2022年7月2日土曜日

広島市は1952年7月28日から30日に、広島県安芸郡坂町の小屋浦・小只谷など5ヶ所にて、死後の処置された被爆者の死体を発掘した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分にアメリカ軍が投下して炸裂した。炸裂した当日から、広島市の南西部で広島市と呉市の中間地点である広島県安芸郡坂町には、日本軍の救護所が設置された。次々に重態の被爆者が広島市から護送された。その他には、広島市内から徒歩で多数の避難者や被爆者が、坂町まで逃避した。坂町までたどり着いた被爆者は、原爆症により次々に原爆死した。死体の処理が追いつかずに、多くの死体は土の中に直接に埋葬する土葬からあるいは火葬後に埋葬された。

 1952年7月28日から30日までの3日間に、広島市は、広島県安芸郡坂町の小屋浦・小只谷などの5ヶ所にて、死後の処置された被爆者の死体を発掘した。約156死体は土中に埋葬されていた。約60死体が死後に野ざらしになっていた。約36体が死体を火葬後に土中に埋葬された(広島原爆戦災誌, 1971年8月6日発行)。改めて供養して、平和記念公園の原爆供養塔に収納した。広島に原子爆弾が投下され多くの被爆者が坂町に運ばれて来て、住民の看護の甲斐もなく約半数の被爆者が死亡された。坂町には小屋浦海水浴場休憩所や小屋国民学校にも、臨時救護所が設置されて約360人が収容された。

 小屋浦海水浴場と暁部隊野戦病院が8月6日に開設されて、約200人が収容されて、約150人を埋葬して、8月20日に閉鎖された。小屋浦国民学校も8月6日に開設されて、約60人が収容された。小屋浦火葬場で約40人が火葬されて、8月20日に閉鎖された。1971年8月6日に発行された広島原爆戦災誌に、坂町小屋浦を名指して約7年間死亡した被爆者の約60体を野ざらしと記載された。坂町の慰霊碑奉賛会は、「野ざらしの誤記に憤りて 散りしける 藪椿の実ぞ 永久の語部」と広島原爆戦災誌の誤記を訴えて、1989年の広島市制百周年に発刊された広島原爆戦災誌改訂版で、野ざらしの記載は抹消された。




2022年7月1日金曜日

フランス北部のヴィレル・ボカージュの戦いで、イギリス軍の戦車の搭乗員が、ドイツ軍の戦車に砲撃されて殺害された。

フランス北部のヴィレル・ボカージュ(Villers-Bocage)の戦いで、イギリス軍の戦車の搭乗員が、ドイツ軍の戦車に砲撃されて殺害された。イギリス軍の戦車や兵員輸送車は、ドイツ軍の対戦車砲火を浴びて、一斉に黒煙とともに炎上した。ドイツ軍がヴィレル・ボカージュを占領直後に、従軍記者が散乱したイギリス軍兵士の死体を撮影してドイツ軍優勢のプロパガンダをした。

 ヴィレル・ボカージュの戦いは、第二次世界大戦中、西側連合国によるノルマンディー上陸した6月6日から1週間後の1944年6月13日に勃発した。イギリス軍が、ノルマンディー地方カルバドス州のカーン市西部のドイツ軍の防衛網に向けて侵攻した。イギリス軍はヴィレル・ボカージュとその周辺で戦闘が勃発した。

 6月6日のノルマンディ上陸後に、ドイツ軍は急速にカーン市の正面に強固な防御線を構築した。6月9日にイギリス軍はカーン市の包囲・占領作戦するも敗北した。南方への直進路を塞いだドイツ軍の戦車部隊は迂回して、戦車・歩兵・砲兵の混成部隊が、ヴィレル・ボカージェに向かって側面から進撃した。

 イギリス軍は6月13日の朝、大きな攻撃もなくヴィレル・ボカージュに到着した。先頭部隊はヴィレル・ボカージュから東へカーン市の街道に進撃した。イギリス軍は、213高地でドイツ軍の戦車部隊に待ち伏せされて、15分足らずの間に多数の戦車、対戦車砲、輸送車両などが破壊された。ドイツ軍はその後に、ヴィレル・ボカージュを攻撃したが撃退された。6時間後に、イギリス軍はビラーズ・ボカージュの西方にある小高い丘に撤退が命じられた。

 6月14日にドイツ軍は、全方位の防御のために配置されたイギリス軍を攻撃した。6月14日には、イギリス軍はヴィレル・ボカージュの外側の陣地を防御した後に撤退した。イギリス軍はドイツ軍を撃退して、その塹壕から退却した。カーンの戦いはヴィレル・ボカージュの東側で続いて、その戦地は8月4日にイギリス空軍の戦略爆撃機約250機による2回の空襲の後に、イギリス軍が占領した。

 ヴィレル・ボカージュの戦いにおけるイギリス軍の軍事行動は、ノルマンディ上陸後の地の利を生かした戦いの終焉とカーンでの消耗戦が始まった。イギリス軍の攻撃は、ドイツ軍の戦闘力ではなく、イギリス軍の戦力が任務に対して不十分であった。




