2019年9月23日月曜日

アフガニスタン北部同盟民兵が、カラ・イ・ジャンギの虐殺をした後に、囚人の死体を蹴りながら検死をした。

アフガニスタン北部同盟の民兵が、カラ・イ・ジャンギ(Qala-i-Janghi)の虐殺をした後に、2001年11月28日に殺害した囚人の死体でポーズをとった。タリバン勢力の死体が荒野に散在した死体を蹴りながら検死した。アフガニスタン北部同盟とアメリカ軍と連合軍が、2001年11月26日から12月1日にかけて、アルカイダを支援するタリバン勢力を、アフガニスタン北部のマザリシャリフの強制収容所で大量虐殺した。タリバンが2001年に、マザリシャリフの付近のカラ・イ・ジャンギ要塞から蜂起した。
 アフガニスタン北部同盟が、タリバン勢力の囚人の手を拘束し始めたとき、処刑されることに反発して、暴動が勃発した。アメリカ軍の空爆によるミサイルと爆弾が建物を粉砕した。アメリカ軍の特殊部隊とイギリスのSAは、アフガニスタン北部同盟の民兵による猛烈な地上攻撃を指揮した。虐殺された数百人のタリバン勢力はまだ手を縛られていた。タリバン勢力の囚人は密閉された貨物コンテナに積み込まれ、トラックは数日間に太陽下で放置された。多くの人が渇きと窒息で虐殺される囚人は、トラックの側面を叩き始めた。アメリカ軍部隊は停止したコンテナを機関銃で撃った。収容所に連行されるまでに、約2,000人から3,000人もの囚人が死亡した。タリバン勢力の囚人の死体は、アメリカ軍の監督下で、見分けもつかない大量墓地に即に埋葬された。タリバン勢力の囚人は約80人が生き残り、そのうち約50人はキュウバのグアンタナモ強制収容所に連行された。取り巻く死体の悪臭と調査の欠如は、連合軍の表向きの対応とは異なった。最初の段階は、アメリカ軍に拘束された多くを敵兵を不法な戦闘員と容疑をかけた。容疑者は、国際法の範囲を超えて、戦争の囚人ではなく、テロ戦争の囚人として、ジュネーブ条約の保護は即座に撤回された。被拘禁者を裁判するアメリカ軍軍事委員会は、不公正で差別的であった。
 1979年12月ソ連の軍事介入から、1989年2月ジュネーブ合意に基づき,駐留ソ連軍の撤退した。1994年頃からパキスタン軍から支援を受けるタリバーンが勢力を伸ばし,1996年9月に首都カブールを制圧して国土の約9割を支配するに到った。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を起点として、アメリカ軍・イギリス軍等により10月からアル・カーイダとタリバーンに敵対する軍事介入した。12月にはアフガニスタン北部同盟等がタリバーン支配地域を奪還した。各勢力による2002年6月のボン合意に基づき、国連安保理決議により国際治安支援部隊(ISAF)が治安維持を支援した。その後,2004年1月に新しい憲法が制定され、10月9日に第1回大統領選挙が行われた。



2019年9月22日日曜日

長崎原爆の爆心地に最も近い城山国民学校では、労働者らの約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
 国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
 長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
 旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。


2019年9月21日土曜日

19歳のアメリカ陸軍一等兵(Pfc)が、イラク戦争後に、道端の即席爆発物(IED)で殺害された。

アメリカ陸軍一等兵(Pfc)の19歳のジェームズ・J・ハレルソンが、2007年7月17日にイラクのバクダットにて、道端にあった即席爆発物(IED)で殺害された。周囲のアメリカ軍兵士らは、殺害された彼の死体を爆発した車両から引きずり出した。陣地まで死体を搬送して処理した。
 アラバマ州デイドビルのファーストバプテスト教会でハミルトンの葬儀の際に、2つの勲章を授与された。アメリカ軍は家族らに賞を贈る特権を持っていた。勲章は国からの感謝のほんの小さな印であった。彼は2007年5月からイラクで従軍した。大学に行くのには必要な財政的な助けのために、陸軍の入隊したのは当時の選択であった。ハレルソン(19歳)は2007年7月17日にバグダッドで、道端の爆弾の炸裂により殺害された。海兵隊の軍曹としてイラクで死体の送迎を務めたハレルソンの兄弟は、家族は愛する人を失ったことに深く悲しんだ。戦争に人生を捧げたことに誇りに思うことは義務であった。家族や友人らがアレクサンダーシティのヒルビューメモリアルパークに埋葬のために集まった。


