2022年4月21日木曜日

ベトナム戦争にて、戦闘機内で重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせて、脇の下に戦傷があり、顔色が悪く鼻と口から出血して、人工呼吸を試みるも戦死した。

1965年春に、約3,500人のアメリカ軍海兵隊員がベトナム戦争に参戦した。その数週間後に、39歳のイギリス人記者のラリー・バローズは、急速に拡大する戦争の中で、地上戦と空中戦で活動するアメリカ軍兵士の戦闘を写真記録した。1965年3月31日にヘリコプター作戦における悲惨な写真の戦争記録を掲載した「ダナンからの報告」が、2週間後の1965年4月16日号のLIFE誌で公表された。バローズは1962年からベトナム戦争を取材して、ヘリコプターで数多くのベトナム戦争を写真記録した。

 バローズは、21歳のジェームズ・ファーレイ伍長のヘリコプターに搭乗した。戦闘中にヘルメットをかぶったファーレイの足元には、致命傷を負ったパイロットのジェームズ・マゲル中尉が倒れた。ファーレイは、ベトナムでの銃撃戦後の飛行中にパイロットに向かって致命傷のマゲルを叫んだ。21歳のファーレイは1965年3月の悲惨な戦闘任務の後に、ベトナム戦争で仲間のマゲルの死体の棺桶の前で、一人で泣きじゃくった。

 ベトコンは、ジャングルの樹海に潜んでいて、我々が着陸地点に来るのを待っていた。いいカモのように、ベトコンの放つ十字砲火は殺人的だった。ピックアップ地点に急いで戻った。次の着陸地点で、パイロットのピーター・フォーゲル少佐は、地面に倒れた戦闘機YP13(Yankee Papa 13)を見つけた。エンジンはまだかかり、ローターも回って、故障が起きた。フォーゲルはインターホンで「どうして離陸しないんだ」とつぶやき、近くに梯を下ろして様子を見た。

 ベトコンの攻撃範囲外に出るまで、ファーレイと砲手のホイリゲ兵長は銃から離れて、YP13の2人の負傷者を治療できなかった。重態の副操縦士のマゲルの防弾チョッキを脱がせると、脇の下に大きな傷跡があった。マゲルの顔は痛みを感じ、唇がわずかに動いた。顔色が悪く、ファーレイはマゲルの傷と顔に包帯を巻き始めた。鼻と口から出血が出始めて、目がうつろになった。ファーレイは、マゲルに人工呼吸を試みるも、マゼルは絶命して戦死した。

 アメリカ軍が東南アジアへの関与を強めて、命をかけて戦う若者たちの姿を痛烈に、深く同情的に描いた。ベトナム戦争全体の範囲と悲惨で致命的な終末を予期させるものであった。LIFE誌にYP13が掲載されてから約6年後の1971年2月、バローズ(44歳)は他の3人の戦争ジャーナリスト(アンリ・ユエ43歳、ケント・ポッター23歳、島本啓三郎34歳)とともに、ラオス上空で飛行中のヘリコプターを撃墜され、死亡した。



2022年4月20日水曜日

1968年2月8日、サウスカロライナ州立大学の端で、オレンジバーグ虐殺で警察隊に殺害された2人の公民権の抗議デモ参加者の黒人学生の死体が地面に横たわった。

1968年2月8日、サウスカロライナ州立大学の端で、オレンジバーグ(Orangeburg)虐殺で殺害された2人の公民権の抗議デモ参加者の黒人学生の死体が地面に横たわった。サウスカロライナ州立大学のキャンパスで、1968年2月8日の夜に、何百人もの黒人学生が、地元の法執行機関や政治家との長い衝突の末に、3度目の抗議デモのためにキャンパスに集まった。彼らは、サウスカロライナ州の州兵部約450人と警察隊数十人と、軍用車と重厚な法執行機関と対峙した。黒人学生の抗議デモの発端は、サウスカロライナ州オレンジバーグのボーリング場における人種隔離であった。公民権運動のデモにより、3人の学生が虐殺された。警察隊員らは、「狙撃の音が聞こえた」と叫びながら、学生たちに発砲し始めた。走ったり叫んだりする混乱の中で、サウスカロライナ州立大学の2人の大学生であるサミュエル・ハモンド(18歳)とヘンリー・スミス(19歳)、さらに高校3年生のデラノ・ミドルトン(17歳)が巻き込まれて殺害されて、約27人が負傷した。 

 サウスカロライナ州オレンジバーグにある唯一のボーリング場は、黒人の入場を拒否していた。白人専用のボーリング場の経営者ハリー・フロイドは、個人所有(Private owned)の看板から、1964年の公民権法に抵触しないと訴えた。人口約1万4千人ほどのこの町には、アフリカ系アメリカ人が多数を占めるサウスカロライナ州立大学があった。オレンジバーグの市長、市議会、警察など、ほとんどの企業の主体は白人であった。黒人学生が手すりの破片を警官の列に向かって投げつけ、警官の顔面を直撃した。血まみれの警官が運ばれていく中で、他の警官たちは警戒と怒りで、突然に一人が威嚇射撃をした。銃声に驚いた他の警官の9人が、群衆に向かって弾丸を撃ち始めた。デモ隊の一団は逃げ惑い、盲目的に弾丸の嵐を避けようとした。何十人もの黒人学生が、逃げる際に脇腹や背中を撃たれた。デラノ・ミドルトンは高校生で、大学でメイドをした母親がシフトを終えて建物の外で待っていた時に銃殺された。当時のマスコミ報道も、ビデオも、写真もほとんどない。法的には、9人の警官がわずか2時間後に陪審員によって無罪となった。公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺される約2カ月前に勃発した。アメリカで最初の大学生と法執行機関との死闘の1つとなった。




