2021年7月10日土曜日

広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。

 広島原子爆弾に被爆した少女が、1945年9月12日に火傷の治療を救護所で受けた。その手当も、看護婦が傷口にマーキュロを塗るしかできなかった。厳しい火傷の疼痛に耐えながら、被爆者の娘さんは、有り難いマーキュロを火傷の傷に塗布してもらってた。薬等ほとんどなく赤チンあるのみで、目を覆うような被爆者達に塗布された。その後には醜いケロイドが発生すれば、将来には悩みを抱えることになる。治療といっても包帯を替えたり、油や赤チンを塗ったりのみであった。真夏の時期であり、火傷には膿を持ち、ウジなどがわいた。

  薬も不足すると、マーキュロクロム液を混ぜて火傷に塗布した。マーキュロは、水溶液が赤いので「赤チン」と呼称された。マーキュロは、1~2%に希釈して水溶液を使用される。細菌の発育抑制して、局所の刺激性が少なく、創傷や皮膚粘膜の消毒に用いらた。有機水銀製剤であるために、静菌であり,浸透性も弱く殺菌作用は弱かった。マーキュロは1918年にW.ヤングらによって開発され、日本には1936年頃から利用された。

  有機水銀による熊本県水俣湾でのチッソ社が起こした水俣病が1956年に発見された。新潟県阿賀野川流域で昭和電工による第二水俣病が1965年に発見された。有機水銀による毒性と高い蓄積性で多数の被害者を出して。日本国内では1973年に製造禁止、2019年から全く使用できない。




2021年7月9日金曜日

アメリカ軍によるグアム島の偵察と掃討にて、1945年6月1日にジャングルの中で日本軍兵士の飢餓して腐敗した死体を発見した。

グアム島の戦いで小部隊による日本軍の夜襲などが断続的に続けられ、日本軍の遺棄死体が増大した。日本軍は1944年8月11日以後に残存した兵力を持って北部密林地帯での持久戦を展開した。密林内にて掃討あるいは飢餓や病気で死亡した。グアム島のジャングルは、植物の迷路と下草などが密集していた。アメリカ軍によるグアム島の偵察と掃討にて、1945年6月1日にジャングルの中で日本軍兵士の飢餓して腐敗した死体を発見した。

 太平洋戦争において、日本軍は真珠湾攻撃から3日後の1941年12月10日にグアム島を占領した。グアム島の戦いが1944年7月21日から8月10日まで勃発した。グアム島の戦いは、グアムとその他のマリアナ諸島、およびパラオ島の群島を含む、アメリカ軍の作戦の一部であった。約340km平方マイルのグアム島に、アメリカ軍は舟艇と砲撃および空爆に支援され、上陸して侵攻した。約59,000人のアメリカ軍兵士と多数のネイティブチャモロ人が、約18,000人の日本軍兵士と対峙した。分厚いジャングルと険しい地形での戦闘は双方に甚大な犠牲を伴った。8月10日に停戦した時に、約1,783人のアメリカ軍兵士が殺害されて、約6,010人が戦傷した。日本軍は約18,377人の日本軍兵士が殺害され、約1,250人が捕獲された。

 組織化された日本軍の抵抗は1944年8月10日に停戦した。8月11日以降に、指揮失った日本軍兵士は、反撃の機会を待つために1人ずつ分散してジャングルに入った。約7,500人の日本兵がしばらくの間ジャングルに留まって、何人かは戦闘を継続した。ジャングルは傾斜した地形を覆って、畑や道路は、雑草、つる植物、下層植生が生い茂っていた。道路や小道から離れた軍隊の移動はほとんど不可能であった。敗戦後の1945年9月4日に残存した日本軍兵士が降伏した。最後の日本軍兵士である横井庄一は、グアム島に派遣されて約28年の1972年1月24日にグアム島のジャングルで発見された。



 

2021年7月8日木曜日

マイダネク強制収容所の焼却炉にて、ソ連軍の接近に伴って殺害された収容所で虐殺された囚人の大量の骸骨が放置されていた。

マイダネク(Majdanek)強制収容所の焼却炉にて、ソ連軍の接近に伴って殺害された収容所で虐殺された囚人の骸骨が放置されていた。ナチス親衛隊は証拠隠滅のため死体が掘り起こされては再度に白骨を焼却した。収容所は1944年7月23日にソ連軍により解放されて大量殺戮が発見された。

 マイダネクは、1941年10月にナチス親衛隊が運営する捕虜収容所としてポーランドのルービン郊外に設立され、1943年2月16日に強制収容所として転換された。マイダネクは捕虜収容所、絶滅収容所、子供収容所で構成された。当初は木造の建物にジクロンBの毒ガスを使用する2つのガス室があった。後にレンガ造りの建物にガス室が設置された。その殺戮は1942年4月から始まり、1944年7月22日まで虐殺された。マイダネクは、軍需工場やシュタイヤー・ダイムラー・プフ兵器工場の奴隷労働力となった。ユダヤ人、ソ連軍捕虜、ポーランド人を含む約36万人が殺害された。