2019年9月20日金曜日

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、コジャリーで数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、1992年2月2日から2月26日までコジャリーの町から数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。アゼルバイジャン側と人権センターによると、アゼルバイジャン当局が提供する公式の死者数は、女性106人と子供83人を含む613人である。コジャリー事件は、ナゴルノ・カラバフ紛争の過程で大量虐殺となった。
 1991年後半から約7,000人のアゼルバイジャン人が居住し、アルメニア人の軍事作戦は、アゼルバイジャンに対する攻撃は勢いを増した。約7,000人のアルバイジャン人が居住するナゴルノ・カラバフ地域にあるコジャリーの町が、攻撃目標になった。
 アルメニア軍は、1991年10月30日にコジャリ地区を完全に包囲して遮断した。コジャリーを占領して、アルメニアはナゴルノ・カラバフ地域の他の都市や町を占領する優位性を得た。1992年2月25日から2月26日の夜、アルメニア軍はコジャリーの町を攻撃して、無差別に高齢者、女性、幼児など、かつてない残虐な大量虐殺した。コジャリー虐殺では、女性約106人と子供約83人と老人70人を含む約613人の民間市民が殺害されて、約1,275人が人質の捕虜になった。コジャリー虐殺の犠牲者は、火傷や生きたまま埋葬され、皮を剥がされ、頭を切断され、子供たちは目を突かれ、妊婦は銃剣で刺された。
 アルメニア人によるアゼルバイジャン人の民族浄化の歴史は、18世紀初頭から勃発した。ロシア帝国が、南への拡張主義政策を強化するため、コーカサスにてアルメニア人を搾取した。1724年11月10日、ピーター1世は、アルメニア人がバクーやアゼルバイジャンの地域に定住をする命令を出した。アルメニア人はアゼルバイジャン人に対して残酷な虐殺と虐待を繰り返した。1905-1907年にはアルメニア人によって、何千人もの無実のアゼルバイジャン人を各地で大量虐殺した。1917年12月から1918年3月には、アルメニア軍とソ連軍は、アゼルバイジャンの合計約197村を破壊し、大量虐殺し、追放した。1990年1月20日に、ソビエト軍は首都バグーなどを占領して、無差別に民間市民を発砲して、約131人が殺害された。1991年8月30日にアゼルバイジャン共和国は独立宣言をした。近年でも、2016年4月1日から5日の間、ナゴルノ・カラバフ地域での激しい戦闘により、約88人のアルメニア人兵士と約31から92人のアゼルバイジャン人兵士が死亡した。



