2022年7月17日日曜日

ウクライナのマウリポリのロシア軍の砲弾に被爆した6歳の少女は、救急車から病院に搬送されて、心臓マッサージ、除細動器で心肺蘇生しが、心肺停止したまま死亡した。

ロシア軍が2022年2月24日にウクライナ侵攻が勃発した4日目の2月27日日曜日に、ロシア軍による住宅地に対する猛烈な砲撃で、両親と郊外のスーパーマーケットにて6歳の少女が被弾した。瀕死の重症の少女が、救急車に救護されてウクライナ東部のドネツク州のマリウポルの市立病院に到着した。少女は、血まみれとなった漫画のユニコーンを描いたパジャマのズボンを着て、髪は輪ゴムで後ろで止めた少女の顔は青ざめた。救急車の中で、救急救命士のオレクサンドル・コノバロフが、心肺停止して意識消失した少女の胸部を圧迫して、懸命の心肺蘇生を措置した。血まみれの頭部を包帯で巻かれた父親は、救急救命士の右側に、呆然と慟哭して座って少女の左腕を抱いた。母親は救急車の外で慟哭していた。救急救命士は、病院職員が叫びながら担架に乗せて中に病院に入れるまで、車内で少女の心肺蘇生を続けた。

 少女は救急車から病院内に担架で搬送されて、医師や看護師らが酸素を吹き込みながら、心臓マッサージ、除細動器で心肺蘇生した。少女は心肺停止したまま生き返らず死亡した。死を見守った医師は、少女の顔に手を伸ばして目を閉じて、「少女の死をプーチンに見せてやれ」と怒った。看護師らは涙を流した。血の付着した鮮やかなポリエステルの上着に覆われた少女の死体が、担架の上で一人取り残された。ロシア軍侵攻直後の少なくとも352人(その内子供は16人)の民間ウクライナ人の死亡者の一人となった。

 マウリポリはアゾフ海の港町であり、戦争で最大の苦しみを味わい遮断されたままである。戦前の人口約43万人の4分の1以下の約10万人の民間人が、食料、水、燃料、医薬品がほとんどない状態で、閉じ込められた。ウクライナ軍の抵抗の象徴となったマウリポリの港町はロシア軍の侵攻直後からあまりにも生命の危険が迫った。路上の死体は放置されて、葬式もない、追悼式もない。マウリポリの港町に対するロシア軍の猛烈な攻撃で殺害された人々の葬式も、追悼式も、公的な集会もない。当局は死体を可能な限りトラックに集めては、マリウポルの大地に掘られた狭い溝に埋葬した。その死体には、榴散弾に当たった18カ月児、サッカーの試合中に爆発で死んだ16歳、ユニコーンの漫画で飾られた血まみれのパジャマで病院に運ばれた6歳にも満たない少女が含まれた。ロシア国防省は声明で、死体の写真や動画は ウクライナのキエフ政権が、西側メディア向けに偽装して演出したものだと述べた。




2022年7月16日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒され崩壊して、外には死んだ馬の死体が横たわった。

長崎原子爆弾の爆心地から約1.0kmにある長崎三菱製鋼所は鉄骨群がなぎ倒されて崩壊した。分厚い鉄筋コンクリートの階段が一瞬にして崩れた。約1,400人の関係者が被爆死した。長崎三菱製鋼所の外には、死んだ馬の死体が横たわっていた。15歳で被爆した松添鶴次が働いていた地下の魚雷兵器工場は、爆心地から約2.3kmもあり比較的無傷であった。

 松添鶴次は、長崎原子爆弾の被爆時は15歳あった。長崎市内の爆心地から約1.8kmの長崎市大橋町にて、長崎師範学校の学生寮で直接に被爆した。兵器工場で学徒勤労して夜勤上げで寄宿舎に戻っていた。熟睡している時に、1945年8月9日午前11時2分に原子爆弾が投下され炸裂した。寄宿舎の周囲の壁は崩れて、白い粉の埃が回った。突如にまるで火の粉を振りかけられ、慌てて白い粉を払い除けた。玄関に通じる廊下の窓が粉砕して、窓から飛び降りて外に出た。瞬間的に高圧を受けて疼痛を伴った。

 学校の敷地を出たら、芋畑の中を走り抜けた。近隣に両側が崖となる防空壕に逃避した。多数の地域の避難者が防空壕に逃げ込んだ。右上腕から胸に大火傷して、皮膚が腫脹して水疱が発生した。その後にはケロイドが膨隆して、右肘関節と右手関節が拘縮した。

 原子爆弾が投下されて約1時間半後に、長崎師範学校と寄宿舎も炎上した。寄宿舎の中では、倒れた柱の下に挟まれて身動きできず炎上に巻き込まれた。助けてくれと叫びながら焼死した。学校の周囲の長崎市大橋町から爆心地にかけて、全域から煙が立ち上った。金毘羅山から稲作山には真っ黒な雲が立ち上った。長崎の浦上駅から長崎駅にかけて全域が燃えた。治療の油を求めて学徒勤労した住吉トンネルの地下工場に向かった。その途上の電車通りに出て、道ノ尾方面に赤迫まで徒歩した。出血が浴衣まで染めて貧血状態でいた。長崎医科大学前の電車通りには、多数の重症の被爆者が道ノ尾方面に救護を求めて死の行進をした。長与国民学校に列車で避難した。校庭は死体安置所となった。長崎原子爆弾が投下されて2日後に、父親とともに川棚町の実家に戻った。松添鶴次は戦後に新聞記者に勤務した。退職後に、川棚史談会にて長崎原子爆弾の被爆体験を戦争史として文章化した(長崎平和推進協会)。




