2019年11月15日金曜日

救援隊員が広島原爆に被災してトラックの荷台に横たわる少女を介抱して、に握り飯を食べさせようとした。

1945年8月15日午前8時15分に広島市内に原子爆弾が投下されて炸裂した。2日後の8月10日に、爆心地から約760mの上流川町(現 胡町)にて、救援隊員が被災した少女を介抱した。トラックの荷台に横たわる少女に握り飯を食べさせようとした。救護所に収容しきれない被爆者は、トラック、列車、船などで遠方の市町村に護送された。座り込んだ救助隊員が、頭の近くに置かれたボウルからおにぎりを少女を食べさせようとした。


 上流川町で広島流川教会は、旧1886年(明治19年)より布教を開始した。太平洋戦争末期には、軍服仕立て工場になったり、牧師も工場に徴用された。広島原爆で、礼拝堂は残骸だけ残して悉く灰になった。会員は死者約75人に昇、生存者約35人で再建に取り組んだ。広島流川教会の礼拝堂の前にかかげられている黒焦げの十字架は、「被爆十字架」と呼ばれ、広島原爆の被爆によってほぼ炭化した木材となった。1995年、被爆50年を記念して前会堂正面に掲げた。
 戦後に、谷本清牧師を中心にして(谷本清平和賞を創設)、アメリカの教会・慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動、日本全国に訴えて回った原爆乙女渡米治療運動に熱心に取り組んだ。精神養子とは原爆で身寄りを失った子供たちの養育を、アメリカ人家庭が手助けする「親子縁組」である。アメリカに1995年治療に渡った原爆乙女約25人の内、1人は手術台の上で、2人は帰国後に悲惨にも死亡した。ヒロシマ・ピースセンターの設立して、1971年に教会は上幟町近くに移転した。

被爆十字架

2019年11月14日木曜日

中国の人民解放軍と公安警察が、陝西省咸陽にて若い女性を含む囚人を公開で射殺して集団処刑した。

中華人民共和国の人民解放軍と公安警察が、1995年12月24日に陝西省咸陽にて、若い女性を含む囚人を公開射殺して集団処刑した。女性の囚人らの後頭部と心臓などを狙い撃ちにした。スカートやジーンズを履いたうら若き女性は後ろ手に縛られて、無表情な人民解放軍兵士と公安警察に銃で頭と心臓を撃ち抜かれて虐殺された。死刑の執行写真では、若い女性の名前は陸金鳳であり、彼女の首に下げられてる札には「故意殺人犯 陸金鳳」、背後にある卒塔婆には、同様に「槍殺 故意殺人犯 陸金鳳」と晒された。中国では、卒塔婆の氏名に赤バツをつけた札を首から下げて晒しものにする風習がある。中国当局の人民解放軍と公安警察は、公衆の面前で女性らの囚人を銃殺で処刑した。取り巻く多くの民衆と公安警察が死刑の光景を見ていた。死刑の判決を受けるのは通常は、麻薬密売や殺人などの重大な犯罪を犯した囚人に課される。中国ではそれ以外でも最も恐ろしい死刑が執行された。その他の男性の囚人は抵抗して、公安警察が走って行き押さえつけても、陸金鳳はその姿をただじっと見守って、表情には、生への希望も死への悲しみもなく、虚無のみであった。刑場に連行される死刑囚の一団が出て来る裁判所前にも大量の見物人が集まって、集団で死刑裁判と処刑が行われた。 
 一連の銃殺写真は密告者から「博訊新聞」に2004年に提供されたもので、時刻や場所は記載されていない。アメリカ合衆国ノースカロライナ州にある反共新聞である博訊新聞に、2004年12月23日に掲載された。犯罪者の死刑は歴史的には残虐な処刑が世界中にも存在するが、中国の場合は死刑囚を引き回して晒し者にして銃殺という前時代的な処刑が現代に至っても行なわれている。中国では死刑判決が出たら、抗弁をさせなように即刻で死刑を執行する。頭部を吹き飛ばす斬首や頭部を破滅したり切り離すのは、中国では魂を滅ぼす事を意味する。肉体を不完全にする事で、来世で獣に生まれ変わるなどの古来の迷信が由来とされる。その他には移植臓器などが必要な時に合わせて死刑を執行する人間生簀も示唆された。


