日の朝、突然と周囲が明るくなり、強い光がすうすうと二度つづけて強い光が差し込んだ。右太腿に棒切れが突き立った。血が胸を伝って流れ出し、右首に刺さったガラスを引き抜いた。頸動脈の付近から血が吹き出した。頸動脈ならもう駄目と観念した。丸裸になって屋内から飛び出した。自宅が、土煙をたてて倒壊した。

 広島逓信病院に避難するも、右下肢が重く、喉がかわき、息切れがした。近くの街角で、兵隊からタオルを貰って腰に巻き、家内のエプロンを取って前にかれてふんどしにした。全身が血みどろになった。右大腿の肉の塊が引きちぎれて出血した。無我夢中に、薄明かりでコンクリート建て広島逓信病院に辿りついた。幽霊のような姿の被爆患者がうろうろしていた。周囲には無言の死体が散乱していた。玄関の待合には、無数の被爆患者が詰めかけた。無理やり担架に載せられて小遣い室の部屋に搬送された。

 静寂の凄惨が、俄然に一変して、現実が阿鼻叫喚となった。病院内が、戦場のように騒々しく唸った。熱風と火の粉が落ちて寝衣が炎上した。四階建ての広島逓信病院の窓から火が吹き出した。渦を巻いて風が一変した。道を隔てて向こうは火の海となった。広島逓信病院のコンクリートの鉄の窓が、焔の中で真赤に揺れた。見通しのきく北側や東側は見渡す限り焼け野原となった。8月6日夕暮れに硬い台上で、身体を次々と約30ヵ所縫合された。



2023年1月13日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上で身体が不自由な老女が逃げ遅れて、アメリカ軍に射殺され倒れて死亡した。

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上でアメリカ軍に射殺され倒れて老女が死亡した。肢体が不自由なために逃げ遅れた老女は、那覇市にてアメリカ軍に射殺された。西海岸の那覇市から首里を経て東海岸の与那原に至るまで、高度に要塞化された日本軍の戦線は、数多くのアメリカ軍の攻撃を撃退していた。5月12日に、アメリカ軍は那覇市郊外に侵入し、家から家へと掃討しながら那覇市内に侵攻した。

 沖縄戦にて、1945年5月から日本軍の抵抗が激化しながら次第に崩壊した。アメリカ軍は沖縄南部の主要な人口密集地に向かって侵攻した。特に那覇市と首里で最も激しい抵抗に遭遇した。日本軍は非常に粘り強い戦闘で、アメリカ軍ならびに沖縄市民には多くの犠牲者を伴った。那覇と首里地域を日本軍は約60,000人で防衛して、5月1日までに日本軍は沖縄南部の約230平方kmに集結した。日本軍は沖縄の洞窟や亀甲墓などに潜伏して、アメリカ軍の大量砲撃の避難所となった。

 アメリカ軍は武器の優れた量と質に大きく依存した。日本軍の陣地に正面攻撃を行って、アメリカ軍は大砲の強力な砲撃の援護を受けて、日々波状に侵攻した。火炎放射器や 戦車が歩兵を率いて、日本軍が保有する洞窟を次々と破壊した。夜間の地上活動は哨戒活動と砲撃に限定された。日本人は捕虜として捕獲されることも、降伏を申し出ることも拒否した。沖縄での接近戦は野蛮であり、最後に死ぬまで執行された。

 沖縄戦の猛烈さは、首里への参道を守る要塞化された日本の陣地で勃発した。約40mのシュガーローフ(52高地)に5日間で3回戦闘した。そのたびに奪還と撤退を繰り返した。約6時間の間に、陸砲と海軍の砲弾が約30,000発の砲弾で丘を覆った。爆撃機がさらに大量の高性能爆薬を浴びせた。アメリカ軍は、日本軍の要塞を個別に破壊して、危険で多大な犠牲を伴った。52高地の片側だけでも、日本軍は地下拠点に約500の入口があり、開口部をダイナマイトで爆発した。52高地は5月16日にアメリカ軍に制圧された。首里は6月1日に陥落した。日本軍抵抗勢力は弱まらず、守備隊はしぶしぶ南端部に撤退した。日本軍の人員と資源は急速に枯渇して、6月中旬までに摩文仁の守備隊の大部分が戦死した。6月21日、主要な組織的戦闘は集結した。




2023年1月12日木曜日

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。多数の尖った杭が設置された塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。塹壕の壁上に、多数の尖った杭が設置されていた。南軍の反撃を食い止めるために、尖った杭は北軍が前線から運び入れて積み上げていた。 

