2022年8月1日月曜日

第二次上海事変にて、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

第二次上海事変において、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

 第一次上海戦終了後の1932年の停戦条件で、1937年8月9日に日本海軍特別上陸部隊の大山功中尉が、違法である上海の鴻橋空港の敷地内に入ろうとした。大山は中国の警官に発砲されて死亡した。8月10日に、日本軍側は中国軍と中国警察組織の和平工作団の上海からの撤収を要求したが、中国軍側は応じなかった。上海での緊張が高まる中で、日本は邦人保護を名目に、上海へ援軍を派遣して、8月11日に中国軍はついに上海への出兵を命令された。

 8月13日午前9時に、1万人以上の日本軍海軍陸戦隊が上海近郊に上陸して、閘北、武松、江湾地区で交戦状態となり、第二次上海事変が勃発した。その昼過ぎには、中国軍が迫撃砲で日本軍を攻撃し始めた。8月13日午後4時に、黄浦江と長江にいた日本軍の第3艦隊が艦砲射撃を開始した。8月14日に、中国軍の戦闘機が日本軍の戦艦と陣地を爆撃し始めて、中国国民党政府は自衛・抵抗の戦争宣言を出した。午後3時頃に、中国軍の反撃が始まるも、国際海域に強固な陣地を築いた日本軍は、軽武装の中国軍の反撃を圧倒した。8月15日に日本海軍の爆撃機が、長崎と台湾から渡洋爆撃した。8月15日に、国民党政権は、総動員令を出した。8月16日に、中国軍は日本軍の建物に忍び寄り、松明や手榴弾で建物に放火した。日本軍が建物から逃避すると、中国軍の機関銃が日本軍兵士を射撃した。8月17日に、日本軍の軽戦車が中国軍を追い返し、中国軍の反撃は終結して、日本軍の戦線を突破できず多くの死傷者を出した。

 8月18日、中国軍は援軍が到着し、恵山の埠頭を攻撃して戦車の援護を受け、日本軍を撃退した。しかし中国軍は戦車と歩兵の連携不足により、日本軍により再び埠頭を失った。中国軍の攻撃は敗退に終わり、約90人の中国軍将校と1,000人以上の中国軍兵士を失った。8月22日に、日本軍は上海を援護して、上海の北東50kmの荘子口、石林、宝山へ上陸した。中国軍は上陸を妨害できずに、一部は上海から撤退した。8月23日に、日本軍は、柳河、武松、荘内口に再び大規模な上陸作戦を展開した。中国軍は日本軍の新たな上陸に対抗するも再び失敗した。中国軍は夜間攻撃で、いくつかの村を侵攻しても、また村を失った。8月末には、中国軍の残党は包囲された宝山の防衛で全滅し、生き残った中国軍兵士は一人だけであった。10月26日に上海近郊の中国軍の大場鎮が陥落して、11月9日に上海を焦土しながら、南京への全面撤退に入った。最終的に中国軍は限定的な交戦にとどめて、より有利な条件で戦える内陸部での対決に転換した。




2022年7月31日日曜日

ロシア軍の2022年7月14日にミサイルに殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワが、ウクライナのヴィニツィアで7月17日に埋葬されて、父親は身内に支えられた。

ロシア軍の2022年7月14日のミサイル攻撃で殺害された4歳の少女ライザ・ドミトリエワ(Liza Dmytrieva)が、ウクライナのヴィニツィア(Vinnytsia)で7月17日に埋葬された。親族や友人たちが葬儀に参列した。ロシア軍のミサイル攻撃で7月14日に死亡した4歳の少女ライザは、白い花冠をかぶり美しく穏やかに埋葬された。ウクライナ正教会の司祭が、泣いている親族に悪は勝てないと告げた。ダウン症で知的障害児のライザは、母親と一緒に特別支援学校に行く途中で、ロシア軍のミサイルが、戦闘の前線から遠く離れたヴィニツィア市を襲った。ライザと7歳と8歳の男の子を含む少なくとも24人が死亡して、ライザの母親を含む200人以上が負傷した。ロシア・ウクライナ戦争が2月24日に勃発した時、家族は首都キエフを離れて、南西に約270Km離れたヴィニツィアに避難していた。

 見て、私の花よ!こんなにたくさんの人がライザに来たのよ、ママは美しい娘を見ることもできなかったと祖母、ラリーサ・ドミトリーシナは、ライザが花やテディベアと一緒に、開いた棺に横たわったまま、ヴィニツィアの18世紀大聖堂で愛撫して慟哭した。ライザの父アルテム・ドミトリエフさんは、涙を流しながら黙って立っていた。ライザの母親の33歳のイリーナ・ドミトリエヴァは、重篤な状態で、病院の集中治療室に入ったままだった。ライザが日曜日に埋葬されることを、家族は母親に病態に影響恐れて伝えなかった。母親は、ダウン症の子供が充実した人生を願っていた。家族は、娘ライザがベビーカーを押すためにハンドルに力を入れ、デニムのジャケットと白いパンツを着て、バレッタで飾った髪でヴィニツィアを楽しそうに歩いた動画を死亡の直前に投稿していた。7月14日にロシア軍のミサイル攻撃後に、ウクライナの救急隊は、ジュビリー百貨店の焼け跡の芝生には、彼女の生気のない死体の血で染まったベビーカーが散在した。棺の両側にはライザの近親者が座り、さらに多くの人がヴィニツィア正教会の大聖堂に詰めかけた。その後、風が吹き抜ける墓地で、親族や友人たちが灰色の空の下でライザに別れを告げた。 

