2022年5月21日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月7日から大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。

大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。




 

2022年5月20日金曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いで、日本軍兵士は背後に燃え盛る建物を約2時間防御した。その後に死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して日本軍兵士全員が殺害された。

太平洋戦争で、グアム島の戦いが1944年7月21日から8月10日まで勃発した。日本軍兵士は、グアム島で背後に燃え盛る建物を、約2時間にわたって防御した。その後に、圧倒的な不利の中で、ついに死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して、全員が殺害された。アメリカ軍兵士は、約1,783人が戦死して約6,010人が戦傷した。日本軍兵士は、18,337人が戦死して、約1,250人のみが捕獲された。グアム島の民間人は、約600人以上が殺害された。

 アメリカ軍の作戦計画者たちは、アイランドホッピング戦略を展開していた。日本本土に接近する際に、太平洋のいくつかの島の目標を注意深く選択して、それらを攻略して奪還して、他の重武装の島々は、つるつるに枯らすために背後に残しておいた。この戦略は、進路上にあるすべての島を攻撃するのではなく、人員と弾薬を大幅に削減した。しかし、日本軍が攻略していた島々は、地雷、戦車トラップ、機関銃のある何百もの隠し壕など、日本軍が何年も前から重武装していた。日本軍の一歩も譲らない戦いは、アメリカ軍の攻撃軍にとっては悪夢となった。しかも、日本軍は死を恐れない何百人もの日本軍兵士が、儀礼的な刀を振り回す日本軍将校に先導されて、絶望的なバンザイ突撃で殺害されて全滅した。太平洋戦争にて捕虜になった日本軍兵士はごくわずかだった。

 太平洋戦争のグアムの戦い(1944年7月21日〜8月10日)にて、アメリカ軍は1941年に日本軍に1941年12月10日から占領されたグアムを奪還してアメリカ領土を解放した。アメリカ軍は軍港と多くの飛行場を手に入れた。他の地域の戦いと同様に、グアムの日本軍守備隊は実質的に最後の一人が殺害されるまで戦った。アメリカ軍の死者は約1,700人、負傷者は約6,000人、日本軍の死者は約18,000人であった。

 雨と濃いジャングルがアメリカ軍を苦しめたが、8月2日から4日にバリガダ山での交戦の後に、日本軍の戦線は崩壊して、残りの戦いはグアム島北部への追撃戦となった。太平洋戦争の他の戦いと同様に、日本軍は降伏を拒否して、ほとんど兵士全員が戦死した。8月10日に、約3週間にわたる血生臭い激戦の末に、日本軍の組織的抵抗は終結した。グアムには、B-29爆撃機が日本本土に空襲できる滑走路が建設された。

 グアムへの攻撃は、当初サイパン上陸した6月15日から、翌月の7月21日に延期された。アメリカ軍側は、事前の砲撃と戦闘機の攻撃を徹底して、上陸用舟艇の沖合の障害物を効率的に除去した。アメリカ軍の上陸部隊は海兵隊と陸軍で約5万5千人が参戦した。日本軍は、約1万9千人の守備隊が、塹壕、砲台、その他の要塞を構築していた。上陸作戦は7月21日にグアム島の西海岸から勃発した。最初の数日間、日本軍の激しい夜間攻撃が続いたが、上陸地点はすぐに確保した。アメリカ軍が約1週間で、2つの戦線を連結した。日本軍の戦力の大半は散在して、日本軍の残存部隊は、さらに2週間戦い続けた。日本軍残兵は、グアム島の北端に向かって徐々に後退して、組織的な抵抗はほぼ終結した。グアムは特に山が多いので、少数の抵抗者は持ちこたえた、いくつかの小さな部隊は、終戦まで戦い続け、アメリカ軍に犠牲者を出した。ある孤独な退役軍人の横井庄一は、ジャングルから姿を現し、1972年1月24日に捕獲され降伏して日本に帰還して、「恥ずかしながら帰って参りました」と発言した。




