2021年5月28日金曜日

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。ナチス・ドイツ国防軍の殲滅作戦は戦争犯罪であった。この時期に、クルト・ワヒナー(Kurt Wafner, 1918-2007)は、ナチス・ドイツ軍が行った残虐行為の写真を目撃しては収集した。ドイツ国防軍は親衛隊SSや警察と同様に残虐な行為を行っていた。1941年11月だけで約6,000人〜10,000人のロシア人やユダヤ人が粛清された「ミンスク・ゲットーの避難」の後に、自分の目で地獄を見に行った。割れたガラス、衣類、殺害された人々の体の部分、ラットにかじられた死んだ赤ちゃんなどが散乱した。
 クルト・ワフナーは、1939年に徴兵されて陸軍に入り、労働奉仕活動に従事した。工学系学校の入学が兵役で頓挫した。1939年夏、視力の低下を理由に兵役から解放された。その後に覆されて、フランクフルトの砲兵隊に所属して、目の病気が悪化し、事務職に就いた。1941年には、ベルリンでフランス軍の捕虜を守護すために派遣された。善良なる兵士の戦術を用いて、戦争に貢献しなかった。ナチス・ドイツ軍による東欧侵攻で状況は一変し、東部戦線に駆り出された。部隊の中で2人の共産党員に出会った。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣された。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣されていた。共産党員の1人が、「死んだように酔っ払った」と言い訳して、何人かの捕虜を逃がして、憲兵隊に逮捕され、行方不明となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍が暗転するにつれて、クルト・ワヒナーは、病人リストに載るための努力を重ねて、シーメンス社の物理学研究所で、地下活動を続けた。第二次世界大戦後に東ドイツの体制下で、彼は民兵や共産党に参加したが、無政府主義的な考えを持ち続けた。1947年に、彼は秘密警察に協力を要請されたが、これを拒否した。結核を患い、民兵を辞めた。図書館員として訓練を受けて、1950年に彼は共産党を脱退した。出版編集者、週刊連載小説を発行する「ロマン・ツァイトゥング」の責任者、ラジオ劇の作者、ジャーナリストなど、さまざまな仕事をした。常に国家の検閲の弾圧を意識した。共産党の方針に従わなかったために、ソビエト・ドイツ友好協会の出版社の仕事を失った。1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ドイツのアナーキスト運動と接触し、自らの体験と写真を記事にした。2000年には自叙伝『My Life as a Book Lover and Anarchist』を出版し、2007年3月10日に死去した。
 ナチス国家社会主義の敗北後に、軍隊の幹部や参謀たちは「クリーンなドイツ国防軍」の伝説を集めて喧伝した。隊員たちは、ヒトラーやナチス政権とは距離を置いて、良識と尊厳を持った軍人の義務を果たした。ヒムラーのアインザッツグルッペンが行った残虐行為は、事後的にしか知らされなかった。重大な犯罪の加害者や共犯者は、自分に罪はないと語ることができた。しかし、ドイツ国防軍は、全体組織としてナチスの戦争犯罪に積極的に参加したことを認めない組織である。ユダヤ人の絶滅、捕虜の大量殺戮、民間人に対するテロという3つの大きな犯罪に軍が加担したが記録していた。国際法を逸脱し、あらゆる戦争のルールを超えて行われた戦争犯罪は、何よりも対ソ戦の残虐性を決定づけた。バルカン半島やイタリアなど、他の地域でも同じように戦争犯罪が執行された。戦争に対する政治の優位性は、もはや当てはまらない。ナス知国家社会主義者の絶滅戦争では、政治的目標と戦争目的は区別できなくなった。
 1945年以降に、何千人もの加害者と何十万人もの共犯者がドイツ国内に戻ってきた。彼らは、戦後のドイツ社会に身を置き、何が起こったのかを雄弁に語った。その後に、解明や告発への関心が薄れた、雑誌や文献でどのような霧のベールが作られた。

 

