2019年2月27日水曜日

コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年セルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。

ユーゴスラビアの連邦国は、少数派を血まみれに追放して、共産主義のユーゴスラビアが崩壊後に、独立を宣言した。コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年1月15日にセルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。血まみれのアルバニア人の約46の死体が散乱した。
 1945年以降にコソボのアルバニア人の少数民族は、90%もの多数派に達した。 1981年にこの地域から騒乱が始まった。スロボダン・ミロシェビッチは、セルビア人の少数派の代表者になり、後に大統領となった。1986年に、ユーゴスラビア共産党をセルビア社会党に改名した。1989年にコソボの自治を廃止して、アルバニア人幹部をセルビア人に置き換えた。
 1980年代末に、民族主義者らは共和国の権力を引き継いだ。クロアチアとスロベニアは、1991年6月26日に独立を宣言した。ユーゴスラビア軍は両国に進軍したが、すぐにスロベニアから撤退した。クロアチアの3分の1は占領を継続した。居住するセルビア人の少数民族はクライナ共和国の独立宣言した。
 1990年11月のボスニアの総選挙で、アリヤ・イゼトベゴヴィッチが率いるイスラム教徒民主化党が過半数を獲得して、1991年に独立宣言した。ボスニアのセルビア人少数派は、ラドヴァン・カラジッチの下でセルビア共和国は独立宣言した。セルビア人は、ユーゴスラビア軍の支援でボスニアの3分の2を占領した。追放と大量虐殺による残忍な民族浄化が行われた。北太平洋条約機構(NATO)は1995年に内乱の抑止のため介入した。約220万人が残酷な難民となり、約20万人が殺害された。国連の監視下でボスニア・クロアチア連邦とセルビア共和国に分割され独立国家とした。
 1995年にクロアチア軍は、クライナ共和国を再占領した。追放されたセルビア人はコソボに逃避した。1992年にアルバニア人はイブラヒム・ルゴバの下でコソボ共和国を独立宣言した。コソボ解放軍とセルビア人治安部隊と激戦となり、セルビア人勢力が攻勢に至った。NATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。数千人のイスラム教徒のボスニア人は、1995年にボスニアのセルビア人地域から逃げたNATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。
 マケドニアも1991年に独立を宣言した。マケドニアの少数派アルバニア人はイリリア共和国を宣言し、2000年に解放軍を創設した。コソボから約25万人の難民が発生した。 NATOと国連軍は戦争の暴発を抑止した。


2019年2月26日火曜日

日露戦争で作子溝の戦闘で、日本軍兵士の多数の戦死体が、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。

日露戦争における作子溝の戦闘で、戦死した日本軍兵士の多数の死体が、処分が間に合わずに、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。戦闘中は、死体の収容も困難であり、放置されたままに腐乱した。日露戦争の膨大な戦死者の犠牲を伴うも、死体の処理は荒野で火葬あるいは埋められて処分された。至るところに埋めた目印となる墓標を荒野に立てた。膨大な死体の場合には積み重ねて火葬にして埋葬した。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やしても一晩かかった。旅順攻略戦闘では、クリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士が休戦を合意すれば、双方が戦死の死体を回収して、犠牲者を弔うこともあったようである。
 1873年1月10日に徴兵令を施行した明治政府は、陸軍と海軍の墓地制度を布告して、戦死体の処分権と祭祀権は、1945年8月15日の終戦まで遺族ではなく軍部が握った。日清・日露戦争から日中戦争の前半頃までは、戦地に墓地を設営して、火葬あるいは土葬して戦死者の死体を処分した。陣地が継続的に確保されていれば、墓標を立てて儀礼も行った。日中戦争の後半になると、墓地を設営する余裕もなく、火葬した遺体の一部分を持ち帰り、他の部隊に委託から本国に還送することになった。近代戦では、戦死者の死体数が増大するにつれて、戦況に応じた儀礼や処分がされた。軍隊に兵士の死体の処分の権利があり、遺族に遺骨を渡した。遺骨の還送が困難な場合は、霊璽(霊名)を記載した用紙、さらには白木の箱に入れた砂、小石、サンゴなどを、軍隊が形式的な儀礼を行って遺族に手渡した。日本国憲法では軍隊を持たない日本に、戦後から靖国神社が戦死者の祭祀権を保持している問題が継続している。