 同じミサイル攻撃では、2人の少年も犠牲になった。マクシム・ジャリイ君(7歳)は母親のビクトリアさんと一緒に亡くなった。殺害された母親とジュビリーセンターの1階にある診療所で診察を受けていた。死亡した7歳の男の子も、7月17日に、母親とともにビニツィア近郊の村に埋葬された。同じミサイル攻撃で死亡した8歳の男の子の名前は公表されなかった。近くに停車した車の中で叔父を待って、猛烈な火災に巻き込まれて死亡した。爆心地には、焼け落ちた多くの車の骨格が散乱した。同じミサイル攻撃で殺害されたもう一人の少年は、7月18日にヴィニツィアで埋葬された。




2022年7月30日土曜日

長崎原子爆弾の翌日8月10日朝に、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町では、警防団の救援隊がかけつけ被爆者に配給をした。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて長崎市内で炸裂した。翌日の8月10日の朝になって、爆心地から南南東約1.4kmの長崎市銭座町付近では、ようやく警防団の救援隊がかけつけた。炊き出しのおむすびなどを配給をし始めた。町内の警防団は、非常時の町内の炊き出しのため窯を作りに使役に出て働ていた。その他に、警防団は、がれきの中から死体を運び出す作業に追われた。8月9日夕方近くから近郊の大村海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊が長崎市内に入った。長崎周辺の警防団員が集められて長崎市内に救援に参集した。被爆者は警防団の人たちに手を貸りて、救護所に運び込まれた。長崎市内まで作業に行った警防団には、早くに原爆症で死亡者も出た。死体の処理作業や海中や焼跡など部分的な処理作業が続けられた。

 1945年8月9日に、アメリカ軍のB-29爆撃機ボックズ・カーはプルトニウム爆縮型の原子爆弾を搭載した。ファット・マンと呼称した原子爆弾を搭載して、テニアン島を出発した。第一目標は、小倉工廠であったが、小倉上空に到着してみると地上の激しい靄と煙に覆われていた。B-29ボックスーのパイロットであったチャールズ・スウィーニーは、第二目標である長崎の三菱魚雷工場に転換した。長崎市に住んでいた約28万6千人のうち、約7万4千人が死亡、約7万5千人が重症を負った。

 1945年8月9日、アメリカ軍は長崎に2発目の原爆を投下し、日本はついに8月15日に無条件降伏に陥った。悪天候が予想されたために、8月9日に投下される計画になった。午前1時56分、スウィーニー大佐の指揮のもと、B-29爆撃機の特別仕様機ボックスカーがテニアン島から離陸した。長崎原子爆弾は8月9日午前11時2分に、上空約500mで炸裂した。爆発は、約2万2千トンものTNT火薬の威力であった。街を囲む丘が破壊力を軽減したが、爆風と熱線で死体が消滅し記録も破滅して、約6万から8万と予測された。原子爆弾のマンハッタン計画の責任者であるレスリー・R・グローブス将軍は、8月17日か18日までにもう一つの原子爆弾を日本に対して投下して炸裂させる準備ができていたが、日本の無条件降伏で投下の必要はなくなった。






2022年7月29日金曜日

中華人民共和国の土地改革法にて、新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。

中華人民共和国の新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。毛沢東の農地改革により、地主の死刑者数の推定値は約150万人から200万人と想定された。特定の地域では、隣人よりもわずかに土地を持っていた無実の民間人が階級の敵として非難されて、他人を搾取した容疑されたとして処刑された。1949年の革命前から、共産党の支配地域に人民裁判所が設置されて、地主は公開裁判という公共の場で、小作人と直接対決して罪を問われた。

 中国の国共内戦後に、1949年10月1日に中華人民共和国の建国宣言の初期に、毛沢東は1950年6月20日に土地改革法を公布して中国土地改革運動に乗り出した。地主を大量に殺害して、小作人の農民への土地再分配を行った。この土地改革運動で殺された地主の人数は、数十万人から数百万人にのぼる。階級闘争を動機とした大量殺戮は、毛沢東の社会・経済変革のほぼ30年間に継続されて、運動の終わりには地主階級はほぼ絶滅した。

 1950年から中華人民共和国は、中国共産党に反対する勢力を根絶するために反革命分子鎮圧運動を開始した。中華人民共和国の初期に頻発した反乱に対応するために、1950年3月に始まり、1953年に終結した。鎮圧運動の対象となった人々は反革命分子のレッテルを貼られ、集団裁判で公に糾弾され、膨大な人数が逮捕・処刑され、さらに多くの人々が労働改造刑に処された。1954年の中国共産党の公式推計では、約260万人が逮捕され、約130万人が投獄され、約71万2千人が死刑が執行された。

 1958年から1962年の大躍進は、毛沢東が主導して、毛沢東は、人民公社を設立し、農耕経済から共産主義社会に転換を図った。穀物の収量を増加を命じて、地方の役人はノルマを達成するために余った穀物を略奪して農民が餓死に陥った。その結果、1,500万人から5,500万人が死亡して、天候不順と食料生産量の減少を伴って、人類史上最も甚大な大飢饉となった。




2022年7月28日木曜日

朝鮮戦争で朝鮮半島の民間人の母親が1950年に虐殺された。母親の側で幼児が死体にすがり、母親の死と絶望の恐怖で泣きわめいた。

朝鮮戦争の初期に巻き込まれた朝鮮半島の民間人の母親が1950年に虐殺された。その母親の側で幼児が、死体にすがって、母親の死と絶望の恐怖で泣きわめいた(1951年6月人民画報、中国国務院新聞弁公室・中国外文出版発行)。朝鮮戦争では、中国人民志願軍は朝鮮半島の民間人を唯一虐殺しなかった。北朝鮮軍(KPA)、韓国軍、アメリカ軍はすべて民間人を虐殺した。民間人の虐殺は3つに分類でき、右翼による朝鮮の民間人の虐殺(韓国国軍・警察・右翼)、左翼による朝鮮の民間人(朝鮮人民軍・ゲリラ・左翼)、およびアメリカ軍による朝鮮半島で民間人を虐殺した。

