2019年3月25日月曜日

沖縄戦で、特攻隊員は確実に命を投げ出し激突して絶命するためにセメントを担いだ。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月24日に戦死を覚悟した特別攻撃隊の操縦兵士が沖縄本島の崖に激突死した。その身体には、確実に戦死するために約25cm角のコンクリート・ブロックを体に結びつけていた。特攻隊員の多くは、ひきょう者を恥じ命令だから死にますと出撃していった。特攻隊員が生きて帰るのは名誉をけがす、死ねないのは、国賊でツラよごしと非難された。特攻隊員は確実に命を投げ出して絶命するためにセメントを担いだ。
 沖縄戦の特攻作戦には、鹿児島県の知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、当時日本が占領していた台湾など多くの基地から出撃した。4月6日から九州の複数の航空基地から飛び立った航空機による特攻攻撃で、6月22日の作戦終了までに約11回にわたり約1,800機が特攻に出撃して約2,600人が戦死しました。本土最南端の知覧基地からは全特攻戦死者のうち約439人が知覧基地から出撃した。特別攻撃は82日間と連続的に行われたが、昼夜にわたる攻撃により、アメリカ軍の大艦は一隻も沈まなかった。特攻攻撃は、空母の撃沈に自らの命と引き換えた。しかし、巡洋艦と駆逐艦で護衛されて、空母からは戦闘機が特攻機を撃墜した。中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火を受けて、特攻機が巡洋艦以上の大型艦、正規空母と軽空母は1隻もなかった。





2019年3月24日日曜日

ワルシャワ・ゲトーで蜂起したユダヤ人の抵抗者の死体が、ナチス親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。

ナチス・ドイツ軍に対するユダヤ人の抵抗者の死体が、ワルシャワ・ゲットー蜂起の抑圧する親衛隊によって破壊された建物の廃墟の前に散乱した。ドイツ軍は「無法者が戦闘で殺害された」と記録した。
 ナチス親衛隊と警察部隊が、1943年4月19日にワルシャワゲトーに生き残ったユダヤ人を移送するためにゲットーに侵入した直後に、ワルシャワのゲットー蜂起が始まった。ゲットーのユダヤ人ほとんど全員が隠れ家や地下壕に身を潜めた。強制移送の再開が、ゲットーの武装蜂起の合図であった。1943年5月16日までにドイツ軍はユダヤ人の反乱を武力で粉砕した。生き残ったゲットーのユダヤ人は強制収容所や絶滅収容所に移送されて虐殺された。
 蜂起して3日目から、ナチス親衛隊と警察部隊は、ゲットーの徹底捜索をして、建物をひとつひとつ破壊して隠れているユダヤ人を地上に叩き出した。ユダヤ人戦闘員も要塞から反抗するも、ドイツ軍の組織的な攻撃でゲットーは崩壊した。その後は小さなグループおよび個人戦闘員が、身を潜めて約1か月近くも抵抗した。個人になったユダヤ人はゲットーの廃墟に隠れ、ドイツ軍や補助部隊のパトロールに攻撃を続けた。ワルシャワゲットーの蜂起は最大規模であり、最大なユダヤ人の蜂起であった。ドイツ占領下のヨーロッパで最初に起きた都市の武力蜂起であった。


2019年3月23日土曜日

似島検疫所に救護された被爆者は、広範囲に火傷面が化膿して膿瘍を形成した。(広島)

広島原子爆弾より、広範囲に重度の火傷を顔面から両方の上肢に被爆して、似島検疫所に救護された。その後に放射能被爆による免疫機能の低下も伴って、広範囲にわたり火傷面が化膿して膿瘍を形成した。
 原子爆弾の火傷は、光線や熱線による高熱により、屋外にて爆撃に暴露した。特に裸体になるほど高度の火傷を受けて。火傷の特徴は爆心方向面のみ被爆した。原子爆弾の炸裂によりできる火の玉の温度は、中心部では100万℃をこえ、大きさは1秒後に最大直径280mにもなった。放出された非常に強い熱線によって、爆心地では地表の温度が3,000~4,000℃にも達した(太陽の表面温度は5,700℃、鉄がとける温度は1,500℃)。