 最初の収容者は、ポーランドの政治犯、ユダヤ人、1941年10月に到着した約5,000人のソ連軍捕虜であった。1942年には、スロバキア、保護国、オランダ、ベルギー、フランス、ギリシャからユダヤ人が到着して殺害された。占領下の白ロシアやウクライナでも恐怖に陥れた。収容人数は最大で約25,000人で、アウシュビッツ強制収容所に次ぐ第2番目の規模であった。

 1942年から1943年にかけて、約13万人のユダヤ人がマイダネクに送還された。収容所の一画に木造のバラックに2つのガス室を備えた殺害センターになった。その後、ガス室を収容するレンガ造りの建物が設置された。殺戮はアウシュビッツ・ビルケナウと同様に、チクロンBガスで行われた。ユダヤ人やソ連の捕虜は大量に射殺された。1942年4月には約2,800人のユダヤ人が射殺された。最大の虐殺は1943年11月3日に勃発して、約17,000人のユダヤ人を塹壕で機関銃により射殺された。さらに食糧と環境が悪化した常時に餓死者や病死者が発生した。マイダネクに収容者の約50万人のうち約20万人が死亡して、そのうち約12万5千人がユダヤ人であった。赤軍により収容所は1944年7月22日に解放されたが、ソ連軍が解放したときにはマイダネク強制収容所はわずか生存者は約1,000であり、一部しか破壊されず収容所は残存した。約1,000人の収容者は死の行進で避難させられた。ソ連軍は数千人の収容者がまだ収容所に残っているのを発見した。そこで起こった大量殺人の十分な証拠を発見した。




2021年7月7日水曜日

アメリカの南北戦争にて、5人の北軍のアフリカ系アメリカ人は1965年5月にリッチモンド郊外のバージニア州コールドハーバー周辺で殺害された兵士の骨を集めた。

アメリカの南北戦争にて、5人の北軍のアフリカ系アメリカ人は1965年5月にリッチモンド郊外のバージニア州コールドハーバー周辺で殺害された兵士の骨を集めた。北軍のアフリカ系アメリカ人は、殺害された兵士の頭蓋骨、骨、腐敗した手足など残骸で満たされた担架の近くでしゃがんでいた。コールドハーバーの戦いでは、残酷な塹壕戦と狙撃の欧州で大規模な犠牲者が出た。

 1864年5月初旬に、ポトマック北軍との北バージニア南軍がバージニアでの一連の戦いで衝突した。両者は荒野の森からスポッツシルバニアなどの小規模な戦場まで、リッチモンドを中心とした円弧状に移動しながら、お互いに大きな損害を受けた。5月30日に、北軍と南軍はベセスダ教会で激突した。翌日、両軍の先遣隊は、戦略的に重要な交差点で、第二次コールドハーバー(ゲインズミルの戦いの場所)の戦いが1864年5月31日~6月12日に勃発した。北軍の攻撃により交差点は占拠された。リッチモンドの門前でリーを撃破するために、北軍は6月2日に南軍の全戦線に大規模な攻撃を行う準備をした。北軍の軍団が予定通り到着しなかった。翌日に延期された間に、南軍は塹壕を作った。6月7日に、負傷者を取り戻す2時間の停戦で、負傷者のほとんどは戦死していた。負傷者の一部は軍隊に這って戻り、暗闇に軍隊によって回収された。

 長引く南軍の追撃に対して、6月3日に攻撃した北軍には悲劇的な戦闘になり、北軍は大敗戦に陥った。北軍は猛烈な南軍の銃撃を受けて多数の死傷者を出した。南軍の塹壕に到達できたのはわずか数箇所であった。北軍の無謀な戦闘により、大きな損害を受けた。コールドハーバーの第2次戦闘では、北軍は約11万7,00人のうち約1万2,738人が戦死して、約9,077人が戦傷した。南軍は約6万2000人の兵力から約5,287人が戦死して、約3,376人が戦傷した。北軍は約9日後にはコールドハーバーから撤退して、引き続いて南軍の側面から攻撃した。北軍は、リッチモンドの南に位置するピーターズバーグで、約9ヶ月に及ぶ包囲戦が繰り広げられた。第二次コールドハーバーの戦いは、南北戦争中に南軍が勝利した最後の戦場となった。



2021年7月6日火曜日

ソビエト軍が1939年に西ウクライナのゾーチロウを占領後に、ソビエト秘密警察は、民族主義者、政治家、知識人をゾーチロウ城に投獄して虐待して中庭で虐殺した。

ソビエト軍が1939年に西ウクライナのゾーチロウを占領後に、ソビエト秘密警察(NKVD:内務人民委員部)は、ウクライナとポーランドの民族主義者、政治家、知識人をゾーチロウ城に投獄して、少なくとも約649人が虐待されて中庭で虐殺された。

 NKVDは西ウクライナ全域で、1941年6月23日からウクライナ人政治犯から大量死刑が始まった。当初は、NKVDは虐殺処分はウクライナ西部地域の囚人から、後に他の地域に広がった。約2週間で、ソビエト軍は約22,000人以上を殺害した。1941年にウクライナ西部でNKVDが刑務所で大虐殺を執行した。1941年6月22日、ドイツとソビエトの東部戦線で戦争が勃発すると、ソビエト軍にとり、多くの囚人がいる刑務所が問題となった。最初にウクライナ西部最大のリヴィウ刑務所(ロンスキー刑務所)で、約5000人以上の反革命活動の囚人がいた。

