2022年7月25日月曜日

赤軍のロシア人のゲラシモフを処刑するために、連合軍の介入軍はロシア北方の白海湾に浮かぶ蒸気船コラ号の甲板上で、1918年8月8日に連合国の介入軍は銃殺した。

1918年8月8日に19歳のロシア人のコススタンチン・イワノビッチ・ゲラシモフ(Konstantin Ivanovich Gerasimov)は、ロシア北方の白海にて連合軍の介入軍によって銃殺された。1918年7月25日、ゲラシモフはソビエト赤軍に入隊した。ソビエト赤軍に参戦してから、オネガ(Onega)湾に侵攻した。8月2日から、イギリス軍とフランス軍の連合国の軍艦は白海から入港して、アルハンゲリスクを占領した。連合国の介入軍は、オネガ湾の海岸まで進駐した。ゲラシモフは、パルチザン部隊に参戦した。オネガ湾の海岸町を占領した連合国の介入軍が、夜間から突如にパルチザン部隊を攻撃した。ゲラシモフは、パルチザンの幹部を援護して、白軍の将校を銃殺したが、負傷して連合軍の介入軍の捕虜となった。介入軍は、ゲラシモフとパルチザンの一味を拷問して、ゲラシモフを処刑するために、白海湾に浮かぶ蒸気船のコラ号に連行された。コラ(Kola)号の甲板上にて、ゲラシモフは8月8日に、介入軍に銃殺された。8月17日までに連合国がオネガ湾の海岸まで進駐して、9月4日にアメリカ軍がアルハンゲリスクの連合国軍に参戦した。

 ロシア内戦への連合国の介入軍は、1918年から始まった多国籍軍の一連の遠征軍で構成された。連合国の介入軍はまず、チェコスロバキア軍団がロシアの港で軍需品と武器の供給を支援した。1918年から1920年に、チェコスロバキア軍団はシベリア鉄道全体とシベリアの主要都市を占領した。1919年までは、ロシア内戦の白軍を援護するのが目的だった。白軍が崩壊した時に、介入軍は1920年(日本軍は1922年)までに撤退した。

 介入軍は、ドイツ軍によるロシアの資源の搾取を止めて、中央主権国家を倒し、ボルシェビキ革命後に、ロシア国内の連合軍の一部を支援した。連合軍は北ロシア介入とシベリア介入に、アルハンゲルスクとウラジオストクに上陸した。1920年9月のチェコスロバキア軍の撤退とともに、連合国は1920年に北ロシアとシベリアへの介入を終了した。日本軍のシベリアへの介入は1922年まで続き、1925年までサハリンの北半分を占拠し続けた。




2022年7月24日日曜日

ロシア軍のミサイル攻撃の砲撃でハリコフで死亡した13歳の息子の死体を、父親は露出した胸に手を当てていた。葬儀作業員に死体が回収される直前に、父親は最後のキスをした。

ロシア軍のミサイル攻撃がウクライナ第2の都市ハリコフを襲い、3人が死亡した。直後に、父親が13歳の息子(Dmytro)の死体の側で慟哭した。ロシア軍のウクライナ侵攻の中に、2022年7月20日に、ハリコフの北部地区のサルティブカ(Saltivka)のバス停で、ロシア軍のミサイル攻撃により、13歳の男子が殺害された。ミサイルで殺害された10代の息子の死体のそばで、父親が膝をついて慟哭した。ロシア軍のミサイル攻撃の砲撃で死亡した息子の死体は、回収される直前に、父親は最後のキスをした。13歳の息子の死体の前で嘆く父親を、ウクライナ女性警官がその側で慰めた。その後に、葬儀作業員が13歳の息子の死体を担架で回収した。

 ウクライナ東部のハルキフで7月20日に、13歳の少年がモスク近くで、バスを待っていたバス停に、ロシア軍のミサイル攻撃が炸裂して死亡したと地元ハリキウ当局が発表した。通勤者らがバスを降りるときに、ミサイル砲弾がバス停に着撃して炸裂した。近くのモスクはひどく損傷していた。13歳の息子の父親は、破壊されたバス停の近くの路上に横たわり、赤いホイルシートに覆われた死体の息子の手を握ってひざまずいた。父親は、片手に小さな聖書を持ち、呆然と見つめて祈りの言葉を約2時間も唱えていた。父親は少年の露出した胸に手を当てていた。その後、葬儀作業員が死体袋のチャックを閉めて息子の死体を運び出すのを、立ったまま見届けてから、十字架のお祈りをした。ハリコフ州知事は、7月22日水曜日にハリコフで3人(10代の若者、男性、女性)が死亡した。地元のダンス教室に通っていた13歳の息子は死亡して、15歳の姉(Ksenia)は負傷した。ロシア軍のミサイルやロケット攻撃はウクライナの都市や町を荒廃させて、意図的に民間人も標的にした。地元検察庁は、ロケット弾はウラガン多連装ロケットランチャーから発射したと公表した。

 ウクライナ第二の都市ハリコフは、侵攻後約2カ月間はロシアの攻撃に抵抗した。その後にロシア軍が撤退後は比較的平穏だった。この1カ月間はほぼ毎日砲撃を受けている。ウクライナ東部ハルキウ州のシネグボフ知事は、ハルキウ市では7月20日に、バス停がロシア軍による攻撃を受けて、13歳の少年を含む3人が死亡した。少年の姉で15歳の少女も負傷した。彼らはただバスを待っていただけだった。侵略者たちは再び市民を襲った。新たな恐ろしいテロだとロシア軍を強く非難した。攻撃を受けたバス停は破壊されて、近くにある建物も壁が大きく崩れ、窓ガラスが割れていた。










Warning: A relative knees by the body of a thierteen who died in a Russian missile strike at a bus stop in Saltivka, a northern district of the second largest Ukrainian city of Kharkiv on July 20, 2022 amid the Russian invasion of Ukraine.(Sergey Bobok, AFP)

Warning: A father kisses the body of his son who was killed during a shelling attack in Saltivka neighborhood in northern of Kharkiv City, Ukraine, July 20th, 2022. (Narciso Contreras/Anadolu Agency)

