2019年4月17日水曜日

硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊員の死体が砂浜に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍により狙撃で頭部を撃ち抜かれたアメリカ軍海兵隊第4師団の兵士の死体が砂浜に横たわった。アメリカ軍と日本軍との猛烈な射撃の縦断の飛び交う中で、上陸して銃撃を避ける場所のない浜辺の上で、日本軍からの弾丸はアメリカ軍の兵士のヘルメットを突き抜けて頭部を貫通して粉砕した。どこからも飛んでくる銃弾や砲弾にアメリカ軍海兵隊員は膨大な戦死傷の犠牲に恐怖して大混乱となった。
 サイパンを出撃したアメリカ軍兵士約25万人と艦艇約600隻が硫黄島の戦いに参戦した。1945年2月16日から空母艦載機の空襲と艦艇の砲撃をした。2月19日の午前9時2分に、アメリカ軍海兵隊の最初の部隊が上陸を開始した。上陸した海兵隊が海岸を埋めつくすと同時に、日本軍からの猛烈な砲火と銃撃が海兵隊員を襲った。海岸はみるみるアメリカ軍の海兵隊員の死体の山となった。上陸から初日のアメリカ軍の損害は第2次世界大戦でもでも最大の犠牲を伴った。
 硫黄島の戦いでは、1945年2月19日から3月26日まで、アメリカ軍の海兵隊員にとって、かつてない極めて悲惨で犠牲の多い戦闘になった。上陸した最初の50時間だけで、海兵隊の戦死傷者は約3,000人以上に達した。上陸してからわずか5日間に、毎日平均約1,200人以上の戦死傷者の犠牲を伴った。上陸した海兵隊員の約3人に1人が戦死傷者に陥った。アメリカ陸軍と海軍兵士の約7,000人が戦死して、約20,000人が戦傷に上った。
 市丸海軍少将から『ルーズベルトに与ふる書』を残して 「あなたの行動から判断すると、有色人種を犠牲にして白人種、特にあなたのアングロサクソン人が世界の果実を独占しています。
  この目的を達成するために、数え切れないほどの黄色人種を奴隷にして、そして最後にそれらをどんな強さからも奪うために使われました。あなたの帝国主義に対する報復として、日本はあなたの懲罰的な絆から東洋諸国を解放しようとしました。あなたは今、あなたのかつての友好的な日本を、あなたの甘美な計画では、絶滅させなければならないたくさんの野蛮人である有害な存在と考えています。この大東亜戦争の終結は、東アジア共同繁栄地域の誕生をもたらします。もちろん、あなたの果てしない帝国主義によって妨げられないのであれば、近い将来、世界の永遠の平和をもたらすでしょう。
 なぜ、あなた、すでに繁栄している国は、東洋の抑圧された国々の自由のための運動を掴むのです。東洋に属するのは東洋に戻ることに他なりません。」と地球平和を託した。




2019年4月16日火曜日

ガイアナの人民寺院で912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。

ガイアナの人民寺院にて1978年11月18日に、912人もの信者が教祖ジョーンズの自殺信仰により大虐殺された。何百人の信者が毒をあおり、苦悶しながら自殺させられた。信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児には注射をし、逃亡者は銃殺した。
 教祖ジェイムス・ウォレン・ジョーンズは、1960年代に貧しいゲット―のかなりの黒人たちの信者を抱えた。ジョーンズの人民寺院が1960年代初頭に急成長した。1962年のキューバ危機から、人類滅亡の神のお告げを告げた。生き残るためとカリフォルニア州ユキアに1965年に人民寺院を移転した。この世は唯一の地獄と布教して、被害妄想と迫害体験から精神が狂気となった。
 急増する脱会者を最も恐れて、1977年に約1000人もの信者を南米のガイアナに移転した。死の殉教者として革命的自殺と狂信させた。脱会者には虐待と虐殺した。1978年11月14日に世間の要請を受けたレオ・ライアン下院議員が人民寺院を視察した。脱会希望者が救いを願い出て、ジョーンズの指令を受けた刺客と武装組織が、脱会者から議員や記者までも銃撃と銃殺した。
 狂気のジョーンズは、信者たちにシアン毒物を飲ませ、幼児は注射をして、逃亡者は銃殺した。すべての信者が死滅してから、ジョーンズは銃で頭を撃ち自決した。ガイアナの大虐殺はジョーンズの無理心中であり、大量殺戮となった。常軌を逸した教祖が現世に存在する以上、このような惨劇から大虐待と大虐殺は繰り返されるだろう。