2022年5月19日木曜日

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人住民を公開したままで絞首刑にして殺害した。

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人を絞首刑にして殺害した。フリードリヒ大公軍だけでも、約11,400人の絞首台を設置して、その絞首刑数は約36,000人とも記載された。1914年6月28日の暗殺事件の犯人であるセルビア人を懲罰的に攻撃する必要に迫られ、7月28日にセルビアへの宣戦布告して第一次世界大戦が開戦した。当初は、3か月以内で終了すると予想に反して戦争は1918年11月11日も長期間に及んだ。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍により、セルビア人はゲリラ容疑者として公開処刑された。1916年に、オーストリア・ハンガリーとブルガリアの両国は、セルビアが消滅して、住民にはジュネーブとハーグ条約の国際法規を適用できないと公表した。占領した軍当局は、ほとんど法的手続きを踏まずに数多くの即決処刑を行った。軍事法廷により有罪となると、セルビア人容疑者は通常は銃殺か絞首刑にされた。自衛の戒厳令が、反対意見を鎮圧して厳しい措置がセルビア市民を弾圧した。

 占領軍当局は、セルビア人集団や民間人が武器を取る恐怖にとらわれた。その結果、抵抗を鎮める手段として、一般住民から人質を奪取して、懲罰的に襲撃して村を焼き払った。民衆の武装解除は、一定枠の武器を引き渡す責任を村長から問われ、武器所持の刑は絞首刑とされた。軍事裁判所は新たな犯罪法で民間セルビア人を裁いた。

 レジスタンス活動を疑われた民間セルビア人は、絞首刑や銃殺を含む最も厳しい措置に処された。犯罪者の家族も破滅された。セルビア人の犠牲者は通常は、村や町の主要な広場で、一般住民からよく見えるように絞首刑で吊るされた。生気のない死体には、スパイと裏切り者の扱いを明確に示威するために、数日間に縄で吊るされたまま放置された。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍は、すべての政治を禁止し、市民集会を禁じ、学校を支配下に置く軍事法体系に加え、戒厳令の発動、人質取り、懲罰的襲撃による村の焼失、反乱に対する公開処刑と即決処刑が執行された。占領期間中に、約15万から20万人に及ぶセルビア人が、強制収容所へ強制送還された。




2022年5月18日水曜日

太平洋戦争にて、アメリカ軍はタラワ環礁のベティオ島に上陸した地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、海岸周辺に散乱して浮き上がった。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1943年11月20日からタラワ環礁のベティオ(Betio)島に上陸した。ベティオ島の上陸地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、上陸した海岸周辺に散乱して浮き上がった。タラワの恐怖を見せつけられたアメリカ軍は、日本軍兵士を全員を殺害して全滅した。

 アメリカ軍は、タラワ環礁のベティオ島にて1943年11月20日から11月23日にわたる約76時間に及ぶタラワの戦いが勃発した。アメリカ軍はベティオ島の北海岸に11月20日朝に上陸する直後に、太平洋戦争にて日本軍から未体験の猛攻撃に遭遇した。日本軍が要塞化されて集中防御したベティオ島に、上陸したアメリカ軍は、激しい抵抗を受けて甚大な死傷者の犠牲を伴った。翌日の11月21日に、ベティオ島の西側の海岸を確保した。11月22日にアメリカ軍は戦車の援軍で東侵した。日本軍はベティオ島の中央東の小領域に押し込まれて、11月22日夜から自滅的なバンザイ攻撃を繰り返した。ベティオ島を占領した11月23日早朝には日本軍は自滅的な4回にも及ぶバンザイ攻撃を挙行した。それが日本軍のベティオ島での最終的な組織的攻撃となった。捕獲された147人は、その大多数は朝鮮人強制労働者であり、それ以外の日本軍兵士は全員が自滅して死亡した。

 タラワの戦いで、日本軍側は、捕虜となった14人を除いた日本軍兵士の約2,619人の全員が自滅して戦死した。生存して捕獲された約129人の朝鮮人労働者を除いて、約1200人の朝鮮人と1000人の日本人の現場労働者のうち約2,071が戦闘に巻き込まれ死亡して、た。アメリカ軍兵士は約1,020人が死亡して、そのうち約400人以上は行方不明となった。行方不明となった多くのアメリカ軍兵士は、ベティオ島に上陸した初日の11月20日に発生した。輸送船からベティオ島の海岸まで海中を歩いて移動している時に、砲撃や機関銃で殺害されて、太平洋の海上にも流された。行方不明となったアメリカ軍兵士の埋葬地の墓標の下には死体が見当たらず、戦後に発掘調査が行われた。