2022年7月15日金曜日

太平洋戦争の終戦後にアメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。

日本軍による韓国併合から解放された朝鮮人による政治的暴力で、終戦後に初めて朝鮮人が殺害された。アメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。殺害された朝鮮人の死体は労働組合指導者のクォン・ピョングンあるいは平和維持活動家のイ・ソククのどちらかであり、9月8日に殺害された。8月15日の日本の降伏から3週間以上たった年9月8日に、アメリカ軍は大量に韓国に到着し上陸を始めた。その後1カ月半で、その数は朝鮮半島の占領期間中のピークである約7万7000人にまで増大した。

 日本軍の警察の働きにより、9月8日にインチョンにいた朝鮮人は、アメリカ軍が大挙して上陸し始めると鎮圧された。その数日前から、インチョンとソウルの間の村々に住む数百人の朝鮮人が、アメリカ軍憲兵隊の先遣隊に集まり、車両を花で飾った。その後に続く大規模な部隊は、「民衆の束縛を打ち払うために天からまっすぐ降りてきた輝く騎士のようだった」と記載された。アメリカ軍兵士が朝鮮半島の南半分に散らばって占領の任務につくと、ほぼ一様に英雄として歓迎された。しかし、蜜月は短いものであった。ホッジ将軍がソウルに到着してから数日のうちに、警察は混乱し、街は緊張に包まれた。ソ連領事館にいたソ連軍は、扇動者を煽っている疑いがあり、これまで見た中で最も荒っぽく、最も乱暴な集団」であると述べた。国務省の占領軍の担当者は、石炭と食糧穀物の危機的な不足と広範囲に及ぶ広範な地域の失業を報告した。占領下のアメリカ国務省代表は、日本の軍需産業の崩壊と、多くの朝鮮人が長期休暇を選択したことも一因であった。

 アメリカ軍が朝鮮半島に9月8日上陸する頃に、朝鮮人は日本軍の植民地支配に代わる独立運動活動に深く関与した。8月中旬に、日本軍の阿部信行総督は、日本帝国の降伏を予期した。8月8日に宣戦布告したソビエト軍が、朝鮮半島に侵入した。朝鮮人が、約16万3,000人の日本軍兵士と約37万8,000人以上の民間日本人を攻撃することを恐れた。終戦の秩序を確保するために特権階級の朝鮮人を従事させた。阿部は、非共産系左派の余雲彪に接近して、穏健な民族主義者の朝鮮人に拒否された。ソウルに「朝鮮独立準備委員会」を設立して、朝鮮の自主独立政府の枠組みを策定した。日本軍から脱走した朝鮮住民の朝鮮人兵士や武装した青年団、私兵の支援を受けた。その中に中国共産党が解放した数千人の囚人(政治犯、犯罪犯を問わず)も含まれた。 

 朝鮮人の保守派の多くは朝鮮建国準備委員会への協力を拒否して、左派中心の組織となった。当時の朝鮮半島は、新旧の階級、政治団体、イデオロギーが入り乱れた。朝鮮人は約5人に約4人が農業で生計を立てる小作人であった。日本軍が主導して資本家、ホワイトカラー、工場労働者が混在した。戦時中の動員により、日本国内へしばしば強制移住させた。名前や言語を含む朝鮮文化の痕跡を根絶する強硬な同化が勃発した。朝鮮人は公然と抵抗するのは不可能であり、朝鮮人は程度の差あれ日本軍の支配に迎合し、解放の際に表面化する怨念を朝鮮住民の朝鮮人に生み出した。政治的には右派と左派に大別された。財産と教育を受けた朝鮮人の多くは、日本と何らかの協力関係にあり、包括的な土地改革や富の再分配の手段など、極端な変革に反対する右派に属した。日本の植民地支配の下で働いた低学歴、低所得の約40%近くが朝鮮人であった悪名高い警察官も、日本に加った。




2022年7月14日木曜日

移動式軍法会議の判決文で、親衛隊や保安部隊の銃殺隊により、裏切り者と脱走兵のドイツ人容疑者は、両手を後手に縛られて処刑されて草むらに死体が倒れた。

第二次世界大戦のナチス・ドイツが終末期を迎えた1945年2月15月に、臆病で利己的な罪を犯したドイツ人を即座に処刑することを認めるドラムヘッド軍法会議の設置令が下された。軍法会議では、ドイツ人がドイツ人を射殺する処刑が頻発した。移動式軍法会議で下された判決文により、親衛隊や保安部隊の銃殺隊は、裏切り者と脱走兵のドイツ人に銃殺刑を執行した。裏切り者や脱走兵と容疑されたドイツ人は、厳しい処分を受けて、両手を後手に縛られて、親衛隊や保安部隊により銃殺されて草むらに死体が倒れた。

 ナチス・ドイツの戦闘力または戦闘決意を危うくするすべての行為を罰する軍法会議が設置された。直面する軍事力の崩壊に対抗する措置であった。ナチス・ドイツ政権の最終局面で、何千から何万というドイツ軍兵士が処刑されて命を落としたと推定された。ナチス政権の残虐性は、もはや抑止できなかった。宣伝された最終的な勝利をもはや信じていないドイツ軍兵士や民間人に対する虐待と虐殺があった。多くのドイツ人の日常生活からは縁遠くなくドイツ帝国の中心部の社会の玄関口で執行された。第二次世界大戦が終わる直前までに、ドイツ帝国では再び無数の人々が殺害された。脱走兵、戦争で疲弊した民間人、強制収容所の囚人、未来には占領する連合軍との最後の粛清であった。ナチス自身でさえもテロから逃れられなかった。

