2019年10月21日月曜日

カンボジアのオスオデイ川に向かう途上の道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出した。

2011年8月にカンボジアのオスオデイ川に向かう途上の踏みしめられた道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出していた。ジャングルの中にも道なき道に地雷が現れては消えた。地雷の被害は、車両など物体の破壊や人畜が殺傷する直接的な被害と、地雷が埋まった土地が価値を失う膨大な経済被害が出る。地雷には、残虐性、残存性、無差別性の被害を伴う。一度埋められて踏むと殺傷するまで待ち続けて地雷は半永久的に作動し、無差別に住民を苦境に追い込む。 
 カンボジアには1970年代以降の混乱や内戦により多数の地雷・不発弾が埋められままである。特に武力衝突が激しかったカンボジア西部・タイ国境バタンバン州などでも撤去作業が連日続いている。地雷による年間死傷者数は、1996年に約4,320人と過去最多に達した。年々減少や増加を繰り返している。2000年には859人から2013年には111人にまで下がった。しかし、2014年には再び154人(死者21人と負傷者約133人)に増加した。主な要因は農業の近代化でトラクターなどの農機が普及して被害が増えた。カンボジア地雷対策・被害者支援庁によると、2015年に撤去された地雷・不発弾は約23,000個であった。地雷除去された地域は拡大するものの、まだ約1,640平方kmの地雷汚染地があり、除去には今後10年間で約36,000万ドルが必要と算出された。2016年には世界における地雷・不発弾の被害者が8,605人にのぼり、1999年の9,228人に次ぐ犠牲者となった。
 オスオディスとは、タイとカンボジアの国境のジャングルの中にあるポル・ポト直属の秘密司令部であった。ポル・ポト政権は、1975年4月1日から1979年1月7日までの3年8ケ月20日の期間に、約200万人にも達するカンボジア住民が虐殺されて餓死や病死した。ベトナム軍のカンボジアへの侵攻によって、ポル・ポト政権が崩壊した。カンボジアを占領したベトナム軍は、ソ連と傀儡のヘム・サムリン政権を樹立した。ポル・ポト政権は、タイ・カンボジア国境のジャングルに潜伏して、ベトナム傀儡政権と対立した。アメリカ西側諸国と中国が、ポル・ポト派とソン・サン派とシアヌーク派を合体した民主カンボジア連合政府を国境のジャングル一体に樹立した。カンボジアは、ベトナムとソ連、アメリカ西側諸国と中国との代理する内戦に陥った。 


2019年10月20日日曜日

広島原爆で頭部に受傷して、母親と看護師からケアを受け、不安に怯えて見つめた。

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


2019年10月19日土曜日

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、囚人を選別して毒ガス室の監視もした。

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、堂々としてアウシュビッツ強制収容所の貨物駅に立って、ガス室送りになる数万人にも及ぶ囚人の選別をして、毒ガス室の監視もした。アウシュビッツに連行された囚人を選別して人体実験を繰り返した。小人症も残酷な研究対象と選別されて、アウシュビッツ強制収容所に強制送還た。1943年5月30日から約13万人を収容したアウシュビッツで勤務したヨーゼフ・メンゲレは終戦後も、1947年にニュルンベルク裁判で、戦争責任の刑事訴追を追求から免れた。1945年7月18日に南アメリカに失踪した。戦犯としてメンゲレは、終生まで国際的に指名手配された。
 親衛隊医師らは、残酷な人体実験を囚人に処置した。女性囚人の子宮を病原菌で汚染して、安上がりに断種と不妊するために、卵巣と清掃に強度のXp線を照射して、生殖能力を奪う実験をした。特にメンゲレは、双子の目に化学薬品を注入、失血死するまで血液を抜き取る。薬剤を注入して殺害した。ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人にも強要して、生殖能力を絶滅をさせた。
 人種差別主義を掲げるナチス・ドイツは、ダーウィニズムを由来して、生物学的に欠陥があれば、生きる価値がなかった。生殖過程に関与して、優れた人間のみが生存すべきである。ユダヤ人や障害者は、生殖や生きる価値もないとした。アーリア人以外の人種は劣等であるとした。1934年1月に遺伝的疾病予防法が施行されて、精神障害者・てんかん・盲・聾・身体障害者、知的障害者、アルコール中毒者などに強制不妊、断種手術が処置された。遺伝的疾患患者を抽出するために、警察、医療福祉系書類、カルテが検閲されて、警察権限で強制連行した。人種台帳に登録されるには、少なくとも1950年代以降に純粋なアーリア人である証明が必要であった。


