ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで撃墜されて墜落した。イギリス軍兵士の乗組員が死亡した死体と残骸が周辺地域に散乱した。この悲惨な戦場の残骸と死体を、ドイツ軍が撮影して公表した。1944年3月30日のニュルンベルグ空襲で、英国空軍(RAF)の795機の爆撃機が戦災に巻き込まれて、約95機が損失した。これは交戦した爆撃機の約11%以上にあたる。さらに多くの機体が戦闘機の砲撃や爆風で損傷しながら墜落した。イギリス軍の545人のイギリス人兵士が死亡し、約150人以上が捕虜となり、多数の負傷者の数は行方不明となった。ニュルンベルク空襲は、イギリス爆撃機が1回の作戦で失った航空機の最大の損失となった。目標としていたニュルンベルグの被害は比較的軽微であった。
イギリス軍は、軽量の爆撃で、夜間に空襲爆撃をした。都市や町を目標にて、大量の爆発物で崩壊した。軍需産業や軍事施設は損害を受けたが、ドイツ人の戦意を喪失させるための民間人へ無差別のテロ爆撃であった。ドイツ軍のイギリスに対する電撃戦への復讐でもあった。1944年3月までに、イギリス軍の爆弾はドイツの都市に大量に投下された。マンハイム、ケルン、首都ベルリンなどの都市がすでに標的となって、煙を上げた瓦礫が大量に残され、多くの民間人が犠牲になった。
約15万人の都市ニュルンベルクには、確かに軍需目標であったが、ドイツ軍の重要な戦力となる軍事都市ではなかった。戦前にヒトラーの有名な集会所として、ナチズムの精神的中心とみなした。ニュルンベルグ空襲は、近未来のノルマンディー上陸作戦前に、英国空軍による大規模な都市空襲の最後となる予定であった。
ドイツ軍は、イギリス爆撃機がベルギー海岸上にくると、月明かりに照らされ、飛行機雲もからはっきりと確認した。ドイツ軍の200機以上の戦闘機が緊急発進して迎撃して、イギリス空軍は事実上の待ち伏せをされた。ドイツ軍の戦闘機は、イギリス軍の爆撃機の下から攻撃した。ドイツ軍の戦闘機により、爆弾を積んだイギリス軍の爆撃機の胴体を銃撃して、重い燃料を積んだ両翼を引き裂いた。ドイツ軍の夜間戦闘機は、イギリス軍の爆撃機を撃墜し続けた。目標を見失って雲の中に消えた。陣形が崩れ、横風により経路を外れた。近郊のラウフの農村地帯に一部が撃墜された。約150機の爆撃機が、搭載した爆弾を野原に捨てた。地上からの激しい対空砲火の下で、多くの爆撃機が街から離れた場所に墜落した。復路でも、イギリス軍の爆撃機は、ドイツ軍の戦闘機や対空砲の標的にされ続けた。編隊はバラバラになり、爆撃機は大きく散らばった。途上でいくつかの爆撃機が、戦闘による損傷か燃料切れで墜落した。
ニュルンベルクの都市被害は、死者約133名(市内約75名)、負傷者約412名、全壊家屋は約198棟、損壊家屋は約3,804棟、ホームレスは約11,000名の犠牲とドイツ軍は記録した。火災の発生件数は、大規模火災は約120件、中・小規模火災は約485件で、産業被害は、鉄道が寸断され、3つの大工場が大きな被害を受け、約96の工業用建物が破壊され、軽微な被害を受けた。
ニュルンベルグの最大の被害は1945年1月2日の空襲で発生し、約521機のイギリス軍の爆撃機が、約6,000発の高爆発性爆弾と約100万発の焼夷弾を市内に投下した。人口の約1,800人以上の死者を出し、約10万人が家を喪失した。ニュルンベルクの旧市街はほぼ完全に破壊され、街全体がひどく被害を受けました。1945年4月11日に空襲は終結して、4月20日にアメリカ軍がニュルンベルグを占領した。
戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2021年5月9日日曜日
ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで墜落した機体の瓦礫と乗務員の死体が散乱した。
2021年5月8日土曜日
アメリカは史上初の水中にて核爆発させるベーカーの核実験により、長崎原子爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾による核爆発を、ビキニ環礁で1946年7月25日に実施した。
2021年5月7日金曜日
ソビエト軍の赤軍兵士が狙撃した直後に、挙上して右手からライフルを投げ出し死にゆくドイツ軍兵士を、ソビエト軍のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。
第二次世界大戦の東部戦線にて、ソビエト軍の狙撃兵によって、ドイツ軍兵士は立位で射撃された。死にゆくドイツの兵士は、両上肢を挙上して右手からライフルを投げ出した。東部戦線の最前線でドイツ軍兵士は、人生を終わらせる弾丸を受け取って戦場に倒れ込んだ。ソビエト軍の赤軍の狙撃兵がライフルを発射した直後に、ソビエト軍の最前線のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。