2019年3月22日金曜日

ニューギニアの戦いで補給が絶えて飢餓と風土病に苦闘して撤退した日本軍兵士の膨大な死体が、山林や山道に散乱していた。

ニューギニアの戦いに、アメリカ軍とオーストリア軍の連合軍が侵攻して、補給が絶えて飢餓と風土病に苦闘して撤退した日本軍兵士の膨大な死体が、山林や山道に散乱していた。
太平洋戦争で、1942年3月に日本軍はニューギニアの北東海岸のサラモアとラエに上陸した。ニューギニアの東半分はオーストラリア領であった。連合軍の最終防衛拠点がある南東部のポートモスレビーの攻略は、日本軍は海岸からの上陸は困難となり放棄した。北東海岸からポートモレスビーを攻略するために、日本軍兵士には約4,000mのオーウェンスタンレー山脈を越える無理な行軍を強要された。片道分だけの食料と物資を背負って残酷な登山を強いられた。オーウェンスタンレー山脈を越えた時点で、食糧が尽きて飢餓と風土病で壊滅状態となった。
 ポートモレスビーから、連合軍による猛烈な攻撃を受けて、日本軍は撤退して追撃された。1942年10月17日には食糧が完全に枯渇して、木の根や草を食いながら悲惨な後退をした。大本営はガダルカナル島を優先して、ニューギニアを無視した。連合軍は、1943年1月に圧倒的な武力で北東海岸の拠点を攻略して、日本軍は壊滅した。ニュギニアから日本軍の艦艇や輸送船が、連合軍の爆撃機により次々に沈没して、膨大な人命や物資を喪失した。日本軍兵士は約180,000人が戦死して、わずか10%の約20,000人のみが生還した。連合軍の戦死者もオーストラリア軍は約8,000名、アメリカ軍は約4,000名に上った。



2019年3月21日木曜日

南北戦争のゲティスバークの戦いで、南軍兵士が銃殺されて悪魔の巣窟に倒れた戦死体などが散乱した。

南北戦争のゲティスバークの戦いで、南軍陣地の右翼にて南軍兵士が銃殺されて悪魔の巣窟に倒れた膨大な戦死体などが散乱した。
 アメリカ合衆国の南北戦争の最大で最終局面でゲティスバーグの戦いが、1863年7月1日から3日まで勃発した。集団密集による突撃戦のあとで、北軍が約3, 155の戦死体と南軍が約3,903戦死体が、ゲティスバーグ周辺の野原や森林に散乱した。ほとんどの死体は、戦場に大きな共同墓地に墓穴を掘って埋められた。戦死傷者、捕虜、行方不明等の犠牲は、北軍は約23,000人、南軍は約27,000人に達した。激烈な戦闘地域は、悪魔の巣窟、桃畑、小麦畑と呼ばれた。ゲティスバーグの戦いに巻き込まれた女性は20歳のジェニー・ウェイドが流れ弾による背中の致命傷で死亡した。
 南軍は約75,000人から約27,000人の犠牲を伴って、兵員や物資の補給が得られずに、アメリカ独立記念日であった7月4日から退却した。南北戦争の転機となり、南軍の侵攻が退却に転換して、北軍が優勢となった。11月9日にリンカーン大統領がゲティスバークでわずかに約2分15秒の演説した。「市民の市民による市民のための政治 (government of the people, by the people, for the people)」を地上から決して絶滅させないために、われわれ がここで固く決意することであると宣言した。