2022年4月19日火曜日

1980年年代末に、イラク軍による化学兵器の攻撃にて、クルド人がイラク北部から避難して、女性と子どもは猛烈な毒ガスを浴びた。

 1980年年代末に、イラク軍による化学兵器の攻撃に直面して、約10万人のクルド人がイラク北部から避難を余儀なくされた。この女性とその子どもは、ひどい毒ガスを浴びせられました。トルコ南部のキャンプで保護された難民の人々である。

 アンファル(Anfal)作戦は、アンファル虐殺またはクルド人虐殺とも呼ばれ、1980年代後半に、バアス主義のイラク軍によって執行された反乱軍に対する大量虐殺であり、約5万から約18,2000人のクルド人を殺害した。イラン・イラク戦争の末期に、サダム・フセイン大統領の命令で、アリ・ハッサン・アル・マジドが率いるイラク軍が、イラク北部のクルド人に対して大量虐殺を執行した。クルド人の反政府勢力の排除とキルクーク州の戦略的地域のアラブ化であった。

 アンファル作戦は1986年に始まり1989年まで続いた。アンファル作戦は、地上攻撃、空爆、居住地の組織的破壊、集団追放、銃殺隊、化学兵器などを駆使して、アル・マジッドはケミカル・アリと呼称された。イラク軍は、イラク政府が武装させたクルド人の協力者いわゆるジャシュ軍に支援されて、彼らはイラク軍を地図に載っていないクルド人の村や山中の隠れ家を先導した。マスタードガスや神経ガスGB、またはサリンを含む化学兵器がハラブジャの町や数十のクルド人の村に対して広範に使用され、主に女性や子供を含む何千人もの人々が殺害された。多数の女性と子供、そして時には村の全人口を含む数万人の非戦闘員の大量即決処刑と大量失踪した。

 アンファル作戦の名称は、コーランの第8章のアンファル(戦利品)の表題から取られた。1988年をピークに1986年から1989年にかけて、イラク北部のクルド人の戦闘員に対する一連の組織的攻撃に、旧イラク・バース主義政府が作成名として使用した。スウェーデン、ノルウェー、韓国、イギリスはアンファル作戦を公式にジェノサイドと認定した。ジェノサイド条約(ジェノサイドの犯罪の防止と処罰に関する条約, 1951年1月12日発効)の第1条は、「ジェノサイドは、平和の時期であろうと戦争の時期であろうと、国際法の下での犯罪である」と断言した。

 1987年初頭から1988年末までの反乱軍作戦では、数千人の民間人が犠牲になった。攻撃は、イラク北部の約4,500のクルド人と少なくとも約31のアッシリア・キリスト教徒の村を破壊した。約350万人のイラクのクルド人のうち少なくとも100万人が難民として避難した。イラク検察当局とクルド人当局によると、約18万人もの人々が殺された。アメリカ政府は、クルド人市民への毒ガス使用が報道された後も、イラクへの軍事援助を続けた。

 何十年にもの大量虐殺は、1963年のキルクーク周辺の村のアラブ化から勃発した。1970年代から80年代にてのフェイリー・クルド人の強制送還と失踪、1983年に約78,000人の男性バルザニー族が殺害され、1980年代後半に化学兵器が使用された。最も顕著なのはハラブジャ、最後に1988年のアンファール作戦である。何十万人もの無差別に人々が殺害され、家族は引き裂かれ、多くは深刻な健康問題を抱えている。1976年から1988年の間に約4,500の村が破壊され、イラクのクルディスタンの農業資源が損なわれ、クルディスタンの生活様式と環境が破壊された。




2022年4月18日月曜日

アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のレイテ島の戦いで戦死した約3,598人の死体の一部を帰還するために、輸送船に見守り積み込んだ。

アメリカ軍は戦死した仲間の死体を帰国するために、輸送船に積み込んだ。太平洋戦争で1944年10月17日から12月26日までのレイテ島の戦いで、殺害された約3508人のアメリカ軍兵士の死体の一部を、多数のアメリカ軍兵士が見守った。レイテ島の戦いで、アメリカ軍は、約3,508人が戦死して、約11,991人が戦傷して、約89人が行方不明となった。日本軍は、約79,261人が戦死して、その約80%は餓死あるいは病死であった。

 太平洋戦争のレイテ島の戦いが、1944年10月17日から勃発した。10月20日午前10時に、アメリカ軍はレイテ島に上陸した。日本軍の砲撃による砲火と散在する湿地が障壁となるも、夕方までに海岸から2マイルまで制圧して、内陸部へ10マイルほど侵攻して、ダガミの町を奪取した。その後、アメリカ軍は順調に南下を続けて、10月21日に州都タクロバンを占領した。一方、内陸部でより強い抵抗を受けて、海岸部に到達するまでに数日間の激戦を伴った。アメリカ軍は、11月1日に海岸部とカリガラの町に接近した。アメリカ軍は海岸頭から、補給基地と4つの飛行場を擁するレイテ渓谷の南部に侵攻した。アメリカ軍は、日本軍が見張台と射撃場であったキャットモンヒルを掃討して、10月31日に占領した。約50以上の要塞と約17の洞窟、多くの重砲陣地が除去された。 