2022年7月23日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下された翌日から本川国民学校の鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となり、体動する被爆者だけを、二階の教室に運び治療をした。

1945年8月末に、広島原子爆弾による一部の被爆者が本川(ほんかわ)国民学校の臨時救護所に収容された。本川国民学校の外壁が焼け残った校舎は、広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から鉄筋コンクリートが残存した外郭が臨時救護所となった。多数の被爆者が救護で集散して混乱を極めた。校庭では、一部の被爆死した被爆者の死体を集積してから火葬した。まもなく学校は,西校舎1階を中心に,負傷者を収容する臨時救護所となった。臨時救護所では,軍の衛生班をはじめ,近郊で生き残った者たちが被爆者の救護や遺体の処理にあたった。

 本川国民学校は、爆心地から西北西約410mと最も近距離の学校であった。広島原爆の爆風は窓枠を吹き飛ばして、壁はくの字に曲がり、約4,000度もの熱線は校内を火の海と化し、教材は全て燃え尽きた。校舎は、鉄筋コンクリート造であり、構造は丈夫に造られて倒壊を免れた。校舎は外郭のみを残して完全に全焼と全壊した。約10人の教職員と1・2年生の低学年の児童や疎開できない児童の約400人の全員が被爆死した。原爆の炸裂時に運動場にいた子どもたちは一瞬にして原爆に巻き込まれて、爆風と熱線と放射線に被爆して、即死して真っ黒焦げになった。その中で偶然に約1人の先生と1人の生徒のみが生き延びた。3年生以上の児童は、1945年4月までに備後十日市・八次国民学校に集団疎開をして被爆を免れた。

 爆風をもろに受けたL字型の校舎は、窓枠は吹っ飛び、壁がくの字に折れ曲がった。運動場で遊んだ子どもたちは一瞬にして真っ黒焦げ、爆風により壁に叩きつけられた。教室の中にいた子ども達は窓ガラスの破片を受けて重症に陥った。爆発時の強烈な熱線により自然発火した炎が窓から窓からにごうごうと一斉に吹き上げ、机、椅子・黒板・本・その他の天井板・床板などを燃やし尽くした。逃げ遅れた子ども達の死体が教室内で黒焦げで発見される。特に本川国民学校臨時救護所の被爆者は悲惨であった。床の上にゴロ寝した被爆者は、みな灰をかぶって、一見して生死の区別がつかなかった。膨大な被爆者を前にして、体動している被爆者だけを、二階の教室に運び治療をして、その他の人は見捨てる結果になった。




2022年7月22日金曜日

コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に反撃した反乱軍から奪還された。反撃した反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。

アフリカの脱植民地化にて勃発したコンゴ動乱が、1960年代の旧ベルギー領コンゴ(現ザイール)を荒廃させた。1960年にベルギーが速やかにコンゴ共和国から撤退した後に、一連の地方反乱が勃発した。国連軍は首都のレオポルドビル政府を支援して、事態の収拾に苦慮した。1964年に、モイーズ・カペンダ・チョンベ首相は、中国に学んだ元内閣大臣ピエール・ムレレの弓矢で武装した彼の信奉者の反乱軍に遭遇した。コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に、シンバ反乱軍の反撃から奪還された。反撃したシンバ反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。ピエール・ムレレは直前に首相を解任されて、ジョセフ・デシレ・モブツが11月24日に軍事クデーターで、長期独裁の大統領に就任した。

 コンゴ動乱は、1960年に旧ベルギー領コンゴの独立後に勃発して、1965年まで行われた内戦である。1960年6月にコンゴはカサブブを元首,ルムンバを首相として独立国となった。独立に反対するベルギー軍に対して、全土的な暴動が起こり,ベルギー軍が武力介入した。対応して親ベルギー派のチョンベが、カタンガ州の分離独立を宣言して,内戦となった。7月に国連軍が派遣されたが、内覧はおさまらなかった。民族派のルムンバが、親ベルギー派のチョンベに虐殺された。キンシャサ(旧レオポルドビル)のカサブブ,カタンガのチョンベ,ルムンバ派のギゼンガの3大勢力が抗争をくり広げた。1961年9月に,カタンガの復帰工作に向かうハマーショルド国連事務総長が事故死した。1964年にカサブブとチョンベが手を結び,カタンガ州は合同した。1965年にまた対立して,モブツ将軍の無血クーデタで、カサブブが追放されて,コンゴ動乱は終結した。 

 コンゴ動乱は、コンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)にて1960年から1965年に勃発した政治的混乱と紛争である。一連の内戦を構成するコンゴ動乱は、冷戦下で対立する派閥間で、約10万人の死者が発生した。1960年6月30日に、ベルギー領コンゴで植民地支配の撤廃を求める民族運動が起こり、独立が宣言された。7月の第1週には、軍隊で反乱が起こり、黒人と白人の民間人の間で暴動が勃発した。ベルギーは逃亡する白人を保護する名目で軍隊を派遣した。カタンガと南カサイは、ベルギーの支援を受けて分離独立した。暴動が続く中で、国連は平和維持軍を派遣したが、ダグ・ハマルスキョルド国連事務総長が、首都レオポルドビルの中央政府が分離主義者と戦うために、国連維持軍を拒否した。最大派閥のカリスマ、パトリス・ルムンバ首相は、ソ連に支援を求め、ソ連は直ちに軍事顧問団を派遣して支援に乗り出した。

