2022年4月29日金曜日

ペリリュー島の戦いで、アメリカ軍の戦車に応戦した日本軍防衛隊の約12人は、戦車の砲撃と火炎放射器で全員が殺害され全滅した。

ペリリュー島の戦いは、太平洋戦争のマリアナ・パラオ戦線にて、1944年9月15日から11月27日まで、ペリリュー島でアメリカ軍と日本軍が激突した。アメリカ軍は、小さなサンゴ礁の島であるペリリュー島の滑走路を占領するために戦闘が勃発した。ペリリュー島で、アメリカ軍の戦車に応戦した日本軍の防衛隊の約12人は、戦車の砲撃と火炎放射器で全滅した。アメリカ軍は当初4日以内にペリリュー島を占領できると予測したが、日本軍は厳しい抵抗を繰り返して、戦闘は約2ヶ月以上にも及んだ。ペリリュー島の多勢に無勢の日本軍は、しばしば死闘を繰り広げ、天皇の島として呼称された。犠牲者は、日本軍兵は捕虜となった約400人を除いて、全ての日本軍兵士の約13,6000人が殺害されて全滅して玉砕した。アメリカ軍兵士は約1,794人が殺害されて、約8000人が戦傷した。

 アメリカ軍の圧倒的な武力と物量に直面して、日本軍は防衛戦略に特化した。海岸戦から、攻撃を遅延させ最大限の犠牲と損害を与える戦術に転換した。日本軍は、アメリカ軍を海岸の奥向こう側の防衛網に誘導した。ペリリュー島の自然の地形を利用して、日本軍は連続的に配置して、偽装された重装備の陣地と射撃場が、逆斜面や防御側に有利な地形の特徴を利用して防衛して、最大限の効果を発揮する時期に攻撃を命じられた。

 海岸の砂浜から内陸への移動するアメリカ軍は、ペリリュー島の高台に潜伏した塹壕からの砲撃により遅延した。配置された日本軍の要塞、粘り強い防衛戦により、アメリカ軍は、高温多湿と飲料水の供給不足にも苦闘した。地上戦は荒れ模様となり、血の稜線の戦い(Bloody Nose Ridge)と呼称されたウムブロゴル稜線で甚大な犠牲を伴った。アメリカ軍は遅延しながら日本軍を包囲して、犠牲者を出しながら攻略した。アメリカ軍の塹壕と坑道群に対する攻撃は、日本軍の拠点を隣接する拠点から孤立させて、火炎放射器によりコルク抜きする白兵戦となった。10月7日に、ホースシューリッジ中央部に侵攻して、日本軍は唯一の淡水供給源を断ち切られて周辺に留まった。アメリカ軍は11月27日まで掃討を続けて、ペリリュー島は制圧されて安全を宣言された。




2022年4月28日木曜日

1941年11月から12月にウクライナ地域のクリミアのケルチ近郊のバゲロヴォ村付近の対戦車溝に、数千人のユダヤ人がナチス・ドイツ軍により射殺された死体が投げ込まれた。

1941年11月から12月にかけて、ウクライナ地域のクリミアのケルチ近郊のバゲロヴォ村付近の対戦車溝で、数千人のユダヤ人がナチス・ドイツ占領軍によって射殺された。死体は、バゲロヴォの堀の対戦車塹壕に投げ込んだ。約7千人の虐殺された死体の裸の足や腕が雪の下から突き出ていた。それには、約245人の子供と学童の死体も含まれた。暗い空の下で半凍った冬の風景の中に、ゆがんだ死体の残骸、制服を着た兵士などの死体の中で、ケルチ地域の婦人らが、身内の死体を探索して検死した。1942年1月に、調査官や記者が、ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪を記録した。バゲロフの堀の資料は、ホロコーストとナチス侵略者の戦争犯罪を説明する最初の資料の一つとなった。

 1939年にはクリミアASSRに、約65,452人のユダヤ人(人口の約5.8%)が居住して、そのうち約7000人以上がクリムチャク人であった。その大半(約47,387人)は都市部に定住した。クリミアからの避難は、すでに1941年7月から始まった。ナチス・ドイツ軍占領下で、約3万4千人のクリミア系ユダヤ人がナチス・ドイツ軍侵攻の前夜に家を避難できた。残存した不幸な住民の抹殺は、アインザッツグルッペDの隊員を中心とする懲罰部隊である死の部隊がホロコーストを行った。

 1941年11月28日に、ケルチに新たなナチス・ドイツのゲシュタポ命令が掲示されて、すべてのユダヤ人は11月29日の午前8時から12時まで、3日分の食料を持ってセナヤ広場に出頭するように命じた。ナチス・ドイツは、姿を見せないと公開処刑にすると脅した。 正午までに、少年、少女、老若男女、老人、妊婦など、約7000人以上の人々が広場に集まった。ゲシュタポは、全員を市の刑務所に送った。12月1日から5日に、ドイツ軍は刑務所から囚人を、大きな対戦車堀が掘られたケルチ近郊のバゲロヴォ村に強制連行して、無差別に銃殺した。

 すでに1941年11月から12月、都市部にいた地元のユダヤ人とクリミア・タタール人の大部分が駆除された。その後も、特に1942年の再占領後のケルチとフェオドシアでは、個々の潜伏した集団や個人を捜索して抹殺が絶え間なく続けられ。ユダヤ人、クリムチャク人、混血家族への人狩は、1944年4月から5月のクリミア半島解放まで続けられた。ユダヤ人とクリミア人の犠牲者は合計で約4万人に達した。

