2022年1月20日木曜日

ムンダ岬にて破壊された砲台の前で日本軍兵士は爆死して、アメリカ軍は日の丸の日本国旗が腰部に巻いた死体を探索して検死した。

ソロモン諸島のニュージョージア島にある日本軍のムンダ航空基地は、地上戦に先立ち、1944年8月20日にアメリカ軍の激しい砲爆撃を受けた。破壊された砲台の前に日本軍兵士が爆死して死体が散乱した。日の丸の日本国旗が腰部に巻いていた日本軍兵士の死体を1943年8月20日に探索して検死した。ムンダ飛行場の戦い(Munda Point)は、1943年7月22日から8月5日まで勃発して、アメリカ軍兵士は約4,994人が戦死傷して、日本軍兵士は約4,683人が戦死した。アメリカ軍は、ニューギニアで反攻して、ラバウルの日本軍基地を孤立させ、1942年8月7日からガダルカナルと周辺の小島に上陸してソロモン諸島の日本軍に反撃した。

 ニュージョージア島へのアメリカ軍の上陸は1943年6月30日に始まった。さらに7月2日には島の南岸に、7月5日に島の北西岸に上陸した。12の小さな島々は、日本軍の砲撃を受ける狭い水路で隔てられ、珊瑚礁や離島で囲まれて、攻略は困難を極めた。同時期に内陸部への侵攻は、ジャングルの荒れた地形と日本軍の猛烈な抵抗のために、すぐに遅延した。熱帯性の暑さ、病気、疲労に加えて、延々と続く日本軍兵士のバンザイ突撃により、日本軍は大量の戦死者を出しながら、アメリカ軍は疲れて震え上がった。日が経つにつれて、日本軍は夜間突撃も巧妙になり、アメリカ軍を意図的に不安に陥らせた。公式報告書では、アメリカ軍の野営地に、日本軍兵士が夜間に突撃すると、非常に大きな混乱、発砲、刺殺があった。アメリカ軍と日本軍の兵士が互いにナイフで刺し合う者もいた。暗闇の中でやみくもに手榴弾を投げる者もいた。手榴弾の中には木に当たって跳ね返り、アメリカ軍兵士の間で爆発した者もいた。アメリカ軍兵士の中には、何度も何度も銃を撃つ者もいた。多数の震えたくぼんだ目の兵士は後に戦争神経症と診断された。朝になっても、日本軍兵士の死傷者の痕跡は残っていなかった。しかし、アメリカ軍の死傷者は残存して、刺されて死んだ者もいれば、ナイフで負傷した者もいた。多くのアメリカ軍兵士が手榴弾による戦傷を負い、そのうち半数はアメリカ軍の手榴弾の破片によるものだった。戦闘の疲労はすぐに蔓延して、島の南西端にあるムンダ飛行場への侵攻は停滞した。

  7月25日に、アメリカ軍は、戦車、砲撃、空爆、艦砲射撃を受けながら、新たな侵攻を開始した。日本軍兵士はココナッツの丸太を太い珊瑚で補強した塹壕に入って、必死に抵抗していた。アメリカ軍の戦車は、防衛軍によって撃ち落とされ、火炎放射器を持った男たちを狙撃兵が狙い撃ちしていた。また、日本軍は夜になるとアメリカ軍の前線に侵入し、時には壕を奪い返して、兵士たちに何度も追い出させることもありました。まだ未熟で不安定だったアメリカ軍も、火炎放射器により日本軍の砲台を1つずつ消滅していった。迫撃砲や砲兵隊と連携して、日本軍の陣地バンカーを特定し、叩き潰して直接に攻撃した。7月29日に、日本軍はムンダ飛行場前の最終の防衛線に撤退した。戦闘に疲弊したアメリカ軍は侵攻を継続して、ゆっくりとマンダ飛行場を占領した。1943年8月5日に、アメリカ軍兵士は、残存していた日本軍を制圧して、ムンダ飛行場を獲得した。ムンダ飛行場を約2週間以内に再び使用可能とした。ソロモン諸島攻略のための継続的な優勢を提供した。


























2022年1月20日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2022年1月19日水曜日

1963年6月11日以降に僧侶が南ベトナム政権に抗議する焼身自殺をして、人体が身体から火炎が放出して身体は黒く焦げていった。

1963年6月11日以降の数週間で、南ベトナムでは約10人もの僧侶が南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に抗議する焼身自殺をした。首都サイゴンにて、僧侶の人体が身体から火炎が放出して、徐々にしなびれてしぼんでいき、身体は黒く焦げていった。周囲には人体の肉が焼ける匂いが立ち込めた。人体は驚くほどあっという間に焼け焦げた。焼身自殺して正座して身体を屈めた僧侶の死体に、集まったベトナム人たちが拝みながら取り巻いた。焼けている途中で、僧侶は身体を微動だにせず、うめき声も挙げなかった。背筋をまっすぐに屈曲した姿勢は、周囲に集散した市民らとは対照的であった。1963年代半ばから1971年にかけて、アメリカ軍がベトナムに駐留するようになると、ベトナム戦争に反対した僧侶の焼身自殺が増えて約100人の焼身自殺があった。ある1週間で13人もの僧侶が焼身自殺をした。