 ベルギーからの独立後に、コンゴ民主共和国で一連の政治的騒乱が起こった。1960年1月、ベルギーがコンゴ沿いの広大な植民地を独立させる突然の決定を下して、レオポルドビル(キンシャサ)を統治者とする単一国家が誕生した。5月の議会選挙で部族間の戦闘が始まり、独立時の6月30日にはさらに戦闘が発生した。コンゴ警察は、ベルギー軍将校に反抗し、反乱を起こした。ヨーロッパ人と財産は攻撃され、ベルギー人難民は逃亡した。鉱山が豊富なカタンガ州では、ベルギー軍と白人傭兵の支援を受けたモイゼ・ツオンベが独立共和国を宣言した。政府は国連に治安回復のための軍を要請し、国連事務総長ハンマークヨルドはベルギー軍に代わる平和維持軍を派遣した。クーデターにより陸軍司令官モブツ大佐が政権を握り、急進派のパトリス・ルムンバ首相を排除した政権が誕生した。1961年、ルムンバは敵対部族に殺され、ハンマークイェルドもコンゴ訪問中に墜落死している。戦闘は続き、カタンガ、スタンレーヴィル、カサイでそれぞれ独立政権が樹立された。1965年11月、モブツ率いるコンゴ軍は2度目のクーデターを起こし、モブツは大統領になることを宣言した。



2022年7月21日木曜日

日本軍兵士は、日中戦争の平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。

1937年7月7日の盧溝橋事件が発端となり支那事変が誘発されて、血みどりの日中戦争が勃発した。日本軍兵士は、平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。平漢線は北平と漢口をつなぐ鉄道であり、中部支那と北支那とを連絡する大鉄道であった。1927年に北京が北平へ改称されて、北京から漢口までの京漢線が平漢線と改称された。7月9日に蔣介石は中央軍に対し、徐州付近に駐屯した中国軍に7月11日夜明けからの河南省への侵攻を命じた。7月10日に約200人以上の中国軍兵士が迫撃砲で攻撃を再開した。7月19日には中国軍兵士を北支那に集結させた。7月12日に両軍の撤兵を条項に含む停戦協定が締結されるも、前日の7月11日に、日本軍は華北への派兵を下令された。中国軍は7月25日に廊坊で、7月26日に広安門で日本軍に攻撃を加えた。日本軍は、7月27日に支那駐屯軍を増援して、7月28日に北京(北平)を陥落して、中国軍は、7月29日に講和を求めずに全面的抗戦に舵を切った。

 北支那の山岳戦と平地戦に、江南の陣地戦にて、壮烈かつ大規模な戦闘が展開された。鬼神も泣くほどの壮烈な激戦と労苦で、幾多の甚大な犠牲者を出した。歴史的な支那事変で、日本軍にとって有利な戦争記録を、皇徳奉賛会が資料を検閲して『支那事変史ー各社特派員決死の筆陣ー』(新聞タイムズ社、1937年12月)を刊行した。日本国民に対して、支那事変の推移に注目させて、近未来を洞察させ軍事的対策の必要性を認識させた。日中戦争の戦線にて硝煙と弾雨の間で、大新聞社から強制派遣された数百人の従軍特派員が、支那事変を取材と記録した。1枚の支那事変の戦争写真を記録するにも、従軍特派員は命がけの撮影となった。

 日本軍は中国沿線の各都市を、軍事上と交通上と商業上に重要視した。平漢線に沿って北京(北平)から南方に向って侵攻すると、約24kmにして蘆溝橋に到達する。支那事変の発瑞をなった盧溝橋にて、日本軍側は中国軍側が演習中の日本軍に向って不法射撃の火蓋を切ったと容疑した地点であった。平漢鉄道は、始めは蘆漢鉄路と称し、神聖な王城の北京にて、夷狄である外国人の手による鉄道の侵入は許し難く、北京郊外の盧溝橋にて支那事変が勃発した。平漢鉄道への攻撃は1938年2月9日に勃発して、徐州戦と連動した。金茶地軍区の中国軍が平漢鉄道沿いの日本軍に攻撃をした。3月4日に日本軍は約12,000人を動員して反撃に転じて、両陣営の戦いが繰り広げられ、日本軍は約1,600人が死傷した。




 

2022年7月20日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、ベラルーシ人の男子の目の前で、母親や家族が銃殺した。ノヴフゴロドの雪の路上で倒れた母親や家族の死体の側にしゃがみ込み、男子は慟哭して泣きじゃくった。

1944年に、ナチス・ドイツ軍の占領下にあった今日のベラルーシ近隣であるノヴフゴロドの都市で、ホロコーストによる民族浄化作戦で、民間ベラルーシ人が大量虐待と大量虐殺された。ナチス・ドイツ軍は、ベラルーシ人の男子の目の前で、身内の母親や家族を銃殺した。その殺害されて倒れた母親や家族の死体の側にしゃがみ込み、男の子は慟哭して泣きじゃくった。その周囲では、その他に殺害された民間ベラルーシ人の死体が、雪上の路上に散乱していた。

 1991年12月8日にソビエト連邦から独立した今日のベラルーシは、第2次世界大戦が勃発時は、ビエロロシアと呼称されたソビエト社会主義共和国であった。1941年6月22日午前4時45分から、電撃的に約400万人ものナチス・ドイツ軍兵士が、その後数週間にわたってイタリア軍、ルーマニア軍、その他の枢軸軍が、国境を越えてソビエト連邦に突入した。1944年8月にソ連軍が大祖国戦争により解放するまで、全てのベラルーシ地域は、ナチス・ドイツ軍に軍事占領された。ナチス・ドイツ軍のアインザッツグルッペン部隊によってベラルーシ人口の大量絶滅が執行された。

 ナチス・ドイツ軍の侵略と占領は、強制労働のために約38万人のベラルーシ人が追放された。さらに数十万人の民間ベラルーシ人が、大量に殺害され甚大な大量虐殺と大量虐待による人的被害を受けた。スラブ民族であるベラルーシ人は、ナチス・ドイツ軍の東部総合計画(Generalplan Ost: GPO)の一環として、絶滅、追放、奴隷化の民族浄化作戦が執行された。東部総合計画は、ポーランド侵攻や独ソ戦で占領した東部占領地域の再編計画であり、スラブ民族を絶滅してゲルマン化するために、ベラルーシ人は約75%も排除する計画であった。少なくとも約5,295ものベラルーシの村落が、ナチス・ドイツ軍によって破壊された。その住民の一部または全員が殺された。第二次世界大戦中にベラルーシで、焼失またはその他の方法で破壊された約9,200集落のうち、ハティンなどの約600以上の村で全住民が抹殺された。ナチス・ドイツ軍が占領した約3年間に、ベラルーシでは全体で、人口の約40%に相当する約100万人以上が殺害された。

