2022年3月17日木曜日

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。都市や道路には、食べ物を求めて村を去った途上で、人々の死体が散乱した。写真は、1933年にオーストリアのエンジニアであるアレキサンダーウィーナーバーガーによって密かに撮影された。大飢饉により共食い、無法、窃盗、私刑の執行、田舎に集団墓地が掘られた。ウクライナ人の抗議活動は、ソ連の秘密警察(GPU)と赤軍によって弾圧された。膨大な農民が反ソ連活動として逮捕され、銃殺されたり、強制労働収容所に送還された。

 ホロドモール(Holodomor)は、ウクライナ語のhold(飢饉)とmor(死)に由来して、1932年から33年に発生したウクライナの大飢饉の名称である。ロシア革命と第二次世界大戦の間に起こったホロドモールは、ソビエト連崩壊のわずか数年前まで、ソ連政府によって否定された。西側諸国は1980年代になって、ウクライナ大飢饉をスターリン政権による人災と捉えた。1980年代の最初の調査から、国勢調査やソ連の記録などが分析されるも結論は出ていない。ウクライナの大飢饉の餓死は、約300万人から約1400万人と異なる。ヨシフ・スターリン政権のウクライナ人に対する武器としての大飢饉が焦点となっている。現代のウクライナでは、ホロドモールを虐殺行為と定義したが、現在のロシアは歴史の視点に反対している。

 1929年に、ソ連共産党のスターリンは農業の集団化を加速させた。ソ連は、集団化によりウクライナの豊富な穀倉を支配した。穀物危機が起因であったが、工業化の過程で資金を調達し、農村を支配する手段を強要した。ウクライナから約200万トン近い食糧を輸出し、生き延びるわずかな食糧も引き離した。ウクライナの人々が他の地域に避難することも禁じた。食料もなく、逃げることもできず、ただ死を待つしかなかった。恣意的に選ばれた農民が収奪され、遠隔地へ追放された。集団化に抵抗する者は、強制収容所に入所や銃殺された。農民たちは、1931年末までは、家畜を屠殺し、穀物を隠した。1932年から33年には、大飢饉が起こった。ソ連政府は有効な対策を講じなく、ウクライナなどの穀倉地帯で、何百万人もの餓死者が出た。




2022年3月16日水曜日

シリアのアサド政府軍の攻撃により、アレッポにて反体制派が腹部を銃撃されて、大量出血して、救護所に搬送された後に死亡した。

中東のシリア北部の反体制派が占領する都市であるアレッポに対して、シリア政府軍が無差別の空爆の標的になった。都市から、シリア住民は難民となって脱国していた。2014年5月25日に、アサド政府軍と反体制派が、アレッポ市街にて猛烈な掃討戦が勃発した。入り乱れた壮絶な戦闘が勃発した。反体制派の兵士が、アサド政府軍の攻撃により、腹部を銃撃されて、大量出血して、救護所に搬送された。怖いと弱音を呟きながら意識を消失した後に死亡した。アラ−以外の神はなし。ムハンマドはアラ−の使徒なり。イスラム教徒の兵士は、アラ−の神への忠誠を誓いを繰り返した。その死体は、アレッポからシリアの故郷のブズガル村に搬送されて埋葬された。死体と面会した家族は、泣き崩れた。シリアでは、殉教してまでアサド政権と対抗する反体制派から、シリアの故郷を追われる民間市民が続出した。

 シリア政府軍によるアレッポ攻勢は、2016年11月15日から12月22日にシリア軍と同盟国軍が、アレッポの反政府軍が占領する地域に対して軍事攻勢した。ロシア軍によるシリア北西部全域の反乱軍拠点に対する激しい空爆と巡航ミサイルの攻撃を行った。シリア政府軍は、アレッポ東部と南部の反体制軍の支配地域のすべてを制圧して、残りの反体制派軍を撤退した。約600人以上の民間人を含む約1,200人が、アレッポ市内の反政府軍支配地域で死亡した。約149人はシリア政府軍の支配地域に対する反政府軍の砲撃によって死亡した。

 シリア内戦(Syrian civil war)は、2000年に死去した父ハフェズの後を継いだアサド大統領もとで、内戦が始まる以前から多くのシリア人が高い失業率や汚職、政治的自由の欠如に不満を抱いていた。2011年3月、南部の都市デラアでは、近隣諸国での抑圧的な支配者に対するアラブの春に触発されて、民主化を求めるデモが発生した。シリア政府が反対派を鎮圧するために虐待と虐殺を行使すると、大統領の辞任を求める抗議デモがシリア全土で発生した。不安は広がり、弾圧は激化した。反対派の支持者たちは、最初は自衛のために、後には治安部隊を排除するために武器を手にした。暴力は急速にエスカレートし、国は内戦状態に陥った。何百もの反政府勢力が立ち上がり、内戦がアサド氏を支持するかしないかというシリア人同士の戦い以上に拡大した。外国勢力は資金、武器、兵士を送り込み、混乱が悪化するにつれ、イスラム国(IS)やアルカイダなど独自の目的を持った過激派ジハード主義組織が関与した。自治権を求めアサド軍と戦ったシリアのクルド人は、内戦に新たな自治地域をもたらした。

 国連は2011年3月から2021年3月までに少なくとも約35万209人の民間人と戦闘員が殺害された。約26,727人の犠牲者が女性で、約27,126人が子どもである。シリア人権監視団(SOHR)は、2021年6月までに約49万4438人の死亡を記録した。約15万9774人の民間人が死亡して、その大半はシリア政府と同盟国に起因した。シリア内戦の犠牲者は約60万6000人以上と推定し、約4万7000人の民間人がアサド政権の刑務所での拷問で死亡した。暴力文書センターでは、2022年2月時点で、民間人は約14万4956人を含む約23万8716人の戦闘関連の死者を記録した。そのうち約165,490人がシリア政府軍、約35,610人が反体制派による死者であるとした。