2019年4月15日月曜日

ベトナム人少女はアメリカ軍からのボール弾を全身に被爆して、剛球が組織の深部に達して食い込み、身体を移動して激痛を伴った。

アメリカ軍は、ベトナム戦争において、第2次世界大戦に投下した爆弾の約2.5倍の約1,700万トンも空爆した。アメリカ軍は高度に広範囲に重度に殺傷する先端兵器をベトナム戦争で駆使した。ベトナム人少女は、アメリカ軍からのボール弾を全身に被爆した。ボール状の剛球は、身体組織の深部に達して食い込んだ。剛球は身体組織内を移動して激痛を伴った。多数の剛球を、手術などで取り出すことは非常に困難であった。
 ボール爆弾は、アメリカ軍がベトナム戦争のために開発した散弾型爆弾である。爆心地の周囲の多数の人間を一挙に殺傷する無差別殺人兵器である。長さ約2.1mの紡錘形の親爆弾が、時限信管のセットに応じて空中で破裂する。ボール状の子爆弾が約300~600個が破裂して、子爆弾の安全装置がはずれて爆発する。詰めた孫爆弾のパチンコ玉のような小鋼球(直径約5.6mm)の約280~300個が,秒速約510mの速さで飛散する。1発の親爆弾の散布界は,幅約300~350m,長さ約800~1000mの楕円形で,そこに9万~18万個の鋼球が飛び散る。
 ボール弾は、爆弾の中の多数の小爆弾が、爆発とともにそれが四方八方に飛び散る。ボール爆弾は地面に衝撃すると、中に装備した約600個の小爆弾が飛び散り、小ボール爆弾からさらに小鉄片の多数が人体内を貫き殺傷する。散弾爆弾やクラスター爆弾の一種である。パイナップル爆弾は、落下に方向性をもたせる羽根をパイナップル状につけている。1968年頃より、軍事施設の破壊よりは、もっぱら無差別な殺傷のために、非人道的に多数の市民が犠牲になった。その形がベトナムの「オイ」という果物に似て、ボール弾を「クワ・オイ」と呼ばれた。
その他に、ナパーム弾はゼリー状のガソリンの混合物の爆弾としてベトナムに投下した。第2次世界大戦中に日本への焼夷弾として開発して空爆した。ナパームは非常に高温で燃焼し、燃焼または窒息などによって殺害した。クラスター爆弾は、小さな爆弾を含み、小さな弾薬で殺傷の効果を高めた。特にラオスで、ベトナム戦時中の空爆作戦中に多用された。戦争の間にラオスの上で合計約58万回の爆撃で、約250万トン以上のクラスター爆弾を投下した。アメリカ軍は、ベトナムの隣国のラオスに、人口1人あたり最多の爆撃をした。ベトナム戦争中に、クラスター爆弾、ナパーム弾、対人地雷、その他甚大な爆弾に兵器が投下された。小さな爆弾の多くはすぐには爆発せず、今もラオスの地中に致命的な脅威のままで残存している。



2019年4月14日日曜日

イスラエル軍が殺害して焼けただれたハマス幹部の死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが燃えた車から引き出した。

