2022年5月30日月曜日

カウフボイレン・イルゼー安楽死施設の子供病棟のあるシスター・ヴェルレ看護師が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で1945年5月29日13時10分に最後に殺害した。

第二次世界大戦の終結後の1945年5月29日に、ミュンヘン近郊のカウフボイレン・イルゼー(Kaufbeuren-Irsee)安楽死施設の子供病棟の主任看護師であるシスター・ヴェルレ(Sister Wörle)が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で13時10分に殺害した。安楽死施設で虐殺された最後の心身障害児となった。

  1876年に開設されたカウフボイレン・イルゼー療養所は、心身障害者(児)の治療のための重要な医療施設であった。第一次世界大戦中は、戦争神経症による重度障害兵士のための軍事病院となった。1929年に、戦争神経症治療の専門家である医師ヴァレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser)が、カウフボイレン所長に就任した。彼は優生学運動の提唱者であり、安楽死を一部の患者の善の措置と信じた。彼は、ナチスの安楽死計画であるアクティオン(Action)T-4の強力な支持者となった。1939-40年に、彼は全精神科施設をT-4登録プログラムに参加させる委員会委員になった。ドイツの精神科施設にいる精神科の患者を用紙に記入し、ベルリンに送付させた。T-4の医師は、患者をどの患者が生きるに値しない、無駄飯食いと判定した。患者は、療養所の職員に監視された後に、グラフェネック(Grafeneck)やハルトハイム(Hartheim)などの毒ガス処刑施設に特別バスで輸送された。

 カウフボイレン・イルゼーは、ドイツ各地から安楽死施設に送られる患者の選別地点となった。1941年8月に、アドルフ・ヒトラー自身は、戦時中にドイツ国民を疎外しないために、毒ガス処刑計画を中止するように命じた。しかし、その1年後に、カウフボイレン・イルゼーで殺人が再開された。ファルトルハウザー自身は、部下が拒否した場合に、致死注射を執行した。飢餓も患者の殺害方法となった。餓死させる患者には、脂肪分やビタミンを含まない食事を与えた。1942年11月末に、飢餓食(E-Kost)がドイツの全安楽死施設で導入された。1945年4月にアメリカがシュヴァービアの占領から数ヵ月後まで、カウフボイレン・イルゼーでは注射と飢餓による殺戮が1945年7月2日まで続けられた。安楽死施設のドアに貼られたチフスの警告を見て、退避したアメリカ軍がカウフボイレンに入ったのは7月2日となった。その時までの殺戮作戦の記録はすべて破棄された。ファルトルハウザーと看護婦達は、殺人幇助の罪で逮捕され、裁判にかけられた。看護婦達は12ヶ月から21ヶ月の禁固刑に処された。ファルトハウザーは3年間収監されて釈放され後に、医師免許を剥奪されたのみで終結された。

 安楽死計画は、劣等でアーリア人種の健康を脅かすと判断した特定の集団に対するナチス政権初の大量殺人作戦であった。ベルリンの本部住所(Tiergarten 4)からT4作戦と呼称された安楽死作戦は、ナチスが生きるに値しない生命(lebensunwertes Leben)とみなした心身障害者(児)を対象とした。安楽死による殺人は、1939年8月に障害のある乳幼児の殺害から始まった。総統府長官フィリップ・ブーラーとヒトラーの専属医師カール・ブラントが指揮をとり、医師、看護師、助産師が障害者と認めた子供たちを選別して、約20以上の病院に設けた特別小児病棟に移送した安楽死計画であった。医療従事者が致死量の薬物投与や飢餓状態にして、少なくとも約5,000人もの子どもを虐殺した。後に年長の障害児にも拡大された。安楽死の次の段階は、ドイツ帝国施設に入所した身体障害者の殺害であった。T4の技術者は、膨大な対象者に対応するために、障害者をガス室で殺害し、死体を火葬場で焼却する殺人センターを設置した。1940年にブランデンブルク、グラーフェネック、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの6つの殺人施設が設立された。教会や司法当局からの抗議で、ヒトラーは1941年8月にガス処刑を中止させた。しかし、安楽死計画は終了しないで、障害児の殺害は絶え間なく続けられた。1942年8月からは、致死量の過剰投与と飢餓による成人障害者の殺害が再開された。野生の安楽死と呼ばれ、戦争末期まで続けられた。T4作戦を主導したカール・ブラントは、1946年12月9日からのニュールンベルク裁判で死刑と裁定されて、1948年6月2日に絞首刑に処された。T4作戦によって、少なくとも20万人の障害者の命が奪われた。