第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍の最大の侵略戦となったバルバロッサ作戦が1941年6月22日に始まった。ソ連の国境を越えたドイツ軍は、約60万台の車両と約75万頭の馬に支えられた約400万人のドイツ軍兵士が、長さ約3,000キロに及ぶ最前線を攻撃した。侵略から最初のわずか7日間で、ナチス・ドイツ軍は、ソビエト領土に約300kmも侵攻して、モスクワまでの約1/3の距離を侵略した。電撃戦は当初は順調であり、ナチス・ドイツ軍の攻撃は、ソビエト軍は脅威で圧倒されて、初期のソビエト軍の損失は壊滅的であった。最も悲惨なのは人的損失であった。1941年12月までに、ソビエト軍は軍隊全体で約270万人の兵士が殺害されて、約330万人が捕獲された。失った損失は、ドイツ軍兵士1人につき、ソビエト軍兵士は約20人も損失した。ソ連侵攻した最初のわずか9日間で、ドイツ空軍は、空中戦で約1,400機、地上戦で約3,200機のソ連空軍全体で約40%の戦闘機を損失した。ナチス・ドイツ軍が損失した戦闘機は、わずかに約330機であった。さらに1941年8月中旬までに、ソビエト軍は約3,300両の戦車を崩壊したのに対して、ナチス・ドイツ軍はわずか約220両のみを損失し、驚くべき約15:1の損失の比率であった。
1941年末からソビエト軍は、ナチス・ドイツ軍の電撃戦から回復して、彼らの抵抗力は固まり、ドイツの損失が次第に積み重なった。1941年8月までにナチス・ドイツ軍が約46,000の損失が、1941年12月までに約25%が戦死傷した。1941年11月までは、ソビエト軍は極度に悲惨な状況となった。ナチス・ドイツは戦争に勝利したと喧伝していた。約200万人のソビエト軍兵士の捕虜、約22,000個の大砲が押収されて破壊され、約18,000台の戦車が破壊され、戦闘機14,500機が撃墜された。ナチス・ドイツ軍は首都モスクワからわずか約16kmの距離に迫った。ソビエト軍にはわずか約9万人の兵士と約150両の戦車が残存していた。首都モスクワの陥落は目前と見なして、1941年11月7日に、スターリンはモスクワの赤の広場で軍事パレードを挙行した。
1941年12月に入り、気温は-35度にまで急降下した。ロシアでも通年よりも異常に極寒となった。ドイツ軍は極寒の準備が不十分となり、凍傷・飢餓・病気などの13万人もの死傷を伴って、最前線のナチス・ドイツ軍の軍隊を弱体化させられた。1942年1月から補給と設備されたソビエト軍の軍隊は、疲れ果て弱体化したナチス・ドイツ軍を約100kmから200kmも西部に押し戻した。第二次世界大戦で、ナチス・ドイツ軍が被った最初の大敗と撤退となった。最も血なまぐさい戦いとなったモスクワの戦いで約100万人のドイツ軍兵士が命を落とした。
2021年5月6日木曜日
ロシア内戦において白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らの民間市民を大量虐待と大量虐殺した。赤軍と白軍は約700万から約1,200万人の死傷者を出した。
ロシアで1917年の十月革命後に、赤軍と白軍とのロシア内戦(Russian Civil War)が勃発した。白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らを虐殺した。ロシア帝政時代に農奴として虐げられた農民らは、白軍によって再び以前の帝政が戻ることを警戒した。内戦中に推定約700万から約1,200万人の死傷者があり、そのほとんどが民間市民であった。ロシア内戦中は、赤軍と白軍、両軍の手により多くの民間市民は難民となり一家離散を余儀なくさた。片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだ。さらに赤軍には、1917年12月に誕生した秘密警察チェーカーが、令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑した。
白軍は、1917年十月月革命以降のロシア革命期における革命側の赤軍に対する反革命側の旧体制派軍隊の総称である。ロシア内戦において白軍と赤軍は戦闘を繰り広げた。白軍は、レーニンが率いたボリシェヴィキによる十月革命に対抗した。白軍の内訳は旧ロシア帝国軍であり、白軍派コサック軍から成り、共和制派が多く、各地に共和国を建国して、イギリスとフランスから支援されてソビエト共産主義者の赤軍に対抗した。1920年11月にペレコープ=チョーンガル作戦で敗れ、多くの白軍兵士と市民は、フランスやアメリカ合衆国などに亡命した。
赤軍は、レーニンが率いたボルシェビキにより、トロツキーが1918年1月に労働者と農民で編成した。ドイツ帝国に広大な領土を割譲して、多額の賠償金を支払う条件を呑んで、1918年3月にブレスト・リトフスク条約に調印した。多くの旧体制の反対派らは、1918年7月にロシア・ドイツ大使を暗殺して蜂起した。1918年8月30日にレーニン暗殺未遂事件が発生した。レーニンが、モスクワの工場の集会での演説を終え、自動車に乗りかかったとき、3発の銃声が轟き、うち2発が肩と肺に当たった。ボリシェヴィキは、これを起因に1918年9月5日から赤軍による「赤色テロル」の内戦を布告して、多くの旧体制の反対派への大規模な弾圧と処刑を開始した。
