2021年6月9日水曜日

1904年に北満州で、ロシア軍は親日派の満州人を首を切断して断頭する死刑を執行した。反抗する住民を身体と両腕を縄で縛って、首を切り落として断頭した満州人の死体の周囲に、ロシア軍兵士と満州人たちが群がった。

1904年に北満州で、ロシア軍は多くの親日派の満州人を首を切断して断頭する死刑を執行した。ロシア軍に要請された満州人の処刑人たちが、反抗する住民を身体と両腕を縄で縛って、首を切り落として断頭した。ロシア軍は反抗する満州人の首を公然と切断することで、満州人の間でロシア軍の反発を抑えることができると考えた。首を切られて断頭された満州人の死体の周囲に、ロシア軍兵士と満州人たちが群がった。日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)の間は、満州(現在の中国東北部)の多くの住民たちは日本軍に共感し、あるいは賛同していた。ロシア軍に対し親日派が公然になった満州人の住民は、首を保持することはほとんどなかった。日露戦争中にロシアの植民地化に、満州の農民らが不満を抱いた。満州地方にロシア帝国政府が、ロシア帝国から討伐的遠征隊を派遣した。

 満州は19世紀の後半から、欧米の植民地の大拡張時代に巻き込まれた。欧米は武器の優れた技術をもって、中国と日本に不平等条約と開港を迫った。中国の清国に属して、朝鮮半島に隣接して、ロシアからの突起によって日本海を遮断され、満州は経済的魅力を持たず、対象から外れていた。日露戦争を誘発した起因は、鉄道と蒸気航法などの輸送機関の進歩によった。満州の自然環境は、中央部の平野と南部の開港に好都合となった。日露戦争への勃発の決定的な要因は、中国、日本、ロシアが同時並行の植民地政策を選択したことが繋がった。植民地化による安全主義と、武力と装備の整った軍隊による平和体制、満州には新たな条件が重なり、厳しい戦争の渦中に引きずり込まれた。つまり1871年から1914年までのヨーロッパの軍事体制を小さく再現した。植民地主義の間には、貿易主義と安全保障主義が絡み合い、地理的に並立して相互作用が重複した。1894年の日清戦争と1904年の日露戦争の2つの極東戦争にこそ、1914年以降のヨーロッパの大戦の予兆を示唆していた。

 ロシアの極東における軍事的植民地化は、ほぼ満州に限定されていた。植民地化は、1896年(満州横断鉄道)、1898年(旅順、ダルニー、南満州鉄道)、1900年(義和団に対する拡散占領)の3つの段階で、特定の状況下で短期間に勃発した。特に遼東の借地、旅順を手に入れてから、シベリア横断鉄道の終着駅と海軍基地なった。ロシアの軍事的植民地化で、満州にヨーロッパに向けた戦闘資源のインフラを構築した。冬の氷を避けるために、ウラジオストクよりも旅順を選んだ。軍事目的で作られ、補強されて満州の鉄道や港が、移送と食料資源として植民地支配を強化した。日露戦争で、ポーツマス条約(1905年9月)が締結されて、軍事的には日本とロシアは満州から撤退するはずが、日本は1906年から南満州鉄道を再開して、経済的に紛争の種となった。軍事資源と経済活動の関係は、1931年に日本の植民地化による満州国となり、関東軍の駐留基地が、産業拠点となった。




2021年6月8日火曜日

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦いのアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。

太平洋戦争におけるアンガウル島の戦い(Battle of Angaur)のアメリカ軍歩兵は、島の狭軌の鉄道の線路に横たわる日本軍兵士の死骸を通過した。日本軍の残存集団は島の北西部に潜伏していた。アンガウルは1944年9月20日に安全宣言が出されたが、その後も戦闘が続いた。火炎放射器、手榴弾、爆薬などを駆使した激しい肉弾戦の末に、日本軍の抵抗を完全に断ち切るまでにはさらに約4週間以上も要した。次第に、日本軍は、飢え、渇き、アメリカの砲撃と爆撃が損害を受けて、10月19日に最後に斬り込み突撃して全滅した。アメリカ軍の約10,000人のうち犠牲は、死者約260人、負傷者約1,354人、非戦闘能力の喪失者は約940人であった。日本軍の犠牲は死者約1,338名、捕虜約59人であった。アメリカ軍の約2,560人の死傷者数が、日本軍の約1,397人の犠牲者数を上回った。
 太平洋戦争におけるアンガウルの戦いは、1944年9月17日から9月30日まで、パラオ諸島のアンガウル島で勃発した。アンガウル島は、ペリリュー島と約9.7kmの海峡で隔てら、長さ約4.8kmの小さな火山島であり、滑走路の建設に適していた。ミンダナオ島の東約800kmに位置するパラオ諸島の最南端にあった。アメリカ軍のパラオ侵攻が明白になると、日本軍は在住の民間日本人と現地住民をアンガウル島からパラオ本島へ疎開させた。青壮年の現地住民の男性約180名は朝鮮人と共に軍夫として日本軍に協力させた。アンガウル島へもアメリカ軍が上陸して戦闘に巻き込まれた。9月11日に、艦砲射撃、急降下爆撃機などによる島への砲撃に続いて9月17日には上陸が行われた。アメリカ軍は9月17日に北東部と南東部の海岸に上陸した。約1,400人の日本軍の地雷や狙撃手に遭遇して侵攻が遅れた。日本軍の機関銃や狙撃手がはびこる密集した地形に巻き込まれた。日本軍は洞窟にも侵入していた。アメリカ軍は洞窟を確保するために、ブルドーザーを使って洞窟の入り口を封鎖した。食料も水もない戦場では日本軍兵を徐々に追い詰めて、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出した。既にペリリューの戦い9月15日から11月27日に勃発していた。
 アメリカ軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った舩坂弘軍曹は、左手に拳銃、右手に手榴弾、全身に5発の手榴弾をくくり付けて、アメリカ軍司令部に突撃した。左頸部を撃ち抜かれて昏倒して、意識が約2日間喪失した後に救出された。戦傷者の囚人となっても、監視兵の襲撃や飛行場の爆破を試みた。日本に復員後に、繁栄と平和に繋がるアメリカ文化の先進性を学習する書店を経営した。渋谷駅前に僅か一坪の本屋を開店した。日本初の建物を全て使用した本のデパートの大盛堂書店の創設に繋がった。

 


 