 第二次世界大戦の最後の2ヶ月間に、アドルフ・ヒトラーはドイツ軍が使用する移動式軍法会議を許可した。1945年3月にハインリッヒ・ヒムラー親衛隊長官は、旗印令を発令して、敵に降伏するドイツ人を徹底的に弾圧した。白旗を掲げた家族には、一定年齢以上の男子はすべて銃殺された。1945年3月19日に、ヒトラーはネロ命令と呼称する焦土作戦を発令した。ドイツ国防軍の退却の際に、敵が戦闘の継続のために使用するすべてのインフラと物質的資産の破壊を命令した。ナチス・ドイツ帝国内では、多くの人々が裏切り者として処刑された。男性だけでなく、女性も、時には家族全員が処刑された。

















2022年7月13日水曜日

沖縄戦末期前に、那覇近郊において偽装された砲台がアメリカ軍に射撃され、すべての日本軍兵士の砲手が殺害され死体が散乱した。

沖縄戦末期前に、那覇近郊において偽装された砲台がアメリカ軍に射撃されて、すべての日本軍兵士の砲手が殺害された。偽装された砲台の周辺に殺害されて散乱した日本軍兵士の死体が1945年6月頃に検死された。砲撃のために身を隠していた日本軍兵士は、アメリカ軍歩兵に射殺された。偽装した砲台を歩兵に奇襲されて、日本軍兵士は一人残らず殺害された。

 沖縄戦も1945年5月末になると、那覇の首里の戦闘は約2ヶ月近くも続いていた。アメリカ軍は、5月21日に運玉森の東側斜面を占領して、約1週間以上の戦闘後に、日本軍の首里防衛線はまだ堅持された。沖縄本島の南部で、アメリカ軍が占領したのは、丘陵と珊瑚礁の尾根の狭い地域に限定された。4月1日に奪取した読谷と嘉手納の飛行場を除けば、日本本土の攻撃に戦略的な価値を持たない地域であった。飛行場、伊江島の平地、沖縄中部の空軍基地の沿岸地域に、建設大部隊がひしめいて、沖縄本島を巨大な不沈空母にして、日本への最終空襲をに取りかかった。日本軍は激しい砲撃の間、地下深くに潜伏していた。アメリカ軍は浅い塹壕の中、防御線の尾根の斜面や頂上に潜伏した。

  しかし、5月末までに、日本軍の三大戦闘部隊はすべて戦線に投入された。アメリカ軍による絶え間ない艦砲射撃、砲撃、航空攻撃、戦車・歩兵戦闘により、日本軍はすべて衰退していた。二流部隊は、正規の戦闘部隊の生き残りに混じって戦線に存在した。5月末までに日本軍兵士の約62,548人が死亡して、さらに5月末には約9,529人が死亡したと推定された。沖縄本島の北部地域での死者は約3,214人、離島での死者は約4,856人でも、それに対して、那覇の首里の戦闘地帯では日本軍兵士は約64,000人が死亡したと報告された。日本軍は、深刻な打撃を受けて、砲兵隊も弱体化が顕著で、艦砲射撃、対砲兵射撃、空爆によって次々と破壊された。 

 沖縄で捕虜になる日本軍兵士の少なさほど、太平洋戦争とヨーロッパ戦線の大きな差異であった。5月末に第3水陸両軍団が捕虜にした日本軍兵士はわずか約128人であった。2ヶ月の戦闘の後の沖縄本島の南部で、第24軍の4師団が捕虜にしたのはわずか約90人であった。捕虜となった日本軍兵士は、重傷か意識不明で、捕虜になるのを防ぐ自決ができず、アメリカ軍に捕獲された。日本軍兵士は死ぬまで戦って、死傷者はただ一種類、死者だけであった。負傷のために死ぬか、殺されるために戦線に戻るかのどちらかであった。 

 アメリカ軍側の死傷者は、太平洋戦争中で最も多かった。5月末の時点で、那覇の首里戦線での約1ヶ月の戦闘を含む海兵隊2個師団の損失は、死者約1,718人、負傷者約8,852人、行方不明者約101人となった。2ヶ月間の戦闘で、第24軍団は死者約2,871人、負傷者約12,319人、行方不明者約183人の犠牲を受けた。第24軍団と第3水陸両軍団は合計約26,044人の死傷者を出した。非戦闘員の死傷者も多く、その多くが精神神経症や戦闘疲労であった。5 月末までに海兵隊2個師団は約6,315人、陸軍4個師団は約7,762人の非戦闘員を収容した。アメリカ軍兵士の損失は日本軍約10人につき約1人であった。




2022年7月12日火曜日

日露戦争で摩天嶺の戦いが勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。

日露戦争で摩天嶺の戦い(Battle of Motien Pass​)が勃発して、日本軍が捕獲したロシア軍の戦死者の死体のかたわらに、負傷したロシア軍兵士が横たわった。中国の遼寧省の千山山脈にある摩天嶺と呼称した山地である。摩天嶺は、鴨緑江流域と遼河流域の分水嶺にあたる山地の尾根の頂にある。日本軍は1904年7月半ばから8月はじめにかけて、摩天嶺付近で、大石橋付近で、遼陽東部で、次々とロシア軍を破り圧迫した。アメリカの報道週刊誌「コリアーズ」から日本軍に派遣された記者が従軍して日露戦争の写真記録した。