 僧侶の焼身自殺の起点となったのは、1963年6月11日にティック・クアン・ドック(66歳)が焼身自殺をした。サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らにガソリンをかぶせて焼身自殺した。当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は、ローマ・カトリック式の統治を強要して、仏教徒に対する高圧的な弾圧に抗議した。僧侶の支援者たちが拝跪する中で、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続けて、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿が、画像を通じて世界中に放映されて、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな衝撃を与えた。1963年11月2日に発生した軍事クーデターにより、ゴ・ディン・ジェム大統領と秘密警察長官は、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。

 焼身自殺(Self-immolation)とは、自分の身体を自分で焼いて自身を焼死させ、自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。仏教やヒンドゥー教では、焼身自殺は、何世紀にも行われてきた。サティー、政治的抗議、離婚、絶縁などさまざまな理由がある。キリスト教やイスラム教は焼身自殺は禁忌の一つとされる。最後の審判の日まで自らの肉体は土葬などの手段により、死後も適切に保全された状態とする宗教である。焼身自殺して一命を取りとめた後は死ぬより辛い痛みが待ち受けている。2010年12月18日に露天商のモハメド・ブアジジがチュニジア政府に抗議した焼身自殺がアラブの春を発火させた英雄から、逆に民主化の後退で批判と中傷の対象になった。




2022年1月18日火曜日

硫黄島の戦いで、多数のアメリカ軍兵士の死体はタンカ上でポンチョで覆った。多数の日本軍兵士は、塹壕の中に投げ入れ埋めた。

硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。太平洋戦争の硫黄島の戦いが終結した後に、それらの死体群をアメリカ軍兵士の埋葬版が検死をしながら鑑別した(上)。各々の死体から、識別番号と私物をアメリカ軍の埋葬部隊が検証して回った。硫黄島の北端に散在していた日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた(下)。ひどく壊れた死体は、多くは体が真っ直ぐに切断されて、脚と腕は身体から約15mも吹っ飛んだ。迅速な埋葬が必要であり、特に温暖な天候では、衛生上の理由から非常に重要であった。死体から死臭の腐敗臭はほとんど耐えられなかった。

 硫黄島の戦いは1945年2 月19日から3月26日まで、アメリカ軍の占領で幕を閉じた。硫黄島は戦闘の終結後には、まるで死の谷のように死体が残存していた。火薬が残り、戦争跡が残り、足元には死体が散乱した。硫黄島の日本軍兵士はほぼ全滅して死亡した。アメリカ軍は硫黄島の占領で多大な代償を払った。戦闘の最初の3週間でのアメリカ軍兵士も日本軍兵士の死傷者のほとんどは、迫撃砲、大砲、地雷、手榴弾、ロケット爆弾などの高爆発物により、弾丸や迫撃砲は、どこからともなく飛んできて命を奪う。洞窟やブロックハウスに出くわした日本軍兵士をすべて撃ち殺し、焼き殺した。洞窟を覗き込み、戦闘員はいないと確信する。死んだはずの日本軍兵士が背後で再び生き返ったとき、突如に襲撃を受けた。孤立した洞窟の中で戦って、その下には広大なトンネルがあった。

 硫黄島のいたるところに死体が転がっていた。葬式にも出たことのない青年兵士たちは、死んだ仲間を転がしていくことに慣れていった。生き生きとした青年兵士たちは、死を積んだトラックから死体を降ろす埋葬の仕事をした。硫黄島から生存したアメリカ軍兵士たちは、船出して、白い十字架の墓とダビデの星の列を見えたことを覚えている。硫黄島の地下にはまだ約6,000人以上の日本軍兵士の死体が埋葬されている。最近に約260人が発掘されたが、中には硫黄ガスでミイラ化した死体もあり、眼鏡が鼻の上にまっすぐに置かれて、頭髪も残っていた死体もあった。

 硫黄島の戦いが1945年3月26日に終結した時には、アメリカ軍は硫黄島内で約20,703人の日本軍兵士の死体を者を数えて、約216人の捕虜を拘束していた。しかし、それからの約2ヶ月間も、硫黄島のアメリカ軍は日本軍の残党兵士と何度も遭遇した。終結後から終戦までに、日本軍兵士は、さらに約1,602人が死亡して、約867人が捕虜となった。太平洋戦争が終結した約3年後の1949年1月6日に2人の日本の残留日本兵が島の洞窟とトンネルに潜伏して最終降伏した。

