2019年1月7日月曜日

日中戦争にて、日本軍が占領した南京城内で虐殺した大量の遺棄した死体が南京城内に散在した。

日中戦争にて日本軍が南京城内で虐殺した大量の死体が遺棄されて城内に散在した。日本軍は1937年12月13日に中華民国の首都である南京を陥落した。12月14日に南京郊外の幕府山の付近だけで、南京城内から敗走した中華民国兵士の約14,777人を捕虜にした。12月18日には南京攻略の総合的な戦果を、「遺棄死体は約80,000万人から90,000人を下らず、捕虜は数千を算する」と公表した。12月13日以降は、籠城した中国軍の戦闘行為は喪失した。
 戦闘行為による戦死者は限定された。籠城して戦闘行為を喪失した中華民国兵士の捕虜や敗残兵は約50,000人以上と推定された。日本軍の南京城内で戦闘行為を喪失した大半の捕虜や敗残兵中華民国兵士を完全に掃討した。南京城の捕虜や敗残兵は数千のみとなり、無抵抗のままに虐殺や抹殺された遺棄死体が80,000万人から90,000人にも達した。遺棄死体数には、南京城内に居住した一般市民も多く含まれた。南京城内だけでなく、揚子江の投棄死体、親族や地域住民の埋葬死体、城外の燕子磯など多数の虐殺なども想定された。無差別な地域住民だけでなく、子供女性の虐待、略奪、放火などの残虐行為も勃発した。
 日本軍が占領した当初に、約5人の外国人記者が南京城内に残存して惨状を海外に報道した。南京虐殺には、偶発的な戦闘なのか、軍指令による組織的虐殺であるのか、虐殺された兵士や住民の総数の隔たりなどが争点になった。約45年も経過して、1987年の教科書検定において、中国政府と日本政府との南京虐殺に関する見解の不一致が表面化した。



2019年1月6日日曜日

日本軍若年兵は、アメリカ軍の戦車に体当たりして自爆する直前に射殺されて、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。

太平洋戦争にて日本軍が劣勢になるにつれて、南方諸島の日本軍への資源の補給が断絶した。アメリカ軍の攻勢により、日本軍は近代的武器や食糧も失った。大本営は日本軍に対して降伏を拒絶して全滅する玉砕の指令を出した。日本軍若年兵士は最終的な玉砕に追い込まれて、爆弾を抱いてアメリカ軍の戦車に体当たりした。肉弾特攻して自爆する直前に射殺されて、横倒しになり、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。
 太平洋戦争のフィリピン戦末期や沖縄戦末期には、フィリピンの戦いのバギオのイリサン谷では、日本軍の戦車は1945年4月17日にアメリカ軍の戦車に体当たりする特攻を敢行した。直前にアメリカ軍の集中砲火を受けて、日本軍の戦車は爆発して散々となった。さら沖縄では鉄血勤皇隊という14~17歳の少年による学徒兵が組織化され、日本軍の敗退に追い込まれた末期の沖縄戦では、補給もなく装備も十分ではなく、十分な軍事訓練もなく、知識や実践もなく、日本軍少年兵が爆薬を背負って敵陣地や敵戦車の前に飛び込んで自爆する攻撃をかけた。勝ち目もなく戦車1台を壊すために走行用ベルトであるキャタピラーにめがけて、下っ端の少年兵は爆弾を抱えて体ごと突っ込んた。無駄死にとなり、ほとんど戦果もなく、虚しく絶命した。終戦直前の満州では、爆薬の詰まった木箱を抱いてソ連軍の戦車に突っ込んで行って、爆発してこっぱみじんになっるも、ソ連の戦車はなにごともなく前進し続けた。日本本土は、若年兵士が体当たりする肉弾特攻は、戦略だけで終わった。
 