2019年10月18日金曜日

ウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。

1980年のウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。非武装のインディアンは、米国騎兵隊の無差別の砲撃と射撃により、約150人が虐殺された。その約150人の犠牲者うちで、約44人の女性と約16人の子供も虐殺された。1870年には、アメリカ合衆国には約4000万人もの入植者や金採掘者らが、農地や猟場を求める約30万人のインディアンを弾圧していた。
 アメリカ合衆国のサウスダコタ州南西部のパインリッジインディアン居留地にあるウンデット・ニーは、北米インディアンと米国政府の紛争地であった。1890年のウンデット・ニーの虐殺により、米国軍とスー族の分派であるラコタ族と最終的な衝突により、約150人のアメリカ先住民のインディアンが殺害された。1890年を通じて、米国政府はパインリッジでのインディアンのゴーストダンス信仰の拡大を懸念した。多くのラコタ族は、ゴーストダンス信仰を実践し、神は新たに世界を創造し、非インド人を含むすべての非信者を撲滅すると信じた。インディアンは伝統的な習慣を維持して居住地に留まった。1890年12月15日に、警察はゴーストダンサーと疑って、有力なラコタ族の首長を逮捕する過程で殺害して、パインリッジの緊張を高めた。約350人のインディアンが、パイン・ブリッジの特別保留地に向かった。その途中で、約500人の米国軍の騎兵隊が野営地をウンデット・ニーに変更させた。12月29日に、インディアンに武装解除をしている最中に、ライフルの発射から虐殺が勃発した。
 1980年12月29日に米国軍の騎兵隊は、ニークリークの近くにあるラコタ族の首長のよるゴーストダンサー運動を囲み、武器の投降を要求した。インディアンと米国騎兵隊の間で戦いが勃発し、砲撃と射撃が勃発した。どちら側から突撃かは不明である。残虐な虐殺が続いて、約150人のインディアンが殺害され、その半数近くが女性と子供であり、米国騎兵隊は約25人が殺害された。悲劇的で回避不可能な虐殺となった。重武装した軍隊に囲まれて、インディアンがが意図的な戦いの可能性はほとんどない。米国騎兵隊が1876年のリトルビッグホーンでの連隊の敗北に対して、意図的に報復したと推測されている。米国騎兵隊には名誉勲章が授与されて、ウンデット・ニーの虐殺をアメリカ国民は好意的に評価した。