2019年3月20日水曜日

リトアニアのコーヴノで、ナチス・ドイツの治安警察は刑務所から出獄した囚人に、多数のユダヤ人を鉄棒で殴り殺させた。

第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツは東部戦線で占領した地域の治安警察が、ユダヤ人を迫害した。次第にエスカレートして、迫害だけでなく虐待から虐殺に至った。リトアニアのコーヴノでは、1941年6月28日に治安警察は刑務所から出獄を解く代わりに、牢獄の囚人に、数百人ものユダヤ人を鉄棒で殴り殺させた。
 その後には、ユダヤ人集団たちを家屋から追い出して、路上に集結させて、収容地域となるゲトーに集団移住を強制した。ゲトーには鉄条網で外部から遮断されて、出口には武装した兵士が見張った。すでに満員状態のゲトーに、ユダヤ人集団を次々に収容した。ゲトーは経済的困窮に陥り、無法地帯となった。謀略、収容、殴打、略奪、銃撃、公開処刑された。飢餓で栄養失調となり、餓死した幼児を抱いて母親が慟哭した。
 ナチス・ドイツが占領した1941年から1944年の間にリトアニアのユダヤ人口約21万人のうち約196,00人の約98%が虐殺された。リトアニアの暴徒や軍隊は、ナチス・ドイツ軍と警察が殺害する前に、ユダヤ人を一斉に殺害し始めた。リトアニアの森林で、約3万人が処刑された。戦時中のリトアニアは、「ホロコースト・バイブル」と呼ばれ、ユダヤ人大量虐殺の起点となった。ソ連により1940年に併合されたリトアニアは、解放者のナチス・ドイツを歓迎して、ダヤ人大量虐殺でソ連の復讐を果たした。




2019年3月19日火曜日

米比戦争にてフィリピン人ゲリラの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ人の死体の周りを囲んだ。

米比戦争では、フィリピン人ゲリラがアメリカ人に対する最悪の虐待と虐殺者となった。彼らの革命的な脅威は、アメリカ軍や民間人に虐待、性的虐待、およびその他の迅速かつ恐ろしい処罰を執行した。フィリピンの革命軍が、暗殺した一人のアメリカ支持者の死体の周りを囲んだ。
 フィリピンは、1898年にアメリカとスペインとの間で勃発した米西戦争の最中に、独立を果たしたつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン第一共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン第一共和国の建国を承認しないアメリカは、フィリピンを植民地化した。フィリピン人は猛烈に抵抗したが、アメリカとフィリピンとの間の米比戦争で約60万人のフィリピン人がアメリカ軍によった無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。1901年にアギナルドがアメリカ軍の捕虜になり第一共和国は崩壊した。フィリピンは旧スペイン植民地のグアムやプエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けた。
 1900年初頭から革命軍はゲリラ紛争を主導して、アメリカ軍による群島占領により、米比戦争は、当惑する複雑な一連の地域戦争となった。戦争を継続するのに十分な資金と物資を集めたが、革命軍たちは効率的に分配できなく、欠乏して士気を失った。フィリピン群島の大部分では、法と秩序は事実上崩壊していた。




2019年3月18日月曜日

カンボジア難民の母親は、救護所で餓死した娘の死体を抱いて悶絶して慟哭した。

カンボジア難民はタイ国境のコスクンの臨時救護施設で、1979年1月に瀕死の娘が点滴処置されるも餓死した。カンボジア難民の母親は、餓死した娘の死体を抱いて悶絶して慟哭した。
 カンボジアの内戦から逃れるために、カンボジア難民にはタイの難民キャンプまでの道のりには苛酷であり、死体が散乱して、多数の盗賊もいた。カンボジア政府や警察、泥棒に発見されないように隠れながら脱国した。 1979年6月にはタイ政府やタイ警察に見つかると、約4万人以上が強制送還されて、難民キャンプに戻れない。発見されるとカンボジアに強制的に戻されると虐待と虐殺される。食物もなく栄養失調から飢餓状態から餓死や病死した。1979年末までにカンボジア人口の約15%の約60万人以上が、タイ国境の収容所で生活した。
 カンボジアは1975年からクメール・ルージュによる弾圧と大量虐殺の下で、約2万人のみが脱国した。1979年ベトナム軍がカンボジアに侵攻して支配した新政権から、移動が緩和されて膨大な難民がタイ国境に殺到した。1979年末までにカンボジア人口の約15%の約60万人以上が、タイ国境の収容所で生活した。