イスラエル軍の武装ヘリが、2004年にパレスチナのガザ地区で、ハマスの指導者らの同乗した車に向けてミサイル数発を発射して直撃した。ハマスの幹部が殺害されて焼けただれた死体を,ガザ地区のパレスチナ人らが車から引き出した。自治政府(PLO)はハマスの武器密輸を摘発したが、イスラエルは摘発では不十分として暗殺を2004年に再開した。PLOはパレスチナ人からも反発され、弱体化したPLOに代わりハマスがイスラエルの武力闘争を主導した。
 イスラエル軍は2004年3月22日にイスラム過激派組織であるハマスの最高指導者ヤシン師をミサイル攻撃で殺害した。国家暗殺による相次ぐパレスチナ指導者の殺害が激しい反発を招いた。アナン国連事務総長は、違法な殺害行為と批判した。間もなくイスラエル軍は2004年4月17日に、パレスチナ自治区ガザで、次の最高指導者となったアブデルアジズ・ランティシと同乗の3人の自動車を武装ヘリからミサイル攻撃して殺害した。4月18日にガザ地区で約10万人のパレスチナ人による葬儀が行われ、ハマスは100倍の報復を宣言した。4月19日にエルサレムにてバスの自爆テロで約21人が殺害された。イスラエル政府と軍は、ハマス壊滅のために全ハマス幹部の殺害を表明した。2002年から2008年5月の間には、イスラエル人による約324人の標的殺害で、少なくとも約387人のパレスチナ人が死亡した。
 ハマス(Hamas)は、パレスチナのイスラム原理主義過激派組織である。ハマスは「イスラム抵抗運動(Harakat AL-Mugawama AL-Islamia)」の頭文字である。1987年12月のイスラエル軍事占領に反対する市民蜂起であるインティファーダから、イスラム復古勢力のムスリム同胞団を母体に創設された。軍事部門であるカッサム旅団は、自爆テロを含む武力行動を展開する一方で、パレスチナ市民の救援や貧困救済などでも支持を得た。


【閲覧留意】

2019年4月13日土曜日

ベルガ強制収容所から労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が発掘された。

ベルガ強制収容所から南方のテーペンの路上から、労働による絶滅されたアメリカ人捕虜の死体が、1945年6月11日に発掘された。衰弱した囚人は強制死行進するほど死亡率が急増した。 
 ベルガ強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の分屯基地であった。強制労働者は、ブーヘンヴァルト強制収容所とスタラーグIX-Bの捕虜収容所から供給された。 捕虜に対して、第3回ジュネーブ条約とハーグ条約の規定に違反した。約73人のアメリカ人捕虜を含む多くの囚人が、栄養失調、病気、殴打などで死亡した。 強制労働収容所では、水素化により褐炭を軍用の燃料に変える秘密計画の一部を実施した。その他の目的は「労働による絶滅」もあった。囚人を非人道的な労働条件と生活条件下で、故意的に飢餓に苦しませて餓死するように強制労働させた。二次的な労働による絶滅の目的で、連合軍が侵攻して戦争が終結する直前まで、捕虜に強制死行進を強要した。
 捕虜は強制収容所の囚人と一緒に働き、地下弾薬工場のために17本の地下トンネルを掘った。栄養失調、病気、そして殴打の結果、約47人の囚人が死亡した。アメリカ軍当局はその事実を認めなかった。1945年4月4日まで生き残った約300人のアメリカ人捕虜が、アメリカ軍が侵攻する前に収容所から追い出された。2週間半もの強制死行進後に解放されたが、行進の間にさらに約36人のアメリカ人捕虜が死亡していた。
 ベルガ捕虜収容所は、ドイツ国防軍のアーウィン・メッツが統括して、非人道的に死刑執行人を捕虜にするよう命じた。連合軍が撤退したドイツ軍を封鎖した時に、自転車で逃げたメッツを、生存したベルガの囚人は捕らえた。1945年3月14日に捕虜がアメリカ軍によって解放された数日後に逮捕されて、アメリカ軍の野戦砲兵の殺害に対して死刑判決が下された。しかし、アメリカの政治情勢と冷戦の幕開けの中で、ソビエトに対して西ヨーロッパを守るアメリカの戦争省が優先順位を変更した。多くのドイツの戦争犯罪者の情報が、ソビエトに流れる可能性を恐れた。メッツは20年の禁固刑に減刑されて、結局は9年間の刑期だけで釈放された。