2021年5月27日木曜日

第二次世界大戦にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であったソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、ソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。フィンランドの戦いでロシア軍の軍服は、ヨーロッパ史上で最も厳寒の約−43°Cとなった冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であった。日光が数時間しか続かず、厳寒で雪に覆われた森で、猛吹雪と吠える風で露出した身体は凍傷になり、死体の山は数分で凍り、レンガの壁の堅固さを獲得した。凍死は、震えが止まり、低体温症に陥った後に、居眠りするまで臓器がゆっくりと停止する。死体はしばしばレンガの固さに凍りついた。
  ヒトラーのナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻から、次の一撃を待っている間に、スターリンのソ連軍は自らの手でフィンランドに一撃を加えることにした。冬戦争と呼称されたソ連・フィンランド戦争は、第二次世界大戦の勃発から3か月後の1939年11月30日にソビエトがフィンランドに侵攻したことから始まった。約3か月半後に1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。スターリンのソ連は、1939年11月30日の早朝に、戦闘機と戦車隊をフィンランドに侵攻して、その翌日の12月1日には辺境の町に、フィンランドの傀儡政権を樹立した。意外なことに、ソ連の赤軍の作戦は、電撃的なものではなかった。気まぐれな独裁者であるスターリンは、二流の軍隊と装備で、フィンランドを侵略できると考えた。約2ヶ月以上の戦闘の期間に、すべての連合軍は、約400万人の小さな国であるフィンランドが、約1億8千万人の超大国のソ連に勇敢に立ち向った。連合軍は、1940年3月31日にフィンランド軍は悲劇的な犠牲を伴って、あたかも戦勝したかのような戦況に興奮して歓声を上げた。フィンランド軍の犠牲は、約24,923人が戦死、約43,557人が戦傷、約1,000人が捕虜となった。ソ連軍の犠牲は、約126,875人が戦死あるいは行方不明、約26,4908人が戦傷、約5,600人が捕虜となった。
 連合軍には、フィンランド軍を助ける現実的な戦略を持っていなかった。ソ連の赤軍がついに本格的な攻撃が勃発したときには、フィンランド軍は、冷酷な効率性で粉砕された。1940年2月に、ソ連軍は最大の砲撃に続けて猛攻撃を再開して、カレリアン地峡で、フィンランドの防御を突破した。フィンランド軍は弾薬が少なく、危機に瀕して、3月の和平条件に合意した。しかし、ヒトラーのナチス・ドイツ軍は、この約2ヶ月間にソ連軍の無能ぶりを、フィンランドの森の悲劇的な幕間に目の当たりにした。ソ連軍の実力を過小評価して、ナチス・ドイツ軍にとってソ連に侵攻する東部戦線は悲惨な結果を招いた。冬戦争から休戦期間の約15か月後の1941年6月22日に、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を開始して、フィンランドとソ連の冬戦争が継続された。

 


 

2021年5月26日水曜日

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺して、銃弾が当たった瞬間に撮影された。

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、フランス解放した後に、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺した。銃弾が当たった瞬間に撮影された。死刑にされる直前に処刑台に縛られた紐が飛び散った。
 法的粛清(épuration légale)は、第二次世界大戦にてフランスがナチス・ドイツ軍から解放とヴィシー政権の崩壊に引き続いて行われた一連の公式裁判である。裁判は主に1944年から1949年にかけて行われ、その後の法的措置は数十年にわたって続いた。フランスは1944年8月25日にパリで最後のドイツ軍が連合軍に降伏して解放された。
 ニュールンベルグ国際軍事裁判とは異なり、フランス国内だけで行われた法的粛清であった。約30万件の事件が調査されて、ナチス・ドイツ協力者であったヴィシー政府の最高幹部にまで及んだ。半分以上は起訴されずに終結した。1944年から1951年までに、フランスの公式裁判所は、反逆罪などで約6,763人に死刑判決を下した。そのうち欠席裁判の判決は3,910人であった。実際に死刑が執行されたのは、約791に達した。膨大だったのは、国家堕落罪で、約49,723人が市民権を喪失した。
 ナチス・ドイツからの解放直後のフランスでは、野生の粛清と呼称されて、ナチス・ドイツ協力者の容疑者の有罪判決、処刑、公開屈辱暴行、拘束が相次いだ。この時期は、フランス臨時政府が先立って樹立されて、ナチス・ドイツの占領統治した。フランス解放の前後を問わず、約10,500人が判決処刑されたと推定された。司法裁判所は、約6,763件の死刑判決を下した。そのうち3,910件は欠席裁判であり、約2,853件は被告人の立ち会い裁判で判決された。このうち約2,853人の約73%はシャルル・ドゴールによって減刑され、さらに約767人が減刑された。軍事法廷では約770人に死刑執行が命じられた。解放の前後に処刑された人の総数は約10,500人で、その中には特に軍事組織の幹部や指導者も含まれた。アメリカ軍は、解放後の略式処刑の数を約8万人と推定した。1945年3月のフランス内務大臣は、処刑された人数は約10万5千人と主張した。
 当初の粛清は、1944年8月25日のパリの解放前後から、フランス市民の怒りは、ナチス・ドイツの協力者に向いた。逮捕後の刑罰には、殴打、拷問による尋問、および即決処刑が含まれた。ほとんどの協力者の女性は頭を剃られ、一部の女性は額に卍が刻まれた。ナチス・ドイツ協力者には3種類の裁判があり、1つ目は反逆罪を非合法化し、敵と情報を共有するフランス刑法第75条に違反を、刑事裁判所で判決された。2番目は、特定の法律に違反しないも、行動が愛国心がないと見なされた容疑者はは、公民裁判所で判決された。3番目は世論により、特定の有名人に対する一般市民の憤慨により、反逆罪で裁判にかけられて処刑された。 

 

 


 

2021年5月25日火曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の浮かんだ死体を追い越した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の死体を追い越した。死体は、ドイツ国内の小川に仰向けに浮かんだ。1945年4月10日に、アメリカ軍は、22師団で東部への攻撃を再開した。 ハルツ山地では、ドイツ軍から深刻な組織的抵抗に遭遇した。ドイツ軍は急いで約1万人の兵士を集めて軍隊を再編成して、最初はルール地域に突入した。 それが失敗して、次いでチューリンゲン地域に突入した。 これも失敗して、ドイツ軍は、最後の小さな軍隊がアメリカ軍に包囲されて壊滅した。