2021年6月7日月曜日

絞首刑されたイタリアの帝国議会議員でもあったチェーザレ・バッティの死体と笑顔の死刑執行人であるジョーセフ・ラングを撮影した1916年の写真カードである。

裏切り者として絞首刑されたイタリアの帝国議会議員でもあったチェーザレ・バッティ(Cesare Battisti)の死体とその死刑執行人であるジョーセフ・ラング(Josef Lang)を撮影した写真が、第一次世界大戦中の1916年に絵葉書となった。笑顔である死刑執行人とその助手は、まるで酒場のようなポーズをとる。吊るされた囚人は、両手で遺体の所有権を示す誇らしげな死刑執行人によって、トロフィーのように保持された。多数の野次馬のような観衆者たちが、絞首台で犠牲者と一緒に写真を撮った。死刑執行は、暴力の覗き見的な儀式として公然と行われ、陰惨な光景は、魅力とある種の欲望を刺激した。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。
 チェーザレ・バッティは、オーストリア・ハンガリー領のトレントで1916年7月12日に絞首刑にされた。1911年にウィーンの国会議員に選出されたが、1915年5月にイタリアがオーストリアとの戦争に突入すると、バッティはイタリア軍に入隊した。トレンティーノ地方にイタリア軍が侵攻した時に、1916年7月11日にオーストリア軍に捕獲された。オーストリア人であり裏切り者と判決された。7月12日に略式軍法会議でバティスティは捕虜と主張したが、真っ向から否決され、反逆罪で絞首刑が宣告された。スパイや裏切り者として、男性、女性、子どもがたちが軍事裁判により大量に処刑された。強制送還や抑留、組織的な処刑によって怪しい民間人として国民を弾圧した。
 囚人たちは法廷から直接に絞首台に連行された。最初に首を絞めた縄が切れ、減刑される伝統も無視されて、新しいロープで絞首刑が執行された。バッティスティは、イタリア トレント 万歳(Viva Trento Italia!)と叫んだ。絞首刑後に死体は、棺も目印もなく城の下水道に捨てられた。死刑執行人のジョーセフ・ランゲは1900年から1918年のオーストリア・ハンガリー王政廃止まで務めて、その間に39の死刑判決の死刑執行人であった。絞首台に絞首刑にされた死体とともに撮影され、「笑うオーストリアの死刑執行人」の写真とカードは世界中に広まった。死刑執行人は、しばしば国賓のように駅に迎えられ、高い社会的評判を享受していた。
 オーストリア当局は絞首刑を撮影して写真カードを作成し、見せしめと抑止力にした。裏目に出て、バッティスティは殉教者となり、オーストリア人に野蛮なイメージを与えた。当局はすぐ気付いても、カードの配布を中止し、配布を回収は困難となった。写真はイタリア人の手に渡り、イタリア国内の反オーストリアのプロパガンダの材料となった。
 さまざまな戦争推進派は、戦争は国を強くし、国民を頑強にし、より偉大な存在になれると考えた。戦争は国民を団結させ、愛国心を持たせる手段だと考えた。戦争を個人的な権力を得るための機会と考えた。個人的な名声や冒険、名誉を得るための機会を求めた。大国の地位を獲得し、権益を保護・拡大し、植民地を獲得することを求めた。バッティの主な目標は、民族を中心としたナショナリズムに基づいた。オーストリアでは裏切り者と非難されたが、イタリアでは今でも、彼は愛国者、英雄、殉教者とみなされた。

 

2021年6月6日日曜日

ルワンダの内戦にて、1990年代に大虐殺が頻発したツチ族とフツ族間の大量虐殺により、散乱した膨大な死体の未処理が、潜在的な病気を引き起こす要因となった。

ルワンダの内戦により、1990年代に大虐殺が頻発した。ツチ族とフツ族のルワンダ民族間の殺し合いの内戦により、ルワンダ人の死体の山がよく散見された。すでに弱体化している地域のルワンダ人にとって、その死体の処理の問題が、潜在的な病気を引き起こす一つの原因となった。

 ルワンダの不平等はより地域的に偏在して、北部では権力者が支配して、ルワンダ政府の役職や管理する経済活動、支援される開発プロジェクトにおける賄賂で最も多くの恩恵を受けていた。この優遇措置は、1958年から1962年の革命期に、カトリック教徒のフツ族がツチ族の王政を打倒してさらに加速した。革命を暗黙に支持したのは、長年にルワンダの外国支配を維持するツチ族の政権に恐れを抱いた脱植民地勢力であった。革命では、多くのツチ族が犠牲になり、ルワンダの旧ツチ族の権力者のほとんどが中央アフリカなど他国に逃亡した。

 1962年にルワンダを暴力の支配が強化され始めた。1961年から1962年には、亡命したツチ族が、ブルンジとウガンダを拠点にルワンダに反撃した。フツ族の軍隊によって簡単に鎮圧された。緊張が高まり、1962年には約2,000人のツチ族が処刑され、1963年には約10,000人が殺害された。約14万人から25万人のツチ族が国外に逃亡して、ツチ族の人口は約2分の1から約4分の3にまで減少した。

 1966年から1993年までルワンダを支配した2つの政権は、ツチ族の権力者を殺害したり、強制的に排除した。2つの政権は非常に弾圧的で、フツ族の正当性を示した。第一に、ルワンダ政権による国家主導の開発はフツ族の利益のためであった。フツ族を優位にする民主的な努力と国民に納得させた。第二に、何百年にも少数派のツチ族に支配されたルワンダは、フツ族の所有であるイデオロギーにより、ルワンダ政府はフツ族の覇権に有利であると見せかけた。弾圧的な政権に正当性を与える一方で、フツ族はツチ族に対する恐怖心と偏見が段階的に拡大した。実際、ルワンダ政府はツチ族に対する偏見を組織的に助長した。約20年以上かけて、偏見をツチ族に対する過激な憎悪に変えた。最終的にはツチ族に対する暴力を増長し、1994年にはツチ族の絶滅を図った。フツ族の関心をツチ族に向けて、ルワンダ政権は失敗から国民の注意をそらした。

 ツチ族の難民がルワンダ国内に戻ることは厳禁であった。ツチ族が人口の約9%に応じて社会経済活動に参加できるクオータ制が導入された。政府内には、約9%の割当ては実現しなかった。商業や非政府企業など規制の少ない分野では、ツチ族の数は約9%をはるかに超えた。

 1990年代初頭に、紛争の出来事が集団虐殺するジェノサイドを発生した。フツ族の劣勢地域で、ルワンダ政府への反感が高まった。ルワンダ政府が北部を優遇して、南部のフツ族が怒りを高めてフツ族内の紛争が勃発した。政府は偏った政策から国民の目をそらすために、ツチ族に対すフツ族の偏見を煽って煙幕を張った。1959年から1963年の間に国外に追放されたツチ族の子孫たちが、1990年にルワンダに侵攻した。民族間の憎しみの火をさらに燃え上がらせた。ツチ族は十分な資金と物資を投入した侵攻作戦は、北部の地域を制圧できた。ツチ族の支配が復活するフツ族の危機感を煽った。1992年までに、国連を中心とした国際社会は、新たに帰還したツチ族をフツ族との統合を求めて、フツ族政権に対してより包括的な政府を樹立する交渉を要求した。