2019年2月25日月曜日

イラク戦争で、アメリカ軍と参戦した外国人の傭兵の死体を砂漠に埋め捨て腐敗して白骨化した。

イラク戦争では、アメリカ軍兵士だけでなく、民間軍事会社に雇われた多くの傭兵が参戦した。アメリカ軍兵士が虐殺されている危険な地帯や戦場には、お金で雇った兵士である傭兵が参戦した。戦争で外国人の傭兵が虐殺されても、外国人として都合よく処理された。医薬品が落ちた荒野から、大きな黒いビニールが掘り出された。アメリカ軍が使用する遺体収容袋から、大量の腐敗して白骨化した死体が排出された。参戦した外国人の傭兵と思われる死体が砂漠に埋め捨られた。ヘリコプターからも死体を投下して捨られた。
 アメリカ軍は、ベトナム戦争後には徴兵制度が廃止された。職業軍人である士官以外の一般兵士は志願兵である。湾岸戦争からイラン・アフガニスタン戦争では、多くのアメリカ人の若者が奨学金を得て大学進学するために志願した。アメリカの志願兵制度下では、最も格差社会の下層階級出身の若者が奨学金目的で兵役を志願するという傾向がより顕著になった。ただし、非常事態には選抜徴兵できる義務兵役サービス(Selective Service System)に、アメリカ人男子は原則として18歳になった時点で登録する義務がある。
 1960年に徴兵制が廃止されたイギリス軍だけでくアメリカ軍にも、貧困から脱国するためにネパールから過酷で厳格な山岳民族から構成されたグルカ(Gurka)兵も傭兵として参戦した。その他に、貧困を脱国するために、そのほかに、南アフリカ、ウクライナ、フィージーなどから多数の傭兵が参戦した。徴兵制もなく軍隊も保持していない国家は、世界でアイスランド・コスタリカ・日本のみである。




2019年2月24日日曜日

ロシア帝国のウクライナでユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。

ウクライナのエカテリノスラフ(現在のドネプロペトロフスク)で、1905年にユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。ポグロム(Погром)とは、ロシア語に由来して、破壊あるいは破滅を意味する用語である。特定の場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為である。1881年3月1日から南ウクライナにて、ロシア人のよるユダヤ人に対するポグロムが起点となった。
 帝政ロシアは社会的不満のはけ口をユダヤ人排斥主義に誘導した。 ロシアにおける約5,000人ものユダヤ人が1905年に平等権を求める「ユダヤ市民宣言」に署名した。1903年から1906年にかけて重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の難民となった。ロシア帝国のキシネフで、1903年4月のポグロムで反ユダヤ人暴徒が、約49人のユダヤ人を虐殺して、1905年10月のポグロムで2回目の暴徒が、約19人のユダヤ人を虐殺した。第2次世界大戦でもポーランド東北部の村落を中心にユダヤ人がソ連および赤軍と密通の容疑から、ポーランド人やウクライナ人などナチス・ドイツ支配下に置かれた民族は、ユダヤ人にポグロムを執行した。 ナチス・ドイツが1941年に独ソ不可侵条約を破り、東欧からロシアに侵攻した。ポーランド人やユダヤ人の格下として、ナチスには劣等人種と蔑まれたウクライナ人は、逆にユダヤ人に対するポグロムに追従して見つけ次第に虐殺した。





2019年2月23日土曜日

アメリカ軍が上陸した日に、韓国の国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。

第2世界大戦の終戦により、朝鮮半島で勃発した政治的暴力により、朝鮮半島は日本軍からの解放後に最初の2人の死者が2人出た。アメリカ軍が上陸した9月8日に、国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。朝鮮占領はアメリカ・ソ連ともに準備が足りず、両軍が朝鮮を把握できず、一貫した占領政策がなかった。特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。
   韓国では、朝鮮が日本の植民地統治から自主独立を取り戻した出来事を光復と呼称され、光復を記念する毎年8月15日を光復節の祝日に定めた。1945年9月9日からアメリカ軍が朝鮮半島に侵攻して、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島における日本軍の武装解除にあたった。先にアメリカ軍とソ連軍の間で締結されていた協定に即した。ソウル(京城府)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退した。朝鮮半島の38度線より南側はアメリカ軍が占領した。
 ソ連が支持した朝鮮人民共和国が1945年9月6日に樹立されるも、アメリカは朝鮮民主党を支持して、各地の朝鮮委員会を約1年を要して解体した。朝鮮半島南側の大韓民国は、1948年に建国宣言をした。 アメリカ保護下で旧植民地体制と国家警察の維持に対して、1948年から朝鮮戦争が勃発した1950年まで武装ゲリラが闘争した。