 アメリカ軍の死傷者数は、資料によって若干異なる。硫黄島の戦いで約6,812人のアメリカ軍兵士が戦死あるいは行方不明となり、約19,189人が負傷した。死傷者の内訳は、戦死者数は約4,917人、戦傷による死亡数は約1,401人で、行方不明は約494人と表記された。硫黄島の戦いは、アメリカ軍兵士には最も血なまぐさい戦いとなり、太平洋戦争において、アメリカ兵士の死傷指数が日本軍側の戦死者数を上回った唯一の戦闘であった。特に上陸してから3日間のアメリカ軍兵士の死傷者数は、アメリカ軍の軍事史上最多であった。硫黄島で民間人の死傷者はなかった。











硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。























日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた。

2022年1月17日月曜日

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの大観衆の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの観衆、都市の指導者、民間企業の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。ヘンリー・スミスが熱い鉄の棒を体の上や足の裏に転がされて拷問をして火刑を執行した。約330平方メートルの敷地に約5,000人から約15,000人の大観衆が詰めかけてリンチを見学した。捕獲されたスミスは、ラバの荷車で町中を運ばれた。リンチでスミスがうめき声を上げるたびに、体をゆがめるたびに、大群衆が喝采した。

 娘ヴァンスを殺害の容疑者スミスは、警官の父親ヘンリーと15歳の息子、義理の兄弟によって縛られ、処罰と掲げた木製の足場の上から約50分間拷問された。彼らはスミスを杭に縛り付けた。足元には、焼印を加熱する熱い石炭の入った缶を踏ませた。スミスの告白文を読み上げた後に、スミスを拷問にかけた。男たちは焼印を手に取り、スミスの足の裏を焼き、目に届くまで体に沿って転がして、スミスは沈黙を破り、体をゆがめて長く続く苦悩の悲鳴とうめき声が空気中に響き渡った。目をえぐり出した。舌は切り落とされ、性器も切り落とされた。まだ生きているスミスに、体に灯油をかけて染み込ませた綿棒で火をつけた。火の強さで下肢が先に焼かれ、ロープが焼け落ち、切断された腕が視力のない目を拭こうとした。足場が崩れ、スミスは炎から逃れようとして転げ回った。群衆が足でスミスを焔の中に押し戻して焼死した。リンチ後に、観衆は黒焦げの死体の一部を持ち帰り、土産物屋は焼け跡から骨を探し出し、プロの写真家はポストカードとして売るための写真を撮った。

 アメリカでは18世紀から19世紀半ばまでは、人種的リンチではなく、理論家、馬泥棒、賭博師、奴隷制廃止論者などが対象であった。しかし、1880年代から、暴徒の虐待と虐殺はますますアフリカ系アメリカ人に向けられた。1882年から1964年の間に、約5,000人の人々がリンチで虐殺され、大半はアフリカ系アメリカ人であった。1890年代から、アメリカ史上最悪のリンチの時代となった。1893年2月1日のスミスのリンチは、ニューヨーク・サン紙に、テキサス州パリスで、白人少女の殺害を告発された黒人男性スミスが火刑された悲惨な記事を掲載した。リンチを目撃、余波を垣間見ることは、白人からリンチの対象になりやすいアフリカ系アメリカ人の若い男性にとって、恐怖の体験となった。リンチの脅威は、南部の黒人を弾圧する悲惨な手段となった。




2022年1月16日日曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフの戦いで、ドイツ軍とソ連軍が戦闘して、ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフ(Kharkov)の戦いで、1943年2月2日から3月18日までドイツ軍とソ連軍が戦闘した。ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。その死体からはブーツが略奪されていた。大雪と寒さで気温がマイナス30度以下になったソ連軍の攻撃に、雪解け水と泥の中でドイツ軍が反撃した。双方に多大の犠牲を伴った。生き残ったロシアの戦車が煙と焔で崩壊して生き残ったソ連軍の乗組員をドイツ軍が掃討しました。

 1943年2月16日に、ソビエト軍はソビエト連邦で4番目に人口の多い都市であるウクライナのハリコフ市を、ドイツ軍から奪還した。ドイツ軍は、2月2日にスターリングラードの戦いでの敗北により、ドイツ南軍の東部戦線全体が崩壊の危機に陥った。3月2日にはドイツ軍は、南軍グループに所属するSSパンツァー3個師団を率いてハリコフ市への攻撃を開始して、第3次ハリコフの戦いが勃発した。3月11日から数日間、激しい市街戦が繰り広げられた。雪に覆われた裸の草原は、反撃するドイツの戦車にとって理想的な訓練場と化した。ソ連にはわずかな避難所も喪失した。ソ連軍が退却する軍隊は、最大20kmの距離でドドイツ軍砲兵の標的になった。ソ連軍が再占領したハリコフの街は、約70%が廃墟と化して、数万人の住民が犠牲となった。ドイツ軍の死傷者数は約11,500人、ソ連軍は約86,569人(戦死約45,219人と戦傷約41,250人)に及んだ。ドイツ軍の中で最も被害が少なかったのは第1SS戦車師団で、ソビエト軍に約4万もの死傷者を出したにもかかわらず、約4,500人の死傷者にとどまった。ハリコフ市民は、約21,000人が殺害された。約35,000人の市民が難民として流出した。