ロシア内戦を赤軍が終結させた後に、赤軍のボリシェビキがロシアの国土を再統一できたものの、荒廃と破壊の極致にあった。1920年から1921年の旱魃でさらに困窮した。市場経済廃絶のために飢餓地域から逆に食料を強制的に徴発して、多くの餓死者を出した。十月革命の勃発からわずか数年の内に、およそ約800万人の民間市民が死亡した。ロシア内戦の残虐行為により、民間市民は非人間的行為に巻き込まれて大量虐待と大量虐殺された。
2021年5月5日水曜日
イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落した写真が1931年に偽造された。
イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落して戦死した写真が偽造された。1931年に、グラディス・モード・コックバーンランゲ将校は、第一次世界大戦でイギリス空軍のパイロットとして空中戦の衝撃的な写真を発表した。航空記録の中で最も鮮やかにリアルと称賛された。飛行機に取り付けたカメラから撮影したとされた。写真は1932年以降に、空中戦での戦死-パイロットの戦闘日誌として、空中戦の写真がイギリスの新聞等に掲載された。一部の画像はブックカバーにも使用され、多くの人が驚異的な画像を購入し熱狂した。イギリスでは戦闘機のパイロットは第一次世界大戦の騎士として描かれて、多くが人気のあるヒーローになった。しかし、1984年に至って、アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館が、死亡した友人から空中戦の画像の寄付を受け取って、それが偽造であることが発覚した。
第一次世界大戦から戦闘機が至近距離の空中戦(dog fligt)で戦闘した。1913年にメキシコ革命で最初に空中戦が実戦された。第一次世界大戦で、航空機は初期は偵察用であった。次第に至近距離での航空戦の空中線の戦闘が頻発した。さらに、敵機に対して、機関銃などで銃撃を始めた。第一次世界大戦における最初の航空機による空中戦は、1914年8月にオーストラリア=ハンガリー帝国がセルビアとのツェルの戦いで発生した。
第一次世界大戦において、1914年10月にフランス軍が複葉機の翼に初めて機関銃を装備した戦闘機が、フランスの上空でドイツ軍の航空機を撃墜した。第一次世界大戦中の1915年7月にはドイツ軍の機首に機関術を装着したフォッカー戦闘機が猛威ををふるってフォッカーの懲罰と呼称された。
連合軍は、1916年1月に新型戦闘機によって再び制空権を確立し、ソンムの戦いに間に合わせ、フォッカーの懲罰も終結した。1916年8月までにドイツ軍は専門の戦闘機隊を編成して、再び制空権を得た。1917年4月にはイギリス陸軍航空隊が、甚大な犠牲を伴って血の4月と呼ばれた。次第に、連合軍は航空戦力を量と質ともにドイツ軍を圧倒したが、終戦までドイツ軍はエンジンの軍需産業により最新鋭の戦闘機の開発競争では優位にたった。
2021年5月4日火曜日
第二次世界大戦に連合軍のカッセルに対する無差別大空襲により、ドイツ人住民の犠牲者の死体は広場や街路に集積して配置された。
第二次世界大戦にてドイツ中部のヘッセン州カッセルに対して、1942年2月から1945年3月にかけて連合軍は約40回もの戦略爆撃攻撃をした。大空襲によるカッセル住民の犠牲者の死体は広場に配置された。通りや廃墟の地下室からすべてのカッセル市民の死体を、街路に集積するのに数週間もかかった。アメリカ軍は、1945年4月3日にカッセルを占領した。カッセルには1939年には人口約23万6000人が、約5万人しか残存していなかった。旧市街の中心部の少なくとも90%が廃墟になった。ドイツ国民の士気をくじく名目の無差別の集中爆撃は、テロ爆撃であると戦後に非難された。爆撃された建物と爆撃されていない建物への広範囲にわたる掃討により荒廃した。
特に1943年10月22日から23日のイギリス軍による大空襲が最悪の襲撃で、カッセル市内中心部の大部分が破壊されるも、都市の工業地帯は残存していた。標的の犠牲になったのはカッセル市民だけであった。約15万人の住民が爆撃されて、少なくとも約10,000人が死亡した。最も激しい空襲により火災が約7日間も燃え上がった。約569機の爆撃機が、カッセル市内の旧市街に約80分間にわたり、約1,800トンの爆弾と約460,000本のマグネシウム製の焼夷弾を投下した。
爆発の圧力波により、屋根、窓、ドアが引き裂かれた。多くは木製の建物は、空から降り注ぐ爆弾により、約15分以内に炎上した。カッセルには、火が広がりやすい狭い道があった。最高の気温は約1500度にも達し、風速は約160km/hに達した。すべての酸素が空気から吸い出され、地下室の最初の安全に到達した住民はすぐに窒息死した。ほとんどの住人は、居住していた建物の地下室に逃げ込んでいた。換気ポンプが逆に外界の火炎や煙を吸い込んだ。多くの住民は地表への出口を見つけれず、迷った狭い部屋や廊下で混沌とした地獄状況をもたらした。