2019年2月22日金曜日

卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、上海刑場の群衆の眼の前で銃殺された。

日中戦争の終戦後に、中国大陸に捕虜として在留させられた日本軍兵士は、敗戦による悲劇の制裁を受けた。中国在留の日本人にて、特に上官・憲兵・特殊機関員・宣撫班などの日本人兵士が戦争犯罪人として裁定された。日本軍兵士の上官は、部下の残虐行為の責任を取らされた。1946年に処刑する上海刑場に向かって、上海の街を引き回された後に、卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、群衆の眼の前で銃殺された。上官だけでなく日本軍憲兵も、群衆の眼の前で処刑が執行された。
 中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷で裁定されて、1949年2月までに戦犯145人に死刑の判決を下された。特に中国人に悲劇の報復を受けて、日本軍の憲兵は約63人も死刑を処刑された。太平洋戦争後に、連合国は東京に極東国際軍事裁判所で裁定して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他に、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどでB級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本の戦犯総数は5423人で、判決を受けたものは4226人で、そのうち死刑に処せられたのは941人であった。第2次世界大戦の連合国によるポツダム宣言に基づき、戦争犯罪に関する極東国際軍事裁判所条例により有罪判決を受けた。条例では、A.平和に対する罪、B.通例の戦争犯罪、C.人道に対する罪の3罪が定義された。項目Aで訴追された者をA級戦犯、項目BをB級戦犯、項目CをC級戦犯と呼び、その大部分はB級戦犯であった。 




2019年2月21日木曜日

連合国の香港空襲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。

第2次世界大戦にて、アメリカ空軍は日本軍が占領した香港に対して無差別の空襲を投下した。香港空襲の犠牲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。日本軍は報道機関に対して、犠牲者の狼狽の状況、死傷者の運搬状況、死体などは、事実を誇張して刺激する被害の実態を公表することを禁じて極秘にした。
 イギリスの植民地であった香港を日本軍が1941年12月25日から終戦まで占領統治した。香港の戦いでイギリス香港総督が日本に降伏してから、日本のポツダム宣言受諾による降伏後まで、3年8ヶ月間にわたり日本軍が占領統治した。日本と中華民国の戦争が続いていた上に、香港住民は日本軍の香港占領に抵抗した。
 日本軍の香港占領時の1942年9月からは、中華民国内やイギリス領インド方面からの連合国軍の爆撃機による香港空襲が勃発した。主に日本軍の施設を目標するも、無差別な誤爆も度々発生した。最も犠牲者が多かったのは、アメリカ空軍による1945年1月21日の香港の湾仔市街への誤爆であった。香港住民の死者は約1,000人、負傷者約3,000人に達した。さらに1945年の香港空襲では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490名の死者を出し、小学校にも誤爆があった。




2019年2月20日水曜日

イギリス公使パークスに対する攘夷で、罪人は斬首され樽で塩漬けの首を刑場に晒した。

イギリス人公使のハリー・パークスと一行は、1868年3月に京都の知恩院の門に面したまっすぐな道路を、何の妨害もうけずに進んでいった。行列の先頭が居酒屋や芸者置屋の多い新橋通りの角を曲がろうとした時、抜き身の刀を手にした2人の浪人者が飛び出して、怒りに狂って行列に切りかかった。通りは非常に狭く護衛兵の槍は家の軒先で役に立たなかった。
   2人の浪人者のうち、林田貞堅(朱雀操)はその場で斬られて即死した。もう1人の三枝蓊は捕らえられて、後に斬首となりました。ミットフォードは捕らえられた三枝蓊に食事を提供すると、外国人を知らずに襲撃の実行を深く後悔していた。一方のイギリス人一行は負傷者は約10名で、死亡者はなかった。イギリス人公使のパークスを直接に襲撃したが、イギリス側はこの事件を不問にした。明治政府は、狂信者たちが英雄的行為と考えてきた外国人を殺害や侮辱したりする行為は、恥ずべき邪悪な犯罪であり、罪人は刀を取り上げて士族の籍を抹消し、腹切りの特権なく重罪犯人として処刑した。斬殺された林田貞堅(朱雀操)の首は塩漬けにされて樽の上に、三枝蓊は斬首されて刑場に晒しものにされた。



2019年2月19日火曜日

ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺でアメリカ軍兵士からベトナム人女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾け脳みそが吹き出した。

   ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺の写真が、アメリカ軍兵士の大量虐殺の証拠となった。女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾けて、脳みそが吹き出した。多くの女性や子どもは、殺害されて死体が小道に横たわった。
   ベトナム戦争において、アメリカ軍兵士が1968年3月16日にソンミ村の無抵抗の約504人の住民を大量虐殺した。第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊は、1発の攻撃も受けずに、非武装のソンミ村住民を集団で大虐殺した。アメリカ軍兵士の約45人が無差別の虐殺に加担した。ベトナム戦争により、青年兵士を集団虐殺で、無実の村民を無慈悲に残酷に殺害させた。アメリカ軍の青年兵士は、射殺の指令により、女子や子どもたちを虐殺してから精神が動転しと錯乱した。戦争にて一旦殺害すると、殺害をし続けることは容易になった。チャーリー中隊の約105人の兵士は、周りの誰でもあらゆる手段で虐殺が起こり得た。
 ウィリアム・ローズ・カリー中尉のみが、戦争犯罪者として1971年に重労働の終身刑の判決を受けた。判決の直後にニクソン大統領により釈放されて、特権の刑事被告人となり、1974年には保釈された。政権はアメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導かないように、ソンミ村大虐殺を隠蔽し続けた。 ソンミ村大虐殺は、戦争では必ず起こる手本と肯定した。
  本当に人々は戦争の真実を知っているならば、戦争は止めれるでしょう。しかし、もちろん人々は知りませんし、知ることもできませんし、知ろうとしません。戦争は人間には耐え難く、残酷な地獄です。戦争の真実が明らかになれば、血なまぐさい戦争を継続することはできない。



