2022年5月15日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、マウリポリの救急病院に榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが護送され救急医療も救えず、母親と友人が死体を悲しみながら見守った。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、のマウリポリの救急病院に2022年3月14日金曜日に、榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが、友人が毛布で包んで護送した。最善を望み、最悪の事態に耐えたウクライナの若い母親は「なぜ、なぜ、なぜ」と若い友人の腕の中でうつぶせになりながら、悲痛な叫び声をあげた。医療関係者は、破片で頭を負傷した幼児を救うことができなかった。生後18カ月の男子であるキリル・ヤツコ(Kirill Yatsko)は、ロシア軍のウクライナ侵攻の際に、マリウポルの自宅が砲撃されて、幼児が巻き込まれて殺害され死亡した。若い友人のフェドルが、自宅から意識のない幼児を抱きかかえて連れて病院へ駆け込んだ。男子のキリル・ヤツコの心臓が止まったように見えた。直後から医師が除細動器を心臓に使われる中で、顔に酸素マスクをかけて、胸をマッサージした。生後18ケ月の息子キリルを砲撃で失ったマリーナ・ヤツコと若い友人のフェドルがお互いを慰め合っていた。母親は、亡き息子にキスをして、匂いを最後にもう一度吸い込もうと、毛布を優しくほどいて、黒い髪をわが子にかけた。





















警告: マウリプルの病院で、男子のキリル・ヤツコの心臓が止まった。直後から医師が除細動器を心臓に当て、顔に酸素マスクをかけ、胸をマッサージした(AP)。















警告: 生後18ケ月の息子キリルを砲撃で犠牲となり、母親と友人はを慰め合った。母親は死亡した息子にキスをして、毛布をほどき黒髪をわが子にかけた(AP)。

 ロシア軍は、空襲や砲弾によりマリウポルを容赦なく、時には1分に1発の割合で、襲撃した。約43万人の南部のマウリポリは、製鉄所で激しい抵抗の象徴になった。市民を避難させる人道的回廊は、何度もロシア軍に阻止された。空爆と砲撃は、産科病院、消防署、住宅、教会、学校外の畑を直撃した。ウクライナに死体は至るところに散乱した。地元当局の集計では、包囲による死者は約2,500人を超えた。絶え間ない砲撃でまで検証できない死体も少なくない。危険で葬儀を行えず、遺族には死体を路上に放置するように指令した。

 その他に、マウリポリの最初の子供の犠牲者は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発して約4日目の2月27日に、まだ6歳未満の小さな女子を乗せた救急車が、マウリポリ市内の病院に駆け込んだ。茶色の髪を輪ゴムで縛り、パジャマのズボンはロシアの砲撃で血まみれになった。負傷した父親は頭に包帯を巻いて彼女と一緒に来た。母親は泣きながら救急車の前に立った。医師や看護師が彼女の周りに集まり、一人は注射を打ち、もう一人は除細動器でショックを与えた。除細動器を使ってショックを与えた。医師が酸素を送り込みながら、「これをプーチンに見せてやれ」と罵声を浴びせ怒った。彼女を救えずに、死亡した小さな体に彼女のピンクのジャケットをかぶせ、そっと目を閉じて、彼女は集団墓地に眠っている。死体が散乱した路上や、死体の引き取り手を待つ病院の地下室から、さらに多くの死体が集団墓地に運ばれた。

2022年5月14日土曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。




2022年5月13日金曜日

1991年のイラク動乱により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害して死体を見つめた。

1991年のイラク動乱(Iraqi uprisings)により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害した。そのイラク人の防衛隊員の死体を見つめた直後に、クルド人の反乱軍はすぐにその殺害現場から撤退した。イラク反乱軍は、捜索したバース党の役人をすべて殺害し、政府の役人の家族や親戚までを虐殺した。

 湾岸戦争は、アメリカ軍が主導する多国籍軍が1991年1月17日に参戦した。砂漠の嵐作戦により、イラク軍は圧倒的に壊滅して2月28日に終結した。イラクのサダム・フセインのバース党政権が弱体化に対する1991年のイラク動乱が、主にイラン・イラク戦争と湾岸戦争の敗戦から勃発した。湾岸戦争終結後の終結後から、1991年のイラク動乱は3月1日から4月5日まで、サダム・フセイン政権に対するシーア派とクルド人が主導したイラクの民族・宗教の反乱となった。1991年のイラク動乱は、イラクの人口と経済に壊滅的な打撃を与えた。