2019年10月17日木曜日

南スーダンでは1歳半の男児が横たわり、顔に無数の蝿が追い払えず、瞳に蝿がたかり、涙から水分と栄養を奪い取った。

南スーダンは、2018年2月時点で、人口の約3分の2にあたる約700万人も飢餓状態に達して、5歳未満の子どもの約530万人も急性栄養不良状態に至る緊急事態に陥った。南スダーンの市民は、飢餓下で生活と生命をかろうじて維持している。首都のジュバの貧弱なマハド難民キャンプにス南ダーンの市民がなだれ込んだ。マハド難民キャンプでは、2018年5月には約7,800人が収容された。その難民キャンプには、多くの女性と子どもが収容されていた。テントの前で座り込み困窮した母親が、手を口に運び食糧を求めた。空腹で飢えた母親から母乳も出ない。何もないテントの中で、1歳半のルオーくんが横たわっていた。その顔には無数の蝿がたかり、追い払うことも困難であった。瞳に蝿がたかり、ルオーの涙から水分と栄養を奪い取った。気温40度を超える灼熱の中で、排水で汚染した水で下痢になった。雨期には、マラリアに感染した。いずれも、子どもから直ちに命を奪った。
 1956年にスーダンはイギリス・エジプトから独立した。その後から、イスラム教派のアラブ系住民が多い現在のスーダン共和国とキリスト教や伝統宗教が多い南スーダンは、北部と分離・独立を求める南部の内戦が頻発した。第1次スーダン内戦が1955年8月から1972年3月まで勃発した。第2次スーダン内戦が1983年3月から2005年1月まで勃発した。2011年7月になって、新たな南スーダン共和国が独立したが、内戦が頻発している。2013年12月と2016年7月には、2度にわたる戦闘が勃発した。2013年12月14日に、南スーダンの首都ジュバで、南スーダン人民解放軍の一部が反政府クーデターを引き起こして、内戦状態となった。2016年7月に首都ジュバで、大統領派と副大統領派が衝突して、再び内戦状態となった。



2019年10月16日水曜日

膨れ上がった2人のアメリカ人と1人のフィリピン人の死体が、バターンの死の行進に沿った排水路に散乱していた。

2人の膨れ上がった2人のアメリカ軍兵士と1人のフィリピン人民兵の死体が、1942年4月16日にオリオン市にてバターンの1つの排水路の中に、バターンの死の行進に沿って散乱していた。バターンからオーストラリアまで逃げ延びた3人のアメリカ兵が、「バターン死の行進」と名づけ惨状を伝えて日本軍の残虐性を示した。
 日本軍は、1941年12月22日にフィリピンのルソン島に上陸した。アメリカ軍とフィリピン軍は、1942年4月9日に日本軍に正式に降伏した。日本軍は占領したフイリピンのバターン半島から、1942年4月に降伏した約76,000人の捕虜(約10,000人のアメリカ軍兵士と約66,000人のフィリピン軍兵士)を約106km(約66マイル)も灼熱の中を強制的にバターンの死の行進をさせた。主にバターン半島の南端のマリベレスから1942年4月9日から行進が始まり、サンフェルナンドまで強制的に行進した。その後に不衛生な狭苦しい列車に乗って、北のカパスまで鉄道で移動した。さらに約11km(約7マイル)も歩いた。アメリカ人とフィリピン人の捕虜を抑留する元フィリピン陸軍訓練センターがあるオドネル強制収容所まで連行した。捕虜が連行した地点に応じて5〜10日間続いたバターンの死の行進中に、水や食糧も与えられず死亡した。水や食糧を要求した捕虜の中には、打撲され、射殺され、縛られて、銃剣で斬首された。強制収容所にたどり着いた多くの捕虜は、後に飢餓と病気で死亡した。強制収容所に到着した捕虜はわずか約54,000人である。行進中に約500人のアメリカ人と約2,500人のフィリピン人が死亡した可能性がある。さらに約1,500のアメリカ人と26,000人のフィリピン人が強制収容所オドネルで死亡した。



2019年10月15日火曜日

セルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。

東ボスニアでは、1992年冬にセルビア人武装勢力兵士が処刑した約6人のボスニア人の死体が雪上に転がっていた。正統派キリスト教徒であるセルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。セルビア人武装勢力は、村に潜入していたボスニア政府軍の斥候部隊のスパイと疑わった村のボスニア人を、雪上戦が勃発するまでに虐殺した。セルビア人兵士を防衛するためとして、村のボスニア人は斥候部隊のスパイとして虐殺された。但し、処刑されたボスニア人が斥候部隊のスパイであるとは確証されていなかった。その中にスパイ容疑をかけられて、処刑された無実の村人も含まれる。
 ボスニア戦争は1992年に始まり、1995年まで続いたが、ボスニア戦争の原因は第二次世界大戦に由来して、その影響はまだ2017年にも継続している。戦争は約10万人の市民と兵士の死をもたらした。ボスニア人とも呼ばれる少なくとも25,000人のボスニア人イスラム教徒の大量虐殺を引き起こした。1992年4月から、セルビア人はすべてのボスニア人イスラム教徒を体系的に排除するで、ボスニア領土を「民族的に浄化」することが勃発した。セルビア人は旧ユーゴスラビアの軍事装備で、ボスニア人を攻撃して、首都サラエボを包囲した。多くのボスニア人は強制収容所に追い込まれ、女性と少女は組織的に強姦され、他の市民は拷問され、飢え、殺害された。ボスニア政府軍は、1992年冬に東ボスニアのセルビア勢力地を攻撃した。ボスニア軍兵士が最前線を越えて突撃して、雪上戦を果敢に戦闘した。しかし、精強なセルビア人武装勢力が、ボスニア軍兵士を一網打尽にして、ほとんどひとり残らず射殺した。セルビア人武装勢力の兵士たちは、雪上の死体群から意気揚々と引き上げた。