2019年3月17日日曜日

簡易軍事法廷で判決された容疑者が、ナチス・ドイツ軍兵士により銃殺で処刑された。

簡易軍事法廷で判決された容疑者が、ナチス・ドイツ軍兵士により銃殺で処刑される直前である。一旦、軍事法廷に引き出された容疑者は、ほとんど例外なく死刑が執行された。1945年にドイツが崩壊する直前は、ドイツ人は精神錯乱で洗脳されて狂気していた。
 ナチス・ドイツが政権下では、無実のドイツ市民が弾圧されていた。ナチス・ドイツによる弾圧は、年を追うごとに厳しさを増した。ユダヤ人の根絶をめざした悲惨な大量虐殺も激しくなった。ナチス・ドイツ軍の戦況が特に悪化したスターリングラード攻防での敗北した1945年移行は容赦もない厳しい弾圧をドイツ市民に加えた。
 ドイツ市民によるゲシュタポへの密告も絶えず、さらにナチス・ドイツの弾圧が助長された。1945年2月15日から簡易軍事法廷にて、ナチス党員やドイツ軍将校、親衛隊、警察官らの中で、ナチス・ドイツ政権を妨害する容疑者や献身的な愛国主義が認められない容疑者が簡易裁判された。軍事法廷の判決はほとんど死刑となり、直ちに処刑された。連合軍がドイツ国内に侵攻する第2次世界大戦末期では、ナチス・ドイツが崩壊する直前まで市民を敵標にした銃殺も執行された。




2019年3月16日土曜日

日本関東軍は満州のチチハル陸軍監獄から集団脱獄した中国人容疑者の全員を銃殺した。

1936年13月31日夜に,満州にて日本関東軍のチチハル陸軍監獄で,中国人容疑者の約115人の集団脱獄事件が発生した。脱獄者のうち約20名は、途中で日本軍により射殺された。生存した約90人の中国人容疑者が再逮捕された。抗日運動を抑圧するために、日本軍は中国人の再逮捕者の全員を1937年1月4日に,チチハル市の北大営草原で銃殺した。
 1931年9月18日に、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発して、日本の関東軍は満洲全土を占領した。関東軍は主導の下に、同地域は中華民国からの独立を宣言して、1932年3月1日の満洲国の建国に至った。満洲国の元首、後には皇帝として、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が就いた。満洲人による民族自決の原則に基づく国民国家とした。建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
 


2019年3月15日金曜日

関東大震災による民衆暴動により、両手が後ろで縛られた朝鮮人の水死体が川畔に引き上げられた。 

関東大震災に被災した民衆が流言飛語に洗脳されて集団で朝鮮人に対する大量虐殺をした。両手が後ろで縛られた膨大な朝鮮人の水死体が東京の本所の隅田川畔に引き上げられた。 
 1923年9月1日に東京から南関東の地域が、関東大震災に襲われた。関東南部の低気圧により激しい風が吹きまくった午後12時2分に、地鳴りとともにマグニチュード7.9の地震が勃発した。東京は、天災の弱点から大惨事となった。火も消さずに家の外に飛び出して、家は倒壊して火災が市民を襲った。東京は3日間にわたり、火流となった猛火に包まれた。突風による猛火により、膨大な被災者が焼死した。猛火に追われた東京難民は、約90万人以上も各広場に殺到した。南関東の被災者は約340万8998人、死者は約9万1344人、行方不明は約1万3275人以上に達した。政府は、大震災の緊急対策として、警察だけでなく軍隊も出動させた。民衆の暴動によ対する治安維持を強固にするために、9月2日に戒厳令を発した。避難した被災者は、すべて失い、寝床もない疲労と食料もない空腹、極度の精神錯乱に陥った。
 「不逞朝鮮人来襲」の流言が、翌日9月2日午前中から急速に拡散した。次第に朝鮮人による放火や暴動の来襲など身に迫る流言に変質した。朝鮮人に対する流言やデマを精神錯乱した民衆が洗脳されて、各地で在日朝鮮人に対する弾圧から虐待さらに虐殺に至った。9月4日には、マスコミが数百の不逞鮮人が隊伍を組みて蜂起暴戻と民衆を煽った。集団弾圧する自警団が各地で約3,700も結成されて在日朝鮮人を迫害した。自警団は、日本刀、竹槍、鎌などで武装して、朝鮮人に残酷で悲惨な大量虐待と大量虐殺をした。警察や軍隊が、連行して約2万人以上もの朝鮮人から約6,000人以上も秘密裏に虐殺した。