 仁川上陸作戦後に、韓国軍は、共産主義者と疑われる朝鮮労働党(WPK)や民間人、北朝鮮の都市部や農村部の治安部隊に対して大規模な虐殺を実施した。智異山地域では、朝鮮人民軍の残党と韓国軍により、多くの住民が反動分子または協力分子として双方に虐殺された。韓国軍は北朝鮮の焦土作戦を、民間人の虐殺の口実を提供した。

 朝鮮戦争の初期2〜3か月間、朝鮮人民軍は朝鮮半島南部の大部分を占領し、韓国政府高官、憲兵、警察、憲兵、資本家、ビジネスマンとその関係者、約129,000人などを右翼として虐殺した。虐殺された多くは右翼の人々であると考えられた。1950年6月28日、朝鮮人民軍がソウルを占領した時に、ソウル大学病院で、韓国の民間人、負傷した兵士、医師など約700から900人が殺された。朝鮮人民軍も避難の過程で大量虐殺を犯した。朝鮮人民軍が大田を避難させたとき、彼らは民間人を虐殺した。朝鮮人民軍、約43,000人の韓国の民間人を北朝鮮に拉致した。

 アメリカ軍は、戦争地域での民間人の射撃と砲撃、民間人が通過する橋の爆破または中毒、民間人の爆撃と機銃掃射した。老斤里虐殺事件で約300人の主に子供と女性の民間人を虐殺した。その直後に、馬関と馬山鎮北で数十人の難民を虐殺した。難民と疑わしい者は無条件に射殺が命令された。アメリカ軍に橋上の数百人の難民は吹き飛ばされ、川中で銃殺あるいは溺死した。アメリカ軍歩兵や戦闘機が、避難する民間人を何度も空爆や機銃掃射し、罪のない民間人の犠牲者を出した。アメリカ軍は、1950年7月だけで朝鮮の13の都市と周辺で、約42,000人を虐殺した(北朝鮮側報告)、1950年10月中旬から12月末に、約17万人以上の民間人を虐殺した(韓国側報告)。



 

2022年7月27日水曜日

1978年からベトナム軍の侵攻により、カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

約12万人のベトナム軍が1978年12月25日に、カンボジアに侵攻した。1979年1月7日には、首都プノンペンが陥落した。1978年12月に結成された親ベトナム派のヘン・サムリン議長の救国民族統一戦線が、カンボジア全土の制圧を公言した。それに対抗して、ポル・ポト議長の民主カンボジア政府軍は、カンボジアの国境沿いで徹底抗戦のゲリラ戦を継続した。その戦火に追われた民間カンボジア難民が、1979年1月頃から続々とタイ国境を集団で越え始めた。

 タイ軍は、カンボジアの共産主義勢力がタイ国内に流入を阻止した。そのため民間カンボジア難民は、国境線上で銃剣と地雷で追い返された。4月頃になると、国境地帯は雨季に入り、ジャングルに迷入したカンボジア難民は、栄養失調とマラリアなどの感染症で多数の死者が発生した。カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

 1979年10月11日に約1万人のカンボジア人の難民集団が逃避して国境周辺のクロンワー村に到着した。その道端には、多数の歩行困難となった重病の難民が転がった。その自由病の難民は見捨てられて、絶命後の死体が散乱した。10月2日には、国境周辺で激闘が展開された。森の道端には、多数の瀕死の難民が横たわり、やがて生命が途絶えた。クロンカイテェムの山林には、新たに約2万人の難民が出没した。山地から下る難民は、タイ軍が流入を阻止するバリケードを避けて、越境をした。

 タイ・カンボジア国境約800キロには、川の国境もある。広いところで約20m、狭いところでは約10mに満たない。この地域が平和であった頃は、両国の国籍を持つ人々は何の苦もなく川を渡っていた。タイ語とカンボジア語を喋り、川の向こうとこちら側で 親戚同士も珍しくなかった。カンボジアの2度にわたる政変は、国境の1本の線に、多くの生命に意味を付与した。1975年4月、アメリカに支援されていたロン・ノル政権が倒れると、カンボジア政府軍の敗残兵らが難民となり、川を渡って、国境地区に住み着いた。次いでポルポト派の民主カンボジア政府軍が、ベトナム正規軍と数千人のヘン・サムリン軍に追われ、いま国境を越えて追い出された。カンボジア難民は大量で、悲惨で、複雑であった。

 ポル・ポト派の正規軍兵士もいれば、家族を殺されたとホル・ポト派に恨みを持つと同時にベトナム軍の支配を嫌う者もいた。軍人が常に家族を伴って、難民と兵士の区別をいっそう困難なものにした。一部の例外を除き、難民が疲れ、飢え、病んでいることは明白であった。難民の約80%が熱帯性のマラリアにかかり、ウイルス性肝炎、結核も多く、毎日毎日彼らは死んでいった。

  1979年10月24日、国境の村のクロンワーからサケオのキャンプへの移動が始まった。総数3万人のうち1万人は、キャンプ行きを拒否してカンボジアへ帰って行った。どちらの行動もとれない約500人の病人が置き去り放置された。1日に20人くらいが息を引き取っている。1979年末には、カンボジア難民の数は約68万人となり、カンボジア領の国境沿いに約100万人の難民が集結した。チュイ・ポンはカンボジア語で助けてという意味だが、国境でこの声を聞かない日はなかった。




2022年7月26日火曜日

ボゴタ近郊で2000年1月に、コロンビア革命軍(FARC)とコロンビア政府軍が衝突して、殺害された民間コロンビア人の死体が道路に横たわり、国際赤十字職員が救護して逃避した。