2022年5月29日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で2022年5月26日に、ウクライナのハルキフの地下鉄がミサイル攻撃され、夫アレクセイの死体は地下鉄の入口の側で妻エレナさんが泣き崩れた。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年5月26日にウクライナ東部のハルキフの地下鉄が攻撃された。地下鉄の構内で負傷した男性が優先して担架で運ばれた。死亡した夫アレクセイの死体は、地下鉄の入口に横たわったままであった。その側で妻のエレナさんが泣き崩れた。ミサイル砲撃中に殺害され大量の出血をした夫アレクセイの死体の側で、一人で取り残されて妻のエレナさんが慟哭しながら跪いていた。

 ウクライナ第2の都市ハルキウで、5月26日のロシア軍のミサイル砲撃により7人が死亡し、9歳の子どもを含む17人がけがをしたとハルキウ州のシネグボフ知事は公表した。その時点は東部のハルキウ州周辺では、ウクライナ軍がロシア軍を押し戻していた。2月24日の侵攻開始から約3カ月の5月23日までに、ロシア軍はウクライナに対して約1474回のミサイル攻撃を行い、航空機やヘリコプターによる空爆は約3000回以上に及び、被害の大半は民間人施設とウクライナ当局は公表した。

 国連人権高等弁務官事務所は、ロシア軍による軍事侵攻が始まった2月24日から5月26日までに、ウクライナで少なくとも4,031人の市民が死亡した。このうち261人は、子どもであった。地域別では東部のドネツク州とルハンシク州で2274人、キーウ州や東部のハルキウ州など、そのほかの地域で1757人の死亡が確認された。負傷した市民は4735人に上ると公表した。その他に国連人権高等弁務官事務所は、激しい戦闘が続いた東部のマリウポリなどでの死傷者は、まだ確認が取れず、実際の死傷者の数はこれを大きく上回ると推定された。

 アメリカ国防総省は5月26日に、ロシア軍がスラビャンスクとクラマトルスク方面に侵攻した。ロシア軍がウクライナ東部2州のうち、ドネツク州の交通の要衝に対して、攻勢を強めた。東部2州のうちもう1つのルハンシク州では、ウクライナ側が唯一の拠点とするセベロドネツクに激しい戦闘が継続して、ロシア軍が北東部の大部分を制圧したと公表した。ロシア軍によるルハンシュク州が包囲された場合には、ウクライナ軍の撤退が示唆された。











Warning: A dead man lay at the entrance of the subway as an injured man was carried on a stretcher after shelling in Kharkiv, eastern Ukraine, Thursday, 26, May, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)











Warning: Elena kneeled over the body of her husband Alexey after he died during shelling at the subway in Kharkiv in eastern Ukraine, Thursday, May 26, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)

2022年5月28日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建て木造消防署が瓦礫となり、数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下敷きになった。

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



2022年5月27日金曜日

第一次世界大戦にてソンムの戦いにて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。

第一次世界大戦にてソンムの戦いの途上にて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。ドイツ軍の防御に深い塹壕がなかったために、イギリス軍の砲撃により機関銃座が破壊されて、同時にドイツ軍兵士も爆死した。イギリスの砲撃は1916年9月3日の夜明けまでに始まり、ドイツ軍の前線に激しい砲撃を集中させた。ドイツ砲兵は防衛にほとんど関与しなかったが、イギリス軍の攻撃開始後1時間で約1,000人のドイツ軍兵士が死傷した。

 ギーユモンは、フランス北部のソンムの東約13kmにある地域であった。イギリス軍は1916年9月3日にギルモン村を占領した。9月はソンムの戦いにおける連合軍の攻勢が短期間は改善された。ドイツ軍はバポームに撤退して、その他のジンチーとティエプヴァルを含む多くの重要地点が占領された。第一次世界大戦中、戦死した死体がはっきりと見える写真は、しばしば一般公開が差し控えられた。

 ギーユモンの戦いは、1916年9月3日から9月6日に勃発した。ギルモンの戦いは、イギリス軍によるギルモン村への攻撃した。ギーユモン村は、イギリス軍の右翼にあり、フランス軍との境界線に近かった。1916年9月3日正午に、より広い攻撃の一部として、忍び寄りの弾幕の保護下でイギリス軍が攻撃を開始した。ドイツ軍の迷路のような地下道、壕、コンクリート陣地からなるギーユモンは正真正銘の要塞であった。イギリス軍は、ギーユモン村辞退を度重なる砲撃で破壊した。ギーユモンの戦いでギルモン村を占領した。9月3日から6日にかけて、ソンム北部のクレリーからギーユモンまでのドイツ軍防御網を攻略した。