 解決する最初の措置は、ソビエト軍が登録した囚人を2つの集団に分割した。強制労働収容所あるいは虐待されて虐殺された。ドイツ軍から囚人の逃避には、リヴィウから約4万5千人の囚人を逃避させる計画であったが、刑務所に残っていた3,000人の囚人は、即座に射殺された。最初は特別な穴で、後頭部を狙って撃たれた。ドイツ軍が近づくと、囚人らはは地下室に追いやられ、窓から機関銃を撃ち抜かれた。死体はトラックに運ばれ、塩で覆われた掘られた穴に捨てられた。ナチス・ドイツ軍が到着する前に、処刑された人々は刑務所の地下室に投げ込まれた。テルノーピリ地域では、ドニエストル川を渡る囚人を乗せた約14台の貨車が破壊された。貨車には燃料をまき散らし、火をつけて、川に捨てられた。ドニエストル川の急勾配の土手で、約1,000人以上の囚人が虐殺された。

   約2,000人以上の囚人がルスク刑務所で射殺された。若いウクライナ人、民族主義者組織、聖職者、そして知識人らも射殺された。6月22日に、ルツクがドイツ軍に爆撃され、囚人は6月22日から23日まで一晩中刑務所で射殺されて、約625人の囚人だけが生き残った。囚人の死体には灯油が注がれて燃やされ、石灰が振りかけらた。6月23日以降、さらに死刑執行は激化した。ソビエトが撤退する前の最後の数日間、機関銃と手榴弾で処刑された。犠牲者の苦悶する叫び声を消すために、轟音を立てる自動車とトラクターのエンジンで轟音立てて死刑が執行された。同様な虐殺が、ウクライナの中央東部地域であるウマニ、キエフ、ハリコフの強制収容所でも勃発した。




2021年7月5日月曜日

南ベトナムのトゥイホアでの地雷の爆発により、約15人のベトナム民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。

1966年3月18日の南ベトナムのトゥイホアの西約8kmの田舎道での地雷の爆発により、約15人のベトナム人民間人が殺害されて、4人が負傷した。母親が地雷の爆発による犠牲者となり、娘が死体の側で泣き叫んだ。トゥイホアはフーエン県の州都で、ベトナム中部のダラン川の下流に位置する。

 ベトナム戦争では、ベトコン(VC)やベトナム人民軍(PAVN)の紛争にて、殺人、誘拐、拷問、脅迫が日常的に執行された。ベトナム市民を脅し、敵対勢力を排除して、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダを強化した。1954年から1975年の間にVC/PAVNによって殺害された南ベトナムの民間人の総数は、約10万6000人から約22万7000人と推定された。ベトナム市民を臆病にさせ、敵対者を清算し、南ベトナム政府職員の士気を低下させ、徴税やプロパガンダ活動を後押した。恐怖で、南ベトナム政府が防御できないことを示した。ベトナム戦争の初期には、暗殺や同様のテロ活動がVCの特別活動隊によって組織された。VCに集約され、1970年には約25,000人の部隊に達した。標的を絞った殺人や誘拐に加え、VCとPAVNは、頻繁に難民キャンプを押し込め、村人が頻繁に通る道路に地雷を設置した。大型車が通過したときに爆発した。約122mmのロケットで主要都市を無作為に砲撃した。大規模なテロ事件には、Đắk Sơnの虐殺、Huếの虐殺、Son Traの虐殺、Thanh Myの虐殺などがある。

 ベトナム共和国軍(ARVN)やアメリカ軍も、住民を狙撃したり、襲撃したり、地雷や罠を村や周辺に設置した。村人たちの反応や報復攻撃を早急に引き起こした。VCはある村に入り、地元の住民に革命を支持を強要した。テロ情報を地区の首都に伝えた翌日に、アメリカ軍機がその村と教会を爆撃した。破壊された後にVCの工作員が現れ、生存者にアメリカ帝国主義者の背信行為を洗脳した。PAVN/VCの部隊は、テロ戦術を一貫して否定した。1968年から1972年まで、テロリストの犠牲者の約80%は一般市民であり政府関係者、警察官、自衛隊員、平和化の幹部は約20%しかいなかったと示唆した。




2021年7月4日日曜日

カンボジア内戦にてソム・ラングで、路店で若い夫が内戦に巻き込まれ砲撃で殺害され、死体の側で若い妻がうめくように慟哭した。

カンボジア内戦にてソム・ラングで、1998年1月13日の夕方に路店で若い夫が内戦に巻き込まれて殺害された。砲弾が直撃して即死した夫の死体が地面に仰向けに横たわった。無差別な砲撃により、若い夫の上半身には切り裂かれた深い傷跡から出血していた。その死体の側で、若い妻がうめくよう泣いて、涙を流した。若い妻は、周囲のカンボジア人に対して、「夫の指から、指輪をはずして」と震えながら訴えた。結婚してもまだ新婚の時期でもあった。若い妻は、周囲のカンボジア人に夫の指から指輪をはずしてもらった。妻は夫の指輪を手のひらに握り、大声で泣き続けた。

