2019年8月29日木曜日

日露戦争の沙河会戦にて後台でロシア軍に一斉突撃して戦死した多数の日本軍兵士の死体が散乱した。

日露戦争にて、沙河会戦にて後台の周辺で1904年10月13日からのロシア軍に対する一斉突撃で戦死した多数の日本軍兵士の死体が散乱した。10月15日になって大半のロシア軍は沙河の右岸に退去した。10月16日夜には、日本軍部隊は万宝山と歪頭山を一時的に占領するも、ロシア軍の激闘により、日本軍部隊は壊滅して敗退した。10月17日には、日本軍もロシア軍も、兵士の犠牲と補給の不足で戦闘は収束した。沙河会戦では、日本軍兵士の総数は約12万800人で、うち戦死傷者は約2万497人に達した。ロシア軍兵士の総数は約22万1600人で、うち戦死傷者は約4万1346人もの甚大な犠牲を伴った。
 満州の遼陽の占領に損害を伴った日本軍に対して、ロシア軍は奉天から大軍を南下した。沙河会戦は、ロシア軍が1904年10月8日に本渓湖から後退する日本軍に対する攻撃から、10月18日まで沙河付近で激闘となり、双方は突撃を繰り返して膨大な人的犠牲を伴った。それ以後の満州北部の戦線は一進一退となった。満州に厳寒の到来してから兵士と武器も食糧の補給も困難となった。両軍は沙河をはさんで、1905年の春まで対峙した。日本国内の富国強兵は限界に達して、戦場では膨大な戦死傷者から厳寒や疫病により犠牲者が続出し、日本国内では武器の増産も困難となり、国民は重税に悲鳴をあげて苦悩した。


2019年8月28日水曜日

イラク戦争にてバクダットのナスル市場への無差別のミサイル爆発により破片が29歳の男性の胸に突き刺さり、出血多量で死亡した。

イラク戦争にて、アメリカ軍は2003年3月28日にバクダット北西部のシャーラ地区のナスル市場への無差別の空爆をした。イスラムの休日である金曜日で混雑した市場へのミサイルの爆発によって約58人が死亡した。ミサイルの破片が29歳の男性の胸に突き刺さった。バクダットのヌール病院に搬送されたが、出血多量にて死亡した。病院の建物の外に置かれたストレッチャー上に、虐殺された死体が3月31日に横たわっていた。左胸下にガーゼを当てられた死体は、やや口を開いて、眠るように目を閉じた。死体は直ちに高温で腐敗して、死臭が漂った。兄弟らしき男性が、側に座り込んで、口を手で抑えながら、泣き叫んだ。最多で1時間あたり、約150人もの戦死傷者がヌール病院に搬入された。アメリカ軍による連日の無差別の空襲によって、無数の市民が虐殺と虐待された。
 アメリカ軍は、巡航ミサイルがペルシャ湾から数百kmを飛ばす空襲をピンポイント爆撃として、無差別な空襲を否定した。ピンポイント爆撃でさえも、市民の居住地に空襲されて、市民をも大量の虐殺と虐待していることは必然であった。ミサイルを直撃された市民は爆発して即死した。その周辺の市民には、爆発して飛び散った破片などで戦死傷した。地面は少なくとも約1m以上の穴が掘られ、アスファルトなどが浮き上がった。付近には、血が散布されて、すぐに蝿が集った。


2019年8月27日火曜日

広島原子爆弾の爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した爆心地から約300mの地点で、日本軍兵士が熱線を両下腿に浴びて熱傷を受傷した。特に、衣服で遮断されずに、直接に両方の下腿の背面が重度の熱傷を被爆した。皮膚の熱傷した後に、ケロイドが形成されて瘢痕が残存した。
 原子爆弾からの強烈な熱線により、重度の熱傷を被爆した。爆心地から約1.2km以内は、全身に熱線をあびた人は、皮膚が火傷で焼きつくされた。内臓などにまで障害を受けると、ほとんどの被爆者は即死あるいは数日以内に死亡した。原子爆弾が爆発してできる火の玉の温度は、中心部で約100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mとなった。非常に強い熱線によって、爆心地の地表の温度が約3,000~4,000℃に達した。 (太陽の表面温度は約5,700℃、鉄がとける温度は約1,500℃であった) 