 最初の2週間で、イラクのほとんどの都市と地方が反乱軍に陥落した。蜂起の参加者は、軍の叛乱者、シーア派アラブ・イスラム教徒、クルド人民族主義者、クルド人イスラム教徒、極左集団など、民族、宗教、政治的所属が多様に混ざり合った。最初の勝利後、革命は内部分裂と、期待していたアメリカやイランからの支援の欠如によって、継続的な維持は困難に陥った。ブッシュ政権は、イラクのレバノン化、イランの支援を受けたシーア派がバグダッドで権力を握る、もう一つのベトナム、反乱軍に何の支援も行わなかった。サダム・フセインのスンニ派アラブ人が支配するバース党政権は、首都バグダッドの支配を維持して、まもなくイラク共和国防衛隊が先導して、軍隊による残忍な大量虐待と大量虐殺により、イラク反乱軍をほぼ制圧した。

 わずか1ヶ月の短い騒乱の間に、イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク南部で約3万〜6万人のシーア派、イラク北部で約2万人のクルド人を殺害した。数万人が死亡して、約200万人近くの難民が避難した。イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク動乱後に、イラク政府はマーシュ・アラブ人に組織的強制移住とチグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア湿地の排水を事前に強制した。湾岸戦争連合軍はイラクの北部と南部に飛行禁止区域を設定して、クルド人の反政府派はイラク・クルディスタンにクルド人自治共和国を設立した。




2022年5月12日木曜日

第一次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士は射殺されて、死後硬直によりライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍兵士に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士が射殺された。その死後硬直によって、ロシア軍兵士は、ライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。そめために、ドイツ軍兵士から、銃弾の弾丸が何度もロシア軍兵士の死体に打ち込まれていた。

 エルンスト・フリードリッヒ(Ernst Friedrich)は、第一次世界大戦後の1923年にベルリンに反戦博物館を設立して、平和教育の場を創設した。『戦争に反対する戦争(Krieg dem Kriege)』は、反戦博物館での平和教育の成果として1924年に刊行して、戦争の恐ろしさを写真で表現した。本書の初版の直後に、ベルリン市警察は、自由青年出版に対して、写真の撤去命令を下した。1933年2月28日にナチスに逮捕されて、反戦博物館はナチスによって破壊された。1982年5月2日、反戦博物館はベルリンに再建された。本書は、一部は偶然にそして一部は意図的に撮影した写真による戦争の本であり、また、戦争の始まりから終わりまでを事実に即し実刑を忠実に映し出した記録である。

 本書にて、13才の子供が描いた絵画に対して次のような説明を加えた。「人殺しと軍人の違いは次の点にある。すなわち人殺しは、略奪、欲望、あるいはその他の目的のために人を殺す。その行為は、(聖書にある)第5の戒律に反したものであり、したがって、人殺しは死、あるいは投獄の罪を受ける。軍人もまた、人を殺す者ー職業的殺し屋であり、実際は大量殺人を引き起こす人殺し中の人殺しーである。その行為は、第5の戒律に反しているにも拘らず、軍人は人を殺すことを許されている。殺した人間の数が多ければ多いほど、より大きな栄誉を与えられ、その殺人勲章を称えるべく、頭に月桂樹を冠せられ、より髙い階級が授けられる。軍人は、たとえドイツ軍のそれであろうが敵軍のそれであろうと、世に類なき残忍なる生き物である。軍人に人を殺すことを教えたる者、軍人に殺人をさせしめる者に呪いあれ! 両者共に人殺しである。なぜなら、戦争は殺人行為であるからである。戦争はまた、その過程において、飢え、不名誉、悲惨、苦悩、死、不安そして苦痛を生む。戦争を止めよ, 平和に戻れ。」




2022年5月11日水曜日

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落して、アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、大地に激突して惨死した。

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落させた。アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、墜落して大地に激突して惨死した。その搭乗員の2人の死体は、担架上に乗せられていた。日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機の最後部にある銃座に激突した。大地に墜落後に炎上して焼け落ちた。それには救命の浮舟ゴムを搭載していた(アサヒグラフ、1945年4月5日号、詳細不詳)。