  第二次世界大戦の中央ヨーロッパでの西部戦線は、1945年3月22日にアメリカ軍部隊がライン川を越えて、レマゲン地区に到着してドイツ軍との戦闘が勃発した。3月22日から23日の夜までに、アメリカ軍部隊はオッペンハイムでライン川を渡河した。ライン川を渡河すると、アメリカ軍はボンからノイスまでのライン川西岸の地域を占領した。3月26日には、アメリカ軍はワームの南北でライン川を渡河して、川岸でドイツ軍から激しい抵抗を受けた。抵抗を突破して橋頭堡を拡大した。アメリカ軍はヴェーゼルの南を、イギリス軍はヴェーゼルの北を横断した。連合国の空挺軍のパラシュート部隊は、ライン川の東側に降下した。 連合軍が、ライン川の東側に向けて侵攻して、ドイツの広大な工業地帯であるルール地方を包囲して、ドイツ軍の防衛部隊を捕獲した。ドイツ国内に向けて侵攻は継続されて、散在した地域でドイツ軍の反抗を受けた。

 ソ連軍は東部戦線からドイツ国内に侵入した。ソ連軍の捕虜から逃れようとしたナチス・ドイツ軍は西側の連合国軍に何千人も降伏した。ドイツ北部のアメリカ軍、イギリス軍とカナダ軍部隊は、ソ連軍と遭遇すると思われるラインに到達すると、侵攻を停止した。アメリカ軍は、チェコスロバキアとオーストリアへの侵攻を継続して、ソ連軍との合流を果たした。ドイツ東部のエルベ川の沿岸のザクセン州トルガウの南約20Kmの小村シュトレーラで、1945年4月25日11時25分に1人のソ連軍兵士に出会った。その後にアメリカ軍偵察隊とソ連軍親衛隊が出会った「エルベの誓い(Elbe day)」と呼称した。
  1945年5月2日に、イタリアのドイツ軍は降伏した。その2日後、アメリカ軍部隊は、イタリアから来たアメリカ軍部隊とブレンナー・パスで合流した。1945年5月9日、すべてのドイツ軍が降伏が実効となり、ヨーロッパでの第二次世界戦争が終結した。エルベの誓いは、結果的にアメリカ・ソ連連合軍の最後の象徴となり、次第に国際協調関係が悪化して、冷戦の端緒になった。

 


 

2021年5月24日月曜日

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人を弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人などを弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。1910年に日韓併合された朝鮮半島において、三・一革命の独立運動が1919年3月に勃発した。朝鮮半島の各地に独立運動が発生した。独立万歳事件は約618ヶ所にて、総回数は約847回も発生した。日本帝国の軍隊、憲兵や巡査らが検挙した朝鮮人は、約587,641人にも達した。その中で、有罪判決されたのは約7,816人であった。独立万歳事件にて、殺害された犠牲者は約553人であり、負傷者は約1,499人にも達した。朝鮮人にとって、三・一独立運動は民族解放のための独立運動であり、植民地化された朝鮮人の自由を回復することでもあった。日本帝国の弾圧に対して、朝鮮人は原始的武器から投石棟による対抗暴力が増悪した。日本人巡査や朝鮮人巡査補に対して虐待や虐殺をした。朝鮮人は日本の植民地支配と日韓併合を象徴する機関を襲撃や放火した。 

 約33人の宗教指導者らが集って、現在はソウルの京城の中心部にて、現在はタプコル公園であるパゴダ公園にて、1月22日に死亡した大韓帝国の初代皇帝の李太王の葬儀に合わせて、3月3日に独立宣言を読み上げることを計画した。天道教が15人、キリスト教が16人、仏教が2人で構成した民族を代表して33人の宗教指導者は、3月1日午後に変更して、仁寺洞の泰和館にて独立宣言を朗読して、万歳三唱をした。「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」と独立宣言をした。その発端となった民族代表33人は朝鮮総督府に逮捕された。3月3日にて李太王の葬儀により、事前に独立宣言をする予定であったパゴダ公園には、数千人もの朝鮮人学生が集合して、太極旗を掲げてソウル市内を独立万歳の示威運動をした。3月10日には南朝鮮地域から、その後に朝鮮全土に拡大して、4月11日に上海に大韓民国臨時政府が樹立された。独立万歳と叫ぶ学生運動に、朝鮮人市民も参加して、数万人規模に達した。4月上旬には、農民から労働者など様々な階層が合流して朝鮮半島全土に暴動が拡散して、警察署・役場・小学校などが襲撃されて、虐待と虐殺も拡大した。三・一宣言以後に、約3カ月間にわたり示威運動が展開された。