2022年5月17日火曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム軍とアメリカ軍は、村落の村民を一様にベトコン容疑者として捕獲して、その一部を池の周辺で射殺し、散乱した死体を見回して検死した。

ベトナム戦争は1965年7月頃に、南ベトナムの村落にて現れた村民を、南ベトナム政府軍とアメリカ軍は一様にベトコン容疑者として捕獲した。その一部のベトコン容疑者として、池の周辺で射殺して、死体が散乱した。南ベトナム政府軍とアメリカ軍兵士らは、死体から発生する悪臭で鼻を押さえながら、見回して検死していた。その後に村落は、証拠隠滅のためにブルドーザーで全く排除して焼却して消滅した。同じベトナム民族同士の憎しみ合いにより、残虐な虐待と虐殺する戦争犯罪に結びついた。

 ベトコンは、南ベトナムのほとんどの地域で、地下組織に潜伏して、しばしば幽霊軍団と表現された。ベトコンには制服や徽章はなく、普通の南ベトナム人と見分けが困難であった。公式のベトコン本部もなく、幹部がいる特定の地域もなく、指揮系統に沿って伝達された。1960年に、ベトコンは共産主義的な反乱軍に成長した。北ベトナム政権の承認を得て、ベトコンは南部でテロ活動を活発化した。1961年10月には、ベトコンによる爆弾テロが約150件も発生した。

 南ベトナムのディエム政権の腐敗と残虐行為により、南ベトナム人は疎外され、土地を奪われ、ベトコンに入隊して戦闘した。女性、子供、老人など戦えない者は、食料、安全、南ベトナム軍とアメリカ軍に関する情報を提供して、他の方法で支援した。仏教僧、宗教団体、離散した農民や都市労働者などもベトコンに参戦した。

 しかし、ベトコンの支援の流れは双方向となり、爆撃、破壊工作、暗殺は、かなりの南ベトナム人の反発を生んだ。外国や南ベトナム政府を標的にしたが、しばしば罪のない民間ベトナム人を殺害して、私有地を破壊し、事業を中断させた。その結果、ディエム政権だけでなくベトコンも支持しない南ベトナム人も多くいた。

 1965年にアメリカ軍兵士はベトナムに派遣の増員後に、ベトコンの撲滅が最大の攻撃目標となった。ベトコンはアメリカのマスコミで、悪者扱いされ、共産主義革命家、冷酷なテロリスト、南ベトナムのあらゆる殺戮行為者として喧伝された。ベトナム在留のアメリカ軍兵士は、ベトコンに憎悪と恐怖から驚異が入り混じった。西側諸国の戦争の慣習に従わず、公開戦闘を拒否して、奇襲、待ち伏せ、雷撃、狙撃、トンネル戦、地雷などが戦術となった。ベトコン兵士は、民間ベトナム人の間に隠れて、深いジャングルの中に避難し、真夜中にのみ移動した。ベトナム戦争に、世界最強の軍事大国のアメリカが、見分けのつかないベトコンと民間ベトナム人の戦争に巻き込まれた。





















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟 2022年 5月17日に, Blogger投稿数は2,100回に達した。

2022年5月16日月曜日

日本の終戦後から私服警察官がホームレスの戦災孤児らを取り囲み、少年は下駄を片手に泣きながら怒りの抗議するも、夜の駅で捕まり、強制連行され孤児院に入れられた。

日本の終戦から約2年後の1947年7月22日に、私服警察官がホームレスの子どもたちを取り囲んだ。戦災による離散して、軽犯罪の主な発生源となった。この少年は夜の駅で捕まり、強制連行されて孤児院に入れられた。下駄を片手に泣きながら怒りの抗議をするも、しかし無駄であった。路上の戦災孤児は警察による取り締まりの対象になった。狩り込みと呼称した行政による強制的な保護収容がされた。浮浪児を街から根絶するために、いやがる戦災孤児を捕獲して、脱げないよう服をぬがせて、強制収容した。孤児施設もとても少なく、身寄りや地域から排除されて、戦争孤児は終戦から社会に捨てられて差別された。