 ソ連軍のパルチザンによるドイツ軍に対する攻撃は、民間ベラルーシ人に対する報復を誘発した。鉄道などに対する攻撃は、民間人の大量虐待と大量虐殺を招いて逆の効果をもたらした。パルチザンはドイツ軍兵士を殺害することよりも、ドイツ軍の供給ラインを混乱させることに重点を置いた。ナチス・ドイツ占領軍は、より多くの報復を行い、より多くの家を炎上して、より多くのベラルーシ人を殺害した。




2022年7月19日火曜日

第一次世界大戦にて1917年8月20日にヴェルダン地域で、フランス軍がガルヴィッツ・トンネルを占領後に、坑道内に窒息したドイツ軍兵士の死体が散乱した。

クロンプリンツ・トンネル(皇太子トンネル・Kronprinztunnel)は、ドイツではガルヴィッツ・トンネル(Gallwitztunnel)またはラベン・トンネル(Rabentunnel)とも呼ばれ、コーレッツ峡谷にある旧ドイツ軍のトンネルである。フランスのヴェルダン市の北西にあるトーターマンの丘の向かいにある。ヴェルダンの戦いで激しい戦闘が繰り広げられた地域である。1917年8月20日にフランス軍がガルヴィッツ・トンネルを占領後に、坑道内に窒息したドイツ軍兵士の死体が散乱した。

 第一次世界大戦中の1917年に、死者の戦い(ドイツ: der Schlacht am Toten Mann フランス:Mort Homme)でドイツ軍の約1kmの地下シェルターが避難所となった。坑道内にはドイツ軍連隊の司令部、2個大隊の司令部、着替所、厨房、2個中隊分の宿舎があった。多くの避難民が砲撃から避難してきた。

 8月12日からの砲撃で、多くのドイツ軍の被害が出た。北側の入口はもちろん、脇の入口も多数埋まっていた。フランス軍は南側の2つの出口と、ガルヴィッツ・トンネルのほぼ中央にある大きな急勾配のドラッグシャフト、いわゆるヒンメルスライター(天への梯子)の入口を、早く占拠できて、出口を埋める作業に取りかかった。空気の換気が悪く、酸素が少なく、砲撃が絶えなく、ガウルヴィッツ坑道での生活は悲惨となった。8月21日朝に、最後に残っていた換気口が閉鎖されて、正午頃に生き残った約700人のドイツ軍兵士は降伏した。

 8月13日と14日に、400mmの鉄道砲が約32回、8月17日から20日には約266回、うち19日だけで約112回の砲弾を行った。8月17日には、トンネルの北口が被弾したが、夜のうちに修復され、8月18日には砲弾で約100人のドイツ軍兵士が死亡した。8月19日に、砲弾が台所を直撃して、一酸化炭素で多くのドイツ軍兵士が死亡した。8月20日にフランス軍の歩兵連隊が攻撃したところ、約600人のドイツ兵が降伏した。

 1916年夏頃から坑道の建設は、ドイツ軍の戦線がフランス軍に偵察されてた。坑道の供給は難しく、費用も甚大であった。ドイツ軍第7軍団司令官フォン・フランソワ将軍は、前線と後方を安全に結ぶ地下通路として3つの坑道の掘削を命じた。工事は約9ヶ月近くかかり、多くは鉱山労働者である開拓兵士と歩兵が担当した。1917年5月に3つの坑道の開通式が行われ、その場で勲章が授与された。1917年5月にトンネルを使用した予備歩兵連隊の隊長は、許しがたい設計上の欠陥によってトンネルが脆弱である不満を漏らした。厨房トンネルが分岐した一番広い部分の木材が不十分で、中央部の屋根が弱く、入口の補強が必要で、厨房トンネルには独立した避難路がなく、全体が素人工事であるなど、多くの不満を持った。トンネルに宿舎があるので喜ぶと叱責され、彼の報告は却下された。 





2022年7月18日月曜日

清国末期に義和団の乱で、義和団の指導者が即座に断頭される斬首により、庶民の至近距離から生鮮市場で公開処刑された。

1900年に義和団の乱で、義和団の指導者が断頭される斬首を、庶民の至近距離から生鮮市場で公開処刑された。告発された義和団の指導者は全員厳しく追及され、公開処刑された。8カ国連合軍は賠償金と称して北京市内から略奪し、罪のない市民を非人道的に殺害した。数千人の義和団の容疑者が逮捕され、裁判にかけられ、ある者は即座に処刑された。義和団の乱後に逮捕された義和団員の中には、日本刀で殺された者もいた。義和団運動後の処刑は、裁判にかけられ、多くは略式に終わり、義和団と告発されて無罪になった記録はなく、ほぼ例外なく全員殺された。 

 アヘン戦争でイギリスに敗戦後の19世紀末に、清国は、欧米列強の勢力やキリスト教の宣教師たちの影響力が強まった。最後の一撃は日本軍が、1894年から1895年の日清戦争で、清国海軍を全滅して台湾海峡まで割譲させた。清朝の弱体化と列強の圧迫により、清国の不満が、最終的に山東省の致命的な干ばつが起点となり、1897年3月から義和団が反乱した。

 義和団は、武器は拳と刀で、呪文や儀式で神の憑依であった。1897年11月1日に義和団がドイツ人宣教師ゲオルグ・ステンツの家を襲撃して、神父2人を殺害した。1900年初期には、義和団は巨大な秘密結社となり、山東省から北京、天津に北上して侵攻した。義和団は呪文を唱え、儀式の硬気功で、剣や弾丸が体を貫かないと洗脳された。キリスト教の布教が、中国の伝統的な道教、仏教、儒教の信仰を脅かし、古代の神々や先祖に雨乞いを無視して、干ばつの罰を与えたのはキリスト教徒だと本気で信じた。戦火の中で、何人ものキリスト教徒が義和団に殺害された。