 日本帝国は、独立宣言の直後は首謀者を逮捕して群衆を解散させた。軍隊の使用は朝鮮将来の統治に悪影響を及ばないなるべく区域を限定していた。3月10日以降から、軍隊の使用を積極的に区域外にも及ぼした。4月4日には、日本帝国政府は歩兵6大隊、憲兵約65人と補助約350人を朝鮮に派遣した。次第に日本帝国政府は、軍隊ならびに憲兵や巡査を増強して、三・一独立運動を厳しく弾圧した。5月末までに約200万人を超える参加者の内、朝鮮人の犠牲者は約7,509人が殺害されて、約15,961人が負傷して約46,948人が囚人となった。 

 

2021年5月23日日曜日

日中戦争にて日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにして放置した。

日中戦争が勃発すると、日本軍は偉大な強者として中国の各地で狂気で鼓舞して、戦争犯罪の汚点となった大虐殺など様々な蛮行を繰り返した。日本軍は、中国人は非征服民であるので、特別の考慮などを願う権利を無視した。日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにした。難民は泥酔した日本軍兵士に、しばしば銃剣で刺殺された。各地では、強姦、虐殺、略奪などの狂乱となった。避難民のために南京政府が設定していた国際難民区に、約20万人以上の難民で密閉された。日本軍は、強制収容所として、数千人の中国人を引きずり出して大量虐殺した。銃剣の練習台とされ、生贄として石油を浴びせて焼死させた。

 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件から勃発して、日本軍は武力で直ちに中国軍を圧倒した。中国軍は、多数の予備軍まで投入して犠牲が拡大した。日本軍を、海岸戦から内陸部へ引きずり込む前に大損害を受けた。中国軍は予備軍も枯渇して、反撃すらできない戦況に陥った。中国軍には、日本軍は固定陣地においても撃退できずに、南京などの大量虐待と大量虐殺の惨劇が勃発した。日本軍は、中国軍の前線を突破して、侵攻が南京にまで達した。南京の中国軍は、上海からの退却する中国軍を収容する暇もなかった。退路は塞がり、司令部も混乱した。日本軍にとって、軍師的や経済的な価値を与える建物や工場も破壊も中国軍はできなかった。

 日本軍は、南京に1937年12月12日に入城した。南京からは約50万人以上もの住民や兵士が自ら逃避して、長い退却をした。勝ち誇った日本軍は、南京にて縦横無尽に略奪ならびに虐待と虐殺をした。唯一残存した南京城の城門を抜けて、揚子江の北岸に逃避した数百人の中国軍や文官が、日本軍の機関銃に掃討されて水没した。数百人の中国人が、下関門に伸びている陸路で掃討されて、死体が累々と積重なった。約12,000の商店と家屋が略奪して、略奪品を上海に搬送した。日本軍は、南京大量虐殺することで、南京の占領を中国人に歓迎させる秩序回復を強要した。南京にあるアメリカ・イギリス・ドイツの大使館や外国人の建物も略奪した。南京の国際救済委員会は100日間の調査にて、日本軍は南京だけでも少なくとも約42,000人を虐殺して、その中に約22,490人もの多くの婦人と子供が膨れた。上海から南京までの侵略中には約30万人の中国人が虐殺されたと推定した。南京の損害額は、約2億4600万中国ドルに掃討して、約1%が軍事損害、残りは主として略奪と放火であった。


2021年5月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。


2021年5月21日金曜日

中華人民共和国で、銃殺刑が執行すめために、容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。

1989年11月に中華人民共和国で、銃殺刑が執行された。容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。まさに銃殺刑が執行する直前である。その後に囚人は銃殺されて死亡した。2019年は中国を除いて、全世界の死刑執行数の約86%は、イラン(251人)、サウジアラビア(184人)、イラク(100人以上)、エジプト(32人以上)、アメリカは(約22人)で執行された。ベトナムと北朝鮮などの死刑執行総数は全く不明である。

 中華人民共和国では、約10万人以上の人々が、政府にとり不都合な事由にて、裁判もされること無く拘禁や処刑された。特に、少数民族に対しては厳しく弾圧して、反政府的運動をする中国北部のカトリック教徒やチベットの僧侶も拘禁されて処刑された。1989年の民主化運動によって、中国人の学生や市民らも逮捕されて拘禁された。囚人の多くは、起訴や裁判も無く拘禁された。不合理な不公平な裁判を強要されて刑罰で拘禁された。1990年代半ばに広まった反政府活動を、相次ぐ死刑執行で牽制した。

 中華人民共和国では、政治的な弾圧により、数千人が殺害された。アムネスティ・インターナショナルの調査では、1991年だけで約1,510人以上が死刑を執行された。約1,650人が死刑を宣告された。中華人共和国の死刑執行数は、全世界の死刑執行数の合計よりも多い。正確な人数は厳重な極秘の国家機密である。1990年代に中国の国営新聞で報道された約18,194件の死刑執行数であり、1999年だけでも約1,263件だった。死刑は、中国の文学や伝統に目には目が溢れている。中国共産党の利益を忖度する司法は、大きな影響を政府から受けている。