 タンザニアのアルーシャで国連が要求した交渉は、ツチ族がフツ族の支配するルワンダに侵入する不安をさらに増大させた。ルワンダ国軍が地元の民兵や市民を武装させ、1991年から1993年にツチ族を平然と殺害した。1994年4月6日に、ルワンダのフツ族大統領がアルーシャでの交渉の帰りに飛行機事故で死亡した。その撃墜からフツ族が暴動して数千人のツチ族が殺害された。国連関係者たちはルワンダから退去した。これらの暴動から約100日間の内戦に巻き込まれて、約80万人の主にツチ族が虐殺された。北部のツチ族勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)が侵攻を再開して、1994年7月4日にはルワンダの首都キガリを占領した。約200万人のフツ族は多くの軍隊や政府幹部と、コンゴ民主共和国(旧ザイール)に逃亡して、再編成を行した。ルワンダで次の階段の暴挙を企てた。1999年までに、少なくとも約20万人のフツ族とツチ族がルワンダで殺害され、数十万人が近隣諸国に逃亡し、数十万人がルワンダ国内で避難して、難民収容所に収容されている。

 ルワンダの状況は非常に不安定となった。ルワンダの内外に大量の難民が存在して、少数派のツチ族が絶滅されない限り、フツ族は生活を支配される偏見と恐怖が段階的に拡大した。大量の難民の存在は、中央アフリカの他の国々の資源を圧迫した。21世紀のアフリカでは、再び紛争と殺戮が起こる可能性が非常に高くなる。2000年4月にルワンダにRPFからツチ族カガメ大統領か就任してアフリカの奇跡の経済成長を遂げた。一方で、2003年5月と2015年12月に新憲法に改正して再選の延長により、2017年8月に2034年まで長期独裁への大統領に再選された。 




2021年6月5日土曜日

原爆災害調査研究委員会が、1945年9月から10日に訪問した爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死者が火葬されて荼毘に伏されて、白骨が一面に散乱していた。

原爆災害調査研究委員会の学術調査団が、1945年9月から10日に長崎市内を訪問した。爆心地の長崎市松山町にて、住宅地の側溝に被爆死した死体が火葬されて荼毘に伏されていた。その白骨が側溝の一面に散乱していた。

  1945年年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が投下されて炸裂した同日の直後に、呉鎮守府調査団が広島市内を調査した。東京の大本営は、8月8日に参謀本部と陸軍省と理化学研究所の仁科芳雄など陸軍省救護調査団を広島市に派遣した。原子爆弾開発計画である二号作戦を担った仁科芳雄が原子爆弾を検証した。8月10日に広島市比治山東南で陸海軍合同特殊爆弾研究会で、「原子爆弾ナリト認ム」と報告した。爆心地は、護国神社の南方約300m、高度約550mと想定した。8月8日に広島市に派遣された技術院調査団も、8月10日に東京で政府と陸海軍に対して、原子爆弾であると報告した。

 1945年8月9日午前11時2分に長崎原子爆弾が投下されて炸裂した。8月9日午前0時にソ連の参戦して、午後10時半から東京の皇居宮中で、最高戦争指導者会議が開催された。午後11時2分から直後に長崎県知事は西部軍管区参謀に、長崎市内に広島と類似の新型爆弾の投下の電報が発信した。午前11時半頃に内務省あるいは大本営に長崎新型爆弾が連絡された。午後2時半すぎから再開された宮中の最高戦争指導者会議に報告された。その後に、8月10日午前2時半頃にポツダム宣言の受諾を昭和天皇の御前会議で決定した。

 陸軍省医務局は8月8日に陸軍軍医学校から陸軍省広島災害調査班を派遣した。8月10日に、レントゲン・フィルムの感光から放射能を含む原子爆弾と断定した。8月10日に陸軍省は、レントゲン教官至急派遣セシメラレ度と要請を受けた。8月14日に第2次調査班を広島に派遣した。ローリッツエン検電器により、8月17日まで広島市内の放射能を測定した。京都・大阪帝国大学の調査団も放射能を測定した。8月15日朝の新聞で仁科芳雄から原子爆弾が公表された。

 8月下旬から9月上旬に、東京帝国大学医学部などの大学・研究機関により、広島・長崎の調査と救護に参画した。広島の派遣団長である東京大学の都筑正男や陸軍軍医学校、理化学研究所が参加して、陸軍省第3次調査班として8月29日に広島市内を調査した。病理解剖やガイガー計数管で放射能の影響を調査した。9月3日に広島県庁で、原爆症に関する世界最初の講演会を開催した。京都帝国大学は、8月27日に中国軍管区司令部から要請されて、9月2日から広島市に入るも、9月17日の枕崎台風で11人が死亡して調査は頓挫した。長崎市には、8月下旬から9月上旬に、九州帝国大学、熊本医科大学が、調査と救護に参加した。

 終戦後に、アメリカ軍が日本進駐して、8月30日に横浜港に到達したマンハッタン管区調査団など多数の調査団が原子爆弾の調査・研究を開始した。8月28日にアメリカ軍総司令部は、8月28日からアメリン陸軍軍医団調査班が編成されて、9月4日に東京大学の調査団長の都筑正男と連絡調整して、9月8日に厚木基地から広島市内に入り、9月9日に長崎市内に入り調査を開始した。

 1945年9月14日に、文部省科学教育局により、日本学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)が原子爆弾災害調査研究特別委員会を結成した。委員約33人、研究員約150人、助手約1,500人の大規模に構成された。アメリカ軍総司令部(GHQ)は9月22日に、日本における原子爆弾の効果を調査するための軍合同委員会を結成した。9月28日に長崎市、10月12日に広島市にて調査研究して、12月には日米合同調査は終結した。GHQは1945年9月19日に日本国内に言論・報道・出版規制を発令して、1952年4月のサンフランシスコ講和条約まで制限された。(直前の9月5日に、ウィリアム・バーチェット記者が、デイリー・エクスプレスに初めて原子爆弾被害の一部が海外に報道された。)11月30日にはGHQは日本人による原子爆弾の災害研究の公表を厳禁を通知した。1946年1月に広島・長崎原爆医学資料は呉港からアメリカ本国の軍医総監督に1973年まで極秘に保管された。




2021年6月4日金曜日

児童殺人犯のウィリアム・カーは、ミズリー州のカンザスシティのリバティのクレイ郡の裁判所内で約800人の観衆が取り巻き写真撮影されて、残酷な公開絞首刑に処せられた。