 ロシア軍は、遼東半島の真中で、安東と遼陽の間の幹線道路上にある摩天嶺を占領していた。摩天嶺に布陣した約10,900人の日本軍に対して約26,600人のロシア軍が攻撃をしかけて1904年7月10日に勃発した。ロシア軍は日本軍の約2.5倍もの大兵力で摩天嶺の西方から砲撃を仕掛けた。日本軍は既に防衛陣地を構築していたため、頑強に抵抗した。日本軍の黒木為楨司令官はロシア軍に側面攻撃をかけて、ロシア軍は遼寧省北部に撤退した。その直後にロシア軍のフェードア・ケルレル(Fedor Keller) 司令官は日本軍の砲撃に殺害された。摩天嶺の戦いの犠牲者は、日本軍の死傷者約355人とロシア軍は約1,213人に及んだ。その後に、日本軍は摩天嶺の占領に成功して、中国の遼陽への起点を確保した。

 日本政府は、1904年2月4日に御前会議で日露戦争を決定した。2月3日に国交断絶を通告した。2月10日にロシア政府への宣戦布告を行った。2月11日に大本営を設置した。2月23日に大韓帝国と日本軍の補給線を確保する日韓議定書を締結した。2月24日から5月3日まで、ロシア艦隊の旅順閉塞作戦を日本軍は失敗した。6月20日に日本軍の満州総司令部が新設された。1904年5月1日、鴨緑江会戦が勃発した。7月10日に日本軍は摩天嶺を占領した。さらに8月24日から9月まで遼陽会戦が勃発した。




2022年7月11日月曜日

解放されたナチス・ドイツのブッヘンヴァルト強制収容所の火葬場の後ろに積み上げられた死体の山を、二人のアメリカ軍兵士が1945年4月14日に見守った。

ドイツのテューリンゲン州にあるブッヘンヴァルト強制収容所の火葬場の後ろに積み上げられた死体の山を、二人のアメリカ軍兵士が1945年4月14日に見守った。連合軍の最高司令官アイゼンハワー将軍らは4月12日に訪問した。4月15日にドイツ・ワイマール市民に強制見学させた。4月19日に国会議員と記者に収容所を解放して見学させた。

 ブッヘンヴァルト強制収容所から何千人もの囚人が、ダッハウ強制収容所への死の行進は、彼らの解放を意味しなかった。1945年4月3日に、囚人が最後に点呼された日は、収容所内の雰囲気はかつてないほど緊迫した。囚人は、もはや強制労働に連行されなかった。4月5日に、オールドルフ支部から約9,000人の囚人が死の行進した。4月6日と4月7日、死の行進が非常に増大して、収容所に残存した囚人は25,000人未満に減少した。4月6日に、収容所のレジスタンス指導者の約46人の囚人が蜂起した。(約33人がドイツの反ファシスト、約5人がオランダ人、約4人がチェコ人、約2人がオーストリア人、約2人がポーランド人だった)。ナチス親衛隊の収容所ピスター所長は、容疑者の全員は4月7日に出頭を命じられたが、隠蔽して粛清を免れた。4月8日に、収容所の秘密軍事委員会は、慎重に隠蔽して送信機を作動した。被収容者の代表が、ドイツ語、英語、ロシア語で連合国側に重要なモールス通信が送られた。持ちこたえろ、救援に駆けつけると返信された。その後2回目の死の行進が行われた。

 4月10日に、アメリカ軍の偵察機が収容所の上空を通過した。収容所の所長は、ソ連軍兵士の囚人から順に強制避難を命じた。約5,000人の兵士(ロシア軍、ポーランド軍、チェコ軍)が隊列を組んで、収容所を後に死の行進した。アメリカ第3軍は、ワイマールとエアフルト間で、間近に接近した。4月10日から11日の夜間が、最も緊張する夜となった。ナチス親衛隊は、最後の夜に無差別に、約60人の囚人が収容所の火葬場で絞首刑にされた。

 1945年4月11日に収容所の秘密軍事委員会は、警戒レベル2に決定した。密造した武器を、箱から取り出し配布した。時間の経過ごとに緊張が高まった。午前11時45分に、アメリカ軍に対する新たな航空警報が発生した。収容所所長は収容所に対する爆撃を、ドイツ空軍に命令したが、ノーラ空軍基地のドイツ軍司令官は拒否した。午後1時00分に最初のアメリカ軍の戦車がホテルステッドに出現した。午後2時00分に、親衛隊中隊が森の北西に陣取った直後に、アメリカ軍の戦車約12台が森林に侵入した。午後2時30分に、秘密軍事委員会から攻撃開始の指令が出された。重装備の親衛隊が守備した管制塔が攻撃され、収容所内の秘密攻撃部隊がすべて反抗を開始した。親衛隊の防御は打破されて、午後3時15分に、司令部のタワーに白旗が掲げられた。

 4月11日午後3時40分に、最初のアメリカ軍の戦車が収容所を通過した。しかし、収容所に停車せずにワイマールに向かって走行した。午後4時に、アメリカ軍のジープがキャンプに侵入した。すでに自由の旗は翻っていた。レジスタンスは約200人の親衛隊捕虜を連行して、残虐行為もせずにアメリカ軍に引き渡した。後にアメリカ軍から賞賛を受けた。ブッヘンヴァルト強制収容所が解放されて、約21,000人の囚人が救われた。それまで強制収容所には、約8年間で約25万人以上のあらゆる国の男性、女性、子供などが収監された。野蛮な大量虐待と大量虐殺の結果、約56,000人以上が死亡した。