2019年8月26日月曜日

ナチス・ドイツ軍等がレニングラード封鎖されて、母親は死亡した幼児を布に包めてお棺に葬った。

ナチス・ドイツ軍とフィンランド軍が、1941年9月8日から1944年1月18日の872日間までロシアのレニングラードを完全に封鎖して完全に物流と外部からの補給を遮断した。レニングラードのロシア軍だけでなく市民までも困窮に追い込まれた。
 レニングラードの厳寒の気候の上に、飢餓と栄養失調から伝染病などにより、特に弱者である幼児が死亡した。ロシア人の母親は、死亡した我が子を、お棺に葬るために幼児を布に包んだ。その子どもを見ては苦悩して慟哭しながらお棺を土中に埋葬した。
 1942年8月までに約120万人が死亡して、1942年2月と3月に死亡率が最高となり、各1月間に約10万人が死亡した。ソ連の検閲が厳しく恣意的に、3名以上の死者を示す写真は一切公開されなかった。封鎖中にロシアの秘密警察は、人間が人肉を食う食人欲であるカニバリズムで、約300人以上に死刑が執行して、約1,400人以上を投獄した。



2019年8月25日日曜日

チェチェン共和国のグロズヌイの戦いで、市街戦で戦死したロシア軍兵士の多数の死体が散乱した。

チェチェン共和国のグロズヌイの戦いにおいて、1996年8月12日に市街戦で戦死したロシア軍兵士の多数の死体が散乱した。その遺体を眺めながら、死体を検死した。グロズヌイは、ロシア連邦南部に位置するチェチェン共和国の首都である。
 チェチェン共和国が、1991年11月27日にロシアから独立を宣言する。エリツィン政権が武力制圧をした。共同第一次チェチェン紛争は、1994年12月から1995年2月にグロズヌイで激しい戦闘が勃発した。1995年6月に、山岳地帯にてゲリラ戦を展開したチェチェン軍が攻勢に出た。8月12日に、グロズヌイ東部のロシア内務省の空軍基地を襲撃した。チェチェン独立派が、グロズヌイを占領して、第一次チェチェン紛争は1996年8月31日にハサヴユルト協定で5年間の停戦を合意した。
 第二次チェチェン紛争は、1998年8月にウラジミール・プーチンがロシア首相代行に州にして指揮した。1999年8月にチェチェンのイスラム勢力が、隣国のタゲスタン共和国に侵攻した。それに対抗するロシア軍が1999年10月にグロズヌイを包囲し無差別にミサイル攻撃により、約140人が虐殺された。2002年にロシア軍が撤退しながら、追撃したチェチェン軍が地雷原で壊滅して、グロズヌイを占領した。第一次・第二次チェチェン紛争で、約100,000人も犠牲者が出た。第二次チェチェン紛争の以降に、イスラム原理主義者によるテロが過激化した。