 フン・セン軍は毎日のように攻撃して、ラナリット軍が抵抗していた。突然に、ラナリット軍がフン・セン軍が駐屯するソム・ラングに砲撃した。住民は、砲撃の中てで直ちに庭先に穴を掘って、まず子供たちを穴中に入れて、住民たちは身を屈めた。金持ちや上級国民だけは、国外に逃避できたが、戦場に弱い立場の市民らは取り残された。仏教徒である市民は、内戦を恐れて寺院に集まっては平和を祈っていた。無差別な砲撃は、病院にも達して、医療関係者も立ち去った。負傷兵は戦場から引き戻すも、死体は放置された。地域の火葬場では、1日中死体が燃やされ続けた。侵攻する軍隊の貧しい兵士が、地域の民家からも略奪して、カンボジア市民が犠牲となった。激しい内戦中は、ラナリットもフン・センら上級幹部は、国外に避難していた。

 1997年7月5日にカンボジアの本格的な内戦が再び勃発してフン・セン軍が首都プノンペンのラナリット軍に侵攻した。直ちにタイとの北西部の国境の近隣まで戦場が拡大した。多くの市民が内戦に巻き込まれて犠牲となった。ベトナム戦争中の1970年3月に、親米派のロン・ノル軍事政権が樹立されて、クメール・ルージュのポル・ポト軍とロン・ノル軍が内戦で激突して全土に拡大した。無差別な爆撃と腐敗によりロン・ノル政権は崩壊した。1975年4月にポル・ポト政権が樹立した。都市住民の農村への強制移住・私有財産の停止・寺院や学校閉鎖して、約100万人ものカンボジア人が虐殺された。1982年に、シアヌーク派・ポルポト派、ソンサム派の連合政権が樹立された。タイ国境の連合三派とヘン・サムリン派の内戦が継続した。1993年に、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)が主導してカンボジアで四派による総選挙が実施され、ポル・ポト派は離脱した。1995年にフンシンペック党のラナリット派と人民党派のフン・セン派の対立が激化して、爆弾テロが頻発した。1997年に、二派が対立して再び内戦に突入した。1998年に第2回国民議会選挙でフン・セン連立政権が樹立された。それ以後は第3回(2003年)、第4回(2008年)、第5回(2013年)、第6回(2018年)国民議会選挙にて、フン・セン政権が再選が継続して長期独裁政権が継続している。



 


2021年7月3日土曜日

広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。

 広島赤十字病院で1945年10月初旬に、病院職員により若い男性と女性が原子爆弾により火傷した傷口の治療を受けた。広島市内は医療資源の多くが破壊されて、治療には限界があった。救護所が、広島赤十字病院にも設置された。医療関係者がヨウ素軟膏、メルクロクローム、酸化亜鉛などの軟膏を火傷に塗り、包帯を巻いた。すぐに医療品は枯渇して、公式の被害報告によれば、食用油と包帯程度の治療を受けた。広島赤十字病院で1945年10月に22歳の被爆者の陸田豊子(右端: くがた とよこ)が治療を受けた。陸田豊子は爆心地南約1.7kmで被爆して、住まい隣の農家から借りた大八車の荷車に乗って広島赤十字病院に通って治療を受けていた。

  医薬品がなくなり、救護所を離れた被爆者や身寄りのない被爆者は、食用油、じゃがいものスライス、きゅうりのすりおろし、トマトの絞り汁などを熱傷に塗った。暑い夏には、傷口にハエが卵を産み付けるので、箸でウジ虫を取り除いて治療することも多かった。全身の30%以上に火傷を負った者は、その傷が原因で死亡した。原子爆弾の放射線を浴びると、傷の治りが著しく遅くなり、中には何年もかけて治すものもある。ほとんどの場合、治療後にかさぶたができて剥がれ落ち、ケロイドと呼ばれる赤いゴムのような皮膚の塊が残ることが多い。顔に火傷を負った被爆者は、結婚相手を見つけるのが困難となった。火傷の被爆者は、周囲からの偏見に耐えていた。火傷が臭いと言ったり、ケロイドが伝染する、赤鬼と呼ばれ、焼けた肌を見て気分が悪くなったと偏見を持ち続けた人も少なくなかった。火傷を負った被爆者の中には、日本の暑夏でも長袖のシャツやハイネックを着て、火傷を隠そうとした。精神的な傷を負わずに済んだ者はほとんどいない。爆心地に接近した不運な被爆者たちは、もちろん黒焦げの死体となった。




2021年7月2日金曜日

アメリカ軍の軍隊に兵士となるために、残酷にも敵を銃剣で刺殺することで、自分の身を守る殺人の方法を軍事訓練で学んだ。

第二次世界大戦のアメリカ軍の軍隊において息子が兵士となるために基本的な軍事訓練を強制された。残酷にも敵である人間を銃剣で刺殺することで、自分の身を守る殺人の方法を軍事訓練で学んだ。