2019年9月19日木曜日

天安門事件にて、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕され虐殺された。

1989年6月4日未明に、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕されて虐殺された。学生の死体を取り囲んで、武器を持たない市民や学生らの群衆は、拡声器を通じて抗議の叫び声を上げた。戒厳部隊は、戦車・装甲車・兵士を満載したトラックで、天安門に向けて街路地を突進した。デモ隊のバリケードは倒れ、民主の女神は破壊された。街頭に繰り出した市民や学生に対して、戒厳部隊は発砲して、約数千人も虐殺された。広場で銃声が響くと、市民や学生らは絶望して涙を流し広場を立ち去った。中国共産党は、事件による死者は319人と公式発表した。この事件による死傷者は、報道規制により不明である。数百人から数万人に及ぶなど死者数は不明確である。
 静音な6月3日未明から、戒厳部隊が強制排除に踏み出した。一度は撤退しては、再度に戻る戒厳部隊に、群衆の一部が投石や火炎瓶で応対した。火炎瓶を浴びて動けなくなった1台の装甲車から飛び出した兵士が群衆により虐待された。その挑発行為を武力行為と捉えた。それから戒厳部隊は、暴力的な武力行使を執行して、無差別に市民や学生らを襲撃した。政府指導者は、反革命的で反党的な陰謀として糾弾して、人民解放軍が北京に進駐した。集結した市民や学生の群衆に対して、戒厳軍は発砲して流血事件となった。6月3日の午後には、天安門広場の手前の数百メートルで、約6万人もの市民や学生らは人民解放軍の前進を阻止した。一部の武器を奪われた人民解放軍は再び侵攻した。兵士が、棍棒やベルトで市民や学生を打倒した。6月3日の午後10時頃に、バリケード突破と発砲を指令された。6月4日午前0時すぎに、天安門広場に突撃した。


2019年9月18日水曜日

太平洋戦争で、ガダルカナル島のココナッツ林の浜辺に追い込まれた日本軍兵士の死体が散在した。

太平洋戦争のガダルカナルの戦いで、日本軍はガダルカナル島の奪回のために、先遣隊の約917人は、タイボ岬から1942年8月18日夜に上陸した。8月21日真夜中から、アメリカ軍に占領して整備されたヘンダーソン飛行場に突撃した。日本軍は、ルンガ周辺の東側にあるアリゲータークリークのアメリカ海軍陣地に夜間の正面攻撃をした。テルナ川を越えてイル川西岸のイル渡河で、アメリカ軍の猛攻を受けて、約789人が大量虐殺されて全滅した。残りの部隊を撤退するよう将校が助言したが、隊長は撤退を拒否した。アメリカ軍に包囲されて、戦闘機からの機銃掃射と機関銃と砲撃により、日本軍の援軍のために上陸してから悲惨な戦闘をした。その後にガダルカナル島のココナッツ林の浜辺に追い込まれた日本軍兵士の死体が散在した。戦闘の終結後に、死体の中に、戦傷した日本軍兵士が突如にアメリカ軍兵士を射殺した。その後は、アメリカ軍は、全ての日本軍兵士の死体を撃って銃剣で刺した。
 ガダルカナルの戦いは1942年8月7日のアメリカ軍の上陸に始まり、1943年2月9日まで約6か月間続きました。ガダルカナルの戦いは日本軍にとって壊滅的な敗北であった。日本軍は泥と血と汚物にまみれ虐殺されて、ひどく気分を害する敗北であった。ガダルカナルの戦いは、中国、東南アジア、太平洋での連続した勝利の後、陸上での日本軍の初の敗北となった。ガダルカナル島にて日本軍部隊による一連の敗北の後に、連合軍兵士は陸戦で日本軍を破ることができた。約25,000人以上の日本軍兵士がガダルカナルの浜辺、密林、急な渓谷で死亡して、約7,000人のアメリカ軍海兵隊も死亡した。


2019年9月17日火曜日

あばら屋の前に立っている朝鮮人の婦人には3人の子供がいたが、その1人が激しい独立抗争により日本軍兵士によって虐殺された。

日本軍は、激しい朝鮮独立抗争が勃発した花樹里にて、1919年4月4日未明に大量虐殺を執行した。あばら屋の前に立っている朝鮮人の婦人には3人の子供がいたが、そのうちの1人が日本軍兵士によって虐殺された。虐殺された子供の死体の上に一枚の布がかけられた。その他の2人の兄弟はとうとう自分の兄弟が虐殺された死体の前で泣き叫んだ。さらに虐殺された父にも悲嘆した。1919年3月1日の三・一事件による独立を目指す万歳運動が朝鮮半島に拡散した。驚嘆した朝鮮総督府と日本政府内閣は、朝鮮内兵力を大々的に増派した。警務機関は査察及び検挙に極力活動して禍根を消滅せよと指示された。 
 激しい独立運動により4月3日に約2,000朝鮮人群衆は、花樹里駐在所の日本人巡査を撲殺した。その見返りの報復に、日本軍は4月13日に、花と木の町であった京畿道の華城市花樹里を焼却して灰に変貌させた。教会の首謀者として、朝鮮人約23人とうち女性1名を虐殺した堤岩里教会事件が勃発した。約40世帯のうち、半分が全焼した。日本軍の憲兵隊は、朝鮮人が眠っている明け方に乗じて、火を付けた松明を持って家屋に火をつけた。睡眠からぼけたまま飛び出してきた朝鮮人住民に対して棍棒と銃刀で虐待と虐殺した。死ねなかった朝鮮人住民は、刑務所に連行された。日本軍が襲った地域ごとに古里が一瞬に消えた。日本軍が襲った廃墟に残ったのは、恐怖に襲われた婦女子たちだけだった。朝鮮全土にわたって、その殺戮が深刻化した。