 アメリカ軍は、デュラグ近郊の内陸部の4つの飛行場に攻撃をして占領した。さらに北部のブリでも激戦が繰り広げられ、別の飛行場を守る約400人の日本軍兵士が戦死して犠牲になった。11月初めまでに、アメリカ軍がオルモックに接近すると、内陸部のブラウエン飛行場は日本軍の空襲で奇襲した。12月6日の夕方に、日本軍は約350人の落下傘兵を投下して、ある程度の数の兵器を奪取したが、少数の航空機と物資庫の破壊を除いて、レイテ島の戦い全体には無意味となった。アメリカ軍は、日本海軍は1944年10月23日から26日のレイテ沖海戦でほぼ壊滅状態となり、決死の策としてフィリピン全土に神風特攻隊は10月21日から突撃した。12月7日に神風特攻隊によるアメリカ海軍艦船への自爆攻撃にも関わらず新たに増軍され北上を再開し、日本軍に対し挟撃戦を展開した。

 日本軍はオルモック渓谷に移動を命じられたが、多くが栄養不足で餓死あるいは病死した。オルモック市は12月10日にアメリカ軍は入城して、オルモックが解放された。アメリカ軍の侵攻は西と北の両方向に加速して、11月下旬にレイテ渓谷の南側の線に沿って、12月6日にはブラデンに10マイル以内まで接近した。アメリカ軍は、12月24日に、パロンポン付近に上陸し、正午までに町をアメリカ軍が占領した。レイテ島の戦いの日本軍の組織的抵抗の実質的に終結した。




2022年4月17日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争て、2022年4月11日にキエフ州のアンドリブカ村の自宅近くの浅い墓から夫の死体が掘り起こされ、検死した民間人の妻が慟哭して倒れかかった。

ロシア・ウクライナ戦争において、2022年4月11日にキエフ州のアンドリブカ(Andriivka)村の自宅近くの浅い墓から夫の死体が掘り起こされた。その掘り起こされた夫の死体を検死して、その民間人の死体の妻が慟哭して倒れかかった。アンドリブカ村には、ロシア・ウクライナ戦争前に約2,000人の住民が居住していた。ロシア軍が、ウクライナの首都キーウを占領するために、アンドリプカ村は、約1か月にわたる北部の攻撃中に、ロシア軍の侵略によって占領された。

 男性住民らの死体は、彼らの仲間のウクライナ人によって掘り起こされて新たに埋葬された。村人たちは彼らはロシア軍に殺害されたと述べた。死体を回収するために、民家に黄色いマークが貼られ、警察が隊員を率いて、浅い墓から死体を掘り起した。そして、親族が身内の死体を目前にして、検死した。ある住民は、死体はただの残骸で、愛する人はもういないのだと冷静に諦める。ある住民は、まるで死体の眠りを覚まそうと、突発して死体に触ろうとした。

 4月11日月曜日、首都キーフの西33kmにあるアンドリブカにて、夫であった私服姿の男性のユーリイ・クラフチェンニャ(Yuriy Kravchennia, 46歳)が庭から掘り出された。大破した廃墟の家の外で、彼の死体が地上に引き上げられた。その廃墟の中から、妻のオレーシャ(Olesia)が苦悶の声を上げた。妻は庭の柵から覗き込むと、オレンジと茶色のストライプのセーターを着た夫の死体が、土の中から足から引きずり出されたのを見た。夫の死体は段ボールで覆われて、顔は不気味な薄緑色になっていた。妻のオレーシャは駆け寄り、足がすくんでしまい、隊員に死体まで誘導された。夫のユーリイは両手を上げて、降伏した状態で路上で撃たれたようだ。妻のオレーシャは「私は耐えている。頑張る。夫がいなくなって41日目、私は泣いていた。夫がいなくなって41日目ですが、今も泣いています。」ウクライナ当局によると、首都周辺で1,200体以上の遺体が発見されていた。ロシア軍は、死体を埋葬した場所に穴を掘って土を捨てたが、は弾薬箱が散乱していた。アンドリプカ村では、夫の死体は4月11日のうちに7体目となった。













Warning: DITORS NOTE: Graphic content / TOPSHOT - on April 11, 2022. Sergei / CNBC Supinsky | Afp | 

2022年4月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂後に2〜3ケ月後に、広島駅構内には近隣の町村から広島市内に参集して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々や被爆者も集結した。

1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂した。爆心地から約1.9kmの広島駅構内は、原子爆弾による火災で全焼した。多くの乗客が駅舎やホームで被爆した。広島原子爆弾の投下して炸裂後に、広島駅周辺は焼け野原となった。広島市には大規模な守備隊があり、原子爆弾により広島城の練兵場で演習していた約3,243人の日本軍兵士が被爆死して、日本軍兵士は広島鉄道駅で救護された。

 広島駅ホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、東練兵場(現在の光町)の方に走って逃げた。まるで阿修羅のような惨状が繰り広げられた。まさに亡霊のような姿でトボトボと歩いて鉄道寮の方に向かった。途中、東練兵場の中には足の踏み場もないほど多くの被爆者が横たわっていた。火傷をした被爆者や負傷をした被爆者、中には裸同然の人など、地獄さながらの様相であった。「助けてくれ・水をくれ」と叫び通行人にとりすがった。

 近隣の町村から広島市内に急行して、救援・救護活動を行った地元日本軍兵士や救護員などの人々が集結した。アメリカ軍により1945年10月か11月に広島駅構内の写真は撮影された。広島駅の待合室は倒壊して、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡から、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒約20人を含めて約78人の死体が発見され、駅職員も約11人が死亡した。  