 軍隊の上官からの息子の母へ贈る言葉。

「息子を陸軍キャンプに送ることがどういうことか、あなたにお伝えします。あなたの息子さんは、キャンプ・リーの準兵補充訓練センターでの訓練に割り当てらた。訓練期間の半分は基本的な軍事訓練に費やされて、銃剣で自分の身を守る方法を学んだ。武器の扱い方や正確な行軍を学んだ。残りの半分の期間は、準軍人部隊の技術者の訓練も受けた。

 軍隊は訓練や勉強ばかりではない。兵士は肉体的にも精神的にも壮健である必要がある。私たちのトレーニングセンターには充実した訓練プログラムがある。宗教的な多くの礼拝堂があり、すべての主要な宗派から慎重に選ばれた。

 息子の行動には強制的な制限が加えられる。緊急の場合を除き、一時帰宅は認められない。息子は規則正しく早い時間に起床し、就寝する。あなたが息子に信頼を寄せたように、あなたも軍隊に信頼を寄せる必要がある。民主主義への脅威をなくすために、軍隊と同じように、息子も母も役割を果たすことができるでしょう。」

 銃剣で兵士は、敵を刺殺する必要に迫られた。兵士は騎兵の前で銃を降ろすと、直後に短刀の武器を馳せた。速くて軽い武器に対して銃剣が代替した。銃剣は16世紀後半頃から出現した。ライフルの棍棒から刺すような銃剣に転換した。銃剣は様々な形状の刃で構成されて両刃で先端が鋭い。銃剣はナイフとダガーの両方の機能を果たし、ライフルに銃剣を装填して攻撃した。

 軍事的必要性から、銃の再装填や銃剣を装着して射撃した。銃剣を装着したままでも、刃を射線上から移動させて、銃剣の再装填をした。銃剣を銃身から外れるのを防ぎ、ライフル銃の銃身を固定して変位を防いだ。19世紀初頭から、最初の圧着式銃剣が製造され、長い刃を持ち、背筋を伸ばして刃と平行にした。銃剣型サーベルは、その長い刃と特徴的な形状から、ライフル銃にも対応した。ヨーロッパの軍隊で採用され、銃剣型のサーベルが次々と装備された。歩兵用の銃剣を長くして、射撃量の減少や騎兵の衝撃に対応した。

 兵士の射撃量は大幅に増加し、騎兵は圧倒的な優位性を失った。20世紀初頭から、大規模な移動式の戦闘は、陣地戦に取って代った。防御施設と砲兵が砲撃する陣地は、戦地で兵士が生き残るための不可欠な条件となった。狭い塹壕の中で、短くて扱いやすい銃剣が代用した。最近の銃剣は、よりナイフに近い武器となった。銃剣を武器として使用する戦術的な変化も伴なった。第二次世界大戦にも、銃剣の形状は、最初は片刃で先端が長いものから、数年後には断面が三角形で先端が鋭くなった。アメリカ軍の銃剣にはさらに長い刃が採用されて、銃剣と掘削器具の2つの機能を持った。



2021年7月1日木曜日

2人の無政府主義者が警察に爆弾を投げた瞬間に爆弾が暴発し、1人は即死して、もう1人は手と目を吹き飛ばされ死亡した。

ニューヨーク市の失業者会議が、ユニオン・スクエア・パークで集会する権利を、彼らが許可なく運動していいたので、数百人の警察は群衆を解散させるように弾圧された。その直後の1908年3月29に、イグナツ・ヒルデブランドとセリグ・シルバースタインの2人の無政府主義者のうち、シルバースタインが警察に向かって爆弾を投げようとした。犯人と目撃された彼らは、不運なことに投げた瞬間に粗末な爆弾が爆発した。ヒルデブランドは爆発して即死した。シルバースタインは手と目を吹き飛ばされ、まもなく死亡した。この写真は、粗末な爆弾で自爆した後の約20秒後に撮影された。シルバースタインが亡くなる直前に、彼は「警察を殺すために公園に来た。私は彼らを嫌悪している。」と自白した。

 1908年には、アメリカには100以上の都市があり、その人口は50,000人を超えていた。当然のことながら、犯罪の発生がますます懸念された。都市は貧しく、失望した移民で混雑していた。汚職は地方自治体や大企業にて全国的に広まった。フォードからモデルT自動車が発売されて、より経済的に車の台数が増大した。貧困層は犯罪者の発生源と目標の両方になった。暴力的な過激派から成り、思想に強く影響され、貧困層らが嫌っていた政府を打倒することを約束した無政府運動が拡大した。 

 警察は犯罪を封じ込めることができなかった。地方および州の警察官は、訓練が不十分で、賃金が低く、無関係でした。1901年9月6日、無政府主義者のレオン・チョルゴスがニューヨーク州バッファローでマッキンリー大統領を射殺した。マッキンリーは8日後に亡くなり、セオドア・ルーズベルト大統領が宣誓しました。ルーズベルトは、産業社会に正義をもたらすには連邦政府の行動が必要であると信じた。