2019年4月12日金曜日

南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。

アメリカ南北戦争において、1864年5月9日から18日まで北軍と南軍がスポットシルヴァニアの戦いが勃発した。南軍の塹壕陣地に対する北軍の白兵戦の突撃で、殺害された南軍兵士の死体が倒れて仰向けになった。スポットシルヴァニアの戦いで、北軍は約10万人中に戦死者は約2,725人に、戦傷者は約1,034人に達した、南軍は約5万2000人中に戦死者は約1,467人に、戦傷者は約6,235人も犠牲となった。
 1963年5月のビックスバーグ、そして1863年7月のゲティスバーグにおける北軍の侵略は、南北戦争の転換点となった。その後も1年半以上にわたって激しい流血を伴う戦いが全面的に継続した。1864年5月に北軍はバージニア州内に深く進軍して、スポットシルバニアの付近における荒野の戦いで、南軍との間で3日間にわたる戦闘により、両軍ともに多大な犠牲を伴った。北軍はさらなる侵攻に執着して、その直後の2日後にはスポットシルバニアの戦いで、ほぼ1年間に及んだ東部戦線での戦いを集結するような5日間にわたる激しい塹壕戦が行われた。
 戦闘は激しいままに、北南軍の強力な武器により、地表が平らになり、兵士たちは塹壕から飛び出しては白兵突撃を繰り返して犠牲になった。南軍の塹壕の突出部であるミュール・シューの地域である「ブラッディ・アングル」に対して、北軍が白兵戦争で突撃して南軍が打ち砕かれた。5月13日には南軍が新たな塹壕に撤退して、北軍の侵攻は効果もなくなり18日には無益な停戦となった。近代戦における白兵戦は、最終的な銃撃後の突撃や、塹壕内における戦闘に伴った。歩兵の主力銃が装填間隔の長さから、至近距離で複数の敵と銃で渡り合えない限界を、銃剣、ナイフ、棍棒や格闘などで殺傷した。



2019年4月11日木曜日

日本軍兵士は全員死亡するために、バンザイ突撃だけでなく、狙撃銃をのどに当て足趾で引き金を引いて自射した。

アメリカ軍の膨大で圧倒的な武力で、エニウェトク環礁の日本軍兵士は刀折れ矢もつきた。日本軍兵士は全員が死亡する玉砕をした。バンザイ突撃して戦死するだけでなく、日本刀で切腹、狙撃銃をのどに当て、足趾で引き金を引いて自決した。
 1944年2月20日にエニウェトク環礁にアメリカ軍歩兵が上陸を開始した。上陸から3時間後に日本軍からの反撃で一時的に進撃が頓挫した。後援の海兵連隊が派遣されて、再び侵攻を盛り返した。2月21日から23日午後まで、散発的な抵抗を受け続けた。日本軍兵士による2月21日早朝と午後に突撃するバンザイ突撃が、エニウェトク島における最後の軍事的抵抗となった。日本軍約3,560人の犠牲者は、捕虜以外は全員が死亡した。アメリカ軍約10,376人の犠牲者は、戦死と行方不明は約195名、戦傷者は約521名に達した。


【閲覧留意】

 世界初の水素爆弾の実験が、1952年10月31日にマーシャル諸島のエニウェトク環礁で強行された。中部太平洋のマーシャル諸島にあるエニウェトク環礁では、アメリカにより約44回もの核実験が実施された。水素爆発の爆発規模のTNT火薬の総量では約3万3千キロトン、広島原子爆弾の約16キロトンの約2,000発分を上回った。日本のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日の水素爆弾から被曝したビキニ環礁の約23回より多かった。エニウェトク環礁は無人環礁となり、地球原爆化から地球水爆化による地球撲滅にむけた実験地点となった。

2019年4月10日水曜日

アフガニスタンのタガブの戦闘で、銃殺されたソ連軍兵士の武器と武装具は剥ぎ取られ死体は山岳地帯に放置された。

アフガニスタンの首都カブールの北東約60kmのタガブの戦闘で、ソ連軍兵士が銃殺された胸に弾痕があった。銃殺されたソ連兵士から武器と武装具は、剥ぎ取られて死体は山岳地帯に放置された。その死体の周りに多数のイスラム聖戦士が取り囲んだ。
 アフガニスタンは山岳地帯が延々と続き、ソ連の戦車や装甲車は険しい山岳地帯の侵入は困難となった。ゲリラ訓練を受けたアフガニスタン兵は、劣悪な気候でも動き回り、地形をよく熟知したパルチザン戦で、狭い渓谷の道路を進むソ連軍の機動部隊を山岳地帯から待ち伏せ攻撃した。追撃するソ連軍に対しては、地雷源で立ち往生した部隊を襲撃した。1979年12月からのソ連のアフガニスタン侵攻は、1989年2月25日の撤退までにアフガニスタン戦争に約62万人の兵力を投入し、死亡者数は病死を含めて約1万4500人と戦傷者は約5万人にものぼった。
 1989年2月のソ連軍の撤退しても、アフガニスタンは混迷を深めた。ソ連に抵抗したイスラム聖戦士のムジャヒディンの主導権争いで内戦状態に突入した。1994年にイスラム神学校のマドラサの学生らがタリバンを結成して、政権を樹立した。2001年のアメリカ同時テロを契機としたアフガン戦争が勃発した。2002年6月にはボン合意に基づき、暫定政権議長を大統領とする移行政権が成立した。2014年末に国連治安部隊(ISAF)からアフガニスタン治安部隊に治安権限が委譲され,2015年からアフガニスタン政府が治安に責任を負った。ロシアは反タリバンから一転して、2015年頃からイスラム教スンニ派過激組織であるイスラム国(IS)の抑止にタリバンを支援している。