   
 陸金鳳のうら悲しい悲惨な運命の略歴は下記である。1975年: 山西省運城市土懐郷陸各荘生まれ。1988年: 母も病で死去。継父とおじに家から叩き出される。その時13歳。生きるために路上生活を始めるが犬に咬まれ大怪我をしたところをホテルマネージャーに拾われるが強制的に売春させられる。 1991年: 全国的な売春取締りのガサ入れで捕まり労働改造所に入所。1992年: 釈放され実家に戻される。疫病神が戻ったのを怖がり、継父は陝西省慶陽件西嶺村の貧困障害者“李”に1000元で嫁として売った。李はベッドに寝たきりで母親が介護していたが性格は誠実だった。然し幸せは続かなかった。村の悪党“胡”が陸を気に入り2000元で李から奪っていった。1992年から1993年:  陸は凌辱と虐待を受け続け、逃亡を試みるも毎回捕まり監禁された。 何週間か過ぎ、胡は商売で長期間不在にした隙に胡の従弟である“唐”“関”の二人は陸を姦淫し妊娠させた。唐は自分の子かもしれないと思い、胡が戻ったら手切れ金を払って妻にしようと考えた。1994年末: 陸は男の子を産んだ。1995年旧正月: 胡が戻ったので唐は恐る恐る陸と子供を帰したところ胡は激怒、陸を拷問し誰の子かを吐かせた。その晩唐と関は胡に切り殺され、子供も殺された。陸は怒りと絶望で理性を失い鎌で眠っている胡を殺し放火した。1995年3月: 陸は逮捕され、慶陽県法院は“悲惨な生い立ちではあるが、労働改造所を出て保護観察処分中の身でありながら殺人を犯した。”として死刑判決を下した。陸は不服を申し立て上告しようとしたが却下。1994年12月24日: 咸陽にて銃殺で処刑される。 20歳で死没。

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2019年11月13日水曜日

オーストリア軍のレオナード・シフリート軍曹が、日本軍兵士とニューギニア原住民に見物されて、正宗剣の日本刀で斬首刑された。

1943年10月24日午後にニューギニアのアイタペで、日本軍に身体を縛られて、目隠しをされたオーストリア軍のレオナード・シフリート(Leonard Siffleet)軍曹が、日本兵士と原住民の見物人に囲まれて、正宗剣の日本刀で斬首刑された。彼は特殊部隊の通信士であり、ニューギニアで日本軍の背後で隠密するオランダ人のスタヴァーマン軍曹に率いられた長距離の偵察部隊の一員であった。この部隊はアイタペの約100人の村人の裏切りに遭い、村人によりスタヴァーマンは殺害されて、シフリートと2人のアンボン人協力者のレハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行された。アイタペの日本海軍基地司令官の鎌田中将の命令で、彼らは約2週間にわたり尋問、拷問、監禁されて、3人ともに斬首刑で処刑された。日本軍の斬首刑の執行人は、終戦前に死亡した安野近雄という日本軍兵士であった。シフリートらは縛られ目隠しをされて、日本人と地元の見物人の群衆の前にひざまずき、地面に押しやられて、斬首された。
 シフリートらの死体は満潮線よりも低いアイタペの浜辺に葬られた。彼の死体はその後には発見できなかった。日本軍兵士によって安野近雄が処刑剣を振るうシフリートの斬首処刑の写真(右)は、1944年4月にアメリカ軍によって、ホーランジアに侵攻した際に、オランディア近郊で戦した日本軍少佐の遺体から発見された。日本軍の捕虜取り扱いの残虐性を例示するため、シフリートの斬首刑の写真はすぐにアメリカの新聞や出版物、さらにオーストラリアの出版物で公開された。オーストラリアでは長年にわたり、この写真(右)は1943年3月29日にニューギニアのサラモアで処刑されたオーストラリア空軍のニュートン大尉を写したものと誤認されてきた。同時に処刑された写真(左)は、日本軍の捕虜となった氏名不詳の連合軍兵士が斬首される瞬間であった。戦後に、安野近雄は死刑を宣告されたが、部下の行動として10年間の懲役に服した。