2019年9月16日月曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、手榴弾と2挺の小銃が放置され、塹壕内でアメリカ軍海兵隊員の死体が横倒しになった。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、手榴弾と2挺の小銃が放置されたままで、塹壕内で戦死したアメリカ軍海兵隊員の死体が横倒しになった。ペリリューの戦いは、アメリカの軍事史における水陸両用攻撃の中で最も悲惨な高い死傷率を伴った。アメリカ軍の海兵隊と歩兵部隊の約28,000んが参戦して、ペリリュー島の戦いで海兵隊と兵士の約40%にも達する約9,800人が戦死傷した。アメリカ軍にとってペリリュー島は、太平洋戦争では最終的に戦略的価値がほとんどなく、全く活用されなかった島で、深刻な犠牲が被っても悲惨な戦闘自体が無駄に至った。
 太平洋戦争にて、サイパンを攻略したアメリカ軍海兵隊は、隣島のテニアン島に1944年7月24日に上陸して、8月3日に日本軍が全滅して終結した。8月11日にグアム島を攻略して、パラオ諸島に侵攻した。ペリリュー島は、東西約3kmで南北約9kmの小さな孤島であるが、戦闘機と爆撃機の飛行場があった。その防御のために、日本軍の陸軍兵士の約6,192人と海軍兵士の約3,646人の総数は約9,838人が徹底抗戦した。アメリカ軍は約40,000人で、1944年9月15日にアメリカ軍はペリリュー島に飛行場の争奪のために上陸した。最初に上陸したアメリカ軍部隊は、約50%もの戦死傷者の甚大な犠牲を伴った。日本軍は、洞窟を要塞化して徹底抗戦する死闘により、両軍ともに膨大な戦死傷者を伴った。補給を絶たれた日本軍は、日々に壊滅に向かった。11月12日には日本軍兵士の生存者は約300人、11月18日には約150人まで減少して、11月22日にアメリカ軍が掃討して、11月24日に日本軍司令部が自決して万歳攻撃して終結した。組織的抗戦は消滅したが、終戦してからも約2年間も抗戦して生存した日本軍兵士の約34人が、1947年4月22日になってペリリュー島の洞窟から投降した。