 1906年、ルーズベルトはシャルル・ボナパルト(ナポレオンの孫)を2番目の司法省長官に任命した。ボナパルトは、増大する犯罪や汚職の問題と戦うには、警察だけでは不十分であると判明した。アメリカの弁護士が訴訟を起こすために捜査官に事実を探索していた。ボナパルトには高度に訓練された高等な諜報機関を雇う必要があった。諜報担当者は、ボナパルト自身の調査を管理せずに、諜報機関長に直接に報告した。

 1908年5月に、ルーズベルトが行政権を超えることを恐れて、議会はすべての連邦部門への諜報機関の創設を禁止した。1908年7月26日に、ボナパルトは「専門家の定期的なチーム」を設立し、司法省にほとんどの調査事件をこの諜報機関に紹介するよう命じた。この諜報機関は、最初は十分に訓練された9人の諜報調査員と25人の主要なエージェントで構成された。1935年に、連邦捜査局(FBI: Federal Bureau of Investigation)に改称された。海外の諜報機関であるCIAと主にアメリカ国内の諜報機関であるFBIに分化した。




2021年6月30日水曜日

ドイツ本土に侵攻する最後のユーリッヒ近郊のルール川の橋上で、1945年2月23日に1人のアメリカ軍兵士がドイツ軍より狙撃を受けて板橋上にうつ伏せに倒れて殺害された。

第二次世界大戦の西部戦線において、ベルギーの国境付近のラインラントにてアメリカ軍が渡河した。ルール川を渡河するために鉄船を連ねてその上に板橋を敷いた。ドイツ本土に侵攻する最後のユーリッヒ近郊のルール川の橋上で、1945年2月23日に1人のアメリカ軍兵士がドイツ軍より狙撃を受けて板橋上にうつ伏せに倒れて殺害された。その周囲には、ヘルメットやライフルが落下していた。アメリカ軍兵士は、川岸からわずか約10メートルの距離にあったときに、ドイツ軍兵士に射殺された。

 アメリカ軍は、ドイツ国内に侵攻するために、1944年11月16日から12月16日までルール川を渡河するクイーン作戦を執行するも渡河できなかった。オランダのモンフォールを無差別に空襲して約186人の民間人が犠牲になり、ラインラントを占領できた。その後に1945年2月からルール川を渡河できた。ドイツ西部のルール川を渡河してジークフリート線に侵攻した。

 ヒュルトゲンヴァルトの森林による防御線で、シュワメナエルダムからヒュルトゲン渓谷全体を氾濫させ、アメリカ軍で最長の戦闘となった。大きな犠牲者を出し、アメリカ軍に約24,000人以上の死傷者と、約9,000人の非戦闘死傷者の犠牲を伴った。ドイツの死傷者は約12,000人の男性が死傷した。1945年2月にシュワメナエルダムを占領して、ルール川を渡河できた。

 第二次世界大戦において、1930年代に建設されたドイツ国境の防衛線は、西壁と呼称されたジークフリート線であった。ドイツ軍の防衛線には、旧ドイツ帝国の西端に位置するオランダ国境のクレーヴから、スイス国境のヴァイル・アム・ラインまで、約630km以上の全長であった。ドイツ軍の防衛線には、18,000個もの掩蔽壕、トンネル、戦車に装置が埋め込まれていた。1944年9月から1945年3月まで、ジークフリート線により連合軍は大規模なドイツ軍の攻撃にさらされた。




2021年6月29日火曜日

日中戦争にて、1937年頃に日本軍は山西省大行山脈の潞安城の付近にて中国軍兵士らを斬首による死刑を執行して、死体が散乱した。

日中戦争において、1937年頃に日本軍は山西省大行山脈の潞安城の付近にて中国軍兵士らを斬首による死刑を執行した。その城内では、日本軍は中国人兵士を斬首したり、竹槍で突き刺していた死体が散乱した。死臭による悪臭が漂っていた。中国各地において、日本軍は中国人捕虜を斬首刑で処刑していた。中国人の首が斬られ、血がバッと飛び散った瞬間に、囚人の身体は反射的に前の中に投げ出した。

 第二次世界大戦後に、中国・東南アジアから太平洋戦線において、斬首により日本軍から多くの戦争犯者を排出して処刑された。1942年以降にて、日本軍は捕虜となった多くの中国人に死刑を執行した。中国人捕虜のうち約2万人は日本本土に送還されて、強制労働に連行された。そのうち約15%が栄養失調等にて衰弱して病死した。

 日中戦争において、写真が日本軍検閲が許可するのは、日本軍兵士が勝利して万歳した勇姿であった。検閲されて不許可写真を所持した民間人は憲兵隊から厳しく刑罰された。戦争中の悲惨なの戦争写真は、ほとんどは不許可写真となった。全滅した敗戦は特に検閲が厳しく、取材や情報収集は一切が禁じられた。日本本土に、写真を送付しても、紙面にほとんど掲載されなかった。必然的に不許可になる写真は、検閲を受けずに社内に極秘にわずかに保存された。極秘のために撮影の年月や場所や氏名などは不明となった。日本国内では、憲兵と警察のサーベルによって言論報道を弾圧した。