2022年3月15日火曜日

ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストらの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、犠牲者の死体などが散乱した。

1919年のベルリン3月闘争(Berlin March Battle)は、1918年から1919年のドイツ革命の最後の決定的な局面で勃発した。ナチスへと由来するドイツ義勇軍は、勝利の後にしばしば捕虜に大規模な殺戮が行われた。ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、衛生チームによる犠牲者の死体などが除去された。ベルリン労働者階級は、によるゼネストの結果であり、主要産業の社会化、労働者評議会と兵士評議会の法的保護、軍隊の民主化を実施するゼネストを執行した。ストライキ活動は、準軍事組織であるドイツ義勇軍の暴力に直面した。ベルリンのアレクサンダー広場とリヒテンベルク市周辺で、街頭戦闘と掃討戦が勃発した。スパルタクス派の蜂起が、1919年1月5日から1月12日にかけてベルリンで起こったゼネストと武装闘争が勃発していた。1918年から19年のドイツ革命の間に、第一次世界大戦の退役軍人から成るドイツ義勇軍が準軍事的な民兵組織が育成された。

 ドイツ義勇軍が群衆の中を車で通り抜けるのを、ストライキ参加者が妨害した。ドイツ義勇軍は、すぐに装甲車や戦車で介入して、デモ群衆に発砲して大虐殺となった。特に人口の多いベルリン住宅地で、ドイツ義勇軍による無差別な大砲は、多くの死者を出した。リヒテンベルク警察官の殺害事件を、犠牲者を誇張して、警察官全員の処刑を命じたと偽情報を流布した。政府軍に反抗する闘争で、武器を手に捕った者は、その場で射殺した。銃撃を受けたと称して無差別に住宅を攻撃し、地域が砲撃と空爆で完全に廃墟と化した。

 3月3日に、ニグスドルフAEGの労働者は、1918年12月にベルリンでドイツ帝国議会で承認された軍隊の民主化に関するハンブルク・ポイントを実施するために、ゼネストを決議した。ストライキは、ドイツ共産党とドイツ独立社会民主党の支持を得た。ドイツ政府は、ドイツ社会民主党の多数党の指導下に、国防大臣グスタフ・ノスケの命令で、政府軍によるベルリンとシュパンダウの包囲戦を実行した。スパルタシスト蜂起では、中立の立場であったフォルクスマリネディビジョンは、ストライキに武器を配給した。隊員が致命傷を負った後には、政府軍と戦闘を行った。ゼネストは3月8日に、リヒャルト・ミュラー率いるストライキ指導部の命令で終結した。労働者評議会との交渉の結果、ワイマール政府からいくつかの譲歩がなされた。ベルリン3月闘争は3月16日にノスケによる発砲命令が解除されて終結した。

 ベルリン3月闘争では約1200人以上の死者を出して、そのうち約75人は政府軍側であった。死者数は約2,000人から約3,000人とも推定された。政府軍当局による公式な集計はない。闘争による多くの流血は、ドイツ義勇軍司令官のヴァルデマール・パブストが、銃器を所持している者はすべて殺害する命令に起因した。その結果、ストライキに無関係だった多くの民間人や退役軍人が殺害された。その中には、虐殺された革命家ローザ・ルクセンブルクの元夫であった共産党指導者レオ・ヨギッチも含まれた。ベルリン3月闘争は、第一次世界大戦後のドイツの革命闘争の中で、最も血生臭い犠牲の一つである。























2022年3月14日月曜日

1968年8月20日からチェコスロバキアの首都プラハに侵攻したソ連軍の戦車に、チェコの旗をかけようとして、若いチェコスロバキア人が殺害された。

1968年8月20日からチェコスロバキアの首都プラハに侵攻したソ連軍の戦車に、チェコの旗をかけようとして、ソ連軍兵士に殺された若いチェコスロバキア人の死体が横たわった。チェコスロバキア人が、ソ連軍などのワルシャワ条約機構軍兵士を抗議と非難で迎え入れた。首都プラハなどでは、食糧や水の提供など、あらゆる援助をソ連軍などに対して拒否した。壁や歩道に書かれた看板やプラカード、落書きにより、ソ連軍の侵略者や指導者、協力者を糾弾した。プラハ市民はソ連軍兵士などに間違った指示を与え、道路標識さえも撤去した。ソ連軍と戦車の威嚇により、侵略に対する抗議は約7日ほどで鎮圧されて、レジスタンスは約8ヵ月間持ちこた。






















 8月20日午後11時頃に、約20万人近いソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア軍がチェコスロバキアに侵攻した。チェコスロバキアのデモ隊は直ちに街頭に出て、街路標識を壊し、侵略者を混乱させた。プラハでは、ワルシャワ条約機構の軍隊が、テレビ局やラジオ局を占拠した。ラジオ・プラハでは、ジャーナリストが放送局の譲渡を拒否して、約20人ほどが殺害されて、占領された。他の放送局も地下に潜伏して、数日間で放送は集結した。1968年8月21日に、プラハの街頭ではデモが続き、チェコスロバキアの旗を持ち、火炎瓶を投げるプラハ市民がソ連の戦車を止めようとした。ワルシャワ条約機構軍によって約100人以上が射殺された。約7万人ものチェコスロバキア市民は、一斉に西側へ逃亡した。




 

 