 広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかり、全線が不通になった。入換機関車を使用して客車を引き抜いて本線を開通させる復旧作業をした。広島駅の本館は鉄筋建築であったため焼失はまぬがれたが、そのほかの詰所はほとんど焼失した。8月6日12時頃に、広島駅の裏線から避難列車第一号が発車し、夕方5時頃にも山陽本線の上りに避難列車が発車した。鉄道は、原爆投下当日の8月6日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた。復旧作業も早急に進められ、8月7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線、8月8日は幹線の山陽線、8月9日には広島県北部地域をつなぐ芸備線が開通した。そして、8月18日には広島市郊外をつなぐ可部線が全線開通した。壊滅的な被害を被った市内路面電車も8月9日には一部区間(西天満町〜己斐)で片側運転が始められた。




2022年4月15日金曜日

アルジェリア戦争にて、フランス軍が民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討し、虐殺したアルジェリア人の死体を踏み気取った。

アルジェリア戦争において、フランス軍部隊がアルジェリアの民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討した。フランス軍兵士は、虐殺したアルジェリア人の死体を踏みつけては気取っていた。捕虜にして無抵抗なアルジェリア人を強制連行した。 

 アルジェリア戦争は、アルジェリア独立戦争とも呼ばれ、フランスからアルジェリアが独立するための戦争(1954-62年)であった。アルジェリア独立運動は第一次世界大戦(1914-18)中に始まり、第二次世界大戦(1939-1945)後に、フランスが約束したアルジェリアの自治権拡大を実現しなかったため、独立運動が勢いづいた。1954年に、民族解放戦線(FLNは、フランスに対してゲリラ戦を勃発した。アルジェリアの主権国家を樹立するために、国連に外交的承認を求めた。アルジェリアの戦闘員は国境沿いを中心に活動した。最も深刻な戦闘はアルジェとその周辺で行われた。FLNの戦闘員はアルジェの戦い(1956-1957)として、一連の激しい都市攻撃を開始した。フランス軍(約50万人にも増員)は、残忍な虐殺手段で何とか支配権を取り戻した。この戦闘の激しさはフランス軍の紛争継続への政治的意思を失わせた。1959年に、シャルル・ド・ゴールは、アルジェリア人は自分たちの将来を決める権利があると宣言した。独立に反対するフランス人やアルジェリア人によるテロ行為や、フランス軍の一部によるフランスでのクーデター未遂などがあった。フランスと1962年に協定が結ばれて、アルジェリアは独立した。

 アルジェリアには、民族主義政党は長年存在したが、独立を達成できず、次第に過激派になった。第二次世界大戦前には、アルジェリア人民党が設立されたが、1930年代後半に頓挫して、1940年代半ばに民主的自由を目指す運動(MTLD)に代わった。より過激な準軍事組織である特別組織(OS)もほぼ同時に結成された。1950年に植民地警察に発見されて、多くの指導者が投獄された。1954年に、元OSのメンバーがMTLDから分裂し、統一と行動の革命委員会(CRUA)を結成した。この組織は、軍事行動に備えて、後にFLNとなった。

 フランスは1830年に北アフリカのアルジェリアに侵攻して、1848年にフランスの一部として宣言した。多くのフランス人がアルジェリアに移り住み、ピエ・ノワールと呼ばれる集団を形成して、大多数のイスラム教徒であるアルジェリア人よりも優れた生活環境であった。第二次世界大戦を経て、インドシナ半島でフランス軍は敗退した。当初は平和的な独立運動を展開したFLNは、1954年に独立のための武装解放闘争を呼びかけた。フランスに独立を拒絶されると、軍や市民を標的にした連続攻撃を行った。アルジェリア戦争は、ゲリラ戦、民間人襲撃、テロ作戦からなる長い闘いであり、特に残虐な大量虐殺の闘いであった。1956年から1957年のアルジェの戦いで、FLNは紛争を都市部にも持ち込んだ。フランス軍と親派は、ますます攻撃的で暴力的な軍事弾圧で対抗した。

 フランス政府は何カ月も、アルジェリア情勢が制御不能であり、戦争に発展していた。1956年までに、アルジェリアには約50万人以上のフランス軍が駐留した。植民地時代の精鋭歩兵空挺部隊と外人部隊は、攻撃的な対反乱軍に対抗した。約17万人のイスラム教徒のアルジェリア人も、フランス正規軍であるハルキに所属した志願兵であった。彼らは、約30万人ものFLNのパルチザン部隊と、少なくとも4万人の民間人支持者と対決した。アルジェリア戦争は世界冷戦時代(1946-90)の数ある代理戦争となった。




2022年4月14日木曜日

1944年10月31日に、太平洋戦争のフィリピンの戦いで、レイテ島にて日本軍による迫撃砲で、アメリカ軍兵士が殺害されて戦死した。

1944年10月31日に、太平洋戦争のフィリピンの戦いで、レイテ島にて日本軍による迫撃砲で、アメリカ軍兵士が殺害されて戦死した。第34連隊の対戦車部隊のアメリカ軍兵士の死体が撮影された。第二次世界大戦中は、戦場からアメリカ国民に届く情報を注意深く管理した。1943年9月まで、アメリカ政府の戦時情報局の検閲官は、戦争におけるアメリカ軍兵士の死体の写真は、すべて掲載することを禁じた。その後から、士気を高める有利なプロパガンダの媒体として戦死者の写真を選定した。戦死したアメリカ軍兵士の撮影の多くが、英雄的イメージと合致しない多くの写真は差し止められた。第一次世界大戦中は、アメリカ政府はアメリカ軍人の死者の画像の公開を完全に禁止していた。