2019年1月5日土曜日

生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。

ドイツ軍による東部戦線では、ウクライナ中央部におけるキーロボグラードにて民間市民を含めた大量虐殺をした。ソ連軍が1944年にドイツ軍を敗退させて解放した時に、生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊行動部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。
 ウクライナのリボフ市のソ連秘密警察(NKVD)は、1941年6月22日にドイツ軍の侵攻を受けた。撤退する前に、主にウクライナ人のウクライナ主義者である囚人を約4,000人を大量処刑した。ドイツ軍は6月30日に大量の死体を検知したが、主犯者をユダヤ人であると喧伝した。地域ウクライナ住民だけでなくドイツ軍も7月3日にユダヤ人を約11,000人を大量虐殺した。
 ドイツにとっては、ソ連のボリシェヴィキは第一義的にロシアの共産主義者であり、帝政ドイツからナチス時代まで、社会民主主義よりさらに急進的な左翼過激派であった。ソ連のボリシェヴィキは、ユダヤ人と同様に大量殺戮による絶滅の対象となった。第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツ軍は1942年から1943年におけて、東部戦線を突破して、ウクライナからソビエトに侵攻した。ソ連侵攻には。親衛隊・保安警察から編成された特殊行動部隊(Einsatzgruppen)が、大量殺戮のために随行した。ポリシェビキやユダヤ人から地域住民を、地域外に行進させて、土中に自らの深い塹壕を掘らされた後に、射殺されて土中に埋められた。1944年からソ連軍の攻勢により、ドイツ軍が東部戦線まで全面撤退した。特殊行動部隊は殺戮現場に戻りながら、死体を掘り起こして、焼却して痕跡を消滅した。


2019年1月4日金曜日

朝鮮戦争の直後に、韓国軍は思想政治犯を射殺して死体を塹壕下に捨て、死体の検証して生存した囚人たちを直ちに処刑した。

朝鮮戦争が勃発した1950年6月25日の勃発時には、韓国政府は大田刑務所に左翼系の国民保導連盟員、左翼事件の関係者や被疑者らが約2,000を拘束していた。特に国防警備法・特別措置令・布告令違反で逮捕された者は、全て思想政治犯人として、1950年7月8日から10日の間に処刑にて直ちに虐殺された。トラックから思想政治犯を引きずり下ろして、射殺された多くの死体は塹壕下に捨てられた。死体の検証して、射殺後に生き残っていた囚人たちは直ちに処刑にて虐殺された。
 朝鮮戦争が勃発した直後から、戒厳令下にて、大韓民国の韓国軍も北朝鮮の人民軍も、軍事裁判にて処刑執行人となった。両国家権力は、敵対国の協力者や容疑者となった民間市民を、反逆者として虐待と虐殺をした。戦争下における軍事的対決の危機の防衛のために、民間市民ら自国に服従と隷従に導いた。韓国軍あるいは人民軍は、占領した地域で、軍事裁判や人民裁判によって、反対勢力や左・右翼の関係者や容疑者を処刑した。朝鮮戦争の直後から、北朝鮮の人民軍が南下して押し寄せて来た。大田などの南下領域でも、韓国軍は7月8日から16日の間に人民軍に同調する思想政治犯人や民間市民らを急遽に虐殺して抹殺した。アメリカ軍と韓国軍は9月16日に仁川から上陸して、9月28日にソウルを奪還して。人民軍を以北まで撤退させた。韓国軍が朝鮮半島の南部を再占領した時には、人民軍に付随した容疑者や民間市民らを摘発して報復的な虐殺をした。


2019年1月3日木曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線のテト攻勢により、北ベトナム兵士がサイゴンのアメリカ大使館を約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のテト攻勢により、北ベトナム兵士が1968年1月31日にサイゴンのアメリカ大使館に侵入して約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。
 南ベトナム解放戦線兵士が1968年1月31日午前3時を期して、南ベトナムの首都サイゴンなど主要都市、軍事基地にいっせいに攻撃を仕掛けて、サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃された。午前3時ごろ約20人のベトコン・ゲリラが、正門と塀に対戦車ロケット砲を打ち込んで破壊して、機関銃を撃ちながら大使館に乱入した。テトの旧正月のために、アメリカ大使館には海兵隊の警備兵6人とベトナム人警官の数人、宿直のアメリカ人職の員数人だけが残っていた。アメリカ大使館側は、不意を衝かれて劣勢となり、1階から4階へと追い詰められた。アメリカ軍の救援がヘリコプターで屋上に降下して、地上からのアメリカ軍兵士と憲兵らが、アメリカ大使館内に突入したベトコン・ゲリラを攻撃した。ベトコン・ゲリラは上からと下から挟み撃ちにされ、ついに捕虜1人を残して他は全員射殺された。アメリカ側も海兵隊員と憲兵隊員にも数人の犠牲者が出た。
   テト攻勢が最初に終結するまでに約1か月かかった。態勢を立て直したアメリカ軍や南ベトナム政府軍の反撃で、推定約67,000人のベトコンの兵力は3分の2が壊滅した。水面上に姿を現した秘密工作員たちや民間市民らも、南ベトナム政府の秘密警察や公安当局、米軍特殊部隊に、鎌で刈り取られる芦のように次々に攻撃と摘発されて処刑された。南ベトナムの戦場では、テト攻勢から立ち直ったアメリカ軍と南ベトナム政府軍が、ベトコンに巻き返した。
 アメリカ合衆国では政府への不信、ベトナムから手を引く反戦機運が一気に噴き出した。大統領、リンドン・ジョンソンは大統領選挙の再選をあきらめ、北ベトナムに和平交渉を申し入れた。大統領選挙では、ベトナムからの撤退を旗印にした共和党のリチャード・ニクソンが勝った。