2022年7月10日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した後に、2022年3月下旬にロシア軍の占領下のキエフ州ブチャ地域のモティジーン村で、スチェンコ一家の両親と弟は拷問されて虐殺された。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、2022年3月下旬に、ロシア軍の占領下のキエフ州ブチャ地域のモティジーン村で、スチェンコ一家の両親と弟は、ロシア軍兵士に拷問されて虐殺された。3月23日朝に、首都キーウに住む姉オレナ・スチェンコは、弟から人生で最も恐ろしい電話を受けた。ロシア軍兵士が、スチェンコ一家に来て、先ず車を略奪して、その後に両親を強制連行して拉致した。姉オレナは、弟オレクサンドルに直ちにモティジーン村の脱出を依頼したが拒否された。数時間後に戻ったロシア軍兵士に、弟も強制連行された。2006年から村長であった母オルナ、食料品経営の父イオル、25歳の弟オレクサンドルは、モティジーン村に在留して村民らを救護していた。ロシア軍に拉致された後は一家の連絡は不通となった。  

 ウクライナ軍が、キエフ州を解放した4月2日に、モティジーン周辺の森林の荒れ果てた地面の集団墓地の中から、4人の死体が発掘された。そのうち3人はスチェンコ一家の両親と弟で、両手を後ろに縛られ、身体に拷問の跡があり、射殺された死体が発見された。母親は頭を何度も射撃された。父と弟は厳しい拷問の跡があった。父親の顔は激しく損傷した。弟の首には数カ所の刺傷があった。父と弟は、両手を後ろに縛られて、何度も射撃された。





   






Warning: Dead bodies of the Sukhenko family are seen in a mass grave in Motyzhyn village, Bucha district of Kyiv Oblast, on April 4, 2022. (AFP/ Getty Images)


 2月24日にロシア軍がウクライナを攻撃した初日に、スチェンコー家族は小さな村の方が安全だと思って、モティデーン村に戻った。モティジーン村の人口約1,000人は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発すると人口は約4倍にも増えた。その3日後の2月27日に、ロシア軍の戦車が村に侵攻した。3月4日に、父親は姉オレナを車で、ウクライナ軍の支配地域に避難させて立ち去った。

 2022年4月7日に、キエフ州の村モティジーンで行われたスチェンコ一家の葬儀で、人々は棺に花を供えた。葬儀には最大で約400人が参列した。ウクライナ当局は、ロシア軍がキエフ州を撤退する前に、甚大な戦争犯罪を犯した。人々の死体が野外に転がって、地下室などでも多くの死体が発見され、多くの開いたままの墓に多数の死体が横たわっていた。


 










Warning: People lay owers on the cons of the Sukhenko family during their funeral on April 7, 2022 in Motyzhyn, a village in Kyiv Oblast. Up to 400 people came to the funeral. (Anna Tsyhyma)

2022年7月9日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.1kmの木造家屋内で、女性は被爆して約2週間後頃から、急性放射線障害により脱毛が始まった。

広島原子爆弾の爆心地から約1.1kmの木造家屋内で、女性は被爆した。被爆して、約2週間後頃から、脱毛が始まった。原子爆弾から放出される放射線によって、毛根の根布が、一時的に損傷されて発症した。脱毛は通常は、被爆後の約2週間で始まるが、約4〜5日後の早期に発症事例例もあった。2ヵ月以後まで生存被爆者では、毛髪の再生が始まった。

  原子爆弾による急性放射線障害の症状の一つに脱毛がある。原爆投下して炸裂後に数日から数週間の間に、高線量の被爆者は、発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、血性下痢、脱毛、紫斑または点状出血、喉や口の中のただれである鼻咽頭潰瘍、歯の周りの歯肉の崩壊と潰瘍である壊死性歯肉炎を発症する。症状の発現時期は様々であるが、重度被爆ほど早期に発症する。約200Rad以上を被爆すると脱毛が発症する。頭皮以外の脱毛は非常にまれであった。1970年に長崎市に在住した被爆者9,910人を、原爆による急性症状と脱毛の有無とその後28年間の死因との関連性は、脱毛があった被爆者は、脱毛がなかった被爆者に比較して、癌による死亡率が高かった。

 脱毛する髪の毛は、毛包や毛球に内在する細胞群が産生するタンパク質で形成される。細胞群は、放射線や毒性化学物質、癌の化学療法剤などで毛包が萎縮して細胞障害される。脱毛部では、毛髪の母細胞である毛母基、内毛根鞘、外毛根鞘がより重度に傷害された。脱毛の発現率は、爆心地からの被爆距離に相関して、近距離ほど高頻度に発症した。髪の毛は細くなり、櫛でとかすと簡単に切断されて、脱毛が発症する。毛包や毛球の細胞群は、他の細胞よりも、約23時間から約72時間ごとに繁に分裂するので、損傷を受ける。組織の損傷は、放射線への曝露後の組織内の分子の化学的性質の変化に発症する。放射線による損傷の主な原因は、放射線が水分子をフリーラジカル化の変化に起因した。




2022年7月8日金曜日

フランス人のレジスタンスのジョルジュ・ブラインドは、1944年10月23日にベルフォールの城塞の前まえで、模擬処刑するナチス・ドイツ軍の銃殺隊に微笑んだ。

フランス人のレジスタンスであるジョルジュ・ブラインド(Georges Blind)は、1944年10月23日にベルフォールの城塞の前まえで、模擬処刑するナチス・ドイツ軍の銃殺隊に向かって微笑んだ。ドイツ軍は1944年10月14日にレジスタンス容疑で、消防士のブラインドを逮捕した。その後に、彼らはブラインドに白状させるために模擬処刑を執行した。しかしブラインドはただ微笑み、口を割らせる模擬処刑するも、情報を漏らさなかった。

