2021年12月19日日曜日

ソ連のグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥って死亡して、木の板をベッドにして厳寒の気候から身を守る毛布をかけただけの生活環境であった。

ソ連の強制労働収容所であるグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥ってほとんどが死亡した。木の板をベッドにして、厳寒のシベリアの気候から身を守るために毛布をかけただけのひどい生活環境であった。毎日の食事は、不潔でネズミの糞にまみれたボウルのお粥と、たまに硬い黒パンが少しあるだけだった。グルーグ収容所の囚人たちは、大規模な建設、鉱山、工業に強制労働させられた。囚人には粗末で簡単な道具で、木を切ったり、凍った地面を手鋸やつるはしで掘ったりした。石炭や銅を素手で採掘する人も多かった。収容所の囚人たちは、氷点下の気温に直面して、過酷な天候の中で、食料の配給も少なく、労働時間も長かった。収容所の生活環境は、寒く、過密で、不衛生であった。自暴自棄になって、お互いに暴力で食料やその他の物資を盗み合う者もいた。多くの労働者は疲労困憊して死亡し、収容所の警備員に暴行され、銃撃されて、毎年、グラーク収容所の少なくとも約10%が死亡した。

 ソビエト連邦の独裁者であったジョセフ・スターリンの時代に設立された強制労働収容所(Glavnoe Upravlenie Lagerei)はグラーク(Gulag)と略称された。19219年からスターリンの死後間もない1953年まで、約1,800万人を投獄した悪名高い収容所である。最盛期には、約2,000人から約10,000人を収容する数百の強制労働収容所が存在した。1940年3月には約53の個別の収容所と約423の労働コロニーが、北は北極から東はシベリア、南は中央アジアにて運用された。囚人たちは1日に約14時間もの労働を強制された。多くの囚人は、飢えや病気、疲労で死亡して、その他の囚人は処刑で殺害された。グラークの囚人は、当初は犯罪者や集団農業に反旗した裕福な農民であった。スターリンの粛清により、政治犯、反対派の共産党員や軍人、政府高官などがまず対象となった。その後、医師、作家、知識人、学生、芸術家、科学者など、知識階級や一般市民も収容所に送られた。

 第二次世界大戦の直前の1939年には、クラーグ収容所とコロニーを合わて、約160万人を収容した。ドイツ軍のポーランド侵攻の後、ソ連は第二ポーランド共和国の東部を侵攻し併合して、1940年には数十万人のポーランド国民とその他の併合地の住民が逮捕されて,収容所に送還された。約30万人のポーランド人捕虜が、その後に殺害されるか(カティンの虐殺)あるいは収容所に送還された。1940-41年にコリマに送還された約10,000-12,000人のポーランド人捕虜のうち、わずか583人が生き残った。大祖国戦争中の1942年から1943年にかけて収容所の死亡率が急上昇して、収容人口は急激に減少した。1941年の冬には収容所の人口の4分の1が餓死した。1941年から1943年にかけて約516,841人の囚人が過酷な労働条件とドイツの侵攻による飢饉が重なって収容所で死亡した。1943年には、当初はナチスの協力者を対象としていたが、1943年以後、他の政治犯も最も過酷な体制の収容所であるグラーグに送られて、その多くが死亡した。 

 1953年にスターリンが死去した直後から、グラーク収容所は弱体化し始めました。1970年代から1980年代にかけて、一部の収容所は犯罪者や民主主義活動家、反ソビエトの民族主義者のための刑務所として再編成された。ゴルバチョフが、1987年にグラーク収容所を完全に廃止した。1991年にソ連の公文書が封印されるまで、ホロコースト強制収容所とは異なり、グラーグ収容所の記録は一切公開されなかった。1973年、ロシアの歴史家で収容所の生存者であるソルジェニーツィンが『収容所群島』を欧米で出版した。1970年にノーベル文学賞を受賞し、1974年にソ連から追放されて、1994年にロシアに帰国した。




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。



2021年12月17日金曜日

日中戦争の第二次上海事変から、中国国民党軍を追討して蘇州に侵攻した日本軍は多数の蘇州市民を殺害して死体が散乱した。

第二次上海事変から蘇州に侵攻した日本軍に無差別に殺害された蘇州市民の死体が散乱した。1937年8月中旬から11月15日にかけて、日本軍は蘇州市に約4,200個以上の爆弾を投下し、数千人の中国人の死傷者を出した。平門駅はほぼ完全に爆撃されて、一回の爆発で約300~約500人が死亡して、衛生列車や難民用のワゴンも破壊された。大人や子供があちこちで吹き飛ばされていた。さらに日本の爆撃機が天門の外に焼夷弾を落とし、約三日三晩燃え続けて、天門の周りは焦土と化した。日本軍は、掃討しては銃剣で刺殺したり、銃殺した。多くの女性は強姦され、少しでも抵抗すると銃剣で撃たれた。

