第二次世界大戦の終結後の1945年5月29日に、ミュンヘン近郊のカウフボイレン・イルゼー(Kaufbeuren-Irsee)安楽死施設の子供病棟の主任看護師であるシスター・ヴェルレ(Sister Wörle)が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で13時10分に殺害した。安楽死施設で虐殺された最後の心身障害児となった。
1876年に開設されたカウフボイレン・イルゼー療養所は、心身障害者(児)の治療のための重要な医療施設であった。第一次世界大戦中は、戦争神経症による重度障害兵士のための軍事病院となった。1929年に、戦争神経症治療の専門家である医師ヴァレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser)が、カウフボイレン所長に就任した。彼は優生学運動の提唱者であり、安楽死を一部の患者の善の措置と信じた。彼は、ナチスの安楽死計画であるアクティオン(Action)T-4の強力な支持者となった。1939-40年に、彼は全精神科施設をT-4登録プログラムに参加させる委員会委員になった。ドイツの精神科施設にいる精神科の患者を用紙に記入し、ベルリンに送付させた。T-4の医師は、患者をどの患者が生きるに値しない、無駄飯食いと判定した。患者は、療養所の職員に監視された後に、グラフェネック(Grafeneck)やハルトハイム(Hartheim)などの毒ガス処刑施設に特別バスで輸送された。
カウフボイレン・イルゼーは、ドイツ各地から安楽死施設に送られる患者の選別地点となった。1941年8月に、アドルフ・ヒトラー自身は、戦時中にドイツ国民を疎外しないために、毒ガス処刑計画を中止するように命じた。しかし、その1年後に、カウフボイレン・イルゼーで殺人が再開された。ファルトルハウザー自身は、部下が拒否した場合に、致死注射を執行した。飢餓も患者の殺害方法となった。餓死させる患者には、脂肪分やビタミンを含まない食事を与えた。1942年11月末に、飢餓食(E-Kost)がドイツの全安楽死施設で導入された。1945年4月にアメリカがシュヴァービアの占領から数ヵ月後まで、カウフボイレン・イルゼーでは注射と飢餓による殺戮が1945年7月2日まで続けられた。安楽死施設のドアに貼られたチフスの警告を見て、退避したアメリカ軍がカウフボイレンに入ったのは7月2日となった。その時までの殺戮作戦の記録はすべて破棄された。ファルトルハウザーと看護婦達は、殺人幇助の罪で逮捕され、裁判にかけられた。看護婦達は12ヶ月から21ヶ月の禁固刑に処された。ファルトハウザーは3年間収監されて釈放され後に、医師免許を剥奪されたのみで終結された。
安楽死計画は、劣等でアーリア人種の健康を脅かすと判断した特定の集団に対するナチス政権初の大量殺人作戦であった。ベルリンの本部住所(Tiergarten 4)からT4作戦と呼称された安楽死作戦は、ナチスが生きるに値しない生命(lebensunwertes Leben)とみなした心身障害者(児)を対象とした。安楽死による殺人は、1939年8月に障害のある乳幼児の殺害から始まった。総統府長官フィリップ・ブーラーとヒトラーの専属医師カール・ブラントが指揮をとり、医師、看護師、助産師が障害者と認めた子供たちを選別して、約20以上の病院に設けた特別小児病棟に移送した安楽死計画であった。医療従事者が致死量の薬物投与や飢餓状態にして、少なくとも約5,000人もの子どもを虐殺した。後に年長の障害児にも拡大された。安楽死の次の段階は、ドイツ帝国施設に入所した身体障害者の殺害であった。T4の技術者は、膨大な対象者に対応するために、障害者をガス室で殺害し、死体を火葬場で焼却する殺人センターを設置した。1940年にブランデンブルク、グラーフェネック、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの6つの殺人施設が設立された。教会や司法当局からの抗議で、ヒトラーは1941年8月にガス処刑を中止させた。しかし、安楽死計画は終了しないで、障害児の殺害は絶え間なく続けられた。1942年8月からは、致死量の過剰投与と飢餓による成人障害者の殺害が再開された。野生の安楽死と呼ばれ、戦争末期まで続けられた。T4作戦を主導したカール・ブラントは、1946年12月9日からのニュールンベルク裁判で死刑と裁定されて、1948年6月2日に絞首刑に処された。T4作戦によって、少なくとも20万人の障害者の命が奪われた。