 チェコスロバキアの侵略は綿密に計画され、地上軍による国境越えと同時に、ソ連のスペツナズ任務部隊(GRU)がルジーン国際空港を早期に攻略した。私服姿の約100人以上の工作員を乗せたモスクワ発の飛行機が、エンジン故障のため空港に緊急着陸を要請して勃発した。空港を占領して、軍用輸送機が到着し、大砲と軽戦車を装備したソ連空挺部隊が着陸した。戦車や機動小銃部隊はプラハなどの主要都市に向かって、ほとんど抵抗を受けなかった。チェコスロバキア人民軍は指揮系統を持たず、ワルシャワ条約機構軍に完敗した。

 プラハの春(Prague Spring)は、1968年1月5日、改革派のアレクサンドル・ドゥブチェクがチェコスロバキア共産党(KSČ)第一書記に選出されて、政治の自由化と大衆の抗議行動が勃発した。それに対して、ブレジネフ書記長のソ連からワルシャワ条約加盟国が改革を弾圧するために侵攻した1968年8月21日まで継続した。チェコスロバキア 137人の民間人と兵士が殺害されて、約500人が重傷を負った。ワルシャワ条約機構軍は、ソビエト軍が約96人が死亡して、約87人が負傷して、約5人が自殺した。ポーランド 軍は約10人が死亡して、ハンガリー軍が約4人死亡して、ブルガリア軍が約2人死亡した。

2022年3月13日日曜日

サイパンの戦いで首都ガラパンの至る所に、アメリカ軍に殺害あるいは自死した日本軍兵士や民間人の死体と武器が散乱していた。

太平洋戦争にて、アメリカ軍はサイパン島の戦いで、中心部の首都ガラパンを侵攻した。アメリカ軍の猛烈な攻撃にて、1944年7月3日にガラパン町は崩壊して壊滅して荒廃して瓦礫が散乱した。ガラパンの町附近の砂糖黍畑から日本軍陣地を砲撃した。ガラパンの町では、猛烈に掃討する市街戦により、激しい戦闘が繰り広げられた。火炎放射器により、潜伏した日本軍兵士の家屋を焼き払った。日本軍の必死の抵抗にもかかわらず、侵攻はゆっくりだが着実に侵攻して約5日間でガラパンは陥落した。ガラパンの至る所に、殺害あるいは自死した日本軍兵士あるいは民間人の死体と武器が散乱していた。

 日本は1920年に、国際連盟から南洋委任統治領を獲得して、カラパンをマリアナ諸島の首都に選定した。南洋開発株式会社により、学校、病院、裁判所、銀行、新聞社、映画館、その他多くの公共建築物が建設され、ガラパンは急速に発展した。1930年代半ばには、ガラパンの人口は、日本人、朝鮮人、台湾人、沖縄人で主に構成されて約1万4千人に達して、南海の東京と呼称された。ガラパンの繁栄は、第二次世界大戦の 

 1944年6月15日に勃発したサイパンの戦いで、首都ガラパンは崩壊して何千人もの民間人も犠牲になった。アメリカ軍は、6月23日に戦線の中央部で日本軍の激しい抵抗に遭って、ほとんど侵攻が停止した。6月24日には、アメリカ軍は攻撃を再開して、限定的な侵攻して、日本軍の抵抗に対抗してガラパン郊外に到達して、カグマン半島を占領した。その頃から、日本軍は急速に勢力を失って、6月25日にはサイパンの戦いの敗北を悟っていた。6月27日には日本軍は中央の重要な防衛戦線を後退を始めて、アメリカ軍はタポチャウ山の頂上を占拠した。

 7月初旬には、日本軍にとりサイパン島が喪失したことは明白となった。7月6日に、日本軍兵士は最後のバンザイ突撃を命じられた後に、自決攻撃した。最後の組織的抵抗は7月8日から9日にかけて行われ、サイパン島の北端にあるバンザイクリフで、日本軍兵士と民間人が集結した集団自決で幕を閉じた。サイパンの戦いが集結したときに、日本軍兵士の死者は約23,811人を数え、捕虜はわずか736人であった。民間人は約8,000人以上が巻き込まれて犠牲となった。アメリカ軍側は戦死者約3,225人、負傷者約13,061人、行方不明者は約326人であった。サイパン島はすぐにアメリカの主要な爆撃基地となった。サイパン島の占領からわずか4ヶ月後に、最初のB-29が日本本土に向けて離陸して、大規模な爆撃作戦が開始された。




2022年3月12日土曜日

2002年8月22日に高濃縮ウラン約45kgの核兵器用ウランが、旧ユーゴスラビアのビチャ核科学研究所からロシアの国立原子力研究所に搬送された。

2002年8月22日午前1時すぎに、高濃縮ウランを搭載した輸送大型トラックが、旧ユーゴスラビアのセルビア・モンテネグロのベオグラードの高速道路上を、東方のロシアに向けて突っ走った。高速道路は、警官や特殊武装部隊が全面封鎖して、高濃縮ウランの運送を警備した。高濃縮ウランを載せた輸送トラックは、ヘリコプターならびに護衛の警備車に先導された。約45kgもの核兵器用ウランをユーゴスラビアの旧式の原子炉からロシアに搬送された。ユーゴスラビア軍に護衛されて、ベオグラードから約15km離れたビチャ核化学研究所から、秘密裏にベオグラード国際空港に搬送された。 



 



約45kgの核兵器用ウランで、濃縮度は約80%で少なくとも広島原子爆弾2個が製造できる。1999年にコソボ紛争が勃発して、ベオグラードはNATOにより空爆を受けていた。ビチャ核化学研究所は、1948年に設立されて核兵器開発が1987年で頓挫した。1970年代にロシアから購入した高濃縮ウランが、老朽化したビチャ核化学研究所に無防備で放置された。未使用の高濃縮ウランは、国際原子力機関(IAEA)が監査していた。旧ソ連下の濃縮ウランが管理が曖昧となり、拡散する危険性が高まった。