2021年5月3日月曜日
第一次世界大戦中にドイツ軍の潜水艦Uボートにより撃沈されたイギリス船籍のルシタニア号の大惨事の犠牲者の葬儀が、アイルランドのクイーンタウンの墓場で施行された。
ドイツ軍の潜水艦Uボートにより撃沈されたイギリス船籍のルシタニア号の大惨事の犠牲者の葬儀が、1915年5月10日にアイルランドのクイーンタウンの墓場で施行された。ルシタニア沈没は、アイルランド近海のキンセルで撃沈した犠牲者の内、大西洋から引き上げられた約120の遺体が、集団墓地に埋葬された。多数の棺桶で満たされた集団墓地の周囲を、司祭・軍隊・警官ならびに何千人もの関係者と大衆が参集した。1915年5月7日に、ドイツ軍の潜水艦Uボートが、イギリス所有の蒸気船ルシタニア号を魚雷で沈没させた。約128人のアメリカ人を含む約1,195人を殺害した。この大惨事は、アメリカが第一次世界大戦に参戦する一連の出来事の起因となった。
ルシタニアの大惨事は、やがて中立のアメリカが反ドイツ感情を煽られ、最終的にアメリカは第一次世界大戦に突入した。第一次世界大戦が1914年に始まった後に、イギリスは客船ルシタニアを密かに輸送艦に改造していた。イギリスは商船などを武装させて、アメリカからヨーロッパに乗客だけでなく武器と物資を輸送していた。1915年2月に、ドイツ軍はイギリス周辺海域を、戦争地域に宣告して、ドイツの潜水艦は国際条約に反して商船に対する警告を無視した。連合軍は、アメリカからの武器と物資の輸送に支障を来した。
ドイツ大使館は1915年4月20日に、アメリカに対してイギリスと戦争下にあり、イギリス国旗の船舶は攻撃対象と宣告していた。その後の5月1日にニューヨークからリバプールに向かったルシタニアは、ドイツ軍のUボートから警告なしに魚雷を受けて、約20分後に沈没した。乗客は救命ボートに乗る暇もなく水没死した。遠洋定期船のルシタニアの悲劇的な運命が、1915年5月18日に新聞に掲載された。直ちに、イギリスはドイツ軍の民間人に対する攻撃に対する非難と怒りを強調して喧伝した。イギリス人の集団が、ロンドンでドイツに対して復讐する暴動が勃発した。
ドイツ軍のUボートは、さらに1915年8月にもイギリス船舶のSSアラビックを沈没した。相次ぐ事件が、アメリカとドイツ間に憎悪の緊張が高まった。アメリカ政府は、理由もなく船舶に攻撃した場合に、ドイツとの国交を断絶して、第一次世界大戦のイギリスに参戦すると警告した。ドイツは1915年9月には船舶を攻撃する前に警告することを公表していた。イギリスの諜報機関が1917年初頭にドイツがメキシコと中央同盟して無差別な船舶攻撃を再開するジマーマン電報の傍受して、新聞が3月1日に公表した。ドイツ軍が本格的な潜水艦による無差別攻撃を2月3日から再開した直後に、1917年4月6日にアメリカ議会は、中央同盟国に対して宣戦布告して、第一次世界大戦の連合国に参戦した。
2021年5月2日日曜日
リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、特別軍事法廷による裁判の判決後に、北軍が閲覧する絞首台で死刑が執行された。
リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、北軍が閲覧する絞首台で死刑を執行された。特別軍事法廷による裁判の判決後に、デビッド・E・ヘロルド、ジョージ・A・アドゼロット、ルイス・ペイン、初めて女性であるメアリー・E・サラット(Mary E. Surratt, 写真は左端)夫人が絞首刑に処せられた。サラット夫人は、共謀者が出会ったワシントンの下宿の管理人であった。共謀者として逮捕された8名の裁判は軍法会議の形で行われて、8名全員が有罪となった。絞首刑は、1865年7月7日にワシントンのマクネア砦内にある刑務所で行われた。その他に、マイケル・オラウフリン、エドワード・スパングラー、サミュエル・アーノルド、ブースの骨折の手当をしたサミュエル・A・マッド博士は、陰謀で有罪判決を受けて、終身刑を言い渡された。オラウフリンは軍事刑務所で死亡した。その他のものは後に減刑された。
約4年間にわたる南北戦争は、1861年4月12日から1865年5月9日に北軍の勝利で終結した。その5日後に、エイブリハム・リンカーン大統領が暗殺された。南北戦争を戦い抜いて、奴隷を解放して“キリスト以来の偉人”とまで讃えられたリンカーンは、1865年4月14日午後10時頃に、ワシントンD.C.のフォード劇場で『われらがアメリカのいとこ(Our American Cousin)』という喜劇を観劇中に暗殺された。南部出身の俳優であったジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)が、リンカーンの後頭部をピストルで銃撃して暗殺した。暗殺して劇場から脱出した後に追跡されて射殺された。アメリカ史上初の大統領の暗殺事件となった。
フォード劇場の2階8号室の特等席にて、リンカーンの背後に近寄って、ブースは至近距離から拳銃で後頭部に銃撃した。南部の復讐と叫けび、約4m下の舞台に飛び降りた。暴君は死んだと叫んで駆け抜けて脱走した。銃撃されたリンカーン大統領は、翌日4月15日午前7時22分に56歳で死亡した。