 1937年8月13日から上海で勃発した日中戦争にて最も激しい戦闘である第二次上海事変(淞沪会战)が、11月12日まで続き、日本軍による上海の占領で終結した。1937年11月5日に、日本軍は杭州湾北岸の金山衛などから上陸を開始して、上海の情勢は中国国民党軍にとって非常に劣勢となった。11月9日から、中国国民党軍は上海から撤退を始めた。日本軍は上海を占領すると、すぐに太湖の北岸と南岸から中国国民党軍を追いかけて、退路を断つために蘇州などを攻略した。

 1937年11月19日に日本軍は蘇州に侵入して、蘇州の街はすべて陥落して日本軍に占領された。占領後の3日間が最も多くの火傷と殺害をした。東中市の地家橋から長門石道まで、昼夜を問わず火災がした。1937年11月21日付の朝日新聞によると、19日午後2時に日本軍が楼門から市内に入り、市内に散らばっていた中国国民党軍兵士約2,000人が日本軍の捕虜になった。 日本の上海派遣軍の司令部が、「囚人は全員殺せ」という密命に従って、全員が処刑された。退却していた中国国民党軍約2,000人が日本軍に捕らえられて殺害された。日本軍は、攻撃した蘇州の地域で、血みどろの殺害、略奪、焼き討ちなどの三光作戦による戦争犯罪を実行した。日本軍の恐怖政治に苦しむ中、多くの蘇州市民は衣食住に困窮し、生活の糧を得れなかった。蘇州の街では、あちこちでボロボロの服を着た蘇州の市民が道端で物乞いをした。日本が蘇州を占領した後に、通りには死体があふれて、約10日間放置された。蘇州市の都市部で約3,738人、田舎で約6,774人が殺害された。




2021年12月16日木曜日

アンロック周辺の土面の道路上に、アメリカ軍と南ベトナム軍により殺害されたベトコンの多数の死体が腐敗して散乱していた。

ベトナム戦争において南ベトナムの首都サイゴンから北方に約145kmのアンロック(An Lộc)付近で、1966年6月30日にアメリカ軍と南ベトナム軍はベトナム民族解放戦線(ベトコン)と猛烈な戦闘が勃発した。アメリカ軍はベトコンから奇襲攻撃を受けて、その後にベトコンに対して激しい攻撃をして壊滅した。ベトコンは、カンボジア国境から約25km付近で、アメリカ軍を待ち伏せしていた。ベトナムとカンボジアの国境を結ぶ国道13号線では、アメリカ軍がベトコンから攻撃を受けて、アメリカ軍の戦闘機と爆撃機が攻撃を防御した。7月4日には、アンロック周辺の土面の道路上にベトコンのベトナム人の多数の死体が腐敗して散乱していた。北ベトナムの石油貯蔵所への空爆が集中しているにもかかわらず、地上戦はまだ南部で繰り広げられていた。

 アンロックは、ビンフオック省の省都である。その後1972年に北ベトナムのグエンフエ攻勢により、アンロックはベトナム人民軍(PAVN)の戦略の中心地になった。カンボジアからの基地に近い補給路に位置した。アメリカ軍の爆撃を受けるのを減らすために、中立地点から物資を保護できた。ベトナム共和国軍 (ARVN) は、アンロック地域を防御するために、ビンフオック省に部隊を保持していた。1972年4月13日から7月20日にわたるアンロックの戦い中に、南ベトナム軍はPAVNとベトコンの連合軍によって劣勢に立たされた。1972年のイースター攻勢の中で約66日間も持続し戦闘となった。PAVNはアンロックをサイゴンから遮断するため、補給路の攻撃を開始した。補給路を制圧することで、約140km南にあるサイゴンへの補給路を遮断して、アンロックの戦いでARVN軍への補給が妨げられた。

 1966年初頭に、南ベトナムにおけるアメリカ軍兵士の数は約184,300人、南ベトナム軍は陸軍(ARVN)と地域軍および民兵を含めて合計約514,000人であった。北ベトナム人民軍(PAVN)は約40万人で、ほとんどはまだ北ベトナムに駐留していた。1965年に約5万人のPAVNが南ベトナムに侵入した。南ベトナムとラオスのPAVNに供給するためにホーチミン・ルートでの物資輸送を任務とする北ベトナム軍の559部隊は、約24,400人が関与した。アメリカ軍は1966年6月までに南ベトナムにおけるベトコンとPAVN兵士の数を、ゲリラを含め約28万人と推定した。アメリカのジョンソン大統領は、1966年12月に北爆の休止により、北ベトナム軍の攻勢が散発した。