2019年8月24日土曜日

日本人遺族らと厚生省がソ連の強制連行と労働による犠牲者の遺骨収集で、ソ連チタ州ドラビアンナでも約56柱が収集された。

日本人遺族らと厚生省が、ソ連において強制連行と強制労働の犠牲となった日本人の遺骨収集をした。埋葬地も極秘で発見と発掘が困難となるも、1990年10月のソ連のチタ州ドラビアンナだけでも、約56柱の遺骨が収集された。遺骨のDNA鑑定により、2010年までに約828柱が鑑別されて、遺族に返還された。
 ソ連軍は1945年8月9日に日ソ中立条約を破棄して、満州に侵攻した日ソ戦は8月15日に日本が全面降伏で終結した。しかし、満州に残された関東軍兵士や日本人捕虜は、貨車に詰め込まれて主に「シベリア抑留」された。ソ連領内の約854カ所の強制収容所などに強制連行と抑留して、強制労働を強要した。ソ連は、終戦後に満州と朝鮮半島などから強制連行した日本人兵士と民間市民を、ソ連領内の劣悪な環境下で強制労働させた。極寒の中で、食糧不足と栄養失調、懲罰と虐待から、膨大な日本人が死亡した。強制労働が困難となるほど、食糧を減らされて、さらに衰弱して死亡した。シベリア抑留により、日本人は約1割の約60,000人が死亡した。
 中国の満州を占領したソ連軍だけは、スターリンの命令で、日本人捕虜に対して強制労働を使役した。関東軍兵士から民間市民の日本人も男狩りでシベリアなどに強制連行された。抑留された地域と人数は、タイシェトからコムソモリス・ナ・アムーレのバム鉄道の建設に約150,000人、シベリア沿岸地方に約75,000人、ハバロフスク地方に約65,000人、チタ州に約40,000人、イルクーツク州に約50,000人、ブリヤード・モンゴル自治区に約16,000人、クラスノヤルスク地方に約20,000人、アルタイ地方に約14,000人、カザフ共和国に約50,000人、ウズベク共和国に約20,000人が強制連行された。推計では約575,000以上の日本人が連行された。アメリカ軍やイギリス軍は、戦争犯罪者を除いて、可及的に早期に日本に送還した。中国で捕虜になった大部分の日本軍兵士は、早期送還を措置された。しかし、一部は国共内戦に編入されて巻き込まれた。
  ソ連は、満州国から朝鮮半島まで占領して、北緯38度線を境に、北部をソ連占領区、南部をアメリカ占領区とした。ソ連軍は、終戦時には北緯38度以北で捕虜になった日本人兵士と民間市民を、強制連行した。終戦後の8月18日に、ソ連は千島列島にも侵攻して占領して、占守島と隣接する幌筵島に駐屯していた約23,000人も、ソ連領内で強制連行と強制労働させた。アメリカ軍のGHQ占領下の日本政府は、1945年11月からソ連の強制連行を、アメリカを通じて早期帰還を要求した。1946年5月に、ソ連の抑留に対して、強行な要請をしてから、次第に送還を応じた。12月8日の約5,000人から継続的に送還されて、最後の引揚船である興安丸が1956年12月26日に舞鶴港に入港して、約473,000人が帰還した。



2019年8月24日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 280,000回

2019年8月23日金曜日

北朝鮮兵士は、韓国軍とアメリカ軍の砲撃により崩壊した戦車の側で戦死して地面に死体が横たり散乱した。

多富洞の戦いは1950年8月13日から、北朝鮮軍兵士は倭館(Waegwan)の北にある韓国の仁洞(Indong)で、韓国軍とアメリカ軍の砲撃により崩壊した戦車の側で戦死して地面に死体が横たり腐敗して散乱した。食いつくされた牛馬の骨も散らばっていた。釜山の周囲数10kmに守りを固めた国連軍に対して、北朝鮮軍が多富洞の谷間村に攻勢を集中させた。韓国軍が突撃と逆襲をして、形勢を挽回して、北朝鮮軍の攻勢を止めた。
 朝鮮戦争における総犠牲者数の推定はさまざまである。1つは500万人としています。そのうち120万人強が19か国から送られた兵士でした。韓国軍では約217,000人、北朝鮮軍は約406,000人、中国軍は約60万人、アメリカ軍は約36,000人が含まれる。その他の約300万人以上は民間市民であり、総計で約500万人にも達する。朝鮮戦争における戦闘だけでなく国境の両側での大虐殺により、犠牲者数は、朝鮮半島の戦前人口の約10%に達した。北朝鮮の死傷者数は人口の約12%から約15%であると推定された。
 朝鮮戦争は、北朝鮮軍が1950年6月25日に突如に南部に侵攻して勃発した。数十年にわたる日本軍の占領の後に、朝鮮半島は第2次世界大戦の終戦時に、連合軍によって2つに分割された。アメリカと韓国に対抗するソビエトや中国と北朝鮮が終戦後の数年間にわたって深い分裂が生じて、小競り合から、1950年6月25日に北朝鮮軍の突然の侵攻に至った。国際連合は21か国から軍隊の派遣と援軍の支援をして、主にアメリカ軍とイギリス軍が韓国軍を支援した。朝鮮戦争は約3年間も継続して、双方に大きな進撃と撤退を伴って、膨大な犠牲者が出た。約200万人を超える朝鮮半島の民間市民が命を落とし、17か国から約200万人近くの兵士が殺さた。朝鮮戦争は停戦で終結したため、韓国と北朝鮮はまだ戦争状態にある。