 終戦直後から、大都会の地下道には、浮浪児で充満して、大量の戦災孤児たちは栄養失調となり餓死や凍死で死亡した。アメリカ軍の大空襲で、田舎に疎開中に家族を失って浮浪児になった。浮浪児が生き残るために強盗から略奪などの犯罪が多発した。終戦後に、食糧や物資が不足し混乱して、群がる闇市に戦災孤児が、飢えを偲んで集散した。地下道は身動きできないくらいの浮浪児であふれ返った。朝になって起きない人間は、死んでるか、息も絶え絶えの病人だった。誰も助ける余裕なんてない。昼間になれば警察官がやってきて、死んでいる人間を見つけては運び出していた。

 戦災孤児の保護対策は喫緊の課題であった。戦災孤児となった浮浪児が大量に都市を闊歩し、劣悪な環境の中で生活した。1947年6月の厚生省の調査では、その人数は約1万2千人と推定されて、1948年の調査で約20〜30%が10歳未満であった。浮浪児は路上生活者となり、スリや小銭稼ぎから物乞い、タバコの吸殻集め、靴磨き、新聞売りなどで生計を立てた。1945年9月20日に、厚生省は戦災孤児等保護対策要綱を発表した。1945年12月と2月のGHQの緊急救援指令(SCAPINs404と775)を先取りした。1947年12月12日に、児童福祉法が公布されて、戦争孤児は救済された。




2022年5月15日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、マウリポリの救急病院に榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが護送され救急医療も救えず、母親と友人が死体を悲しみながら見守った。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、のマウリポリの救急病院に2022年3月14日金曜日に、榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが、友人が毛布で包んで護送した。最善を望み、最悪の事態に耐えたウクライナの若い母親は「なぜ、なぜ、なぜ」と若い友人の腕の中でうつぶせになりながら、悲痛な叫び声をあげた。医療関係者は、破片で頭を負傷した幼児を救うことができなかった。生後18カ月の男子であるキリル・ヤツコ(Kirill Yatsko)は、ロシア軍のウクライナ侵攻の際に、マリウポルの自宅が砲撃されて、幼児が巻き込まれて殺害され死亡した。若い友人のフェドルが、自宅から意識のない幼児を抱きかかえて連れて病院へ駆け込んだ。男子のキリル・ヤツコの心臓が止まったように見えた。直後から医師が除細動器を心臓に使われる中で、顔に酸素マスクをかけて、胸をマッサージした。生後18ケ月の息子キリルを砲撃で失ったマリーナ・ヤツコと若い友人のフェドルがお互いを慰め合っていた。母親は、亡き息子にキスをして、匂いを最後にもう一度吸い込もうと、毛布を優しくほどいて、黒い髪をわが子にかけた。





















警告: マウリプルの病院で、男子のキリル・ヤツコの心臓が止まった。直後から医師が除細動器を心臓に当て、顔に酸素マスクをかけ、胸をマッサージした(AP)。















警告: 生後18ケ月の息子キリルを砲撃で犠牲となり、母親と友人はを慰め合った。母親は死亡した息子にキスをして、毛布をほどき黒髪をわが子にかけた(AP)。

 ロシア軍は、空襲や砲弾によりマリウポルを容赦なく、時には1分に1発の割合で、襲撃した。約43万人の南部のマウリポリは、製鉄所で激しい抵抗の象徴になった。市民を避難させる人道的回廊は、何度もロシア軍に阻止された。空爆と砲撃は、産科病院、消防署、住宅、教会、学校外の畑を直撃した。ウクライナに死体は至るところに散乱した。地元当局の集計では、包囲による死者は約2,500人を超えた。絶え間ない砲撃でまで検証できない死体も少なくない。危険で葬儀を行えず、遺族には死体を路上に放置するように指令した。