2021年12月15日水曜日

シシリー島に上陸した連合軍は、アヴォラの戦いにて、バルバリーノの中庭にてイギリス軍により殺害されたイタリア軍兵士の死体が地面に倒れて散在した。

第二次世界大戦のイタリア戦線において、シシリー島に上陸した連合軍は、アヴォラの戦いにて、イタリア軍に対して戦闘が勃発した。バルバリーノの中庭にて殺害されたイタリア軍兵士の死体が地面に倒れて散在した。その路中を1943年7月10日の朝に、イギリス軍兵士が海岸に上陸して最初にアヴォラを侵攻した。アヴォラの町の入口で機関銃で武装したイタリア軍が粘り強く防御したが、一人また一人と犠牲者が倒れていった。連合軍がアヴォラの町に入って、約100メートルほどの大通りとダンテ通りの間の角で、反撃してきたイタリア軍兵士も犠牲となった。仮設のバリケードから射撃したイタリア軍兵士も排除した。町のあちこちで、さらにまばらな銃撃戦が繰り広げられた。生き残ったイタリア軍の守備隊は全員負傷して連合軍の捕虜となった。7月10日正午までにアヴォラは、イギリス軍に完全に制圧された。アヴォラでは、上陸に先立って7月9日から10日の大規模な空襲により、住民約49人が犠牲になった。爆弾で殺害されたのはほとんど子どもであった。

 連合軍のシチリア島の侵攻は連合軍が、イタリア軍とドイツ軍の枢軸国軍からシチリア島を奪還した。大規模なハスキー作戦によって、1943年7月9日から年8月17日まで約6週間にわたる陸上作戦を経て、イタリア戦線が勃発した。連合軍は枢軸国軍をシシリー島から追い出した。地中海の海上交通輸送路は1941年以来、初めて連合軍の商船に開放された。イタリアの独裁者であるベニート・ムッソリーニは7月27日の軍事クーデターで、イタリアの権力から転落して幽閉された。連合国によるイタリア侵攻への突破が開かれた。ドイツの独裁者であるアドルフ・ヒトラーは、イタリアにドイツ軍の戦力を振り向けるために、クルスクでの大規模な攻撃を、わずか1週間で中断して、東部戦線におけるドイツ軍の戦力が低下した。イタリア政権が崩壊したため、ドイツ軍がイタリア人に代わってイタリアとバルカン半島に駐留した。その結果、ドイツ軍全体の約5分の1が東部戦線から南ヨーロッパに振り向けられた。

 シシリー島の侵攻により、連合軍のアメリカ軍は約2,237人が死亡または行方不明、約5,946人が負傷、598人が捕獲となった。イギリス軍は約2,062人が死亡または行方不明、約7,137人が負傷、2,644人が捕獲となった。枢軸国軍のイタリア軍は、約4,678人が死亡し、約32,500人が負傷、約116,861が捕獲された。ドイツ軍は、約4,325人が死亡し、約13,500人が負傷して、10,106人が捕獲された。連合軍のシチリア島の侵攻により、戦争がイタリアにとって不利な状況になるにつれて、独裁者ムッソリーニが失脚した。1943年春には、イタリア経済は廃墟と化し、連合国軍はイタリア自身を侵略した。7月10日の最初のシシリー島の上陸により、侵攻を撃退できなかった独裁者に対する不満は徐々に高まっていた。シチリア侵略により、連合国は、ムッソリーニ独裁政権を倒して、世界史上最初のファシスト政権に対して壊滅的な打撃を与えた。




2021年12月14日火曜日

15人のミラノ市民が、ドイツ軍の輸送隊に対するパルチザン攻撃の報復として、ドイツ占領軍によって銃殺により公開処刑された。

1944年8月10日夜明けの午前6時10分にミラノのロレート広場に銃声が響き渡り、ドイツ軍の輸送隊に対するパルチザンの攻撃に対する報復として、15人のミラノ市民が、ドイツ占領軍によって銃殺により公開処刑された。ロレート広場の虐殺と殉教者と呼ばれた。1944年8月8日の朝に、ドイツ軍司令部の本部となっていたホテル・タイタナスから数m離れたアブルッツィ通り77番地の前に停めてあったドイツ国防軍のトラックに仕掛けられた爆弾が炸裂した。約6人の通行人が死亡して、約10人が負傷して、犠牲者がすべてイタリア人であった。ドイツ軍兵士の1人が軽傷であった。

 テロの報復として、ドイツ軍はサン・ヴィトーレ刑務所に収容されていた15人の共産主義者とテロリストを具体的な容疑もなく射殺することを命じた。ミラノのゲシュタポ長官が選んだ15人のミラノ市民が、ロレート広場まで連行されて、共和国国家警備隊とムーティ旅団の兵士によって射殺が執行された。同日8月10日、パリニ県知事はドゥーチェに宛てた緊急メモで、非常に深刻なエピソードの詳細をムッソリーニに報告した。