2022年6月30日木曜日

スペイン内戦の1938年3月16日から18日のバルセロナ空襲で約3000人が死亡し約5000人が重傷を負った。空襲後のバルセロナの路上で爆死した子供の死体が横たわった。

スペイン内戦のバルセロナ空爆は、ジョン・ラングドン-デイヴィス(Johne Landon-Davis)が、1938年3月16日、17日、18日の空襲で約3000人が死亡し、約5000人が重傷を負ったと『Air Raid』を出版した。空襲後のバルセロナの街角で、死体の写真を次々と見せるのを避けた唯一の例外である。空襲後のバルセロナの路上で、爆死した子供が横たわった死体の写真である。爆撃が行われるずっと前から、民間人に対する無差別爆撃に対する世論が排除されて無力化した。

 バルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシストイタリアとナチスドイツが主導して、フランコが率いる反乱軍を支援した一連の空爆である。最大で約1,300人が死亡して、少なくとも2,000人が負傷した。歴史上初の空中絨毯爆撃とされる。イタリア空軍の爆撃機は、バルセロナ近郊でエンジンを止めて滑空して爆弾を落下して炸裂した後に、エンジンをかけて逃避した。サイレント・アプローチで音響探知機による警告を最小限にし、戦闘機には迎撃を避けて、バルセロナ市民に防空壕に避難する時間を与えず、パニックを劇的に増悪させた。約26分間に及ぶ爆撃機の空襲により、約40時間にわたり約100万人以上のバルセロナの人々の生活全体を破壊した。

 1938年3月16日から18日に、イタリヤ空軍はバルセロナに、マヨルカ島からスペインのマークを付けて飛来して空襲した。最初の空襲は3月16日午後10時のドイツ空軍の爆撃機55機から、その後はイタリア空軍が3月18日午前3時まで、3時間おきに17回の空襲をした。空爆のほとんどは、バルセロナの中心街、特にゴシック地区であった。バルセロナには対空砲がほとんどなく、戦闘機の援護もなかった。スペイン共和国空軍は、3月17日の朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。バルセロナの空爆は全市に及び、爆撃機は軍事目標を破壊せず、3月18日の夜には、労働者階級の地区が無差別の空爆を受けた。イタリア空軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下し、約1,000人以上の民間人が死亡した。逆に3月19日に、フランコは海外の非難を恐れて、爆撃の中止を要請した。




2022年6月29日水曜日

日本軍は大東亜戦争で、マレーにて華僑の青年を反日分子の容疑者として、斬首による断頭した死刑を執行して、さらし首にした。

日本軍は太平洋戦争が勃発した直後から、マレーにて華僑の青年を反日分子の容疑者として、斬首による断頭した死刑を執行した。スパイ行為とマレー住民の治安と安寧を犯した罪で、即刻に路上で断頭した。華僑の容疑者の頭部を晒し首にして、マレー住民に対して大日本軍が死刑を布告した。大東亜戦争にて、日本軍に反抗したという理由で斬首された華僑の首を、イポー市内でさらし首を展示した。 

  日本軍は、真珠湾攻撃の約1時間直前から、1941128日に突如として、マレー半島のコタバルに上陸して、同日にタイの南端のシンゴラとバタニから、マレー半島を南進して侵攻した。イポー (Ipoh) は、マレーシアペラ州の州都であり、マレーの首都クアラルンプールから約200Km北方に位置して、19411215日に日本軍によって占領された。イポーはタイピンに代わってペラ州の州都となった。首都クアランプールは1942111日に占領した。マレー半島の南端ジョホールバルを131日に占領した。シンガポールは、イギリス連邦軍が断水により降伏して、シンガポールから完全撤退した1942215日に占領された。

 日本軍は、マレー半島の独立を阻止して、終戦までの3年8か月間も悲惨で過酷な占領をした。特に、日中戦争の影響を受けて、特に中国人系住民である華僑を、弾圧の対象にした。シンガポールが陥落してマレー戦が終結した直後から、1942年2月17日から反日分子を排除する敵性華僑狩り(Sook Ching)を執行した。華僑狩りを、マレー人系の警官や密偵に先導させて、中国人系の華僑を抗日組織として虐待と虐殺した。主に、憲兵隊によって、約5万人以上の華僑が虐殺された。1942年3月からマラヤ人民抗日軍が、日本軍に対する妨害と待ち伏せが勃発して、その報復として中国系華僑に対する虐待と虐殺で報復した。




2022年6月28日火曜日

大東亜戦争のビルマの戦いで、日本軍兵士と軍馬は中国国民党軍の砲撃により、ビルマのマインクワン村近くの道路上で死亡した。

大東亜戦争のビルマの戦いで、日本軍兵士と軍馬は中国国民党軍の砲撃により、ビルマのマインクワン村近くの道路上で死亡した。その腐乱した日本軍兵士の死体は1日半も倒れたままに放置された。ジープに乗った2人の中国国民党軍兵士は、谷間を下って敗走する日本軍兵士を追って後方から移動した。さらに日本軍の死体は、1944年3月初めにアメリカ軍将校スティルウェルが率いる中国国民党軍が占領したフカウン谷中部のマイングクワンの道端に散乱した。中国国民党軍は南へ退却する日本軍の中隊を、道路右端で捕獲して、日本軍将校の約6人と日本軍兵士の約80人を殺害した。4人の日本軍兵士が、道路脇に逃げ込んだときに、一発の砲撃で殺害された。ビルマ北部作戦での戦闘は、退却する日本軍兵士との鋭い小競り合いが頻発した。