コロンビアのボゴタ南東約60kmにあるグアヤベタル・メタ州で、2000年1月15日の戦闘攻撃が勃発して、殺害された民間コロンビア人の死体が道路に横たわった。その周辺では、多数の国際赤十字職員が、救援と保護を求めて救急車から逃避した。ボゴタ近郊で、左翼反乱軍のコロンビア革命軍(FARC)と治安部隊のコロンビア政府軍が衝突がして、約21人が殺害されて死亡した。コロンビア革命軍の反乱軍は、コロンビア政府と南部のジャングルで和平協議を行った日に、グアヤベタルを攻撃した。

 コロンビア革命軍(FARC: Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)は、「マルクス、レーニン、ボリーバルの思想に基づき、コロンビアの支配体制に反対する政治的・軍事的組織である。我々は、祖国を始めとする地球全体に正義を取り戻すために、社会主義社会のために戦う」と宣言した。コロンビア政府は、コロンビア革命軍をテロリストの左翼反乱軍と認定した。2001年に、アメリカ国務省はコロンビア革命軍をテロ組織としてリストに掲載した。後に欧州連合(EU)も、コロンビア革命軍をテロ組織とする同様の判断を下した。

 キューバとベネズエラは、コロンビア革命軍はボリバル思想に基づき活動するゲリラ組織であると主張した。コロンビア革命軍は、1960年代初頭にボリバル的な思想を持つコロンビア共産党の武装勢力として誕生した。コロンビア、ペルー、ボリビア、ベネズエラ、エクアドルを含むボリバル共和国の構想を推進した。コロンビア革命軍の戦闘員の人数は約8〜9千人で、コロンビアのほぼ半分がコロンビア革命軍の支配下にあった時期もあった。コロンビアでは、政府軍、コロンビア革命軍、そして1997年4月にマルクス主義ゲリラと戦う国家と豪農(ガナデロス)が支援して構築した右翼過激派(パラミリタリオ)の3勢力が内戦した。革命軍と右翼過激派は相互に協力し一緒に、コロンビア政府軍と戦闘もあった。2016年11月24日にコロンビア政府とコロンビア革命軍は、改訂和平協定を締結して、11月30日にコロンビア議会は承認した。2017年6月27日に、コロンビア革命軍は、武装組織を解除して武器を国連に引き渡して、合法的な政党になった。少派閥は、2019年8月29日に旧来の武装集団に復帰した。





2022年7月25日月曜日

赤軍のロシア人のゲラシモフを処刑するために、連合軍の介入軍はロシア北方の白海湾に浮かぶ蒸気船コラ号の甲板上で、1918年8月8日に連合国の介入軍は銃殺した。

1918年8月8日に19歳のロシア人のコススタンチン・イワノビッチ・ゲラシモフ(Konstantin Ivanovich Gerasimov)は、ロシア北方の白海にて連合軍の介入軍によって銃殺された。1918年7月25日、ゲラシモフはソビエト赤軍に入隊した。ソビエト赤軍に参戦してから、オネガ(Onega)湾に侵攻した。8月2日から、イギリス軍とフランス軍の連合国の軍艦は白海から入港して、アルハンゲリスクを占領した。連合国の介入軍は、オネガ湾の海岸まで進駐した。ゲラシモフは、パルチザン部隊に参戦した。オネガ湾の海岸町を占領した連合国の介入軍が、夜間から突如にパルチザン部隊を攻撃した。ゲラシモフは、パルチザンの幹部を援護して、白軍の将校を銃殺したが、負傷して連合軍の介入軍の捕虜となった。介入軍は、ゲラシモフとパルチザンの一味を拷問して、ゲラシモフを処刑するために、白海湾に浮かぶ蒸気船のコラ号に連行された。コラ(Kola)号の甲板上にて、ゲラシモフは8月8日に、介入軍に銃殺された。8月17日までに連合国がオネガ湾の海岸まで進駐して、9月4日にアメリカ軍がアルハンゲリスクの連合国軍に参戦した。

 ロシア内戦への連合国の介入軍は、1918年から始まった多国籍軍の一連の遠征軍で構成された。連合国の介入軍はまず、チェコスロバキア軍団がロシアの港で軍需品と武器の供給を支援した。1918年から1920年に、チェコスロバキア軍団はシベリア鉄道全体とシベリアの主要都市を占領した。1919年までは、ロシア内戦の白軍を援護するのが目的だった。白軍が崩壊した時に、介入軍は1920年(日本軍は1922年)までに撤退した。

 介入軍は、ドイツ軍によるロシアの資源の搾取を止めて、中央主権国家を倒し、ボルシェビキ革命後に、ロシア国内の連合軍の一部を支援した。連合軍は北ロシア介入とシベリア介入に、アルハンゲルスクとウラジオストクに上陸した。1920年9月のチェコスロバキア軍の撤退とともに、連合国は1920年に北ロシアとシベリアへの介入を終了した。日本軍のシベリアへの介入は1922年まで続き、1925年までサハリンの北半分を占拠し続けた。




2022年7月24日日曜日

ロシア軍のミサイル攻撃の砲撃でハリコフで死亡した13歳の息子の死体を、父親は露出した胸に手を当てていた。葬儀作業員に死体が回収される直前に、父親は最後のキスをした。

ロシア軍のミサイル攻撃がウクライナ第2の都市ハリコフを襲い、3人が死亡した。直後に、父親が13歳の息子(Dmytro)の死体の側で慟哭した。ロシア軍のウクライナ侵攻の中に、2022年7月20日に、ハリコフの北部地区のサルティブカ(Saltivka)のバス停で、ロシア軍のミサイル攻撃により、13歳の男子が殺害された。ミサイルで殺害された10代の息子の死体のそばで、父親が膝をついて慟哭した。ロシア軍のミサイル攻撃の砲撃で死亡した息子の死体は、回収される直前に、父親は最後のキスをした。13歳の息子の死体の前で嘆く父親を、ウクライナ女性警官がその側で慰めた。その後に、葬儀作業員が13歳の息子の死体を担架で回収した。