2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。 




2019年2月17日日曜日

真夏の炎天下で、救援トラックに長崎原子爆弾で瀕死の被爆者が避難して集合していた。(長崎)

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。翌日の午前中には、爆心地から南方の約1.1kmの三菱製鋼所第一工場鍛錬工場の付近に、救援トラックは立ち往生した。救援の炎天下で、救援トラックに瀕死の被爆者が避難して集合していた。1人はトラックの荷台に横たり寝たきりで重篤になっていた。トラックの下にも数名の重症の被爆者が横たわっていた。運転台にも、座ったままで前方にうつ伏せていた。救援トラックは、行く手を阻まれて立ち往生して、被爆者は新たな救援を待ち続けた。灼熱の炎天下で被爆者は、倒れて寝たきり、放心状態で座り込んだ。


2019年2月16日土曜日

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺が多発した。

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺は多発した。内モンゴル自治区シリーンゴル市の近郊の内モンゴル人牧畜民が、2011年5月に中国人系住民により虐殺された。付近に石炭の露天鉱が発見されて、中国人系の数百台のトラックが殺到して搾取した。内モンゴル系住民が抗議すると、中国人住民は金の賄賂をして自治区政府を黙らせて、内モンゴル系住民の虐待と虐殺を繰り返した。内モンゴル系住民が反政府運動をすれば、中国人民解放軍が侵攻して武力鎮圧した。
 国共内戦で共産党軍が勝利して、中華人民共和国が1949年10月1日に建国する以前に、1945年5月1日に内モンゴル自治政府が樹立され、中華人民共和国を構成する一つの自治区となった。自治区政府は、内モンゴル系住民から政府の頂点から下層の職種までの仕事を奪った。下層階級のさらなる底辺に、内モンゴル系住民から少数民族に至るまで押し込まれ抑圧された。内モンゴル自治区では、凄惨な事件が多発した。


2019年2月15日金曜日

ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。

連合国軍がナチス・ドイツよる大量虐殺の実態を連合国軍が調査した。1945年5月3日にドイツ人市民らに命じて、ズットロプ町外の集団墓からの悲惨な犠牲者を掘り起こさせた。ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。
 1944年9月からV2ミサイル開発部門はストロップに局在した。終戦の直前の1945年3月に、開発部門の親衛隊長は外国人労働者の虐殺を命じて秩序を取り戻すように命じた。1945年3月21日から23日まで無差別に女性と子供を含む外国人労働者の約208人がアルンスベルクの森で3回の射撃で射殺された。アメリカ軍が4月5日から8日に侵攻した後に、大量の土豪に埋められた遺体が発見され、ドイツ市民によって掘り出させて、個々の墓に埋めさせた。


2019年2月14日木曜日

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期に女子学徒隊に最大の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に建立された。

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期にて女子学徒隊が悲劇の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に1946年4月7日に建立された。ひめゆりは学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組合わせた「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載された。1953年1月に映画「ひめゆりの塔」が上映されて沖縄戦の悲劇を象徴した。沖縄は1972年5月15日に本土復帰して返還された。
 1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。最も犠牲を受けたのは陸軍病院第三外科壕の大きく開いた壕口内の学徒隊であった。第三外科壕は6月19日朝に、黄燐手榴弾などのガス攻撃を受け、壕にいた約96人のうち87人が死亡し、3人が壕から脱出時に銃殺されて、5人のみが生存した。
 ひめゆりの証言によく出てくる第三外科壕のガス攻撃は、ひめゆり同窓会の方では黄燐発煙弾か催涙ガスを想定した。催涙ガスでも第三外科壕のような竪穴では比重が重ければ酸欠を起こす可能性がある。残っていると仮死状態にもなる。黄色いガスからは黄燐弾により、ガスでではなく黄燐自体が体内に入って内臓疾や筋肉壊死がおこる可能性がある。戦闘に巻き込まれたひめゆり学徒隊だけでなく沖縄市民には、催涙ガス、神経ガスなど、ガスが噴出する兵器を投入された。沖縄戦では現在まで日米両軍ともに公式戦闘記録では致死性の毒ガス使用の記述は秘密裏あるは存在していない。


アメリカ軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の是非を問う沖縄県民投票が2019年2月14日に告示され、沖縄県民は2月24日に投票する。

2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。