 1944年3月末までに、ビルマ北部ではジョセフ・スティルウェル中将の中国国民党とアメリカ軍が、日本軍の拠点であるミットキーナに向かって谷間を苦闘して下った。インドと中国の間に突き出た日本軍の岬の頂上を横切る全天候型道路のルートを切り開いた。この道路はインドのレドの鉄道から雲南省まで伸びて、中国内陸部への陸路が再開された。ることになる。スティルウェル部隊はミートキーナから約90km以内まで押し進めたが、占領はまだ先だった。

  南へ約725km離れたビルマ海沿岸では、イギリス軍とインド軍がアキヤブ港に向かってゆっくりと前進した。2つの連合軍の作戦の間に、日本軍がインド軍に対して不運で悲惨な圧力をかけて、連合軍の計画全体を混乱させるインパール作戦を開始した。日本軍の侵攻の前には、レドから海へ通じる鉄道があった。この鉄道を寸断すれば、スティルウェル部隊の攻勢を阻み、中国のアッサム地方からヒマラヤ山脈を越えての航空補給路も閉ざすことを目論んだ。ビルマでの戦闘は、ジャングルのために連続した戦線が不可能なために、ほとんど道路上で行われた。作戦は狭い隘路を登ったり降りたりする追撃と撤退で、戦闘は道端の村や塹壕をめぐる鋭い小競り合いであった。スティルウェル部隊は1944年3月中旬にフカウン渓谷の道をミィトキナに向かって侵攻した。






2022年6月27日月曜日

第一次世界大戦中の1917年頃に ドイツ軍の潜水艦U-35から攻撃を受け貨物船が沈没した。潜水艦は乗員に船を捨てさせ魚雷の爆発物を船に発射して爆発して沈没した。

第一次世界大戦中の1917年頃に ドイツ軍の潜水艦から攻撃を受けて、沈みかけた貨物船が沈没した。ドイツ軍の潜水艦U-35がイタリアの貨物船を沈没させた。潜水艦はまず乗員に降伏を迫って、乗組員に船を捨てさせた。その後に魚雷の爆発物を船に発射して、貨物船は爆発して沈没した。

 ドイツ軍の補助巡洋艦は、1915年1月27日にアメリカ商船で最初となるウイリアム・フライを拿捕した。1915年2月4日に、ドイツ軍はイギリス周辺の戦海域を設定して、軍用から民間までいかなる船舶も発見され次第に撃沈すると宣言した。初期は、ドイツ軍のUボートは、商船を攻撃する前に浮上して、積荷の正式な検査を行ってから、船を沈める前に、乗客や乗組員が脱出する時間を確保した。イギリス軍が商船に偽装した軍艦を導入したために、ドイツ軍はやがてそのルールを放棄して、無制限の潜水艦作戦を開始した。1915年5月1日にドイツ軍U-30は商船ガルフライトを沈没して、最初の犠牲者3人が死亡した。

 豪華客船ルシタニア号は1906年6月7日に進水した。ルシタニア号は、軍艦にも簡単に改造できるように特別性に建造されて、武装した補助巡洋艦としてイギリス提督庁に登録された。第一次世界大戦が勃発すると、イギリス軍は戦争物資の輸送に使用して、旅客船としても運航を続けた。最初の魚雷攻撃から6日後の1915年5月7日に、ルシタニア号はドイツ軍のUボートによって魚雷攻撃を受けた。ルシタニア号は、ニューヨークからリバプールへ大西洋を横断中に、ドイツ軍の潜水艦U-20が警告なしに魚雷が発射された。2度目の爆発(原因は不詳)の後に、ルシタニア号はすぐに沈没した。ルシタニア号は約18分で沈没して、乗員乗客約2,000人のうち約1,200人が死亡した。 

 ルシタニア号の撃沈は国際的な衝撃を与えて、特に当時に中立国であったアメリカの世論が、反ドイツに向かう起点となった。死者約1,200人のうち、約128人がアメリカ市民であった。しかし、ルシタニア号事件にてアメリカは直ちに戦争に参戦しなかった。アメリカ政府はドイツ軍に厳重な抗議を行った。ドイツ軍は1915年8月に、イギリスの遠洋定期船アラビックを撃沈した。アメリカからの強い圧力を受け、作戦効果の限界を認識したドイツ軍は、1915年9月18日に無制限の潜水艦作戦戦を放棄した。