 2002年8月22日午前8時に、ベオグラード国際飛行場から、ロシア軍の輸送機でロシア中部のディミトログラード市に空輸された。ロシアのディミトログラード市にある巨大な核関連施設であるロシア国立原子力研究所に、運搬された。高濃縮ウランはIAEAとアメリカ側が立ち会って移管された。8基もの実験用原子炉があり、旧ソ連では核兵器の開発にも関与して、プラトニウムや高濃縮ウランを保管している。




 










  








 アメリカは、9.11テロ事件以後2002年からテロ攻撃に対して、核兵器の先制攻撃も提唱した。アメリカは、モスクワのロシア原子力省もと水面下で交渉している。旧ソ連から独立した東ヨーロッパ諸国には、旧ソ連製の高濃縮ウランが拡散して放置されている。ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタンに残存した高濃度ウランは、自国の防衛のために核兵器を製造できるように核物質の保存を継続している。9.11テロ事件やチェチェンテロ事件から、核テロリズムにより核物質の拡散を防止するために、アメリカは1990年代から世界に分布した核物質を回収していた。高濃縮ウランから低濃縮ウランに転換した。アメリカは、核大国であるロシアに対しても、核の不拡散を求めた。

2022年3月11日金曜日

コソボ自治州のブリズレンの病院に、1999年4月14日にNATOの空爆による誤爆により、虐殺されたアルバニア人の死体が収容された。

コソボ自治州のブリズレンの病院には、1999年4月14日にNATO(北大西洋条約機構)の空爆による誤爆により、虐殺された犠牲者の死体が収容された。その死体置き場(モルグ)の床には、6つの死体が白い袋に包まていた。死後硬直を来した死体の中から、黒い血液が大量に滲み出ていた。射殺ではなくて、空襲の誤爆による爆死であった。最も小さい白袋は、血まみれのわずか7歳の少女の死体を包み込んだ。虐殺された少女は、アルバニア人の難民であった。セルビアにて難民となり、NATOの誤爆に巻き込まれて虐殺された。

 コソボからマケドニア、アルバニア国境を越えて、セルビアまで逃げて来たアルバニア難民は、セルビアにて猛烈な虐待や虐殺を受けた。そのアルバニア人に対する虐待と虐殺が、NATOの空爆を強烈にして、アルバニア人難民が誤爆に巻き込まれて逆に虐待と虐殺された。アメリカ軍は、高速で飛ぶ戦闘機が、爆撃する誤爆は避けられないので、多数を救うためには、少数を犠牲にするのは当然とした。イギリス軍は、コソボ紛争で巻き込まれる市民の犠牲は、すべてユーゴの責任に転嫁した。ブリズレン地域は、NATOは確実に軍事目標と民間目標の鑑別は、当然に可能な天候と見晴らしであった。NATOの戦闘機は、3台の民間耕作機を軍事目標として爆撃した。ブレズレン地域は、至る所にミサイルの瓦礫が散乱していた。

 NATOによるコソヴォ紛争に対するユーゴスラビア空爆は、1999年3月24日から開始されて、6月20日まで約78日間にもわたり勃発した。NATOの空爆には、13ケ国が参戦して、約26,614個が投下された。NATOは国連の明確な指導を受けずに、ユーゴスラビアの弱小軍事力を圧倒した。ハイテクの爆撃機で空爆して、NATOはほとんど犠牲者は皆無であった。コソヴォで多数を占めるアルバニア人に対して、セルビア民族主義のユーゴスラビアから抑圧と弾圧された。1998年2月から、ユーゴスラビア軍とセルビア軍が、コソヴォに侵攻して、次第に紛争が激化した。9月23日に国連の安保理決議は、ロシアにより拒否された。

 NATOは9月24日に警告行動を発令し、コソヴォでアルバニア人の虐殺事件でユーゴスラビアに警告した。ロシアと中国の安保理決議の拒否権の発動に対抗して、10月13日にNATOは行動命令を発令した。コソヴォ紛争が再燃して、1999年1月15日にラチャク村虐殺事件が勃発した。3月19日にユーゴスラビアとアルバニアの和平協議が頓挫した。NATOは、国連は武力行使は支持しない声明を排除して、3月23日に空爆の開始命令を発令して、3月24日からNATO空爆が勃発した。

 NATOは1995年に軍事力によりボスニアを迅速に圧倒できた過信から、コソヴォ紛争に対する空爆が長期化する誤算を引き起こした。ユーゴスラビア側は、和平案を拒否続けた。逆にユーゴスラビアが、アルバニア人国外追放で反撃した。NATOの圧倒的な軍事力が、逆にセルビア人の大量虐殺に至った。軍事力による勝利で解決する戦争ではなくなった。NATOは勢力を東方拡大するために、バルカン全体の領土の確保を追求した。




2022年3月10日木曜日

ビルマのラングーン中央刑務所にて、大東亜戦争のカラゴン(Kalagong)事件の大量虐殺に対するBC戦犯の判決により、元日本軍将校の3人が銃殺刑による死刑を執行された。

1946年7月15日午前6時半ころに、ビルマのラングーン中央刑務所にて、カラゴン(Kalagong)事件に対するBC戦犯の判決により、元日本軍将校の3人が銃殺刑による死刑を執行された。1945年7月7日に、ビルマ東南部モールメン地方のカラゴン村で、女性と子供を含む約637人もの村民が大量虐殺された。カラゴン村の人口は約900人から1千人程度で、全員に尋問を行うも、ゲリラ容疑者を絞ることもなく、女性や子供も含めて大量虐殺した。ビルマにおける最大の民間人の大量虐殺事件として、イギリス軍によりBC級戦犯の裁判にかけられた。カラゴン事件では、6人の憲兵隊員が被告となり、実際の大量虐殺を執行した3人に有罪判決が下って銃殺された。