2019年11月12日火曜日

ケニアでマウマウ団は、ラック家族を襲撃して6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。

マウマウ蜂起の最も悲惨な犠牲者は、ナイロビのすぐ北にあるリフトバレーに住んでいた白人の入植者のラック家族であった。1953年1月24日にマウマウの約30人の戦闘員は遠隔地の農家を襲撃して、農夫のロジャーと妻で妊娠中のエスミ、そして6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。マイケルの寝室の床に血まみれの熊のゆいぐるみと壊れたおもちゃの列車が散乱した。マウマウ蜂起の間、白人の入植者家族の殺人は実際には非常にまれであった。主にマウマウはアフリカ人を殺害した。マウマウは他の部族から少なくとも1,800人の仲間のキクユ族とアフリカ人を殺害しました。アフリカの女性と子供も頻繁に標的になった。この虐殺にイギリス国民に激怒して、ケニアの欧州共同体に衝撃を与えた。約1500人のヨーロッパ人の入植者が、地方政府に対応を求めてデモ行進した。
 ケニア最大民族であるキクユ族を中心とするケニア・アフリカ同盟から離脱した急進派のケニア都市自由軍は、1952年の反植民地闘争からマウマウと呼称された。イギリス軍兵士の大隊の助けを借りてケニア警察は、マウマウ反乱軍と8年間も戦闘した。イギリスの弾圧は残酷であり、不釣り合いな対応で、ゲリラ戦で数千人のケニア人が殺害された。約千人のケニア人が死刑の有罪判決を受け、絞首刑にされた。マウマウと疑われるか、武装勢力と疑われた最大約30万人が、衛生と食糧が不十分で、規律が残忍で容赦ない強制収容所で拘束された。
 マウマウの武装反乱は、植民地支配に対する最も激しい反抗となった。マウマウ反乱はイギリス領ケニア植民地で最も長く、暴力的な反植民地闘争となった。1885年のベルリン会議の結果、イギリス政府は 1895年7月1日にケニアを含む東アフリカ保護領を確立して、1920年に正式な植民地と宣言した。ケニアは、世界で最も豊かな農業土壌であり、標高と気候によりヨーロッパ人が恒久的に居住できる地域でもあった。1895年以前でも、イギリスはケニアに没収と暴力を襲った。ケニアはイギリスの開拓のために強制的に開墾された期間中に多くの紛争があり、イギリス軍は先住民に対して残虐行為を行った。イギリス帝国主義への反抗は、イギリス占領から始まり、1895年から1905年のナンディ抵抗、1913年から1914年のギリアマ蜂起、1947年の強制労働に対する女性のムランが郡の反乱、1950年のコロア事件などが勃発していた。1963年12月12日にイギリス連邦王国として独立して、1964年にケニア共和国が成立した。