 ルシタニア号はイギリス・アメリカ政府のプロパガンダに焦点を当てられ、徴兵制度の強化に利用された。ドイツ軍は、軍需品が積まれ、沈没の正当性を主張した。ルシタニア号の最終航海の数日前に、ドイツ大使館はアメリカの新聞に、戦海域の旅行の危険性とリスクを訴える警告を発表した。ドイツ軍は、1917年2月17日から無制限の潜水艦作戦を再開した。イギリス軍の諜報機関が、ドイツからメキシコへのツィマーマン電報の傍受した。ドイツ軍が無制限潜水艦作戦に復帰して、戦海域のすべての舟を撃沈して、アメリカが協商国に加盟したら、ドイツはメキシコに同盟国の加盟を提案した。アメリカ政府は、ドイツ軍が正式な潜水艦作戦の再開から、1917年4月6日からドイツ軍との戦争に突入した。











 

2022年6月26日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で、2022年6月9日に東部ドネツク人民共和国のカリニンスキーで、男性がウクライナ軍の砲撃により殺害された恋人の女性に慟哭して、救急隊員と捜査官が死亡した女性の死体を検死した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年6月9日にロシア軍が侵攻中に、ウクライナ東部ドネツク人民共和国の親ロシア政府支配下の領土にウクライナ軍の砲撃を受けた。州都ドネツクのカリニンスキー地区にて、男性が砲撃により死亡した恋人の死体に向かって慟哭した。その後に、ウクライナ東部のドネツク人民共和国政府の支配下にある州都ドネツクのカリニンスキー地区の救急隊員と捜査官が、死亡した彼の恋人の女性の死体を検死した。

 ドネツク人民共和国側は、6月9日にウクライナ軍側がドネツクのカリニンスキー地区を攻撃するために、5発の口径155ミリの弾丸で砲撃されたことを報告した。その弾丸は、アメリカがウクライナの首都キエフ政府に対して、口径155ミリの長距離榴弾砲(M-777)を供給した。ウクライナ軍は、この榴弾砲をドネツク人民共和国(DPR)の首都ドネツクを含む都市への砲撃に使用して、無差別に民間人を殺害して死者を出した。ウクライナ軍は、長距離榴弾砲でドネツク州東部の戦線を維持した。国連は、ロシアが2月24日に旧ソビエトの隣国のウクライナに侵攻して以来、ウクライナで約4,302人の民間人の死者と約5,217人の負傷者を6月9日に追認した。国際機関は、追認された民間人の死傷者のほとんどは、重砲や多連装ロケットシステム、ミサイル、空爆など、甚大な影響を広範囲に及ぼす爆発性兵器によると報告した。

 ドンバス地域を構成するドネツク州と東隣のルハンスク州は、ウクライナ軍支配下にある最後の主要都市は、反復する戦闘で砲撃を受けた。セベロドネツクの市街戦で、ロシアは産業地帯であるドンバス地域を完全に支配するために侵攻して、ウクライナ軍は東部の重要な都市から撤退しつつある。セベロドネスクはロシア軍に包囲されて、執拗な戦闘で廃墟となったマリウポルの再来になった。ウクライナ軍は1日に最大で100人から200人の兵士を損失した。プーチンは6月9日に、ロシアでピョートル大帝はロシアの近代化を進め、大国の地位に押し上げた偉大な指導者と大帝の偉業をたたえた。

































Warning: Paramedics and investigators checked the body of a woman killed by shelling in the Kalininsky district of Donetsk, on the territory which is under the Government of the Donetsk People's Republic control, eastern Ukraine, Thursday, June 9, 2022. (AP Photo/Alexei Alexandrov)

2022年6月25日土曜日

広島市第一国民学校の残存校舎に収容された多数の被爆者は、広島原子爆弾が炸裂して5日後の8月10日に救護されていた。

広島市第一国民学校は、被爆直後から残存校舎の講堂・工業教室が、一般被爆者の臨時救護所として、1945年10月上旬まで使用された。第一国民学校に収容された多数の被爆者が8月10日に収容されて救護されていた写真である。校庭の一部は、9月10日まで仮火葬場として使用された。臨時救護所は10月初旬に閉鎖した後に、10月中旬までに教室を整備して学校を開校して再開して、臨時の仮教室として、講堂・工業教室・西校舎を使用した。

 広島市第一国民学校(現・広島市段原中学校)は、爆心地から約2.6kmに位置していた。1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下され炸裂した直後に、第一国民学校の北側木造校舎は東側校庭に全壊した。西側校舎・東側校舎(コンクリート造)・講堂などは、窓枠と窓ガラスが全壊したが、倒壊には至らなかった。倒壊した校舎や周辺の住宅からの火災の引火はなかった。1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市内の国民学校 約33校が救護組織と救急薬品を持つ救護所に指定された。

 第一国民学校は、原爆の炸裂時には職員約20人と学生約580人は校外に動員されていた。第一国民学校内には、学校管理2人、児童約6人、小使い1人のみが残存した。学外の教職員1人が即死、約9人が傷害であり、児童は約46人が即死、約50人が傷害、約2人が行方不明となった。学内では給食係の1人の女子生徒は倒壊した校舎下に死体が約1ケ月後に発見された。原子爆弾の炸裂時に、北校舎の倒壊して学内者は倒壊して一時的に校舎の下敷きになった。第一国民学校の原爆被災説明板は段原中学校正門横に建立されたが、2014年に広島市南区段原山崎の段原山崎第二公園に移設された。