https://drive.google.com/file/d/1LfVfQIAx9ss6nBrkptMUIaBuyJMLPRlT/view?usp=sharing

2019年4月9日火曜日

バングラディッシュ独立戦争にて、若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。

バングラディッシュにおいて、1971年11月に若いバングラディシュ人が拷問されて虐殺された死体が野原に捨てられた。死体はバラバラに削られて、肉塊が投げられた。バングラデシュ独立戦争において、独立を阻止するべく西パキスタン軍に加えて過激なイスラム政治団体などが、独立運動家だけでなく、知識人やヒンドゥー教徒らも標的として、約100万人以上も殺戮を繰り返した。
 1947年8月14日にインド・パキスタン分離独立により、約1600mほど離れたウルドゥ語の西パキスタンとベンガル語の東パキスタンとが、イスラム教を基盤に統合独立した。東ベンガル州として独立して、1955年に東パキスタンと改称された。ベンガル語でベンガル人の国を、バングラディッシュと呼称した。東パキスタンで1970年12月に初めての普通選挙で、第1党は東パキスタンを基盤とするアワミ連盟、第2党は西パキスタンの人民党が選出された。
 軍事政権が1971年3月1日に国会の無期限停止の宣告に対して、抗議デモが連日に勃発した。各地で、東パキスタン軍隊とデモ隊とが衝突した内戦となり、多数の死者が発生した。ついに3月25日から軍隊は、独立支持勢力だけだなく無差別にベンガル人に対する虐待と虐殺を執行した。5月にはパキスタンは独立派を制圧して、 さらに東パキスタン内の反独立派(パキスタン支持派)によるベンガル人の大量虐殺が行われて、大量の難民がインドに逃避した。それを口実にインドが軍事介入して、東パキスタンの市民や学生らは解放軍を結成して内戦に陥った。12月3日にインドは東パキスタンに侵攻して、第3次インド・パキスタン戦争が勃発した。12月16日に東パキスタン政府軍が降伏して、ベンガル民族を基盤にバングラディッシュとして分離独立した。
 1975年8月15日にバングラディッシュ軍は大統領を暗殺し、連発するクーデターで政権を掌握した。軍事支配は、バングラデシュ市民を再び抑圧して、市民の言論の自由は奪われた。市民が多くの犠牲を払い、バングラディシュの解放・独立へ共に戦ったことは、次第に無視され忘却された。


https://drive.google.com/file/d/1SdFiiPVVfPDgz_PIQPeTdQ33Fti78i1s/view?usp=sharing
【閲覧留意】『第3回人間とは何か? 世界写真展 明日はあるか』Fig 46, 松屋、1975年