2019年11月11日月曜日

イランのアメリカ大使館人質事件で、アメリカ軍の戦闘機の同志が砂漠上で激突して、8人の犠牲者と4人の負傷者を出して撤退した。

イラン革命の直後に、1979年11月4日に約3,000人もの過激な学生が、イランアメリカ大使館を襲撃して、63人のアメリカ人を人質にした。13人の女性またはアフリカ系アメリカ人が解放された。その後にイランのアメリカ大使館の人質事件に対して釈放を要求するも、解決が頓挫してしまう。アメリカ合衆国大統領のカーターは、アメリカ陸軍特殊部隊であるデルタフォース隊員を密かにイランのアメリカ大使館を奪還をするために1980年4月24日に侵攻させた。しかし、アメリカ軍の戦闘機の同志が砂漠上で激突して、8人の犠牲者と4人の負傷者を出して撤退した。砂漠上で激突して炎上した戦闘機の側で、投げ出されて丸焦げに黒化した搭乗員の死体が散乱した。8人犠牲者は、3人のアメリカ軍米海兵隊員と5人のアメリカ空軍の乗組員であった。8人の死体はイランから回収できず、記念碑がアーリントン国立墓地にある。
 イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)は、1979年に11月4日に発生したイランアメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員および家族ら53名を救出するために、1980年4月24日から4月25日にイランアメリカ大使館の人質救出作戦であった。イラン北東部で首都テヘランから約200kmのホラサーン州の砂漠が第一到着目標であった。その到着地点で故障のトラブルが発生して作戦は中止となった。アメリカ陸軍の対テロ特殊部隊搭乗した輸送用ヘリコプター(RH-53D)の3番機の1台が低空でホバリングしながら撤退中に、近くに駐機していた6台の輸送機(E-130)に激突し炎上した。これによってデルタフォース隊員を含む8名が死亡して、4名が負傷したほとんど損壊したRH-53Dは全機放棄して、生存した搭乗員とデルタフォース隊員は残った航空機(C-130)に分乗して撤退した。残存するイランアメリカ大使館の人質は、カーター大統領が辞任する日までの270日間は解放されなかった。
 1978年1月に追放されたアヤトラ・ルホラー・ホメイニが率いるイスラム原理主義者らは、モハメッド・レザ・シャー・パラーヴィーの皇帝下で親アメリカのイラン政府に反政府運動をした。1978年夏に、イランに在住していたアメリカ市民の約44,000人のうち、退去を希望する扶養家族を、1978年12月8日と9日に約903人をアメリカとドイツに避難させた。皇帝は1979年1月16日に退位し、ホメイニは2月1日に亡命フランスから戻り、イラン・イスラム共和国を樹立した。さらに1979年2月10日までにイランから約5,732人を避難させた。1979年2月14日には、武装したイラン人が大使館を襲撃し、102人のアメリカ人を人質にした。1979年3月1日までに約4,099人のアメリカ人を国外に避難させた。皇帝が10月22日にアメリカ政府に亡命した。多くのイラン人が激怒して、1979年11月4日にイラン人学生が再び大使館を占領した。


2019年11月10日日曜日

東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。

1992年冬季に東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。ボスニア政府軍が東ボスニアの小さな村を襲撃した。村人たちが近くのボスニアのセルビア人武装勢力に援護を要請した。警戒警報のサイレンが鳴る中で、セルビア人武装勢力が村を、ボスニア政府軍から奪還した。村から逃げ遅れた村人は、皆殺しにされて、多数の犠牲者が出た。肉親の父親がセルビア人の息子の身を案じた探索した。父親が犠牲者の中に虐殺されてトラックに積み込まれた息子たちの死体を見つけ出して慟哭した。
 ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊から1992年3月に独立宣言を強行した。ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国には、ムスリム人(イスラム教徒)、セルビア人(キリスト正教会)、クロアチア人(カトリック教徒)の主要民族がいて、この順番に人口比率が高い。セルビア人の人口比率も32%と高く、内戦はクロアチア内よりも激しくなった。これに対してセルビア人は独立に反対し、民族衝突が激化した。ユーゴスラビア連邦軍は、ボスニアのセルビア人の保護を理由に武力介入を始めた。戦闘がボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の全土に拡大した。  
 ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア人が中心で、ユーゴスラビアを解体したくない考えなので、分離独立の動きには反対であった。1992年4月にボスニア全土に非常事態宣言が出される。1992年4月にはユーゴスラビア連邦議会は、セルビアとモンテネグロ両共和国からなる連邦国家である新ユーゴスラビアの創設を宣言した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は消滅した。 
 6つの共和国から成っていた旧ユーゴスラビアは崩壊して、5つの国に分離独立した。新ユーゴスラビア軍は、ボスニアに武力介入して、一時にはボスニア領土の60%以上を占領した。1992年5月に国連安保理理事会は、新ユーゴスラビアに対して、経済制裁を決議する。経済制裁によりセルビアの経済は破綻して、月率約100%のインフレにより、実質失業率が約60%となり、工業生産高も約3分の1まで落ち込み、輸入品が枯渇した、国民は買いだめて、ガソリンの割当を求めて長蛇の列ができたり、バス便数が減少して、救急医療体制の不備を引き起こした。セルビア国家予算の約70%が内戦への戦費支出を占めた。



2019年11月9日土曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれて、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルの中に放置されて腐敗してハエが集った。