1897年12月17日に、児童殺人犯のウィリアム・カーは、ミズリー州のカンザスシティのリバティのクレイ郡の裁判所内で、約800人もの公開絞首刑に処せられた。カーが最後に絞首台に連れて行かれるとき、哀れな姿を見せた。痙攣しながら体を起こし、比較的力強く絞首台を登った。保安官が絞首台の引き金を引いたのが、午前10時34分である。その2分後には自分の子供を殺した犯人の命が尽きた。首が折れて、鞭で打たれた音がした。絞首台が倒れた後の一瞬の間に、約800人の観客が、まるで一つの衝動に突き動かされたかのように、叫び、泣き、悲鳴を上げ、笑いながら、絞首台の下に押し寄せて、ぶら下がっている死体の近くに詰め寄ってきた。彼らは、吊るされた男の死体を間近で見るまで満足しなかった。観衆たちは怒って互いに罵り合い、絞首台の階段を無理に登ろうとし、保安官に向かって泣き叫んだり吠えたりした。
 ついに観衆は、足場を囲んでいるバリケードを壊そうとした。ハイマー保安官は、最初の突破口から駆けつけ、興奮気味にこれ以上の暴力行為をしないように観衆に警告した。保安官の警備員が死体を取り囲み、群衆はしばらく立ち止まった。突然、一斉に大きな叫び声が上がり、群衆は警備員を振り切り、頑丈な砦を突き破った。絞首台の中では、さらに叫び声を上げて感情を爆発させた。最後には無事に退散し、数分間の小さな暴動に収まった、終結した死刑執行の後、ある写真家が囲いの中に入り、この忌まわしい悲劇の最後の出来事を、恐ろしく細部まで撮影していた。撮影機は、カーが囲いの中から死体が切断されるまでの間作動した。約1000フィートの長さのフィルムに約1800枚の写真が撮影された。カーがカンザスシティの郡刑務所の囚人であった時の同じ一味が、この写真を全国に展示した。
 カーがカンザスシティの郡刑務所の囚人だった頃に、同じ一味がカーに殺人事件の話を蓄音機に朗読するように説得した。ウィリアム・カーの犯罪は、ミズーリー州の歴史の中でも最も残忍であった。1896年10月15日、犯人ウィリアム・カーの最初の妻との間に生まれた3歳の子供、ベル・カーの死体が、カンザス・シティ近くのミズーリ川の中洲で発見された。この事件で、10月2日にカーがリバティの自宅で逮捕された。カーは当初、犯行を否定した。その後、37歳の痩せこけた田舎育ちのカーは、いかにして自分の子供を家から運び出し、手足をしっかりと縛り、重い石を子供の胸にくくりつけ、「どうするの、パパ? 」とカー夫人が子供を始末するように言ったことを認めた。彼女がベルに残忍なことをしたことも判明した。カーは妻は無関係だと頑強に主張した。しばらくの間、カーは自分の悪評を招き、訪問者に自分の罪を淡々と語った。しかし、その後、彼は「早くこの世から消してくれ」と懇願した。11月16日の裁判では、カーは即座に有罪判決を受けた。カーは次第に衰弱し、死刑の1週間前の日曜日には、叩いたガラスを飲み込んで自殺を図った。カーは絞首刑の前日は落ち着かない夜を過ごして、朝食が運ばれても、彼は嫌悪感で断ち切り、葉巻に火をつけて、長い間窓から外を眺めた。やがて葬儀屋が、カーに遺体の処理をか尋ねた。「私の妻に任せてください。ああ、妻に任せておけばいいんだ」と彼はすすり泣きながら言った。続いて司祭が現れ、男らしく運命に立ち向かうように促した。「やってみます。それが私にできる最善のことです」とカーは言った。続いて聖書が読み上げられ、賛美歌が歌われたが、その間カーは子供のように泣き叫び震えていた。
 19世紀末の旧西部の辺境の町は銃撃戦の戦闘の無法地帯であった。1881年10月にアメリカ西部のOK牧場の近くの空き地で、銃撃戦の死闘を繰り広げた。モラルの低い男たちが、意見を異にするとき、解決すべき問題があるとき、6連発銃に手を伸ばす決闘は簡潔であった。法と秩序が遅れた無法地帯となり、辺境には旅回りのカウボーイ、探鉱者、鉄道員、東洋から来た気性の荒い若者、逃亡者、詐欺師などあらゆる人種が移住した。周辺の丘陵地帯にある鉱山から金銀の富が流れ出した。野外での生活、夜の乗物、危険のスパイス、人間を支配すること、暴徒を抑える誇りが血管を疼かせワイルドな冒険となった。酒場の主人として客から薬を飲ませ金を奪ったりが発覚し、市民が警察官を絞首刑にした。アイダホ州エイダ郡の保安官が馬泥棒が発覚し、自警団が絞首刑にした。その当時の裁判所の法廷での正義も、刑務所や路上での正義と同様に、当たり外れが大きかった。初期の裁判官の多くは、法律を学んでおらず、副業で仕事をしている人が多かった。裁判所や法廷がなければ、彼らは店や酒場で判決を下して、非公式が支配していた。

 