 1899年に義和団は蜂起に伴って、多くの州都を占拠した。中国の満州族であった清朝は、当初は強硬に義和団を鎮圧したが、その後義和団は呪文を唱え、神の魔法で、外国人の排斥を期待して、1900年初頭に西太后は豹変して、義和団を支持する勅令を発した。北京の大使館を包囲した義和団に対抗するイギリス、フランス、オーストリア・ハンガリー、ロシア、アメリカ、イタリア、ドイツ、日本が総勢5万5千人の兵士が、北京に塘沽の河口から上陸した。多くは日本軍(2万1千人近く)から、ロシア軍が1万3千人、英連邦諸国が約1万2千人、フランスとアメリカが各約3千5百人、その他は少なかった。

 清国軍の兵士たちは、8カ国連合軍と戦う義和団を支援して戦った。1900年6月初旬、清国軍と義和団は、約2000人の八カ国連合軍を撃破した。天津の戦いは、義和団の乱の中で最も血生臭い戦いとなった。義和団と清国軍は天津と近郊を猛攻した後も、7月13日夜から14日未明まで天津の戦いを続けた。その直後に、清国軍は闇に紛れて城門を逃避した。

 1900年7月初旬には、北京の大使館街の外国代表団やキリスト教徒に弾薬や食料の供給が途絶え、清国軍が大使館街に義和団の攻撃を放った。最終的に約38人の警備員が殺害され、約55人が大使館エリアで負傷した。7月17日に清国が停戦を宣言して、1ヶ月間も攻撃した義和団の銃撃が突然止み、救援隊の出現を願った。8月13日に、8カ国連合軍が北京に接近すると、義和団は再び大使館周辺に激しい銃撃を開始した。8月14日午後、八カ国連合軍が大使館周辺に到達し、義和団の包囲網を解放した。8月15日未明に、外国軍が北京の占領を祝っている最中に、老女と農民姿の青年が牛車に乗って、西太后と光緒帝が紫禁城から西安に逃避し、連合軍は追わなかった。義和団の乱の後、清朝は窮地に立たされた。西太后は外国の和平提案を受け入れた。1901年9月7日に、李鴻章と清玉祥が新条約に調印した。清国は約9億8000万テール以上の銀を、39年以内に外国政府に支払いを要求された。中国の経済賠償で、帝国主義列強は次第に力をつけ、より多くのキリスト教宣教師を中国に送り込んだ。




2022年7月17日日曜日

ウクライナのマウリポリのロシア軍の砲弾に被爆した6歳の少女は、救急車から病院に搬送されて、心臓マッサージ、除細動器で心肺蘇生しが、心肺停止したまま死亡した。

ロシア軍が2022年2月24日にウクライナ侵攻が勃発した4日目の2月27日日曜日に、ロシア軍による住宅地に対する猛烈な砲撃で、両親と郊外のスーパーマーケットにて6歳の少女が被弾した。瀕死の重症の少女が、救急車に救護されてウクライナ東部のドネツク州のマリウポルの市立病院に到着した。少女は、血まみれとなった漫画のユニコーンを描いたパジャマのズボンを着て、髪は輪ゴムで後ろで止めた少女の顔は青ざめた。救急車の中で、救急救命士のオレクサンドル・コノバロフが、心肺停止して意識消失した少女の胸部を圧迫して、懸命の心肺蘇生を措置した。血まみれの頭部を包帯で巻かれた父親は、救急救命士の右側に、呆然と慟哭して座って少女の左腕を抱いた。母親は救急車の外で慟哭していた。救急救命士は、病院職員が叫びながら担架に乗せて中に病院に入れるまで、車内で少女の心肺蘇生を続けた。

 少女は救急車から病院内に担架で搬送されて、医師や看護師らが酸素を吹き込みながら、心臓マッサージ、除細動器で心肺蘇生した。少女は心肺停止したまま生き返らず死亡した。死を見守った医師は、少女の顔に手を伸ばして目を閉じて、「少女の死をプーチンに見せてやれ」と怒った。看護師らは涙を流した。血の付着した鮮やかなポリエステルの上着に覆われた少女の死体が、担架の上で一人取り残された。ロシア軍侵攻直後の少なくとも352人(その内子供は16人)の民間ウクライナ人の死亡者の一人となった。

 マウリポリはアゾフ海の港町であり、戦争で最大の苦しみを味わい遮断されたままである。戦前の人口約43万人の4分の1以下の約10万人の民間人が、食料、水、燃料、医薬品がほとんどない状態で、閉じ込められた。ウクライナ軍の抵抗の象徴となったマウリポリの港町はロシア軍の侵攻直後からあまりにも生命の危険が迫った。路上の死体は放置されて、葬式もない、追悼式もない。マウリポリの港町に対するロシア軍の猛烈な攻撃で殺害された人々の葬式も、追悼式も、公的な集会もない。当局は死体を可能な限りトラックに集めては、マリウポルの大地に掘られた狭い溝に埋葬した。その死体には、榴散弾に当たった18カ月児、サッカーの試合中に爆発で死んだ16歳、ユニコーンの漫画で飾られた血まみれのパジャマで病院に運ばれた6歳にも満たない少女が含まれた。ロシア国防省は声明で、死体の写真や動画は ウクライナのキエフ政権が、西側メディア向けに偽装して演出したものだと述べた。




2022年7月16日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒され崩壊して、外には死んだ馬の死体が横たわった。

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒されて崩壊した。分厚い鉄筋コンクリートの階段が一瞬にして崩れた。約1,400人の関係者が被爆死した。長崎三菱製鋼所の外には、死んだ馬の死体が横たわっていた。15歳で被爆した松添鶴次が働いていた地下の魚雷兵器工場は、爆心地から約2.3kmもあり比較的無傷であった。