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれ、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルに放置され腐敗してハエが集った。
 太平洋戦争の有名な激戦地は、ガダルカナル、硫黄島、そして沖縄である。ガダルカナルの戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、硫黄島の戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、沖縄戦の日本軍兵士の死者数約8~10万人と推定された。しかし、中国戦線を除いて、太平洋戦争で最も日本軍兵士の戦死者が多かったのは、フィリピンの戦いであった。大本営は比島決戦と称して、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を大東亜戦争の天王山と位置づけて、都合約75万人もの大兵力を送ったが、実に約50万人もの日本軍兵士が戦死した。日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に日本軍は南方資源地帯の確保のため南方作戦で、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を占領した。1944年10月20日から、約20万人ものアメリカ軍がフィリピン奪還の戦闘を始動した。1945年1月4日にアメリカ軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下して首都マニラを侵攻した。
 それから終戦までの約10か月、フィリピンの海上では、日本海軍の神風特別攻撃隊の自爆突撃が勃発した。陸上では日本陸軍の敗残兵が最後までジャングルや山岳奥地に立てこもって持久戦に陥った。ルソン島で防衛準備をしていたが、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると、戦力の逐次放出をしては圧倒的火力のアメリカ軍に殲滅された。困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執して、膨大なマニラ市民が戦闘の巻き添えになり大量虐殺された。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を昇った。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人市民が犠牲になった。背後の敵となる恐れがあると見なしたフィリピン人市民を日本軍は無差別に大量殺戮した。アメリカ軍は、マニラではトーチカや建物からの狙撃による犠牲の損害を最小限に抑えるため、重砲火による無差別砲撃で街区を次々と破壊した。近年の戦史研究は、マニラの民間市民の約10万人の犠牲の約6割は日本軍による殺戮で、約4割はアメリカ軍の重砲火による死亡と推定した。近年から戦争を撲滅することは人類の悲願であるも、兵器で闘争することが途絶えない。戦争が勃発すれば、必ず多くの市民が巻き込まれて犠牲となった。


 

2019年11月8日金曜日

日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸の雲南省とビルマとの国境にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。

日中戦争にて1944年9月7日に拉孟(松山)の村で、日本軍の守備隊が全滅した。さらに9月13日には、騰越の日本軍守備隊が全滅した(写真下)。騰越城内は、砲爆撃によって壊滅した。その瓦礫の中に、日本軍兵士の死体が散乱した。拉孟の戦いでは、日本軍の約1,300人全兵士が戦死して全滅した。騰越の戦いでは、日本軍の約2,800人の全兵士が戦死して全滅した。1944年9月頃から、国民党軍の雲南に向かった遠征軍が押し寄せて、日本軍は包囲されて、全滅が相次いだ。騰越城陥落の際、多くの慰安婦達が犠牲になる中で、救出され中国軍の捕虜となった慰安婦達がいた。
 拉孟・騰越の戦いは、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある滇西と呼ばれる拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で勃発した。日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘が炸裂した。すでに南部を占領していた日本軍の小規模な部隊は、援蒋ルートの遮断のために派遣された。日本軍が侵攻した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていた。援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続された。連合軍の支援によって近代的な装備を身につけた中国軍が、1944年より反撃に転じた。日本軍は補給路を断たれて孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に全滅して玉砕した。太平洋戦争で多くの島々にて日本軍は全滅して玉砕した。日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。陣地に立てこもる日本軍の防御戦により、中国軍も部隊比率では日本より多数の死傷者を出した。
 日本軍の一次資料は消去あるいは非公開で、アメリカ軍とイギリス軍の一次資料に準拠するしかない。その軍事史や戦史は、過去の戦争の戦訓や作戦と功績を導き出す研究が中軸であった。