 新聞社は、軍部と政府により言論を弾圧を受けた一方で、逆に戦争報道で国民をあおり、戦意高揚を先導して、軍部と政府に迎合、追従、便乗して誇大広告した。朝日新聞社のアサヒグラフ(大東亜戦写真報道、第44巻第14号、1945年4月5日、11頁)には、卑劣な飛行機たちの墓として、 その冒頭に陰惨な惨死したアメリカ軍兵士の写真を掲載した。その説明欄には、「これらの敵の乗組員は、我々の体当りしたの英雄の一人に衝突されて、惨死した。」とのみ記載された。この戦闘では、日本軍の神風戦闘機がB-29に空中で激突したと想定した。写真には、惨死した二人のアメリカ人飛行士を乗せたと思われる正体不明のアメリカ軍爆撃機の残骸が撮影された。この記事には、この墜落がどこで起こったか、死んだ飛行士が誰であったか、何の情報も説明も無かった。アメリカ軍の死体は、最近は、各空襲で平均50%以上の敵の襲撃機が撃墜されるか損傷している と誇張する証拠として虚偽報道した。太平洋戦争中の日本軍の数千の写真雑誌を検索するも、アメリカ軍兵士の死者と死体を誹謗中傷した写真が掲載されていたのは、アサヒグラフ第1112号だけであった。

 アサヒグラフ第112号の解説欄には、「敵B-29の殺戮爆撃によって、わが方の受けた損害も決して尠くはない。但しこれは戦争の冷厳な実相だ。弱気は断じて禁物である。敵がその兇悪な殺戮を繰り返せば、その都度猛烈なわが激撃戦によって、敵はひどい痛打をうけつつあることをも併せて思うべきだ。最近に於ては来襲の度ごとに平均約五割が撃墜、大破の憂目に遭うているのである。膨大な建造費をかけ、莫大な燃料を消費し、不足し行く搭乗員をかりあつめ、驚くべき整備の無理を重ねながら飛来するこの敵も、本土上空に於て痛烈な出血を強要されているのである。勿論楽観は許さるべきではない。算盤髙い敵である。新基地より、費用のかからぬB-24を、戦闘機護衛のもとに送り出すであろうことは、夙に指摘されているところだ。しかし、彼等が兇悪な戦術・戦略の爆撃を行うたびに毎に、わが本土及びその周辺が、醜翼の墓場になって行くことを、敵はよく覚えておくがいい。」と焦土を越えて・翼あれば必ず勝つ・醜翼の墓場・孔雀旗は断じて戦うと検閲されたアサヒクラブは喧伝した。




2022年5月10日火曜日

南京大虐殺により、南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機から投下された爆弾により虐殺された3人の子供の死体が路上に捨てられ散乱した。

南京大虐殺により、日本軍による空爆により虐殺された3人の子供の死体が路上に散乱した。南京の路上で悲劇的に殺害された中国人の3人の子供たちの死体が、南京の道端にさりげなく捨てられていた。南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機によって投下された爆弾により殺害された3人の子供たちの死体である。

 1937年12月1日に日本軍は南京攻略を命令されて、12月13日に南京を占領した。12月7日早朝に、蒋介石は宋美齢と廬山に向けて故宮飛行場を飛び去った。12月12日に中国軍指揮官には撤退命令が下り、その他の兵士や民衆は、南京に取り残されて烏合の衆となった。12月13日から約6週間にわたり無差別の南京大虐殺が勃発した。南京の占領中に、日本軍は虐待、虐殺、強姦、略奪、放火、捕虜や民間人の処刑など、数々の残虐行為を犯した。民間人に潜伏した中国軍兵士を掃討する名目で始まるも、虐殺が攻勢すると、多くの無実の民間人が敵の戦闘員として特定されて虐待と虐殺された。極東国際軍事裁判では、少なくとも約200,000人の死傷者と約20,000人の強姦と推定した。

 第二次上海事変の3日目1937年8月15日の13時30分に、16機の日本軍爆撃機が南京に到着し、約4ヶ月にわたる日本軍機による南京爆撃が勃発した。中国の統計によると、1937年8月15日から12月13日まで、南京は約118回にわたり日本軍の爆撃機から攻撃を受けて、約1,357個の爆弾を投下されて炸裂した。南京の中国人約430人が死亡し、約528人が負傷して、約1,697戸が破壊され、南京市内の交通や道路に大きな被害を受けた (国民政府軍務委員会政治部:「日冠暴行実録」1938年)。