2019年8月22日木曜日

フランスは、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で水中の核実験を実施した。

フランスが、1995年9月5日から1996年1月27日までに、6回もの太平洋の環礁核実験を再開した。初回の9月5日は、南太平洋のフランス領のポリネシア・ムルロア環礁で核実験を実施した。核実験をした直後に、広大な海面が白濁した。「包括的核実験禁止条約(CTBT)」の無期限延長が5月11日に締結された。ところが、6月13日には、フランスが核実験を再開することを公表した。
 1963年8月5日に部分的核実験禁止条約(PTBT)で、地下を除く大気圏・宇宙空間・水中の核兵器の核実験を禁止した。すべての核実験を禁止するために、1994年1月からジュネーヴ軍縮会議の核実験禁止特別委員会で協議されていた。1995年5月11日に、核保有国5カ国であるアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国の以外の国家が、核兵器の核実験を禁じた包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期する文書案が提案された。1996年9月10日に、国連総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)を無期限に延期を採択して、締結した核保有国はできる限り自制することが圧倒的多数で決まった。しかし、国連の採択において、インド・ブータン・リビア反対して、キューバ・シリア・レバノン・タンザニア・モーリシャスは棄権した。CTBTの発効には、特定の44カ国の全ての批准が必要であるが、未発効のままである。署名済みで未批准は、アメリカ・中国・エジプト・イラン・イスラエル、未署名。未批准は、北朝鮮・インド・パキスタンである。一部の発効要件国の署名と批准がされず、CTBT条約は未発効のままである。
 CTBTの概要は、(1)宇宙空間,大気圏内,水中,地下を含むあらゆる空間における核兵器の実験的爆発及び他の核爆発を禁止する。(2)この条約の趣旨及び目的を達成し,この条約の規定の実施を確保する等のため,包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)を設立する。(3)条約の遵守について検証するために,国際監視制度,現地査察,信頼醸成措置等から成る検証制度を設ける。 


2019年8月21日水曜日

沖縄戦での戦没者の遺骨が、埋没した壕の鍾乳洞から清い水底に青白くが浮かんでいた。

沖縄戦争にて特に激戦となった南部の野山には、多数の戦没者の遺骨が埋没した壕(ガマ)がある。終戦後67周年の2012年6月18日に沖縄糸満市大里の高嶺小学校の壕を探索した。壕の入口は、塞がれて狭小となって、その奥には鍾乳洞になっていた。その鍾乳洞から落ちる水で清らかな小川となっていた。懐中電灯で照らすと、清い水底に青白い骸骨が浮かんでいるのが探索された。その他に周囲には、破損して腐った軍靴も散乱していた。当日だけで、数十人の遺骨が探索された。回収した遺骨は、2011年8月1日に開設された沖縄平和祈念財団の戦没者遺骨収集センターに送致された。
  日本本土として初めての沖縄戦において犠牲になった戦死者数は、日本は日本軍兵士と沖縄市民で約188,136人に昇った。アメリカ軍兵士は、約180,000人も動員して、約12,520に達した。日本人の戦死者の多数の死体は散乱して埋没していた。その遺骨数は約188,136人柱と想定されて、2019年までに回収された遺骨の人柱数は約188,136人柱であり、未回収の遺骨は約2,850人柱で、野山や塹壕などに依然として埋没している。