 ナチス・ドイツ軍の命令により、警告として死体は夜の8時頃まで放置された。銃殺されたパルチザンを殺人者として標識にな掲げた。血で乱れた死体は、悲劇的に無秩序な死体の山を形成して、広場ではほとんど通行人の目に触れた。猛烈な太陽の下、ハエだらけであった。ある死体は両手を広げ、ある死体は体を寄せ合っていた。老若男女を問わず、子供たちは興味深く死体を最前列で見た。黒い服を着た若い男性が武装して、ゴミのように舗道に投げ込まれた男性や他の男性、警備していた。最も卑劣な殺人さえも否定しないミラノ大司教の枢機卿により、キリスト教の司祭の弔いも受けられなかった。支援さえ受けてロレート広場での虐殺は逆効果となり、ミラノ市民はファシストの蛮行を復讐を忘れなかった。ロレート広場にて、1945年4月29日のベニート・ムッソリーニと愛人のクレタ・ペタッチの死体が、蹴られ唾を吐きかけられた後に、ガソリンスタンドの屋根から逆さに吊らされ、死体は下からミラノ市民から石を投げられた。




2021年12月13日月曜日

サイパン島の戦いで日本軍は、アスリト飛行場を反撃したが大きな犠牲を伴い、アメリカ軍が日本軍兵士の死体の山を検死した。

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍は1944年6月15日夜と6月16日夜にも南端のアスリト飛行場を反撃したが、大きな損失で撃退された。アメリカ軍は、日本軍兵士の死体の山を検死した。食事の米がこぼれて、日本軍兵士の死体が周辺に転がっていた。戦車の支援を受けた日本軍兵士の大部隊が海岸道路に沿って北から襲撃した。日本軍兵士は日本国旗を振りながら、刀を掲げ、ラッパを鳴らしながら、アメリカ軍の前線に突撃した。前線に潜入した日本軍は大きな被害を与えることなく、アメリカ軍の機関銃と猛烈な射撃と砲弾によって阻止された。海軍により周囲を明るくする星型砲弾を発射して奇襲攻撃を照らし出した。夜を昼に変えるような大きな星型砲弾で日本軍兵士は照明された。6月18日に、日本軍は飛行場を放棄して、アメリカ軍がアスリト飛行場を捕獲した。戦闘の終わりまでに、日本軍は少なくとも約24両以上の戦車と数え切れないほどの1000人以上の日本軍兵士が犠牲となった。

 サイパンでの日本軍の敗北は、逆に何としてもサイパンを手に入れたいという日本軍の決意を強めた。6月17日に東京の大本営は、日本軍の守備側の精神を鼓舞した。大日本帝国の命運は君たちの作戦の結果にかかっている。日本軍兵士の精神を鼓舞し、天皇陛下のご不安を解消するためにも、最後まで勇敢に、粘り強くアメリカ軍を破壊し続けよ指令した。サイパン島の司令部は、ご高説を賜り、限りないご厚情に感謝する。一万人以上の死者を出しても、太平洋の防波堤となることで、御恩に報いたいと思うと応対した。

 アメリカ軍のサイパン島への侵攻は1944年6月15日に勃発した。6月18日の夜までに、東京の日本の大本営とサイパンの司令部は、ついに状況が危機的であると告白することを余儀なくされた。主要飛行場を含むサイパン島の南部は、すべての実用的な軍事施設はアメリカ軍の手に渡った。容赦ない攻撃に直面して、6月18日夜から日本軍はガラパンの真下からタポチョ山の南斜面を経由してマジシャン湾まで南東方向にサイパン島を横切って撤退し始めた。天皇自身から、厳粛な警告と不吉な予知の言葉が出た。最前線の日本軍兵士は見事に戦っているが、サイパン島が失われると東京への空襲が頻繁に行われる。絶対にサイパン島を握らなければならないと勅命した。約5か月後に、サイパン島から日本本土に向けて離陸したアメリカのB-29爆撃機は、天皇と大本営に最悪の恐怖を認識させた。






2021年12月12日日曜日

クメール・ルージュの共産党軍が迫り、首都プノンペンは激しい砲撃を受けて、直撃された民間人の死体が横たわり市場に散乱した。

カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。

 クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。

 クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。

 カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。




2021年12月11日土曜日

広島原子爆弾から放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けて、やせ細ってベッドに座っていた。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾からの放射線に被爆した男性の被爆者は、広島赤十字原爆病院に入院して手当を受けた。入院した男性は、顔面から上半身を被爆して、やせ細ってベッド上に座っている姿が、1945年9月30日に撮影された。広島赤十字原爆病院は、爆心地から約1.5mにて被爆して、医療器具が破損し、ほとんどの薬品が被爆で汚染され枯渇して、病院機能をほとんど果たせなかった。さらに献血者が死亡または失踪して、輸血もできない状態だった。赤十字の木製の看板が、9月8日に撮影された。広島市内では被爆後に、赤十字の旗と看板が、広島市内の病院、救護所、小学校、検疫所などにも掲げられ、救護所に設置された。赤十字のマークは、戦争で負傷した人、医療救援隊員、および関連施設への攻撃からの保護を提供した。被爆直後に、広島市にはまだ約298人の医師がいたが、約90%が被爆を受けて、被爆していない医師は約28人だけであった。