2019年4月9日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 210,000回

2019年4月8日月曜日

ロシア赤軍と白軍の内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。

ロシア社会労働党の多数派であるボリシェビキが1917年に武力革命により、反革命軍である白軍に対する内戦が勃発した。内戦は白軍勢力の崩壊をもって、1922年まで散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。内戦による粛清、飢餓、集団化で約6,600万人もの犠牲者を出した。
 「国際婦人デー」の1917年3月8日に首都ペトログラードの婦人労働者が、パン不足に抗議するデモを決行して全国的なゼネストへ発展した。更に3月12日には兵士達が反乱を起こし「三月革命」が勃発した。革命運動は各地に波及し、ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝は崩壊した。
 革命後の政権は戦争継続を主張するブルジョワジーと革命勢力である「ソビエト」の二重権力体制に移行した。7月3日にボリシェビキの武装デモが、臨時政府軍隊により制圧された。帝政復活を目指すロシア軍事最高司令官が8月27日に臨時政府への反乱を起こし、ボリシェビキとソビエトが阻止した。ボリシェビキは11月クーデター決行し、共産党による恐るべき大粛清と武装蜂起により新政府「人民委員会議」を奪取した。人民委員会議は、1918年1月の憲法制定会議の初日に、武力で議会を強制閉鎖する強硬手段で、反ボリシェビキ勢力を追放した。1918年7月に社会革命党左派をソビエトから排除して、ボリシェビキによる一党独裁体制を確立した。1918年にボリシェビキを「ロシア共産党」と改称し、重要産業、銀行の国有化、臨時政府の外債の破棄などを行った。
 反発する社会革命党系勢力によるテロ行為が頻発し、旧ロシア軍の将軍たちは反革命軍(白軍)を組織して内戦が勃発した。創設された赤軍は反革命勢力に対抗するとともに、「戦時共産主義」とよばれる非常措置をとった。すべての土地、工場を国有化し商業活動を停止して労働義務性を制定して、新たに設立された秘密警察「チェーカー」による反革命分子の摘発と粛清が断行された。農民は銃による農作物の強制徴発が行われ、穀物を渡す事を拒否する者はその場で銃殺された。白軍政権の崩壊をもって、1922年に散発した大規模な反乱・蜂起は終結した。
 ソビエト社会主義共和国連邦の代償による経済政策が頓挫して、急増した餓死者と粛清者の死者数は少なくとも約1400万人に上った。レーニンはさらに苛烈な政策で、反対派を粛正する為、密偵、窃盗犯、ならず者、反革命運動家などを即座に射殺した。1924年のレーニンの死後に、独裁体制を引き継いだスターリンは更に激化した。十月革命が起きた1917年から1987年までに約6,200万人が死亡し、約4,000万人は強制収容所で死亡した。レーニンは社会主義国家建設のために約400万人の命を奪い、スターリンは維持のため約4,260万人の人命を奪った。

https://drive.google.com/file/d/1mci5B-0xz3WTNzpOEqKD-pipFSpL_Kpe/view?usp=sharing

2019年4月7日日曜日

マニラの戦いは、太平洋戦争で最大規模の市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。

太平洋戦争において、アメリカ軍が1944年10月20日の上陸から1945年6月28日までフィリピンの戦いで日本軍と激烈な衝突を繰り返した。首都のマニラの戦いは、1945年2月3日から3月3日までフィリピンの首都のマニラで攻防した日本軍とアメリカ軍の市街戦が勃発した。日本軍は敗退して、約3年間に及んだ日本軍のフィリピンの占領と統治は終結した。太平洋戦争では最大規模となる市街戦となり、残留した約 70万人のマニラ市民のうち、約10万人の市民が無差別攻撃に巻き添えの犠牲者となった。
 日本軍の主力は、持久戦のために北部ルソンに転進した。マニラに残存した日本軍は、悲惨な激戦地となったエルミタ・マテラ地区で、建物や民家などに潜伏して徹底抗戦をはかった。日本軍は背後の敵となる恐れがあるマニラ市民なども大量に虐殺した。マニラ市民は日本軍の銃剣や機銃掃射で殺害され続け、地区全てにて女子と子供らの弱者は組織的に虐待した。アメリカ米軍は、建物や民家からの狙撃の損害を抑止するために、重砲火による無差別砲撃でマニラ市街を次々と壊滅した。マニラ市民の犠牲の約6割は日本軍による殺戮、約4割はアメリカ軍の重砲火による殺害と推定された。日本軍の戦死者は約16,665人、アメリカ軍の戦死者は約1010 人と戦傷者は約5,565人であった。
 マニラ市内の随所で繰り広げた日本軍による虐待と虐殺は、無差別の非戦闘員である市民の殺害の範囲を超えたジェノサイド(大量虐殺)となった。南京虐殺事件は日本軍の占領開始からの十分な記録が残らず、論争が絶えない。マニラの戦いは、アメリカ軍と対峙してマニラの開放までに、日本軍の残虐行為を捜査して記録された。激戦となったエルミタ・マラテ地区は、アメリカ人とフィリピン人だけでなく、多数の外国人を含む富裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが密集する地区でもあった。太平洋戦争のマニラの戦の残虐行為は、東京裁判やマニラ裁判などに提出された宣誓口供書と日記・回顧録などを証拠として、日本軍史上で最も詳細に記録された蛮行として大将の死刑が執行された。