 その他に、マウリポリの最初の子供の犠牲者は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発して約4日目の2月27日に、まだ6歳未満の小さな女子を乗せた救急車が、マウリポリ市内の病院に駆け込んだ。茶色の髪を輪ゴムで縛り、パジャマのズボンはロシアの砲撃で血まみれになった。負傷した父親は頭に包帯を巻いて彼女と一緒に来た。母親は泣きながら救急車の前に立った。医師や看護師が彼女の周りに集まり、一人は注射を打ち、もう一人は除細動器でショックを与えた。除細動器を使ってショックを与えた。医師が酸素を送り込みながら、「これをプーチンに見せてやれ」と罵声を浴びせ怒った。彼女を救えずに、死亡した小さな体に彼女のピンクのジャケットをかぶせ、そっと目を閉じて、彼女は集団墓地に眠っている。死体が散乱した路上や、死体の引き取り手を待つ病院の地下室から、さらに多くの死体が集団墓地に運ばれた。

2022年5月14日土曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。




2022年5月13日金曜日

1991年のイラク動乱により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害して死体を見つめた。

1991年のイラク動乱(Iraqi uprisings)により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害した。そのイラク人の防衛隊員の死体を見つめた直後に、クルド人の反乱軍はすぐにその殺害現場から撤退した。イラク反乱軍は、捜索したバース党の役人をすべて殺害し、政府の役人の家族や親戚までを虐殺した。

 湾岸戦争は、アメリカ軍が主導する多国籍軍が1991年1月17日に参戦した。砂漠の嵐作戦により、イラク軍は圧倒的に壊滅して2月28日に終結した。イラクのサダム・フセインのバース党政権が弱体化に対する1991年のイラク動乱が、主にイラン・イラク戦争と湾岸戦争の敗戦から勃発した。湾岸戦争終結後の終結後から、1991年のイラク動乱は3月1日から4月5日まで、サダム・フセイン政権に対するシーア派とクルド人が主導したイラクの民族・宗教の反乱となった。1991年のイラク動乱は、イラクの人口と経済に壊滅的な打撃を与えた。

 最初の2週間で、イラクのほとんどの都市と地方が反乱軍に陥落した。蜂起の参加者は、軍の叛乱者、シーア派アラブ・イスラム教徒、クルド人民族主義者、クルド人イスラム教徒、極左集団など、民族、宗教、政治的所属が多様に混ざり合った。最初の勝利後、革命は内部分裂と、期待していたアメリカやイランからの支援の欠如によって、継続的な維持は困難に陥った。ブッシュ政権は、イラクのレバノン化、イランの支援を受けたシーア派がバグダッドで権力を握る、もう一つのベトナム、反乱軍に何の支援も行わなかった。サダム・フセインのスンニ派アラブ人が支配するバース党政権は、首都バグダッドの支配を維持して、まもなくイラク共和国防衛隊が先導して、軍隊による残忍な大量虐待と大量虐殺により、イラク反乱軍をほぼ制圧した。

 わずか1ヶ月の短い騒乱の間に、イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク南部で約3万〜6万人のシーア派、イラク北部で約2万人のクルド人を殺害した。数万人が死亡して、約200万人近くの難民が避難した。イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク動乱後に、イラク政府はマーシュ・アラブ人に組織的強制移住とチグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア湿地の排水を事前に強制した。湾岸戦争連合軍はイラクの北部と南部に飛行禁止区域を設定して、クルド人の反政府派はイラク・クルディスタンにクルド人自治共和国を設立した。




2022年5月12日木曜日

第一次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士は射殺されて、死後硬直によりライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍兵士に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士が射殺された。その死後硬直によって、ロシア軍兵士は、ライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。そめために、ドイツ軍兵士から、銃弾の弾丸が何度もロシア軍兵士の死体に打ち込まれていた。