 大東亜戦争末期にて1945年7月7日に、日本軍第3大隊と憲兵隊がビルマ(現ミャンマー)のカラゴンの村民を大量虐殺した。日本軍と憲兵隊は、カラゴン村民は、イギリス軍の空挺部隊のゲリラとして掃討を命じられた。日本軍はカラゴン村を占拠して、村民を集めて、男性をモスクに、女性と子供を集会所に閉じ込めて、拷問と虐待を繰り返した。家屋を放火して、女性を拉致して、女性に強姦した。憲兵隊は、村人全員を虐殺するように命じられた。7月8日に村民を5人から10人のグループに分けられて、目隠して紐で結ばれた。近くの井戸に連行されて、銃剣で刺殺されて、井戸に死体が捨てられた。その死体は、約600〜1,000人と推定された。日本軍は一度はカラゴン村を離れたが、7月11日に再びカラゴン村に戻り、家屋に放火して約10人の女性を強制連行した。

 日本が降伏した後に、1946年3月12日から4月10日まで、イギリス・ラングーン軍事裁判所で、日本軍8人と憲兵隊6人の計14人が、カラゴン村の男女・子供の虐殺と、村民を虐待と拷問し、9人女性の誘拐を、BC戦犯の戦争犯罪として裁判にかけた。日本軍第3大隊の関係者は、大隊長が絞首刑、実際の処刑にあたった3中隊の隊長3名が銃殺刑を執行された。カラゴン事件の大量虐殺は、軍事的必要や上官の命令への絶対服従は、正当化さないと裁定された。




2022年3月9日水曜日

アメリカ軍が1991年2月13日にイラク首都バクダッドの西部アミーリア地区の民間人の防空壕を爆撃して、女性や子供の民間人約408人以上を大量虐殺した。

湾岸戦争にて1991年1月17日から、多国籍軍は砂漠の嵐作戦でイラクに爆撃を勃発した。アメリカ軍が1991年2月13日午前4時30分にイラク首都バクダッドの西部アミーリア地区の民間人の防空壕(Amiriyah shelter, No.25)を爆撃した。主に女性や子供の民間イラク人を少なくとも408人以上を大量虐殺した。煙が消えると、イラクの救助隊員が数百人の死んだ民間人を防空壕から連れ出した。防空壕では、約269人の女性と、多くのパレスチナ人、シリア人、エジプト人を含む、合計約408人が大量虐殺された。その後の数日間、事件はイラクのサダム・フセイン大統領のクウェートに対する軍事的支配を弱めたと国民的議論を煽った。アメリカ軍は、爆撃直後に民間人の防空壕は軍事通信施設であったと公表した。アメリカ軍は1991年1月17日にイラクに対する空爆が勃発していた。最初の爆弾が、厚さ約3mもの鉄筋コンクリートを引き裂いた。2発目が引き裂いた穴を追加して、地下防空壕で炸裂した。

 民間人の防空壕内で、大量に虐殺された民間人の女性と子供の死体が、地表に運び出されて散乱していた。ほとんどの死体は、見分けもつかないほど崩壊して、真っ黒に焼き焦げていた。猛烈な高熱を伴った死体から、周囲には悪臭が充満した。防空壕からは、焼き焦げた遺骨が散乱した。アメリカ軍による誘導ミサイルにより、ステルス戦闘機から約910kgもの爆弾の2発が民間人の防空壕を直撃して、内部は焼きただれた。爆弾は、屋上から突入して、空襲から逃れる地下のシェルターまで貫通した。民間シェルターは、スウェーデンの請負業者により設計された。スウェーデンは軍事施設の設計を請け負わない。通信施設の痕跡もなかった。核攻撃に対する耐久性は皆無である。民間人のイラク人女性と子供を無差別に巻き込んで大量虐殺した。爆撃の前後には、イラク軍は使用せず、民間人の防空壕であった。

1949年8月12日のジュネーブ諸条約の追加議定書で、国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関するもの(第1議定書)が、1977年6月8日に追加された。
   第52条 市民対象の一般的保護 1. 市民を、攻撃の対象又は報復の対象としてはならない。市民の対象物とは、軍事目標でないすべての対象物をいう。2. 攻撃は、軍事目標に厳格に限定しなければならない。目標に関する限り、軍事目標は、その性質、位置、目的又は使用により軍事行動に効果的に寄与し、且つ、その全部又は一部の破壊、捕獲又は無力化がその時の状況において 確実に軍事上の利益をもたらす物品に限らなければならない。3. 礼拝所、家屋その他の住居又は学校等の通常文民的目的に供される物件が、軍事行動に効果的に寄与するために使用されているかどうか疑わしい場合には、そのように使用されていないものと推定しなければならない。
















2022年3月8日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いで1945年2月17日に、アメリカ軍兵士が船艇上にて爆死して、吹き飛ばされた死体が甲板上で積み上げた空薬莢の残骸の中に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで1945年2月17日に、アメリカ軍の上陸用歩兵船艇(LCI(L)-449)は、水中解体隊の遊泳支援として援護射撃中に、硫黄島の日本軍からの激しい反撃で大きく損傷して制御不能に陥った。アメリカ軍の12隻の砲艦は、フロッグマンにより魚雷を破壊する活動を後方支援した。船艇の脆弱な船体に、日本軍の砲撃が炸裂して爆発した。アメリカ軍兵士が船艇上にて爆死して、吹き飛ばされた死体が甲板上の空薬莢の残骸の中に横たわった。積み上げられた空の薬莢に死体を預けていた。死体の周囲には、砲艦から砲撃するたびに、次々と空薬莢が排出されて、砲艦の内部に溜まっていた。うねる煙の下で、血と死の銅臭が漂った。