 その写真を含んだ「日冠暴行実録」は、国民政府の軍事委員会の政治部門の第3事務所によって編集され、1938年に香港で発刊された。実録の写真は、爆撃、燃焼、殺害、レイプ、略奪、迷走などの部分に分類された。その中で、多くの写真は南京大虐殺の戦争犯罪を反映した。日中戦争中に、中国軍兵士が、日本軍の囚人からの多くの写真を発見した。その写真は、侵略戦争中に、日本軍兵士が犯した、レイプ、燃焼、殺害、無差別爆撃などのさまざまな戦争犯罪を記録した。1938年11月12日の長沙大火で、書籍のほとんどが焼失した。




2022年5月9日月曜日

1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲され射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開された。

済州4・3事件にて南朝鮮労働党の武装蜂起が1948年4月3日に勃発した。1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九(Lee Deok-gu,이덕구)は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲されて射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開した。死体を晒して一般市民に見せしめにした。済州市関徳町広場に李徳九(29歳)の死体が見せしめにされた磔の死体の写真が日本の新聞に掲載されて残存した。

 1949年6月4日から5日にかけて、李承晩政府の粉砕・無辜の人民虐殺反対・国連韓国委員団反対・朝鮮人民共和国万歳のビラが、済州島に配布された。韓国政府は、韓国軍の第二連隊と第一独立大隊などを動員して、攻撃して弾圧した。李徳九らはゲリラ隊を式して、山岳地帯で韓国軍を翻弄した。李徳九は銃弾を浴びて射殺されて捕獲された。韓国軍は、李徳九の死体に、アルコールをかけて看板を掲げて、旧済州島庁舎の前に十字架に縛られて磔にされた。執行人が、李徳九の前胸のポケット見にスプーンを差し込んだ。梅雨時期に吊り下げられて夕方には死臭が発生して、1日過ぎると死体を引き下げて山地川南水閣の近くで火葬した。

 1948年4月3日に、済州島で南朝鮮労働党(南労党)主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起して、警察署を襲撃した。1948年2月に国連で南北別々の選挙が決定され、5月10日に南側で南北分断する単独選挙が行われる前に蜂起した。済州4.3事件までの約1年間に約2500人余りが逮捕・拘禁され、済州島民の間に不満が高まる中での武装蜂起が勃発した。その起因には、1947年3月1日に警察が3月1日の独立記念日の済州島大会に参加した群衆に銃を発砲し6人の民間人を殺害していた。

 1948年8月15日に韓国政府が、1948年9月9日に北朝鮮政府が樹立された。韓国政府の李承晩は、1948年10月に北朝鮮に加担する済州島の武装勢力を鎮圧して済州島を戒厳令下で大虐殺して焦土化した。1949年5月に再選挙が強行されて、その直後に6月7日に李徳九が射殺されて、武装蜂起が鎮圧された。

 1950年から1953年までの朝鮮戦争にて、済州島では韓国政府による再度の大虐殺が執行された。約95%が焼失して、島全人口の約1割の約25,000人から約30,000人が虐殺された。1954年9月に、済州島の漢拏山の入山規制が解除されるまで、約7年7ケ月を、済州4.3事件と呼称した。



2022年5月8日日曜日

ウクライナ軍兵士は、殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、イルピン郊外の鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。

2022年3月1日火曜日に、ウクライナのイルピン(Irpin)郊外でロシア軍との戦闘が行われた。殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、ウクライナ軍兵士が鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。イルピンは、ウクライナの北部首都キエフの近郊の都市である。2022年2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が勃発した直後に、首都キーウを西部から包囲するロシア軍とウクライナ軍が2月25日からイルピンの戦いが勃発した。2月27日に、ロシア軍はジェノサイドの対象となったブチャを制圧してから、イルピンに侵攻した。特にイルピンとブチャの中継地であるキリンモールで猛烈な戦闘が勃発した。ブチャからイルピンに侵攻できないように、結ぶ箸を破壊した。ウクライナ軍は、ブチャの住民に、ロシア軍の人間の盾の策略にならないように避難を警告した。