 第二次世界大戦にてクリミア半島のケルチは、1941年11月にドイツ軍に占領された。1941年12月31日に、ソ連軍が、ケルチを奪還した。1942年にドイツ軍が再びケルチを占領した。ソ連軍はケルチ半島の戦いで約16万人以上の兵士が犠牲となり、死亡または捕虜となった。1943年10月31日、再びソ連軍による上陸作戦が開始され、1944年4月11日に、ケルチはソ連が占領して支配した。




2022年4月27日水曜日

1953年6月17日に、東ドイツのドイツ民主共和国に対する民衆デモ蜂起が勃発して、ソ連占領軍の戦車により虐殺されたドイツ人死者の死体を、デモ参加者たちは運び出した。

1953年6月17日に、東ドイツであるドイツ民主共和国(SED)に対する民衆の蜂起が勃発した。東ベルリンでの民衆蜂起の際に、ソ連軍の戦車により虐殺された死者を、デモ参加者たちは運び出した。6月17日に、ドイツ民主共和国の民衆蜂起で、負傷した東ベルリン市民が、包帯と絆創膏を巻いて、病院のベッドに横たわった。民衆デモ隊も逃げて、頬に傷、肩に銃弾を受けて、病院に運ばれて、合計で数百人が負傷した。すでに6月17日の朝には、鉄道員1名がソ連の装甲偵察車に轢かれて虐殺された。デモ隊は自発的にその場にすのこで作った仮設の十字架を建てた。民衆が木の十字架を立て取り囲んだ。その騒動で数人の命も巻き込まれて奪われた。6月17日の東ドイツの民衆蜂起では、他のデモ隊に運ばれたこのベルリン人を含めて、約120人が殺害されて、死亡者数は現在でも現在も不明である。

 6月14日に、ドイツ民主共和国での民衆蜂起が勃発する直前に、労働者はゼネストを呼びかて、東ドイツ指導部による劣悪な生活環境と厳しいスターリン主義路線に抗議した。6月16日に、東ベルリンで労働基準法の引き下げを、要求するデモ隊が行進した。東ベルリンでは、早くも6月16日に最初のデモが勃発した。労働基準を引き上げる東ドイツ政府の決定に、民衆が抵抗した。ドイツ民主共和国の経済状況を改善するために、労働者は同じ賃金でより多く労働が要求された。

 6月17日、東ベルリンとドイツ民主共和国の他の都市での抗議デモ運動は、民衆蜂起に発展した。東ドイツの至る所で人々は街頭に出て、より良い生活環境を求めた。民衆の怒りは爆発して、ポツダム広場の新聞売店が直ちに放火された。6月17日の正午頃には、民衆蜂起は近隣の東ドイツの管理棟であるコロンブス・ハウスを襲撃した。そこには人民警察の本部も設置されて、デモ隊は建物に放火して、煙が周辺に漂った。

 東ベルリンから、民衆蜂起は他の東ドイツ地域にも拡大した。ドイツ民主共和国の約700の市町村で、民衆抗議デモが発生した。ライプツィヒでは、民衆蜂起した同日6月17日に民衆デモ隊が市場広場のパビリオンに放火した。イエナのホルツマルクトに停車中のソ連軍の戦車は、取り囲んむ人々を静観した。

 6月17日に、ドイツ民主共和国(SED)政権とソ連占領軍は、直ちに厳しい反撃行動で対応した。東ベルリンでは、ソ連占領軍の戦車隊が、民衆蜂起の暴動を鎮圧するために侵攻した。東ドイツでの民衆蜂起の際に、ソ連軍の戦車が東ベルリンを侵攻した。ソ連軍の戦車が東ベルリン側に侵攻した。西ベルリンの人々は、東ドイツのフリードリッヒ通りの区境で、ベルリンの東側で起こる出来事を眺めていた。ソビエト軍は、東ベルリンとドイツ民主共和国のほとんどの地区で非常事態を宣言した。東ベルリンの民衆蜂起は、攻撃して迫りくるソ連軍の戦車から必死に身を守った。東ベルリンのデモ隊の一人は、木の棍棒でソ連軍の戦車を叩いた。石ころしか持っていない民衆蜂起は、進撃してくるソ連軍の戦車隊に全く勝ち目はなかった。東ベルリンで若いデモ隊員が、ソ連軍戦車に石を投げつけた。

 東ドイツの人民警察隊による第一次検挙が開始されて、約6,000人の民間人が逮捕されて身柄を拘束された。迫り来る人民警察から、多く民衆蜂起した東ベルリン労働者が西ベルリンに逃亡した。西ベルリンには、ドイツ民主共和国の国家権力は通用できなかった。西ベルリンに逃亡した東ベルリンの労働者が、国境の向こう側から東ドイツの人民警察を監視した。ドイツ民主共和国の指導部は、民衆デモ蜂起の出来事をファシストのクーデター未遂と再解釈した。



2022年4月26日火曜日

日露戦争にて1904年11月から二〇三高地周辺で、ロシア軍兵士は埋葬する前に、ロシア軍兵士の死体から残存した弾丸を回収した。

日露戦争にて、1904年11月から日本軍に狙われた二〇三高地の丘陵地の周辺には、殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱していた。生存したロシア軍兵士は、埋葬する前のロシア軍兵士の死者から、死体に残存した弾丸を回収した。旅順要塞の東北正面の周辺に対して、日本軍は1904年8月19日から8月24日に第一次総攻撃、10月26日から10月30日に第二次総攻撃を敢行して、両軍ともに膨大な犠牲を出して、兵員と補給と弾丸が不足していた。第二次総攻撃から壕を掘ってロシア軍要塞に接近する正攻法で、坑道を掘り要塞を爆破した。第二次総攻撃では日本軍は戦死者は約1,092人、戦傷者は約2,782人を出して、ロシア軍は戦死者約616人、戦傷者は約4,453人と犠牲者数は日本軍側より上回った。交戦最中であった12月3日には一時休戦となって、日露軍双方の兵士が死体の搬出と負傷者の救出を行なった。