2019年4月6日土曜日

原子爆弾の熱線による重度の背中の火傷に伴う疼痛により、救護所で背中を下にできず苦悶してうつ伏せに寝込むんだ。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。広島原子爆弾の炸裂から発する激烈なるすさまじい爆風の圧力、爆風、熱線の威力などが複合して押し寄せた。男性は、熱線による悲惨な重度の火傷を背中一面に受傷した。火傷によるひどいびらんは、一面に表皮が破れ落ちた。火傷に伴う疼痛によって、救護所のふとんに仰向けになったままで、背中を下にできなかった。そのために背中を上にして、苦悶してうつ伏せに寝込むしかなかった。少しでも身体を動かすものなら、傷口が干割れして、中から膿血がタラタラと流れて飛び上がるほど疼痛を伴った。毎日うつ伏せの寝たきり状態で苦痛を耐え忍んだ。
 人体に熱傷を与えたのは、爆発後の約0.3秒から3秒の間に放射された赤外線であった。衣服をまとわぬ人体皮膚の熱線と熱傷は、広島で爆心地から約3.5km、長崎で約4kmまで及んだ。熱線による織物や木材などの黒こげは、広島で爆心地から約3km、長崎では 約3.5kmまで及んだ。両都市とも爆心地から約1.2km以内で遮蔽のなかった人体に致命的な熱線熱傷を受け、被爆死の約20から30%が原子爆弾による熱傷と推定された。
   原子爆弾の炸裂直後から発したわずか数秒間の激烈な熱線により、被爆者の建物や衣服から十分に遮断されていない皮膚に放射された。凄まじい熱戦により、重度の火傷による犠牲をもたらした。爆心地からの距離や方向で火傷の程度は異なった。前方向から被爆した人は腹部に火傷、後方向から被爆した人は背中側が火傷を受傷した。重度の火傷になると表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の軟部組織や骨まで開放し露出した。

https://drive.google.com/file/d/1-9zbST5bNNtIYo-k2zrYS2O1mBK6HW8A/view?usp=sharing


2019年4月5日金曜日

イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。

第一次世界大戦にて、1916年7月1日にボーモン・アメルの戦いが勃発した。連合国軍によりソンム攻勢に対抗して、ドイツ軍が大規模な地下要塞をボーモン・アメル他8つの村に敷設した。イギリス軍によるボーモン・アメルの攻勢により、戦死したドイツ軍兵士の死体が、塹壕に放置されて白骨化した。
 イギリス軍は、ボーモン・アメルの要塞を侵略するために、地下要塞の最前線の塹壕の地下に大規模な時限付きの10個の地雷を設置した。地雷が午前7時20分にドイツ軍の塹壕で大爆発した。ボーモン・アメルの要塞で多数のドイツ軍兵士が塹壕の下で爆死した。その付近に設置されていたホーソン・リッジ要塞に対するイギリス軍の大規模な地雷は、イギリス軍の攻撃を始める予定時間よりも約10分ほど前に爆発した。イギリス軍は地上攻撃した後で大爆発して犠牲者が出た。さらに、塹壕から乗り出したイギリス軍兵士は、横一列に隊列を組んで進軍した。ドイツ軍は、爆発によってできた巨大な塹壕に潜入して、イギリス軍を狙い撃ちした。イギリス軍は、ドイツ軍の占領の境界に設置された有刺鉄線に阻まれて、わずか約40分間で多数の犠牲者を出して壊滅した。さらにイギリス軍は前線壕に撤退する前に犠牲を出し、自軍の有刺鉄線の切れ間を抜けた後退に、ドイツ軍の集中砲火を浴びた。ジョン・メイスフィールドは「第一波のイギリス軍兵士が胸墻をよじのぼる。叫喚と暗闘、そして死の気配」とオールド・フロント・ラインで記録した。
  予備隊であったカナダ兵士の約778人のうち戦死傷者は約684人にも達した。戦闘初日のイギリス軍は、一日の犠牲としては史上最多のとなる戦死者約2万名を含めた約6万人の戦傷者を出した。一方のフランス軍の犠牲は初日で約7000人で、ドイツ軍は約1万人といわれも、その犠牲者数の記録は残存せず不詳となった。ソンムの戦いは、冬が到来し進撃が困難になり、約4ケ月後の1914年11月18日に戦いは終わった。しかし、結局は相互に戦線の突破はならず、10km程度の前線の東進と引き替えに、イギリス連邦は約42万(内死者行方不明10万)人、フランス軍は20万(内死者行方不明5万)人、ドイツ軍は犠牲者約47万(内死者行方不明は16万、捕虜3万)を伴ったと言われる。相互とも多くの血を流し、人命を無駄にしても戦線には大きな影響は無かった。