2019年10月14日月曜日

沖縄戦における南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱と備品が発掘された。

沖縄戦の南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱が1989年3月3日に発掘された。その他に注射液のアンプルや薬品瓶、印鑑、万年筆等も発掘された。それらを新たに埋葬した。
 沖縄戦に至るまでに、1944年10月10日の大空襲により那覇は壊滅した。沖縄陸軍病院も巻き込まれて、琉理後方の南風原国民学校に移転した。国民学校を活用して、軍医と衛生兵と看護婦の約350人体制で開設した。
 1945年4月21日からのアメリカ軍の上陸を防衛する準備のために、黄金森に横穴壕を掘削して、三角舎をを丘に整備した。アメリカ軍の空襲が猛烈になるに従って、戦傷者が増大した。さらに黄金森に本部壕、第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕などが掘削されて、約20横壕が貫通した。約4,000人もの戦傷者が収容できた。3月24日にアメリカ軍による沖縄本島への艦砲射撃が勃発した。その直前に、師範学校女子部とひめゆり学園の併設校である県立第一女学校の女学生の約200人が配属された。3月29日に、女学生の卒業式を挙行してから、各分院に配属された。県下の女学生を徴収して、約550人が従軍して、そのうち死亡率が約62%に達する約339人が戦死した。
 横穴壕にはの二段ベット上で、戦死傷者のうめき声と血・海の匂いと死臭が充満した。アメリカ軍の戦勝が近づくと、激増した戦死傷者で郷内は膨れ上がった。女学生は、看護、糞尿の処理、死体の埋葬、水汲み、食事運搬などを強要された。5月25日に、日本軍の撤退とともに、南風原陸軍病院も撤退が指令された。戦傷者を運搬する余裕も、食糧も医薬品も枯渇していた。沖縄群司令部から、重度の戦傷者に対して、青酸カリや手榴弾などで自決させて、横穴壕を埋没させた。