2019年3月14日木曜日

第2次世界大戦のドイツ軍とロシア軍はウクライナの激戦地ケルチにて、ドイツ軍は無差別な地域住民を含めた大量虐殺をした。

第2次世界大戦のドイツ軍とロシア軍はウクライナのケルチで激戦となった。黒海とアゾフ海を海峡に面した激戦地ケルチにて、ナチス・ドイツ軍は1941年12月に無差別な地域住民を含めた大量虐殺をした。
 「文書USSR-63」と呼ばれるニュルンベルク裁判で「ケルチ市におけるドイツの残虐行為に関する臨時国家委員会法」から公表の一部:ケルチ市の人々は家族全員が死に至る運命になった。 ソ連の赤軍はケルチに1942年1月を占領した時に、長さ4メートル、幅4メートル、深さ2メートルを超えたバゲロフスキー溝を調査した。その溝の中に、女性、子供、老人、10代の若者も含めた死体があふれていた。 溝の近くには血液を凍結したプールもあった。 子供用の帽子、おもちゃ、リボン、引き裂かれたボタン、手袋、乳首の瓶、靴、腕と足の切り株のついたオーバーシューズ、その他の身体部分もあった。それらには血液や脳みそが散乱していた。ファシストであるナチス・ドイツ軍は、無防備な集団を爆発的な弾丸で射殺した。合計で約7,000もの死体がバゲロフスキー溝から発掘された。
  1941年から1945年の第二次世界大戦の期間中に、ケルチはソ連の赤軍とナチス・ドイツ軍の激戦場となった。1941年11月にドイツ軍に奪われて占領されるが、12月30日にはソ連軍が海岸から上陸してソ連軍が奪還した。しかし1942年5月19日には、ドイツ軍は再びケルチを占拠した。ケルチ半島の戦いでのソ連の赤軍側の死者・捕虜は約16万人以上にも及んだ。1943年10月31日に新たに上陸が開始されて、最終的にケルチが1944年4月11日に解放された。しかし、ドイツ軍によりケルチ市民の約15,000人が殺害、約14,000人が別の土地に移送されていた。ケルチでのドイツ軍の暴虐は戦後のニュルンベルク裁判で明らかにされた。





2019年3月13日水曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍を支持していたベトナム人の少年が、アメリカ軍のヘリコプターの銃弾で殺害された

ベトナム戦争にて、1968年にベトナム人の少年が、カトリック教会に通う途中で、アメリカ軍のヘリコプターの銃弾で殺害された。取り囲んだ仲間の少年らは、南ベトナム政府の熱心な支持者であり、彼らはアメリカ軍の支持者でもあった。都市部の戦闘により都市住民もアメリカ軍に幻滅して、アメリカ軍の指導者たちを信じるができなくなり、または支持することに億劫となった。
 1968年には、南ベトナムに展開していたアメリカ軍と同盟軍は、北ベトナム軍兵士およそ約5万人と、軍服を着た人民解放軍兵士約6万人を相手に交戦した。非正規の地元出身のゲリラに加わったベトナム人は数十万人に達した。人民解放軍とゲリラを含めて「ベトコン(ベトナム人共産主義者)」と軽蔑して呼称した。当初は、アメリカ軍は北ベトナム兵士と民間市民とを区別していた。現実には、次第に見分けるのは非常に困難となった。アメリカ軍兵士は、共産主義の侵略から南ベトナムを守るための戦いから、敵は誰であり目標も失っていった。1968年3月16日にはアメリカ陸軍歩兵小隊がクアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において無抵抗の約504人の村民人を無差別射撃などで大量虐殺するソンミ村虐殺事件が発生して、事件が報道されアメリカ国内で反戦運動が激化した。