 アメリカ軍の下士官は、支給された衣服や物資が、General IssueまたはGovernment IssueであったためGIと呼ばれた。南北戦争や第一次世界大戦では、多くのアメリカ人は隣人らと一緒に入隊したが、対照的に第二次世界大戦のGIの多くは、最初は見知らぬ人たちだった。彼らはすぐに絆を築き、共に戦って生き延びた。元GIは、戦場で襲撃する理由は、愛国心や勇敢さではなく、特別なGI仲間の親近感により、GI仲間を失望させないためと述べた。死と隣り合わせの生活で、互いに依存し合い生きてきた兵士たちは、しばしば強い感情的な愛着を抱き、仲間意識は戦場の生命の基盤となった。

 戦場に送られたGIは、暴力と死が渦巻く悪夢のような世界に入った。第二次世界大戦の戦闘員は、かつてないほど強力な武力に見舞われた。戦場で敵と戦っている部隊の死傷者の発生率は非常に高くなり、時には3人に1人の割合で死傷した。第二次世界大戦は、戦闘による死亡が、病気や事故による死亡を、実際に上回った最初の戦争となった。アメリカ軍が被った約40万5千人の死者のほとんどは、第二次世界大戦の末期に、アメリカ軍がドイツ軍と日本軍に対して先陣を切って突撃したときに発生した。

 死にたくない、ショックを受けたGIの男たちが、戦場から丘の下に戻ってくる。死傷者から悪臭のするベッド、そして墓、墓、墓が戦場に乱立した。アメリカ軍水兵も、1943年11月初旬に、ブーゲンビル島沖でアメリカ海軍の戦艦モントペリアとその他の戦闘艦が、日本海軍と激しい戦闘を行って、最終的に日本海軍を撃破した。モンペリエの砲手は、日本軍の戦艦は、アメリカ海軍の大砲が炸裂する砲弾で覆われ、炎と赤熱した鉄の塊と化した。太平洋から逃げれない日本海軍の日本人水兵は、焙煎され、吹き飛ばされる恐怖の地獄の大量虐殺となった。




2022年4月13日水曜日

1941年にウクライナと接するドン川流域の若い兵士は、妻と子どもたちに別れを告げ、東部戦線のソ連軍のドン戦線部隊に合流した。

1941年に、ウクライナと接するドン川流域のの若い兵士は、妻と子どもたちに別れを告げて、東部戦線のソ連軍のドン戦線(Don Front)の部隊に合流した。東部戦線ではドイツ軍の侵攻から、最も悲惨な犠牲を伴ったクルクスの戦いに向けて、ソ連軍のドン戦線の部隊が参戦した。ドン戦線は、第二次世界大戦の東部戦線のドン川流域を示唆した赤軍の部隊で、1942年9月30日にスターリングラード地域に配置された。ドン川の支流は、ウクライナの中東端を流れるドネツ川である。1942年10月からドン戦線はスターリングラード北方を防衛して、1942年11月からドン戦線はドイツ軍に対して反攻に転じて、スターリングラード地区にて、約33万人のドイツ軍集団を包囲した。1943年2月2日に包囲されたドイツ軍は壊滅した。その後にソ連軍はドン戦線を解体して中央戦線を設置した。

 ウクライナと境を接するクルクスは、1941年秋に侵攻したドイツ軍に占領された。さらに1943年2月にはソ連の赤軍がクルクスを奪還した。1939年当時は約12万人であった人口のクルクスは、クルクスの攻防戦でほとんどが崩壊して犠牲となった。1943年夏には、約100万人ものソ連軍が、クルクスの戦いに参戦した。クリクスからウクライナへと起伏が繋がる広原で悲惨な大量虐殺の戦闘が繰り返された。

 1941年のクルクスの緒戦では、ドイツ軍とソ連軍の両軍で約600万人が激突した。戦線は、約2年間にわたり泥沼化して膨大な人命が犠牲となった。1943年には、東部戦線の犠牲者は、両軍で1,100万人も超えた。クルクスの緒戦の半年間の1941年12月までに、ソ連軍は約450万人が戦死した。ウクライナでは数週間のキエフの戦いだけで、ソ連軍は約70万人が戦死・行方不明となった。

 クルクスの戦いは、両軍ともに敵の全ての存在を消し去るのが目標となった。ソ連は東部戦線で約22,700万人もの甚大な犠牲を伴った。大量の市民が、飢餓、病気、強制連行、虐待、虐殺の犠牲となった。ソ連軍の戦死者は、約800万人にも達して、ソ連軍は、兵士の人命を大量生産して、赤軍にさらに総計で約3,000万人も投入を繰り返した。

 1918年にソ連が成立してから1921年の内戦期には、飢餓と病気が蔓延した。1932年から1933年にかけた飢饉で、約700万人が犠牲となった。1932年からのソ連は、集団農業、粛清、強制労働などで約1,500万人が犠牲となった。祖国に虐待と虐殺されたのに、祖国のために犠牲となった兵士や民間市民らは、矛盾した愛国心の犠牲となった。