 第一次世界大戦のソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日に、イギリス軍、フランス軍とドイツ軍の若い兵士の多くが、フランス北部のソンムの泥沼で絶命した。イギリス軍司令部は、破れかぶれの役に立たない数百メートルの領土を得るために、大量の兵士が、突破されていないドイツ軍の鉄条網と手つかずのドイツ軍の機関銃に身投げして、何万人もの若い兵士の命を損失した。ソンムの戦いにて、イギリス軍は約456,000人、フランス軍は約200,000人、ドイツが434,000人以上も犠牲となった。




2022年5月26日木曜日

第一次上海事変にて、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、日本軍は中国国民党軍兵士の死体の上を突進した。

第一次上海事変にて、日本軍は1932年2月22日に、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、中華民国軍兵士の死体の上を突進した。アサヒグラフ(朝日新聞社)は、1932年1月28日に、第一次上海事変が勃発すると、朝日新聞社の記者たちはいち早く上海の戦場に駆けつけて、戦闘の様子を写真に収めた。第一次上海事変の写真において、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実を映し出した。中国の大都市を蹂躙する近代的な日本軍の軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の姿を見出した。戦場における死体も含めて戦争の悲惨さを公表した。その後に、日本の政治家や軍部幹部は、中国での戦闘に対する国際的な抗議に驚嘆した。そのために第二次上海事変(1937年8月13日)から南京陥落(1937年12月13日)したときに、日本のマスコミはひどい都市部の破壊の写真を何枚も掲載したが、中国人と日本人にかかわらず殺害された死体の写真は掲載できなかった。

 1930年代初頭に、日本軍による中国への軍事介入に関するメディア報道は、朝日新聞社の特派員は、日本軍の中国での主力部隊である関東軍の跡を追った。満州事変(1931年9月18日)から第一次上海事変(1932年1月28日)、済州島事件(1933年1月3日)を写真による特報を制作した。軍事事件の報道は、アジアで他の追随を許さない無敵の日本軍軍隊が、挑発されて、必要に迫られて軍事行動することを国民に過信させた。1937年まで、満州と中国における日本軍の動きを取材できるメディアは、自社の報道用飛行機を持つ朝日新聞社が最も優れていた。ライバルの新聞出版大手である毎日新聞社は、1937年に中国特派員と『中国前線』誌で対抗する特派員部隊を設立した。1938年2月には、内閣情報調査室(後に室、最終的に局へ昇格)が『写真週報』を創刊した。

 日本軍は第一次上海事変にて、在留日本人を含む国際社会を、中国国民党軍の暴力的な軍事行動から守るために迅速に軍事行動し、中国人の反乱軍が鎮圧されて秩序が回復されて、日本軍の軍事行動は完結したと物語化した。日本軍兵士が上海の都市部の道路を封鎖して、日本の権益を警備した写真を多く掲載した。上海の街を、日本軍の装甲車が巡回して、日本軍旗を掲げて、日本軍の統制を写真で誇示した。




2022年5月25日水曜日

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者には、戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架が、埋葬に引き取る死体の位置を示した。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者は3,000人以上に及んだ。戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架(Battlefield Cross)が、戦死したアメリカ軍兵士の死体の位置を示した。適切な時期に埋葬のために引き取る目印とした。サイパンの戦いでは、アメリカ軍の犠牲も甚大となった。戦死者の死体の側に、アメリカ軍兵士はここに永眠の戦場を示唆して、銃剣と鉄兜が立てられた。十字架や戦死者の宗教に適した記念標識に代用された。

 1944年6月15日に、サイパン島に上陸したアメリカ軍は、6月27日にタポチョー山を占領した。その間の約11日間で、日本軍兵士は約8割も損失した。7月6日早朝に司令部は、最後の命令を下して、7月7日に残存した約3,000人の日本軍兵士が、自滅するバンザイ攻撃をして全滅して、必死の夜間攻撃が虚しい兵力の浪費となった。7月9日には、日本軍と民間人は、サイパン島の北端のマッピ岬やマッピ山北面に追い詰められるも、狂信的愛国心から降伏を拒否して自決やバンザイクリフなどから投身自殺して、サイパンの戦いは終結した。その間にアメリカ軍は、日本軍に約138,391発、約8,500トン以上も艦砲射撃して、戦闘機による機銃掃射と爆撃を加えた。日本軍兵士の約30,000人はほとんど全員が死滅した。生存者はアメリカ軍に捕獲されたわずか約1,800人の捕虜のみであった。アメリカ軍の犠牲は、戦死者は約3,426人と戦傷者等は約13,099人であり、全体の約2割にも相当した。