 日本赤十字社広島支部病院は1939年に設立された。1945年8月6日に原爆が投下された際に甚大な被害を受けた。爆心地から約1.5km離れた場所にある鉄筋コンクリートの建物は、屋根の一部が崩壊し、すべての窓が吹き飛ばされて、深刻な被害を受けた。数時間以内に、何千人ものひどく火傷し、負傷し、病気の被爆者が現場に病院に群がった。8月6日に避難してきた約1000人の被爆者のうち、約600人が即時に死亡した。広島赤十字原爆病院のすぐ近くの別の場所に死体が埋葬された。1945年以降から、放射線に被曝した幼児を含め、白血病やその他の種類の癌の症例が増加し始めた。

 広島赤十字原爆病院では、2015年3月31日までの1年間でも、原爆手帳を所持した約4,657名の被爆者の外来診療を約62,130件、入院診療を約34,807件を提供した。2014年3月までに広島赤十字原爆病院で発生した被爆者の死亡のうち、約3分の2(約63%)が悪性腫瘍(癌あるいは肉腫)が死因となった。その主な種類は、肺癌(約20%)、胃癌(約18%)、肝臓癌(約14%)、白血病(約8%)、腸癌(約7%)、悪性リンパ腫(約6%)であった。日本赤十字原爆病院の研究によると、被爆者の白血病の発生率は、原爆投下後の数年間に非被爆対照群の約4~5倍の頂点に達した、その後の10~15年後には減少した。1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に発症するタイプの白血病(MDS)に、一般人口の約4倍の割合で罹患していた。幼少期の被爆者は、数十年にわたって複数の種類のがんに罹患し、それぞれが個別に独立して発症する傾向が見られた。被爆時に全身が放射能に照射されて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受けた。異常な細胞が発生して悪性腫瘍化する傾向が示唆された。






2021年12月10日金曜日

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(GFP)は、クロアチアの山中でパルチザンを虐殺した。その他にユダヤ人、任意の容疑者も虐殺した。

ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)は、クロアチアのパルチザンを虐殺した。GFPは東ヨーロッパとバルカン半島の全域でパルチザン、ユダヤ人、任意の容疑者を対象とした虐殺行為を絶え間なく激化させて抑制が効かなくなった。反パルチザン部隊として、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppe)と協力して、ソ連のレジスタンスの容疑で捕虜になった戦闘員や民間人を死刑や拷問した。GFPは協力者の助けを借りて、家や村全体を組織的に焼き払った。GFPは、赤軍に解放される前に囚人を略式で処刑した。1943年に親衛隊と警察のGFP報告書には、東部戦線で約2万1,000人が一部は戦闘中に、多くは尋問後に射殺されたと記された。キエフ近郊のベラヤ・ツェルコフという町で、GFPは子供たちを殺す決定を第6軍の司令部に要望して、後に子供たちは銃殺された。1941年の夏から秋にかけては、ウクライナのジトミル地域でナチス親衛隊とドイツ国防軍からなる治安部隊による掃討作戦に、GFPは参戦した。GFP部隊の報告書では、東部戦線だけで約21,000人が実戦中に殺害あるいは尋問の後に銃殺されたと記録された。

 秘密野戦警察(GFP)は、第二次世界大戦に向けてドイツ国防軍により設立された軍事秘密警察組織である。この部隊はスパイ対策、破壊工作、サボタージュ摘発、対プロパガンダ、軍事施設保護、軍法会議の捜査などといったドツ国防軍への情報提供や占領地及び戦地の警備任務を行うために1939年7月27日に編成された。GFPの要員は防諜警察 (Abwehrpolizei)とも呼ばれ、国防軍の防諜部の執行部隊として、占領下で対レジスタンス、パルチザン活動を取締った。共産党員の政治的粛清とロシア人の劣等民族絶滅(ホロコースト)」を執行した。ドイツ軍の占領地域で住民を監督して、放浪する老人や女性、子供を無差別に敵の容疑者として、憲兵やSDに引き渡された。歩き回って捕らえられ脱走した者は即決で銃殺された。GFP部隊は家や村々を焼き払う作戦も実施した。GFPは拷問や処刑から虐待と虐殺などの戦争犯罪を行った。1943年半ば以降に、GFPはすべてのドイツ軍の脱走兵やソ連軍から脱出した捕虜を追跡して処刑を命じられた。

 GFPの事件は、1948年になって追試で扱われた。ニュルンベルク裁判が始まった1945年11月には、扱うにはあまりにも複雑な内容であった。連合軍検察側はSS、ゲシュタポ、SDを直ちに戦争犯罪の事実を集めたが、GFPの幹部は国際軍事法廷で起訴されなかった。逆に冷戦が始まると、多くの諜報機関が、スパイ活動や破壊工作を実行できるナチスGFP専門家を再雇用した。 