2022年4月12日火曜日

サイパン島の戦いで、サトウキビ畑で潜伏した日本軍兵士は、四方から取り囲んだアメリカ軍兵士により殺害され、死体が散乱した。

サイパン島の戦いで、サトウキビ畑で潜伏した日本軍兵士は、四方から取り囲んだアメリカ軍兵士により殺害された。その死体が、サトウキビ畑に散乱した。サイパン島、テニアン島、ロタ島、グアム島などのマリアナ諸島は、1899年にドイツがスペインから買い取りドイツ領であった。第一次世界大戦後は日本の委任統治領となった。1922年に南洋庁が開設されて、サイパン島は南洋興発と開拓民により島内全域が開発されて、マリアナ諸島には多くの邦人が居住して、サトウキビ畑が広がった。太平洋四カ国条約により一切の軍備は禁止された。太平洋戦争からアメリカ軍の反撃が開始後に、大本営は1943年末に、マリアナ及びトラックなどの中部太平洋方面の防衛強化を計画した。アメリカ軍が来襲時に、サイパンにあった日本軍兵力は、約40,000人が所在した。アメリカ軍のサイパン攻略の命令は、3月11日に発令された。上陸要員は陸海合わせて約67,451人で、支援する艦艇は535隻であった。6月11日からマリアナの各島には猛烈な砲爆撃が繰り返された。

 1944年6月15日早朝に艦砲射撃の後に、アメリカ軍兵士約2万人がサイパンに上陸した。水際での激しい攻防戦が行われたが、武力にて圧倒するアメリカ軍が次第に日本軍を圧迫して、陣地と拠点を確保した。日本軍兵士はサイパン島内の各所に潜伏して、夜襲を反復して、抵抗戦を展開しながら、次々と全滅する玉砕をした。徐々に人員数を減らしながら日本軍兵士と民間人は北部に追い上げられた。6月20日に日本軍はマリアナ沖会戦に惨敗、大本営は24日に奪回の中止を決めて、マリアナ諸島を見捨てた。

 サイパン島の戦線は錯綜して、各所で接近戦を展開して、7月6日に日本軍司令部は北部の地獄谷に移って、最後の総反撃を下命して、幹部は洞穴内で自決した。アメリカ軍からバンザイ突撃と呼称された最後の総攻撃が7月7日から始まり、その突撃には多くの民間人も混じった。生存した日本軍兵士は7月8日にも頑強に抵抗を続けて北上した。7月9日にアメリカ軍はマッピ岬まで制圧して、日本軍側の組織的な戦闘は終結して、サイパン島を占領した。アメリカ軍の戦死と行方不明は約3,551人で戦傷者は約13,061人であった。日本軍は約23,811人が戦死して、そのうち約5,000人が自殺により自決に至った。捕虜は約736人で、民間日本人の死者は約8,000人であった。




2022年4月11日月曜日

ワルシャワ・ゲットーにて、1941年9月19日に歩道で死んでいくユダヤ人の子供が倒れて、路上を通り過ぎる通行人は、餓死する子供には無関心であった。

ワルシャワ・ゲットーにて、1941年9月19日に歩道で死んでいくユダヤ人の子供が倒れていた。路上を通り過ぎる通行人は、餓死する子供には通例であり無関心であった。小さな貧乏な子供は、横丁の歩道で、もう自分で体を起こすことができなかった。通行人は立ち止まらなかった。このような子供があまりにも多かった。

 ワルシャワのゲットーを撮影したのは、第二次世界大戦中のドイツ軍軍曹であったハインリッヒ・ヨーストであった。ヨーストは1940代前半、ランゲンロンスハイムのホテルの支配人だったが、第二次世界大戦中に、ドイツ軍に召集された。1941年9月19日に、彼の誕生日にヨーストはワルシャワに駐屯していた。その日に、彼はワルシャワ・ゲットーの壁の向こうで何が起こっているのか見てみたいと思い、ローライフレックスカメラを持ってゲットーに入った。ゲットーに入ったヨーストは、ゲットーの生と死のあらゆる側面を140枚の写真を撮影した。1982年に彼は雑誌シュテルン(Der Stern)の記者ギュンター・シュヴァールベルク(Guenther Schwarberg)と出会い、彼の取材を受けて、初めて1988年に彼の写真の一部が出版された。

  ユダヤ人はゲットーにわずかな身の回り品しか持っていくことが許されず、その間に家や財産を奪われた。ゲットーは非常に混雑しており、基本的な電気や衛生のインフラがない。配給される食料はゲットーの住人を養うには不十分で、ドイツ軍は密輸業者に対して公開処刑や私刑などの残忍な手段をとった。飢餓はますます深刻になり、多くの住民が病気になったり死んだりした。1940年11月に、ナチス・ドイツ当局によって占領下のポーランドの新総督府領域内に設置された。最盛期には約46万人ものユダヤ人が収容され、面積は約3.4 km2、1部屋平均約9.2人、わずかな食料配給でかろうじて生活した。ワルシャワゲットーから、ユダヤ人はナチの強制収容所や大量殺人センターへ強制送還された。

 ナチス・ドイツの飢餓計画により、第二次世界大戦中にソ連・ウクライナなどから食糧を奪い、ドイツ軍兵士や民間ドイツ人に供与した。ギリシャの約30万人以上の餓死)やポーランドなどドイツ占領下のヨーロッパ地域にも飢餓の影響を及ぼした。ポーランドでは特にワルシャワ・ゲットーにいたユダヤ人が最も苦しんだ。1941年半ばまでに、ドイツ人に割り当てられた約2,613キロカロリー配給だけが、一日のカロリー摂取の必要を完全に満たした。ポーランド人は699キロカロリー、ゲットーのユダヤ人は184キロカロリーのみ受け取った。ユダヤ人の食糧は人間の1日の必要量のわずか約7.5%のみで、ポーランド人はわずか約26%を給付されたのみであった。