2019年1月2日水曜日

第1次世界大戦でドイツ軍はイーペル戦線で毒ガスを初めて使用して、ゾンネベーケの塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した。

第1次世界大戦にて、西部戦線のベルギーの国境付近のイーペル地域のゾンネベーケにて激しい戦闘が勃発した。ドイツ軍は1915年4月22日にイーペル戦線で毒ガスを初めて使用した。5月1日には塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した死体が散乱した。
 塹壕戦は、敵の小火器砲撃から防御して、 砲兵から実質的に保護される。第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が最も駆使された。武力と機動力が一致せず塹壕戦は行き詰まり、損耗 、包囲、戦闘には無益も示唆した。防御者が優位に立った過酷な戦争が起こった。1914年から1918年にかけて西部戦線では、両陣営は互いに複雑な溝、地下、掘り出し、有刺鉄線、地雷、障害物による攻撃から保護された。向かい合った塹壕線の間の地域は、両軍から完全に砲撃にさらされた。 攻撃は侵攻してもしばしば深刻な犠牲者を伴った。毒ガスにより、守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大くなった。
 塹壕戦では、ほぼ確実な死をもたらす銃撃の中へ、塹壕を越えて敵の塹壕線を攻撃した。ソンムの戦いで、イギリス軍は約6万人近くの犠牲者を出した。ヴェルダン戦でフランス軍が約38万人の犠牲者を出した。第一次世界大戦は大量虐殺となり、塹壕戦は、すべての戦闘兵士の約10%が殺害された。第2次ボーア戦争で5%、第二次世界大戦で4.5%の死亡率の倍にも達した。西部戦線でイギリス軍と英国連邦軍の死亡率は12.5%であり、死傷者の合計は約56%にも達した。



2019年1月1日火曜日

少女がロシア飢饉のため飢餓に陥り、頬が落ち込み顎がせり出し、顔や四肢が痩せ細り腹部が腫れて死期が近づいた。

   ロシアの大飢饉により、ペトログラード(レニングラード)では食糧と燃料不足のために、1921年に抗議デモが発生して戒厳令が敷かれた。少女が飢饉のために極度の栄養失調に陥り、頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、顔や四肢が痩せ細り、腹部が腫れて死期が近づいていた。
 第1次世界大戦で、ロシア帝国は約1,600万人もの兵士を戦線に駆り出して、兵士と市民らが約1,600万人も死亡した。ロマノフ王朝は1917年2月に崩壊して、10月にレーニン政権が樹立した。1918年5月から1920年まで諸外国の14ケ国は約130,000人を参戦させて内戦となった干渉戦争が勃発した。ロシア西部の最大の穀倉地帯が戦場となり、強制的に農民は食糧などを徴収された。干渉戦争の前後で、播種耕地は約31%、家畜は約40%も減少した。内戦の終結時に、気温が上昇して降雨量が低下する干ばつの悪天候となり、穀物生産が激減した。大部分の市民は、食糧価格の高騰で購入が困難となった。ロシア全土にわたり飢饉の規模と程度が拡大して深刻化した。
 深刻な飢饉により、約2,800万人以上の市民が栄養失調となり飢餓に陥った。特に弱者である約700万人の14歳未満の子供と約539万人の乳幼児が飢餓に陥った。栄養失調による飢餓と伝染病で、死亡率は約16%にも達した。両親が捨てたり死亡して約100万人前後の孤児や浮浪化から餓死を招いた。頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、死期が近づくと顔や四肢が腫れて、全身が浮腫んで死亡した。最悪の場合は、餓死した幼児の死体を、親族らが食べ合う人食いも横行した。