 3月2日に、ロシア軍が戦闘機(Su-25)2機が、イルピンを空爆して、2発のミサイルで、子供1人が死亡して、女性1人が負傷した。ロシア軍の攻勢が犠牲と損傷で停滞した。3月3日から、ウクライナ政府は、ブチャとイルピンから人道避難を開始するも、小競り合いの戦闘が継続して、民間人の避難は困難となった。3月6日に、首都キーフに避難する人道回廊にロシア軍の迫撃により、6人の大人と2人の子供が殺害された。避難していた民間人がロシア軍に迫撃されて殺害された死体が、3月6日にイルピンの通りでシートに覆われた。3月14日までにロシア軍は、イルピンの半分を占領していた。3月29日に、ウクライナ軍は、ロシア軍からイルピンを奪還した。ウクライナ軍兵士は、約50人が戦死して、ウクライナ民間人の約250人が殺害された。

 ウクライナ軍は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発してから、1週間経過した3月2日までに、少なくとも約5,840人のロシア軍兵士を、戦争中に殺害したと公表した。SNSで、以下のロシアの軍事武器を破壊したと公表した。戦車は最大211台、装甲戦闘車両は約862、砲兵システム約85式、対空ミサイル約40式、戦闘機約30機、ヘリコプター約31機、車両約355台、軽ボートは約2台を破壊した。3月2日時点で、ロシア軍は犠牲者と損傷の数値は公表していない。













Warning: A Ukrainian soldier wandered down the railway to inspect something, past the bodies of dead Russian soldiers where fighting took place with Russian forces on the outskirts of Irpin, Ukraine, Tuesday, March 1, 2022, CNBC_20220303.

2022年5月7日土曜日

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に猛烈な爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。




2022年5月6日金曜日

朝鮮戦争にて、朝鮮半島を北方に退却する北朝鮮軍は、1950年10月6地に韓国人捕虜を銃殺して多数の死体を堀の中に投げらていた。

朝鮮戦争にて、朝鮮半島を北方にむけて退却する北朝鮮軍は、韓国人捕虜を銃殺した。その多数の死体を堀の中に投げられていた。アメリカ軍は、1950年10月6日に大量虐殺の死体を検死した。朝鮮戦争にて、アメリカ軍と韓国軍が1950年9月28日にソウルを奪還した直後から、北朝鮮軍による野蛮で残虐な虐待と虐殺に関する戦争犯罪の報告が表面化した。アメリカ軍と韓国軍は、北方に向けて侵攻する部隊は至るところで残虐行為の戦争犯罪の証拠を発見した。

 北朝鮮軍は、国連軍の侵攻に直面して韓国から撤退する直前に、監獄に収容されていた政治犯や軍人の死刑を執行したとアメリカ軍の公式文書に記録された。ワシントンポスト紙は、ソウルの南約56kmにある楊柳の虐殺現場をナチス・ドイツの強制収容所のような赤いブッヘンワルドと呼称した。この朝鮮赤軍の殺人収容所で、子供を含む約700人の朝鮮間人が処刑されたと報じた。ニューヨーク・タイムズ紙は、昆山近郊の忠孝で、竹槍で武装した共産軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人に上る男性、女性、子供を突き刺したと伝えた。ジェファーソン・シティ・ポスト紙は、大虐殺を見るのには想像を絶すると報じた。北朝鮮軍は、冷徹に計算された虐殺を執行して、一人一人が個別に射殺された。さらに多くの者は、確実に殺すために棍棒で頭部を殴られた。

 鎮守での虐殺からの生存者であるアメリカ人のキャリー・ワイナルド中尉は、北朝鮮が機関銃で虐殺する前に、まず自分たちの墓を掘らせたと語った。北朝鮮軍兵士は、私たち全員を縛り付けて銃殺して、死んだふりをして生存した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無差別に虐殺した。女性、高齢者、子供も免れず虐殺された。10月3日の務安郡での特に残酷な虐殺事件では、死刑に選抜された家族が縛られて海岸に連れて行かれた。大人はナイフ、こん棒、竹槍、農具で殺されて、海に投げ込まれた。女性や10歳以下の子どもは深い井戸に投げ込まれて虐殺された。

 大田刑務所での虐殺は、朝鮮戦争最大の大量虐殺の一つとなり、約5から7千人の市民と兵士が虐殺されたと推定した。アメリカ軍下士官(GI)は、収容所内の井戸の中に死体を発見した。アメリカ軍が井戸を捜索すると、井戸からはアメリカ軍兵士約29人の死体が井戸から釣り上げた。それから数日後に、教会の地下室には、北朝鮮軍兵士に虐殺された朝鮮人女性たちの大量の死体が潜在していた。アメリカ軍は、北朝鮮軍の大量虐殺の発見して、人命を顧みない、戦争の人道のルールを守らない、残酷な北朝鮮軍が敵であることを確信した。ニューヨークタイムズのハンソン・ボールドウィンは、朝鮮半島で北朝鮮軍の野蛮な軍隊に直面した。訓練され、容赦なく、命知らずで、戦う戦術に長けた野蛮人であった。北朝鮮の大軍は、ロシアの要人たちと同様に、残虐な傾向を受け継ぎ、恐怖の武器を使用した。