 エルンスト・フリードリッヒ(Ernst Friedrich)は、第一次世界大戦後の1923年にベルリンに反戦博物館を設立して、平和教育の場を創設した。『戦争に反対する戦争(Krieg dem Kriege)』は、反戦博物館での平和教育の成果として1924年に刊行して、戦争の恐ろしさを写真で表現した。本書の初版の直後に、ベルリン市警察は、自由青年出版に対して、写真の撤去命令を下した。1933年2月28日にナチスに逮捕されて、反戦博物館はナチスによって破壊された。1982年5月2日、反戦博物館はベルリンに再建された。本書は、一部は偶然にそして一部は意図的に撮影した写真による戦争の本であり、また、戦争の始まりから終わりまでを事実に即し実刑を忠実に映し出した記録である。

 本書にて、13才の子供が描いた絵画に対して次のような説明を加えた。「人殺しと軍人の違いは次の点にある。すなわち人殺しは、略奪、欲望、あるいはその他の目的のために人を殺す。その行為は、(聖書にある)第5の戒律に反したものであり、したがって、人殺しは死、あるいは投獄の罪を受ける。軍人もまた、人を殺す者ー職業的殺し屋であり、実際は大量殺人を引き起こす人殺し中の人殺しーである。その行為は、第5の戒律に反しているにも拘らず、軍人は人を殺すことを許されている。殺した人間の数が多ければ多いほど、より大きな栄誉を与えられ、その殺人勲章を称えるべく、頭に月桂樹を冠せられ、より髙い階級が授けられる。軍人は、たとえドイツ軍のそれであろうが敵軍のそれであろうと、世に類なき残忍なる生き物である。軍人に人を殺すことを教えたる者、軍人に殺人をさせしめる者に呪いあれ! 両者共に人殺しである。なぜなら、戦争は殺人行為であるからである。戦争はまた、その過程において、飢え、不名誉、悲惨、苦悩、死、不安そして苦痛を生む。戦争を止めよ, 平和に戻れ。」




2022年5月11日水曜日

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落して、アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、大地に激突して惨死した。

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落させた。アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、墜落して大地に激突して惨死した。その搭乗員の2人の死体は、担架上に乗せられていた。日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機の最後部にある銃座に激突した。大地に墜落後に炎上して焼け落ちた。それには救命の浮舟ゴムを搭載していた(アサヒグラフ、1945年4月5日号、詳細不詳)。

 新聞社は、軍部と政府により言論を弾圧を受けた一方で、逆に戦争報道で国民をあおり、戦意高揚を先導して、軍部と政府に迎合、追従、便乗して誇大広告した。朝日新聞社のアサヒグラフ(大東亜戦写真報道、第44巻第14号、1945年4月5日、11頁)には、卑劣な飛行機たちの墓として、 その冒頭に陰惨な惨死したアメリカ軍兵士の写真を掲載した。その説明欄には、「これらの敵の乗組員は、我々の体当りしたの英雄の一人に衝突されて、惨死した。」とのみ記載された。この戦闘では、日本軍の神風戦闘機がB-29に空中で激突したと想定した。写真には、惨死した二人のアメリカ人飛行士を乗せたと思われる正体不明のアメリカ軍爆撃機の残骸が撮影された。この記事には、この墜落がどこで起こったか、死んだ飛行士が誰であったか、何の情報も説明も無かった。アメリカ軍の死体は、最近は、各空襲で平均50%以上の敵の襲撃機が撃墜されるか損傷している と誇張する証拠として虚偽報道した。太平洋戦争中の日本軍の数千の写真雑誌を検索するも、アメリカ軍兵士の死者と死体を誹謗中傷した写真が掲載されていたのは、アサヒグラフ第1112号だけであった。

 アサヒグラフ第112号の解説欄には、「敵B-29の殺戮爆撃によって、わが方の受けた損害も決して尠くはない。但しこれは戦争の冷厳な実相だ。弱気は断じて禁物である。敵がその兇悪な殺戮を繰り返せば、その都度猛烈なわが激撃戦によって、敵はひどい痛打をうけつつあることをも併せて思うべきだ。最近に於ては来襲の度ごとに平均約五割が撃墜、大破の憂目に遭うているのである。膨大な建造費をかけ、莫大な燃料を消費し、不足し行く搭乗員をかりあつめ、驚くべき整備の無理を重ねながら飛来するこの敵も、本土上空に於て痛烈な出血を強要されているのである。勿論楽観は許さるべきではない。算盤髙い敵である。新基地より、費用のかからぬB-24を、戦闘機護衛のもとに送り出すであろうことは、夙に指摘されているところだ。しかし、彼等が兇悪な戦術・戦略の爆撃を行うたびに毎に、わが本土及びその周辺が、醜翼の墓場になって行くことを、敵はよく覚えておくがいい。」と焦土を越えて・翼あれば必ず勝つ・醜翼の墓場・孔雀旗は断じて戦うと検閲されたアサヒクラブは喧伝した。