 ロシア海軍のバルチック艦隊の接近を控えて、日本軍は11月26日から旅順の二〇三高地に照準を絞って変更した第三次総攻撃を敢行した。嵐のロシア軍の銃撃で、欄干の頂上は、散乱した死体で黒くなった。東鶏冠山から日本軍の大部隊が突撃を繰り返すも、犠牲者の死体が山積みとなった。北鶏冠山にも日本軍は殺到して、山嶺で白兵戦が銃撃戦が繰り返した。猛烈なロシア軍の銃撃にて日本軍は鉄条網を突破できずに、欄干の頂上で黒軍服の死体が重なった。

 11月30日に、日本軍は二〇三高地に北西頂上から頂上付近に塹壕を掘り進めて、猛烈な砲撃をした。12月5日に集中砲火して最後の総突撃をした。南西丘陵から砲撃して、ロシア軍の弾薬庫が発火した。砲撃して二〇三高地を孤立させて、約8,000人の日本軍兵士が必死の突撃をしてロシア軍陣地に殺到した。二〇三高地の生存した3人のロシア軍兵士を除いて全員を殺害して占領した。12月6日から日本軍は二〇三高地から旅順要塞の東北正面を砲撃をして、周辺のロシア軍は撤退し制圧した。12月13日から、旅順のロシア艦隊に二〇三高地から猛烈な砲撃をした。




2022年4月25日月曜日

アメリカ軍による東京大空襲で、警察隊は上野公園の両大師脇に、下谷・渋谷などから集積された膨大な民間人の焼死体や窒息死体を、集団墓地の穴を掘って仮埋葬した。

太平洋戦争末期に1945年3月10日のアメリカ軍の東京大空襲による甚大な犠牲が発生した。警察隊は3月16日に上野公園の両大師脇にて、特に下谷・渋谷などから集積された民間人の焼死体や窒息死体の処理するために、集団墓地の穴を掘った。無差別な東京大空襲による犠牲者の大量の焼死体を、土中に埋葬した。3月10日以降の空襲では、膨大な死体の集積されて、戦場掃除のような死体処理を乱暴な扱いで死体が処理された。個別の埋葬ができない死体は、公園や寺院の境内などに集団墓地の穴を掘って、死体を埋めてから仮埋葬した。1945年3月から5月の東京空襲では、約9万4800の死体で、個別に埋葬された約8000人以外は、それ以外は集団埋葬された。終戦後に、集団埋葬により仮埋葬した死体を3~5年後に掘り返して火葬した。遺骨は東京都慰霊堂に安置されて、約8万人の遺骨が無縁で残存した。

 東京の第1回目の初空襲は、アメリカ軍の爆撃機B-25の13機により1942年4月18日に爆撃した。空襲は東京市民にとって青天の霹靂であり、初めて戦争を実感した。空襲を知らない一部の市民は,待避を叫ぶ声に避難もせず,空上を参観しげた。2年半ぶりの1944年11月24日が第2回目の空襲となった。主に軍事工場と産業工業から、その後は次第に市街地に対して、アメリカ軍の空襲は激しさを増した。東京の空襲被害状況の写真は、軍部のみの厳命で検閲された。

 東京大空襲となった1944年3月10日を迎える。房総半島沖からアメリカ軍の爆撃機B29の約279機は、超低空で午前0時25分頃に江東地区を空襲した。1556トンもの焼夷弾を投下して、住宅の密集地に無差別に大空襲した。周囲は猛火の壁に囲まれ,北西からの熱風に煽られた。アメリカ軍爆撃機B29は巨大な真っ白い胴体に、真紅の焔を反射させ,低空で乱舞して、焼夷弾の束を無数に落下した。火は倍々たけりたって強風を呼び,強風は火を煽って,多くの逃げ惑う人びとを焼殺や窒息死した.倒れた死体は路面を激流の大火流に,芋俵を転がるように流された。

 東京大空襲の民間人の犠牲者は、東京都内が被害を受けた空襲は60回を越えた。確認された死者の死体数は約10万5400人に上った。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸であった。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たった。東京都全体では、空襲は100回を越えた。アメリカ軍は市民を大量虐殺して、日本中で戦争継続の士気を喪失させる戦争犯罪で狙った。














2022年4月25日  Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    閲覧回数 560,000    投稿数 2,078

2022年4月24日日曜日

ウクライナのブチャの自宅外に、妻のイラ・ガブリルークは猫を抱きながら、ロシア軍に殺害された夫、兄、もう一人の男性の死体の間を呆然自失で徘徊した。

ウクライナのキエフ郊外にあるブチャの自宅の外に、妻のイラ・ガブリルーク(Ira Gavriluk)は2022年4月4日に生き残った猫を抱きながら、ロシア軍に殺害された夫、兄、もう一人の男性の死体が散乱している間を呆然自失で徘徊した。多くの人々が、食料や水を調達するために外に出たり、死体を埋めたり、占領されたブチャから脱出すると、銃撃された。ブチャ解放後、多くの民間人の死体が発見されたヤブルンスカ通りの近くに住む若い女性テチヤナ(Tetyna)は、ロシア軍が彼女のアパートに入り、彼女が地下室に避難している間に、理由もなく彼女の夫を射殺した。人々が隠れている地下室に発砲したり、手榴弾を投げたりした。

 ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍が2022年2月24日からウクライナ侵攻して、2月27日にブチャを占領した。ロシア軍が、キエフ州から2022年3月31日に撤退して、ウクライナ軍がキエフ州ブチャ(Bucha)の町を奪還して以来、世界にロシア軍が民間人に加えた大量虐殺が公表された。ブチャ当局は、4月19日までにブチャの町の通りや建物、集団墓地から約419死体を発見して、検察官は約600死体を検死した。地元当局者は、路上で虐殺された人数と家や地下室で虐殺された人数は、同程度だと推定した。ロシア軍の狙撃兵が地域全体を覆って、ブチャの通りにいると撃たれる危険性があった。ロシア軍は、ウクライナでの意図的な民間人殺害とみられる証拠が出て、新たな戦争犯罪の非難の波にさらされ、国際刑事裁判所(ICC)が捜査した。

 ロシア軍は、ブチャで街中で銃撃戦のみを繰り広げた。死体の約8割以上に銃創があり、そのほとんどが頭部と胴体であった。犠牲者は、偶然に撃たれた者はほとんどいない。隣町のイルピン(Irpin)では、銃撃だけでなく砲撃や迫撃砲により虐殺された。

 ブチャ住民の証言では、ロシア軍は無作為に、組織的に人々を殺害した。地元の役人や活動家、軍人の年齢相当の男性を探し出した。ロシア軍は、さまざまな理由で、時には理由もなく、路上で多く人々を殺害した。ロシア軍はブチャを占領して以来、すべての家、アパート、施設、会社等がロシア占領軍に侵略された。ブチャの指名者リストにより、徹底的に特定者を探索して虐待と虐殺した。特にウクライナ防衛隊の容疑者の何人かは、手を後ろに縛られた状態で殺害され、ロシア軍が占領した約1ケ月間は、死体が放置されて地面に横たわった。




















Warning: Ira Gavriluk holds her cat as she walks among the bodies of her husband, brother, and another man, who were killed outside her home in Bucha, on the outskirts of Kyiv, Ukraine, Monday, April 4, 2022.  (AP Photo/Felipe Dana)

2022年4月23日土曜日

世界初の原子爆弾が炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。

世界初の原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して壊滅的な被害を受けた広島市内の瓦礫の中で、1946年7月27日に日本人の子供が泣きながら座っていた。無差別な原爆投下により約8万人が即死して、広島市内のほぼすべての建物等が破壊または破損した。

 広島原子爆弾により両親を亡くした孤児は約2,000人とも6,500人と推定された。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らした。1947年末に、広島市周辺には5施設の孤児院が設置された。孤児院は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が困難であった。

 1949年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆であったノーマン・カズンズ(1915~1990)は、被爆の惨状を視察して、広島戦災児育成所で原爆孤児に強烈な衝撃を受けた。カズンズはアメリカに帰国後、「4年後のヒロシマ」と題する記事を公表した。原爆孤児をアメリカ人の養子・里親を呼びかけた。孤児の「道徳的里親」を希望する多数のアメリカ人が名乗りをあげた。1950年1月に、戦災児育成所の児童71人が養子になった。その対象も広島修道院、新生学園、光の園、似島学園などの施設に拡大した。1950年だけでも約233人の養子縁組が成立した。

 アメリカからの支援金は約8,000ドルに達した。広島市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立して、資金の配分や養子縁組の仲立ちした。1953年には最高の409人に達した。1955年頃から減少して、1958年には終結した。8施設で490人あまりの児童が、養育資金の支給を受けて、社会人に成った。カズンズは来日して養子・里親たちとの交流を深めた。日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こす契機になった。




2022年4月22日金曜日

第一次チェチェン戦争の首都グロズヌイの戦いにて、ロシア軍は撤退する前に、墓地を1995年9月に墓地に埋めた木箱の棺桶から、チェチェン人の死体の白骨を詰め込んだ。

第一次チェチェン戦争にて、首都グロズヌイの戦いにて、侵略したロシア軍が撤退した後に、チェチェン住民は墓地を1995年9月に掘り起こした。墓地に埋めてあった木箱の棺桶から、殺害されたチェチェン人の死体の白骨が目一杯に詰め込んでいた。それをグロズヌイのチェチェン住民の婦人が取り囲んで呆然と嘆き見守った。引き取り手のない死体は、後にグロズヌイ市郊外の集団墓地に集められ埋葬された。ロシア南部に位置するチェチェン共和国は、人口わずか150万人の小さなイスラム共和国であった。

 第一次グロズヌイの戦いは、第一次チェチェン戦争の初期にエリチン大統領のロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイに侵攻して、その後に一時的に征服した。1994年12月22日から1995年3月6日にかけてロシア軍の攻撃により、グロズヌイを軍事的に占領した。最終的にロシア軍に奪取して、ドゥダエフ将軍がチェチェン共和国の初代大統領となった。最初の攻撃でロシア軍にかなりの死傷者の犠牲が出た。特に1994年12月31日の攻撃で約4,000人のロシア軍兵士が戦死した。ロシア軍が首都グロズヌイを占領できるまで、さらに2ヶ月の激しい戦闘を伴った。チェチェン民間人に甚大な破壊と犠牲をもたらして、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も激しい空爆が行われた。グロズヌイの戦いでは、ロシア軍は、1,426人以上の戦死、約500人が行方不明、約4,670人が戦傷して、チェチェン軍の犠牲者数は不詳である。約5,000人の子供を含む約2,700人以上の民間人が殺害された。