2019年10月13日日曜日

虐殺記念日の1937年5月30日に、シカゴでシカゴ警察が10人の非武装デモした製鉄工場の男性労働者を虐殺した。

1937年5月30日に「虐殺記念日(Memorial day massacre) 」事件が勃発して、イリノイ州シカゴの最南端でシカゴ警察が10人の非武装の男性市民を虐殺した。虐殺された10人の男性は、製鉄工場の約1,000人のストライキ労働者とデモ行進していた。それは世界最大の鉄鋼工業の1つであり、全米製造業協会、商工会議所、および半ファシスト組織と、ルーズベルト政権の強力な議員連盟であった。デモ労働者は、全国労働関係法またはワーグナー法を弱体化させる必要があり、ニューディール立法の中心であった。1937年4月に最高裁判所で憲法制定を宣言して、団体交渉のストライキおよび関与の権利を保護する法的許可を与えた。議員連盟にも支えられて、リトルスチールなどの鉄鋼工業は、反撃を解き放った。ワグナー法を無視して、議員連盟の組織化に応えて、何百人もの組合支持者を解雇、脅迫、攻撃し、組合との交渉を断固として拒否した。
 弾圧がストライキを引き起こし、1937年5月26日に始まり、産業中心地に拡大する約30の鉄鋼工場の約7万人の労働者が参加した。ストライカーは、企業がワグナー法に基づく権利を要求した。約1,500人がシカゴの製鉄工場を行進し、抗議する権利を宣言して、ルーズベルトとニューディールへの支持をしたリトルスチール会社を非難した。工場に大量のピケットラインを設置し、内部で労働者の約千人ほどの男性を引き抜いた。企業と政府にとって労働者の生活はあまり重要ではなかった。大恐慌時代だけでも、数百人の労働者が警察、国家警備隊員、および会社、フォード・モーター、フェルプス・ダッジなどの企業で数百人に上る企業警備員との衝突で、虐殺されていた。労働問題の犠牲者は幹部の労働組合員であり、暴力に対する刑事告発に直面するだけで、虐殺者はほとんど起訴されなかった。
 武装していたシカゴ警察の約250人のメンバーは、工場の門の近くで衝突して、デモ行進者を止めて、脅迫し、解散を命じた。労働者からの挑発もなくて、警察は突然と群衆に発砲した。拳銃から約100発以上を発射した。負傷してつまずいた犠牲者に手錠をかけた。重傷者を打撃した。死にかけている男性を地面に沿わせた。救急車からも引きずり出して、病院で致命傷を負った男性など多くの人々を逮捕した。4人の男性が午後に死亡し、その後6人がさらに死亡した。すべて労働者または賛同者であり、ほとんどすべてが後方から撃たれた。別の約100人が負傷して、数十人が銃で、数人が頭蓋骨への打撃で負傷した。警察は、マリファナの麻薬と共産主義の武装勢力による敵対的な攻撃から自衛したと主張した。上院小委員会による調査と、パラマウントの写真家が撮影した映画によって検証された。ほとんどの政治家は事実を無視し、小委員会と記録動画写真がは、デモ行進幹部を刑務所から釈放したが、シカゴ警察と製鉄工業は、刑事告発を免れました。


2019年10月14日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 310,000回

2019年10月12日土曜日

グライフ作戦で捕囚されたドイツ軍曹は、ベルギーのアンリ・シャペルでスパイ容疑者としてアメリカ軍兵士により銃殺された。

ナチス・ドイツ軍のグライフ作戦で捕囚されたドイツ軍曹であった23歳のマンフレート・ペルナスは、ベルギーのアンリ・シャペルで1944年12月23日にスパイ容疑者としてアメリカ軍兵士により銃殺された。彼らはスパイとしてパリの連合軍の最高司令部の暗殺を示唆した。
 マンフレート・ペルナスだけでなく、同様にグンター・ビリング、ウィルヘルム・シュミットのナチス・ドイツ軍兵士も、1944年12月21日にアンリ・シャペルで軍事裁判を受けて、スパイ容疑で即刻に死刑判決を受けた。12月23日にアメリカ軍の射撃隊は、それぞれ3名を木柱に縛り付け、左胸に目印を付け、目隠しをして同時に3人を銃殺して処刑した。さらに3人のドイツ人が12月23日に軍事裁判にかけられて即刻死刑の判決を受けて、12月26日にアンリ・シャペルで銃殺された。7人のドイツ人が12月26日に軍事裁判にかけられて即刻死刑の判決を受けて、12月30日にアンリ・シャペルで処刑された。さらに3人が12月31日に軍事裁判にかけられ死刑の軍事判決を受けて、1945年1月13日に銃殺で処刑された。連合軍の最高司令部は、捕らえられたドイツ軍兵士の扱いが特に激しかった。アメリカ軍兵士は「彼ら全員のアメリカの制服を脱がせないように」と指示された。死刑判決を受けた16人の囚人の上訴は即却下された。軍事裁判では、ハーグ陸戦条約(1899年創設)の第23条:特別の条約により規定された禁止事項 : 6. 「軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服または特殊徽章を濫りに使用すること。」の極刑に軍事判決した。
 グライフ作戦(ドイツ語: Unternehmen Greif)とは、バルジの戦いの最中に偽装軍服のナチス・ドイツ武装親衛隊が連合軍の後方に侵入して破壊と混乱させて、ミューズ川に掛かる橋を破壊しようとした。1944年12月16日からグライフ作戦に参戦したドイツ軍兵士は捕虜となったアメリカ軍とイギリス軍から盗用した軍服を着用して、略奪した連合軍車輌を用いて、戦線の後方に侵入して、連合軍に混乱を引き起こそうとした。最終的には車輌の不足や軍服や車輌の偽装に基づく制約から、連合軍は一時敵に混乱するも、ミューズ川の橋の爆破は失敗した。