 ハリコフを3月14日に再占領したドイツ親衛隊員が最初に行ったのは、病院にいた負傷者約200人を虐殺して病院に焼却した。ドイツ軍によるスターリングラードの復讐だった。第3次ハリコフの東部戦線でのドイツ軍の最後の反撃となった。ドイツ軍はクルスクの戦いの後、8月までハリコフを保持していた。第4次ハリコフの戦いで、 1943年8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲されつつあった。8月21日に、ヒトラーの命令に反して撤退命令を出して、ドイツ軍は撤収を始めた。8月23日には、ハリコフの街は、最終的にソ連軍が再奪還した。その後にハリコフ約20,000人の市民とそのうち約4,000人の女性がドイツ軍協力者として処刑された。 その他に、市民を強制収容所に強制連行した。ハリコフの15歳から45歳までの男性約15,000人が強制的に軍隊に入隊されて、大半が戦死した。




2022年1月15日土曜日

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年の健二が、二次放射能による残酷な急性髄質白血病により12歳で死亡した。

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。

 健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。

 原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。

 神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken) 



















2022年1月14日金曜日

タラワの戦いで自殺した日本軍兵士は、銃口を胸に当てた状態で、ライフル銃の引き金を足の親指を突き立てて自らを銃殺した。

太平洋戦争にて1943年11月20日から勃発したタラワの戦いにて、アメリカ軍がギルバート諸島のタラワ環礁でペティオ島の日本軍を撲滅した。アメリカ軍に11月22日に制圧される直前に、自殺した日本軍兵士の死体が、取り壊された塹壕の下で、その他の死体と散乱していた。自殺した日本軍兵士は、銃口を胸に当てた状態で、ライフル銃の引き金を足の親指を突き立てて自らを銃殺した。アメリカ軍兵士は、ペティオ島の海岸の付近の塹壕や溝を掃討して、日本軍兵士を探索して殺害しながら死体を検死した。

 タラワの戦いの3日目、11月22日にアメリカ軍は戦闘を続てけ、いくつかの日本軍の塹壕や要塞を破壊した。その夜、ベティオ島に生存していた最後の日本軍兵士は、自殺行為となる猛烈なバンザイ突撃を行ったが、人命の無駄に終わった。ほとんどの日本軍兵士は、降伏することなく死ぬまで戦った。11月23日の夜明けには、日本軍の防衛隊員たちの死体が絡み合うように倒れていた。ベティオ島を防衛した日本軍兵士は捕虜となった約146人を除いて全員が死亡した。アメリカ軍が上陸して侵攻開始から約76時間後に、ようやくベティオ島の安全が宣言された。タラワの戦いでペティオ島が占領した後に、アメリカの建設部隊と駐屯部隊はペティオ島とマキン島に滑走路を作ったが、アメリカ軍の太平洋戦争の侵攻の速さのために、これらの島々の施設は太平洋戦争でその後の作戦にはほとんど役立たず無駄になった。

 1943年11月23日に、約76時間に及ぶ戦闘の末に、タラワの戦いは膨大な人命の犠牲を伴って終結した。約1,000人以上のアメリカ軍兵士が殺害されて、約2,300人近くが戦傷した。日本軍兵士は、防衛していた約4,800人の日本軍兵士のの守備隊員のうち、約97%が死亡した。アメリカ軍の捕虜になったのはわずか約146人だけで、そのうち約17人は朝鮮人労働者だった。犠牲者の多さはすぐにアメリカ国民に伝わり、この小さな島を奪うために失われたアメリカ軍兵士の人命の多さにアメリカ国民は驚愕した。

 タラワの戦いに限らず、太平洋戦争では、アメリカ軍と日本軍の戦争思想の違いが大きな犠牲を伴った。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士を殺害して太平洋の諸島を占領し、帰順することを目標とした。しかし、日本軍兵士は死ぬまで戦うことを目標とした。太平洋の諸島にいた日本軍兵士は、アメリカ軍兵士を倒さないで自分たちの人生を歩むなどとは考えなかった。日本軍兵士は、タラワの戦いが自分たちの最期の地になる可能性が高いことを覚悟して、当然と考えた。