2022年5月5日木曜日

日中戦争勃発直後の1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海に投下された爆弾の炸裂による民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。

日中戦争の第二次上海事変にて、1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海市内に投下された爆弾の炸裂により甚大な民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。8月14日朝に、中国空軍のパイロットは日本軍陣地に爆弾を投下し始めてから、中国空軍の上海爆撃事件が勃発した。中国空軍の飛行機が黄浦江上空を旋回して、日本軍艦の出雲を攻撃して、爆弾が爆発した。中国空軍の爆撃機から南京路と外灘の角に3発、フランス租界の大世界ビル前に2発の爆弾が落ちて炸裂した。中国空軍が空爆に約1,200人の民間中国人を巻き込み一瞬にして殺害して、数百人の負傷者が地面に倒れた。

 1937年8月14日に2つの爆弾が、大量の難民収容所となった泡井路の大使館劇場の玄関先で爆発し、甚大な殺害場所の一つとなった。最初の悲劇は、午後4時27分に起こった。黄浦江を下る上空に飛行機の一群が現れ、すぐに日本軍の出雲が、高射砲の弾丸を放って、榴散弾が市街地に降り注いだ。中国空軍の爆撃機6機は、厚い雲の中に消えて、日本軍の砲火を逃れた。後方の4機は外灘上空を飛行中に爆弾を投下した。2発は川で爆発し外灘に高波を巻き起こした。残りの3発は南京路に落ちた。上海市の南京路における1番目の爆弾は、キャセイ・ホテルの入口のすぐ前の道路に落下して炸裂した。2番目の爆弾は、パレス・ホテルの屋根を突き破り、約3階を突き破った。3つ目の爆発はキャセイ・ホテルの7階を破損した。ホテル内の爆弾の炸裂により、2つのホテルの全長に、歩道や車道には砂利や木片、外壁からはがれた石などが散乱した。頭、足、腕が、粉砕された胴体から離れて横たわった通行人たちのバラバラ死体が散乱した。キャセイ・ホテルでは建物内部まで吹き飛んで、一番奥の店の窓までが粉々になった。砕けた石組みは揺れ、外れ、舗道の上に崩れ落ち、窓や板ガラスの扉も一緒に落下した。燃え盛る車は煙を吐き出し、ねじれた車体の上で渦を巻いて、中には乗客を乗せて焼かれた車もあった。

 民間中国人の死傷者の数は甚大となり、特に大世界の近くのフランス租界側で救助隊が処理した死体数は約435体に及んだ。約139人の負傷者が病院に運ばれる途中で死亡し、約87人の負傷者は治療中に命を落とした。その犠牲者の内訳は、男約563人、女約51人、子供約47人に及び、犠牲者のほとんどは民間中国人であった。大世界の近くでは、死体があちこちに見られ、ビルに沿って歩道に散乱し、信号機の周りで人力車に数十人が詰め込まれた。大世界の入口には約300死体以上、反対の角にはさらに100死体が積み上げた。上海の高温多湿の気候の中で、腐敗する死体を集団墓地で一刻も早く死体を埋葬処理した。




2022年5月4日水曜日

1994年2月5日にセルビア反政府勢力がボスニア首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込み、殺害された犠牲者の死体が運び出された。

1994年2月5日に、セルビア反政府勢力は、ボスニアの首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込んだ。サラエボ市民が、その犠牲となり殺害されて、死体が運び出された。迫撃砲でサラエボ市民の68人が殺害され、約200人が負傷した。血、腕、脚、肉片がサラエボ市場に散乱した。国連安保理事会ではセルビア人反政府勢力に対する空爆決議が採択された。この決議は、ロシアがセルビア人反政府勢力と仲介して拒否された。その以後も、セルビア人反政府勢力に対する空爆は、内戦を解決する手段として国際的に注目された。