ブースは単独犯ではなく、他には6人の共謀犯人が逮捕された。ブースはアナコスティア川を船に乗って脱走して、3人の南軍兵士がブースの逃亡を手助けした。納屋に潜んでいたブースと共謀者を、放火して逮捕する際に、ブースは頸部に銃撃されて殺害された。一緒に納屋に立て籠もったヘロルドは逮捕された。軍事裁判ではブースの共犯者6人のうち、4人が絞首刑、2人は終身刑となった。
2021年5月1日土曜日
広島原子爆弾の炸裂で家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場から逃避した。
はだしのゲン「第1巻 青麦ゲン登場の巻」で、1945年8月6日にアメリカ軍により、広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した。直後に家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した。原子爆弾が炸裂した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場となった爆心地周辺から逃避した。その後に、生まれたばかりの赤ん坊の新生児を抱えたお母さんと一緒にはだしのげんは逃避した。戦後から、さまざまな苦難の日々を過ごした。
「ばだしのゲン」の作者である中沢啓示は自らの小学校1年生の広島原子爆弾の被爆体験を源泉として「少年ジャンプ」に連載したマンガの長編で、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の厳しい被爆者の厳しい生活を描いた。太平洋戦争の末期にて、広島原子爆弾を舞台にして、小学校2年生の中岡元が主人公のはだしのゲンは掲載された。下駄の絵付けの製造に従事している中岡家はとても貧しかった。5人の子供たちは健やかに戦中に育った。しかし、父親が太平洋戦争に批判的な発言をもらして、非国民として疎外と差別されて、村八分に追い込まれた。
やがて、戦後に日本軍の予科練に志願して入隊していた長男の中岡浩二と、学童疎開していた次男の中岡昭とめぐり会った。焼死した弟の中岡進次とよく似た孤児の隆太も加わった。生活は一層にふくらみを持って展開されが、このマンガのポイントは、被爆者たちの悲惨な生活の実態を通じて、戦争の残酷と悲惨が描き出された、
戦後の若い世代は、戦争の大量虐待と大量虐殺を全く体験もなくて無知である。テレビ・映画・アニメ・ゲームなどのゆがんだ戦争感で洗脳されている。戦争の恐怖と困窮は、原子爆弾の炸裂や戦場で射撃や空襲を受けるだけでない。戦争に対して批判や反対、積極的に戦争に協力しない者は、全て差別されて村八分になり虐待と虐殺むされる。しかも、それらの後遺症は、戦争後にも及び悲痛な傷口が開いている。
はだしのゲンは、そのような戦中と戦後の世の中の境遇に決して諦めないで、這いながら生きた。はだしのゲンと呼ばれた少年が主人公となり、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の悲惨な被爆者の生活をより痛切に描写した。中岡家は、戦中は非国民の一家として周囲から避難されて、戦後にもよそ者として疎外された。戦争の残酷さや悲惨さを全く無関心で無知である戦後に生まれた世代に、はだしのゲンのまんがが、小さな軽くやさしく戦争と平和を描いている。
2005年に少なくとも「はだしのゲン」の英語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、韓国語版、ロシア語版、スペイン語版、インドネシア語版、タイ語版、エスペラント版、ノルウェー語版、ポーランド語版が既に刊行された。
作者の中沢啓治は、はだしのゲンを次のように談話した。原子爆弾を主題にしてまんがを描くのはしんどいが、子どもらは、素直に何が真実がを見極めてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラクスしながら、子どもが作品の中にはいっていけるように念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、原子爆弾とは何かをわかっていただけれ本望です。
2021年4月30日金曜日
イギリス軍の無差別の大空襲により崩壊したハンブルクの廃墟から、民間ドイツ市民らは死体と爆弾を瓦礫から除去する作業をした。
イギリス軍の無差別の大空襲により崩壊したハンブルクの廃墟から、民間ドイツ市民らは死体と爆弾を瓦礫から除去する作業をした。瓦礫の中に頭から突っ込んで爆死した民間ドイツ市民の死体が散乱した瓦礫に埋まっていた。民間ドイツ市民は、瓦礫から身内や死体を探索した。