 2006年6月、中国の上海で死刑が執行された囚人の邱宣明の死体は、処刑場から火葬場に到着した。近距離で背中を撃たれた頭は、白色のガーゼで包んでいた。衣服は約1時間前に公聴会での最後の法廷で着ていたものと同一であった。シャツには大量の血が付着して、腹は切り裂かれ、腸がこぼれ落ちていた。後頭部への銃撃により死後から数分で、臓器が摘出された。(The New York Times, March 11, 2001) 中国政府は1984年に「死刑囚の死体または臓器の使用に関する暫定規定」という通知を発表し、死刑囚は銃殺で処刑することを定めた。「次の分類の死刑囚の死体または臓器は、家族が死体の回収を拒否した場合、死刑執行前に囚人が死体を志願した場合、または家族が同意した場合に利用できる」とした。中国は、2020年にコロナウイルス関連の死刑執行を行った最初の国となった。











2021年5月20日木曜日

エルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。

中央アメリカ中部のエルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。特に農村地域での暗殺部隊と民間人への無差別攻撃を含む、すべての反政府勢力に対する軍事政府の大量虐待と大量虐殺がされた。無差別暴力がゲリラの反乱を煽り、本格的な内戦に入った。第三世界の経済が困窮すると、大多数の市民の間で貧富の格差が拡大する。エルサルバドルでは、耕作可能な土地の77%は人口の0.01%に属した。一握りの特権階級が実権を支配する。経済の困窮により、社会的不安が深刻化して、社会体制の再編成や武力鎮圧にまで深刻化する。一部の特権階級が、既得権を保持するために、社会的動揺を弾圧するために武力で市民を弾圧した。特権階級が支配する政府は先進国から多額の武器を輸入する。先進国との産物の取引により、ますます輸入が超過すると、通貨レートが悪化して、先進国から貸借を重ねる。社会的不安が極度に市民らの動揺して内乱に陥る。その内乱を弾圧するために、軍事的武器を輸入超過に至る軍事クーデターにより軍事政権が樹立する。

 エルサルバドル内戦は、1979年10月15日から1992年1月16日まで、軍事政権であるエルサルバドル政府とファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)との間で勃発したエルサルバドル内戦である。1979年10月15日に起きた軍事クーデターは、軍事政権による反クーデター派の反抗者の殺害、ゲリラによる軍事体制派の殺害を経て、内戦が始まった。1979から1981年に政府軍が支援する右翼の死の部隊によって約3万人が殺害された。1980年3月24日に人権保護家オスカルロメロ大司教の暗殺した。1981年3月15日、エルサルバドル軍は、ホンジュラス国境近くのエルサルバドル北部のカバニャス県で無差別の掃討作戦を執行した。1981年12月11日には、モラサン県エルモゾデで、女性や子供の約146人を含む約733以上の非武装の民間市民を、無差別にエルモゾテ虐殺を実行した。

 悲惨な内戦は約12年間以上継続した。アメリカで訓練された軍事政府の死の部隊(Death Squad)による意図的なテロにより民間人を標的として、カトリック教会の聖職者の暗殺、組合指導者・活動家・学生・教師の殺害、児童兵の徴用など、主に軍事政権による人権弾圧による虐待と虐殺が行われた。FMLNゲリラは1970年代に革命を増長するために誘拐、爆撃、銀行強盗を行った。1980年代には、FMLNは数人の市長、情報提供者、裏切り者を殺害した。多数の市民が行方不明になった一方で、国連はエルサルバトル内戦によって1979年から1992年の間に約75,000人以上が死亡したと報告した。内戦の結果、約100万人近くが、エルサルバドルの国内で強制的な避難、中米、メキシコ、アメリカなどに難民となった。内戦は、1992年1月16日にチャプルテペック和平合意によって終結した。

 アメリカ政府は、エルサルバドル軍事政府に1日あたり約100~約200万ドルの軍事援助を行って、必要な軍事訓練を提供して、内戦では軍事政権に加担した。サルバドル軍事政府は、冷戦下でアメリカから友好的同盟国と見なされた。1983年5月までに、アメリカ軍将校がエルサルバドル軍の幹部の地位を占めて、重要な決定を下し、内戦を操作していた。対内戦戦術はしばしば無差別に民間市民を対象とした。国連は内戦中の市民への暴力行為のうちFMLNゲリラの要因は約5%であり、エルサルバドル軍と暗殺部隊の要因は約85%と推定した。1990年から、国連はエルサルバトル内戦の和平交渉を開始して、国際連合エルサルバドル監視団を派遣した。最終合意であるチャプルテペック和平協定がメキシコシティで署名されて、内戦が公式には終結した。



2021年5月19日水曜日

湾岸戦争にてクウェートが開放された直後に、焼け焦げて小物が散乱したイラク軍兵士の死体の前で、クウェート軍兵士が機関銃を掲げて気取った態度を取った。

1991年2月24日に、アメリカ連合軍の大規模なクウェート侵攻で、クウェートは解放された。解放された翌日に、イラク軍兵士の死体がクウェート中に散乱した。クウェート軍兵士が、焼け焦げたイラク軍兵士の死体の前で、機関銃を掲げて気取った態度を取った。イラク軍は、撤退前までに約600基の油井が炎上して、その巨大な炎が地平線を焦がしていた。クウェートの首都が煙に巻かれた。自然の遺産までもが破壊された。炎は数十メートルの高さまで燃え上がった。風向きが変わると、濃い煙が空を覆って、白昼の夜となった。