ドイツ秘密野戦警察がクロアチアでパルチザンを虐殺した。



ドイツ国防軍の秘密野戦警察(Geheime Feldpolizei:GFP)


2021年12月9日木曜日

レイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。

太平洋戦争のフィリピンのレイテ島の戦いにて、1944年12月16日夜にアメリカ軍により重爆撃機が撃墜されて、タクロバン飛行場に激突して、乗員していた日本軍兵士が滑走路に激突して殺害された。その死体は粉々になり、地面に激突して崩壊した無残な戦闘機の機体の周辺に散乱した。日本軍の高千穂空挺隊の一部は、ほとんど生還の見込みが薄いタクロバン飛行場への独力による攻撃も追加された。当初は、近隣に日本軍が潜伏するブラウエン飛行場のみの戦略であった。タグロバン飛行場を攻撃した戦闘機はほとんど撃墜されて、全員が全滅してマニラに生還できなかった。

 タクロバン飛行場に対する日本軍の挺進部隊の攻撃は、対空砲火によって輸送機が撃墜されて全員が戦死した。タクロバン飛行場では、日本軍との合流ももなく、全くの片道の自滅する攻撃になった。タクロバン飛行場に向かう日本軍の着陸部隊は独力でアメリカ軍の飛行場と滑走路ならびに軍事資材の破壊を命令された。日本軍の空挺隊がアメリカ軍のまっただ中に強行着陸あるいは落下傘で降下した。重爆撃機の約2機の約13人が強行着陸して、輸送機の2機の約13人がパラシュート降下を命じられた。1944年12月6日15時40分にルソン島のアンレレス南・西飛行場から離陸した。アメリカ軍の飛行場を一時的にでも制圧して、多数の日本軍の輸送船団を間接的に防護することが目的であった。

 1944年12月7日にアメリカ軍の大軍が、すでにレイテ島のオルモック湾南方イピールに上陸していた。日本軍幹部は、12月12日にはブラウエン作戦を中止を決定していた。ブラウエン飛行場まで約10kmまで接近した日本軍に撤退が命令された。ブラウエン作戦に参戦した日本軍の高千穂空挺隊は孤立して見殺しにされた犠牲は、アメリカ軍にほとんど無駄となり奏功もなく終滅した。ブラウエン飛行場等を制圧する意義も消失して、イピール方面の防御に転換した。制空権と制海権を失ったレイテ島の日本軍兵士には、食糧がほとんど届かず、深刻な飢餓に襲われた日本軍兵士は、密林で病死あるいは餓死した。レイテ島の戦いにて悲劇の日本軍兵士は、アメリカ軍に殺害された戦死者数よりも、病死あるいは餓死者の数が上回った。1944年10月20日からのレイテ島の戦いで、日本軍兵士は約79,261人が死亡した。アメリカ軍は、戦死が約3,504人、戦傷は約11,991人を伴った。



2021年12月8日水曜日

ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪したドイツ軍兵士が殺害された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ロシアから撤退するドイツ軍兵士が1942年6月9日に、ロシアの集団農場から食料や暖房具を略奪した。その戦利品を持って退却中のドイツ軍兵士が殺害された。手前のドイツ軍兵士の死体の側には、戦利品は明らかにストーブとなるガスボンベがあった。1941-1942年の重要な冬に起きたロシア軍による大攻勢による生々しく悲惨なドイツ軍兵士の虐殺となった。

 飢餓計画は、第二次世界大戦中にソ連から食料等を奪い、ドイツ軍兵士や民間人に与えた。1941年のソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦の後に、何百万人ものスラブ人を飢餓で大量虐殺することを意図した。ドイツでは食料の自給率が低く、戦争を継続してドイツ国内の士気を維持するために、征服地からの食料等が必要であった。政策的に飢餓を発生させ、数百万人を殺害した。ドイツ国防軍の侵攻に備えて、ウクライナの食料品をロシア中北部から、ドイツ侵攻軍やドイツ国内の住民の手に渡るようにした。ソビエト連邦のドイツ占領地域で何百万人もの市民の死を引き起こした。ドイツ軍は、特に肥沃なウクライナの穀倉地帯から穀物の在庫を大量に略奪して、ソビエトから切り離して重篤な飢餓につながった。人種的に劣ると見なす人々からの土地や食料の略奪を正当化した。

 略奪の目的は、兵士が優れた敵の装備を狙った。東部戦線の極端な低温にも耐えられず、厳寒の地では、銃のオイルが凍って使用できない問題が多発した。東部戦線では、コートや毛皮の帽子、ブーツなどの防寒具も略奪した。最高の装備を持っている側は、敵がそれを狙った。東部戦線での激しい戦闘と深刻な物資不足のため、双方ともに略奪が増えた。兵士たちは、相手側の食料や煙草の供給状況をすぐに把握して略奪をした。戦争末期には、略奪が生き残りをかけた復讐行為にもなり得た。