 松添鶴次は、長崎原子爆弾の被爆時は15歳あった。長崎市内の爆心地から約1.8kmの長崎市大橋町にて、長崎師範学校の学生寮で直接に被爆した。兵器工場で学徒勤労して夜勤上げで寄宿舎に戻っていた。熟睡している時に、1945年8月9日午前11時2分に原子爆弾が投下され炸裂した。寄宿舎の周囲の壁は崩れて、白い粉の埃が回った。突如にまるで火の粉を振りかけられ、慌てて白い粉を払い除けた。玄関に通じる廊下の窓が粉砕して、窓から飛び降りて外に出た。瞬間的に高圧を受けて疼痛を伴った。

 学校の敷地を出たら、芋畑の中を走り抜けた。近隣に両側が崖となる防空壕に逃避した。多数の地域の避難者が防空壕に逃げ込んだ。右上腕から胸に大火傷して、皮膚が腫脹して水疱が発生した。その後にはケロイドが膨隆して、右肘関節と右手関節が拘縮した。

 原子爆弾が投下されて約1時間半後に、長崎師範学校と寄宿舎も炎上した。寄宿舎の中では、倒れた柱の下に挟まれて身動きできず炎上に巻き込まれた。助けてくれと叫びながら焼死した。学校の周囲の長崎市大橋町から爆心地にかけて、全域から煙が立ち上った。金毘羅山から稲作山には真っ黒な雲が立ち上った。長崎の浦上駅から長崎駅にかけて全域が燃えた。治療の油を求めて学徒勤労した住吉トンネルの地下工場に向かった。その途上の電車通りに出て、道ノ尾方面に赤迫まで徒歩した。出血が浴衣まで染めて貧血状態でいた。長崎医科大学前の電車通りには、多数の重症の被爆者が道ノ尾方面に救護を求めて死の行進をした。長与国民学校に列車で避難した。校庭は死体安置所となった。長崎原子爆弾が投下されて2日後に、父親とともに川棚町の実家に戻った。松添鶴次は戦後に新聞記者に勤務した。退職後に、川棚史談会にて長崎原子爆弾の被爆体験を戦争史として文章化した(長崎平和推進協会)。




2022年7月15日金曜日

太平洋戦争の終戦後にアメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。

日本軍による韓国併合から解放された朝鮮人による政治的暴力で、終戦後に初めて朝鮮人が殺害された。アメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。殺害された朝鮮人の死体は労働組合指導者のクォン・ピョングンあるいは平和維持活動家のイ・ソククのどちらかであり、9月8日に殺害された。8月15日の日本の降伏から3週間以上たった年9月8日に、アメリカ軍は大量に韓国に到着し上陸を始めた。その後1カ月半で、その数は朝鮮半島の占領期間中のピークである約7万7000人にまで増大した。

 日本軍の警察の働きにより、9月8日にインチョンにいた朝鮮人は、アメリカ軍が大挙して上陸し始めると鎮圧された。その数日前から、インチョンとソウルの間の村々に住む数百人の朝鮮人が、アメリカ軍憲兵隊の先遣隊に集まり、車両を花で飾った。その後に続く大規模な部隊は、「民衆の束縛を打ち払うために天からまっすぐ降りてきた輝く騎士のようだった」と記載された。アメリカ軍兵士が朝鮮半島の南半分に散らばって占領の任務につくと、ほぼ一様に英雄として歓迎された。しかし、蜜月は短いものであった。ホッジ将軍がソウルに到着してから数日のうちに、警察は混乱し、街は緊張に包まれた。ソ連領事館にいたソ連軍は、扇動者を煽っている疑いがあり、これまで見た中で最も荒っぽく、最も乱暴な集団」であると述べた。国務省の占領軍の担当者は、石炭と食糧穀物の危機的な不足と広範囲に及ぶ広範な地域の失業を報告した。占領下のアメリカ国務省代表は、日本の軍需産業の崩壊と、多くの朝鮮人が長期休暇を選択したことも一因であった。

 アメリカ軍が朝鮮半島に9月8日上陸する頃に、朝鮮人は日本軍の植民地支配に代わる独立運動活動に深く関与した。8月中旬に、日本軍の阿部信行総督は、日本帝国の降伏を予期した。8月8日に宣戦布告したソビエト軍が、朝鮮半島に侵入した。朝鮮人が、約16万3,000人の日本軍兵士と約37万8,000人以上の民間日本人を攻撃することを恐れた。終戦の秩序を確保するために特権階級の朝鮮人を従事させた。阿部は、非共産系左派の余雲彪に接近して、穏健な民族主義者の朝鮮人に拒否された。ソウルに「朝鮮独立準備委員会」を設立して、朝鮮の自主独立政府の枠組みを策定した。日本軍から脱走した朝鮮住民の朝鮮人兵士や武装した青年団、私兵の支援を受けた。その中に中国共産党が解放した数千人の囚人(政治犯、犯罪犯を問わず)も含まれた。 

 朝鮮人の保守派の多くは朝鮮建国準備委員会への協力を拒否して、左派中心の組織となった。当時の朝鮮半島は、新旧の階級、政治団体、イデオロギーが入り乱れた。朝鮮人は約5人に約4人が農業で生計を立てる小作人であった。日本軍が主導して資本家、ホワイトカラー、工場労働者が混在した。戦時中の動員により、日本国内へしばしば強制移住させた。名前や言語を含む朝鮮文化の痕跡を根絶する強硬な同化が勃発した。朝鮮人は公然と抵抗するのは不可能であり、朝鮮人は程度の差あれ日本軍の支配に迎合し、解放の際に表面化する怨念を朝鮮住民の朝鮮人に生み出した。政治的には右派と左派に大別された。財産と教育を受けた朝鮮人の多くは、日本と何らかの協力関係にあり、包括的な土地改革や富の再分配の手段など、極端な変革に反対する右派に属した。日本の植民地支配の下で働いた低学歴、低所得の約40%近くが朝鮮人であった悪名高い警察官も、日本に加った。