2022年6月24日金曜日

イラク戦争でアメリカ軍の空爆により、頭部外傷で重態となり死亡したイラク人の5歳の次女シャハッドを、31歳の父親のアリ・サクバンは、病院で懸命に救護した。

イラク戦争にて、首都バグダットが2003年4月10日午前9時前にアメリカ軍が空爆した。空爆の犠牲で、重態となったイラク人の5歳の次女シャハッドを、31歳の父親のアリ・サクバンは、懸命に救護した。イラクの首都バグダットが空襲されて、空襲の死傷者が至るところに溢れた。バグダットにある病院で、幼いイラク人女の子の娘が出血して意識を失って、酸素吸入器を口に装着された。女の子の頭部には、巻かれた包帯が、血まみれになった。イラク人男性の父親は、幼い女の子の側で、小さな左手を握りしめながら励ました。男性の白いシャツは、娘から出血した血液を浴びて朱色に染まった。その他に、父親の右腕から右胸にも、シャハッドの頭部からの出血の血痕が広がった。その直後に、次女のシャハッドは死亡した。アメリカ軍による無差別の空襲によって、父親の他の2人の子どもたちは、死亡していた。

 アメリカ軍のジェット戦闘機からの3発の爆弾が、2003年4月10日午前9時前にサクバン家で炸裂した。3歳の三女のザイナブは、ガラスと壁の瓦礫に埋もれて即死した。次女のシャハッドは頭部から出血して倒れた。7歳の甥のライスは、内臓がえぐれて死亡した。父親のサクバン、妻で母親のロシャ、長女の7歳のゴフランは運良く生存した。父親のサクバンは、すぐにシャハッドとライスを抱えて、近所の友人の車で病院に搬送した。次女のシャハッドだけでなく、甥のライスも死亡した。父親は、2人の死体を見守って、やり場のない怒りと苦悩に激昂していた。

 バグダッドでは3月31日から昼間にアメリカ軍の爆撃が始まり、アメリカ軍地上部隊の進路を確保するための空爆が、バクダット市周辺の共和国防衛隊に集中的爆撃が加えられた。イラク政府施設への爆撃は、空港が占拠をした4月3日朝までにほぼ終了したが、イラク共和国軍部隊への攻撃は続いた。4月5日に、地上戦を支援するため、近接航空支援ミッションがバグダッド上空を飛行した。同日に、アメリカ軍はバスラにあるアリ・ハッサン・アルマジッド(通称「化学アリ」)の隠家とされる場所を空爆した。4月7日に、バグダッドにサダム・フセインと他のイラク人指導者を空爆した。4月9日に、バグダッドは陥落した。

 イラクでの空爆では、精密誘導兵器を使用したが、膨大な民間イラク人の死傷者が発生した。空爆による民間人死傷者の多くは、イラク軍の幹部指導者を標的としたアメリカ軍の攻撃中に発生した。衛星電波の地理座標に基づく攻撃目標は、精密誘導兵器を潜在的な無差別に攻撃にした。人口密集地域内対するクラスター爆弾が、精度は低く、民間人の死亡者数を増悪させた。空爆には依然として失敗があり、民間人の生命の喪失または他の民間人の犠牲に繋がった。 




2022年6月23日木曜日

ロシアの独立系新聞のドミトリー・ムラトフは、ノーベル平和賞のメダルが約1億350万ドルで落札され、ロシア・ウクライナ戦争によるウクライナの子供難民に全額を充てた。

ノーベル平和賞のメダルが競売にかけられ約1億350万ドル(約140億円)で落札された。ロシアの独立系新聞ノーバヤ・ロシアのガゼータ(Novaya Gazeta)のドミトリー・ムラトフ(Dmitry Muratov)編集長は、6月16日にロシアから脱国してから、2022年6月20日にアメリカのニューヨークの競売会場にて、売上金はロシア・ウクライナ戦争下にて、ウクライナ難民に充てるとし、市民の連盟により人道支援に対して金が支払う平和を強調した。ムラトフは、「一銭たりとも受け取らない。ウクライナの子どもらを支援するため、全額を国連児童基金(ユニセフ, UNICEF)に寄付する」と表明した。医療や教育など、幅広い分野で役立ててほしいと訴えた。6月20日は世界難民の日であり、2000年12月4日に、国連総会で毎年6月20日を 世界難民の日(World Refugee Day)と決議された。

 光り輝くノーベル平和賞のメダルの重さは175gで金は4.6gである。ムラトフは「私は、このメダルを今後、見ることはないだろうが、メダル売却によって生まれる収益で、救われる人たちの未来を目にしたい。世界難民の日は何より大事なのは、今も戦争が続いて、最も苦悩している市民を助ける必要があることだ」と述べた。既に、ムラトフは現金払いで約50万ドル(約6800万円)を寄付していた。