 模擬処刑とは、犠牲者に自分や他人の処刑を迫り、執行されたと、故意に偽って感じさせる策略である。群衆のために処刑に仕向けられた。銃殺隊員の射撃の跳弾による被害も少ないように、ブラインドを建物の角に配置した。ブラインドは結局は、ブレヒハンマー強制収容所に送られて、到着と同時に死刑囚に選択されて、アウシュビッツ強制収容所で1944年11月30日に薬殺され死亡した。

 模擬処刑は、心理的拷問に分類され、目隠しをする、最後の願いを語らせ、自分の墓穴を掘らせ、弾のない銃を頭に突きつけて引き金を引く、被害者の近くを撃つ、空砲を撃つなどが執行される。人間は、自分が処刑されると感じ、誰かの処刑を目撃すると、恐怖が誘発される心理がある。模擬処刑が心理的拷問とされ、身体的な被害はないが、精神的な被害を伴う。心理的被害は、自分や他人の死を待つ間に、被害者の持続的緊張が高まり、拷問と見なした。心理的外傷は、被害者が自分の処刑を認識して、身体的拷問と同等の後遺症を残す結果となる。模擬処刑による不安の高まりは、死刑の演出の結果に影響を与えた。

 模擬処刑は占領下のヨーロッパで、ドイツ軍に抵抗しないように威嚇して、ドイツ軍は抵抗運動に対して、徹底的に残忍なやり方で鎮圧した。村に数人の闘士がいれば、その村全体を攻撃する。親衛隊の部隊だけでなく、地元の警察も取り込んで、土地勘があり内部情報を入手した。地元警察の多くは、ドイツ軍に協力し、優遇措置を受けた。ヒトラーの東方戦略では、パルチザンを受け入れた容疑の村は、最低でも全員処刑された。共産党の委員やユダヤ人の抹殺も命じられ、反パルチザン活動に混ぜて、ヒトラー殲滅戦の実態を隠蔽した。

 1943年以降、ドイツ軍が占領地域で、レジスタンス運動が、非協力や抵抗から、急激に武力闘争に激化した。分散した小グループから、本格的な戦闘部隊に組織転換した。フランスでは、ド・ゴールがフランス国内の武力組織であるマキが、連合国の北フランス上陸に、ドイツ軍の運搬通信部門に破壊工作をした。フランスのレジスタンスは、ドイツ軍の侵略とヴィシー政権の対ドイツ協力体制に抵抗運動をして、フランス解放に貢献した。




2022年7月7日木曜日

アメリカ大使館側の自動車がベトコンによる爆弾テロで大爆発して、南ベトナム人は全身血まみれで殺害された死体が散乱した。

アメリカ大使館側の自動車が、南ベトナム解放戦線のベトコンによる爆弾テロリズムによって、1965年3月30日午前10時50分に大爆発した。その周辺では、大爆発に巻き込まれて全身血まみれの南ベトナム人の死体が散乱した。ベトナム戦争にて、南ベトナムの首都サイゴンにあったアメリカ大使館の側に駐車していた車が、大爆発した。ベトコンの攻撃は、南ベトナムの警官が大使館の前に駐車した車の運転者と口論を始めた。運転者が立ち去るのを拒否し、別のベトコンの一員が車に並走して警官に発砲した。短時間の銃撃戦の後に、約136kgのプラスチック爆弾を積んだ車が大使館前で大爆発した。

 その大爆発によって、アメリカ大使館は崩壊して、ベトナム人は約19人、アメリカ人は2人ほか、フィリピン人が1人が殺害されて死亡して、約183人以上が負傷した。CIA速記官のバーバラ・A・ロビンス、海軍二等書記官マノリート・W・カスティーヨが死亡して、ロビンズはわずか21歳で、CIA秘書職務中に死亡した最初の女性CIA職員であった。1965年3月30日の朝、バーバラは窓の外から大きな銃声が聞いた。急いで窓の外に出ると、大使館に近づいた車を止めようとした警官の発砲だった。警官が発砲すると、スクーターに乗った別の男が車の横に乗り込み、警官を撃った。車内に仕掛けられた約136kgの爆弾が大爆発し、窓辺にいたベトナム人群衆が吹き飛ばされた。爆風で窓ガラスやエアコン、鉄の窓枠も投げ出され、アメリカ人は女性のバーバラと男性のマノリートが死亡した。

 アメリカ軍が介入してのベトナム戦争は1965年3月8日に、アメリカ軍海兵隊がダナンに上陸したときが公式の勃発であった。南ベトナムの敗北の脅威は十分に大きくなり、ダナンのアメリカ空軍基地と港を防衛するために、ジョンソン大統領が最初の地上戦闘部隊をベトナムに派遣した。その直前の1965年2月7日に北ベトナム領内に対する爆撃を開始していた。アメリカ議会は3月30日の爆弾テロによるアメリカ大使館の再建のために約100万ドルをすぐに計上した。アメリカ軍の指導者の中には、北ベトナムへの特別報復の空襲を主張したが、リンドン・B・ジョンソン大統領は特別報復は拒否した。ベトナム政策見直しの後に、1965年7月9日に本格的なアメリカ遠征軍の派遣を決定した。
