2022年5月10日火曜日

南京大虐殺により、南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機から投下された爆弾により虐殺された3人の子供の死体が路上に捨てられ散乱した。

南京大虐殺により、日本軍による空爆により虐殺された3人の子供の死体が路上に散乱した。南京の路上で悲劇的に殺害された中国人の3人の子供たちの死体が、南京の道端にさりげなく捨てられていた。南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機によって投下された爆弾により殺害された3人の子供たちの死体である。

 1937年12月1日に日本軍は南京攻略を命令されて、12月13日に南京を占領した。12月7日早朝に、蒋介石は宋美齢と廬山に向けて故宮飛行場を飛び去った。12月12日に中国軍指揮官には撤退命令が下り、その他の兵士や民衆は、南京に取り残されて烏合の衆となった。12月13日から約6週間にわたり無差別の南京大虐殺が勃発した。南京の占領中に、日本軍は虐待、虐殺、強姦、略奪、放火、捕虜や民間人の処刑など、数々の残虐行為を犯した。民間人に潜伏した中国軍兵士を掃討する名目で始まるも、虐殺が攻勢すると、多くの無実の民間人が敵の戦闘員として特定されて虐待と虐殺された。極東国際軍事裁判では、少なくとも約200,000人の死傷者と約20,000人の強姦と推定した。

 第二次上海事変の3日目1937年8月15日の13時30分に、16機の日本軍爆撃機が南京に到着し、約4ヶ月にわたる日本軍機による南京爆撃が勃発した。中国の統計によると、1937年8月15日から12月13日まで、南京は約118回にわたり日本軍の爆撃機から攻撃を受けて、約1,357個の爆弾を投下されて炸裂した。南京の中国人約430人が死亡し、約528人が負傷して、約1,697戸が破壊され、南京市内の交通や道路に大きな被害を受けた (国民政府軍務委員会政治部:「日冠暴行実録」1938年)。

 その写真を含んだ「日冠暴行実録」は、国民政府の軍事委員会の政治部門の第3事務所によって編集され、1938年に香港で発刊された。実録の写真は、爆撃、燃焼、殺害、レイプ、略奪、迷走などの部分に分類された。その中で、多くの写真は南京大虐殺の戦争犯罪を反映した。日中戦争中に、中国軍兵士が、日本軍の囚人からの多くの写真を発見した。その写真は、侵略戦争中に、日本軍兵士が犯した、レイプ、燃焼、殺害、無差別爆撃などのさまざまな戦争犯罪を記録した。1938年11月12日の長沙大火で、書籍のほとんどが焼失した。




2022年5月9日月曜日

1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲され射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開された。

済州4・3事件にて南朝鮮労働党の武装蜂起が1948年4月3日に勃発した。1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九(Lee Deok-gu,이덕구)は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲されて射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開した。死体を晒して一般市民に見せしめにした。済州市関徳町広場に李徳九(29歳)の死体が見せしめにされた磔の死体の写真が日本の新聞に掲載されて残存した。

 1949年6月4日から5日にかけて、李承晩政府の粉砕・無辜の人民虐殺反対・国連韓国委員団反対・朝鮮人民共和国万歳のビラが、済州島に配布された。韓国政府は、韓国軍の第二連隊と第一独立大隊などを動員して、攻撃して弾圧した。李徳九らはゲリラ隊を式して、山岳地帯で韓国軍を翻弄した。李徳九は銃弾を浴びて射殺されて捕獲された。韓国軍は、李徳九の死体に、アルコールをかけて看板を掲げて、旧済州島庁舎の前に十字架に縛られて磔にされた。執行人が、李徳九の前胸のポケット見にスプーンを差し込んだ。梅雨時期に吊り下げられて夕方には死臭が発生して、1日過ぎると死体を引き下げて山地川南水閣の近くで火葬した。