2022年1月13日木曜日

皇道派の相沢三郎陸軍中佐が、1938年8月12日に陸軍省の統制派の永田鉄山軍務局長を、軍刀を抜いて斬りかかり刺突して暗殺した。

1937年8月12日午前9時30分頃に皇道派の相沢三郎陸軍中佐が陸軍省に到着して、山岡重厚整備局長との談話中に給仕を通して、統制派の永田鉄山軍務局長の在室を確かめた。午前9時45分頃に、陸軍省の軍務局長室に突入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山に斬りかかり刺突して暗殺した。永田鉄山は隣室に逃れようと、軍事課長室のドアに身体を当てるも、相沢三郎は体当たりして背中から軍刀で突き刺して、刃先は体を突き抜けドアまで達して刺殺した。相沢事件あるいは永田事件と呼称された。1938年1月28日から開廷した軍法会議は勅許奏請の手続きの段階となった。突如に1938年2月26日未明に、皇道派の青年陸軍将校らが二・二六事件のクーデターを勃発した。5月7日に死刑の判決となり、7月3日に銃殺刑が執行された。

 統制派は、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、陸軍幹部である永田鉄山が陸軍大臣林銃十郎を通じて政治上の要望を実現する人事異動による合法的な組織で、列強に対抗し得る高度国防国家を目指した。それに対して皇道派は過激思想から、天皇への忠誠を誓い、結果を問わず危険な行動に走り、政財界の君側の奸を排除して天皇親政の下で国家改造する昭和維新を目指した。皇道派に敵対する永田鉄山が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に敵対する統制派なる派閥の頭領にさせられた。皇道派が、統制派による人事の冷遇と排除に反発して、統制派の幹部を暗殺した。時代の転換点となり、個人主義、自由思想は一切排撃されて統制されて、時代は一挙に全体主義に逆戻りした。

 軍人はよく国家革新を論ずるが、革とは何か、どうすることが、どんな方法と設計でやることが、国家革新するのか、さっぱり判らない。重臣を殺害したり、クーデターをやることは、もはや言語道断であるばかりでなく、とても危険でもあり、愚劣でさえある。しかし軍人に対して、理論的にも、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、革新出来るというビジョンものを、よく得心させる必要があると、永田鉄山は示唆していた。やがて逆に、統制派であるも開戦派であった東條英機首相が1941年12月8日に、日本軍はイギリス軍との間で太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃して間もなくアメリカ軍との間に太平洋戦争が勃発した。




2022年1月12日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線にてソワソンの戦いで、連合軍により殺害されたドイツ軍兵士の死体が陥没した道路に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にてソワソンの戦い(Battle of Soissons)で、バリから北東約100kmのソワソンにて、連合軍により殺害されたドイツ軍兵士の死体が陥没した道路に散乱した。1918年7月18日にフランス軍とアメリカ軍の連合軍による圧倒的な砲撃で、ドイツ軍の前線は破壊されて、森や農場の抵抗拠点は崩壊した。7月19日に連合軍が再び侵攻して、ドイツ軍は19日夜から20日にかけて、重要な占領地を放棄して再びマルヌ川を渡り、北岸の高台に撤退した。ドイツ軍は一歩一歩後退して、しばしば倉庫や略奪した後に避難しながら火災や爆発が頻繁に起こった。7月27日から29日にかけて、ドイツ軍は大規模な後退となった。

 ソワソンの戦いでは、双方とも砲兵の支援が不十分で何の隠蔽もなく、敵から完全に見えている平地を兵士は侵攻した。侵攻する兵士には直ちに破壊的な射撃を行われ、機関銃の射撃と相まって主要な軍隊がほぼ壊滅した。ソワソンの戦いで、死傷者はフランス軍兵士は約9万5千人とアメリカ軍兵士約1万2千人で連合国軍側は10万7千人に達して、ドイツ軍は約16万8千人もの死傷者を出した。

 ソワソンの戦いは、1918年7月18日から7月22日にかけて、フランスの町ソワソン付近で行われた戦いである。フランス軍とアメリカ軍は、パリに向けられたドイツ軍の侵攻を止めた。この戦いは、1918年5月にドイツ軍に奪われた土地の大半をフランス軍とアメリカ軍が奪還することで終結した。1918年5月下旬、ドイツ軍は第3次攻撃を開始して、ケマン・デス・ダムを越えてソワソンを占領し、5月末日にはマルヌ渓谷をパリ方面に侵攻した。7月18日の早朝に、フランス軍とアメリカ軍の連合軍部隊は、ドイツ軍に対して大攻勢を開始した。ドイツ軍を森の中に追いやり、トランスロン農場とヴェルテ・フィーユ農場を占領した。敵がヴィエルジーを南下する防衛線を強化した後、攻撃を中止した。7月19日に攻撃が継続されると、連合軍はソワソンの道路を確保した。将来の総統であるアドルフ・ヒトラーは、1918年8月4日にソワソンで鉄十字章が授与された。





2022年1月11日火曜日

日本軍の工兵隊が、南京虐殺された中国人の死体に釣鉤に引っ掛けて、船の脇に吊るして下関川の沖合から揚子江に流した。

日本軍の工兵隊が、南京虐殺された中国人の死体に釣鉤に引っ掛けて下関川の沖合から揚子江に流した。犠牲者の死体は、船の脇に吊るされた。下関川に死体を引きずり込み浮かせた。1937年11月13日に南京に侵攻した日本軍は、中国の兵士と民間人を下関川に強制連行して、機関銃で銃殺した。南京虐殺はその約2日間にかけて執行されて、揚子江のほとりの無福山付近で行われた。死体にはガソリンをかけて焼却された。多くの死体はその後に揚子江に投げ込まれた。