 ムラトフはロシアで表現の自由を守ったとして2021年に平和賞を、フィリピンのマリア・レッサと共同受賞した。ノバヤ・ガゼータは、1993年4月1日ソ連崩壊後に設立された。2000年以降に、アンナ・ポリトコフスカヤを含む同紙記者と協力者6人が暗殺された。ロシアのウクライナ侵攻直後の3月28日に事業を停止した。ロシア政府は、ウクライナにおけるロシアの行動を特別軍事作戦と呼称した。それを戦争と表現した者は、重い罰金か閉鎖に追い込まれた。4月7日にロシアの列車内で溶剤のアセトンを混ぜた赤いペンキで襲撃された。

 今後について「私は政治家ではなく、一般市民だ。市民にできることは、自由な報道をすることだ」と述べ、今後もロシアのプーチン政権からの圧力に屈せず、ジャーナリスト活動を続けていく考えを表明した(共同)。





2022年6月22日水曜日

1939年の日ソ停戦協定後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が自軍の戦死者の死体を回収して、悲壮な死体処理と黙祷が撮影された。

1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 ノモンハン事件と呼称されるハルハ河・ノモンハン戦争が、1939年5月11日から勃発した。日本・偽満州国軍が外モンゴル辺境地域のノモンハン・ブルド・オボー地域のモンゴル軍警備隊を5月11日に襲撃したのが起点となった。5月24日にソ連軍がモンゴルに参入して7月からソ連・モンゴル軍が結成された。日中戦争下において、外モンゴル人が武力によって日本満州軍の侵略に対抗した。ハルハ河・ノモンハンで砲火を焦がして、非常に厳しい戦闘が長期にわたり継続した。武力では優勢でなかったソ連・モンゴル連合軍が反撃した。モンゴルと満州の国境地域であるハルハ河東部で、日本満州軍を撃退した。1940年8月16日にモスクワで日ソ停戦協定が調印されて停戦した。

 日本防衛省史料室は、2013年2月に約2万点のハルハ河・ノモンハン戦争の関連資料を公開した。写真・映像資料は、軍の意図的なプロパガンダを容疑されるが、細部まで鮮明に撮影された写真・映像資料は視覚的な歴史記録であり、臨場感も高く真実に強く迫る。無声の映画資料「日本軍の遺骨,1939年」が、ドキュメンタリー映画「ハルハ河の英雄」の作成元となった。1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 1939年5月から9月の激闘で、日満軍の戦死者は約18,155人、戦傷・行方不明は約3,534人に上った。ソ連軍は、戦死者は約9,703人、戦傷病者し15,952人に及んだ。モンゴル軍は、死傷者は約990人に上った。 1939年9月15日にハルハ河・ノモンハン戦争に対して、日ソ停戦協定が成立した。9月27日と9月29日、1940年4月27日に、日満軍とソ連モンゴル軍は、捕虜交換した。1941年4月13日に、モスクワで日ソ中立条約が締結された。





2022年6月21日火曜日

アメリカ軍の北爆により父親のレ・バン・ヒュンは被爆して重症となり、2人の息子は空襲で殺害され、長男の死体は横たわり、次男の死体は父親に抱えられた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の空襲による北爆で、北ベトナムの首都ハノイの西約57kmにあるハイズオン市郊外のモイ村は廃墟に陥った。モイ村の住人であるレ・バン・ヒュンさんの住宅も崩壊した。北爆によって父親であるレ・バン・ヒュンさんは被爆して重症となって、2人の息子は空襲で殺害された。長男の死体は横たわり、次男の死体は、父親であるレ・バン・ヒュンさんが抱えて慟哭して悲嘆した。

 1964年8月にアメリカ軍はトンキン湾事件が勃発して、それを根拠にして8月から北ベトナムに対する軍事介入を開始した。それ以降に1973年1月まで隙間なく連続的に北ベトナムに空爆して炸裂した。連続爆撃、大量の爆弾の集中投下、奇襲、無差別攻撃をした。特に、病院、堤防、学校、住宅地域に対する北爆により、北ベトナムにおける死傷者数が急増して、北ベトナムの市民は恐怖に陥った。

 1965年2月7日にアメリカ軍事顧問団基地が解放戦線によって攻撃されて、アメリカ軍が北ベトナム領内に対する爆撃である北爆が本格的に勃発した。ローリング・サンダー作戦による北爆が、1965年3月2日から1968年11月2日までベトナム戦争への本格介入に踏み切った。アメリカ軍は、戦闘爆撃機が北爆を行って、地上軍も投入して共産主義勢力の一掃を目指して、ベトナム戦争は泥沼化し、日に日に疲弊した。1967年12月31日にアメリカ国防総省は北爆のローリングサンダー作戦中に、約864,000トンのアメリカ製爆弾が北ベトナムに投下されたと発表した。朝鮮戦争全体では約653,000トン、第二次世界大戦中の太平洋戦争では約503,000トンより膨大な北爆をした。