 1865年4月2日の第3次ピーターバーグの戦い(Third Battle of Petersburg)は、包囲戦の最後の戦いとなった。北軍の勝利により、リー将軍はピーターバーグとリッチモンドから撤退を余儀なくされた。リッチモンドで4月3日に降伏した。リーの北バージニア軍は、疲労、病気、飢餓、脱走により致命傷を負った。約1週間も戦い続けて、アポマトックス・コートハウスの戦いで敗れて、ロバート・E・リーは1865年4月9日に、ユリシーズ・S・グラント将軍に降伏した。残存する南軍の降伏が始まり、アメリカ南北戦争が終結した。

 第3次ピーターバーグの戦いは、4月1日のファイブフォークスで南軍は敗北した。北軍は4月2日にピーターズバーグ戦線への総攻撃をした。一握りの南軍兵士によるグレッグ砦の悲惨な防衛により夜まで北軍はピーターズバーグに侵入できなかった。日没後に、南軍のリー将軍は、ピーターズバーグとリッチモンドからの南軍の全面退去を命じた。北軍は、主要な軍事目標の一つであるピーターズバーグ占領を達成して、南軍の首都であるリッチモンドを陥落させた。死傷者は北軍が約3,936人、南軍が約5,000人の犠牲を伴った。

 アメリカ史上最長期の包囲戦は、1864年6月にユリシーズ・S・グラント将軍がリッチモンドを守る南軍ロバート・E・リー軍に対する約6週間の正面攻撃を中止した。ピーターバーグに撤退した後から包囲戦が勃発した。南北戦争は長期戦に突入し、最終的にはリッチモンド郊外からピーターズバーグ郊外までの約48Kmに及ぶ塹壕が掘られた。包囲戦は約9ヵ月半も続き、北軍と南軍との間で約12の主要な戦闘が勃発した。兵士たちは塹壕を掘り続け、長い包囲戦の間に、人命を犠牲にしても、ほとんど戦術的目標を達成できない戦闘が繰り返された。ピーターバーグの戦いは、まるで第一次世界大戦の塹壕戦を予見していた。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2023年1月10日火曜日

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。ブナ、ゴナ、サナンダ分岐点の日本軍は、数百の塹壕壕と深く整備された機関銃で構築された。日本軍兵士には食料が欠乏して、日本軍は死者の埋葬を管理する気力も能力も低下した。ブナ地域の多数の日本軍兵士の死体が放置されていた。

 パプア・ニューギニア島の北部の海岸平野にあるブナは、日本軍がココダ・トレイルに沿って進攻する際の主要な拠点であった。ブナ地域に日本軍が最初に上陸したのは、1941年7月21日にブナの東にあるゴナで、その後にブナは日本軍歩兵部隊に占拠された。8月21日にブナで大規模な上陸が行われた。日本軍の存在は、ブナで基地を構築する連合国自身の計画を妨げた。ブナ地域は西から東に、ブナ村、ブナ政府基地、そして数km東にある2つの滑走路に囲まれた。

 ブナで大きな戦闘が起こったのは、日本軍がココダ・トレイルに沿って侵攻して、後退した後であった。アメリカ軍は1942年11月16日にまずブナに迫り、南からブナ村に向かって攻撃し、別の1つが東から滑走路に向かって侵攻した。日本軍の要塞化された壕を前にほとんど頓挫した。オーストラリア軍が、12月中旬にミルンベイから移動してアメリカ軍を援護した。当時はブナ村は日本軍に占領されたが、日本軍は飛行場と政府庁舎周辺に鎮座した。オーストラリア軍の最初の攻撃は、12月18日朝に飛行場周辺へ攻撃した。日本軍の塹壕を一つ一つ破壊して掃討した。連合軍は12月23日までに飛行場と海岸の間の地域の掃討を達成した。

 オーストラリア軍は、12月24日から29日に日本軍の抵抗の中心である旧地区のブナ西端周辺の陣地を攻撃した。最小限の砲兵支援のみで、日本軍の塹壕を侵攻して、不十分な攻撃に振り回され、大きな犠牲を伴った。1943年1月1日朝に攻撃し、日没までに日本軍陣地の大部分を破壊した。アメリカ軍はブナ村から東に攻撃し、ブナ政府局を確保し、1月2日に旧地区から西を占領した。1月22日に日本軍の組織的抵抗は終結した。ブナでの戦闘で連合軍は約2,870名の死傷者を出した。初めてアメリカ国民はアメリカ軍の死体の映像に直面した。日本軍の死者は約1,400人近くに上ったが、破壊された壕の中で死亡したり、生き埋めになり、日本軍の死者数はもっと多かったと想定された。