 砲艦にて弾薬が爆破して、アメリカ軍兵士の身体が吹き飛ばされた。アメリカ軍兵士の死体が、砲艦の至る所に転がって散在して血の海となった。甲板から炎上して、爆発して殺害された死体が燃え上がり崩壊して見分けがつかなかった。吹き飛ばされてはしごに逆さまにぶら下がっていた。ヘルメットと頭部も吹き飛ばされて、身体はその場に転倒していた。甲板上では、致命傷を追った負傷者の叫び声が響き渡った。上肢が吹き飛ばされて、上腕がぶら下がっていた。血と血糊があちこちに飛び散った。惨状を後始末するのに、死傷者を見下ろすアメリカ軍兵士たちでいっぱいだった。機雷層から数人が乗船して、死者と負傷者の除去を手伝った。デッキにホースで水をかけ、血や人の形をしたものを取り除いた。

 アメリカ軍は、硫黄島の戦いの上陸日に先立って、フロッグマンが水中で破壊工作をした。その後方援護にて、砲艦からロケット砲弾を硫黄島に向けて射撃していた。硫黄島の日本軍からの砲弾が、アメリカ軍の船艇(LCI(L)-449)を直撃して崩壊して、アメリカ軍兵士約20人が死亡して、約21人が負傷した。硫黄島に上陸後した2月16日から3月26日までの硫黄島の戦いで、約6,800人の死者を含む約26,000人のアメリカ軍兵士の犠牲者と、捕虜の生存者216人を除く約22,000人の戦死者を日本軍は犠牲者を出した。




2022年3月7日月曜日

レバノンでサブラとシャティラの大虐殺事件が勃発して、避難して来た義足の老人が虐殺されて、路地のくぼみに転落して絶命した。

ベイルートの難民キャンプで、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、サブラとシャティラの大虐殺事件が勃発した。避難して来た義足の老人が、虐殺された。老人の杖は離して、路地のくぼみに転落して絶命した。大虐殺は9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りで勃発した。午前5時頃に、10数人の民兵がある家に侵入して、家族を外に引き出した。夫や弟、甥をある家の前の壁に並べて、自動小銃を掃射した。虐殺されて崩れ落ちたところを、ナイフやバルタの手斧を持った民兵が襲い掛かって、とどめを刺した。惨劇は、通りに出たところに、父親と妹の死体などが散乱した。サブラ通りは死体で埋まった。腹を切り裂かれた女性の死体もあり、女性も子供も無差別に虐殺されれた。死体の多くはひどく切断され、若い男性は去勢され、一部は頭皮を剥がされ、一部はキリスト教の十字架が体に刻まれた。路地の壁に喉が裂けた子供たち、胃を切り刻まれた妊婦、目を大きく開いた黒ずんだ死体、投げ込まれた無数の赤ちゃんや幼児ゴミの山が散乱した。

 サブラとシャティラの大虐殺は、レバノン・ベイルートのサブラ地区と隣接するシャティラ難民キャンプで、キリスト教徒派を主体とするレバノン右翼政党のカタエブ党(別名ファランジュ)に近い民兵により、1982年9月16日午後6時頃から9月18日午前8時頃まで、広範な大量虐殺が勃発した。パレスチナ人およびレバノン・シーア派市民の約762〜約3,500人が大量虐殺された事件である。イスラエル国防軍(IDF)がキャンプを包囲している間に、民兵による広範囲な虐殺が行われた。民兵は、イスラエル国防軍による西ベイルートへの作戦の一環として、サブラ・シャティラからパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘員を排除するように命じらた。PLOが弾薬を豊富に蓄えている無数の地下壕には武装集団が約200人ほどいると誇張した。大量虐殺が執行される中、IDFは残虐行為の報告を受けたが、虐殺を防止・停止する行動も取らなかった。大虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に虐殺の間接的な責任があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、虐殺が起こっている報告が出ていたのに、制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。イスラエル軍もシャロンも、虐殺の直接的な責任を問われていない。

 イスラエル兵がファランギストの民兵を退去させると、数百人が死んでいた。レバノン警察の発表では約460人、イスラエル情報局の推計では約700-800人が殺害されたと推定した。レバノン側の公表によると、死者には約35人の女性と子供が含まれた。残りは男性である。パレスチナ人、レバノン人、パキスタン人、イラン人、シリア人、アルジェリア人なども含まれた。レバノン軍の主任検事の調査では、死者約460人(うち女性約15人、子供約12人)を数え、イスラエル情報局は死者を約700-約800人と推定し、パレスチナ赤新月社は死者約2,000人と主張した。





2022年3月6日日曜日

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発で、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。

1994年2月4日にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのマルカレ市場の爆発に巻き込まれて、殺害された人々の死体がコソボ病院の死体置き場に並べられた。事件を聞いて病院にかけつけた親族が、自分の身内の死体を探索した。家族の死体を見つけた人々は絶叫した。首都サラエボのコソボ病院に、1994年2月4日にセルビアにおける市場に砲弾が被弾した。砲弾によるサラエボ市民の大量の死傷者が、トラックや自動車でコソボ病院に搬入された。コソボ病院だけで、死者は約80人と負傷者は約197人以上にも達した。

 マルカレ市場砲撃は、1992年4月から1995年12月までのサラエボ包囲戦で行われた最大の残虐行為の一つであった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲中にスルプスカ共和国軍によって、民間サラエボ人を対象とした2つの砲撃である。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの歴史地区にあるマルカレ市場で勃発した。

 第一マルカレ市場事件は1994年2月5日に勃発した。約120mmの迫撃砲によって約68人が死亡して、約144人が負傷した。マルカレ市場では、負傷して死にそうな市民の体が絡み合い、壊れた屋台、散乱した市場の商品、子供のおもちゃなどが混沌とした。