2022年7月14日木曜日

移動式軍法会議の判決文で、親衛隊や保安部隊の銃殺隊により、裏切り者と脱走兵のドイツ人容疑者は、両手を後手に縛られて処刑されて草むらに死体が倒れた。

第二次世界大戦のナチス・ドイツが終末期を迎えた1945年2月15月に、臆病で利己的な罪を犯したドイツ人を即座に処刑することを認めるドラムヘッド軍法会議の設置令が下された。軍法会議では、ドイツ人がドイツ人を射殺する処刑が頻発した。移動式軍法会議で下された判決文により、親衛隊や保安部隊の銃殺隊は、裏切り者と脱走兵のドイツ人に銃殺刑を執行した。裏切り者や脱走兵と容疑されたドイツ人は、厳しい処分を受けて、両手を後手に縛られて、親衛隊や保安部隊により銃殺されて草むらに死体が倒れた。

 ナチス・ドイツの戦闘力または戦闘決意を危うくするすべての行為を罰する軍法会議が設置された。直面する軍事力の崩壊に対抗する措置であった。ナチス・ドイツ政権の最終局面で、何千から何万というドイツ軍兵士が処刑されて命を落としたと推定された。ナチス政権の残虐性は、もはや抑止できなかった。宣伝された最終的な勝利をもはや信じていないドイツ軍兵士や民間人に対する虐待と虐殺があった。多くのドイツ人の日常生活からは縁遠くなくドイツ帝国の中心部の社会の玄関口で執行された。第二次世界大戦が終わる直前までに、ドイツ帝国では再び無数の人々が殺害された。脱走兵、戦争で疲弊した民間人、強制収容所の囚人、未来には占領する連合軍との最後の粛清であった。ナチス自身でさえもテロから逃れられなかった。

 第二次世界大戦の最後の2ヶ月間に、アドルフ・ヒトラーはドイツ軍が使用する移動式軍法会議を許可した。1945年3月にハインリッヒ・ヒムラー親衛隊長官は、旗印令を発令して、敵に降伏するドイツ人を徹底的に弾圧した。白旗を掲げた家族には、一定年齢以上の男子はすべて銃殺された。1945年3月19日に、ヒトラーはネロ命令と呼称する焦土作戦を発令した。ドイツ国防軍の退却の際に、敵が戦闘の継続のために使用するすべてのインフラと物質的資産の破壊を命令した。ナチス・ドイツ帝国内では、多くの人々が裏切り者として処刑された。男性だけでなく、女性も、時には家族全員が処刑された。

















2022年7月13日水曜日

沖縄戦末期前に、那覇近郊において偽装された砲台がアメリカ軍に射撃され、すべての日本軍兵士の砲手が殺害され死体が散乱した。

沖縄戦末期前に、那覇近郊において偽装された砲台がアメリカ軍に射撃されて、すべての日本軍兵士の砲手が殺害された。偽装された砲台の周辺に殺害されて散乱した日本軍兵士の死体が1945年6月頃に検死された。砲撃のために身を隠していた日本軍兵士は、アメリカ軍歩兵に射殺された。偽装した砲台を歩兵に奇襲されて、日本軍兵士は一人残らず殺害された。

 沖縄戦も1945年5月末になると、那覇の首里の戦闘は約2ヶ月近くも続いていた。アメリカ軍は、5月21日に運玉森の東側斜面を占領して、約1週間以上の戦闘後に、日本軍の首里防衛線はまだ堅持された。沖縄本島の南部で、アメリカ軍が占領したのは、丘陵と珊瑚礁の尾根の狭い地域に限定された。4月1日に奪取した読谷と嘉手納の飛行場を除けば、日本本土の攻撃に戦略的な価値を持たない地域であった。飛行場、伊江島の平地、沖縄中部の空軍基地の沿岸地域に、建設大部隊がひしめいて、沖縄本島を巨大な不沈空母にして、日本への最終空襲をに取りかかった。日本軍は激しい砲撃の間、地下深くに潜伏していた。アメリカ軍は浅い塹壕の中、防御線の尾根の斜面や頂上に潜伏した。

  しかし、5月末までに、日本軍の三大戦闘部隊はすべて戦線に投入された。アメリカ軍による絶え間ない艦砲射撃、砲撃、航空攻撃、戦車・歩兵戦闘により、日本軍はすべて衰退していた。二流部隊は、正規の戦闘部隊の生き残りに混じって戦線に存在した。5月末までに日本軍兵士の約62,548人が死亡して、さらに5月末には約9,529人が死亡したと推定された。沖縄本島の北部地域での死者は約3,214人、離島での死者は約4,856人でも、それに対して、那覇の首里の戦闘地帯では日本軍兵士は約64,000人が死亡したと報告された。日本軍は、深刻な打撃を受けて、砲兵隊も弱体化が顕著で、艦砲射撃、対砲兵射撃、空爆によって次々と破壊された。 

 沖縄で捕虜になる日本軍兵士の少なさほど、太平洋戦争とヨーロッパ戦線の大きな差異であった。5月末に第3水陸両軍団が捕虜にした日本軍兵士はわずか約128人であった。2ヶ月の戦闘の後の沖縄本島の南部で、第24軍の4師団が捕虜にしたのはわずか約90人であった。捕虜となった日本軍兵士は、重傷か意識不明で、捕虜になるのを防ぐ自決ができず、アメリカ軍に捕獲された。日本軍兵士は死ぬまで戦って、死傷者はただ一種類、死者だけであった。負傷のために死ぬか、殺されるために戦線に戻るかのどちらかであった。 

 アメリカ軍側の死傷者は、太平洋戦争中で最も多かった。5月末の時点で、那覇の首里戦線での約1ヶ月の戦闘を含む海兵隊2個師団の損失は、死者約1,718人、負傷者約8,852人、行方不明者約101人となった。2ヶ月間の戦闘で、第24軍団は死者約2,871人、負傷者約12,319人、行方不明者約183人の犠牲を受けた。第24軍団と第3水陸両軍団は合計約26,044人の死傷者を出した。非戦闘員の死傷者も多く、その多くが精神神経症や戦闘疲労であった。5 月末までに海兵隊2個師団は約6,315人、陸軍4個師団は約7,762人の非戦闘員を収容した。アメリカ軍兵士の損失は日本軍約10人につき約1人であった。