 近隣の山々からチェチェンゲリラ部隊は、1996年3月に首都グロズヌイへ攻撃した。ゲリラと襲撃によりロシア軍に損害と戦意喪失を与えて、ロシア軍の撤退を求めた。1996年8月に、約3,000人の武装勢力による奇襲攻撃で、チェチェン分離派は首都グロズヌイを奪還して、ロシア軍部隊を撃退した。最終的に第一次チェチェン戦争は停戦となり、グロズヌイは再びチェチェン分離主義者の手中に収まった。1997年に、分離主義者のイクケリア共和国のアスラン・マスカドフ大統領により、名称がジョハルに変更された。残存していたロシア人少数民族のほとんどが避難した。

 第二次チェチェン戦争の1999年8月26日に勃発後に、グロズヌイは再び戦闘の中心地となり、さらに数千人の死者を出した。1999年10月25日のプーチン(1999年8月9日首相、2000年5月7日大統領)のロシア軍によるグロズヌイ包囲にて、5発のSS-21弾道ミサイルを、混雑した中央バザールと産科病棟に向けて発射し、約140人以上が死亡、数百人が負傷した。大規模な砲撃では、ロシア軍の砲弾のほとんどが建物の上層階に向けられ、大規模なインフラ破壊を引き起こした。2000年2月初旬に、ロシア軍は包囲したチェチェン武装勢力を安全な人道回廊に誘き出しては、最終的にグロズヌイを奪取した。避難計画の1日前に、ロシア軍は都市とアルハンカラ村の間の道を採掘し、最も火力を集中させて、チェチェン分離主義者の指導者と数百人の武装集団が死傷した。ロシア軍は徐々に空っぽの街に入り、2月6日にはグロズヌイの中心部にロシア国旗を掲げた。多くの建物、街全体が計画的に破壊された。1ヵ月後に、住民の帰還を許可する安全宣言が出しても、破壊をしばらく続けた。プーチンは、クレムリン寄りのカディロフを擁立して領土の支配を強化した。2004年に暗殺され、現在は息子のラムザン・カディロフがチェチェン共和国を支配している。




2022年4月21日木曜日

ベトナム戦争にて、戦闘機内で重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせて、脇の下に戦傷があり、顔色が悪く鼻と口から出血して、人工呼吸を試みるも戦死した。

1965年春に、約3,500人のアメリカ軍海兵隊員がベトナム戦争に参戦した。その数週間後に、39歳のイギリス人記者のラリー・バローズは、急速に拡大する戦争の中で、地上戦と空中戦で活動するアメリカ軍兵士の戦闘を写真記録した。1965年3月31日にヘリコプター作戦における悲惨な写真の戦争記録を掲載した「ダナンからの報告」が、2週間後の1965年4月16日号のLIFE誌で公表された。バローズは1962年からベトナム戦争を取材して、ヘリコプターで数多くのベトナム戦争を写真記録した。

 バローズは、21歳のジェームズ・ファーレイ伍長のヘリコプターに搭乗した。戦闘中にヘルメットをかぶったファーレイの足元には、致命傷を負ったパイロットのジェームズ・マゲル中尉が倒れた。ファーレイは、ベトナムでの銃撃戦後の飛行中にパイロットに向かって致命傷のマゲルを叫んだ。21歳のファーレイは1965年3月の悲惨な戦闘任務の後に、ベトナム戦争で仲間のマゲルの死体の棺桶の前で、一人で泣きじゃくった。

 ベトコンは、ジャングルの樹海に潜んでいて、我々が着陸地点に来るのを待っていた。いいカモのように、ベトコンの放つ十字砲火は殺人的だった。ピックアップ地点に急いで戻った。次の着陸地点で、パイロットのピーター・フォーゲル少佐は、地面に倒れた戦闘機YP13(Yankee Papa 13)を見つけた。エンジンはまだかかり、ローターも回って、故障が起きた。フォーゲルはインターホンで「どうして離陸しないんだ」とつぶやき、近くに梯を下ろして様子を見た。

 ベトコンの攻撃範囲外に出るまで、ファーレイと砲手のホイリゲ兵長は銃から離れて、YP13の2人の負傷者を治療できなかった。重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせると、脇の下に大きな傷跡があった。マゲルの顔は痛みを感じ、唇がわずかに動いた。顔色が悪く、ファーレイはマゲルの傷と顔に包帯を巻き始めた。鼻と口から出血が出始めて、目がうつろになった。ファーレイは、マゲルに人工呼吸を試みるも、マゼルは絶命して戦死した。

 アメリカ軍が東南アジアへの関与を強めて、命をかけて戦う若者たちの姿を痛烈に、深く同情的に描いた。ベトナム戦争全体の範囲と悲惨で致命的な終末を予期させるものであった。LIFE誌にYP13が掲載されてから約6年後の1971年2月、バローズ(44歳)は他の3人の戦争ジャーナリスト(アンリ・ユエ43歳、ケント・ポッター23歳、島本啓三郎34歳)とともに、ラオス上空で飛行中のヘリコプターを撃墜され、死亡した。



2022年4月20日水曜日

1968年2月8日、サウスカロライナ州立大学の端で、オレンジバーグ虐殺で警察隊に殺害された2人の公民権の抗議デモ参加者の黒人学生の死体が地面に横たわった。

1968年2月8日、サウスカロライナ州立大学の端で、オレンジバーグ(Orangeburg)虐殺で殺害された2人の公民権の抗議デモ参加者の黒人学生の死体が地面に横たわった。サウスカロライナ州立大学のキャンパスで、1968年2月8日の夜に、何百人もの黒人学生が、地元の法執行機関や政治家との長い衝突の末に、3度目の抗議デモのためにキャンパスに集まった。彼らは、サウスカロライナ州の州兵部約450人と警察隊数十人と、軍用車と重厚な法執行機関と対峙した。黒人学生の抗議デモの発端は、サウスカロライナ州オレンジバーグのボーリング場における人種隔離であった。公民権運動のデモにより、3人の学生が虐殺された。警察隊員らは、「狙撃の音が聞こえた」と叫びながら、学生たちに発砲し始めた。走ったり叫んだりする混乱の中で、サウスカロライナ州立大学の2人の大学生であるサミュエル・ハモンド(18歳)とヘンリー・スミス(19歳)、さらに高校3年生のデラノ・ミドルトン(17歳)が巻き込まれて殺害されて、約27人が負傷した。 