  湾岸戦争では、アメリカ軍兵士は約148人が戦死して、約457人が戦傷した。その他の同盟国の戦死は、砂漠の嵐作戦で約100人程度であった。イラク軍側の犠牲者数は公式には発表さないが、少なくとも約25,000人のイラク軍兵士が殺害されて、約75,000人以上が戦傷したと推定された。湾岸戦争に直接起因する戦死傷や十分な水・食料・医療品の不足により、約10万人のイラク市民が死亡した。その後の国連安保理の制裁により、約100万人以上のイラク人が死亡した。

 湾岸戦争は1990年8月2日にイラク軍が隣国の石油資源国のクウェートに侵攻して勃発した。クウェート軍は突如に圧倒されてサウジアラビアに退却した。数時間のうちにクウェート市は占領されて、イラク人は暫定州政府を樹立した。クウェートを併合して、イラクは世界の石油埋蔵量の約20%を支配した。同日8月2日に、国連安全保障理事会は全会一致で、侵略を非難し、イラクのクウェートからの即時撤退を要求した。8月6日に全世界にイラクとの貿易を禁止した。

 8月9日に、ペルシャ湾に到達したアメリカ軍は、サウジアラビアを砂漠の盾作戦で防衛した。一方で、イラク軍はクウェートの占領軍を約30万人に増強した。11月29日に国連安全保障理事会は、1991年1月15日までに撤退しない場合、イラク軍に対する武力行使を認める決議を採択した。イラク軍はクウェートからの撤退を拒み、アメリカ軍を中心とした約70万人の32カ国の連合軍が、中東に集結して武力行使した。1991年1月16日に、連合軍の空母から最初の戦闘機が発進し、大規模な砂漠の嵐作戦のイラク攻撃が開始された。爆撃機は、イラクの首都バグダッドとその周辺を標的として攻撃した。衛星放送で戦闘がテレビに生中継された。連合軍はその後約6週間にわたり、イラク国内の軍事・民間施設に対して集中的に空爆した。イラクの地上軍は無力で、イスラエルとサウジアラビアにスカッド(SCUD)ミサイルを発射して報復した。

 2月24日に、連合軍の大規模な地上攻撃が勃発して、イラクの旧式で補給不足の軍隊は急速に圧倒された。同日にイラク軍は崩壊して、約1万人のイラク軍兵士が捕虜となり、クェートは解放された。イラク軍の大部分は降伏するか、イラクに退却して壊滅した。2月28日に、アメリカ軍は停戦を宣言した。4月3日に、国連安全保障理事会は紛争を正式に終結させる決議687を採択した。停戦は正式となり、制裁の一部は解除され、イラクが国連の監視下で大量破壊兵器を廃棄するまで、イラクの石油販売禁止は継続された。4月6日に、イラクは国連決議を受け入れ、4月11日に安保理は687決議の発効を宣言した。その後の約10年間、イラク軍は和平合意をたびたび破り、同盟国は空爆と国連の制裁が続けた。



2021年5月18日火曜日

1920年代中頃に、上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力を銃殺による死刑を執行した。

1920年代中頃に上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力に対して銃殺による死刑を執行した。上海人の問題行動、武器密輸、過激主義などの過激な中国人勢力を鎮圧して、人種的偏見によりアジア人種を徹底的に弾圧した。鉄製の檻に入れた中国人の囚人に首枷をつけて竹の棒で打たせるなどの虐待と虐殺した。

 上海工部局警察(SMP)は、イギリスの植民地警察として上海公共租界で騒ぎを起こす過激活動家を取り締まった。上海市議会である工部局が警察を管理していたが、1854年から香港警察や軍隊から雇い入れた英僑だけの少人数と外国人を混成して大規模な海外の他人種に組織化された。日本人部局は、上海公共租界内の北部の虹口地区で拡大していた。外国人部局は、無気力で怠惰になるアジア人組織を徹底的に管理して、ヨーロッパ人を頂点とする人種的な序列に従って組織化された。上海公共租界の外国人住民が、上海工部局警察の組織と活動を管理していた。上海工部警察に雇われた中国人とインドのシーク教徒を奴隷化した。上海公共租界の外国籍の住民は他国の領事の管轄下となった。上海の巡回区では、中国人と外国人、シーク教徒や日本人の門前でのやり取り振る舞いは、騒動の挑発行為となった。

 上海では1913年以降に犯罪率が急上昇して、上海工部局警察は危機的水準に達した。特に、国民党軍が1913年7月12日から袁世凱を打倒する辛亥革命を蜂起するも、8月13日に鎮圧された残党が上海に潜伏した。1914年から上海では、武装した国民党の残党兵士らが、商店や民家を襲撃した事件が約98件も発生して、1916年には約196件にも増悪した。