 戦争の本当の写真は歴史の真実を映し出し、軍部は真実を隠蔽して虚像を肯定する。1937年7月31日陸軍省令と8月16日の海軍省令は、わが軍に不利なる写真、凄惨なる写真は掲載せざることと厳命した。日本が第二次世界大戦後の敗北後には、日本の雑誌の中には、日本軍が中国を侵攻した古い不許可写真を掲載した。これらの写真は確かに日本軍によって検閲されて掲載不許可となった。良心的な日本人が侵略戦争を振り返り始め、そのような風潮の中、日本軍に良くない古い写真が公開されるのは当然であった。



2021年6月28日月曜日

フィンランド内戦の過程において、1918年に白軍による自衛兵が、社会主義の赤軍の紅衛兵の関係者らを銃殺して撃ち殺した。

フィンランド内戦の過程において、1918年に白軍による自衛兵が、社会主義の赤軍の紅衛兵を銃殺して撃ち殺した。白軍に占領された地域では、労働者組織に所属すると逮捕され、組織の幹部は銃殺された。スヴェボルグでは公開処刑が行われ、機関銃が毎日数時間稼働して、一日に約200人が爆裂弾で撃たれ、肉の塊が四方八方に飛び散った。ヘルシンキでは、白軍とドイツ軍が激しい市街戦に労働者の妻子を先頭に行進させ約100人が殺された。武器を持っていた約40人の赤軍の女たちが氷上に引き出され、裁判なしに射殺された。タンマーフォーで数千人の赤軍が逃亡したが、約2,000人が戦闘で殺害され、約5,000人が捕虜となった。白軍の勝者は敗者の赤軍を虐殺して、ヴィイプリでは、約600人の赤軍が要塞の堀の縁に沿って3列に並べられ、冷酷に機銃掃射された。虐殺された人数は、約1万人から約2万人と推定された。強制収容所に収容された赤軍は約7万人で、約26日間で約2,347人が病死した。

 フィンランド内戦が、1918年1月27日から5月15日まで勃発した。ロシア帝国の大公国から独立国へと移行する過程で、フィンランドの指導権と支配権をめぐって起こった内戦である。この内戦は、ヨーロッパにおける第一次世界大戦の東部戦線による国家的、政治的、社会的混乱の一環として勃発した。フィンランド内戦は、社会民主党を中心とした「赤軍」と、非社会主義者である保守派の元老院が指揮する「白軍」の間で行われた。フィンランド南部の都市や工業地帯を支配していたのは工業・農業従事者で構成された準軍事的な「紅衛兵」であった。一方、準軍事組織である「白衛兵」は、農民や中産階級、上流階級で構成され、フィンランド中部や北部の農村を支配していた。

 フィンランドの社会は、急速な人口増加、工業化、都市化が進み、包括的な労働運動が勃興していた。国の政治・行政システムは民主化と近代化の不安定な段階にあったが、国民の社会経済的条件や国民文化的地位は徐々に向上していった。第一次世界大戦によりロシア帝国が崩壊し、フィンランドの左派労働運動とフィンランドの保守派との間で権力闘争、軍国主義化、危機の深刻化が起こった。

 赤軍は1918年2月、ソビエトのロシアから武器を供給され、総攻撃が失敗に終わった。3月には白軍の反攻が始まり、4月にはドイツ帝国陸軍の部隊によって強化された。この内戦での決定的な軍事行動は、白軍が勝利したタンペレの戦いとヴィイプリの戦い、ドイツ軍が勝利したヘルシンキの戦いとラハティの戦いであり、白軍とドイツ軍の全面的な勝利につながった。赤軍も白軍も政治的なテロを行った。赤軍の捕虜は、栄養失調や病気で多くが死亡した。合計で約39,000人、36,000人のフィンランド人がこの戦争で亡くなった。

 フィンランド人はロシア政府からドイツの勢力圏に移り、ドイツ主導でフィンランド王政を確立する計画を立てた。この計画は、第一次世界大戦でドイツが敗北したことにより頓挫して、フィンランドは独立した民主的な共和国として誕生した。内戦はフィンランドを何十年にもわたって分裂させたが、長期にわたる穏健な政治と宗教の文化、第一次世界大戦の結果、そして内戦後の経済復興を基盤とした社会的妥協によって、フィンランド社会は再統合された。





2021年6月27日日曜日

日露戦争の遼陽会戦にて、首山堡と北大山を攻撃した日本軍は激戦となり壊滅して、殺害された日本軍兵士の膨大な死体を処理した。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年8月30日から首山堡と同時に、8月31日夜半から北大山を、夜襲攻撃した日本軍部隊は、激戦となり壊滅した。翌日の9月1日に午後1時に激戦地で殺害されて散乱した日本軍兵士の膨大な死体を処理した。近代の武器の進歩により、日清戦争とは比較して、大量の弾薬の消耗と死傷者の増大をもたらした。8月30日に、日本軍は、首山堡の東方のロシア軍陣地を攻撃した。人馬・資材・弾薬等の欠乏がひどく強固な敵陣地を十分に攻撃できず、突撃部隊の悲惨な犠牲が増大した。弾薬が尽きた日本軍部隊は、ロシア軍の突撃を排除できず、多くの日本軍兵士が死傷した。夜間攻撃した日本軍は、月光により発見されて、ロシア軍の猛烈な攻撃を受けた。