2019年3月12日火曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊は、多数のロシア市民を見せしめの首吊りを公開処刑した。

ナチス・ドイツ軍の親衛隊により、見せしめとして多数のロシア市民を公開の首吊り処刑を執行した。SSの将校たちが隠蔽して囚人たちを兵舎に収容している時に、ボスニア・ヘルツェゴビナのブナ村で爆撃が起った。連合国がブナ村を空爆し始めたが、囚人らは解放される希望は長続きしなかった。囚人の絞首刑は即死とはならず、かなり長い間続く残酷な首吊りの公開処刑となった。
 ナチス・ドイツ軍は、抵抗運動を続けるロシア市民を、銃殺・首吊りなどで虐殺した。1人の抵抗運動でも、地域住民を集団懲罰により処刑した。1941年12月にロシア人のパルチザン抵抗運動によって、ドイツ軍兵士が殺害されると、約16の村に火を放ち、約448人の村民を虐殺した。占領地の住民は連行して、奴隷労働を強制して、役立たずは無差別に戸外に取り残されて凍死させた。降伏したロシア軍兵士の捕虜は、パルチザンの容疑をかけて虐殺した。
 1946年に絞首刑にされた国防軍作戦本部長のアルフレート・ヨードルは「戦いは好きなようにやればよい。パルチザンなどは吊るすなり、逆さにするなり、八つ裂きにするなり、好きなように始末すればよい。」とナチス・ドイツ軍兵士を強要した。




2019年3月11日月曜日

イラク戦争で、被弾した車から放り出されて腐敗した死体と運転席に残ったままの腐敗した死体が残存した。

アメリカ軍は2003年4月5日からバクダットに侵攻した。4月7日に道路脇には、黒焦げになったタンクローリー2台、大型トラック2台、バス1台などが点々とし、乗用車も残骸を残していた。タンクローリーの周辺には死臭が漂っていた。大破した車の陰に、放置されていたイラク人の死体の周りに、数人のイラク人が取り囲んでいた。
 アメリカ軍は、イラク人に死体の回収をすることを禁止していた。乗用車が中央分離帯に突っ込みガードレールの上に乗り上げてしまった。車から放り出された死体と運転席に残ったままの死体が残存していた。乗用車はあまり潰れていないので、直接の死因は被弾と推定された。乗用車から放り出された死体は、ガードレールの下で死臭が漂よいながら腐敗して膨大した。路面とレールの間に死体が食い込み取り出す処理が困難であった。ドライバーの死体も腐敗して膨大して死臭を出して車外に取り出し困難であった。イラク死人の関係者も、路肩に棺桶を用意して、埋葬する穴も掘られたが、全く死体を運び出せず、周りのイラク人は次第に立ち去った。
 アメリカ軍は国際連合の決議を無視して、2003年3月17日にバグダットに先制の空爆した。3月19日からイラクの自由作戦を実施してイラク国内に侵攻した。4月5日からバグダットにはアメリカ軍が侵攻して、4月8日にバグダットは陥落した。5月1日に戦闘終結宣言した。
 イラク軍の残党、イスラム過激派、テロリストがイラク内戦に参入した。爆撃装置、地雷、自爆、狙撃、自動車爆弾などの攻撃をした。アメリカ軍と有志連合軍は、厳しく危険な内戦に巻き込まれた。2011年末のアメリカ軍の駐留軍隊は完全に撤退するまで攻撃を受けた。混乱化は、2013年末からイスラムの新しい過激派であるイスラム国(ISIS)がイラク国内を侵略した。