2021年6月3日木曜日

イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間の死体を引き上げるために立ち止った。

第一次世界大戦にて、イーペル近郊の砲弾で破壊された森林の中で、一人のオーストラリア軍兵士が倒れた仲間を助けるために立ち止った。このパッシェンデールの戦いでは、約25万人近くの兵士が犠牲になった。1914年以来の戦闘で、イーペル地域はすでに木や植物のない不毛の平原と化し、砲弾の跡が残った。雨水を野原に流していた古代フランドルの排水システムも破壊された。数百万発の砲弾が炸裂し、豪雨が加わったことで、戦場はあっという間に、人が溺れるほどの深さの水を蓄えたクレーターが点在する湿地帯となり、初期の戦闘で死んだ兵士の墓が陥没したことでさらに悪化した。お粥のように濡れた泥の上で、建物や自然の覆いがほとんどない開けた灰色の風景の中で、爆発した砲弾、飛んでくる破片、機銃掃射の容赦ない苦しい雨の下で、攻撃と反撃を繰り返した。
 イーペル地域は、激しい戦闘と絶え間ない砲撃にさらされ、両軍の兵士や馬の死体が埋もれたまま腐った。死体の引き揚げは行われておらず、死者はほとんど埋葬されていない。戦場は広大な泥沼で、水を含んだ砲弾の跡が散見される。兵士や荷馬は、クレーターの間を縫うようにして敷かれた狭い線路を、自分の足で侵攻した。足を滑らせると、大きさのクレーターの中で溺れてしまった。ほとんど絶え間なく降り続く雨と砲撃の中、兵士たちの状況は悲惨だった。兵士たちは砲弾の穴に身を寄せたり、吹きさらしの泥の中で迷子になり、陣地を分ける前線が不明となった。
 パッシェンデールの戦いは、第一次世界大戦中の1917年7月31日から11月10日にかけた第三次イーペルの戦いであった。戦場は、ドイツ軍と連合軍が約3年間にわたり膠着状態となったベルギーの西部戦線のイーペルの突出部である。7月31日にイギリス連合軍は新たに攻勢をするも、廃墟となったパッシェンデール村近くの尾根を占領してドイツ軍の戦線を突破できなかった。イギリス軍、オーストラリア軍とニュージーランド軍の攻撃が失敗に終わった後に、10月26日にカナダ軍が戦闘に参戦した。カナダ軍は11月6日に尾根を占領したが、豪雨と砲撃で戦場は泥沼化して、約16,000人のカナダ軍兵士が死傷した。パッシェンデールの戦いは、連合軍の戦闘には何の成果もなく、第一次世界大戦における無意味な殺戮の象徴となった。
 1917年春に、ドイツ軍は国際海域で連合国の商船等を沈没する無差別の潜水艦の攻撃を開始した。ドイツ軍の潜水艦攻撃により、アメリカは連合国軍側として参戦した。軍需品や食料などをイギリスに運ぶ航路が脅かされた。イギリス海軍は、ドイツ軍の潜水艦基地であったベルギー沿岸の占領港から、ドイツ軍を追い出すために、連合国軍がベルギーのドイツ軍前線を突破して、海岸まで侵攻して軍港を解放すいることを政府に迫った。西部戦線での大規模なフランス軍の攻撃が失敗し、長年の激しい戦争に疲れたフランス軍兵士たちが反乱を起こし始めた。一部のフランス軍が一時的に戦闘意欲を失って、戦闘不能に陥った。ドイツ軍の資源と注意をフランス軍から引き離すために、1917年夏にイギリス軍が無謀な戦闘を展開した。
 イギリス軍は、ドイツ軍に対してわずかな戦力の優位性しかなかった。イーペルでドイツ軍の戦線を突破できても、ベルギー沿岸の軍港は攻略できない。ベルギーでの攻防しても、戦争の終結には繋がらなかった。唯一に必然なのは、大量の人命が失われることだった。イギリスの戦時内閣で承認されたパッシェンデールの戦い通称の第3次イーペルの戦いが7月に始まった。イギリス軍は、数十台の戦車に支えられ、フランス軍の支援を受けて、7月31日にドイツ軍の塹壕を攻撃した。それからの1ヶ月間、ドイツ軍側の何十万人もの兵士が、イギリス軍でも多数の突撃から約7万人近くが死傷した。9月初旬には、オーストラリア軍とニュージーランド軍が、疲弊したイギリス軍に投入された。連合軍は砲撃し、攻撃し、敵地の一部を占領しては、反撃するドイツ軍に追い返された。パッシェンデールの戦いは、間違いなく戦争中で最も泥臭く、最も血なまぐさい戦いで、第一次世界大戦の最悪の恐怖の象徴である。戦闘の多くが全くの無益であり、戦争の幹部が部下の命を無謀にも軽視した。1918年春に、ドイツ軍が大規模な攻撃を開始して、連合軍はベルギーの沿岸部の軍港の解放には至らなかった。パッシェンデールでの戦いは、勇気と命の無駄な支出と呼称された。 

 


2021年6月2日水曜日

スペイン内戦にて戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリカメラで至近距離から共和国軍民兵であった『崩れ落ちる兵士』の著名な戦争写真を撮影した。

スペイン内戦が勃発して約1ケ月が経過した1936年9月5日午前10時30分コルドバにて、フランコ反乱軍のバレラ将軍の指揮下にあるブルアガ隊のコロナル・サエンスに所属するレギュラーズ・タボルのモロッコ人精鋭狙撃手が、丘の斜面を駆け下りる共和党軍民兵を狙撃した。塹壕に潜伏していたモロッコ人精鋭狙撃手が引き金を引くと、モーゼル銃の口径約7×57mmのマウサー弾が上昇気流に乗って秒速約730mで無慈悲に発射された。アリカンテ出身の無政府主義者であるアナキスト軍民兵であるフェデリコ・ボレル・ガルシアは、セロ・デ・ラコハの斜面を走っている最中に心臓を貫通されて即死した(上)。狙撃兵の左手数メートルにいた戦争写真家のロバート・キャパは、塹壕の中から35ミリのライカIIIを使って至近距離から著名な『崩れ落ちる兵士(The Falling Soldier)』戦争写真を撮影した。1996年にモーゼル銃で撃たれて後ろ向きに倒れている民兵の正体が判明した。心臓を貫く銃弾で即死した民兵の右手に、セロ・デ・ラコハ丘の東側の斜面で、小さな渓谷の始まりに近い山が見える。その他にもう一人のラ・コハの丘で狙撃されて殺害された第2共和国軍民兵の正体は今日まで知られていない(下)。
 1936年7月17日にフランコ将軍とイベリア半島の将軍たちは、2月6日の総選挙で民主的に成立した共和国政府に対抗して反乱して、スペイン内戦が勃発した。ロバート・キャパの本名はエンドレ・エンレー・フリードマンで、ブダペスト生まれのユダヤ系ハンガリー人写真家である。1935年にデプトエージェンシー社は、ドイツ雑誌に掲載する写真の撮影のため、キャパにスペインへの渡航を命じた。キャパは、1936年にフランス人民戦線の勝利後の集会などを撮影した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランスの高級写真雑誌『Vu』が、スペイン内戦の撮影を命じた。1936年9月23日に
「死の瞬間の人民戦線兵士」と『Vu』に掲載された。

  1936年8月5日バルセロナに到着したキャパは、バルセロナで反乱軍が敗退して、労働者や無政府主義者の武装民兵が権力を掌握していた。何千人もの民兵がアラゴン戦線に向かう列車に乗り込んだ。共和国軍が大攻勢をかけたグアダルキビル高地の州都コルドバの北近郊のセロ・ムリアーノに到着した。
 1936年8月20日約5,000人の共和国軍は、反乱軍に防御されたコルドバを侵攻した。激しい戦闘が繰り広げられ、反乱軍はアフリカのモロッコ人専門兵の射撃により、共和党軍民兵に多大な死傷者を出した。約1万人の共和国軍がコルドバ州の村々に分散して、セロ・ムリアーノ村周辺は、2週間後に共和国軍は堅固な防御陣地を敷いた。
 反乱軍は工業地帯を避けて、アンダルシア地方とエクストレマドゥラ地方に侵攻した。アフリカ軍も属する約2万人の反乱軍は準備と武装が整っていた。9月5日に反乱軍もモロッコ軍民兵もコルドバの北近郊の共和国軍を壊滅した。約1ヶ月半前に初めてライフルを手にした大多数の市民や労働力者などの共和国軍民兵は、コルドバ北側のセロ・ムリアーノ村で、アフリカ軍の正規軍と反乱軍に突撃した。両軍は、大砲や機関銃などあらゆる武器で撃ち合った。多数の死傷者が出始め、兵器の撃ち合いの後、戦闘は熾烈を極めて、1936年9月5日に反乱軍は、共和国軍民兵を完全に圧倒した。

 


2021年6月1日火曜日

フィリピンのセブ島で、連合農民組織の21歳のレナート・タバサ・ザバテは、フィリピン国家警察に拉致され虐殺された。死体には約31の擦傷や打撲傷などがあり絞殺された。

フィリピンでは1988年以降に、フィリピン政府や政府を支援する勢力による政治的殺害の犠牲者が550人以上にのぼった。殺害された市民の中には、拷問を受けたり、体を切断された人もいる。乳幼児から高齢者を含む家族全員が虐殺された。女性は刺殺される前に強姦された。1986年2月25日にフェネディナンド・マルコス独裁政権からコラソン・アキノ大統領政権に転覆して、新政権が人権保護のための施策を導入した。しかし、1988年以降にフィリピンにおける超法規的処刑が執行されて虐待と虐殺が継続した。