2023年1月9日月曜日

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカにて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍の爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカ(Zamalka)にて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍が爆撃した。多数のシリア人の住民が死傷した。爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。両足の下腿が粉砕して、一部が切断されていた。政府軍は、地上軍がゲリラ攻撃を受ける反体制派が潜伏する都市部に、重火器による無差別攻撃、戦闘機による爆撃をして、甚大なる一般市民の犠牲が発生した。

 2011年3月15日に、チュニジア、エジプト、リビアで成功した「アラブの春(Arab Spring)」の 反乱に触発されたデモ参加者が、シリアに結集して、自国の抑圧的な政権の終結を訴えた。民衆の反乱や武装蜂起に直面して、シリアのアサド大統領は、最初の抗議行動の数日後に、シリア軍兵士がデモ隊に発砲して、数十人が死亡した。内務省総合治安局(アムン)と警察機動隊がデモ隊に実弾で弾圧した。政権派の民兵(シャビーハ)が一般市民に無差別の虐殺を執行した。シリア内戦は、アサド大統領と反乱軍が対立しただけでなく、アメリカ、イラン、ロシア、トルコなどを複雑な代理戦争を巻き込んだ。その過程で、民族や宗派の対立が生まれ、過激派武装組織「イスラム国」の台頭を促して、数百万人のシリア市民が避難し、ほとんどは民間市民の数十万人の死者が出た。シリア人権監視団は、シリア内戦の戦闘を避けて約1,200万人以上超が国外に流出し、うち約660万人は難民となり、死者は約60万人を超えた。

 シリア内戦が勃発した2011年3月から2012年月19日までに、シリアでは約28,000人以上が殺害された。内訳は、シリア政府軍兵士が約7,095人、反体制派兵士が約1,148人、非戦闘員の一般市民が20,755人が殺害された。政府軍の圧倒的な武力に対して、反体制派が都市ゲリラ戦で対抗して、都市部では攻防を繰り返した。シリア政府軍の装備は、旧ソ連・ロシア製であり、地中海のシリアのタルトゥース港がロシア海軍には唯一の拠点である。ロシア軍は、2015年9月から反対派軍に対して、空爆と地上作戦を実施した。2016年9月からロシア・シリア政府軍は、反政府派が支配するアレッポ東部を襲撃して、2016年12月にアレッポの反政府派は崩壊した。




2023年1月8日日曜日

2022年12月31日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。

20221231日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。ロシア軍の複数の爆撃が、首都キエフと地域の住宅地を襲った。ロシアは1231日午後に、ウクライナ上空に約20発の巡航ミサイルを発射した。撃墜できなかった約8発の巡航ミサイルが爆発した。首都キエフのソロミアンスキー地区の複数階建ての住宅でも起った。多くの都市で住宅地、ホテル、道路、車庫も攻撃を受けた。少なくとも1人が死亡、約14人が負傷し、ロシアの攻撃が新年の2023年を前に加速した。




















Warning: A husband reacts next to the body of his wife, besides her son crying to his mother, who was killed during a Russian attack in Kyiv, Ukraine, Saturday, Dec. 31, 2022. (AP Photo/Roman Hrytsyna)

 

   ロシア軍は意図的に市民を標的にし、恐怖の情勢を作り出した。ロシア軍が1229日にエネルギー関連施設に損害を与えるミサイル攻撃してわずか約36時間後に無差別に爆撃した。ロシア軍は10月以降に、ほぼ毎週ウクライナの電力と水の供給源に空爆を行った。ロシア軍は電力供給を損傷して、何百万人ものウクライナ市民は電力不足となり、ウクライナには夜間外出禁止令が出され、時計が新年を迎えた。

 南部の州都ヘルソンの一部でも夜間砲撃があり、1人が死亡、小児病院が損傷した。ロシア軍がヘルソン市を二分するドニエプル川を越えて撤退した後、11月9日にロシア軍が全面撤退して、ウクライナ軍がヘルソンを奪還した。1231日夜、小児病院を砲弾が襲った時に、近くの村で重傷を負った13歳の少年を手術中であった。直後に約99km離れたミコライフの病院に移管された。東部の町クメルヌィツキーで、1231日のロケット弾攻撃で、22歳の女性が死亡した。

 ゼレンスキー大統領は、1231日にロシア国民に向けてロシア語で演説して、「ロシアは、プーチン大統領の権力を死ぬまで維持するために戦争を仕掛けている」と述べた。

 ロシアの国防省は、東部ドネツク州のマキイウカ(Makiivka)の支配地域で、12月31日にロシア軍兵舎がウクライナ軍のハイマース攻撃を4発を受けた。異例の軍人約63人から約89人が死亡したと発表した。兵舎には当時約600人がいて、携帯電話を使用して特定されて、保管した弾薬の爆発などから犠牲が拡大した。