 サウスカロライナ州オレンジバーグにある唯一のボーリング場は、黒人の入場を拒否していた。白人専用のボーリング場の経営者ハリー・フロイドは、個人所有(Private owned)の看板から、1964年の公民権法に抵触しないと訴えた。人口約1万4千人ほどのこの町には、アフリカ系アメリカ人が多数を占めるサウスカロライナ州立大学があった。オレンジバーグの市長、市議会、警察など、ほとんどの企業の主体は白人であった。黒人学生が手すりの破片を警官の列に向かって投げつけ、警官の顔面を直撃した。血まみれの警官が運ばれていく中で、他の警官たちは警戒と怒りで、突然に一人が威嚇射撃をした。銃声に驚いた他の警官の9人が、群衆に向かって弾丸を撃ち始めた。デモ隊の一団は逃げ惑い、盲目的に弾丸の嵐を避けようとした。何十人もの黒人学生が、逃げる際に脇腹や背中を撃たれた。デラノ・ミドルトンは高校生で、大学でメイドをした母親がシフトを終えて建物の外で待っていた時に銃殺された。当時のマスコミ報道も、ビデオも、写真もほとんどない。法的には、9人の警官がわずか2時間後に陪審員によって無罪となった。公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺される約2カ月前に勃発した。アメリカで最初の大学生と法執行機関との死闘の1つとなった。




2022年4月19日火曜日

1980年年代末に、イラク軍による化学兵器の攻撃にて、クルド人がイラク北部から避難して、女性と子どもは猛烈な毒ガスを浴びた。

 1980年年代末に、イラク軍による化学兵器の攻撃に直面して、約10万人のクルド人がイラク北部から避難を余儀なくされた。この女性とその子どもは、ひどい毒ガスを浴びせられました。トルコ南部のキャンプで保護された難民の人々である。

 アンファル(Anfal)作戦は、アンファル虐殺またはクルド人虐殺とも呼ばれ、1980年代後半に、バアス主義のイラク軍によって執行された反乱軍に対する大量虐殺であり、約5万から約18,2000人のクルド人を殺害した。イラン・イラク戦争の末期に、サダム・フセイン大統領の命令で、アリ・ハッサン・アル・マジドが率いるイラク軍が、イラク北部のクルド人に対して大量虐殺を執行した。クルド人の反政府勢力の排除とキルクーク州の戦略的地域のアラブ化であった。

 アンファル作戦は1986年に始まり1989年まで続いた。アンファル作戦は、地上攻撃、空爆、居住地の組織的破壊、集団追放、銃殺隊、化学兵器などを駆使して、アル・マジッドはケミカル・アリと呼称された。イラク軍は、イラク政府が武装させたクルド人の協力者いわゆるジャシュ軍に支援されて、彼らはイラク軍を地図に載っていないクルド人の村や山中の隠れ家を先導した。マスタードガスや神経ガスGB、またはサリンを含む化学兵器がハラブジャの町や数十のクルド人の村に対して広範に使用され、主に女性や子供を含む何千人もの人々が殺害された。多数の女性と子供、そして時には村の全人口を含む数万人の非戦闘員の大量即決処刑と大量失踪した。

 アンファル作戦の名称は、コーランの第8章のアンファル(戦利品)の表題から取られた。1988年をピークに1986年から1989年にかけて、イラク北部のクルド人の戦闘員に対する一連の組織的攻撃に、旧イラク・バース主義政府が作成名として使用した。スウェーデン、ノルウェー、韓国、イギリスはアンファル作戦を公式にジェノサイドと認定した。ジェノサイド条約(ジェノサイドの犯罪の防止と処罰に関する条約, 1951年1月12日発効)の第1条は、「ジェノサイドは、平和の時期であろうと戦争の時期であろうと、国際法の下での犯罪である」と断言した。

 1987年初頭から1988年末までの反乱軍作戦では、数千人の民間人が犠牲になった。攻撃は、イラク北部の約4,500のクルド人と少なくとも約31のアッシリア・キリスト教徒の村を破壊した。約350万人のイラクのクルド人のうち少なくとも100万人が難民として避難した。イラク検察当局とクルド人当局によると、約18万人もの人々が殺された。アメリカ政府は、クルド人市民への毒ガス使用が報道された後も、イラクへの軍事援助を続けた。

 何十年にもの大量虐殺は、1963年のキルクーク周辺の村のアラブ化から勃発した。1970年代から80年代にてのフェイリー・クルド人の強制送還と失踪、1983年に約78,000人の男性バルザニー族が殺害され、1980年代後半に化学兵器が使用された。最も顕著なのはハラブジャ、最後に1988年のアンファール作戦である。何十万人もの無差別に人々が殺害され、家族は引き裂かれ、多くは深刻な健康問題を抱えている。1976年から1988年の間に約4,500の村が破壊され、イラクのクルディスタンの農業資源が損なわれ、クルディスタンの生活様式と環境が破壊された。




2022年4月18日月曜日

アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のレイテ島の戦いで戦死した約3,598人の死体の一部を帰還するために、輸送船に見守り積み込んだ。