 第二次世界大戦が、多くの兵士にとって常識を大きく覆した。平和時には他人に銃を撃つことなど考えない市民が、戦時には銃を撃って他人を殺す。人生で一度も物を盗んだことのない市民が、カラスらのように盗む。戦時中にては、規範が全く違い、ある種の価値観や行動は通用しない。兵士は他人を殺すために訓練される軍事システムは、民間市民とは全く異なり、戦時中に最も顕著となる。民間市民に対する多くの虐待や、捕虜の処刑などその他も、規範の完全な戦争犯罪を証明している。





2021年12月7日火曜日

第二次世界大戦にロシアで3年間も焦土作戦が繰り広げられ、餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間の全滅など約700万人の犠牲者が出た。

第二次世界大戦の東部戦線では、ロシアは何年も焦土作戦が繰り広げられた。餓死、殺害、拉致、銃殺、戦線間での全滅など、約700万人の犠牲者が出たのである。独ソ戦直後の焦土命令に示されたロシア国民の居住地では、民間ロシア人はロシア軍による焦土作戦に無差別に巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍にロシアの国土と資源を明け渡さない至上目標を掲げた。

 1941年6月22日から勃発した独ソ戦にて、赤軍は撤退にあたり敵軍に利用価値を壊した。ドイツ軍も同様に撤退にあたり敵軍の利用価値を壊した。スターリンはナチス・ドイツ軍がロシアの資源を利用を防ぐため、構造上に疎開できない全ての経済的施設を破壊することを1941年7月3日に命じた。破壊命令の対象とされたのは、大部分が輸送機関と電力の施設だった。余剰した機関車は徹底的に破壊され、多くの修理工場は爆破された。ドニエプル河の水力発電所は水門が開放され、労働者たちが水力タービンや発電機を破壊した。

 ロシア本土の各地で破壊活動が行われたが、特に白ロシアやウクライナ西部ではドイツ軍の迅速な占領により、破壊する時間さえ残っていなかった。ロシアの焦土作戦はある程度まで奏功して、ナチス・ドイツ軍は独ソ戦の開戦前の推定が大きく変更した。クロム、ニッケル、石油などのソ連邦の原料資源は、ドイツの軍需生産に不可欠であり、押収した工場設備や労働者はドイツ国内の労働力不足を解決する予定であった。広大なロシアの領土を侵略するドイツ軍の兵站支援に、機関車と貨車が拘束されて、奪取した資源や工場設備の運搬は後回しにされた。しかし、スターリンの破壊命令はここまでに留まらなかった。赤軍の将兵に対してはモスクワ、レニングラード、ウクライナのキエフといった大都市の死守を厳命した。一方、都市が陥落した際には、ナチス・ドイツ軍に最大限の損害を与えるため、共産党地区委員会と内務人民委員部(NKVD)の特殊工作班に都市の爆破を準備させた。1941年11月17日、スターリンは指令第428号を発布して、以下の司令でロシア国土を焦土へと変えた。

 1. 最前線から奥行き約40~約60kmの距離、道路から左右約20~約30キロの距離に含まれるドイツ軍の後方地域にあるすべての居住地を破壊して、焼き払う、居住地は爆破して焼き払う、直ちに行動範囲内へ航空兵力を投入して、大砲、迫撃砲、偵察隊、スキー部隊、火炎瓶などを装備したパルチザンを広い範囲で焦土作戦に使用する。

 2. 居住地を爆破し焼き払うため、前線部隊の各連隊に約20~約30人からなる破壊工作の志願者隊を編成する。居住地の破壊に貢献した者を表彰した。




2021年12月6日月曜日

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤーは、1933年6月8日にナチスの親衛隊と突撃隊によって暗殺された。

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤー(Heinrich Kiepenheuer)は、1933年6月8日にデュッセルドルフの近郊で、ナチスの親衛隊(SS)と突撃隊(SA)によって暗殺された。その暗殺事件後に警察は、ライン川の橋の上で殺害された無残な死体を検証して写真を撮影した。鉄道員であったキーペンホイアーは、ナチスにとり違法なパンフレットである死(Die)を配布していた。キーペンホイアーは、SSとSAによる追撃からの逃走中に捕獲されて射殺された。