 イギリスは、第一次アヘン戦争(1839年~1842年)で清国に勝利して1842年の南京条約により、中国の清国における香港島を割譲して、外国人が支配できる条約港である広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港を保持できた。その中で、上海公共租界が、清国の橋頭堡で最大規模であった。上海工部局警察が治外法権で法律と秩序を支配した。1863年に、イギリスとアメリカの租界が正式に合流し、上海公共租界が成立した。日本は第一次世界大戦中の1915年から、日本は上海に最も多くの日本人の外国人居住者を抱えた。1930年代の上海事変により、日本人が急速に上海で治外法権の外国人の約80%を占めた。太平洋戦争が勃発した1941年12月8日と同時に日本軍が上海市に突入して占領して、上海公共租界は消滅した。太平洋戦争後に中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府である工部局は中国共産党の上海市長の支配下となった。(香港: 1997年7月1日にイギリスから中華人民共和国への返還、2020年7月1日に香港国家安全維持法を施行。)


イギリス上海工部局警察による中国人武装勢力に対する死刑の執行前


中国人武装勢力の死体は刑場に放置された。


2021年5月17日月曜日

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にパレスチナ自治政府のラマラで、壁の前のパレスチナ市民を選別して死刑を執行して、死体を運び出した。

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にラマラで、パレスチナ市民を選別して死刑を執行した。処刑されたパレスチナ人の死体が、壁に向かって座っているパレスチナ人の列から運び出された。残ったパレスチナ人は、壁を前に死刑を選別する尋問を受けた。パレスチナ人を集団処刑するために、イスラエル軍兵士が銃口を向けて後手をロープで繋がれた。即決裁判で壁の前で銃撃された。処刑を免れて生存したパレスチナ人は、強制収容所に連行されて拘禁されて尋問を受けて虐待や虐殺を受けた。

 パレスチナ暫定自治政府は、2002年3月31日にラマラで約30人のパレスチナ人が、イスラエル軍によって殺害されたと公表した。ラマラで、16歳から45歳の男性を掃討して検挙したパレスチナ人を、即決裁判により死刑者と拘束者に分離して処刑した。イスラエル軍は、3月31日にはラマラを閉鎖軍事地域と宣告して、パレスチナ人以外の外国人を排除して、極秘の言論統制を引いた。外国の報道機関を、支局から追い出して事務所を占領して情報統制を敷いた。

 ラマラでは、3月29日からイスラエル軍は外国の報道機関に向けても銃撃した。車に乗車して生後9ヶ月の男児を抱えていた21歳のパレスチナ人女性を射殺した。ラマラは、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市である。エルサレムの北10kmに位置して、パレスチナ暫定自治の首都である。1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザを占領した。占領されたラマラは、1987年12月の第一次インティファーダと2000年9月の第二次インティファーダの闘争場となった。2002年にイスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻して、分離壁を設置した。

 1967年から鎮圧されていたパレスチナのガザ地区で1987年12月にパレスチナ人の2台の車に、イスラエル軍の2台のトラックが追突して、4人が死亡して7人が重傷となった。パレスチナ人の若者が、イスラエル軍兵士に対して投石を始めた。一気にパレスチナ市民にまで抵抗運動が拡大した。インティファーダは、アラビア語で占領を振り落とすことを示唆した。イスラエル軍は若者などのパレスチナ人を1993年までに約1,000も殺害した。2000年9月に、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地を、イスラエル軍が占領した。第二次インティファーダが勃発して、パレスチナ人の若者が投石して、武装集団が小武器やロケット砲で攻撃をして、イスラエル軍が銃撃や砲撃をした。




2021年5月16日日曜日

エルサレムでのバス爆破事件は、2002年6月18日にハマスが実行したエグドバスに対する自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。