2019年10月11日金曜日

セルビア人は、洞窟から発掘された親族や罪なき子供たちの骸骨を棺桶に入れて埋葬されるのを見守った。

数百人のセルビア人は、約半世紀を経て洞窟から発掘された親族や罪なき子供たちの約100の骸骨を棺桶に入れて埋葬されるのを見守った。第2次世界大戦中にウスタシャによって虐殺されたセルビア人の死体が、ヘルツェゴビナのカルスト台地の洞穴から地下の洞穴に投げ込まれた。社会主義政権は、死体の発掘を禁止して、多数のカルスト台地の同穴を、コンクリートで密閉した。ウスタシャ体制の崩壊してから、親族らによって一部の洞穴から引き揚げた。
 1941年から45年まで、クロアチアのファシズム政党であるウスタシャが、セルビア人を大量虐殺をした。生きたままカルスト台地の洞穴に投げ込まれた。1990年の夏から1年間に、ヘルツェゴビナの石灰岩の台地から発掘された。数百メーターのち地下に一面に、セルビア人犠牲者の変色して無残な骸骨が散乱していた。セルビア民族主義者は、社会主義の下でセルビア人の死体が無慈悲の扱われた事を憤慨した。
 突如に共産主義のソビエト連邦体制が崩壊してから、右派のクロアチア政党がセルビア人を弾圧した。1992年6月に南ヘルツェゴビナにて、クロアチア軍が少数のセルビア人を粉砕して、村々を占領した。在住のセルビア人を虐殺して、家々を焼き払って、爆撃で大量虐殺の痕跡を消滅した。主に女性と子供たちの約800もの遺骨を安置した納骨堂が大爆破されて、飛散して散乱した。クロアチアの人種差別は、第二次世界大戦の終結後も残存して、20世紀後半まで続き、セルビア人は1991年に迫害されて殺害された。アメリカでさえクロアチアの人種差別に加担した。アメリカは、ユーゴスラビア紛争の開始時に、セルビア人がユウゴスラビア戦争を始めた見解を表明した。
 ウスタシャ虐殺の標的は、主にセルビア人、ユダヤ人、ジプシーであった。ナチス・ドイツのホロコーストの主要な標的でもあった。当初、クロアチアのファシスト勢力であるウスタシャは、1941年にクロアチアのアイデンティティを脅かすと感じた非クロアチア人に対する人種法を制定した。さらに、ウスタシャは民族浄化する強制収容所を設立した。最も多くの死者数は、ウスタシャによって虐殺されたセルビア人である。約300,000〜400,000のセルビア人が殺害されたと推定された。セルビア人の約3分1を殺害し、約3分1をカトリックに改宗させ、約3分1の追放を目標にした。さらに、クロアチアに在住の約40,000人のユダヤ人が殺害され、約30,000人のジプシーも殺害された。ウスタシャははるかに残忍な手段で無差別に行われ、クロアチアのセルビア人、ユダヤ人、ジプシーは斬首され、溺死、拷問で殺害された。