1943年夏の11日間だけで、連合国の爆撃機は、ドイツ第2の都市であるハンブルクの約175万人の市民に対して、6回の大規模な無差別の空襲を行った。ドイツ軍の軍需工場を攻撃だけでなく、戦意の士気を低下させるために、人口10万人を超える全ての都市のドイツ人労働者とその家族を標的にした。イギリス空軍(RAF)は、民間ドイツ人をドイツの戦争機械の一部であると狂気した。唯一の防御は攻撃であり、自国を救うために、より早く多くの敵国の女性と子供を殺害した。ハンブルグの都市のドイツ市民は、死の大惨事(die Katastrophe)と呼称した。悪名の高い危険な無差別な大空襲が、ハンブルグを空爆して約280,000万棟の建物が崩壊した。建物が粉砕されて、放火されて、道路が封鎖されて、水道管が破裂して、窓や屋根を吹き飛ばした。熱風は最大約240km/時に達して、気温は約800度に達して、住民は火炎に吸い込まれた。約17,000機もの爆撃機が、約90,000トン以上も空爆した。長崎原子爆弾の犠牲者の半数に相当する約34,000人から43,000人のドイツ人市民が殺害された。
1943年7月24日から、イギリス軍の爆撃機が、ドイツのハンブルクを夜中のゴモラ作戦で大襲撃した。イギリスは、ドイツ空軍の7月の爆撃だけで、約167人のイギリス市民が殺害されていた。7月24日の夕方から、イギリス軍の約791機の爆撃機がハンブルクにわずか数時間で約2,300トンの焼夷弾を投下した。最初のイギリス軍の大空襲で、約1,500人以上のドイツ民間市民が殺害された。一方で、アメリカ空軍(USAAF)は日中のハンブルグに2回の空襲から、大空襲週間(Blitz Week)にドイツ北部から広範囲な空爆した。第二次世界大戦が終結するまで、ベルリンやドレスデン、その他数十の都市を一掃する戦略を継続した。
2021年4月29日木曜日
韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭して泣き崩れた。
韓国のベトナム戦争で戦死した韓国人兵士を埋葬するソウルの公園に韓国軍墓地がある。記念公園の韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭した。1966年1月1日の正月に花々を埋けながら息子の墓に泣き崩れる母親を、身内の女性が支えた。ベトナム戦争記念公園には、無数の戦死した韓国人の墓が立ち並んで、さらに今後の韓国人戦死者のための広大な墓地が整備されていた。かつては、多くの韓国人家族は、ベトナム戦争派兵結団式で我が子と最後の面談をした。韓国軍幹部から閲兵されて、釜山港から南ベトナムに派兵される我が子を見送っていた。
韓国軍は、ベトナム戦争の1965年から本格的に参戦して、1973年に撤退した。のべ約40万人以上の韓国人兵士が、南ベトナム政府軍とアメリカ軍側の戦争で戦うために、南ベトナムに派遣された。猛虎(メンホ)、白馬(ペンマ)と青龍(チョンヨン)の精鋭の軍団が参戦して、南ベトナムに常時約4万人が駐在した。ベトナム戦争に参戦する韓国人兵士らは、韓国各地の基地から続々と釜山港に送り込まれて、南ベトナムに出港した。ベトナム戦争中に、韓国人兵士は約5,300人が殺害された。先史時代以来、韓国人兵士が海外に出て戦ったのは初めてだった。白衣の民族であった韓国は、迫害されても他国を迫害しなかった歴史を破った。
アメリカからベトナム戦争への参戦の要請であった。韓国軍事政権の朴正熙大統領は、1961年5月16日に軍事クーデターで、国家権力を掌握して1963年に大統領となった。漢河の奇跡となる爆発的な経済成長、アメリカ同盟、韓国軍力の強化を求めて、ベトナム戦争に参戦した。政敵や民主化運動を弾圧して、財閥と癒着して腐敗した。1979年10月26日に、宴会で側近の中央情報部(KCIA)の金載圭により射殺された。
2021年4月28日水曜日
ビルマ戦線において、イギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川を漂った。
大東亜戦争のビルマ戦線において、1945年2月にイギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川(Shweli River)を漂った。イギリス軍とインド軍はシュエリー川の流域で日本軍に対して、最も激しい空爆と陸爆が行われた。その後にイギリス軍とインド軍は、シュエリー川を越えてマイトソン村への爆撃機が横断して空爆と陸爆を強行した。シュエリー川はイギリス軍とインド軍がビルマ中央部に侵攻するのを妨げられた最後の川であった。日本軍は渡船の横断に猛烈に抵抗した。イギリス軍とインド軍は、1945年2月1日にシュエリー川を渡った後に、ジャングルを通ってマイトソン村に侵攻した。
シュエリー川は、ビルマと中国雲南省との間の境界の一部を形成した。日本軍は1942年初頭に、ビルマ南西部のラングーンから、鉄道で北にラシオに移動して、ビルマ道路を経由して中国との国境を越えた物資の補給路を遮断した。日本軍がビルマを占領して、1942年にビルマ道路を閉鎖して、陸路による連合軍から中国の国民党軍の補給が途絶えた。連合軍は、ビルマ道路に到達するために、ビルマ北部のシュエリー川の上流に部隊を派遣した。ビルマ道路にて、連合軍と中国軍の侵攻に、日本軍は激しく抵抗した。連合軍兵士は、深い谷から雲の上の山頂までの狭い道を進んで、ミッチーナーから南の険しい山々を通ってシュエリー川まで侵攻した。1945年1月初旬に、ビルマ道路を見下ろす坂道から、日本軍を駆逐した。大砲と迫撃砲により、ビルマ道路に発砲し、地雷を敷設して、日本軍は壊滅して撤退して遁走した。