 ウクライナ東部のハルキフで7月20日に、13歳の少年がモスク近くで、バスを待っていたバス停に、ロシア軍のミサイル攻撃が炸裂して死亡したと地元ハリキウ当局が発表した。通勤者らがバスを降りるときに、ミサイル砲弾がバス停に着撃して炸裂した。近くのモスクはひどく損傷していた。13歳の息子の父親は、破壊されたバス停の近くの路上に横たわり、赤いホイルシートに覆われた死体の息子の手を握ってひざまずいた。父親は、片手に小さな聖書を持ち、呆然と見つめて祈りの言葉を約2時間も唱えていた。父親は少年の露出した胸に手を当てていた。その後、葬儀作業員が死体袋のチャックを閉めて息子の死体を運び出すのを、立ったまま見届けてから、十字架のお祈りをした。ハリコフ州知事は、7月22日水曜日にハリコフで3人(10代の若者、男性、女性)が死亡した。地元のダンス教室に通っていた13歳の息子は死亡して、15歳の姉(Ksenia)は負傷した。ロシア軍のミサイルやロケット攻撃はウクライナの都市や町を荒廃させて、意図的に民間人も標的にした。地元検察庁は、ロケット弾はウラガン多連装ロケットランチャーから発射したと公表した。

 ウクライナ第二の都市ハリコフは、侵攻後約2カ月間はロシアの攻撃に抵抗した。その後にロシア軍が撤退後は比較的平穏だった。この1カ月間はほぼ毎日砲撃を受けている。ウクライナ東部ハルキウ州のシネグボフ知事は、ハルキウ市では7月20日に、バス停がロシア軍による攻撃を受けて、13歳の少年を含む3人が死亡した。少年の姉で15歳の少女も負傷した。彼らはただバスを待っていただけだった。侵略者たちは再び市民を襲った。新たな恐ろしいテロだとロシア軍を強く非難した。攻撃を受けたバス停は破壊されて、近くにある建物も壁が大きく崩れ、窓ガラスが割れていた。










Warning: A relative knees by the body of a thierteen who died in a Russian missile strike at a bus stop in Saltivka, a northern district of the second largest Ukrainian city of Kharkiv on July 20, 2022 amid the Russian invasion of Ukraine.(Sergey Bobok, AFP)

Warning: A father kisses the body of his son who was killed during a shelling attack in Saltivka neighborhood in northern of Kharkiv City, Ukraine, July 20th, 2022. (Narciso Contreras/Anadolu Agency)

2022年7月23日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下された翌日から本川国民学校の鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となり、体動する被爆者だけを、二階の教室に運び治療をした。

1945年8月末に、広島原子爆弾による一部の被爆者が本川(ほんかわ)国民学校の臨時救護所に収容された。本川国民学校の外壁が焼け残った校舎は、広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となった。多数の被爆者が救護で集散して混乱を極めた。校庭では、一部の被爆死した被爆者の死体を集積してから火葬した。まもなく学校は,西校舎1階を中心に,負傷者を収容する臨時救護所となった。臨時救護所では,軍の衛生班をはじめ,近郊で生き残った者たちが被爆者の救護や遺体の処理にあたった。

 本川国民学校は、爆心地から西北西約410mと最も近距離の学校であった。広島原爆の爆風は窓枠を吹き飛ばして、壁はくの字に曲がり、約4,000度もの熱線は校内を火の海と化し、教材は全て燃え尽きた。校舎は、鉄筋コンクリート造であり、構造は丈夫に造られて倒壊を免れた。校舎は外郭のみを残して完全に全焼と全壊した。約10人の教職員と1・2年生の低学年の児童や疎開できない児童の約400人の全員が被爆死した。原爆の炸裂時に運動場にいた子どもたちは一瞬にして原爆に巻き込まれて、爆風と熱線と放射線に被爆して、即死して真っ黒焦げになった。その中で偶然に約1人の先生と1人の生徒のみが生き延びた。3年生以上の児童は、1945年4月までに備後十日市・八次国民学校に集団疎開をして被爆を免れた。

 爆風をもろに受けたL字型の校舎は、窓枠は吹っ飛び、壁がくの字に折れ曲がった。運動場で遊んだ子どもたちは一瞬にして真っ黒焦げ、爆風により壁に叩きつけられた。教室の中にいた子ども達は窓ガラスの破片を受けて重症に陥った。爆発時の強烈な熱線により自然発火した炎が窓から窓からにごうごうと一斉に吹き上げ、机、椅子・黒板・本・その他の天井板・床板などを燃やし尽くした。逃げ遅れた子ども達の死体が教室内で黒焦げで発見される。特に本川国民学校臨時救護所の被爆者は悲惨であった。床の上にゴロ寝した被爆者は、みな灰をかぶって、一見して生死の区別がつかなかった。膨大な被爆者を前にして、体動している被爆者だけを、二階の教室に運び治療をして、その他の人は見捨てる結果になった。




2022年7月22日金曜日

コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に反撃した反乱軍から奪還された。反撃した反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。

アフリカの脱植民地化にて勃発したコンゴ動乱が、1960年代の旧ベルギー領コンゴ(現ザイール)を荒廃させた。1960年にベルギーが速やかにコンゴ共和国から撤退した後に、一連の地方反乱が勃発した。国連軍は首都のレオポルドビル政府を支援して、事態の収拾に苦慮した。1964年に、モイーズ・カペンダ・チョンベ首相は、中国に学んだ元内閣大臣ピエール・ムレレの弓矢で武装した彼の信奉者の反乱軍に遭遇した。コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に、シンバ反乱軍の反撃から奪還された。反撃したシンバ反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。ピエール・ムレレは直前に首相を解任されて、ジョセフ・デシレ・モブツが11月24日に軍事クデーターで、長期独裁の大統領に就任した。