2019年9月15日日曜日

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で自白を強要して取り調べた。

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で取り調べた。中国人を敵視して、自白を強要した。全く身に覚えのない容疑をかけては、拷問により生命を奪った。拘束・検挙して、不正確でも、特殊情報の成果の至上主義が蔓延して、権限の行使が無制限に認められた。植民地の朝鮮でも、朝鮮全土に憲兵が配置された。尋問のためには、こん棒を振り回して殴りつけた。焼きごてを、いきなり背中に押し付けた。日本の侵略戦争の対象地であった中国戦線には、戦地憲兵が網の目に貼り巡った。関東軍は、満州国の特別警察を関東軍の憲兵組織の配下に置いて、軍事警察権力を一手に掌握した。権力を乱用して、法律の原則を逸脱して政敵を排除した。
 戦地憲兵は、多岐にわたる兵士の軍紀の保守、極秘情報の収集、思想対策、中国民衆対策、宣撫宣伝、交戦日本人の監視の任務を遂行した。絶対的な使命として、国家権力に抵抗するあらゆる個人や組織を敵視して、処分・弾圧に臨んだ。戦局が悪化するほど、徹底した国民動員の不満の噴出を弾圧して強制した。
 憲兵とは、戦前・戦中に思想犯を死に追いやった特別高等警察(特高)と並び、市民への監視と弾圧を繰り返し、恐怖を撒き散らしながら市民を戦争へと駆り立てた旧日本軍の機関である。憲兵の本来の任務は、軍人の統制と監視にあったはずが、軍国主義が深刻化する中で、その本来の任務を大きく逸脱した。日本軍の憲兵組織を駆使して、権力の意図を実現する憲兵政治を強要した。戦争国家は、市民の自由な活動や言論を許容しないで弾圧して、市民を戦争に動員を強制した。戦前の軍国主義を支える憲兵は必然であった。日本国内と国外での憲兵隊の数は、約33,885人に達した。軍国主義が進展するほど、必ず遂行するために不当な権力が行使された。
 2007年6月6日に、自衛隊による違憲・違法の国民監視活動が告発された。陸上自衛隊情報保全隊の「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」の内部文書が暴露された。自衛隊が情報保全隊が、2004年1月7日から2月25日までのイラク派兵に対するすべての国内の反対運動の監視を記録した。自衛隊の情報保全隊は、2003年3月に調査隊を格上げして約900人もの組織を設置した。



2019年9月14日土曜日

広島原子爆弾に被爆した約2ケ月後に、母親が重態の男児を抱いて、大芝国民学校に駆け込むも、すでに息がなく死亡していた。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息がなく死亡していた。その男児の死亡に泣きながら悲嘆した。
 大芝国民学校は、爆心地から北西約2.4kmに位置して、爆心地に向けて縦に建った南側の新校舎のみが倒壊を免れた。焼けなかった学校や病院は仮設救護所となり、被爆した多くの市民たちが救護と治療に訪れた。被爆直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到したために、8月7日から臨時救護病院を開設した。8月7日になって火の勢いが鎮まると、救護に当たる者が引き返して再び救護の任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人らが、専門領域を越えて不眠不休の救護活動を行った。1941年の国民学校令で、尋常小学校から国民学校に改称された。教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき皇国の道を修練させた。



2019年9月13日金曜日

イスラム国は、イラクのシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して、処刑地で膨大なクルド人の白骨が散乱した。

イスラム国(ISIS: Islamic State of Iraq and Syria)は、イラク戦争後にイラク北西部のシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して処刑した。その1年後には、処刑の跡地の砂漠上で膨大なクルド人の白骨化した遺体が散乱していた。
 クルディスタン地域政府(KRG)は1992年に設立されて、ISISの脅威を戦うだけでなく、真のクルド人国家の創設を目指した。約1,400年間にわたりクルド人を迫害したアラブ人の駆逐を念願とした。サダム・フセインのイラク政権の激しい弾圧と迫害から、アラブ人によるクルドの併合からの独立を悲願とした。クルド人は、「国家を持たない世界最大の民族」として、イラク・イラン・トルコ・シリアなど中東に約3,000万人が居住している。
 2014年6月にイスラム国(ISIS)がイラク中央部を突如として侵略した。ISISは、世界をカリフ制度に戻し、イスラム教徒以外のキリスト教徒やクルド人、シーア派の抹殺を使命とした。6月のISISの攻勢により、クルド人の宗教的少数派であるヤズディ教徒がシンジャルで襲撃された。シンジャルは、イラク北西部の国境地帯にあり、KRGの領域外で無防備であった。ISISが2014年6月には、モスルを陥落させて、ISIS攻撃が狂乱した。
 2014年8月1日に、ISISゲリラが、KRGとシンジャルを結ぶ唯一の道から、わずか約10マイルのズマールにあるペシュメルガ軍事組織の前哨基地を攻撃した。8月3日にISISはシンジャルで大量虐殺を行って、少なくとも約5,000人のヤスディ教徒が虐殺された。大混乱してシンジャル山からの避難民はペシュメルガ軍事組織からも逃避した。8月10日には、ISISがKGBの首都アルビルを攻撃した。
 イラク国内にてKRGは1992年に創設されて、イラクに迎合してクルド人地域を維持していた。アメリカ軍によるイラク侵攻で、公然としてアメリカ軍に味方して、後方支援した。KGB領内では、連合軍の兵士はイラク戦争中に犠牲者は全くでなかった。2017年9月25日にKRGは、イラクから分離独立する住民投票を強行して約9割が賛同した。直後に、イラク軍が2017年10月16日に油田都市のキルクークを制圧して、KRGは周辺諸国による経済封鎖でクルド人勢力は疲弊した。