 フィリピンのセブ島で、21歳のレナート・タバサ・ザバテが1991年9月8日に虐殺された。連合農民組織(UFO)の一員で、国家警察(PNP)の武装集団に拉致されて5日後の1991年9月13日に、セブ州マンダウエ市のカンドマンで死体で発見された。彼の死体には明らかに拷問された痕跡があった。レナートは、9月8日午後1時頃に、友人と一緒に親戚の家を出た。2人が道路を歩いていると、2人の武装した男たちが路上で近づいた。レナートと友人の背中に銃を突きつけた。その後、待機していたジープに押し込まれ、タランバン方面に走り去った。レナートはセブ市のソテロにあるPNPのセブ・メトロポリタン地区司令部に連行された。レナートの死体は、9月13日にセブ市の北約62キロにあるソゴドで小学生が発見した。被害者は電線で縛られ、自分のタオルで猿轡をされた。検死で、死体には擦傷、打撲傷など約31の傷があり、死因は絞殺であった。
 レナートの死は、セブ州の過激な農民組織に属するUFOの組織での活動と関連がある。1990年初頭、UFOなどの地域の労働者組織のメンバーは、新人民軍(NPA)支持者の疑いとして、政府軍や反共産主義の自警団から嫌がらせや脅迫を受けていた。レナートの妻は、親戚もUFOで活動して、セブ市で他の4人と一緒に国家転覆罪に問われた。1987年5月に、レナートは政府軍の捜査官に逮捕・拘留された。彼は他の2人と一緒にセブ市の南西にあるセーフハウスの非公式の拘置所に拘留された。3人は11時間後に起訴されずに釈放された。
 1988年以来、フィリピンでは少なくとも非武装の550人の市民が、フィリピン政府または政府の支援する勢力によって殺害された。フィリピン政府は、武装反対勢力を撲滅するための長期的に正当な犠牲である主張してきた。しかし、現実には、家族全員が、畑で働く村民が銃殺された。女性は殺害される前に兵士にに強姦された。最も非人間的な拷問が、殺害の対象となった人々に加えられた。社会的・経済的に不利な市民や政治的に弱い市民が最も標的になった。武装反対勢力も政治的殺害を行ってきた。犠牲者には、農村地域の住民、労働組合員、政府関係者、軍事容疑者などが含まれる。
 1986年に、フェルディナンド・マルコス大統領に対する人民の力による革命により、コラソン・アキノ氏が大統領に就任した。新政府は、民主主義を復活し、権侵害を断絶することを約束したが、1988年以降に大規模な政治的殺害が執行された。超法規的処刑は、フィリピン陸軍(PA)、フィリピン警察(PC)、統合国家警察(INP)、新設立のフィリピン国家警察(PNP)、市民武装部隊(CAFGU)の民兵部隊、市民自衛組織(CVO)、半官半民の準軍事組織、反共産主義の自警団も含まれた。
 超法規的処刑は、フィリピンにおける深刻な人権侵害である。1986年以来、何百人もの人々が警察や軍の拘束下で失踪して、殺害または拷問された。秘密裏に拘束された人々は、特に殺害や拷問の危険にさらされた。フィリピンのように、警察や軍が処罰を恐れずに違反行為を行うことができる状況では、さらに高まる。1991年には、少なくとも12人の良心の囚人が確認された。数百人の政治犯の中にはさらに多くの囚人がいて、多数の政治的抑留者が拘束されている間に、拷問や不正な扱いを受けた。1990年から1991年には、軍部と政府の幹部が、反乱や破壊行為などの政治的犯罪を含む凶悪犯罪に対する死刑制度を復活させた。労働組合員、人権派弁護士、宗教指導者、農民活動家など、特定の集団の市民が狙われた。政府や政府の支援を受けた勢力によって殺害された85人と、武装野党集団によっても数人が殺害された。
 フィリピンにおける超法規的処刑は、20年以上にわたる政府軍と武装反対勢力との激しい政治的対立を背景に発生してた。最も重要な要因は、フィリピン共産党(CPP)の武装組織である新人民軍(NPA)とモロ民族解放戦線(MNLF)である。フィリピン軍や政府当局は、人権侵害の犠牲者を反乱軍活動に対する正当な標的として、政治的殺害を武力紛争の必然的な副産物として扱った。武装反対勢力の人権侵害を指摘して、超法規的処刑を正当化して、治安部隊の人権侵害の責任を免れた。
 近年、フィリピンの都市部の人口は、農村部から都市部への移住が主な原因で、年に約6%増加している。拡大する不法占拠者のコミュニティを含め、都市部の貧困層を支援する合法的な政治組織が、1970年代から1980年代にかけて登場した。都市の組織は、強制退去に対する抵抗を組織するとともに、ゴミ収集、給水、排水などのサービスを改善するための社会運動を行った。都市の貧困層の活動家は、都市における開発プロジェクトやワークショップを推進してきた。社会活動に参加した市民は、CPP/NPAに関与したと政府軍に訴えられ、治安部隊の一員に殺害された。明確な理由なく逮捕された後に、被害者が警察に拘束されて死亡した。当局は、被害者が逃げようとした、逮捕者から武器を奪おうとした、自殺したとか喧伝する。被害者の弁護士や親族が入手した法医学的証拠は、主張に疑問を投げかけた。

 

 


 

2021年5月31日月曜日

ベトコン・ゲリラが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃して、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

アメリカ軍がベトナム戦争に参戦した直後に、ベトコンが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃した。ベトコン・ゲリラは、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