1941年12月26日に、アウン・サンがビルマ独立義勇軍を設置して、日本軍とイギリス統治下のビルマに侵攻した。日本軍の占領下で、ビルマ国が1943年8月1日から1945年3月27日まで独立した。日本軍がインパールで1944年7月に敗戦後に、1945年3月27日にアウンサンのビルマ国民軍が、日本軍による占領を奪還した。1947年7月19日にアウンサンが暗殺された戦後まで、イギリスが再占領した。1948年からビルマ連邦としてイギリスから離脱するも、1958から軍事政権に転換した。1989年以降にビルマ軍事政権は、ビルマの公式の名称は、ミャンマー(Myanmar)に転換された。2011年からアウサン・スーチーらの与党・国民民主連盟(NLD)が文民政権に移行した。突然に2021年2月1日に国軍がクーデターで権力を掌握し、ミン・アウンフ・ライン最高司令官がミャンマー国家の権力を掌握した。
2021年4月27日火曜日
バングラデシュの西ディナジプールの難民キャンプで、重篤のコレラにて瀕死の身内の身体を、親族が両腕で抱えて護送した。
1971年3月26日から12月16日に終結するまでバングラディッシュ解放戦争が勃発した。バングラデシュの西ディナジプールの難民キャンプで、バングラディッシュ人の旦那が、劣悪な環境で、重篤のコレラにて衰弱して死にかけた女性の家内の身体を、両腕で抱えて救護を求めて運搬した。パキスタン軍は、抵抗に加わる可能性が特に高い人々を探索して、特に若者を掃討した。バングラディッシュの若者の死体が、野原や川に浮かくで散乱した。
西パキスタンにより1971年3月26日に東パキスタンでバングラデシュ大虐殺が突発した。西パキスタン軍の兵士と軍事組織の民兵が、バングラディッシュのジェノサイドに軍事介入した。西パキスタンの軍隊は首都ダッカの歩道で視界にいる人々を襲撃して、途上で建物を破壊した。戦車はダッカの通りを砲撃して、人々や建物を無差別に爆破した。集落の人々の群れも撃ち殺して火を放った。戦車が大通りで轟音を立て大砲が炸裂した。特にダッカ大学やヒンズー教施設が標的にされた。貴重品を略奪して、女性を強姦して、武装していない民間人を大量虐殺するジェノサイドを執行した。
西パキスタンの軍事弾圧によって、東パキンスタンと呼称されたバングラデシュでの大量虐殺が1971年3月26日に勃発した。3月27日には、対抗するバングラディッシュが独立宣言をした。約9ケ月に及ぶバングラディッシュ解放戦争中に、西パキスタン軍とイスラム主義民兵が、ベンガル人民族主義を粉砕して約200,000人から約3,000,000人を殺害した。さらにバングラディッシュのベンガル人女性を、約200,000人から約400,000人を大量強姦した。バングラディッシュの主にヒンズー教徒の約800万人から1,000万人が、隣国に難民として避難した。約7,000万人のうちで約3,000万人のバングラディッシュ住民が難民となった。ベンガル人は、ウルドゥー語のビハリス人を、約1,000人から約150,000の人種的な大量虐殺をした。
アメリカは、西パキスタンを冷戦下の同盟国とした。インドは12月16日までに、西パキスタンを無条件降伏に追い込んで、バングラディッシュは独立を達成した。1948年国連のジェノサイド犯罪条約で、国、民族、人種、または宗教の集団を、全体的または部分的に破壊する大量虐待と大量虐殺と定義していた。
2021年4月26日月曜日
ギリシア内戦にて、迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。
ギリシア内戦下にて、アンダンテのゲリラに襲撃されたギリシア民主国民軍(GNA)は、カスタニア村に向けて迫撃砲を打ち込んだ。迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した。住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。爆死したアンダンテのゲリラの死体が横たわっていた。家族ならびに近隣の住民の夫人らが死体を取り囲んだ。その死体の胸の上には花束と、あの世に渡る代金である2ドル相当の1万ドラクマ札を供えていた。ゲリラの死体を取り囲み慟哭しながらキリスト教の唱歌を唱和した。ギリシアのゲリラの拠点であったカスタニア村は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍の占領によって、約280戸のうち約260戸が破壊された。その後は約600人のギリシア人の住民が潜伏した。ギリシアのゲリラは、アンダンテと呼称された。1946年9月頃にアンダンテがゲリラ活動を再開すると、ピンダス連山の一帯に潜伏したゲリラを捕獲できずに、ギリシア政府軍の憲兵が立ち去った。
憲兵は、ゲリラ活動に対して厳重な経済封鎖で対抗した。ピンダス連山一帯の地域住民に対する食料から衣類など全ての日常用品の持ち込みを封鎖した。経済封鎖のの最大の犠牲者は地域住民であり、買い出しに近隣のカラバダ村に買い出すと、アンダンテのゲリラと容疑されて虐待と虐殺される危険性を伴った。