 1948年4月3日に、済州島で南朝鮮労働党(南労党)主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起して、警察署を襲撃した。1948年2月に国連で南北別々の選挙が決定され、5月10日に南側で南北分断する単独選挙が行われる前に蜂起した。済州4.3事件までの約1年間に約2500人余りが逮捕・拘禁され、済州島民の間に不満が高まる中での武装蜂起が勃発した。その起因には、1947年3月1日に警察が3月1日の独立記念日の済州島大会に参加した群衆に銃を発砲し6人の民間人を殺害していた。

 1948年8月15日に韓国政府が、1948年9月9日に北朝鮮政府が樹立された。韓国政府の李承晩は、1948年10月に北朝鮮に加担する済州島の武装勢力を鎮圧して済州島を戒厳令下で大虐殺して焦土化した。1949年5月に再選挙が強行されて、その直後に6月7日に李徳九が射殺されて、武装蜂起が鎮圧された。

 1950年から1953年までの朝鮮戦争にて、済州島では韓国政府による再度の大虐殺が執行された。約95%が焼失して、島全人口の約1割の約25,000人から約30,000人が虐殺された。1954年9月に、済州島の漢拏山の入山規制が解除されるまで、約7年7ケ月を、済州4.3事件と呼称した。



2022年5月8日日曜日

ウクライナ軍兵士は、殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、イルピン郊外の鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。

2022年3月1日火曜日に、ウクライナのイルピン(Irpin)郊外でロシア軍との戦闘が行われた。殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、ウクライナ軍兵士が鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。イルピンは、ウクライナの北部首都キエフの近郊の都市である。2022年2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が勃発した直後に、首都キーウを西部から包囲するロシア軍とウクライナ軍が2月25日からイルピンの戦いが勃発した。2月27日に、ロシア軍はジェノサイドの対象となったブチャを制圧してから、イルピンに侵攻した。特にイルピンとブチャの中継地であるキリンモールで猛烈な戦闘が勃発した。ブチャからイルピンに侵攻できないように、結ぶ箸を破壊した。ウクライナ軍は、ブチャの住民に、ロシア軍の人間の盾の策略にならないように避難を警告した。

 3月2日に、ロシア軍が戦闘機(Su-25)2機が、イルピンを空爆して、2発のミサイルで、子供1人が死亡して、女性1人が負傷した。ロシア軍の攻勢が犠牲と損傷で停滞した。3月3日から、ウクライナ政府は、ブチャとイルピンから人道避難を開始するも、小競り合いの戦闘が継続して、民間人の避難は困難となった。3月6日に、首都キーフに避難する人道回廊にロシア軍の迫撃により、6人の大人と2人の子供が殺害された。避難していた民間人がロシア軍に迫撃されて殺害された死体が、3月6日にイルピンの通りでシートに覆われた。3月14日までにロシア軍は、イルピンの半分を占領していた。3月29日に、ウクライナ軍は、ロシア軍からイルピンを奪還した。ウクライナ軍兵士は、約50人が戦死して、ウクライナ民間人の約250人が殺害された。

 ウクライナ軍は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発してから、1週間経過した3月2日までに、少なくとも約5,840人のロシア軍兵士を、戦争中に殺害したと公表した。SNSで、以下のロシアの軍事武器を破壊したと公表した。戦車は最大211台、装甲戦闘車両は約862、砲兵システム約85式、対空ミサイル約40式、戦闘機約30機、ヘリコプター約31機、車両約355台、軽ボートは約2台を破壊した。3月2日時点で、ロシア軍は犠牲者と損傷の数値は公表していない。













Warning: A Ukrainian soldier wandered down the railway to inspect something, past the bodies of dead Russian soldiers where fighting took place with Russian forces on the outskirts of Irpin, Ukraine, Tuesday, March 1, 2022, CNBC_20220303.

2022年5月7日土曜日

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に猛烈な爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。