 8月28日に、日本軍は遼陽会戦にて総攻撃をして、日本軍約13万人とロシア軍約22万人による主力戦闘が、日露戦争において初めて勃発した。会戦とは両軍が想定した場所に、両側から集結して人員と弾薬が揃い次第に大規模な戦闘を開始することを示唆する。9月1日には首山堡から北大山に至るロシア軍が陣地からして退却して、無人となった首山堡を占領した。9月1日からロシア軍は、太子河の渡河をした日本軍部隊に反撃したが、9月3日にロシア軍は断念した総退却した。遼陽会戦は日本軍の遼陽入城で終結した。死傷者は日本軍側が2万3533人、ロシア軍側が2万あまりで、両軍あわせて約4万人以上にのぼった。

 1904年9月29日には、兵力の補充のために、徴兵令を改正して、戦時までは事変で必要ならば臨時招集を可能にした。兵役年齢は18歳〜32歳から18歳〜37歳まで延長された。徴兵後の後備役は5年から10年と延長された。1899年10月より召集令状は「用紙ハ適時ニシテ紅色トス」と赤紙になっていた。1927年3月に、徴兵令にかわって兵役法が公布され、同年12月1日施行された。兵役法と同時に陸軍召集規則、海軍召集規則とあわせて規定されて、徴兵から召集に改定された。召集令状は、軍隊が在郷の者を兵士として召集するために個人宛に発布する令状となった。




2021年6月26日土曜日

長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

ケロイドの形成は、火傷した皮膚に発生した。長崎原子爆弾に被爆した被爆者女性の胸部から乳房まて形成して膨隆たケロイドを、1947年2月に写真撮影をした。

原子爆弾の後遺症と遺伝的影響には次のような原爆症があった。

   1) ケロイド:  広島と長崎の中心部、爆心地付近で著明な一次熱傷または火炎熱を受けた被災者は、凄まじい爆風と放射線によって同時に負傷し、そのほとんどが即死または同日中に死亡した。少なくともステージIの終わりに近い状態であった。これらの二次熱傷は、火炎熱の場合と性質が似ており、真皮深部や皮下組織に大きな損傷を与えるグレード3やグレード4の熱傷に似ていた。これらの病変は閃光火傷を併発していることが多く、治癒までに時間がかかった。太平洋戦争の終戦直前・戦後の劣悪な生活環境も、この長い治癒期間の原因となった。火傷の化膿、傷の修復の遅れ、皮下組織の厚い傷跡の形成につながった。瘢痕組織が収縮し、変形や機能障害が生じた。これらの後遺症は、顔、首、手指に顕著であった。

 爆心地から約2,000~約3,000メートル以内の地区で、頻繁に発生した閃光火傷(一次熱傷)の大部分は、当初は比較的短時間で治癒し、単純で薄い傷跡が形成された。両グループの差違である。骨の成熟については、1973年に調査されて、広島・長崎の胎内被爆児556名と対照群を対象に行われた。これまでの健常児の報告と比較して、手の骨端閉塞が男児では約6~約7ヵ月、女児では約8~約9ヵ月遅く進行することが判明した。

   2) 胎内被爆者の成人期: 1973年に原爆傷害調査委員会は、胎内被爆の晩期障害について報告した。胎内で高線量の放射線を受けた人に見られた原爆症は次の通りである。1)成長・発育(身長、頭囲)の遅延および小頭症の発生率の増加、(2)特に乳児の死亡率の増加、(3)抗体産生の一時的な低下、(4)末梢リンパ球における染色体異常の頻度の増加。しかし、白血病や癌の発生率の増加や、被曝した女性から生まれた子供の生殖能力の変化や性比の変化は認められなかった。

    3) 小頭症 小頭症の頻度は、原爆傷害調査委員会において、広島の胎内被爆者169人のうち、33例の小頭症を発見した。この33例の内訳は、精神遅滞が15例、正常な精神発達が18例、頭囲が標準偏差より3以上小さいのが13例であった。広島で胎内被爆した183人の子供のうち、33例の小頭症を発見した。33例のうち14例は顕著な程度の小頭症であった。長崎の胎内被爆児については、高線量被爆者(1.5km以内、50ラド以上)の平均頭囲が低いことを指摘している。長崎の爆心地から2キロ以内で胎内被爆した102人のうち7例、爆心地から2から3キロ離れた場所で被爆した173人のうち5例の小頭症を報告している。

 1963年に広島で行われた胎内被爆児の調査では、爆心地から3キロ以内で胎内被爆した545人のうち、45例(8.3%)の小頭症を発見し、そのうち12例(2.2%)は著明な小頭症であった。非被爆児473人の小頭症13例(2.7%)と比較しても、胎内被爆者の小頭症の発生率は極めて高い。きのこ会は、小頭症の子どもを持つ親たちの家族会であり、1965年に結成された。その後に、広島の作家やジャーナリストの集団である「広島学習会」の支援を受けた。