ナチス・ドイツ軍がギリシアを占領中に、ギリシア人民解放軍(ELAS)に参戦したアンダンテのゲリラらはレジスタンス運動をした。ギリシアの占領が解放されると、左翼のレジスタンス運動から共産主義の烙印を押された。地元では、その経歴から排他されて無職に陥った。逆に、対ドイツ協力派を含むギリシア民主国民軍(GNA)は、ELASを捕獲するため、ギリシア政府から武器を支給された。追い込まれたアンダンテのゲリラは、ピンダス連山一帯に致し方なく潜伏した。アンダンテのゲリラ部隊は、分裂して独立した個別集団となった。
ギリシャ政府軍は、1946年から1949年までに約48,000人の死傷者を出した。武装した反政府勢力はおそらくその死傷者の約半分を被った。しかし、両側の死の部隊は、数千人の民間市民を殺害して、さらに多くの人々が残虐行為、病気、飢餓で死亡した。内戦の結果として、約158,000人のギリシャ人が死亡したと推定された。ギリシャはほとんど経済的荒廃に陥った。
ギリシアからイタリア軍は1943年夏に、ドイツ軍は1944年9月に撤退した。共産主義系の民族解放宣戦(EMA)とゲリラ部隊である人民解放軍(ELAS)、国民共和ギリシア連盟(EDES)が占領に対抗した。1944年12月に、ギリシア国軍(GNA)は、イギリス軍の支援を受けて、EAMとELASを打倒した。EAMは地下に潜伏して、ELASはゲリラ戦のために山地に後退した。GNAは、アメリカから大量の軍事物資の供給を受けて優位に立った。
ギリシャが枢軸国軍から解放されて亡命政府が帰還した。1944年12月3日に十二月事件が勃発して、共産主義左派(EMA/ELS)と王党派右派(EDES)の間で対立が先鋭化して、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が、ギリシャ民主軍(DAG)というゲリラ部隊を組織した。戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が、マーシャル・プランで王党派右派政府の全面的な支援に乗り出した。さらに1948年以降にユーゴスラビアとソ連が対立して、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。
2021年4月25日日曜日
スペイン内戦中に左派の共和党派の民兵による赤色テロで、バルセロナのカトリック教会の修道院で埋葬された尼僧の棺桶と死体を、修道院前で公然にさらして冒涜した。
スペイン内戦中の1936年9月から10月にかけて、左派の共和党(ロイヤリスト)派の民兵が、バルセロナのカトリック教会を襲撃した。修道院で埋葬されていた尼僧の棺桶と死体を掘り起こして、カトリック教会の修道院前に尼僧の死体を棺桶を開いて、公然とさらして冒涜した。教会の墓が開かれ、聖人、司祭、尼僧の死体が通りで発掘されて、展示して冒涜された。
スペイン内戦の1936年から1939年の間に、左派の共和党派(ロイヤリスト)による赤色テロで、スペインの約6,800人以上のカトリックの聖職者と宗教者が殺害された。約13人の司教、約4,172人の司祭と神学校、約2,364人の僧侶と修道士、さらに283人の尼僧が犠牲となり、約2万もの教会が破壊された。19世紀から20世紀に、カトリック教会はスペインの君主制を支援した。スペイン内戦の中で、共和党派は、反道者としてカトリック教会を虐待と虐殺した。西洋史にて暴力的で残酷なカトリック教会の甚大な迫害となった。
当時スペインでは貴族らが、自分の支配地で専制君主であり、全能絶対の支配者として、農民や市民達の生活のすべてを支配した。カトリック教会の司祭達は貴族らと結びその支配を助け利益を得た。教会は堕落したカトリック教会の牙城となり、宗教会を支配した。まずカトリック教会から政治的支配権を奪うために、スペインの新興の農民と市民には、赤色テロで貴族と結びついたカトリック教会が宿敵に至った。
スペイン内戦中に、戦闘戦線での死と破壊は、その背後での殺人と弾圧と一致していた。スペイン内戦の最初の数か月間の死者のほとんどは戦死ではなく、赤テロあるいは白テロの政治的処刑よる執行であった。民間人と戦闘員の区別を曖昧になり、社会的および政治的な敵に対して残虐行為が横行した。赤色テロの犠牲者数は、約38,000人から約72,344人と推定された。赤色テロは、主要都市で反乱が失敗した後に、反政府勢力の殺害から始まった。右翼またはカトリック教会に対する大規模な逮捕と処刑に拡大した。
スペイン内戦に勝利した反乱軍(ナショナリスト)のフランコ主義者たちは、共和党派の血なまぐさい赤色テロが、膨大な仲間の市民の絶滅を主導したと喧伝した。ナショナリスト派で死亡した犠牲主は、正当かつ高貴な理由で殉教者として奉られた。共和党派は犯罪者および反スペイン人として非難されて、大部分は無印の墓に埋葬された。1987年からカトリック教徒の総本山であるバチカンで、殉教者として約1,916が列福と約11人が列聖された。