 CIAは北ベトナムに与えた損害は総額5億ドルに上り、非公開で犠牲者を推定した。1967年4月までに、作戦の結果として北ベトナムにて約2,1000人の死亡を含む約5,2000人の死傷者が発生したと推定した。死傷者の約75%は民間人を含む軍事または準軍事活動に関与したと推定した。1965年の死傷者の約45%は北ベトナムの民間人と後方支援従事者であり、1966年には約80%に上昇した。1967年6月には、北ベトナムで約13,000人から17,000人の民間人の死者を含む約19,000人から約26,000の北爆によって殺害された。1967年末には、約27,900人の軍人と約48,000人の民間人の死傷者と推定した。アメリカ政府は作戦によって合計約30,000人の民間人が殺害されたと推測した。

 アメリカ軍は、空軍506機、海軍397機、海兵隊19機が北ベトナム上空または付近で損失した。作戦中に、撃墜された約745人の乗員のうち、アメリカ空軍は約145人を救助するも、約255人が死亡して、約222人が捕獲されて(うち23人は拘束中に死亡)、約123人は行方不明となった。アメリカ海兵隊の死傷者数は非公開にされた。約44ヶ月の期間中に、約454人の海軍飛行士が北ベトナムとラオスでの複合作戦で死亡、捕獲、行方不明になった。北爆の作戦は、東南アジアにおける他のアメリカ軍の作戦と同様に、機能不全の餌食となった。




2022年6月20日月曜日

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送同日に、宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から自ら彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送後の同日1945年8月15日に、自らの特攻死を直前に宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

 日本海軍司令官の宇垣纏(うがい まとめ)は、陣中日誌である『戦藻録(せんそうろく)ー大東亜戦争秘記』(The Diary of Admiral Matome Ugaki)を記載した。1941年10月16日から、最後の特攻攻撃にて1945年8月15日の戦死する直前までの陣中録である。1945年9月24日の真珠湾攻撃の図上演習後の特別討議にて、山本五十六の真珠湾攻撃の決行に向けて10月16日から、『戦藻録』を書き始めて、55歳で特攻死する終戦日まで書き続けらた。

 1945年8月15日の終戦の直前の8月14日深夜に、対ソ・対沖縄の積極的攻撃の中止を命令された。8月15日真夜に、8月10日まで第五航空艦隊長官であった宇垣纏は戦闘機・彗星5機に、沖縄方面のアメリカ艦隊を特攻を命じた。宇垣纏自身が、特攻する攻撃準備を命じた「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機を以って沖縄敵艦隊を攻撃すへし。本職これを直率す。— 第五航空艦隊司令長官 海軍中将 宇垣纏」の起案を発出した。8月15日正午に、大分基地にてラジオから無条件降伏する天皇陛下の玉音放送を拝聴した。「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」と記して、『戦藻録』は閉じた。参謀に、「抱夢 征空」と遺墨を書き残した。 

 8月15日16時15分に、大分基地の飛行場に到着した。戦闘機・彗星5機から彗星11機と搭乗員22人の増機と増員が待機した。「命令を変更する。彗星艦爆十一機をもって、只今より沖縄の敵艦隊を攻撃する。」して宇垣纏は最後の特攻となる彗星に搭乗した。8月15日17時すぎに、各800kg爆弾を搭載した彗星11機と搭乗員23人が、大分基地から沖縄方面に出撃した。20時25分に宇垣纏より「ワレ奇襲ニ成功セリ ワレ突入ス」と入電し、次いで突入を意味する「ツー」という長符(突入電)が15秒ほど続いて、通信は途絶えた。宇垣纏を含めて18人が特攻死して、5人が彗星で生還した。玉音放送後の出撃で17人の部下を犠牲にしたと、停戦命令後の理由なき戦闘行為から、大本営と遺族からの非難も受けた。戦後しばらくは靖国神社は合祀しなかったが、宇垣纏は祭神として合祀され、太平洋戦争を聖戦として正当化した。戦藻録は、将来ナニガシカの戦争の為に必要とされると考へられた。
















2022年6月19日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した2022年2月24日に、ウクライナの東部第2の都市であるハリコフ(ハリキウ)郊外の道路に、ロシア軍兵士と容疑された死体が破壊された戦車の側に横たっていた。その死体にはウクライナ軍の記章がなかった。ウクライナ軍との戦闘で殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体であるとウクライナ軍は主張した。

 ロシア軍は、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体を回収していなかったと非難して、ウクライナ軍の防衛戦線には、侵略したロシア軍兵士の死体が、多数の死体が放置されて残存しているとロシア国民に対してメッセージを送った。ロシア軍が2月24日にウクライナに侵攻を開始して以来、3月19日までに戦闘で殺害されて死亡した約1万4000人のロシア人の画像を公開した。約1万4000人のロシア軍兵士の死体は、約1万4000人の母親、約1万4000人の父親、妻、子供、親戚、友人のものだとウクライナは主張して、ロシア国民に対して、近年、軍人の親族を失ったことに気づくように説得した。3月19日同日に、ウクライナ軍が、約562人のロシア軍兵士を捕虜に捕らえ、数人は自発的に武器を捨てて投降したと公表した。北大西洋条約機構(NATO)も、ウクライナでは約7000〜約1万5000人のロシア軍兵士が殺害されて戦士したと推定した。アメリカ国防省は、NATOの推定値に同意せず、最大で約7000人のロシア軍兵士が殺害されて死亡したと推定した。ロシア国防省は、2月27日に初めてロシア軍の兵士が死傷したを認めたが、具体的な数字は示唆しなかった。