 コンゴ動乱は、1960年に旧ベルギー領コンゴの独立後に勃発して、1965年まで行われた内戦である。1960年6月にコンゴはカサブブを元首,ルムンバを首相として独立国となった。独立に反対するベルギー軍に対して、全土的な暴動が起こり,ベルギー軍が武力介入した。対応して親ベルギー派のチョンベが、カタンガ州の分離独立を宣言して,内戦となった。7月に国連軍が派遣されたが、内覧はおさまらなかった。民族派のルムンバが、親ベルギー派のチョンベに虐殺された。キンシャサ(旧レオポルドビル)のカサブブ,カタンガのチョンベ,ルムンバ派のギゼンガの3大勢力が抗争をくり広げた。1961年9月に,カタンガの復帰工作に向かうハマーショルド国連事務総長が事故死した。1964年にカサブブとチョンベが手を結び,カタンガ州は合同した。1965年にまた対立して,モブツ将軍の無血クーデタで、カサブブが追放されて,コンゴ動乱は終結した。 

 コンゴ動乱は、コンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)にて1960年から1965年に勃発した政治的混乱と紛争である。一連の内戦を構成するコンゴ動乱は、冷戦下で対立する派閥間で、約10万人の死者が発生した。1960年6月30日に、ベルギー領コンゴで植民地支配の撤廃を求める民族運動が起こり、独立が宣言された。7月の第1週には、軍隊で反乱が起こり、黒人と白人の民間人の間で暴動が勃発した。ベルギーは逃亡する白人を保護する名目で軍隊を派遣した。カタンガと南カサイは、ベルギーの支援を受けて分離独立した。暴動が続く中で、国連は平和維持軍を派遣したが、ダグ・ハマルスキョルド国連事務総長が、首都レオポルドビルの中央政府が分離主義者と戦うために、国連維持軍を拒否した。最大派閥のカリスマ、パトリス・ルムンバ首相は、ソ連に支援を求め、ソ連は直ちに軍事顧問団を派遣して支援に乗り出した。

 ベルギーからの独立後に、コンゴ民主共和国で一連の政治的騒乱が起こった。1960年1月、ベルギーがコンゴ沿いの広大な植民地を独立させる突然の決定を下して、レオポルドビル(キンシャサ)を統治者とする単一国家が誕生した。5月の議会選挙で部族間の戦闘が始まり、独立時の6月30日にはさらに戦闘が発生した。コンゴ警察は、ベルギー軍将校に反抗し、反乱を起こした。ヨーロッパ人と財産は攻撃され、ベルギー人難民は逃亡した。鉱山が豊富なカタンガ州では、ベルギー軍と白人傭兵の支援を受けたモイゼ・ツオンベが独立共和国を宣言した。政府は国連に治安回復のための軍を要請し、国連事務総長ハンマークヨルドはベルギー軍に代わる平和維持軍を派遣した。クーデターにより陸軍司令官モブツ大佐が政権を握り、急進派のパトリス・ルムンバ首相を排除した政権が誕生した。1961年、ルムンバは敵対部族に殺され、ハンマークイェルドもコンゴ訪問中に墜落死している。戦闘は続き、カタンガ、スタンレーヴィル、カサイでそれぞれ独立政権が樹立された。1965年11月、モブツ率いるコンゴ軍は2度目のクーデターを起こし、モブツは大統領になることを宣言した。



2022年7月21日木曜日

日本軍兵士は、日中戦争の平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。

1937年7月7日の盧溝橋事件が発端となり支那事変が誘発されて、血みどりの日中戦争が勃発した。日本軍兵士は、平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。平漢線は北平と漢口をつなぐ鉄道であり、中部支那と北支那とを連絡する大鉄道であった。1927年に北京が北平へ改称されて、北京から漢口までの京漢線が平漢線と改称された。7月9日に蔣介石は中央軍に対し、徐州付近に駐屯した中国軍に7月11日夜明けからの河南省への侵攻を命じた。7月10日に約200人以上の中国軍兵士が迫撃砲で攻撃を再開した。7月19日には中国軍兵士を北支那に集結させた。7月12日に両軍の撤兵を条項に含む停戦協定が締結されるも、前日の7月11日に、日本軍は華北への派兵を下令された。中国軍は7月25日に廊坊で、7月26日に広安門で日本軍に攻撃を加えた。日本軍は、7月27日に支那駐屯軍を増援して、7月28日に北京(北平)を陥落して、中国軍は、7月29日に講和を求めずに全面的抗戦に舵を切った。

 北支那の山岳戦と平地戦に、江南の陣地戦にて、壮烈かつ大規模な戦闘が展開された。鬼神も泣くほどの壮烈な激戦と労苦で、幾多の甚大な犠牲者を出した。歴史的な支那事変で、日本軍にとって有利な戦争記録を、皇徳奉賛会が資料を検閲して『支那事変史ー各社特派員決死の筆陣ー』(新聞タイムズ社、1937年12月)を刊行した。日本国民に対して、支那事変の推移に注目させて、近未来を洞察させ軍事的対策の必要性を認識させた。日中戦争の戦線にて硝煙と弾雨の間で、大新聞社から強制派遣された数百人の従軍特派員が、支那事変を取材と記録した。1枚の支那事変の戦争写真を記録するにも、従軍特派員は命がけの撮影となった。