2019年8月20日火曜日

日本憲兵警察本部では、笞打ちの虐待をする笞刑さらに銃台での拳打、天井吊、指間脱などの拷問を朝鮮人に執行した。

1919年3月1日にソウルのパゴダ公園で日本帝国による1910年8月日の韓国併合に対抗する独立宣言により三・一運動が勃発した。総督府の警察隊により鎮圧されるも、朝鮮半島に抗日運動が拡大した。4月1日には朝鮮の天安郡木川に、その他清州、鎮川、成歓など6郡から朝鮮文化である黒冠白衣の約3千人の市民が集合した。太極旗を打ち立てて、16歳の柳寛順が独立宣言の演説を挙行した。約3千人の朝鮮人が突進して、日本帝国の憲兵隊と衝突した。憲兵分遣隊前からの無差別の銃殺と刺殺で、流血の惨劇となった並川事件が勃発した。虐殺により、新たな朝鮮人市民の怒号から報復をして、憲兵分遣隊前は大混乱と修羅場に陥った。少なくとも血まみれの約19人の死体が散乱した。
 徒手の空拳のみの朝鮮人市民は、憲兵隊により一掃された。4月1日の夕方から市民参加者の数百人を逮捕されて、憲兵警察本部に連行された。憲兵警察本部では、笞打ちの虐待をする笞刑(添付)さらに銃台での拳打、天井吊、指間脱などの拷問を執行された。独立宣言運動の首謀者を割り出すために、過酷な自白を強要した。16歳の柳寛順は、自らを主謀者を名乗って、獄中の闘争をして、軍事裁判で3年の懲役を宣告された。上告して、ソウルの復審法院に送致されて、逆に5年に延長する懲役を宣告された。西門刑務所での長期にわたる留置と虐待などにより、次第に衰弱して刑期をわずか2日残して1920年9月28日に獄死した。石油箱に入った17歳の少女の死体は、梨泰院の共同墓地に埋葬されて、朝鮮独立宣言のジャンヌ・ダルくの象徴となった。本植民地政府は、より寛大な政治的統制の実施に追い込まれた。



2019年8月19日月曜日

イスラエル軍による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑で銃殺された。

イスラエル軍兵士による即決裁判で、5人のパレスチナ人警察官が死刑に処刑されて銃殺された。ラマラ中心部の6階建ビルで、警察に扮したパレスチナ人の5人の武装集団が銃撃戦で死亡したと報じた(AP通信2002年3月30日)。
 イスラエル軍が、2002年3月29日から4月18日にかけて、イスラエル軍がジェノンをはじめとするパレスチナ人居住区に侵攻し、おびただしい数の市民を殺害した。ガザ地区とヨルダン河西地域での大量虐殺に対する国際的批判が沈静化すると、イスラエルは小規模のジェノサイド(大量虐殺)政策に戻った。パレスチナ人は、人間以下の「アマレク(聖書出エジプト記でイスラエル人を襲った永遠の敵)」として、虐殺が継続して、シオニスト(ユダヤ民族主義者)の供物となった。ナチス・ドイツによるホロコースト(大量虐殺)から、ユダヤ人国家の擁護と安全のために、パレスチナ人のホロコーストを正当化した。
 2002年3月6日から16日までにラマラなどで、約200人以上のパレスチナ人がイスラエルのパレスチナ占領軍によって虐殺された。3月8日だけで40人が虐殺された。ラマでは、15歳から45歳までの男性を尋問のために集合された。約500が連行されて、拷問を受ける虐待あるいは約150人が虐殺された。イスラエル軍はラマラを閉鎖軍事区域に指定して虐待と虐殺は隠蔽した。4月2日にベツレヘムのキリスト教生誕教会周辺で、イスラエル軍のヘリコプターが襲撃して約10人パレスチナ人をテロリストとして虐殺した。ベツレヘムでは救急車が侵入を阻止されて犠牲者が増大した。4月6日に、ジェノン北部を攻撃して、約30人のパレスチナ市民が虐殺された。4月10日に、イスラエル軍は、ジェニンとナブルスの難民キャンプが襲撃して、約1,000人が虐殺した。報道機関がイスラエル軍による検問を強制されて、閉鎖軍事区域を拡大して、パレスチナ市民に対する集団虐殺は隠蔽された。ジュネーブ条約では、軍事行動が一般市民を巻き込むことを厳しく禁止している。