 第二マルカレ市場事件は1995年8月28日に、スルプスカ共和国軍が発射した5発の迫撃砲により、サラエボ市民が約43人が死亡して、約75人が負傷した。ボスニア・セルビア人勢力に対するNATOによる空爆に起因して、最終的にはデイトン和平合意によりボスニア・ヘルツェゴビナ戦争は終結につながった。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所 (ICTY) は、2006年のスタニスラフ・ガリッチの控訴審判決で証拠を整理し、砲弾はセルビア人勢力に占領した場所から砲撃したと認定した。

 ボスニア戦争は、1992年4月26日から1995年12月14日にボスニア・ヘルツェゴビナで起こった国際武力紛争である。ユーゴスラビア崩壊により、1991年にスロベニアとクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から分離独立した。主にイスラム教徒のボスニア人(44%)、主に正教会のセルビア人(32.5%)、主にカトリックのクロアチア人(17%)が住む。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国は、セルビア人議会は1992年2月28日に共和国憲法を採択した。セルビア民族の軍隊を動員し、民族浄化を伴う戦争が国全体に広がった。

 当初は、ボスニアのユーゴスラビア軍(後にスルプスカ共和国軍)、ボスニア人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)、とクロアチア防衛会議(HVO)のクロアチア軍による紛争であった。スルプスカ共和国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人の利益と保護のためにに1992年1月9日から1995年12月14日まで存続した。新たに独立したボスニア・ヘルツェゴビナ内の領土内で分離主義で反抗して、1992年から2006年まで存続した。主にボスニア・ヘルツェゴビナ系のセルビア人で構成されたVRSは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国防軍(HVO)とクロアチア軍部隊のボスニア人部隊の間で対立した。ボスニア戦争は激しい戦闘、都市や町の無差別砲撃、民族浄化、主にセルビア人、さらにクロアチア人とボスニア人の武力勢力によって組織集団的な虐待と虐殺が頻発した。セルビア人は、当初は軍事的に優位も、1994年のワシントン協定でボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の創設によって、ボスニア人とクロアチア人が連合して、スルプスカ共和国の勢力が喪失して、1995年12月14日のパリのデイトン合意で終結した。




2022年3月5日土曜日

ウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。

1986年4月26日午前1時23分40秒、ウクライナ共和国のチェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所にあるRBMK4号炉が低出力のテスト中に制御不能となり、大爆発・火災を起こして原子炉建屋が崩壊し、大量の放射線が大気中に放出された。安全対策が無視され、原子炉内のウラン燃料が過熱し、防護壁を突き破って溶融した。RBMKの原子炉には格納容器と呼ばれるものがなく、原子炉の上にコンクリートと鋼鉄のドームがあり、このような事故が起きた場合、放射線を工場内に閉じ込めるように設計されている。そのため、プルトニウム、ヨウ素、ストロンチウム、セシウムなどの放射性元素が広範囲に飛散した。また、RBMKでは減速材として使用されていた黒鉛ブロックが炉心に空気が入ることで高温で発火し、放射性物質の環境中への放出を助長した。



    







 両親は離婚して、ディマは母親はウクライナ共和国のチェルノブイル原発の汚染地域の実家に戻った。その1ケ月後に放射能汚染した森林で遊んでいた男児ディマは、劇症白血病を発症して死亡した。チェルノブイリ原発事故による深刻な放射線の影響により、事故後約4ヶ月間に約600人の作業員のうち28人が死亡した。原子炉の爆発から数時間以内に、放射線以外の原因で2人の作業員が死亡した。1986年と1987年には、さらに約20万人の清掃作業員が約1〜100レムの線量を受けた。チェルノブイリ事故は、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦までの広範囲を汚染し、数百万人の住民が居住していた。1986年当時に、この地域にいた多くの子供や青年は、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲み、甲状腺に相当量の放射線を浴びた。子供たちの中から約6,000人の甲状腺がん患者が発見された。約99%は治療に成功するも、2005年までに3カ国で15人の子供と青年が甲状腺癌で死亡した。緊急作業員、避難者から、最も汚染された地域に住む住民の生涯にて、最終的にチェルノブイリに起因する癌死が発生する可能性がある。がんによる死亡は、緊急作業員では、固形がんの発生と死亡の相対リスクが統計的に有意であった。うつ病、アルコール依存症、潜在的な健康影響への不安の割合が高くなった。



 








 ロシア・ウクライナ戦争が、2022年2月24日木曜日に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。ウクライナに侵攻したロシア軍は直後の2月24日に、北部のチェルノブイリ原子力発電所を占拠した。2022年3月4日早朝には、ロシア軍がヨーロッパ最大の原子力発電所であるウクライナ南東部のザポリジャー(Zaporizhzhia)原子力発電所を攻撃して、原発の敷地内の建物に命中し、局所的な火災が発生した。ロシア軍は意図的に原子力発電所を攻撃し、数百万人の命を危険にさらす史上初のテロ核攻撃を行った。国家原子力規制検査局(SNRI)は、ロシア軍が占領して、発電所の6基の原子炉は無傷だが、1号機の区画補助棟が損傷し、残りの4基は冷却され、1基は電力を供給している。国際電子力期間(IAEA)は、チェルノブイリ原発事故は、ソ連時代の黒鉛減速型RBMK原子炉、ザポリジャーの施設では、加圧水型VVER原子炉が使われた。VVERはRBMKよりも本質的に安全で、敷地内で砲撃や火災が起きれば、他の事故が起きる可能性はある。2011年の福島原発事故では、原子炉は無傷のまま電気が遮断されて、冷却水を送れず、核燃料ペレットが落下して炉心溶解(メルトダウン)した。