エルサレム南部のパット交差点でのバス爆破事件(Patt Junction Bus bombing)は、2002年6月18日にエルサレムでハマスが実行したエグドバスにおける自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。その死者のうち17人はギロ地区の住民で、通学途中の高校生も乗車していた。
 2002年6月18日午前7時50分に、ベツレヘム出身のパレスチナ人自爆テロリストが、エグドライン32Aバスにギロ地区から乗り込んだ。その直後にエルサレムのアラブ地区であるベイト・サファファに停車した時に、バスの正面から爆発した。彼の爆弾ベルトには、死傷者を最大化するために榴散弾用の金属球が含まれていた。
 パレスチナのイスラム教組織ハマスが犯行声明を出した。自爆テロの犯人は、ナブルスのアンナジャ国立大学のイスラム法専攻に通う22歳の学生、ムハンマド・アルゴウル・ハッザーと判明した。彼は、釘を詰めた爆薬を体に装着し、ギロからエルサレム中心街に向かう小学生や通勤者が行き交う朝のラッシュアワーにバスに乗り込んだ。爆発によってバスは地面から浮き上がり、屋根が剥がれ落ち、窓から死体が飛び散った。東エルサレム郊外のジャベル・ムカバーの住民2人が、自爆テロ犯を移送した罪で裁かれて、有罪判決を受けた。6月30日に、ナブルスでのコマンドを襲撃した際に、イスラエル軍兵士はハマスの上級爆弾製造者であるムハニド・タヘルを殺害した。イスラエルによれば、彼はこの攻撃やその他の攻撃の背後にいた人物とした。
 このバスの黒焦げの残骸は、イスラエルの救援・遺体回収団体ザカ(Zaka)の主導でアメリカに輸送され、ニューヨークで隔年開催されるユダヤ人エキスポ・フェアで展示された。ザカは、ボランティアが爆弾の現場から血や肉の断片をかき集め、ユダヤ教の法律に則って埋葬する活動を行っている。ザカは、自分たちの活動に対する認識を高め、自爆テロの影響を示すことを目的とした。
 自爆テロのムハンマド・アルゴウルは「わたしの爆弾の破片が敵を殺し、自らも死ぬことはどんなに素晴らしことでしょう。殺人がしたいからではなく、パレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。次の世代のために死ぬのです。神が望むならば、不正義は消え、勝利はわれわれのものになる。」と3日前に遺書に記載した。イスラム教では、神のために自らを犠牲いる殉教者として戦うことがジハード(聖戦)と称賛している。パレスチナ人は、命を捧げる宗教的な新年から、不正義で追い詰めるイスラエル人を殺害することが正義となる聖戦とした。現場視察したイスラエルのシャロン首相は、パレスチナのテロにあらゆる手段で戦う」と宣告して202年6月18日深夜からパレスチナの西海岸に大規模なパレスチナ侵攻を決行した。

 



 

2021年5月15日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。

2021年5月14日金曜日

江戸時代から、日本の切腹には儀式を伴って、見物人の前で武士は白装束に身を包み、日本刀で切腹が終わっても即死しないと、介錯者に首を切断してもらった。

第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。江戸時代から、日本の切腹には詳細な儀式を伴った。戦場での切腹だけでなく、見物人の前で切腹が行われた。武士は風呂に入り、白装束に身を包み、最後の食事やお酒の盃をして、日本刀と布は別の三方に置かれ、武士に渡される。日本刀を前に置き、武士は死の直前に辞世の句を書いて、切腹に望んだ(切腹の様子を色付け写真で再現した)。
 日本では、切腹(Seppuku)は武士の名誉を守るための最後の自殺の儀式と考えられていた。武士は、主君を守れなかったとき、主君を汚させてしまったとき、家の中で重大な不祥事を起こしてしまったときなどに、切腹で命を絶つことを選択する。日本人は、自分の人生に汚点を持つ侍は、侍の名に値しないと考え、その人生を終わらせるには切腹するのが一番だと考えていた。切腹は武士の罪滅ぼし、悔い改め、羞恥心を解消し、他人を冒涜し、忠誠心を証明する手段となった。切腹は重罪であったが、切腹を許して名誉を保持させた。
 平安時代から江戸時代にかけて、日本人の武士が他人の剣で捕らえられたり、死んだりするのは恥ずかしいことだと考えていた。平安時代の988年に貴族の藤原保輔が盗賊として逮捕されて、切腹で獄中で切腹で自殺したのが最初の記録である。腹切り(Harakiri)とも呼ばれる切腹は一般的な自死行為であった。切腹は、武士の忠誠心、親孝行、勇気など、最高の美徳を示す手段として、日本社会で広く認識されていた。明治時代以降の軍国主義の時代では、切腹は日本の大和魂の核心と美化された。切腹は、1873年(明治6年)に切腹は司法処分から廃止された。1882年に出された「軍人勅諭」の第一条には、兵士は必要に応じて自殺しなければならないと規定されていた。
 腹切りには、一本・二本・三本・十字の4種類の切方と、立ち腹・座り腹の2種類の肢位がある。最も一般的な切腹は、腹を切ることから始まり、切腹して出血しても即死しないと、自死しない切腹者は、首を伸ばして介錯者に首を切断してもらった。通常、首を切ることで最終的な死を実現する介錯者が協力して行った。切腹の核心は、早死にすることではなく、痛みを耐えることである。切腹までの複雑な手順を踏むことで、より儀式的な意味合いが強くなる。切腹の前に、武士は通常、白い着物に着替えて、好きな酒と料理を目の前に置いてから、切腹の儀式のすべてを自ら実行する。日本では、武士の自殺以外にも、女性も切腹を求められたことがある。多くは、夫が死んだときや、自分が重大な悪事を働いたときに起こる。彼女たちが切腹に使った包丁の多くは、結婚の際に自分の父親や新郎の父親から贈られた。
 日本人は愛国的な忠誠心を示す行為として切腹を選択した。明治天皇の埋葬の日である1912年9月13日に、日本陸軍大将であった乃木希典とその妻である乃木静子は、天皇への忠誠心を示すために、ともに自宅で切腹することを選択した。日本人はこの行為を偉業と呼んで狂喜して、明治時代には乃木希典を軍神として、また武士道の象徴として崇めた。第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。日本政府が武士道としての切腹を正式に禁止したのは、1968年のことである。1970年には三島由紀夫らが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹した。日本の地下組織の裏社会では切腹が未だに潜伏している。