 ジョンソンがアメリカ大統領に再選された1964年11月には、南ベトナム政府では不安定な内乱が相次ぎ、南ベトナム解放戦線(ベトコン)はゲリラ戦から大規模な通常戦へ移行した。アメリカ軍はより厳しく1965年3月に、アメリカ軍はダナンに上陸して、北ベトナムに対して持続的な空爆攻撃を開始した。南ベトナム政府の指導者たちが即時攻撃を求め始めたら、南ベトナム側の改革と引き換えにアメリカ軍は北ベトナムへの空爆の見返りを提供した。アメリカ軍はラオスでの北ベトナムの侵入ルートに対する攻撃を強化して、北ベトナム沿岸でのアメリカ海軍による秘密作戦を敢行した。南方での北ベトナム軍の略奪に対する報復として、アメリカ軍と米南ベトナム軍は合同で北方への空爆をした。
 南ベトナム軍人たちの無責任な行動が、南ベトナムの安定を前提としたすべての軍事計画を頓挫させた。1964年12月24日午後、サイゴンに住む多くのアメリカ人がクリスマスイブを祝う準備をしている最中に、ベトコンはサイゴンのビジネス街に近いアメリカ軍将校の宿舎であるブリンクホテルを爆撃した。この爆撃は、ベトコンのテロ行為の中でも最も影響の大きいものの一つで、2人のアメリカ人が殺害され、アメリカ人と南ベトナム人が51人負傷した。
 1965年1月17日、南ベトナムは陸軍の徴兵制を拡大する法令を発布した。仏教徒が街頭で反乱して、内乱は瞬く間に南ベトナムの都市から都市へと広がり、フエのアメリカ情報機関の破壊や、17歳の少女の焼身自殺にまで発展した。サイゴンでの政権転覆して、一方で首都周辺の地方では激しい戦闘が続いて、ベトコンが徐々に優勢になった。武装したベトコンはサイゴン近郊の海岸沿い人口約6,000人のビンジア村を4日間占領して、約6人のアメリカ軍兵士と約177人の南ベトナム兵を殺害した。戦況を打開するためには、1月下旬に北ベトナムへの報復空爆をした。
 1965年2月7日朝に、ベトコンが中部高原のプレイク近郊にあるアメリカ軍のホロウェイ基地と滑走路を攻撃して、約9人のアメリカ軍兵士の約9人が殺害されて、100人以上の負傷者を出した。同日にアメリカ軍の約49機の戦闘機が、非武装地帯の上にあるベトコンのドンホイ兵舎を攻撃して、翌日に南ベトナム政府軍は、ベトコンのヴィン兵舎を攻撃した。2月10日にベトコンが、クイニョンのホテルを爆破して、建物の崩壊で瓦礫に閉じ込められて約23人の兵士が殺害され、多数が負傷した。2月12日に北ベトナムへローリング・サンダー作戦を決定した。3月2日に、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の戦闘機が、北ベトナムの弾薬庫と海軍基地を爆破した。2月26日に北爆のためにダナンの空軍基地を強化して、3月8日上陸した。ダナンの到着は、アメリカ軍の軍事過程にてベトナム戦争の参戦が取り消せない段階となった。



2021年5月30日日曜日

アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。

太平洋戦争において、アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。その崖の洞窟中に隠れているかもしれない日本軍兵士と民間人をも吹き飛ばして殺害した。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。ほんの数分前までは、海辺でアメリカ軍兵士や民間人を狙撃していたのに、アメリカ軍の狙撃手によって日本軍兵士自らも射殺されてしまった。最も悲惨なのは、島の北端にある断崖絶壁からの飛び降り自殺であった。日本人がマッピ岬の北面の崖から飛び降りていた。アメリカ軍兵士たちが拡声器を使って、日本人に危害を加えないと説得したが、明らかに無駄だった。
 サイパン島の戦いでは、多くの日本軍兵士と民間人は、降伏も生存もできなかった。降伏するためには、銃撃と砲火の中に逃げ込まなければならない。日本人は死を覚悟して降伏することを禁じていた。アメリカ軍に降伏する者は、日本軍兵士によって殺害される危険にさらされた。最後に洞窟に生存した日本軍兵士は、大きな日本刀を持って、誰か日本人がアメリカ側に降伏しするなら、喉を切り裂くと脅した。日本軍兵士も、アメリカ軍に降伏しようとして味方に処刑されるよりは、自決を選んだ。
 残存した日本軍兵士は7月6日の日没後間もなく、全滅して玉砕する万歳攻撃のために集結し始めた。歩けない、武器を持たない、負傷したほとんどのの日本軍兵士は、日本軍司令官の命令の下で殺害された。7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。太平洋戦争で最大の万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。アメリカ軍は1944年7月9日にサイパンを占領して安全宣言をして、侵攻開始から3週間以上が経過していた。
 7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。
 サイパンは第一次世界大戦以来に日本軍に占領されて植民地化された。約127,000人ものアメリカ軍が1944年6月15日から侵攻したとき、サイパン島には約26,000人の日本軍と約6,000人の海軍要員ならびに約30,000人の民間人がいた。日本軍兵士は約24,000人が戦死して約5,000人が自殺した。日本軍兵士は約912人の捕虜まみが生存した。民間日本人は約22,000人が死亡した。アメリカ軍は、約3,426人が戦死して、約10,364人が戦傷した。

 


 

2021年5月29日土曜日

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。 
 原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
 1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
 似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。


 

2021年5月28日金曜日

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。ナチス・ドイツ国防軍の殲滅作戦は戦争犯罪であった。この時期に、クルト・ワヒナー(Kurt Wafner, 1918-2007)は、ナチス・ドイツ軍が行った残虐行為の写真を目撃しては収集した。ドイツ国防軍は親衛隊SSや警察と同様に残虐な行為を行っていた。1941年11月だけで約6,000人〜10,000人のロシア人やユダヤ人が粛清された「ミンスク・ゲットーの避難」の後に、自分の目で地獄を見に行った。割れたガラス、衣類、殺害された人々の体の部分、ラットにかじられた死んだ赤ちゃんなどが散乱した。
 クルト・ワフナーは、1939年に徴兵されて陸軍に入り、労働奉仕活動に従事した。工学系学校の入学が兵役で頓挫した。1939年夏、視力の低下を理由に兵役から解放された。その後に覆されて、フランクフルトの砲兵隊に所属して、目の病気が悪化し、事務職に就いた。1941年には、ベルリンでフランス軍の捕虜を守護すために派遣された。善良なる兵士の戦術を用いて、戦争に貢献しなかった。ナチス・ドイツ軍による東欧侵攻で状況は一変し、東部戦線に駆り出された。部隊の中で2人の共産党員に出会った。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣された。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣されていた。共産党員の1人が、「死んだように酔っ払った」と言い訳して、何人かの捕虜を逃がして、憲兵隊に逮捕され、行方不明となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍が暗転するにつれて、クルト・ワヒナーは、病人リストに載るための努力を重ねて、シーメンス社の物理学研究所で、地下活動を続けた。第二次世界大戦後に東ドイツの体制下で、彼は民兵や共産党に参加したが、無政府主義的な考えを持ち続けた。1947年に、彼は秘密警察に協力を要請されたが、これを拒否した。結核を患い、民兵を辞めた。図書館員として訓練を受けて、1950年に彼は共産党を脱退した。出版編集者、週刊連載小説を発行する「ロマン・ツァイトゥング」の責任者、ラジオ劇の作者、ジャーナリストなど、さまざまな仕事をした。常に国家の検閲の弾圧を意識した。共産党の方針に従わなかったために、ソビエト・ドイツ友好協会の出版社の仕事を失った。1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ドイツのアナーキスト運動と接触し、自らの体験と写真を記事にした。2000年には自叙伝『My Life as a Book Lover and Anarchist』を出版し、2007年3月10日に死去した。
 ナチス国家社会主義の敗北後に、軍隊の幹部や参謀たちは「クリーンなドイツ国防軍」の伝説を集めて喧伝した。隊員たちは、ヒトラーやナチス政権とは距離を置いて、良識と尊厳を持った軍人の義務を果たした。ヒムラーのアインザッツグルッペンが行った残虐行為は、事後的にしか知らされなかった。重大な犯罪の加害者や共犯者は、自分に罪はないと語ることができた。しかし、ドイツ国防軍は、全体組織としてナチスの戦争犯罪に積極的に参加したことを認めない組織である。ユダヤ人の絶滅、捕虜の大量殺戮、民間人に対するテロという3つの大きな犯罪に軍が加担したが記録していた。国際法を逸脱し、あらゆる戦争のルールを超えて行われた戦争犯罪は、何よりも対ソ戦の残虐性を決定づけた。バルカン半島やイタリアなど、他の地域でも同じように戦争犯罪が執行された。戦争に対する政治の優位性は、もはや当てはまらない。ナス知国家社会主義者の絶滅戦争では、政治的目標と戦争目的は区別できなくなった。
 1945年以降に、何千人もの加害者と何十万人もの共犯者がドイツ国内に戻ってきた。彼らは、戦後のドイツ社会に身を置き、何が起こったのかを雄弁に語った。その後に、解明や告発への関心が薄れた、雑誌や文献でどのような霧のベールが作られた。