アメリカ軍は戦死した仲間の死体を帰国するために、輸送船に積み込んだ。太平洋戦争で1944年10月17日から12月26日までのレイテ島の戦いで、殺害された約3508人のアメリカ軍兵士の死体の一部を、多数のアメリカ軍兵士が見守った。レイテ島の戦いで、アメリカ軍は、約3,508人が戦死して、約11,991人が戦傷して、約89人が行方不明となった。日本軍は、約79,261人が戦死して、その約80%は餓死あるいは病死であった。

 太平洋戦争のレイテ島の戦いが、1944年10月17日から勃発した。10月20日午前10時に、アメリカ軍はレイテ島に上陸した。日本軍の砲撃による砲火と散在する湿地が障壁となるも、夕方までに海岸から2マイルまで制圧して、内陸部へ10マイルほど侵攻して、ダガミの町を奪取した。その後、アメリカ軍は順調に南下を続けて、10月21日に州都タクロバンを占領した。一方、内陸部でより強い抵抗を受けて、海岸部に到達するまでに数日間の激戦を伴った。アメリカ軍は、11月1日に海岸部とカリガラの町に接近した。アメリカ軍は海岸頭から、補給基地と4つの飛行場を擁するレイテ渓谷の南部に侵攻した。アメリカ軍は、日本軍が見張台と射撃場であったキャットモンヒルを掃討して、10月31日に占領した。約50以上の要塞と約17の洞窟、多くの重砲陣地が除去された。 

 アメリカ軍は、デュラグ近郊の内陸部の4つの飛行場に攻撃をして占領した。さらに北部のブリでも激戦が繰り広げられ、別の飛行場を守る約400人の日本軍兵士が戦死して犠牲になった。11月初めまでに、アメリカ軍がオルモックに接近すると、内陸部のブラウエン飛行場は日本軍の空襲で奇襲した。12月6日の夕方に、日本軍は約350人の落下傘兵を投下して、ある程度の数の兵器を奪取したが、少数の航空機と物資庫の破壊を除いて、レイテ島の戦い全体には無意味となった。アメリカ軍は、日本海軍は1944年10月23日から26日のレイテ沖海戦でほぼ壊滅状態となり、決死の策としてフィリピン全土に神風特攻隊は10月21日から突撃した。12月7日に神風特攻隊によるアメリカ海軍艦船への自爆攻撃にも関わらず新たに増軍され北上を再開し、日本軍に対し挟撃戦を展開した。

 日本軍はオルモック渓谷に移動を命じられたが、多くが栄養不足で餓死あるいは病死した。オルモック市は12月10日にアメリカ軍は入城して、オルモックが解放された。アメリカ軍の侵攻は西と北の両方向に加速して、11月下旬にレイテ渓谷の南側の線に沿って、12月6日にはブラデンに10マイル以内まで接近した。アメリカ軍は、12月24日に、パロンポン付近に上陸し、正午までに町をアメリカ軍が占領した。レイテ島の戦いの日本軍の組織的抵抗の実質的に終結した。




2022年4月17日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争て、2022年4月11日にキエフ州のアンドリブカ村の自宅近くの浅い墓から夫の死体が掘り起こされ、検死した民間人の妻が慟哭して倒れかかった。

ロシア・ウクライナ戦争において、2022年4月11日にキエフ州のアンドリブカ(Andriivka)村の自宅近くの浅い墓から夫の死体が掘り起こされた。その掘り起こされた夫の死体を検死して、その民間人の死体の妻が慟哭して倒れかかった。アンドリブカ村には、ロシア・ウクライナ戦争前に約2,000人の住民が居住していた。ロシア軍が、ウクライナの首都キーウを占領するために、アンドリプカ村は、約1か月にわたる北部の攻撃中に、ロシア軍の侵略によって占領された。

 男性住民らの死体は、彼らの仲間のウクライナ人によって掘り起こされて新たに埋葬された。村人たちは彼らはロシア軍に殺害されたと述べた。死体を回収するために、民家に黄色いマークが貼られ、警察が隊員を率いて、浅い墓から死体を掘り起した。そして、親族が身内の死体を目前にして、検死した。ある住民は、死体はただの残骸で、愛する人はもういないのだと冷静に諦める。ある住民は、まるで死体の眠りを覚まそうと、突発して死体に触ろうとした。

 4月11日月曜日、首都キーフの西33kmにあるアンドリブカにて、夫であった私服姿の男性のユーリイ・クラフチェンニャ(Yuriy Kravchennia, 46歳)が庭から掘り出された。大破した廃墟の家の外で、彼の死体が地上に引き上げられた。その廃墟の中から、妻のオレーシャ(Olesia)が苦悶の声を上げた。妻は庭の柵から覗き込むと、オレンジと茶色のストライプのセーターを着た夫の死体が、土の中から足から引きずり出されたのを見た。夫の死体は段ボールで覆われて、顔は不気味な薄緑色になっていた。妻のオレーシャは駆け寄り、足がすくんでしまい、隊員に死体まで誘導された。夫のユーリイは両手を上げて、降伏した状態で路上で撃たれたようだ。妻のオレーシャは「私は耐えている。頑張る。夫がいなくなって41日目、私は泣いていた。夫がいなくなって41日目ですが、今も泣いています。」ウクライナ当局によると、首都周辺で1,200体以上の遺体が発見されていた。ロシア軍は、死体を埋葬した場所に穴を掘って土を捨てたが、は弾薬箱が散乱していた。アンドリプカ村では、夫の死体は4月11日のうちに7体目となった。













Warning: DITORS NOTE: Graphic content / TOPSHOT - on April 11, 2022. Sergei / CNBC Supinsky | Afp | 