 戦場十字架は、最期の死亡した場所に印をつける伝統は、南北戦争から死体集積の目印となる木製のプレートから始まった。第一次世界大戦からは、ライフル銃を下向きに地面やブーツに突き刺して、ヘルメットを載せて、戦死の指標にした。戦場の十字架は、墓地登録局員が死体を埋葬する目印だけでなく、慰霊碑の役割も果たした。第二次世界大戦以後からは、戦死者の犠牲、名誉、敬意、奉仕、象徴、慰霊、終結、喪失、最期、追悼などを記念した。兵士の仲間に対して、ある種の弔いの慰霊碑があることは軍隊には有益となった。




2022年5月24日火曜日

アメリカ軍は、ランズベルクのドイツ市民約250人を徴集して、解放したカウフェリングⅣ収容所の囚人の死体を見詰めて埋葬させた。

アメリカ軍のエドワード・ザイラー大佐が、ドイツ・ランズベルクの市民に対して、1945年4月27日に解放した近隣の強制労働収容所であるカウフェリングⅣ収容所の犠牲者の死体に目を向けるように要請した。大佐は、収容所を解放して、近くのランズベルグの町から約250人の民間人を徴集して、死んだ囚人の約360人の死体を埋葬させた。死体は、収容所の点呼所にある墓地に埋められていた。アメリカ軍兵士たちが解放時に、ナチス親衛隊が放火した小屋の残骸に煙を上げていた。この中から生きたまま焼かれた可能性のある約360人の死体が発見された。燃えた牢屋小屋の煙の中に、ナチスの刑務官がユダヤ人囚人を木製の小屋に閉じ込め、火をつけて生きたまま焼いた炭化した痩せ細った死体が横たわっていた。

 アイヒェルスドルファー所長は、1945年1月4日にカウフェリングⅣ収容所の最後の責任者となった。病気収容所として指定されたが、ダッハウ強制収容所の劣悪な生活環境のために病気になり、働けなくなった囚人たちの収容所であった。ナチス親衛隊はアメリカ軍の侵攻される前に、ダッハウ強制収容所への囚人の死の行進を強制した。カウフェリングⅣ収容所では、バラックに火をつけて数百人の囚人を殺した。アイヒェルスドルファーは、事件番号000-50-2で、ダッハウ裁判では12月13日に判決され、1946年5月29日に死刑が執行された。

 ナチスは全ユダヤ人をドイツから追放するも、他の労働力源を使い果たした。ユダヤ人をカウフェリング収容所に強制連行して、戦闘機工場を荒廃させる連合軍の爆撃の影響を受けない3つの巨大地下壕であるヴァイングートII、ダイアナII、ヴァルヌースIIを建設した。地下壕は、メッサーシュミットMe262の生産用であったが、アメリカ軍に解放されるまで、一機も生産できなかった。カウフェリング収容所はダッハウ強制収容所の分所の中で最も大きく、また最も劣悪な環境にあった。男性囚人用の72小屋と、女性囚人用の8の小屋で、囚人はしばしば暖房も食料も不十分な土の小屋で、土中に沈められ、外気から見えないように土で覆われた。収容所には、それぞれ数千人の囚人がおり、その大多数がユダヤ人であった。病気や栄養失調、職場や収容所の残酷な環境は、収容者たちを苦しめ、高い死亡率を伴った。約3万人の囚人の約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で死亡した。



2022年5月23日月曜日

第二次世界大戦のバルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が横たわった。

バルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が凍死して横たわった。バルジの戦いで最も困難だったのは天候である。歴史的な極寒が大混乱を引き起こした。移動、シェルター、食事といった兵站を毎日苦難の連続にした。1945年1月はヨーロッパで記録的な厳寒となり、バルジの戦闘中に約15,000人以上が凍傷などの寒冷により戦死傷した。

 バルジの戦いは、ベルギーのアルデンヌ山脈の深い森の中で、1944年12月16日から1945年1月25日まで、約84万人もの連合軍が、第二次世界大戦最後の約50万人ものドイツ軍の大攻勢と苦闘した。連合軍は最終的に勝利を収めたが、約6週間にわたる激しい戦闘で、両軍合わせて数万人が死亡した。バルジの戦いの犠牲者は、アメリカ軍が約8,607人以上、イギリス軍が約201人以上、ドイツ軍が約12,652人が戦死した。