 

2021年5月27日木曜日

第二次世界大戦にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であったソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、ソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。フィンランドの戦いでロシア軍の軍服は、ヨーロッパ史上で最も厳寒の約−43°Cとなった冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であった。日光が数時間しか続かず、厳寒で雪に覆われた森で、猛吹雪と吠える風で露出した身体は凍傷になり、死体の山は数分で凍り、レンガの壁の堅固さを獲得した。凍死は、震えが止まり、低体温症に陥った後に、居眠りするまで臓器がゆっくりと停止する。死体はしばしばレンガの固さに凍りついた。
  ヒトラーのナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻から、次の一撃を待っている間に、スターリンのソ連軍は自らの手でフィンランドに一撃を加えることにした。冬戦争と呼称されたソ連・フィンランド戦争は、第二次世界大戦の勃発から3か月後の1939年11月30日にソビエトがフィンランドに侵攻したことから始まった。約3か月半後に1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。スターリンのソ連は、1939年11月30日の早朝に、戦闘機と戦車隊をフィンランドに侵攻して、その翌日の12月1日には辺境の町に、フィンランドの傀儡政権を樹立した。意外なことに、ソ連の赤軍の作戦は、電撃的なものではなかった。気まぐれな独裁者であるスターリンは、二流の軍隊と装備で、フィンランドを侵略できると考えた。約2ヶ月以上の戦闘の期間に、すべての連合軍は、約400万人の小さな国であるフィンランドが、約1億8千万人の超大国のソ連に勇敢に立ち向った。連合軍は、1940年3月31日にフィンランド軍は悲劇的な犠牲を伴って、あたかも戦勝したかのような戦況に興奮して歓声を上げた。フィンランド軍の犠牲は、約24,923人が戦死、約43,557人が戦傷、約1,000人が捕虜となった。ソ連軍の犠牲は、約126,875人が戦死あるいは行方不明、約26,4908人が戦傷、約5,600人が捕虜となった。
 連合軍には、フィンランド軍を助ける現実的な戦略を持っていなかった。ソ連の赤軍がついに本格的な攻撃が勃発したときには、フィンランド軍は、冷酷な効率性で粉砕された。1940年2月に、ソ連軍は最大の砲撃に続けて猛攻撃を再開して、カレリアン地峡で、フィンランドの防御を突破した。フィンランド軍は弾薬が少なく、危機に瀕して、3月の和平条件に合意した。しかし、ヒトラーのナチス・ドイツ軍は、この約2ヶ月間にソ連軍の無能ぶりを、フィンランドの森の悲劇的な幕間に目の当たりにした。ソ連軍の実力を過小評価して、ナチス・ドイツ軍にとってソ連に侵攻する東部戦線は悲惨な結果を招いた。冬戦争から休戦期間の約15か月後の1941年6月22日に、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を開始して、フィンランドとソ連の冬戦争が継続された。

 


 

2021年5月26日水曜日

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺して、銃弾が当たった瞬間に撮影された。

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、フランス解放した後に、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺した。銃弾が当たった瞬間に撮影された。死刑にされる直前に処刑台に縛られた紐が飛び散った。
 法的粛清(épuration légale)は、第二次世界大戦にてフランスがナチス・ドイツ軍から解放とヴィシー政権の崩壊に引き続いて行われた一連の公式裁判である。裁判は主に1944年から1949年にかけて行われ、その後の法的措置は数十年にわたって続いた。フランスは1944年8月25日にパリで最後のドイツ軍が連合軍に降伏して解放された。
 ニュールンベルグ国際軍事裁判とは異なり、フランス国内だけで行われた法的粛清であった。約30万件の事件が調査されて、ナチス・ドイツ協力者であったヴィシー政府の最高幹部にまで及んだ。半分以上は起訴されずに終結した。1944年から1951年までに、フランスの公式裁判所は、反逆罪などで約6,763人に死刑判決を下した。そのうち欠席裁判の判決は3,910人であった。実際に死刑が執行されたのは、約791に達した。膨大だったのは、国家堕落罪で、約49,723人が市民権を喪失した。
 ナチス・ドイツからの解放直後のフランスでは、野生の粛清と呼称されて、ナチス・ドイツ協力者の容疑者の有罪判決、処刑、公開屈辱暴行、拘束が相次いだ。この時期は、フランス臨時政府が先立って樹立されて、ナチス・ドイツの占領統治した。フランス解放の前後を問わず、約10,500人が判決処刑されたと推定された。司法裁判所は、約6,763件の死刑判決を下した。そのうち3,910件は欠席裁判であり、約2,853件は被告人の立ち会い裁判で判決された。このうち約2,853人の約73%はシャルル・ドゴールによって減刑され、さらに約767人が減刑された。軍事法廷では約770人に死刑執行が命じられた。解放の前後に処刑された人の総数は約10,500人で、その中には特に軍事組織の幹部や指導者も含まれた。アメリカ軍は、解放後の略式処刑の数を約8万人と推定した。1945年3月のフランス内務大臣は、処刑された人数は約10万5千人と主張した。
 当初の粛清は、1944年8月25日のパリの解放前後から、フランス市民の怒りは、ナチス・ドイツの協力者に向いた。逮捕後の刑罰には、殴打、拷問による尋問、および即決処刑が含まれた。ほとんどの協力者の女性は頭を剃られ、一部の女性は額に卍が刻まれた。ナチス・ドイツ協力者には3種類の裁判があり、1つ目は反逆罪を非合法化し、敵と情報を共有するフランス刑法第75条に違反を、刑事裁判所で判決された。2番目は、特定の法律に違反しないも、行動が愛国心がないと見なされた容疑者はは、公民裁判所で判決された。3番目は世論により、特定の有名人に対する一般市民の憤慨により、反逆罪で裁判にかけられて処刑された。