2022年7月7日  Japan No War NGO  (JNWN)

日本平和市民連盟    閲覧回数 570,000    投稿数 2,151

2022年7月6日水曜日

南京の戦いで南京市民の父親は、悲嘆して殺害された息子の男子の身体を抱えながら土蔵の防空壕に逃げ込みんだ。

日本軍が南京城の包囲して攻撃していた1937年12月6日に、日本軍の砲弾が爆破して、中国人の男子が殺害された。南京の戦いで、南京市民の父親は、悲嘆して瀕死の息子の男子の身体を抱えながら土蔵の防空壕に逃げ込んだ。防空壕に到着した時点で、息子の男子は絶命した。約27人の南京在留した欧米人らが設置した土蔵の防空壕の安全地帯(Nanking Safty Zone)に、多数の南京市民が逃げ込んだ。南京の外国人住民も、爆撃、火災、犯罪者の略奪、停電などの緊張の中で混沌とした。11月下旬まで在留した欧米人が、南京市の中心部に南京安全区に、民間人の難民が戦闘から逃れる非武装地帯を増設した。南京が占領された12月13日以降に安全地帯でも、日本軍の戦争犯罪が勃発した。

 南京の戦いは12月1日から勃発して、日本軍は12月13日に南京を占領した。日本軍の爆撃機は頻繁に南京に約50回も空襲を行った。日本軍の爆撃と侵攻に直面して、南京市民の大部分は南京を脱出して、12月初旬までに南京の人口は約100万人以上から約50万人以下に減少した。1931年9月28日の満州事変以降に、中国民国政府は国防計画から、1934年に十龍基地、首都南京に主・副基地を建設した。1937年8月15日から、日本軍は高速重爆撃機をジュロン空軍基地に対して攻撃を開始した。 

 南京城壁の外側では、日本軍の侵攻経路に、溝、堀、鉄条網、地雷原、砲台、要塞などで、南京の城壁外の最終防衛線を設置した。11月20日に中国国民党軍と徴用労働者は南京全体にほぼ50kmに及ぶ石壁で囲み、12月6日までに南京市内に入る全ての門を閉じて、土嚢と厚さ約6mのコンクリート壁を築いた。日本軍の避難所や補給を途絶するために、12月7日に南京市内に焦土作戦を開始した。南京市内から約1~2km以内のすべての家屋や建造物、南京市内から約16km以内の道路に近いすべての家や建造物にも焼却を命じた。南京守備軍は、第二次上海事変でひどく損傷を受けて南京に撤退した。南京守備隊に参戦した中国人兵士は、約73,790人から15万人程度と推定された。日本軍が12月13日に南京城を侵略した直後から、約6週間にわたり南京大虐殺が勃発した。




2022年7月5日火曜日

アメリカ軍の爆撃機が、東京大空襲で渋谷区千駄ヶ谷5丁目に墜落した直後に、炎上して瓦礫の残骸となり、原宿の警察署員が、搭乗員の切断された下腿と靴を検死と見分した。

アメリカ軍の約119機のB-29爆撃機が、1945年2月19日に日本首都の東京に空襲した。約386トンの爆弾を投下して、東京都の葛飾区・江戸川区・王子区などで約300人の民間人が殺害された。アメリカ軍の爆撃機が、東京都の渋谷区千駄ヶ谷5丁目に墜落した。墜落した直後に、アメリカ軍の爆撃機の炎上により大規模な火災が発生した。アメリカ軍の爆撃機は、瓦礫の残骸となった。原宿の警察署員が、アメリカ軍兵士の搭乗員の切断された下腿と靴を検死と見分した。周辺の道路脇に、アメリカ軍機の残骸が積み上げられて、検死と見分後、直ちに道路脇から除去して撤去された。

 アメリカ軍による東京大空襲は、1945年2月には、2月19日だけでなく、2月17日と2月25日にも来襲した。2月17日には、アメリカ軍1機のB-29爆撃機が、東京都城東区などを空襲して、約14人の民間人が殺害された。2月25日には、アメリカ軍の約72機のB-29爆撃機が来襲して、爆弾から積み替えた約411トンの焼夷弾を投下した。東京都麹町区・神田区・日本橋区・下谷区・浅草区、本所区・深川区などで、約195人の民間人が殺害された。

 B-29爆撃機による東京大空襲は、1944年11日24日から本格的に市街地に無差別な爆撃がされた。夜間に低高度で東京を攻撃して、爆撃機の銃と装甲を剥ぎ取って、より大きな爆弾の搭載に対応した。高爆発爆弾から焼夷弾に変更した。可燃性の化合物を放出して、ゼリー状ガソリンと白リン弾が、衝撃で炎上した。アメリカ軍の爆撃機約325機のうち、約42機が損壊された。東京都内は約60回以上もの空襲を受けた。約105,400人の死体が公表されるも、アメリカ軍も日本軍当局も、公表した約10万人の死者数は、どちらも死者数を最小限に抑えた。被災者は約300万人、被災住宅は約70万戸に及んだ。東京都市街地の約50%に相当する約14平方kmが消失した。積み上げられた死体が大型トラックで運ばれて、いたるところに死体と煙の悪臭が散乱した。戦後に、アメリカ軍の東京大空襲は、無差別に民間施設の標的化と民間人の生命の大量損失のために、東京大空襲を戦争犯罪と批評された。