 ドイツ軍の最後の攻勢には、連合軍の不意をつき、戦闘機を無力化する悪天候、早期の壊滅的な打撃、連合軍の燃料供給を確保することが必要であった。ドイツ国防軍は、ベルギー南部からルクセンブルクまでの約137kmに及ぶ連合軍戦線に約25万人のドイツ軍兵士を投入し、1944年12月16日に攻撃を開始した。

 ドイツ軍の攻撃は、当初は驚くほど驚異的で、部隊は連合国領内に約80kmも進攻した。この戦いの名前の由来となったアメリカ軍の戦線にバルジ(膨らみ)を作り出した。しかし、最初のドイツ軍の作戦がいかに驚異的でも、連合軍部隊の完全かつ早期の脱落は達成できなかった。

  連合軍は勝利を収めたが、代償として約2万人近いアメリカ軍兵士が死亡し、数万人が負傷、行方不明、または捕虜となった。イギリス軍は約1,000人以上の死傷者を出した。アメリカ軍にとって、バルジは第二次世界大戦中の西部戦線で最も血生臭い戦いとなった。ドイツ軍の犠牲は甚大で、約7万から10万人の死傷者が出たと推定された。

 連合軍は1945年1月25日に勝利し、ナチス・ドイツに対する最後の勝利を手に入れた。連合軍は優位に立ち、ベルリンへの最後の追撃を開始した。ドイツが5月8日にベルリンで無条件降伏して、5月9日にソ連が勝利宣言をして戦勝記念日となった。バルジの戦いが終わってから約5ヵ月足らずで、ヨーロッパでの戦争は終結した。




2022年5月22日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍によるウクライナのマリウポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に勃発して2週間後に、ロシア軍によるウクライナのマウリポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。3月9日水曜日に、ウクライナの港湾都市マリウポルの産科病院に対するロシア軍の無差別の空爆の後に、妊婦は顔面が青白く、血まみれの左下腹部を左手で撫でて担架に乗せられて救急隊員とボランティアが別の病院に搬送した。この空爆で、この妊婦と胎児の他に、少なくとも他の3人が殺害された。

 出産する予定病院が攻撃された後に、妊婦は別の病院へ緊急的に搬送された。妊婦は蘇生されながら、赤ちゃんは帝王切開で生まれたが、生命の兆候は無く死亡していた。救急病院の外科医のティムール・マリンは、妊婦の骨盤はつぶれて、股関節は脱臼していた。医療関係者は、妊婦の生命を救おうとしたが、妊婦は赤ちゃんが死亡したことに気づき、今すぐ殺してくれ "と叫んだ。死産である明白となり、医療関係者は妊婦の蘇生を試みたが、約30分後には絶望的となり死亡した。妊婦の夫と父親が死体を引き取り来ても、女性の名前を聞ける余裕はなかった。

 ロシア軍が病院を爆破した後に、SNSのTwitter社は、在ロンドン・ロシア大使館による攻撃が捏造されたと主張する2つの投稿を削除した。ロシア大使館のTweetは、病院は当時は稼働せず、現場で撮影され死亡した身元不明の妊婦は女優であるとフェイクを主張をした。ロシア軍は、病院から患者がいなくなり、ウクライナ軍の活動拠点として使われたと主張している。世界保健機関(WHO)は、ロシア軍によるウクライナ攻撃が始まって以来、医療施設や設備に対して少なくとも31件の攻撃が記録された。















Warning: Ukrainian emergency employees and volunteers carry an injured pregnant woman from a maternity hospital that was damaged by shelling in Mariupol, Ukraine, March 9, 2022. The woman and her baby died after Russia bombed the maternity hospital where she was meant to give birth. (AP Photo/Evgeniy Maloletka, File)

2022年5月21日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月7日から大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。

大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。




 

2022年5月20日金曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いで、日本軍兵士は背後に燃え盛る建物を約2時間防御した。その後に死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して日本軍兵士全員が殺害された。

太平洋戦争で、グアム島の戦いが1944年7月21日から8月10日まで勃発した。日本軍兵士は、グアム島で背後に燃え盛る建物を、約2時間にわたって防御した。その後に、圧倒的な不利の中で、ついに死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して、全員が殺害された。アメリカ軍兵士は、約1,783人が戦死して約6,010人が戦傷した。日本軍兵士は、18,337人が戦死して、約1,250人のみが捕獲された。グアム島の民間人は、約600人以上が殺害された。