2019年9月12日木曜日

グアテマラ内戦で、軍事政権に連行され失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。

グアテマラ内戦に巻き込まれて1979年に軍事政権に連行されて失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。軍駐屯地の秘密墓地に埋葬されていた遺体が、1987年にアンティグラ市の近郊で見いだされた。先住民のカクチケル・インディアン人の女性は、変わり果てた遺骨に対面して悲嘆に暮れて慟哭した。1980年代から各地域には土地紛争鎮静化のため農園ごとに強制収容する軍駐屯地が置かれた。軍駐屯地内に秘密墓地が設置されて、拷問から虐待して殺害した遺体を埋めて消滅した。
 コロンブスが1942年10月12日に漂着した島民をインド以東と思い込みインディオと呼称した。南北アメリカ大陸の先住民であるインディオの基本的人権は、侵略したヨーロッパ民族により支配する諸国によって放置されて黙殺されて迫害された。支配民族は、先住民を虐殺と虐待して、抑圧して排除した。その支配する民族は、国内の先住民地を植民地化した。先住民の土地を収奪した大農園や鉱山開発企業の利益を守る政府軍は各農園に駐屯地を置いて、土地への権利を求める先住民への弾圧を強化した。国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われるジェノサイドを執行した。
 中央アメリカのグアテマラには、先住民族が国民の約4割を占めている。1954年から1996年までアメリカから支援された反革命の軍事政権が続いた。軍人や地主による土地強奪、人口の過半数を占める先住民の虐殺などが激化した。1970年代後半から農地を求める農民運動が拡大した。1981年から政府軍は、ゲリラ掃討により国土を焦土化して、約626が消滅部落となり、約100万人の国内難民、約10万人の国外難民が発生した。1982年からゲリラ組織とのグアテマラ内戦が激化した。グアテマラ内戦の犠牲者数は、死者が約17万5000人、行方不明者は約5,000人にも達した。



2019年9月11日水曜日

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。日本軍とロシア軍は、1905年1月25日から1月29日まで黒溝台会戦で死闘を繰り返した。黒溝台会戦は日本軍の司令不足、軍事の準備不足や作戦失敗など、大変な消耗戦による死闘となった。軍事的には損耗率約30%で戦闘力の喪失、50%を超えると壊滅となる。黒溝台会戦で、日本軍は戦闘力を喪失して、壊滅となる寸前となった。黒溝台会戦は全体で日本軍は約53,800人が参戦し、戦死者は約1,848人、負傷者は約729人、捕虜は227人、犠牲者は総計で約9,324人で、損耗率は約17%にも達した。戦闘により、日本軍兵士将の数多くを失う悲劇となった。日本軍の被害と損耗率が膨大であった。
 ロシア軍も膨大な犠牲を伴った。参加兵士の約105,100人のうち、戦死者は約611人、戦傷者は8,989人、失踪者1,105人、総計11,743人にも達した。戦死傷だけでなく、失踪者が1,000人以上出ている。ロシア軍の被害が相対的に大きなり、内部崩壊の状態となったが、黒溝台会戦では戦死者が少なく、全体の損耗率も約10%であった。1905年1月22日に、ロシア本国の首都ペテルスブルグで、多数の市民を射殺した血の日曜日事件が勃発していた。
 黒溝台会戦が、劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利の起点となった。死闘と犠牲の上に日露戦争を乗り切った。招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける。軍旗祭も師団管下の各連隊にとって、軍隊と地域の人々を結びつける年中行事となった、記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民の前に披露された。
 優勢なロシア軍を前に、日本軍兵士を真っ正面から悲劇的な突撃をした。黒溝台会戦は、軍事的には日本軍の完敗だった。黒溝台会戦は、結果的にはロシア軍の退却を誘発して、奉天会戦の犠牲として、日露戦争の勝利を導いた。その後の日本は第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を経て犠牲者を踏み越えて敗戦に突入した。