2019年4月4日木曜日

ナムル島の空爆と砲撃で爆死した日本軍兵士は、軍服は剥ぎ取られて荒野に吹き飛んだ。

太平洋戦争にて、マーシャル群島におけるクェゼリン島の近隣のナムル島に対する空襲による空爆と戦艦からの砲射撃は、すさまじい武力による破壊力でほとんどが壊滅した。ナムル島における地上の日本軍兵士は壊滅して爆死して、、上下の軍服から剥ぎ取られて、荒野に吹き飛ばされた。地上にあった建造物や樹林などは、強烈なる爆破力と爆風から大震災などにより破滅した。
 第一次世界大戦後に、日本はマーシャル群島など赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアを委任統治領として、国際連盟脱退後も統治していた。アメリカ軍は、太平洋戦争が勃発して以来に、初めて日本軍の統治領域に侵攻して占領した。世界最大のクェゼリン環礁の北島群のナムル島に対して、1944年1月30日から約7,000トンもの爆撃と砲弾で空爆をした。アメリカ軍は2月2日から上陸して、北島群の日本軍兵士の約2,900人は2月3日にはほとんど全滅した。クェゼリン環礁を始めマーシャル群島における日本軍兵士の約11,660のうち、戦死者数は約10,840で戦死率は約93%にも達して、生存した捕虜はわずか約774人であった。日本軍の大本営は、2月25日になって全滅した玉砕を公表して、戦死して上官の大尉が少佐に一階級の進級した。陸軍大将かつ首相であった東条英機は、日本軍兵士が玉砕して全滅しても、「物事は考ヘ様で、寧ろ敵の背後に我が基地があると考へればよい。而して機を見て両方より挟撃、反撃しなければならない。」と言明した。



2019年4月3日水曜日

パレスチナ難民キャンプでイスラエル民兵に虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。

イスラエル軍が1982年にレバノンの首都であるベイルートに侵攻した。イスラエル人民兵は、難民キャンプのパレスチナ人を無差別に大量虐殺した。難民キャンプで虐殺された少年は、頸に巻き詰められた鎖で絞め殺された。頸の周囲が腫れ上がった少年の死体は、路上の瓦礫に放り出されて放置された。9月16日から9月18日に、サブラとシャティーラ難民キャンプのパレスチナ人らを大量虐殺した。9月16日夜にシャティーラキャンプの西端を南北に走るサブラ通りから勃発した。イスラエル軍のレバノン侵攻により、約75,000人のレバノン人とパレスチナ人が戦死傷した。
 イスラエル軍は1982年にレバノン国境を越えて侵攻して、ベイルートなどのパレスチナ解放機構(PLO)のテロ拠点を攻撃した。イスラエル軍は圧倒的な浮力でベイルートは壊滅した。PLOはレバノンからチュニジアに拠点を移してから、イスラエル軍はレバノンのベイルートを侵攻して大量虐殺が勃発した。レバノンのパレスチナ人難民を、ヨルダン川より東に追いやった。1985年から2000年までレバノン南部を侵略した。
   イスラエル軍はレバノン侵攻とベイルート包囲して、PLOがベイルートから撤退した後、親イスラエルのキリスト教右派民兵が難民キャンプ地域に入り大量虐殺をした。大規模な死者数や犠牲者数は確定されない。家族ごと死んで集団で埋葬されたり、行方不明のまま死亡が確認されなかた。国連総会で「ジェノサイド(大量虐殺)」とする決議が採択された。2001年9月11日の同時多発テロ事件後に、アメリカ軍の対テロ戦争と呼応して、2006年7月からイスラエル軍は、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府をヨルダン川西岸で包囲して、国連の撤退決議で10月に撤退した。