 アメリカ軍の作戦計画者たちは、アイランドホッピング戦略を展開していた。日本本土に接近する際に、太平洋のいくつかの島の目標を注意深く選択して、それらを攻略して奪還して、他の重武装の島々は、つるつるに枯らすために背後に残しておいた。この戦略は、進路上にあるすべての島を攻撃するのではなく、人員と弾薬を大幅に削減した。しかし、日本軍が攻略していた島々は、地雷、戦車トラップ、機関銃のある何百もの隠し壕など、日本軍が何年も前から重武装していた。日本軍の一歩も譲らない戦いは、アメリカ軍の攻撃軍にとっては悪夢となった。しかも、日本軍は死を恐れない何百人もの日本軍兵士が、儀礼的な刀を振り回す日本軍将校に先導されて、絶望的なバンザイ突撃で殺害されて全滅した。太平洋戦争にて捕虜になった日本軍兵士はごくわずかだった。

 太平洋戦争のグアムの戦い(1944年7月21日〜8月10日)にて、アメリカ軍は1941年に日本軍に1941年12月10日から占領されたグアムを奪還してアメリカ領土を解放した。アメリカ軍は軍港と多くの飛行場を手に入れた。他の地域の戦いと同様に、グアムの日本軍守備隊は実質的に最後の一人が殺害されるまで戦った。アメリカ軍の死者は約1,700人、負傷者は約6,000人、日本軍の死者は約18,000人であった。

 雨と濃いジャングルがアメリカ軍を苦しめたが、8月2日から4日にバリガダ山での交戦の後に、日本軍の戦線は崩壊して、残りの戦いはグアム島北部への追撃戦となった。太平洋戦争の他の戦いと同様に、日本軍は降伏を拒否して、ほとんど兵士全員が戦死した。8月10日に、約3週間にわたる血生臭い激戦の末に、日本軍の組織的抵抗は終結した。グアムには、B-29爆撃機が日本本土に空襲できる滑走路が建設された。

 グアムへの攻撃は、当初サイパン上陸した6月15日から、翌月の7月21日に延期された。アメリカ軍側は、事前の砲撃と戦闘機の攻撃を徹底して、上陸用舟艇の沖合の障害物を効率的に除去した。アメリカ軍の上陸部隊は海兵隊と陸軍で約5万5千人が参戦した。日本軍は、約1万9千人の守備隊が、塹壕、砲台、その他の要塞を構築していた。上陸作戦は7月21日にグアム島の西海岸から勃発した。最初の数日間、日本軍の激しい夜間攻撃が続いたが、上陸地点はすぐに確保した。アメリカ軍が約1週間で、2つの戦線を連結した。日本軍の戦力の大半は散在して、日本軍の残存部隊は、さらに2週間戦い続けた。日本軍残兵は、グアム島の北端に向かって徐々に後退して、組織的な抵抗はほぼ終結した。グアムは特に山が多いので、少数の抵抗者は持ちこたえた、いくつかの小さな部隊は、終戦まで戦い続け、アメリカ軍に犠牲者を出した。ある孤独な退役軍人の横井庄一は、ジャングルから姿を現し、1972年1月24日に捕獲され降伏して日本に帰還して、「恥ずかしながら帰って参りました」と発言した。




2022年5月19日木曜日

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人住民を公開したままで絞首刑にして殺害した。

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人を絞首刑にして殺害した。フリードリヒ大公軍だけでも、約11,400人の絞首台を設置して、その絞首刑数は約36,000人とも記載された。1914年6月28日の暗殺事件の犯人であるセルビア人を懲罰的に攻撃する必要に迫られ、7月28日にセルビアへの宣戦布告して第一次世界大戦が開戦した。当初は、3か月以内で終了すると予想に反して戦争は1918年11月11日も長期間に及んだ。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍により、セルビア人はゲリラ容疑者として公開処刑された。1916年に、オーストリア・ハンガリーとブルガリアの両国は、セルビアが消滅して、住民にはジュネーブとハーグ条約の国際法規を適用できないと公表した。占領した軍当局は、ほとんど法的手続きを踏まずに数多くの即決処刑を行った。軍事法廷により有罪となると、セルビア人容疑者は通常は銃殺か絞首刑にされた。自衛の戒厳令が、反対意見を鎮圧して厳しい措置がセルビア市民を弾圧した。