 朝日新聞の特派員は1937年12月13日と12月14日の両日に、第13師団歩兵第65連隊が長江南岸の武龍山・無風山の砲台付近で、中国軍兵士約14,777人を捕虜にしたと報じた。その後に続報はなく、何十年もの間、中国人捕虜がどうなったのかは不明であった。日本側では、半数が釈放され、約4分の1が逃亡し、残りは暴動を起こして殺された説があった。中国人捕虜は全員、揚子江のほとりに引きずり込まれて処刑された説もあった。

 1980年代後半に、日本の化学工場勤務の小野賢二が、約200人ほどの戦争体験者にインタビューし、約24冊の戦時中の日記などの史料を集めて南京事件を調査した。その調査から1998年に、12月14日以降に捕虜になった中国人約1万5千人と、約2千人から約3千人の捕虜から、日本軍の命令で虐殺されたことを示唆した。中国人捕虜の大量処刑は、南京虐殺の中でも最も規模の大きい。 

 日本軍一等兵の[1937年11月25日の日記】宿舎に着くと、大きな豚を2匹殺した。そして今、それを食べています。戦争は楽しいですね。お酒が好きな人は好きなだけ飲める。ここ数日、ようやく天気が良くなってきたので、心も楽になってきた。【12月16日の日記】数日前に捕らえた捕虜の一部、約5,000人を揚子江のほとりに連れて行き、機関銃で刈り殺した。その後、満足するまで銃剣で刺した。おそらく30数人の憎い中国兵を銃剣で刺しただろう。死体の山に登って銃剣で刺すことで、私は勇気を得て、鬼にも勝てるような気がした。彼らのうめき声を聞きながら、全力で刺していった。年寄りも子供もいた。全部殺した。刀を借りて首を切ったこともある。今までに経験したことのない珍しい体験でした。日本軍少尉の[12月16日の日記】捕虜は17,025人。夕方に軍令を受け、そのうちの3分の1を土手に連れ出し、第1大隊が射殺した。[12月17日の日記】夜、10,000人以上の残りの捕虜を処刑するために5人の兵士を送り出した。

 日本に上陸する前に捨てたと言っていた元日本軍兵士が、戦時中の日記を公開してくれた。中国人を虐殺したのは、ほとんどが日本市民の下士官や一般兵であった。上司の命令は絶対的なものであり、良心の呵責に苛まれている。(南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記、大月出版、1996年)




2022年1月10日月曜日

沖縄戦が終結直前の1945年6月16日に、アメリカ軍が難民収容所の民間人を強制的に死体の埋葬を命令して、壕を掘って土葬させた。

沖縄戦が終結直前の1945年6月16日に、アメリカ軍が難民収容所の民間人を強制的に死体の埋葬を命令して、壕を掘って土葬させた。沖縄戦が終結した6月22日後でも、飢餓による栄養失調と病気に対する手当が困難となって死亡した。。沖縄戦の終結後でも多くの沖縄住民が死亡した。各収容所では、アメリカ軍により、収容民への物資の配給、住居建設作業の手配、軍命令の伝達、収容地区内の治安維持などに当たった。民間人は、畑に残った作物の収集や残存家屋の解体、移動予定地での住宅建設などに当たり、特に男子に限り死体の処理やDDT散布などの作業に駆り出された。収容所は、物資は沖縄南部から補給され、沖縄北部になるほど待遇は厳しくなり、収容者は次々と死亡した。さらに北部の収容所への強制移住が実施され、北部の収容所は当時の人口の約6割が集中する過密状態となった。

 沖縄住民はアメリカ軍に強制的に難民収容所に連行されて、食糧不足、飢餓と栄養失調、伝染病やマラリアのために多くの人々が死亡した。沖縄戦中は、戦争による外傷・栄養失調・マラリア等の病気によって多くの方が死亡した。アメリカ軍の難民収容所にて死亡した沖縄住民の死体は、共同墓地に埋葬された。民間収容所に収容された者の多く沖縄住民は、老人、婦人、子供であった。日本軍兵士や働き盛りの若い男性の多くは、捕虜収容所に入所された。難民収容所では、土葬するために墓穴を掘る作業は、老人や子供が主体となった。埋葬の際に、アメリカ軍は1つの墓穴に1人を埋めるように命令した。作業は老人や子供が担っていたため、集積される多数の死体の数量に埋葬が間に合わず、仕方なく1つの墓穴に2人以上から多いときは4~5人を埋葬した。難民収容所で亡くなった方の多くは、老人、婦人、子供であった。宜野座村の指定文化財となった古知屋共同墓地および福山共同墓地の死亡者名簿には、合計で約1,029名の被埋葬者名が記載された。