2019年11月7日木曜日

約3年間も監禁された人質の救出作戦中に、海賊のソマリア人が殺害された。

パナマの貨物船アイスバーグ1が2010年3月29日に、機械設備輸送のためアラブ首長国連邦に向かう途中で、ソマリア沖の海賊に乗っ取られた。イエメン、インド、パキスタン、ガーナ、スーダン、フィリピン国籍の約24人の乗員が人質となった。ソマリア沖の海賊は、約1,400万ドルを要求した。人質救出作戦中に、海賊のソマリア人を殺害した。2012年12月24日に、貨物船アイスバーグ1に約3年近くソマリア沖の海賊により監禁された約22人乗員の人質が解放された。24人のうち1人は自殺、もう1人は虐殺された。海賊に監禁された期間としては過去最長となった。南アフリカ人の傭兵とプントランド海洋警察とともに、ソマリア沖の海賊と戦闘した。ソマリアから分離したプントランドの武装集団に属するソマリア軍兵士が、ソマリア人の海賊に侵攻した。
 ソマリアは1969年のクーデターによるバレ政権が,1991年に崩壊して以来,全土を実効的に支配できない無政府状態に陥った。劣悪な治安の下,大量の難民と国内避難民が発生し,干ばつの深刻化、食糧不足の悪化から、深刻な人道危機が生じた。ソマリア沖の海賊の一つ原因であるソマリア国内の貧困や若者の就職難等は未解決で、海賊による脅威は引き続している。1988年からソマリアに内戦が勃発して無政府となり、アデン沖で漁民による海軍が多発した。2012年11月にケニア軍と共同してソマリア連邦共和国が成立した。海賊被害のピークは2009年から2011年で、年間200件以上の襲撃があッタ。2012年からは減少して、2015年にはほとんど発生しなかった。
 アフリカの発展途上国では、主として民族対立を誘引として、厳しい紛争が各地で勃発した。特に、ソマリア、コンゴ共和国、ルワンダのように、紛争が終結しない状況が継続している。国連は1991年の「公正な希望」の作戦により、飢餓に迫る民間市民を救出して戦争を停戦させるために、ソマリア紛争に介入した。残忍なソマリア軍閥が屈強に国連軍に抵抗した。作戦は惨敗して、ヘリコプターが撃墜されて死亡したアメリカ軍兵士の裸体を首都モガディシュ市内を引きずり回した。犠牲者が公開されると、アメリカ軍は利権が潜んだ戦闘を、アメリカ市民民に正当化させるのが困難となる遺体袋症候群が発症して、アメリカ軍と国連PKOも撤退した。イスラム過激派組織であるアッシャバーブが台頭してアルカイダと連携してテロを引き起こした。


2019年11月6日水曜日

18歳のピーター・フェクターという東ドイツの若者が友人と一緒に、国境検問所からは遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとして射殺された。

1961年8月13日に有刺鉄線がベルリンの壁に設置されて、数日後からコンクリートの壁を増設した。その出現からほぼ1年後の1962年8月17日に、18歳のピーター・フェクター(Peter Fechter)という東ドイツの若者が友人のヘルムート・クルベイクと一緒に、国境検問所からあまり遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとした。友人はベルリンの壁を乗り越えたが、ピーター・フェヒターは東ドイツの警備員に撃たれて死亡した。約1.8mのベルリンの壁の有刺鉄線に絡まれて転倒したビーター・フェヒターは、東ドイツの警備員に射殺された。警備員は、彼の助けの叫びにもかかわらず、大量出血で致命傷となる肺と骨盤部を射撃した。ベルリンの壁の向こう側の西ドイツ警察官とアメリカ軍兵士も、彼の援助に誰も来れなかった。群衆が両側に集まり、行動を促したが無駄であった。最後に、射撃されてうめき声を上げても放置されて約50分後に、催涙ガスの雲の下で、警備員らが青年の身体を抱えて引きずりながら、救急車ではなく車で搬送した。2時間後に、高層アパートにいた東ドイツ人が、窓に看板を掲げ、西ベルリンに集まって興奮している群衆に「彼は死んでしまった」と知らせた。
ピーター・フェヒターの虐殺は、国際的な注目を集めした。東西の分裂以来、西ベルリンで最悪の暴動が勃発して、4日間続いた。それらの行動の多くは、衝撃的なことに、反米的志向であった。ピーター・フェヒターは、ベルリンの悲劇であり、東ドイツと西ドイツの両方で無力感が漂い、東洋に閉じ込められた人々を助けるアメリカ人の無力さを象徴した。ピーター・フェヒターは、約50人目の虐殺されたベルリンの壁の脱走者となった。少なくもと約938人が脱走者が虐殺された。それに失敗して逮捕された約75,000人は投獄された。ヴォルフガングベラが撮影した4人の警備員に連れ去られる写真は、世界中の新聞の第一面を飾った。総延長は約155Km達したベルリンの壁は約27年後の1989年11月9日に崩れ始めました。彼の死は、近くの主要な脱出トンネル(NBCが資金を提供)を掘り、他の若い男性にも影響を与えた。