2019年10月10日木曜日

シリア軍は反体制側に大規模な無差別の空襲をして、約400人が急性の呼吸困難を訴えて、化学兵器の使用が断定された。

2018年4月4日に、内戦が継続しているシリアの北西部において、シリア軍は反体制側の拠点に対して大規模な無差別の空襲をして、約400人以上が死亡した。さらに約400人が急性の呼吸困難を訴えた。アメリカ軍はシリアのアサド政権が化学兵器の使用を断定して、4月7日にシリア政府軍の基地にミサイル攻撃をした。国際医療団体が化学兵器の使用を疑って、現地調査をして、4月19日に、シリア軍によるサリン類の毒ガスの使用を公表した。
  シリアのアサド政権に、2011年3月にアラブの春が飛び火した。アサド政権は、市民による民主化運動を、軍・治安部隊で厳しく弾圧した。弾圧を受けた民主化運動から、革命闘争が勃発した。2011年9月に武装組織である自由シリア軍が結成された。その結果、シリアの民主化運動は、アサド政権の軍事的な打倒を目指す革命闘争へと変質した。シリアの政権軍の精鋭部隊は、アサド家産化された軍であった。政権が革命の危機に瀕したとき、防衛のために無差別に市民に躊躇なく銃口を向ける私兵部隊と化した。
 湾岸諸国は、独裁者であるアサド大統領の退陣を求め、反体制諸派を支持した。過激なイスラム主義者が世界中からシリア国内の反体制諸派に合流した。逆に、ロシアと中国、イランとレバノンは、アサド政権を支持して、シリアが内戦化した。アサド政権と反体制派の荒廃した内戦から、イスラム過激派によるイスラム国が台頭した。イスラム国は、2014年6月にシリア北東部のラッカを首都とする独立を宣言した。国際社会は、次第にイスラム国の打倒するために、シリアのアサド政権を有利な正当化に傾倒した。2014年8月に、アメリカ軍主導の有志連合でイスラム国に軍事介入した。2018年12月19日にアメリカ軍はイスラム国を撃破を宣言して、シリア北部のクルド人地域からの突然の撤退を開始した。トルコ軍は2019年10月9日、シリア北部のクルド人勢力に対する攻撃して、民間人を含む少なくとも約15人が死亡した。


2019年10月9日水曜日

スペイン内戦の緒戦で、混迷した共和派のスペイン市民らが、反乱軍のマドリードのモンターニャ兵舎を制圧して虐殺した。

スペイン内戦が勃発したマドリードの市街地で、1936年7月17日にモロッコで蜂起した民族独立主義派の反乱軍に対抗して、共和派のスペイン市民らは1939年3月31日に反乱軍に制圧されるまで最後まで戦い抜いた。1936年7月18日には、反乱軍はスペインの北部を中心に約3分の1を支配した。
 スペイン内戦の初戦で、共和派のスペイン市民らと警察官や兵士の約10,000人が、約2,500人の反乱軍が立てこもるマドリードのモンターニャ兵舎を包囲した。立て籠もる反乱軍に1936年7月20日にスペイン市民らが乱入して反乱軍を虐殺した。狂乱した共和派の市民らは、白旗で武装解除した反乱軍の兵士を無差別にリンチにかけて虐殺した。市民らはモンターシャ兵舎を制圧してから銃器や鉄砲などの武器などを獲得して、反乱軍による首都の制圧を阻止した。マドリード市内では、その直後から絶え間ない反乱軍の猛撃を受けた。反乱軍は機関銃で射撃して手榴弾を群衆に投げ込んだ。マドリードは、激しい砲撃や空爆により、ほとんど廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民らの死体が市内に放置された。
 1936年7月17日に、共和派のスペイン人民戦線政府に対してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こし、スペインは内戦状態に陥った。反乱軍側が、ドイツ、イタリアなどのファシズム政権から軍事援助を受ける一方で、人民戦線側はソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦がスペイン人同士による内戦が展開された。
 人民戦線側には反ファシズムを支持する組織として国際義勇軍が加わった。武力と物量に勝るフランコ側が有利に戦いを進めて、1939年3月31日にはマドリードが陥落して、4月1日に内戦は反乱軍側の勝利に終わった。