 アメリカ軍は沖縄戦の捕虜を日本軍兵士と非戦闘員に区別した。各地域の住民を収容するために、占領した所に難民収容所を作り、住民を排除した隔離した。敵対的な地域の適切な管理のために、沖縄住民は敵国民に扱われた。沖縄住民を登録し、尋問し、監査するための収容所となった。難民収容所での食糧は、限られた配給を受けても不足した。収容所内でもアメリカ軍兵士による若い女性に対するレイプ事件が多発した。アメリカ軍に生存した日本軍兵士の捕虜は、1945年12月までに約16,346人となっている。アメリカ軍は6月10日からハワイの日系人収容所施設に捕虜を移送した。1945年7月19日付に、アメリカ軍は今後90日以内に約130,000人の沖縄住民を様々な区域から退去させることを突如に内定した。しかし、沖縄住民のための避難所や衛生設備は皆無であった。




2022年1月9日日曜日

ユーゴスラビア人民軍等によりヴコヴァルでクロアチア人の約264人の男性と1人の女性が大量虐殺された死体が家屋に並べられた。

クロアチアの東の端でヴコヴァルの戦いの終末期に、1991年11月20日から11月21日にヴコヴァルの虐殺が勃発した。ユーゴスラビア人民軍とセルビア人民兵によりヴコヴァルのクロアチア人が大量虐殺された。約264人の男性と1人の女性が虐殺されて、そのうち約194人だけが特定された。約200体の死体がヴコヴァルの家屋に並べられて、そのほとんどがクロアチア人市民であった。ユーゴスラビア人民軍が、ヴコヴァルの包囲中に、何百人ものクロアチア人市民が救護を求めてヴコヴァルの病院に避難した。1991年11月18日にヴコヴァルが陥落した後に、ユーゴスラビア人民軍とセルビア準軍事組織によって、少なくとも約400人の非セルビア人が連れ出された。約250人以上が南東のオヴチャラ農場に強制連行されて、激しい暴行と虐待を受けた。その後、捕虜は約10人から20人のグループに分けられて銃殺で処刑されて、近くの共同墓地に埋葬された。集団墓地は1992年10月に発見され、国連保護軍によって保守された。1996年に旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)の捜査官によって200体の遺体が発掘された。

 ヴコヴァルの戦いは、重装甲と大砲を装備した36,000人ものJNA兵士とセルビア人民兵に対し、約1,800人の軽装のクロアチア国民衛兵(ZNG)と民間志願兵によって防御された。戦闘中、砲弾とロケットが1日最大12,000発の割合で町に発射されて、ヴコヴァルは崩壊した。1991年11月18日にヴコヴァルが陥落した時に、数百人の兵士と民間人がセルビア軍によって虐殺されて、少なくとも約2万人の住民が追放された。ヴコヴァルの大部分は非セルビア人から民族的に浄化されて、未承認のセルビア・クラジナ共和国の一部となった。ヴコヴァルの戦いの犠牲者は、約3,6000人のユーゴスラビア軍は約1,103人が戦死、 約2,500人が戦傷して、ヴコヴァル側は、クロアチア人の約879人戦死、約770人が戦傷した。ユーゴスラビア人民軍は犠牲で疲弊して、クロアチア独立戦争の転機となり、数週間後には停戦が宣言された。

 1995年にクロアチアのセルビア人反乱軍が支配する地域の中で、唯一クロアチア軍の占領を免れた地域となった。ヴコヴァルは1998年にエルデュット協定が締結されてクロアチアに再統合された。その後、再建されたものの、人口は戦前の半分以下で、多くの建物には戦いの傷跡が残存した。2つの主要な民族コミュニティは依然として深く対立しており、かつての繁栄を取り戻すことはできていない。




2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




2022年1月7日金曜日

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害されて、死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害された。死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。アメリカ軍とオーストラリア軍の艦艇によるグロスター岬の日本軍陣地への砲撃から戦闘機による地上攻撃が行われた。その後に1943年12月26日から、アメリカ軍とオーストラリア軍はニューブリテン島のグロースター岬に上陸して、日本軍を1944年4月22日まで侵攻した。その直前の12月15日にはニューブリテン島の南西のマーカス岬からも上陸して日本軍を侵攻した。

 1942年1月23日から日本軍はニューブリテン島に侵攻して、ニューブリテン島とグロスター岬を1942年2月9日に占領していた。日本軍はグロスター岬に2つの飛行場を設置していた。アメリカ軍がソロモン諸島に侵攻した際に、ニューブリテン島を再占領して、飛行場を利用してニューギニアの他の地域を占領するために、グロスター岬の飛行場も含まれた。ニューブリテン島に日本の主要基地があるラバウルを爆撃した。ニューブリテン島とニューギニア島の往来を可能になった。グロースター岬に上陸した直後にアメリカ軍は隊は、日本軍兵士の約100人から野蛮な自殺するようなバンザイ攻撃を受けた。戦闘は日本軍が降伏するまで続き、その後にグロスター岬は安全になったと宣言した。