 1992年4月6日から勃発したボスニア紛争は、1994年3月にクロアチアとボスニアとが、ボスニアにムスリム人とクロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を創設することで合意した。ボスニア紛争で、ボスニアは兵士約31,270人と市民約34,723人が殺害され、クロアチアは兵士約5,439人と市民1,899人が殺害され、セルビア人は兵士約20,649人と市民約3,555人が殺害された。1995年には連邦化に反抗して孤立したセルビア人反政府勢力は、ボスニア東部からボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に迫撃した。1995年7月に、セルビア人反政府勢力は、スレブレニツァに侵攻して、ムスリム人を大量虐待と大量虐殺した。約8,000人のムスリム人男性が殺害されて、約4万人ものムスリム人の女性、こども、老人などがスレブレニツァの虐殺を逃れて避難した。国連の平和維持活動した約400人のオランダ軍は制止できなかった。

 1996年8月に、セルビア人反政府勢力が、再度にサラエボ市場に迫撃砲が打ち込んで、約35人が殺害されて死亡した。即時に、ボスニアの北大西洋条約機構(NATO)軍が、サラエボの東部と南部のセルビア人反政府勢力の陣地に、約3週間の空爆をした。セルビア反政府勢力の約20ケ所以上の基地を空襲した。1996年9月に、セルビア人反政府勢力は、ボスニア西部のビハチ付近から撤退して、周辺から約5万人のセルビア人が逃避した。ムスリム人が、ボスニアの中部と南部を奪還して、ムスリム人が迫害して、大量のセルビア人がバルニャルカに逃避した。9月20日に、セルビア人反政府勢力は、サラエボから撤退した。12月14日に、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦内に、ボスニア連邦とセルビア人共和国の自治政府を形成するデイトン和平合意が成立してボスニア紛争は停止した。




2022年5月3日火曜日

日露戦争の葉書の表題には「露國良民ノ惨殺屍体」と記載され、ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体とも解釈された。

1904から1905年頃の日露戦争の葉書の表題には、「露國良民ノ惨殺屍体」と記載された。ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体と読める。この虐殺の状況には何の脈絡も説明もない。文法的には、虐殺されたロシア人の死体という意味にもなり得る。表題の解釈は見る人の思い込みによった。日露戦争では、木版画が戦場のドラマや血なまぐさい様子を伝えた。日露戦争の戦死者を撮影した写真は存在するが、まだカメラで写真を撮影するのはかなり困難であった。
 1904年8月10日発行(東陽堂)の『風俗画報』の「ロシア征服の図10」の表紙では、山本庄弥により、モチアン峠での戦闘で数十人のロシア軍兵士を切り倒す日本軍の吉井中尉を描いた。吉井中尉の正確な剣によって、ロシア軍兵士の頭部が切り裂かれ、血の塊の中からほとんど見えない二つの目が覗き込んでいた。このような版画の様式やテーマは、人殺しや幽霊などの扇情的な絵を得意とした江戸時代の浮世絵師たちの影響を強く受けた。カラー版の原画は、ロシア軍兵士や吉井中尉の刀や鞘を深紅の血が覆っており、陰惨な絵画であった。1930年代頃から、日本がアジアに文明開花をもたらす存在になると、野蛮で血みどろの描写はマスコミから敬遠された。
 上海事変の頃の写真には、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実が映し出された。上海事変写真画報(1932年2月22日、16-17頁、朝日新聞社)の表題全体には、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化した! 我が海兵隊は敵の死体の上を突進する" と記載した。上海事変による死体も含めて戦争の悲惨さをありのままに伝えた。大都市を蹂躙する日本軍の近代的な軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の写真を撮影した。中国での戦闘に対する国際的な抗議があり、日本の政治家や軍部の指導者は写真を驚異と捉えた。日中戦争が勃発した後の1937年末に第二次上海事変と南京が陥落したとき、日本のマスコミはひどい都市破壊の写真を何枚も掲載した。しかし、中国人、日本人にかかわらず戦争による死者の写真は掲載しなかった。

 


 

2022年5月2日月曜日

コルチャーク白軍の病人は、ロシアのオムスクの列車から這い出るのに疲れ果て、無力な人間の塊となり地面に横たわり死にかけた。

ロシア連邦中西部のオムスク都市の対岸にあるコルムジノ駅に列車が到着した。1919年8月頃に、白軍のコルチャーク(Kolchak)軍兵士が前線からチフス患者として再輸送された。病人や負傷者が、何の便宜も図らずに箱型車両に乗せられた。白軍のコルチャーク軍兵士の多くは病気で自活できず、食料の手配もされず、ごく限られた量の水しかなかった。重病人に対して助けも提供されていなかった。列車内で死体が散乱した。病気の仲間が病人の頭を押さえて、水を飲ませた。病人の多くは、車から這い出るのに疲れ果て、無力な人間の塊となって列車の側の地面に横たわって死にかけた。