2022年3月4日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦いで、ソ連軍を撃破したドイツ軍は多数の死傷したドイツ軍兵士を抱えて、戦車の陰から援護を求めた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナの第三次ハリコフの戦い(Third battle of Kharkov)で、1943年2月19日から2月25日にかけて、ドイツ軍第2機甲擲兵師団は、ソ連軍の戦車の20両、装甲車の2両、野砲の16門、対戦車砲の71門を撃破した。エレコーフカ・セルゲーエフカ戦区で、死傷したドイツ軍兵士を抱えて、ドイツ軍機甲擲兵は、戦車の陰から自軍の兵士に援護を求めた。ドイツ軍がソ連軍に反撃して、ウクライナのハリコフとベルゴロドを奪還した。

 ソ連軍は、ドイツ第6軍をスターリングラードで包囲した後に、ドイツ南方軍に対して一連の大規模な侵攻を開始した。1943年1月2日に、ソ連軍はスター作戦とギャロップ作戦を開始して、1月から2月初旬にドイツ軍の防衛戦線を突破した。ソ連軍は、ウクライナのハリコフからロシアのベルゴロド、クルスク、ボロシロブグラード、イジウムを奪還した。領域が頂点に達して、ソ連軍は参戦したソ連軍兵士には過大な負担となった。

 ドイツ軍がドニエプル方面に統制した撤退により、ソ連軍に領域を奪還させた。2月2日にドイツ第6軍は降伏して、レニングラードを解放したソ連軍は、西方に侵攻して、2月25日にドイツ南軍とドイツ中央軍の両軍に攻勢を拡大した。数ヶ月も続いた戦闘でソ連軍兵士は犠牲が増大して疲弊した。2月19日からドイツ軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、パンツァー戦車軍団にハリコフに反撃に出させた。ドイツ第4空軍は約1,214機もの大規模な爆撃機の援護をして、2月20日から3月15日まで1日1,000回以上の出撃を行った。

 ウクライナのハリコフの南方では、ドイツ装甲軍はソ連軍の先鋒を側面から包囲して撃破して、3月7日にハリコフに攻撃を再開した。パンツァー戦車軍団は3月11日にハリコフを直接に攻撃した。3月15日にドイツ軍師団が、ハリコフを奪還するまで、約4日間に都市部内の残酷な掃討戦が勃発した。ドイツ軍はその2日後にベルゴロドを奪還して、1943年7月からクルスクの戦いに繋げた。ドイツ軍の攻撃で、ソ連軍兵士は推定約9万人もの死傷者を出した。ハリコフ市内での一軒一軒の掃討戦では、ドイツパンツァー戦車軍団にも特に血生臭い残酷な犠牲を伴って、3月中旬までに約4,300人の死傷者を出した。

 1943年初めにドイツ軍は、ソ連軍がレニングラードでドイツ第6軍を包囲戦したことで危機に陥った。1943年2月2日に、ドイツ第6軍は降伏して、推定約9万人のドイツ軍兵士がソ連軍に捕らえられた。1942年の間にドイツ軍兵士の犠牲は約190万人に達した。1943年初頭は、ドイツ軍は東部戦線で全戦力は約47万人にまで衰退した。




2022年3月3日木曜日

モスクワ劇場テロ事件が終結した2002年10月26日に、救助隊が毒ガスで虐殺された約130人の人質の死体を運び出し始め、劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。

モスクワ劇場事件が終結した2002年10月26日午前7時から、救助隊が毒ガス殺された人質の死体を運び出し始めた。死体は劇場の通路や正面入口の舗道にずらりと並べられた。人質の死体には銃創や出血の兆候はなかった。顔は蝋のように白く引きつって、目は開いて虚ろであった。意識喪失の人々と殺害された死体で埋め尽くされた。人質の死体は2台のバスに収容された。病院には武装ガードが配置されて封鎖された。公式の死者の数は25人の子供を含む90人以上に達した。

 2002年10月23日にチェチェン共和国のイスラム過激武装勢力の約50人が、モスクワのドゥブロフカ劇場を襲撃した。人気ミュージカルの公演中に、午後9時過ぎに約850人もの人質に取るテロ事件が勃発した。武装集団が舞台上に上がり、機関銃を乱射した。身体に爆発物を巻き付けた女性も含まれた。要求はただ一つで、ロシア軍の第2次チェチェン紛争からの即時の完全撤退であった。モスクワ劇場の文化宮殿で、約57時間に及ぶ膠着状態を経て、人質2名が殺害された後に、10月26日早朝に、ロシアの特殊部隊が劇場を包囲して突入した。その直前に、強力な麻薬性毒ガスを建物に注入して、ほぼ全員を窒息させた。直後から壁と屋根を破壊して、地下の下水道トンネルから侵入した。約40人のテロリストと約130人の人質は、特殊部隊の襲撃で殺害された。治安部隊は、人質に対する大量虐殺は、危険な毒ガスにより、テロリストの自爆を未然に防ぎ、武装解除できなかったと弁明した。

 チェチェン共和国にはイスラム教徒が多く、ロシアに対して独立を長期間に主張した。ロシアで1999年に起きた連続アパート爆破事件を、チェチェン武装勢力が引き起こした。わずか3年後にロシア軍がチェチェン共和国を侵略した。2000年に、ロシアのプーチンは、チェチェン共和国に対する強硬姿勢とテロリストの交渉拒否を公言して、大統領に当選した。モスクワ劇場テロ事件の後に、プーチン政権はチェチェン共和国を猛烈に弾圧して、誘拐や拷問などの残虐行為を執行した。これに対して、チェチェン共和国の反政府勢力は、2004年2月のモスクワ地下鉄での自爆テロで約50人の乗客の殺害、2004年年5月のベスラン校で人質約334人が殺害された人質事件など、ロシア国内でのテロ事件が頻発した。