 12月27日の夜に、日本軍はアメリカ軍の上陸地点に対して激しい反撃を開始した。この攻撃は失敗に終わり、日本軍は少なくとも約200人の死者を出した。12月28日の正午に、アメリカ軍はより強固な日本軍の防御陣地と戦闘となり、アメリカ軍は死者約人、負傷者約36人、日本軍は少なくとも死者約266人を出した。日本軍は12月30日に再び姿を現して、アメリカ軍の攻撃中に飛行場の南側に避難して、今度はバンザイ攻撃を仕掛けてきた。完全に失敗し、生存者は半島中央の山に逃げ込んだ。アメリカ軍には1943年1月14日に再び攻撃を行い、迫撃砲の支援から丘の頂上に到達した。日本軍は周囲のジャングルに退却を余儀なくされ、日本軍が道路封鎖に遭遇した。その後、小競り合いが数日続き、1月16日の夜明け直後に、日本軍は丘への最後のバンザイ攻撃を行った。日本軍は、最終的には大きな損失を出して撃退された。この戦いで、アメリカ軍は約50人の死傷者を出したが、日本軍は約200人の死者を出した。グロースター岬の戦いで、連合軍は総計で約310人が戦死して、約1.083人が戦傷して、日本軍は約1,000人が戦死した。 




2022年1月6日木曜日

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイで、日本軍の神風特攻攻撃で殺害された乗組員の死体は厚地の平織りの白布に包まれて海への投入の埋葬を待機した。

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイ(Callaway)の乗組員である沿岸警備隊員が神風特攻で殺害された。その死体は、死体を包む厚地の平織りの白布に包まれて重くなっており、海への埋葬する投入を待っている。彼らは、フィリピン・ルソン島のリンガエン湾に侵攻した際に、1945年1月8日に日本軍の神風特攻隊の自爆突撃を受けて、29人が死亡したアメリカ軍水兵人の死体群である。その他22人が戦傷した。太平洋戦争で海の勝利の代償を払ったアメリカ軍水兵たちの墓には、白い十字架の列はない。深海で死んだ者は、深海で死体から眠っている。

 フィリピン・レイテ湾の戦いでは、神風特攻機が初めて登場した。1944年10月19日に、大西瀧治郎副司令官はフィリピンのマバラカット戦闘機の基地で上級司令官と会談して、「戦闘機の数が少ないので、特攻でなければ成功を保証できない。一機の戦闘機に約250kgの爆弾を搭載して、片道の燃料で空母の甲板に不時着させなければならない」。これが神風という特攻の起源である。神風の言葉は、中世に日本を侵略しようと出撃したモンゴル軍の艦隊を吹き飛ばした台風のことを指している。

 空母タフィー3号が日本海軍と戦っている間に、10月25日にその近隣の護衛空母サンティーが特攻機の攻撃を受けた。これが神風による最初の神風の突撃墜落船となった。午前7時40分、すぐに別の神風が同じ勢いで午前8時4分にスワンニー号に命中した。護衛空母軍(タフィー3は損傷を数えていた午前11時前に、特攻攻撃を受けた。5機の神風は撃墜されて空母に軽微な損傷を与え、6機目の神風は10時47分に護衛空母セントローの飛行甲板を突き破り、爆弾と魚雷の爆発を起こして、セントローが沈没したのである。日本群は後に最も恐ろしい兵器の一つとなる特攻初めて試行した。

 神風特攻隊員たちは、執拗なまでに執拗な特攻攻撃を行った。この時から戦争が終わるまで、日本軍の若い飛行士の間では、この片道飛行に志願することは大きな特権とされていた。パイロットたちが家族に宛てた別れの手紙が集められている。ある手紙にはこう書かれている。「私のことを親切に思ってくれて、立派なことができたのは幸運だったと思ってください」。別の手紙には、「人は誰でも運命づけられている。"人は皆、やがて自分の道を歩む運命にある "と。また、あるパイロットは日記の最後のページをこう結んでいる。"春の桜のように、私たちは清らかに輝きながら散っていこう。" いずれも20代前半であった。

 神風特攻は戦争の流れを変えることはできなかった。艦船と連携したアメリカ軍の対空砲火の攻撃によって大量に撃墜された。神風特別攻撃は、その後に硫黄島や沖縄で大きな被害をアメリカ軍にもたらした。1945年8月15日に太平洋戦争が終わるまでに、神風特別攻撃隊は約300隻以上のアメリカ軍の艦船を撃沈または損傷させて、アメリカ軍水兵の約18,772人(死者約8064人、負傷者は10,708人)の死傷者を出した。日本側の特攻戦死者は、(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると海軍約2,531人、陸軍約1,417人、計約3,948人であった。