2022年7月12日火曜日

日露戦争で摩天嶺の戦いが勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。

日露戦争で摩天嶺の戦い(Battle of Motien Pass​)が勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。中国の遼寧省の千山山脈にある摩天嶺と呼称した山地である。摩天嶺は、鴨緑江流域と遼河流域の分水嶺にあたる山地の尾根の頂にある。日本軍は1904年7月半ばから8月はじめにかけて、摩天嶺付近で、大石橋付近で、遼陽東部で、次々とロシア軍を破り圧迫した。アメリカの報道週刊誌「コリアーズ」から日本軍に派遣された記者が従軍して日露戦争の写真記録した。

 ロシア軍は、遼東半島の真中で、安東と遼陽の間の幹線道路上にある摩天嶺を占領していた。摩天嶺に布陣した約10,900人の日本軍に対して約26,600人のロシア軍が攻撃をしかけて1904年7月10日に勃発した。ロシア軍は日本軍の約2.5倍もの大兵力で摩天嶺の西方から砲撃を仕掛けた。日本軍は既に防衛陣地を構築していたため、頑強に抵抗した。日本軍の黒木為楨司令官はロシア軍に側面攻撃をかけて、ロシア軍は遼寧省北部に撤退した。その直後にロシア軍のフェードア・ケルレル(Fedor Keller) 司令官は日本軍の砲撃に殺害された。摩天嶺の戦いの犠牲者は、日本軍の死傷者約355人とロシア軍は約1,213人に及んだ。その後に、日本軍は摩天嶺の占領に成功して、中国の遼陽への起点を確保した。

 日本政府は、1904年2月4日に御前会議で日露戦争を決定した。2月3日に国交断絶を通告した。2月10日にロシア政府への宣戦布告を行った。2月11日に大本営を設置した。2月23日に大韓帝国と日本軍の補給線を確保する日韓議定書を締結した。2月24日から5月3日まで、ロシア艦隊の旅順閉塞作戦を日本軍は失敗した。6月20日に日本軍の満州総司令部が新設された。1904年5月1日、鴨緑江会戦が勃発した。7月10日に日本軍は摩天嶺を占領した。さらに8月24日から9月まで遼陽会戦が勃発した。




2022年7月11日月曜日

解放されたナチス・ドイツのブッヘンヴァルト強制収容所の火葬場の後ろに積み上げられた死体の山を、二人のアメリカ軍兵士が1945年4月14日に見守った。

ドイツのテューリンゲン州にあるブッヘンヴァルト強制収容所の火葬場の後ろに積み上げられた死体の山を、二人のアメリカ軍兵士が1945年4月14日に見守った。連合軍の最高司令官アイゼンハワー将軍らは4月12日に訪問した。4月15日にドイツ・ワイマール市民に強制見学させた。4月19日に国会議員と記者に収容所を解放して見学させた。

 ブッヘンヴァルト強制収容所から何千人もの囚人が、ダッハウ強制収容所への死の行進は、彼らの解放を意味しなかった。1945年4月3日に、囚人が最後に点呼された日は、収容所内の雰囲気はかつてないほど緊迫した。囚人は、もはや強制労働に連行されなかった。4月5日に、オールドルフ支部から約9,000人の囚人が死の行進した。4月6日と4月7日、死の行進が非常に増大して、収容所に残存した囚人は25,000人未満に減少した。4月6日に、収容所のレジスタンス指導者の約46人の囚人が蜂起した。(約33人がドイツの反ファシスト、約5人がオランダ人、約4人がチェコ人、約2人がオーストリア人、約2人がポーランド人だった)。ナチス親衛隊の収容所ピスター所長は、容疑者の全員は4月7日に出頭を命じられたが、隠蔽して粛清を免れた。4月8日に、収容所の秘密軍事委員会は、慎重に隠蔽して送信機を作動した。被収容者の代表が、ドイツ語、英語、ロシア語で連合国側に重要なモールス通信が送られた。持ちこたえろ、救援に駆けつけると返信された。その後2回目の死の行進が行われた。

 4月10日に、アメリカ軍の偵察機が収容所の上空を通過した。収容所の所長は、ソ連軍兵士の囚人から順に強制避難を命じた。約5,000人の兵士(ロシア軍、ポーランド軍、チェコ軍)が隊列を組んで、収容所を後に死の行進した。アメリカ第3軍は、ワイマールとエアフルト間で、間近に接近した。4月10日から11日の夜間が、最も緊張する夜となった。ナチス親衛隊は、最後の夜に無差別に、約60人の囚人が収容所の火葬場で絞首刑にされた。

 1945年4月11日に収容所の秘密軍事委員会は、警戒レベル2に決定した。密造した武器を、箱から取り出し配布した。時間の経過ごとに緊張が高まった。午前11時45分に、アメリカ軍に対する新たな航空警報が発生した。収容所所長は収容所に対する爆撃を、ドイツ空軍に命令したが、ノーラ空軍基地のドイツ軍司令官は拒否した。午後1時00分に最初のアメリカ軍の戦車がホテルステッドに出現した。午後2時00分に、親衛隊中隊が森の北西に陣取った直後に、アメリカ軍の戦車約12台が森林に侵入した。午後2時30分に、秘密軍事委員会から攻撃開始の指令が出された。重装備の親衛隊が守備した管制塔が攻撃され、収容所内の秘密攻撃部隊がすべて反抗を開始した。親衛隊の防御は打破されて、午後3時15分に、司令部のタワーに白旗が掲げられた。

 4月11日午後3時40分に、最初のアメリカ軍の戦車が収容所を通過した。しかし、収容所に停車せずにワイマールに向かって走行した。午後4時に、アメリカ軍のジープがキャンプに侵入した。すでに自由の旗は翻っていた。レジスタンスは約200人の親衛隊捕虜を連行して、残虐行為もせずにアメリカ軍に引き渡した。後にアメリカ軍から賞賛を受けた。ブッヘンヴァルト強制収容所が解放されて、約21,000人の囚人が救われた。それまで強制収容所には、約8年間で約25万人以上のあらゆる国の男性、女性、子供などが収監された。野蛮な大量虐待と大量虐殺の結果、約56,000人以上が死亡した。