2022年4月10日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ首都キーウから北西約37kmのブチャの路上で、私服姿の約20人の死体が発見された。

ロシア・ウクライナ戦争において、ウクライナ首都キーウから北西約37kmのブチャの路上で、私服姿の少なくとも約20人の死体が発見された。ロシア軍との激しい戦闘があったウクライナのブチャの町で、ロシア軍に殺害された私服姿の男性の死体が路上に散乱していた。キエフ近郊のブチャでは、ヤブルスカ通りに少なくとも約20人の死体を数えた。死者20人全員が後頭部を撃たれていた。約20死体のうち約16死体は歩道か路肩に横たわった。3人は道の真ん中に倒れて、もう1人は家の中庭で倒れた。少なくとも1人は後ろで両手を縛られ、両手を白い布切れで後ろ手に縛られた人の隣には、ウクライナのパスポートが置かれた。ブチャでは、砲撃に遭ったアパート群から穴が開き、つぶれた車が通りに散乱した。ブチャの町では、ロシア軍の侵攻により約280人が集団墓地に埋葬された。衛星画像では既に310日頃から、すでに埋葬の塹壕が掘られた。

 ロシア軍は、2022224日から北のベラルーシから首都キーフに侵攻した。ブチャの町は約5週間にわたり、ほぼ絶え間なく続く銃撃戦に330日まで耐えた。ウクライナ軍は悲惨なブチャの町を42日に奪還した。ロシア軍はブチャにいる間、地元住民が身元を明かす白い腕章を着用を要求した。虐殺された住民は後ろで両手を白い布切れで縛られた。ウクライナの別の場所でも、民間人の死体も認めた。ミリアとミラの村の道路沿いで、ウクライナ軍兵士の合計約13の死体も認めた。ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領は、ロシア軍の大量虐殺(genocide)の戦争犯罪を訴えた。

 ロシア政府は、ロシア軍による民間人犠牲者は、一貫して全面的に否定した。ロシア軍は、特別軍事作戦を実施して、民間地域ではなく軍事施設を標的にたと述べた。ロシア軍が3月30日に撤退する前に、キエフ地域周辺の民間人に452トンの人道援助を提供したと喧伝した。ロシア軍がキエフ周辺から、急速に撤退して、224日のロシア軍の侵攻が勃発して、首都キーフ周辺の全地域が奪還された。ロシア軍の侵攻により、激しい戦闘で数千人が死亡し、少なくとも約400万人以上のウクライナ人が難民となった。














Warning: the streets of Bucha, April 2, 2022. REUTERS/Zohra Bensemra

2022年4月9日土曜日

ひとりの広島原子爆弾の被爆者は銀行の地下1階に横たわり、火傷した左前腕と手指で、書類を眺めて、周囲には棒きれの箸と茶碗が置いた。

ござとむしろの上に、布毛布をかけて、ひとりの男性被爆者が横たわっていた。火傷した左前腕と手指で、周囲の書類をつまんで眺めていた。被爆者の周囲には、棒きれの箸と茶碗が置いていた。1945年9月中旬に、アメリカ海軍が広島市内の臨時収容所内部の地下1階で、被爆者を撮影した。広島市内上流川町(現在中区胡町)の日本勧業銀行広島支店の収容所にて、アメリカ海軍が撮影した。但し、日本勧業銀行広島支店の収容所は、宇品の陸軍船舶司令部は8月12日に引き揚げている。第二総軍の本部が焼けて治療室がないため、重症の被爆者はどこかほかの救護所へ移送された。

 日本勧業銀行広島支店は、1931年4月に鉄筋コンクリート造の新しい本店が竣工して移転した。アメリカ風のRC造3階建て地下1階の建物であった。中国新聞社の東隣りで、1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約940mに位置した上流町の日本勧業銀行広島支店(3代目本店)は外郭は維持されたものの内部が全焼し、勧銀全体で32名の犠牲者を出した。

 広島原子爆弾の被爆当日の8月6日から、日本勧業銀行広島支店は、広島市の受託銀行として援護資金を融資して、戦後も長く勧銀広島支店、1971年から第一勧業銀行広島流川支店として使用された。1972年には八丁堀の広島支店に統合された。店舗は廃止されて、清水組広島支店などに利用された後に、1980年に解体された。




2022年4月8日金曜日

沿岸道路虐殺事件は、テルアヴィヴ海岸沿いの高速道路のバスが、PLOにハイジャックされ、テロリスト11人は射殺され、38人のイスラエル民間人が虐殺され76人が負傷した。

沿岸道路虐殺事件は1978年3月12日に、ハイファ・テルアヴィヴ海岸沿いの高速道路を走行していたバスが、アラブ人PLO(パレスチナ解放機構)のテロリストにハイジャックされた。2人を除くテロリストの11人全員は射殺された。搭乗していた約30人の乗客も殺害された。13人の子供を含む38人のイスラエルの民間人が虐殺されて、76人が負傷した。