 日本軍は中国沿線の各都市を、軍事上と交通上と商業上に重要視した。平漢線に沿って北京(北平)から南方に向って侵攻すると、約24kmにして蘆溝橋に到達する。支那事変の発瑞をなった盧溝橋にて、日本軍側は中国軍側が演習中の日本軍に向って不法射撃の火蓋を切ったと容疑した地点であった。平漢鉄道は、始めは蘆漢鉄路と称し、神聖な王城の北京にて、夷狄である外国人の手による鉄道の侵入は許し難く、北京郊外の盧溝橋にて支那事変が勃発した。平漢鉄道への攻撃は1938年2月9日に勃発して、徐州戦と連動した。金茶地軍区の中国軍が平漢鉄道沿いの日本軍に攻撃をした。3月4日に日本軍は約12,000人を動員して反撃に転じて、両陣営の戦いが繰り広げられ、日本軍は約1,600人が死傷した。




 

2022年7月20日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、ベラルーシ人の男子の目の前で、母親や家族が銃殺した。ノヴフゴロドの雪の路上で倒れた母親や家族の死体の側にしゃがみ込み、男子は慟哭して泣きじゃくった。

1944年に、ナチス・ドイツ軍の占領下にあった今日のベラルーシ近隣であるノヴフゴロドの都市で、ホロコーストによる民族浄化作戦で、民間ベラルーシ人が大量虐待と大量虐殺された。ナチス・ドイツ軍は、ベラルーシ人の男子の目の前で、身内の母親や家族を銃殺した。その殺害されて倒れた母親や家族の死体の側にしゃがみ込み、男の子は慟哭して泣きじゃくった。その周囲では、その他に殺害された民間ベラルーシ人の死体が、雪上の路上に散乱していた。

 1991年12月8日にソビエト連邦から独立した今日のベラルーシは、第2次世界大戦が勃発時は、ビエロロシアと呼称されたソビエト社会主義共和国であった。1941年6月22日午前4時45分から、電撃的に約400万人ものナチス・ドイツ軍兵士が、その後数週間にわたってイタリア軍、ルーマニア軍、その他の枢軸軍が、国境を越えてソビエト連邦に突入した。1944年8月にソ連軍が大祖国戦争により解放するまで、全てのベラルーシ地域は、ナチス・ドイツ軍に軍事占領された。ナチス・ドイツ軍のアインザッツグルッペン部隊によってベラルーシ人口の大量絶滅が執行された。

 ナチス・ドイツ軍の侵略と占領は、強制労働のために約38万人のベラルーシ人が追放された。さらに数十万人の民間ベラルーシ人が、大量に殺害され甚大な大量虐殺と大量虐待による人的被害を受けた。スラブ民族であるベラルーシ人は、ナチス・ドイツ軍の東部総合計画(Generalplan Ost: GPO)の一環として、絶滅、追放、奴隷化の民族浄化作戦が執行された。東部総合計画は、ポーランド侵攻や独ソ戦で占領した東部占領地域の再編計画であり、スラブ民族を絶滅してゲルマン化するために、ベラルーシ人は約75%も排除する計画であった。少なくとも約5,295ものベラルーシの村落が、ナチス・ドイツ軍によって破壊された。その住民の一部または全員が殺された。第二次世界大戦中にベラルーシで、焼失またはその他の方法で破壊された約9,200集落のうち、ハティンなどの約600以上の村で全住民が抹殺された。ナチス・ドイツ軍が占領した約3年間に、ベラルーシでは全体で、人口の約40%に相当する約100万人以上が殺害された。

 ソ連軍のパルチザンによるドイツ軍に対する攻撃は、民間ベラルーシ人に対する報復を誘発した。鉄道などに対する攻撃は、民間人の大量虐待と大量虐殺を招いて逆の効果をもたらした。パルチザンはドイツ軍兵士を殺害することよりも、ドイツ軍の供給ラインを混乱させることに重点を置いた。ナチス・ドイツ占領軍は、より多くの報復を行い、より多くの家を炎上して、より多くのベラルーシ人を殺害した。




2022年7月19日火曜日

第一次世界大戦にて1917年8月20日にヴェルダン地域で、フランス軍がガルヴィッツ・トンネルを占領後に、坑道内に窒息したドイツ軍兵士の死体が散乱した。

クロンプリンツ・トンネル(皇太子トンネル・Kronprinztunnel)は、ドイツではガルヴィッツ・トンネル(Gallwitztunnel)またはラベン・トンネル(Rabentunnel)とも呼ばれ、コーレッツ峡谷にある旧ドイツ軍のトンネルである。フランスのヴェルダン市の北西にあるトーターマンの丘の向かいにある。ヴェルダンの戦いで激しい戦闘が繰り広げられた地域である。1917年8月20日にフランス軍がガルヴィッツ・トンネルを占領後に、坑道内に窒息したドイツ軍兵士の死体が散乱した。

 第一次世界大戦中の1917年に、死者の戦い(ドイツ: der Schlacht am Toten Mann フランス:Mort Homme)でドイツ軍の約1kmの地下シェルターが避難所となった。坑道内にはドイツ軍連隊の司令部、2個大隊の司令部、着替所、厨房、2個中隊分の宿舎があった。多くの避難民が砲撃から避難してきた。

 8月12日からの砲撃で、多くのドイツ軍の被害が出た。北側の入口はもちろん、脇の入口も多数埋まっていた。フランス軍は南側の2つの出口と、ガルヴィッツ・トンネルのほぼ中央にある大きな急勾配のドラッグシャフト、いわゆるヒンメルスライター(天への梯子)の入口を、早く占拠できて、出口を埋める作業に取りかかった。空気の換気が悪く、酸素が少なく、砲撃が絶えなく、ガウルヴィッツ坑道での生活は悲惨となった。8月21日朝に、最後に残っていた換気口が閉鎖されて、正午頃に生き残った約700人のドイツ軍兵士は降伏した。