2019年9月10日火曜日

ネパール政府軍兵士は、木製の担架でマオイストのゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬して、死体を集積した。

ネパール政府軍兵士は、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)のゲリラとの戦闘で、2002年5月に殺害したゲリラの死体を集積した。ネパール政府軍兵士は、木製の担架でゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬した。ゲリラは、1996年頃から政府軍に反抗して、中山間地域を基盤にして、血にまみれの内戦が勃発した。
 ネパール内戦が、1996年2月13日から2006年11月21日の包括的和平協定の成立まで、約11年間にわたり、ネパール政府軍とマオイストの間で繰り広げられた。2002年5月に、マオイストのゲリラ拠点であるネパール中西部のロルパ郡ガム村に、ネパール政府軍の治安部隊がマオイストのキャンプを襲撃して、無差別に約150人を殺害した。
 1996年に、マオイストはネパール政府に対して武力闘争を開始した。その後、2006年の停戦に至るまでの約10年間で民間市民を含めて、約13,000人もの犠牲者を出した。内戦だけでなく、カーストや民族間の対立、援助慣習など社会問題により、社会的環境は悪化した。国連のUNMIN(国連ネパール政治ミッション)が、2007年1月から2011年国連平和維持活動をした。2008年には制憲議会選挙を実施して、第1党となったマイトス勢力が王政が廃止して、ネパール連邦民主共和国に移行した。王政の廃止以降に、憲法制定作業が難航した新憲法が、2015年9月20日に公布された。



2019年9月9日月曜日

カシミール州のバンディポラで、占領するインド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。

インドの北西部にジャム・カシミール州のスナガルから北に約45kmのバンディポラで2002年12月以降に、インド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。インド軍兵士が、イスラム教武装勢力と混同した。射殺されたカシミール人の死体は、インド軍基地に分捕られた。カシミール市民は死体の引き渡しを求めて、「カシミールに自由を、独立を。カシミールからインド軍の撤退を」と怒号した。やがて弾丸が頭部を貫通して射殺された死体を、カシミール市民は確保した。インド軍兵士に射殺された青年の妻が、冷たい手を握り泣き叫んだ。遺体は、群衆に担がれて、悲しみに包まれて墓地に埋葬された。
 1947年8月にインドとパキスタンは、英領インドから独立して、576もの藩国が帰属を迫られた。1947年9月にヒンドゥー教のカシミール藩王はインドに帰属するために、市民の大多数を占めるイスラム教徒と闘争した。カシミール地方にて、インド軍はヒンドゥー教徒を、パキスタン軍はイスラム教徒を支援した。1947年10月から1949年1月まで、カシミール紛争により第1次インド・パキスタン戦争が勃発した。1965年に第2次インド・パキスタン戦争、1971年に東パキスタンからバングラディッシュが独立する第3次インド・パキスタン戦争が再燃した。1989年にソ連軍がアフガニスタンの撤退から、イスラム武装勢力が本格的にカシミールに侵攻して、カシミール紛争による犠牲者数は約65,000人にも達した。
 1998年5月には、インドとパキスタンは、同時期に引き続けて地下核実験を強行して、核兵器を保有を宣言した。核不拡散条約(NPT)は、核兵器の保有を国連の常任理事5国だけに限定した。インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮は、NPTに加入せずに核兵器を保有する核敷居国家と宣言した。