 1978年3月9日に、18歳の女性ダラルムグラビを含むファタハ出身の13人のパレスチナ人のフィダーイーが、イスラエルの海岸に向かうボートに乗ってレバノンを出発した。ボートは荒天で1人の干支が捕られ、2人の過激派が溺死した。生存した11人は、4車線の高速道路まで歩いて、通過する車に発砲し、タクシーをハイジャックして乗員を殺害した。テル・アビブに向かってタクシーで海岸高速道路に沿って、エグド・バスの運転手と家族が乗っていたチャーター・バスをハイジャックした。パレスチナ武装勢力は、乗車中に通過する車両に発砲し、手榴弾を投げ、少なくとも1人の乗客の死体をバスから投げ捨てた。テロリストは、テルアビブからハイファに向かうバス901番を徴用し、最初のバスから乗客を強制連行して乗せた。イスラエル警察の道路封鎖によって、バスはようやく止められた。銃撃戦が勃発して、警察はバスの窓を割って乗客に飛び降りるよう叫び、バスは爆発して炎上した。手榴弾により、燃えた燃料タンクが爆発した。

 パレスチナの過激派指導者アブ・ジハードが主導した。1959年にジハードが設立したパレスチナ民族主義政党であるファタハによってテロが実行された。過激派は、当初のテロ攻撃は、イスラエルの都市テルアビブにある高級ホテル観光客や外国大使を人質にして、イスラエルの拘留中のパレスチナ人の囚人と交換を要求した。1973年4月にレバノンにおけるパレスチナ人のテロ襲撃は、イスラエル軍に殺害されたパレスチナ解放機構(PLO)の作戦指導者のカマル・アドワンにより、ハイジャックを殉教者カマル・アドワン作戦と名付けた。 

 ファタハの幹部は、イスラエルのメナヘム・ベギンとエジプトのアンワル・サダトの間の和平交渉を打ち砕き、イスラエルの観光部門の損害を目的として、沿岸道路虐殺事件を引き起こした。ナビゲーションエラーのため、攻撃者は標的の北約64kmに到達し、目的地までの代替輸送手段を余儀なくされた。沿岸道路虐殺事件に対応して、イスラエルは3日後に レバノン南部のPLO基地に対してリタニ(Litani)作戦を開始した。沿岸道路虐殺事件から3日後の1978年3月14日から3月21日まで、イスラエル軍はレバノンのPLOを報復するために、レバノン南部に大規模な侵攻をした。リタニ川以南のPLOの拠点を破壊し、イスラエル北部の治安を回復させた。リタニ作戦でイスラエル軍は、約18人が死亡して約118人が負傷した。PLOは、300人から500人が死亡した。




2022年4月7日木曜日

南京を侵略した日本軍車両のトラックが南京の路上を通過した。その道路脇には、虐殺されて倒れた南京市民の死体が散乱していた。

日本軍が、1937年12月13日に南京を占領した後から約3週間にわたり、日本軍は南京安全区に入り、難民に紛れた元中国兵を探した。多くの罪のない男性が誤認されて、殺害された。南京を侵略した日本軍車両のトラックが南京の路上を通過した。その道路脇には、虐殺されて倒れた南京市民の死体が散乱していた。日本軍の従軍記者が撮影した南京市内にて、戦争犯罪を立証する虐殺の一部が撮影されていた。南京大虐殺では、数千人の日本兵が南京の街に押し寄せ、規律を失った兵士たちが暴れまわり、街を焼き払い、殺し、略奪した。千年の都、南京は生き地獄と化した。

 李錬三郎は、南京が陥落した1937年12月13日から6から7週間は、銃創の症例が南京大学の病院に入り続けたと証言した。B.キャンベルは、南京大虐殺は、日本軍は戦闘に確実に勝利したが、南京戦の余波で住民が大量に虐殺され、ジェノサイドであると述べた。ジャン=ルイ・マルゴランは、捕虜だけが組織的に処刑されて、民間人を標的にすることは散発的であり、個々の虐殺行為は命令なしに行われたために、南京の虐殺はジェノサイドとみなさないと述べた。

 ジョン・ラーベは1937年12月13日に日記に次のように記述した。南京市街を見て回るまでは、破壊の程度を知らなかった。約100メートルから200メートルごとに死体に遭遇した。民間人の死体には、背中に弾痕があった。逃げ惑って後ろから撃たれた。日本軍は約10人から20人の兵士集団で南京市内を行軍して、商店を略奪した。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも略奪していた。ヘンペルのホテルにも押し入り、中商と太平路の全店にも押し入った。

 1938年2月10日に、ドイツ大使館のローゼン公使は次のように報告した。ジョン・マギー牧師が1937年12月に南京虐殺の記録映画を撮影して、その購入を勧める手紙をドイツ外務省に送った。日本軍が南京を恐怖のどん底に陥れ、アメリカ聖公会伝道部のジョン・マギー牧師は、日本軍が行った南京虐殺の記録映画を撮影した。12月13日に、約30人の日本軍兵士が南京の南東部にある興梠区5番地の中国人宅にて、ドアを開けた夫を即座に銃殺した。なぜ夫を殺したのかと日本軍兵士に尋ねた夫人も銃殺した。

 2009年2月5日に、日本の最高裁判所は、東中野修道と出版社の天電社に対し、マギー監督の映画に登場する約7から8歳の少女と名乗る夏淑琴夫人に対して、約400万円の損害賠償を支払うように命じた。東中野修造は著書『南京大虐殺徹底検証』の中で、彼女と少女は別人であり、南京大虐殺の目撃者ではないと主張していたが、最高裁でこれを証明できなかった。海軍の三谷翔は、陸軍は『逃げる中国人は皆殺し』という意味のラッパ音を使った。長さ約300m、幅約5mの一万屍溝と呼ばれる掘割で、数千人が連行されて集団処刑された。この溝に埋められた犠牲者の数は、記録が残っていないが、約4,000人から約20,000人までと推定された。