 

2019年11月5日火曜日

朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定された。

韓国真実和解委員会(TRCK)は、朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定した。1950年8月25日におけるアメリカ軍は下記の写真を、ソウルの漢江北岸のある龍山近郊で、北朝鮮軍から避難していた朝鮮人市民が、ゲリラ部隊による夜間攻撃を受けて殺害されたと釈明している(米国国立公文書館)。
 朝鮮戦争中、南北が犯した民間人の大量虐待と大量虐殺があった。その大半は韓国側が執行した。多くは朝鮮戦争が勃発した直後から挙行した。1950年6月28日の北朝鮮軍によるソウル大学病院の虐殺から、大韓民国大統領李承晩は、政府関係者と右翼団体により、左翼と疑われた朝鮮人と家族を大量虐殺した。虐殺された人数は、少なくとも約60,000人以上と推定された。大虐殺の期間に、イギリス軍は同盟国に抗議して、一部の民間市民を救った。アメリカ軍は、朝鮮戦争の戦線に近づく民間難民を阻止する政策を持っていた。アメリカ軍が韓国中部の老斤里の村でも、1950年7月26から29日に、約300人の避難民を変装し​​た朝鮮人民軍兵士として虐殺した。
 2005年から韓国真実和解委員会は、朝鮮戦争の前、最中、後の虐殺行為を調査した。朝鮮戦争の虐殺のうち、82%が大韓民国軍によって実行され、18%が北朝鮮軍によって実行された。委員会は、済州島の南西にある済州島の南朝鮮ゲリラに対する大韓民国軍と準軍事部隊が関与した1949年から49年の済州島蜂起で、約14,373人の民間人と約16,000人の南北戦闘員が虐殺した。大部分の虐殺は1949年までに沈静化するも1950年まで続いた。委員会は、民間人の86%が大韓民国軍に虐殺されたと推定した。アメリカ軍に関連する虐殺は、正当防衛として擁護した。



2019年11月4日月曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷とケロイドを受傷した。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


2019年11月3日日曜日

南京大虐殺後に、死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。

日本軍兵士による南京大虐殺によって、1938年1月に、非情にも幼児が日本軍によって虐殺された。大虐殺後には、死体の処理は市民は誰もが嫌がっていた。死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。虐殺された幼児は、両足には裕福な靴を履かせてもらえていた。埋葬隊が幼児の死体を背景にポーズをとっていた。左中段の幼児の死体は、肉親がベット上のマットにくるめて、悲嘆していた。約14万人もの日本軍は、南京の国民党政府を防御していた約40万人の中国人兵士らを、攻撃して壊滅して、内陸部に撤退させた。ホームレスとなった若い中国人らは、目立つ功績を上げるために、日本軍に対するゲリラ戦を仕掛けた。
(ライフ雑誌, 1938年2月21日、54ページに掲載)


2019年11月2日土曜日

ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体がニューギニアのブナ海岸の波に横たわった。

ニューギニアの戦いで、北海岸の約16マイル(約25 km)に沿って、西はゴナ、東はブナ、中央はギルワ(サナナンダ)の3つの重要な軍事拠点があった。1942年11月16日から、アメリカ軍とオーストラリア軍は、ニューギニアで日本軍が占領する主要な海岸、ブナ、 ギルワ(サナナンダ)、ゴナを攻略した。ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体が1943年1月にブナ海岸の波に横たわった。 その背後には、破壊された上陸船があった。
 アメリカ軍は、ニューギニアのブナを占領した日本軍に甚大な損害を負わせた。ニューギニアのパプア地域における日本軍の最後の抵抗地点であるブナの戦いの海岸に、殺害された日本軍兵士の死体は、破壊された着陸船から近距離で散乱した。日本軍はこの戦闘で重度の損失を被り、最終的にアメリカ軍とオーストラリア軍によって完全に占領された。浜辺での多数の日本軍と連合国の死体から蛆虫が繁殖して、ブナは「Maggot Beach(蛆虫の海岸)」と別称された。
 ブナ海岸で死んだアメリカ軍兵士の死体の写真は、第二次世界大戦中にライフ誌で初めて発表された。ルーズベルト大統領は、アメリカ国民が戦争の犠牲に慣れることを恐れた。アメリカ政府は、戦争の初期は一般国民の人々の士気を低下させるために、写真の公開を禁止した。オーストラリアでは、ダグラス・マッカーサー司令官は、特派員に公式許可なしにインタビューを行った兵士を軍法会議にかけると脅した。
 太平洋戦争の勃発から21ケ月経過して、ルーズベルト大統領がその公開を承認した後に、ライフ誌の1943年9月20日版で3人のアメリカ兵がブナビーチで死んだブナ・ゴナの戦いの写真の公開できた。ルーズベルト大統領と国防省らは、アメリカ人が自分たちの少年たちが戦場に戦死したことを見るべきと決定した。