 ナチス・ドイツである国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP, ナチ党)がファシズム支配化する初期段階で、ナチスにとって邪魔者を暗殺した。ヒトラーがドイツ帝国首相に就任した1933年1月30日から、いわゆるレーム一揆が発生した1934年6月30日までのテロの犠牲者は、ナチス政権の権力の掌握と強化の開始点と終了点として研究されている。ナチスの初期段階で殺害された人々の総数は推定である。新聞報道の分析では、1933年1月31日から8月23日の間に約220人(ナチス反対派約196人、国家社会主義者約24人)が殺害された。歴史学者は、1933年10月までに殺害された人数を約500~600人と推定された。伝記作家は、ナチス支配の初期に少なくとも約500から約600人が殺害されたと推定した。警察本部からプロイセン内務省への秘密の報告書では、1933年2月27日の国会議事堂放火事件から3月25日までの間に、ベルリンだけで約247人が殺害された。リストには、SAやSSなどの国家社会主義組織のメンバーや、秘密国家警察などの国家の弾圧機関によって殺害された明らかな人数のみが含まれている。具体的なテロ犠牲者約353人は、名前、少なくとも関連する個人的な調書が網羅されている。

  1933/1934年の権力掌握期における国家社会主義者のテロによる犠牲者が分類された。

1) 悲惨なテロ対象となった犠牲者 

 共産主義者、社会民主主義者、ユダヤ人など排除者に属して、恣意的にSAや他の国家社会主義部門によって殺害された。公道や自宅、SAの地下室、ストームルーム、宿舎などで虐待と虐殺での死亡者、逮捕後に刑務所や強制収容所で殺害された者、さらに逃走中に逮捕されたキーペンホイアーも含む。

2) 裏切り者による犠牲者

ナチスの特定の有力者、孤立者は下級幹部から特に嫌われて、標的テロで殺害された。

3) 強制収容所や監獄で非業の死を遂げた犠牲者

強制収容所または刑務所の収容者は、看守らの野蛮な攻撃で、暴力による殺害、裁判所判決とは対照的に、非公式の殺害、上司からの命令、偽装されて意図的な殺害、(看守に殴り殺される、銃で撃たれる、首を吊らるなど)、看守による組織的または無慈悲な虐待と虐殺の結果として殺害された、過酷な労働条件の下で疲労困憊して倒れた心身の障害として死亡した。

4) 司法の場での殺人事件の被害者

1933年までのドイツの死刑制度にて、裁判所により不正に死刑判決が下された。1933年までドイツ帝国の刑事犯罪(殺人、強姦など)ではなく、政治犯罪(反対運動、腐敗など)で処刑された、問題のある法律や慣行に基づいて死刑判決を受け処刑された。







2021年12月5日日曜日

日清戦争にて平壌の戦いで、平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。

日清戦争において平壌の戦いが、1894年8月15日に勃発した。北朝鮮の平壌郊外にある玄武門前で、日本軍に囚われた清国軍兵士が、大木から首を吊るされて絞殺された。夕方頃に雨のために戦闘が中断されて、清国軍は平壌の高所を失って、約1日の戦闘だけで残った弾薬ではもう1日の戦闘を持続できなかった。食糧も尽きていることから、平壌の放棄を決定した。清国軍は、食料と弾薬が尽きて、わずか1日で平壌を捨てて午後9時から敗走を余儀なくされた。清国軍兵士は雨の中を群がって義州街道を北に向かって退却したが、日本軍の警戒線で追撃を受けて、清国軍兵士は甚大な犠牲を伴った。清国軍は、9月24日まで中国に全面退却した。

 1894年8月下旬頃に、北朝鮮の平壌に清国軍が集結した。日本軍は速やかに平壌の清軍を撃破するために、9月15日早朝から、各日本部隊は一斉に突撃を開始した。16時40分頃には、清国軍は白旗を掲げて降伏した。夜の風雨の中を北方に向けて撤退した。日本軍は、9月16日朝に平壌を占領した。日本が清国軍を朝鮮半島から追放するための決戦となった。日本軍の侵略を加速させ、平壌を迅速に占領して、清王朝の国境を直接に脅かした。日本軍兵士の犠牲は戦死者は180人、戦傷者は約506人で、行方不明が約12人であり、一方の清国軍兵士は戦死者約2,000人、捕虜約683人であった。

 1875年9月の江華島事件を起点として、1876年2月26日江華島条約(日朝修好江華条約)が締結された。朝鮮の独立を承認して、約65年ぶりに日朝修好が復活した。条約により、清国の朝鮮への宗主権を否認した。1894年2月に朝鮮で起こった農民反乱の甲午農民戦争(東学党の乱)が、李王朝への反発から欧米や日本の侵入に対する反対運動に進展した。朝鮮政府は、鎮圧のために清国に救援を求めた。清国から朝鮮への出兵の通告を受けた日本政府は、直ちに出兵して清国軍と共同して朝鮮の内乱を鎮圧した。朝鮮への内政干渉を宣言して、清国は拒否すると、日本軍は朝鮮王宮を占領し、朝鮮政府に清国軍を撤退させるよう求めた。1894年7月25日の日本軍による清国艦隊への奇襲攻撃(豊島沖海戦)から成歓・牙山の戦闘が起点に、日清両国は8月1日に、両国とも宣戦布告して日清戦争が勃発した。