2022年7月4日月曜日

ソ連軍は1941年9月20日に、最初のレニングラード包囲を突破するネヴァ川をボートで渡る渡河作戦を挙行し、ドイツ軍に殺害されたソ連軍兵士の死体が散乱した。

レニングラードは、ナチス・ドイツ軍にレニングラードを1941年9月8日から1944年1月27日まで包囲された。ソ連軍は1941年9月20日に、最初のレニングラード包囲を突破をするネヴァ川をボートで渡る渡河作戦を挙行した。ネヴァ川の周辺には、ナチス・ドイツ軍に殺害されたソ連軍兵士の死体が散乱した。ネフスキー・ピャタチョク(Nevsky Pyatachok)橋頭堡では、ソ連軍事史上で約20万人以上の悲劇的な血生臭い犠牲を伴った。

 1941年から1943年にネヴァ川で、レニングラード戦線のソ連部隊が約400日間にわたり、ナチス・ドイツ軍のレニングラードの封鎖を突破を図った戦場となった。大祖国戦争で、ソ連軍が占領したネヴァ川(Neva)左岸の橋頭堡は、ネヴァ川に沿って約2km、海岸線から約800mのネフスキー・ピャタチョク陣地と呼ばれた。ネヴァ川がレニングラードとラドガ湖を結んだこの陣地にはっ、ナチス・ドイツ軍から1日に約5万2千発の爆弾や砲弾が落下した。

 1941年9月20日の夜に、ソ連軍はネヴァ川を渡り、ネフスキー・ドゥブロフカ地区に足場を築いて、ネヴァ・ヘルメット地区では激しい戦闘が断続的に繰り広げられた。ネヴァ・ヒール地区のナチス・ドイツ軍の防御を突破する作戦により、ソ連赤軍の死傷者数は、数万人にのぼった。1941年10月20日から12月5日までに死傷者数は約10,845人に上った。ヴォルホフ戦線と合流は失敗した。ネヴァ地区での戦闘は、1942年4月29日まで続いて、ネフスキー・ピャタチョクのソ連軍兵士は壊滅して占領された。ネヴァに流氷が始まると援軍も来なかった。1942年9月26日になって、ネヴァ方面のソ連軍部隊は橋頭堡を奪還した。

 小地域のネフスキー・ピャタチョクの必要性には、今も論争がある。レニングラードで生まれたウラジーミル・プーチンは、父親のウラジミール・スピリドビッチ・プーチンがネフスキー・ピャタチョクで戦った戦歴から、「戦争では常に多くの間違いがあると思う」と語った。戦争に行ったときに、周りがみんな失敗をしていると思ったら、絶対に勝てず、あの頃は、勝つことを考えていた。プーチンの父親は、ソ連軍の第86小銃師団第330小銃連隊の兵士で、1941年11月にネヴァ橋頭堡で重傷を負い、一生涯にわよたり戦傷で不自由な生活を送った。




2022年7月3日日曜日

ウクライナの救助隊員が、ロシア軍兵士の多数の死体の側に立ち、ロシア軍兵士の死体の搬出をして、ヴィルヒフカ村の墓地に11人のロシア軍兵士の死体が横たわった。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は2022年5月9日にウクライナのハリコフ近郊のヴィルヒフカ村を奪還した。その直後に、ウクライナの救助隊員が、殺害されたロシア軍兵士の多数の死体の側に立って見守った。救急隊員は、ロシア軍兵士の死体の搬出を準備した。ヴィルヒフカ村の墓地に横たわった11人のロシア軍兵士の死体が写真撮影された。ロシア軍兵士の死体の中にはひどい醜態をさらした死体もあった。

 ロシアでは5月9日に、第2次世界大戦で旧ソビエトがナチス・ドイツに勝利を祝う戦勝記念日であり、愛国心が最も高まる日として、極東地域から順次軍事パレードを含めた記念式典が行われた。プーチン大統領は、「ドンバスの民兵、ロシア軍兵の士に呼びかける。祖国の未来のために戦っているのだ。ナチス・ドイツが復活しないよう、皆さん力を尽くしている。亡くなったすべての皆さんに頭をたれる」と述べた。ウクライナへの軍事侵攻を改めて正当化し、ロシアが勝利すると呼びかけた。

  ロシア軍がウクライナに侵攻して、ロシア国防省は、3月下旬にロシア軍側の死傷者数は約1,351人の公表して、その後の犠牲者数は未公開にした。ウクライナ当局に、ロシア人親族が、行方不明のロシア軍兵士の問い合わせが、約3万2千件に上ったと公表した。約4週目には早くもベラルーシの死体安置所にロシア軍兵の死体で溢れた。南部ホメル地域の地方病院は、約2,500体以上がロシアに送還されたと述べた。ウクライナ保安庁は、犠牲となったロシア軍兵士の名前が行方不明者リストに追加されたと述べた。ロシア軍兵士の死体が高さ約2メートルに達する埋立地に投棄されたと警備隊は述べた。約7,000体以上のロシア軍兵士の死体が、ウクライナの安置所と冷蔵貨物列車に保管されて、貨物が死体袋で満杯になった。

 2015年以降に、ロシアは特殊軍事作戦でのロシア軍人の死亡はすべて国家機密となった。死亡したロシア軍兵士が戦死者の登録には、死体の身元の確認が必須である。身元不明の死体は行方不明とされる。ロシア軍は、身元が確証されたロシア軍兵士の遺族には、1人あたり約13万ドル(740万ルーブル)の支払いを提示した。

























Warning: The Bodies of 11 Russian soldiers lie in the village of Vilkhivka, recently retaken by Ukraininan forces  near Kharkiv, Ukraine, May 9, 2022 (AP Photo/ Felipe)