2019年11月2日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 320,000回

2019年11月1日金曜日

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。ポーランド侵攻の2日後の1939年9月3日「ブルンベルグ血の日曜日(Bromberg Bloody Sunday)」事件で約5,347人のドイツ人が殺害された。血の日曜日では、イエズス会教会の牧師たちが暴徒に武器を配った。ポーランド人は教会に行く前に、隣人のドイツ人に挨拶して、教会の後に発砲した。家や地下で射殺されなかったドイツ人は、他のドイツ人と縛られて、様々な方法で拷問、切断、殺害された。何日もの間、死体まだ畑や中庭や庭、あるいは彼らの家の前に横たわり、小枝や葉だけで覆われて、表面的に埋められた。死体は何日もの間、野原、庭や庭、家の前に横たわり、多くの場合枝と葉だけで覆われるか、浅い墓に埋めた。死体の多くは、街路に沿って2つまたは3つに集積された。犠牲者の多くは、後になって遠く離れた場所で発見された。
 ポーランド軍とボルシェビキ部隊は、1939年にダンツィヒ回廊にて約58,000人のドイツ人を虐殺した。少なくとも1939年4月からポーランド人は無差別にドイツ人を虐殺した。ナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻に至るまでに、ドイツ軍はすぐに打倒できると確信したポーランド人とロシア内務人民委員部(NKVD)とユダヤ人らは、多数のドイツ人を大量虐殺した。1939年9月1日のナチス・ドイツ軍のポーランド侵略以前からの虐殺であり、推定では約58,000人のドイツ人市民が虐殺された。ポンツ、ロッツ、ワルシャワ郊外のドイツ人農民を殺害し始めた。ドイツ人の子供たちは納屋に釘付けにされ、女性は強姦され、侵入してドイツ人は処刑された。1939年9月3日のブロンベルグの血の日曜日事件は、殺人乱交の恐ろしい結末であり、ドイツ民族に対するポーランドの全滅キャンペーンの集大成であった。1939年のダンツィヒ虐殺は、ナチス・ドイツにポーランドを攻撃するための完璧な口実を与えた。ナチス・ドイツはポーランドの侵攻を、ドイツ国民に対して正当化した。「血の日曜日」という用語は、ナチス・ドイツのプロパガンダによって作成されて支持された。
 ブロンベルグとその周辺では、ポーランド人の殺人集団は、避難できなかった数千人のドイツ人を虐殺した。ポーランド人の襲撃隊が地域に居住したリストを持っていた。犯罪が容認されただけでなく指示された。殺人集団は、ドイツ系民族の家を捜索し、捕獲するか、その場で射殺した。ポーランドの聖職者は、1939年7月3日にポーランドの教会当局の命令によりドイツ語でのカトリック教会の礼拝が禁止された。司祭は教会の礼拝中にポーランド人がドイツ人を絶滅するように扇動した。血の日曜日に、イエズス会教会の聖職者が暴徒に武器を手渡した。ポーランド人が教会に行く前にドイツ人の隣人に挨拶し、教会を出た後にはドイツ人を撃った。家や地下室で撃たれなかった人は、束縛されるか、他の人に縛られ、街から連れ去られ、あらゆる方法で虐待され、切断され、殺害された。ポーランド軍隊でさえ、束縛されて捕縛されたドイツ人の殺害に参加した。