 ロシア軍は2月24日から突如に北、南、東からウクライナに侵攻して、爆撃音が響く中で、多くのウクライナ人は避難を余儀なくされた。ロシア軍によるミサイルと砲撃がウクライナの各都市に降り注いで炸裂して、ウクライナ市民は地下鉄に避難して、約10万人が地下で一時的に避難生活を送った。プーチンはテレビ演説で、ウクライナ東部のドネツク共和国とルガンスク共和国を守るための攻撃と正当化した。クレムリンは先に、プーチンが2月21日に独立を承認した後に、2つの分離主義地域の指導者がキエフに対する軍事的支援をモスクワに要請した。分離主義者とウクライナ政府軍との間の紛争は2014年のクリミア併合以来長引き、両軍で既に約14,000人以上が殺害されて死亡した。











Warning: The body of a soldier, without insignia, who the Ukrainian military claim is a Russian army serviceman killed in fighting, lies on a road outside the city of Kharkiv, Ukraine, February 24, 2022 (REUTERS/Maksim Levin)


2022年6月18日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの広島市古田町高須の白壁に、高い放射能と泥成分を含む大粒の黒い雨の水滴が流れた跡が残存した。

広島原子爆弾の爆心地から約3.7kmの古田町高須の白壁に、黒い雨の水滴が流れた跡が残った。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂して、午前9時から午後4時にわたり、高い放射能を含む黒い雨の降雨を伴った。大粒の大雨が、約1時間から2時間ほど、泥成分を含んだ黒い雨が降雨した。黒い雨を浴びた被爆者は、第二次放射能障害を発症して、黒い雨が流れ込む川や池では、死んだ魚が白い腹を上にして、飲水した牛などは下痢等の原爆症を伴った。 

 原子爆弾の炸裂後に、巨大なきのこ雲が広島上空にたちのぼり、20~30分後から西向きの風にのって形をくずしながら北西部に流れた。その下の地域に黒い雨が降った。雨の中には、爆発のときにまきあげられた泥どろやチリ、火事のススなどのほかに放射性物質が含まれた。爆心地から遠く離れた地域の被爆者の中にも放射線障害が出現した。

 広島原子爆弾の影響による黒い雨は、降雨は爆撃の閃光後約20分から~1時間後に降り始めた黒い雨が多かったと日本学術会議調査団は報告した。その中には火災により発生した収斂性上昇気流に起因して黒い雨が、約2時間後に降り始めた地区もあった。黒い雨は、原子爆弾の炸裂による直接的な上昇気流による黒い雨と、原子爆弾の炸裂から起こった火災による間接的な作用に基く上昇気流が重なった。黒い雨の性状は非常に特殊で、最初は黒い泥分が多く粘り気を伴った。黒い雨は約1から2時間継続して、次第に黒色が薄れて遂に普通の白い雨となった。原子爆弾の炸裂直後から、黒い雨が降雨した土壌から、放射性物資が検出された。

 広島原爆戦災誌に、黒い雨が次のように記録された。「被爆当日は、終日、巨大な塔状の積乱雲が発達した。その黒雲は、爆発後約20分ないし約30分から、つぎつぎと北北西方へ移動していき、午前9時から午後4時ごろの間にわたって「黒い雨現象」を起した。驟雨(にわか雨)は、市中心部では軽く、西部(己斐・高須方面)と北部(可部方面)では土砂降りの豪雨となった。」

 広島原子爆弾により広島周辺に発生した激しい火災は、大量の灰を大気中に運んだ。灰は雲に種をまく効果があり、炸裂から約1から2時間後に黒い雨が降った。黒い雨には、灰、放射性降下物、水が混在して、ほとんどタール状の粘性をもった。黒い雨を素肌に受けた被爆者には、重度の放射線火傷が発生した。爆心地から遠く離れても、黒い雨の放射能被害を受けた建物の壁の一部である。雨は破損した屋根を通り抜けて、壁を伝い、漆喰のような黒い跡を残した(ORAU: Museum of Radiation and Radioactivit)。

 黒い雨は、原子爆弾の炸裂で、核分裂を伴うウランやプルトニウムの核分裂粒子から約200種類の放射性同位元素が発生した。原子爆弾の中性子により、大気中に大量に放出された。大量の放射性物質と暴風雨による熱と熱流が混在して、原子爆弾の炸裂後約30から40分で黒い雨の降雨に見舞われた。放射性降下物の粒子は、都市全体の火災から生じた炭素残渣と混在して、有害な黒い雨が降雨した。黒い雨は、粘り気があり、黒く、危険な放射能を含んだ水として地上に降り注いだ。皮膚や衣服、建物を汚しただけでなく、呼吸や汚染された食物・水の摂取によって摂取し、放射線障害を引き起こした。