2023年1月7日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して約23人が即死、旧福屋1階の東消防署は全焼して約24人が即死して、消防機能は全廃となり、広島市内から多数の黒い煙の火炎が市内から立ち昇った。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して、直後から発生した火炎によって、全てが焼失して灰塵に帰した。爆心地から南南東約2.6kmにあった西消防署庁舎の建物は、1945年4月に設置された木造3階建ての新庁舎は崩壊した。焼跡中央部に見えるのは、無残にも焼けただれたはしご車である。西消防署の倒壊から炎上によって、西消防署の署員の約23人が即死して、その後に約34人が原爆死した。消防車は約8台が焼失した。



 東消防署は、広島原子爆弾に被爆した直後に、爆心地から東に約700mの旧福屋内の耐火性の建物内は全焼して、建物の構造は留めた。被爆によって、署員の約24人が即死して、約16人がその後に原爆死した。消防車は約7台が焼失した。消防車は無残にも焼き焦げた。すべてのタイヤは、焼失していた。東消防署の消防機能は、全く停止して、消防活動も不可となった。



 広島市の消防の本拠地として、大手町に西消防署、八丁堀の旧福屋1階に東消防署があった。甚大なる建造物の崩壊、火炎、火傷などが瞬時に同期した。本拠地の消防機能は焼失して、火炎が各地で散乱した。特に壊滅的な被害は、爆心地に近い西消防署と東消防署に及んだ。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の閃光に続いて激烈な爆風が通過して直後に、広島市内から黒い煙の多数の火炎が市内から立ち昇った。午前10時から午後2時までが、火炎が最も強力であった。夕方から火炎は萎縮するも、その後も約3日間燃え続けた。

 広島市の比治山には、殉職消防組員之碑が建立されている。この碑は、被爆以前には、水主町武徳殿に設置されていた。原子爆弾によって三つに割れた碑を、1950年11月に修復して比治山に移管され、約785柱が合祀された。

2023年1月6日金曜日

イラク戦争にて、ファルージャにてテロとの戦いで、イラク人テロリストが殺害された。多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、イラク軍政府軍兵士はテロリストのイラク人に襲撃された。

イラク戦争にて、イラク中部の都市ファルージャにおけるテロとの戦いにて、イラク人のテロリストが殺害された。4人のイラク住民らが、テロリストの死体を運搬させられた。死体は、収納する運搬袋に封入した手提げ袋を4人のイラク住民らが搬送した。死後に数日も経過して、死体からの悪臭が漂って、4人のイラク住民はマスクを装着して防臭した。



 テロとの戦いにて、広大な戦場から、都市部の戦闘に移行した。都市部における軍事作戦に戦闘の形態が変遷した。都市部の場合は、一般市民や住民も戦闘に巻き込まれた。非戦闘員が武装民兵組織に所属したり、自らの地域や民族を防衛するために民兵に変身した。地の理を生かして、都市部の障害物を活用して徹底抗戦した。都市部では、複雑な迷路となり、視界も遮り、武器の使用も制限された。大量の武力でも、各建物をそれぞれに掃討する必要がある。民間人が居住する地域には、戦争犯罪の防止から、爆撃や砲撃などを無差別に侵攻することが国際法で制限されている。

 2003年3月20日に勃発したイラク戦争では、逆に反政府テロリストやゲリラは、国際法を無視して、戦争犯罪の攻撃も執行した。イラク政府軍だけでなく、アメリカ軍を含む多国籍軍も、攻撃対象となった。イラク政府軍に敵対する勢力は、テロリストよりも、暴徒が主体であった。多国籍軍主導のイラク政府の運営に対して、不平と不満が高まって非協力となり、反対勢力に支持が高まった。さらに、国外からテロリストがイラクに侵入して、都市部の戦闘は混迷を極めた。

 報道機関が、民間人の犠牲者や崩壊した建物を公表すれば、逆に反対派勢力に同上が集まった。圧倒的な武力を保持する多国籍軍は、非難の対象となる。都市の郊外のゲリラには、地域の作戦範囲が広大となり、戦闘期間も長期化した。治安維持と軍事作戦の境界が曖昧となり、暴徒だけでなく多くの民間人が巻き込まれた。自爆テロリストは、事前に察知できなければ、あたかも民間人として接近して、直後に自爆攻撃を挙行する。

 ファルージャでのテロとの戦いにて、イラク政府軍兵士は、多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、突如としてテロリストのイラク人に襲撃された。この襲撃で、多国籍軍兵士の1人が殺害されて、約40人が戦傷して、民間イラク人は約8人が殺害された。襲撃されて瀕死のイラク政府軍の兵士は、アメリカ軍の衛生兵から救護する手当を受けた。