 占領軍当局は、セルビア人集団や民間人が武器を取る恐怖にとらわれた。その結果、抵抗を鎮める手段として、一般住民から人質を奪取して、懲罰的に襲撃して村を焼き払った。民衆の武装解除は、一定枠の武器を引き渡す責任を村長から問われ、武器所持の刑は絞首刑とされた。軍事裁判所は新たな犯罪法で民間セルビア人を裁いた。

 レジスタンス活動を疑われた民間セルビア人は、絞首刑や銃殺を含む最も厳しい措置に処された。犯罪者の家族も破滅された。セルビア人の犠牲者は通常は、村や町の主要な広場で、一般住民からよく見えるように絞首刑で吊るされた。生気のない死体には、スパイと裏切り者の扱いを明確に示威するために、数日間に縄で吊るされたまま放置された。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍は、すべての政治を禁止し、市民集会を禁じ、学校を支配下に置く軍事法体系に加え、戒厳令の発動、人質取り、懲罰的襲撃による村の焼失、反乱に対する公開処刑と即決処刑が執行された。占領期間中に、約15万から20万人に及ぶセルビア人が、強制収容所へ強制送還された。




2022年5月18日水曜日

太平洋戦争にて、アメリカ軍はタラワ環礁のベティオ島に上陸した地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、海岸周辺に散乱して浮き上がった。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1943年11月20日からタラワ環礁のベティオ(Betio)島に上陸した。ベティオ島の上陸地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、上陸した海岸周辺に散乱して浮き上がった。タラワの恐怖を見せつけられたアメリカ軍は、日本軍兵士を全員を殺害して全滅した。

 アメリカ軍は、タラワ環礁のベティオ島にて1943年11月20日から11月23日にわたる約76時間に及ぶタラワの戦いが勃発した。アメリカ軍はベティオ島の北海岸に11月20日朝に上陸する直後に、太平洋戦争にて日本軍から未体験の猛攻撃に遭遇した。日本軍が要塞化されて集中防御したベティオ島に、上陸したアメリカ軍は、激しい抵抗を受けて甚大な死傷者の犠牲を伴った。翌日の11月21日に、ベティオ島の西側の海岸を確保した。11月22日にアメリカ軍は戦車の援軍で東侵した。日本軍はベティオ島の中央東の小領域に押し込まれて、11月22日夜から自滅的なバンザイ攻撃を繰り返した。ベティオ島を占領した11月23日早朝には日本軍は自滅的な4回にも及ぶバンザイ攻撃を挙行した。それが日本軍のベティオ島での最終的な組織的攻撃となった。捕獲された147人は、その大多数は朝鮮人強制労働者であり、それ以外の日本軍兵士は全員が自滅して死亡した。

 タラワの戦いで、日本軍側は、捕虜となった14人を除いた日本軍兵士の約2,619人の全員が自滅して戦死した。生存して捕獲された約129人の朝鮮人労働者を除いて、約1200人の朝鮮人と1000人の日本人の現場労働者のうち約2,071が戦闘に巻き込まれ死亡して、た。アメリカ軍兵士は約1,020人が死亡して、そのうち約400人以上は行方不明となった。行方不明となった多くのアメリカ軍兵士は、ベティオ島に上陸した初日の11月20日に発生した。輸送船からベティオ島の海岸まで海中を歩いて移動している時に、砲撃や機関銃で殺害されて、太平洋の海上にも流された。行方不明となったアメリカ軍兵士の埋葬地の墓標の下には死体が見当たらず、戦後に発掘調査が行われた。




2022年5月17日火曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム軍とアメリカ軍は、村落の村民を一様にベトコン容疑者として捕獲して、その一部を池の周辺で射殺し、散乱した死体を見回して検死した。

ベトナム戦争は1965年7月頃に、南ベトナムの村落にて現れた村民を、南ベトナム政府軍とアメリカ軍は一様にベトコン容疑者として捕獲した。その一部のベトコン容疑者として、池の周辺で射殺して、死体が散乱した。南ベトナム政府軍とアメリカ軍兵士らは、死体から発生する悪臭で鼻を押さえながら、見回して検死していた。その後に村落は、証拠隠滅のためにブルドーザーで全く排除して焼却して消滅した。同じベトナム民族同士の憎しみ合いにより、残虐な虐待と虐殺する戦争犯罪に結びついた。