2019年10月8日火曜日

金鉱の荒野で無差別にデモ行進の労働者に射撃して、約250人のレナの労働者が虐殺されて約500人以上が負傷した。

ロシア帝国軍の憲兵隊が1912年4月17日に、ナデディンスキー金鉱の荒野で、無差別にデモ行進の労働者に射撃して虐殺して、少なくとも、約250人のレナの労働者が虐殺されて、約500人以上が負傷した。死体安置所だけでは、処刑された死体を収容することができなかった。
 シベリア南東部のレナ川に沿った巨大な金鉱地は、ロシア帝国で最も収益性の高い地域であった。地域の大部分の金鉱は、レナ・ゴールド・マイニング合資会社が所有して、(レンゾロト)は、年間約7,000,000ルーブルの利益で経営した。経営者の利益のために、レナの鉱山労働者とその家族は厳しい生活に耐えなければならなかった。約16時間の労働を強要された、鉱山労働者の事故は約1000人ごとに約700件の外傷事故が多発した。鉱夫が乏しい仕事と監視されると、多くのお金が罰金として搾取された。鉱山労働者に腐った食肉を配給したことから、1912年2月29日にストライキが勃発した。3月中旬には、他に約6,000人もの労働者も加わった。約30%の賃上げ、罰金の廃止、1日約8時間労働、食事の改善を要求するも、3月22日に経営者と決裂した。
 鉱山労働者のストライキを撲滅するために、4月17日にロシア帝国軍から憲兵隊が派遣されて、ストライキの指導者が逮捕された、約2,500労働者が、検察庁にデモ行進して釈放を要求した。レナ金鉱の労働者に対する残酷な弾圧と大虐殺の情報は、ロシア国内に拡散した。ペトログラード、モスクワ、そのほか産業地帯でも大規模な抗議ストライキが勃発した。約30万人もの労働者を巻き込み、大規模なデモが1912年5月にロシアの都市を包囲した。ペトログラードだけでも、約1,000回ものストライキが発生した。レナ金鉱の虐殺は、ロシア市民の怒りと不満を強めで、1912年にはストライキの数が約1,918件と、1911年の約468件から約4倍にも達した。8月末には、レナ金鉱から約9,000人の労働者と家族が避難した。



2019年10月7日月曜日

大学から勃発した8888蜂起は、武装したビルマ軍によってビルマ国民まで集結した抗議デモは弾圧された。

1948年にイギリス連邦から独立したビルマ連邦では、1958年から継続する軍事政権に対して民主化を求めて1988年に8888蜂起が勃発した。ビルマ連邦は、1988年に経済が破綻して、後発開発途上国(LLDC)にまで転落した。ビルマの軍事政権に対して、1988年8月8日に大学から勃発した8888蜂起は、ビルマ国民まで集結して抗議デモを挙行した。武装したビルマ軍によってビルマ市民は弾圧された。人々が篤い尊敬を寄せる僧侶の青年の隊列が最も注目された。僧侶の青年たちは、軍人や家族が営む宗教儀礼では読経を拒否して、布施や托鉢を拒否して抵抗を続けた。1988年8月から9月の1ケ月間に約600人の僧侶が殺害された。1988年の1年間では、約10,000人の死者に達した。海外では、犠牲者数は数千人のみと報道された。
 1988年8月25日から9月18日にかけて軍事政権が混乱をした。8月8日に蜂起したビルマ市民の多数を拘束して投獄した。暴動の指導者して容疑者が、逮捕されて長期間の勾留と拷問による殺害が示唆された。8月27日は、軍事政権はヤンゴンの中央刑務所に拘束された受刑者を一部開放した。1989年6月18日に軍事政権は、ミャンマー連邦に国名を改変した。1988年9月18日には、将校らが軍事クーデターを挙行して、改変した軍事政権は戒厳令を宣告した。軍隊は、デモ抗議者を殺害するために殺害すると警告をした。新たな軍事政権は、民主的選挙を公約するも、1990年5月に圧倒的に勝利した国民民主連盟(NLD)には、2011年3月まで権力の譲渡を履行しなかった。2011年3月まで軍事政権下でミャンマーを統治した。