 アレクサンドル・コルチャーク(は1916年8月には、副提督として黒海艦隊の指揮を執る。1917年10月25日に、ロシアの首都ペトログラード(現サンクストペテルブルク)で、労働者や兵士らが武装蜂起から十月革命が勃発して、レーニンとトロツキーら1918年1月28日に赤軍を結成した。1918年11月18日、ロシア連邦中西部のオムスクで軍事クーデターを起こし、オムスクの白軍の絶対的な権力者となった。1919年11月14日にオムスクが赤軍に陥落して、本部をイルクーツクに移転するも、1920年1月4日に崩壊した。ボルシェビキはコルチャークを強制連行して、死刑により殺害して、死体はアンガラ川に投げ捨てた。

 アメリカ、イギリス、フランス、日本は、シベリア鉄道に資金と、シベリアを警備する兵士を、すべてコルチャークの白軍の利益のために投入した。アメリカ国務省はコルチャックを支持し、陸軍省は不支持であった。コルチャークは支持者らを虐待と虐殺した後には、住民の支持を駆り立てれなかった。東シベリアの蜂起は、農民や労働者の集団が、コルチャック軍による残虐行為から自らを守るために、ボルシェビキに率いらたパルチザンとして白軍と戦闘した。




2022年5月1日日曜日

ウクライナのキエフ近郊のブチャの住民が殺害されて、草地の土手で自転車に絡まって、仰向けに倒れた民間人の死体が放置されて、その側に多分飼い犬が寄り添った。

ウクライナの首都キエフに近いブチャの町で、衝撃的な大量虐殺の死体群が2022年4月3日に情報公開された。ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、約5週間にわたる絶え間ない銃撃戦の後に、ブチャの通りには、ウクライナ民間人の死体が散乱した。ブチャの住民が殺害されて、草地の土手で自転車に絡まって、仰向けに倒れた民間人の死体が放置されていた。その死体の側に犬が寄り添っていた。おそらく犬の飼い主は、歩道に倒れて殺害された自転車の横で、犬が隣に座っていた。ブチャ住民が、自転車で通りを走っているところを、ロシア軍の戦車が射撃して殺害した。

 ロシア軍による残忍な攻撃により、民間人の犠牲者の増加を示した。少なくとも約20人の民間人が、布切れで手を後ろに縛られて殺害された死体も公開された。ブチャのヤブルスカ通りには、ロシア軍に殺害された民間ウクライナ人の死体がまだ並んでいた。両手を白い布切れで後ろ手に縛られて、無惨にも至近距離で後頭部を撃たれていた。

 ブチャで集団墓地が公開されて、初期の戦争で殺害された死体が詰めて埋められていた。黒い死体袋に入った少なくとも十数体の死体が集団墓地の中に積み上げられた。すでに一部は土に覆われいた。他の死体と一緒に埋められた死体の土中から手指が出現していた。集団墓地には約150人が埋葬されたとブチャの住民は語った。

 ウクライナ政府は、戦争が終結したら、ロシアの指導者にロシア軍のジェノサイドの戦争犯罪に対して責任を負わせるように求めた。欧米の指導者たちは、戦争犯罪の調査やロシアに対する経済制裁の強化を要求した。EU理事会のシャルル・ミシェル議長はロシアに対するさらなる経済制裁を誓った。国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、ブチャで殺害された民間人に対する独立した調査が不可欠であると述べた。NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務長は、ヨーロッパで何十年も発生していない民間人に対する残虐性を示唆した。

 ロシア国防省は、ロシア軍によるブチャ占領中に、「地元住民が暴力行為に遭ったことは一度もない」と通告した。大規模な虐殺の映像はフェイク・ニュースだと主張した。ロシア政府は、ロシア軍による民間人犠牲者の主張に対し、一貫して全面的に否定した。












Warning: A dog lies next to a body of a man in a street in the town of Bucha, not far from the Ukrainian capital of Kyiv, on April 3. (Photo: Sergei Supinsky/AFP )