日本平和の市民連盟
2019年8月20日にBloggerの投稿数は1,100回に達した。

2019年8月18日日曜日

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線により、男性は露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。

広島原子爆弾の炸裂から放射された激烈な熱線を爆心地から約500mで被爆した。露出していた後頭部から背部にかけて重度の熱傷を被爆した。救護所に護送されて、1945年8月中旬にうつ伏せにのままに男性は苦痛に耐えていた。
 原子爆弾は非常に短時間で途方もない熱線を放出し、被爆者は甚大な熱傷を被爆した。爆心地から地面に到達した熱は、1平方センチメートルあたり約100カロリーと推定されて、爆心地から1 km以内で露出して、その熱線を直接に被爆した被爆者は、5度以上の熱傷を被爆した。爆心地から3.kmまでは、1度から4度の範囲の熱傷を被爆した。
 原子爆弾が炸裂して放射された直後のすさまじい高熱は、身体の皮膚などに最重度の熱傷を被爆した。爆心地からの距離が近いほど熱傷は重度になった。重度になると皮膚は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下組織や骨までが露出した。約1.2km以内では熱線は致命的な殺傷となった。爆心地付近では、一瞬のうちに身体が炭化して、水分さえ蒸発した。地上を襲った熱線による瞬間的な熱傷が、被爆死亡者の死因の約3割となった。



2019年8月17日土曜日

イギリス連合軍の兵士らが、インパール作戦にて手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。

大東亜戦争におけるインド(現在はミャンマー)のインパールからビルマまで約470kmも敗退する日本軍兵士は、途中で力尽きて自爆した死体が散乱していた。イギリス連合軍の兵士らが、手榴弾で自爆した日本軍兵士の死体を検死した。腐敗して強烈な悪臭が漂う死体には、蛆虫、アブ、蝿、蟻、山蛭などが群がった。
 大東亜戦争の劣勢により、イギリス軍らの連合軍のインドからの進撃に対して、1944年3月8日から日本軍がビルマとインドの国境のインパールを最も無謀に攻略した。約10万人もの日本軍兵士は、約3週間の食糧と弾薬だけで補給もなくインパールに進撃した。約4カ月間もの戦闘に、7月8日から8月12日まで激しいビルマの雨期に約2,000m級のアラカン山系の泥沼を乗り越えた。チンドウィン河に沿った敗走路である「白骨街道」には、甚大な犠牲を伴う悲惨な死体の山が散乱した。イギリス連合軍からの爆撃の上に、熱帯の炎暑と猛烈な豪雨により、日本軍は食糧も弾薬も尽きて、やせ衰えて栄養失調や伝染病で次々に戦死した。撤退中にビルマの農村部は食糧を略奪して、弱肉強食されて荒廃した。
 インパール付近の4月5日コマヒ基地を占領するも、6月1日には遂に日本陸軍初として上官の命令に従わずに撤退する抗命事件が勃発した。ビルマ方面の日本軍兵士は約33万人のうち、生還者は約13万人で、約20万人が戦死して行方不明となった。1945年3月にビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始して、日本はビルマを失った。日本軍への反撃を指揮したのが、「ビルマ建国の父」のアウンサンであり、娘のアウンサー・スー・チーが後にミャンマーの国家顧問を務めた。