 ベトコンは、南ベトナムのほとんどの地域で、地下組織に潜伏して、しばしば幽霊軍団と表現された。ベトコンには制服や徽章はなく、普通の南ベトナム人と見分けが困難であった。公式のベトコン本部もなく、幹部がいる特定の地域もなく、指揮系統に沿って伝達された。1960年に、ベトコンは共産主義的な反乱軍に成長した。北ベトナム政権の承認を得て、ベトコンは南部でテロ活動を活発化した。1961年10月には、ベトコンによる爆弾テロが約150件も発生した。

 南ベトナムのディエム政権の腐敗と残虐行為により、南ベトナム人は疎外され、土地を奪われ、ベトコンに入隊して戦闘した。女性、子供、老人など戦えない者は、食料、安全、南ベトナム軍とアメリカ軍に関する情報を提供して、他の方法で支援した。仏教僧、宗教団体、離散した農民や都市労働者などもベトコンに参戦した。

 しかし、ベトコンの支援の流れは双方向となり、爆撃、破壊工作、暗殺は、かなりの南ベトナム人の反発を生んだ。外国や南ベトナム政府を標的にしたが、しばしば罪のない民間ベトナム人を殺害して、私有地を破壊し、事業を中断させた。その結果、ディエム政権だけでなくベトコンも支持しない南ベトナム人も多くいた。

 1965年にアメリカ軍兵士はベトナムに派遣の増員後に、ベトコンの撲滅が最大の攻撃目標となった。ベトコンはアメリカのマスコミで、悪者扱いされ、共産主義革命家、冷酷なテロリスト、南ベトナムのあらゆる殺戮行為者として喧伝された。ベトナム在留のアメリカ軍兵士は、ベトコンに憎悪と恐怖から驚異が入り混じった。西側諸国の戦争の慣習に従わず、公開戦闘を拒否して、奇襲、待ち伏せ、雷撃、狙撃、トンネル戦、地雷などが戦術となった。ベトコン兵士は、民間ベトナム人の間に隠れて、深いジャングルの中に避難し、真夜中にのみ移動した。ベトナム戦争に、世界最強の軍事大国のアメリカが、見分けのつかないベトコンと民間ベトナム人の戦争に巻き込まれた。





















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟 2022年 5月17日に, Blogger投稿数は2,100回に達した。

2022年5月16日月曜日

日本の終戦後から私服警察官がホームレスの戦災孤児らを取り囲み、少年は下駄を片手に泣きながら怒りの抗議するも、夜の駅で捕まり、強制連行され孤児院に入れられた。

日本の終戦から約2年後の1947年7月22日に、私服警察官がホームレスの子どもたちを取り囲んだ。戦災による離散して、軽犯罪の主な発生源となった。この少年は夜の駅で捕まり、強制連行されて孤児院に入れられた。下駄を片手に泣きながら怒りの抗議をするも、しかし無駄であった。路上の戦災孤児は警察による取り締まりの対象になった。狩り込みと呼称した行政による強制的な保護収容がされた。浮浪児を街から根絶するために、いやがる戦災孤児を捕獲して、脱げないよう服をぬがせて、強制収容した。孤児施設もとても少なく、身寄りや地域から排除されて、戦争孤児は終戦から社会に捨てられて差別された。

 終戦直後から、大都会の地下道には、浮浪児で充満して、大量の戦災孤児たちは栄養失調となり餓死や凍死で死亡した。アメリカ軍の大空襲で、田舎に疎開中に家族を失って浮浪児になった。浮浪児が生き残るために強盗から略奪などの犯罪が多発した。終戦後に、食糧や物資が不足し混乱して、群がる闇市に戦災孤児が、飢えを偲んで集散した。地下道は身動きできないくらいの浮浪児であふれ返った。朝になって起きない人間は、死んでるか、息も絶え絶えの病人だった。誰も助ける余裕なんてない。昼間になれば警察官がやってきて、死んでいる人間を見つけては運び出していた。

 戦災孤児の保護対策は喫緊の課題であった。戦災孤児となった浮浪児が大量に都市を闊歩し、劣悪な環境の中で生活した。1947年6月の厚生省の調査では、その人数は約1万2千人と推定されて、1948年の調査で約20〜30%が10歳未満であった。浮浪児は路上生活者となり、スリや小銭稼ぎから物乞い、タバコの吸殻集め、靴磨き、新聞売りなどで生計を立てた。1945年9月20日に、厚生省は戦災孤児等保護対策要綱を発表した。1945年12月と2月のGHQの緊急救援指令(SCAPINs404と775)を先取りした。1947年12月12日に、児童福祉法が公布されて、戦争孤児は救済された。