2022年4月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂後に2〜3ケ月後に、広島駅構内には近隣の町村から広島市内に参集して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々や被爆者も集結した。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂した。爆心地から約1.9kmの広島駅構内は、原子爆弾による火災で全焼した。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。広島原子爆弾の投下して炸裂後に、広島駅周辺は焼け野原となった。広島市には大規模な守備隊があり、原子爆弾により広島城の練兵場で演習していた約3,243人の日本軍兵士が被爆死して、日本軍兵士は広島鉄道駅で救護された。

 広島駅ホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、東練兵場(現在の光町)の方に走って逃げた。まるで阿修羅のような惨状が繰り広げられた。まさに亡霊のような姿でトボトボと歩いて鉄道寮の方に向かった。途中、東練兵場の中には足の踏み場もないほど多くの被爆者が横たわっていた。火傷をした被爆者や負傷をした被爆者、中には裸同然の人など、地獄さながらの様相であった。「助けてくれ・水をくれ」と叫び通行人にとりすがった。

 近隣の町村から広島市内に急行して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々が集結した。アメリカ軍により1945年10月か11月に広島駅構内の写真は撮影された。広島駅の待合室は倒壊して、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡から、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒約20人を含めて約78人の死体が発見され、駅職員も約11人が死亡した。  

 広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかり、全線が不通になった。入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業をした。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれたが、そのほかの詰所はほとんど焼失した。8月6日12時頃に、広島駅の裏線から避難列車第一号が発車し、夕方5時頃にも山陽本線の上りに避難列車が発車した。鉄道は、原爆投下当日の8月6日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた。復旧作業も早急に進められ、8月7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線、8月8日は幹線の山陽線、8月9日には広島県北部地域をつなぐ芸備線が開通した。そして、8月18日には広島市郊外をつなぐ可部線が全線開通した。壊滅的な被害を被った市内路面電車も8月9日には一部区間(西天満町〜己斐)で片側運転が始められた。




2022年4月15日金曜日

アルジェリア戦争にて、フランス軍が民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討し、虐殺したアルジェリア人の死体を踏み気取った。

アルジェリア戦争において、フランス軍部隊がアルジェリアの民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討した。フランス軍兵士は、虐殺したアルジェリア人の死体を踏みつけては気取っていた。捕虜にして無抵抗なアルジェリア人を強制連行した。 

 アルジェリア戦争は、アルジェリア独立戦争とも呼ばれ、フランスからアルジェリアが独立するための戦争(1954-62年)であった。アルジェリア独立運動は第一次世界大戦(1914-18)中に始まり、第二次世界大戦(1939-1945)後に、フランスが約束したアルジェリアの自治権拡大を実現しなかったため、独立運動が勢いづいた。1954年に、民族解放戦線(FLNは、フランスに対してゲリラ戦を勃発した。アルジェリアの主権国家を樹立するために、国連に外交的承認を求めた。アルジェリアの戦闘員は国境沿いを中心に活動した。最も深刻な戦闘はアルジェとその周辺で行われた。FLNの戦闘員はアルジェの戦い(1956-1957)として、一連の激しい都市攻撃を開始した。フランス軍(約50万人にも増員)は、残忍な虐殺手段で何とか支配権を取り戻した。この戦闘の激しさはフランス軍の紛争継続への政治的意思を失わせた。1959年に、シャルル・ド・ゴールは、アルジェリア人は自分たちの将来を決める権利があると宣言した。独立に反対するフランス人やアルジェリア人によるテロ行為や、フランス軍の一部によるフランスでのクーデター未遂などがあった。フランスと1962年に協定が結ばれて、アルジェリアは独立した。

 アルジェリアには、民族主義政党は長年存在したが、独立を達成できず、次第に過激派になった。第二次世界大戦前には、アルジェリア人民党が設立されたが、1930年代後半に頓挫して、1940年代半ばに民主的自由を目指す運動(MTLD)に代わった。より過激な準軍事組織である特別組織(OS)もほぼ同時に結成された。1950年に植民地警察に発見されて、多くの指導者が投獄された。1954年に、元OSのメンバーがMTLDから分裂し、統一と行動の革命委員会(CRUA)を結成した。この組織は、軍事行動に備えて、後にFLNとなった。

 フランスは1830年に北アフリカのアルジェリアに侵攻して、1848年にフランスの一部として宣言した。多くのフランス人がアルジェリアに移り住み、ピエ・ノワールと呼ばれる集団を形成して、大多数のイスラム教徒であるアルジェリア人よりも優れた生活環境であった。第二次世界大戦を経て、インドシナ半島でフランス軍は敗退した。当初は平和的な独立運動を展開したFLNは、1954年に独立のための武装解放闘争を呼びかけた。フランスに独立を拒絶されると、軍や市民を標的にした連続攻撃を行った。アルジェリア戦争は、ゲリラ戦、民間人襲撃、テロ作戦からなる長い闘いであり、特に残虐な大量虐殺の闘いであった。1956年から1957年のアルジェの戦いで、FLNは紛争を都市部にも持ち込んだ。フランス軍と親派は、ますます攻撃的で暴力的な軍事弾圧で対抗した。

 フランス政府は何カ月も、アルジェリア情勢が制御不能であり、戦争に発展していた。1956年までに、アルジェリアには約50万人以上のフランス軍が駐留した。植民地時代の精鋭歩兵空挺部隊と外人部隊は、攻撃的な対反乱軍に対抗した。約17万人のイスラム教徒のアルジェリア人も、フランス正規軍であるハルキに所属した志願兵であった。彼らは、約30万人ものFLNのパルチザン部隊と、少なくとも4万人の民間人支持者と対決した。アルジェリア戦争は世界冷戦時代(1946-90)の数ある代理戦争となった。