2019年8月16日金曜日

東京大空襲で丸焦げして炭素化した死体を、証拠品などから身内を見出して悲嘆した。

東京大空襲によって、ほんど見分けがつかないほど、死体は丸焦げして炭素化した。証拠品となる入歯などから身内を見出しては悲嘆した。吹き飛ばされた建物や破片が散乱して、被爆市民が逃げ惑った。空襲による大火災と噴煙が充満して犠牲者が甚大となった。空襲を受けた市民の恐怖、家族の喪失感や悲嘆に暮れた。市民らは長い棒を突き刺しながら、瓦礫の山に埋もれた死体を探索した。大勢の市民は、空襲で火災した住宅を取り囲み見守るしかできなかった。瓦礫の下で人体が破壊されて、衣服は散乱して焼き焦げた。戦時下の厳しい情報統制により、空襲の実態は市民には極秘にされた。
 東京大空襲により、1945年3月10日が最も無差別に東京の都心や下町が爆破されて、最悪に約10万人に及ぶ市民が戦死した。アメリカ軍のB-29大型爆撃機による市民に対する無差別攻撃の大空襲は、最初の1944年11月24日から終戦の直前まで約100回以上に昇った。海上の空母から発進したB-25による小規模な空襲は、1942年4月に勃発していた。アメリカ軍による大空襲は軍事施設地点だけでなく、市街地域を爆撃の目標とした。11月24日は、B-29の24機体が中島飛行機製作所に約50トン、B-29の64機体は市街地に約3倍もの約150トンの爆弾を投下した。最初の東京空襲から市民への広範囲にわたる無差別爆撃が指令された。市街地への無差別空襲を実施すれば名誉の功績となった。太平洋戦争が勃発する直前の1944年11月に、アメリカ軍の司令部は、焼夷弾による都市焼き払いを構想していた。焼夷弾は、ゼリー状のガソリンを付着させて、消火は困難となり、火力の威力は拡大した。対ドイツ戦では、特定地点を精密爆撃して、対日本戦では都市全体を焼き尽くした。真珠湾の恨みを晴らすために参戦したアメリカ軍は大空襲で日本を復讐した。B-29大型爆撃機は、約5,000kmの飛行距離と約10,000mもの高度を飛行した太平洋戦争に集中して空爆した。



2019年8月15日木曜日

硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、日本軍兵士が手榴弾で上半身を爆破して自殺した。

太平洋戦争にて、1945年2月19日から3月26日までの硫黄島の戦いは、日本軍とアメリカ軍ともに凄絶で苛烈な戦闘となった。日本軍兵士は水分の極度の不足と身体的苦痛を患いながら、生と死の間を彷徨した。地熱と硫黄の臭気がたちこめる洞窟の中で、地中潜伏を強制されて、死へ追いつめられた。硫黄島の元山第2飛行場の南東端にて、1945年2月に日本軍兵士が手榴弾で自決した。左胸部から腹部が破裂した内蔵と左上肢が吹き飛ばされて硫黄島の砂上に散乱した。
 小さな孤島である硫黄島にて持久戦から玉砕戦までが混在して、双方ともに膨大で悲惨な犠牲を伴った。日本軍の約20,933人は、全く硫黄島に孤立した。日本軍は約19,900が戦死して、約1,032人が戦傷した。アメリカ軍は、艦艇は約800隻、航空機は約4,000機、上陸部隊の総数は約111,000人など総兵力は約250,000人も参戦した。アメリカ軍の戦死傷者は約28,686人に昇り、戦闘は36日間にも及んだ。アメリカ軍は、戦死者約6,821人、戦傷者は約21,865人、総計約28,688人で、日本軍よりも総計で約7,753人も上回った。わずか20平方kmの孤島にアメリカ軍は、艦砲射撃約14,250トン以上、投下爆弾約8,360トン以上に及ぶ砲爆撃を加え、上陸からも約450,156発の砲弾を発射して、戦禍を及ぼした。
 日本大本営は、いずれアメリカ軍の攻勢によって、硫黄島は占領されると推定していた。アメリカ軍は硫黄島の占領により、日本本土を爆撃して被弾したB29を約2,400機と総搭乗員の約27,000人を救出した。硫黄島から戦闘機を直接に日本本土に向けて大規模な爆撃により、無差別に市民も空襲に巻き込んだ。
 太平洋戦争の終戦後には、硫黄島は日米間の防衛基地に変貌した。海上自衛隊が硫黄島を管理して、防衛庁は1979年度から硫黄島を自衛隊の防衛基地化した。現在ではアメリカ合衆国と結んで、再び日本の防衛軍事基地として活用された。日本大本営の防衛にとって重要な軍事基地を演じた硫黄島が、戦後になっても、同様に再び軍事の重要性ために軍事基地に復興された。


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2019年8月15日 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 270,000回