 8月13日と14日に、400mmの鉄道砲が約32回、8月17日から20日には約266回、うち19日だけで約112回の砲弾を行った。8月17日には、トンネルの北口が被弾したが、夜のうちに修復され、8月18日には砲弾で約100人のドイツ軍兵士が死亡した。8月19日に、砲弾が台所を直撃して、一酸化炭素で多くのドイツ軍兵士が死亡した。8月20日にフランス軍の歩兵連隊が攻撃したところ、約600人のドイツ兵が降伏した。

 1916年夏頃から坑道の建設は、ドイツ軍の戦線がフランス軍に偵察されてた。坑道の供給は難しく、費用も甚大であった。ドイツ軍第7軍団司令官フォン・フランソワ将軍は、前線と後方を安全に結ぶ地下通路として3つの坑道の掘削を命じた。工事は約9ヶ月近くかかり、多くは鉱山労働者である開拓兵士と歩兵が担当した。1917年5月に3つの坑道の開通式が行われ、その場で勲章が授与された。1917年5月にトンネルを使用した予備歩兵連隊の隊長は、許しがたい設計上の欠陥によってトンネルが脆弱である不満を漏らした。厨房トンネルが分岐した一番広い部分の木材が不十分で、中央部の屋根が弱く、入口の補強が必要で、厨房トンネルには独立した避難路がなく、全体が素人工事であるなど、多くの不満を持った。トンネルに宿舎があるので喜ぶと叱責され、彼の報告は却下された。 





2022年7月18日月曜日

清国末期に義和団の乱で、義和団の指導者が即座に断頭される斬首により、庶民の至近距離から生鮮市場で公開処刑された。

1900年に義和団の乱で、義和団の指導者が断頭される斬首を、庶民の至近距離から生鮮市場で公開処刑された。告発された義和団の指導者は全員厳しく追及され、公開処刑された。8カ国連合軍は賠償金と称して北京市内から略奪し、罪のない市民を非人道的に殺害した。数千人の義和団の容疑者が逮捕され、裁判にかけられ、ある者は即座に処刑された。義和団の乱後に逮捕された義和団員の中には、日本刀で殺された者もいた。義和団運動後の処刑は、裁判にかけられ、多くは略式に終わり、義和団と告発されて無罪になった記録はなく、ほぼ例外なく全員殺された。 

 アヘン戦争でイギリスに敗戦後の19世紀末に、清国は、欧米列強の勢力やキリスト教の宣教師たちの影響力が強まった。最後の一撃は日本軍が、1894年から1895年の日清戦争で、清国海軍を全滅して台湾海峡まで割譲させた。清朝の弱体化と列強の圧迫により、清国の不満が、最終的に山東省の致命的な干ばつが起点となり、1897年3月から義和団が反乱した。

 義和団は、武器は拳と刀で、呪文や儀式で神の憑依であった。1897年11月1日に義和団がドイツ人宣教師ゲオルグ・ステンツの家を襲撃して、神父2人を殺害した。1900年初期には、義和団は巨大な秘密結社となり、山東省から北京、天津に北上して侵攻した。義和団は呪文を唱え、儀式の硬気功で、剣や弾丸が体を貫かないと洗脳された。キリスト教の布教が、中国の伝統的な道教、仏教、儒教の信仰を脅かし、古代の神々や先祖に雨乞いを無視して、干ばつの罰を与えたのはキリスト教徒だと本気で信じた。戦火の中で、何人ものキリスト教徒が義和団に殺害された。

 1899年に義和団は蜂起に伴って、多くの州都を占拠した。中国の満州族であった清朝は、当初は強硬に義和団を鎮圧したが、その後義和団は呪文を唱え、神の魔法で、外国人の排斥を期待して、1900年初頭に西太后は豹変して、義和団を支持する勅令を発した。北京の大使館を包囲した義和団に対抗するイギリス、フランス、オーストリア・ハンガリー、ロシア、アメリカ、イタリア、ドイツ、日本が総勢5万5千人の兵士が、北京に塘沽の河口から上陸した。多くは日本軍(2万1千人近く)から、ロシア軍が1万3千人、英連邦諸国が約1万2千人、フランスとアメリカが各約3千5百人、その他は少なかった。

 清国軍の兵士たちは、8カ国連合軍と戦う義和団を支援して戦った。1900年6月初旬、清国軍と義和団は、約2000人の八カ国連合軍を撃破した。天津の戦いは、義和団の乱の中で最も血生臭い戦いとなった。義和団と清国軍は天津と近郊を猛攻した後も、7月13日夜から14日未明まで天津の戦いを続けた。その直後に、清国軍は闇に紛れて城門を逃避した。

 1900年7月初旬には、北京の大使館街の外国代表団やキリスト教徒に弾薬や食料の供給が途絶え、清国軍が大使館街に義和団の攻撃を放った。最終的に約38人の警備員が殺害され、約55人が大使館エリアで負傷した。7月17日に清国が停戦を宣言して、1ヶ月間も攻撃した義和団の銃撃が突然止み、救援隊の出現を願った。8月13日に、8カ国連合軍が北京に接近すると、義和団は再び大使館周辺に激しい銃撃を開始した。8月14日午後、八カ国連合軍が大使館周辺に到達し、義和団の包囲網を解放した。8月15日未明に、外国軍が北京の占領を祝っている最中に、老女と農民姿の青年が牛車に乗って、西太后と光緒帝が紫禁城から西安に逃避し、連合軍は追わなかった。義和団の乱の後、清朝は窮地に立たされた。西太后は外国の和平提案を受け入れた。1901年9月7日に、李鴻章と清玉祥が新条約に調印した。清国は約9億8000万テール以上の銀を、39年以内に外国政府に支払いを要求された。中国の経済賠償で、帝国主義列強は次第に力をつけ、より多くのキリスト教宣教師を中国に送り込んだ。