2018年12月31日月曜日

シュトゥットホーフ強制収容所に取り残された火葬場には生身の左手から肘だけを伸ばした焼死体が残存していた。

 第2次世界大戦の末期に、ソビエト軍がポーランドを侵攻しても、ナチス・ドイツのシュトゥットホーフ強制収容所(Stutthof)は他の強制収容所のように退避しなかった。ソビエト軍が到着するまで、ユダヤ人や囚人らを殺害し続けた。 死の行進の先には、ユダヤ人や囚人に対する屋外の火葬場があり、火炎が灯るのを待たされた。取り残された火葬場には生身の左手から肘だけを伸ばした焼死体が残存していた。強制収容所が解放される間近の1月31日の朝にも、約5,000人のユダヤ人や囚人らは海に通じる2 kmの道を下らされた。 狭い浜辺では、ユダヤ人や囚人らは冬にバルト海の凍った海に入るように命じられて、 彼ら全員は機関銃で銃殺された。シュトゥットホーフ強制収容所には約127,000人が収容されて、約85,000人が虐殺された。
 その他のユダヤ人や囚人らは、ドイツ東部のラウエンブルクまで死の行進をさせられ、侵攻してきたソ連軍によって進路を塞がれた。ドイツ軍は、ユダヤ人や囚人たちをシュトゥットホーフに強制的に引き返させた。冬の厳しい気候条件での行進や、親衛隊の護衛兵のひどい扱いにより、死の行進中に数千人が虐殺された。1945年4月下旬に、シュトゥットホーフがソ連軍によって完全に包囲され、残っていたユダヤ人や囚人は海路でシュトゥットホーフから移動させらた。シュトゥットホーフ強制収容所は、ドイツ国外では最初に設置された。約25,000人以上の囚人が、最も遅く1945年5月9日に解放される直前まで虐殺された。

https://drive.google.com/file/d/1AoNr63fKr8kcv8RYe_BfV6HmDTlaC5Eq/view?usp=sharing

2018年12月30日日曜日

第2次世界大戦のユーゴスラビアにおけるパルチザン闘争により虐殺されたパルチザンの死体が溝に投げ込まれて散乱した。

第2次世界大戦で、ユーゴスラビアの民族対立と枢軸国に対するパルチザン闘争により虐殺されたパルチザンの死体が溝に投げ込まれて散乱した。1945年5月の全土開放まで継続した。クロアチア独立国内では、セルビア人とジプシーのユダヤ人が虐殺された。ユーゴスラビア全土でセルビア主義的な抵抗組織であるチェトニクによって、クロアチア人とムスリムが虐殺された。
 ユーゴスラビアは1941年3月25日に日独伊3国同盟に加入した。その直後の3月27日に反ドイツ軍クーデターで新政府が樹立された。4月5日にユーゴスラビアはソ連と不可侵条約を締結するも、その直後にはドイツ軍は4月6日に首都のベオグラード爆撃しながら国境を越えて侵攻した。ユーゴスラビア軍はわずか10日間で壊滅した。国王と政府は、イギリスのロンドンに亡命した。枢軸国により分割して占領して、民族対立を引き起こし、分裂統治した。クロアチアのみクロアチア独立国として承認されて、イタリアが引き立てたファシストのウスタシ・グループに支配させた。ドイツに対する抵抗運動を粘り強く継続したのは汎民族主義のパルチザンであった。東欧の諸国で唯一ソ連軍の占領を受けずに、ユーゴスラビアの自力で解放を成し遂げた。 



https://drive.google.com/file/d/1k_hVuZKp_0Z0n1QvlaSRbPrLOG-kYuwz/view?usp=sharing

2018年12月28日金曜日

B-29が東京都江東区に無差別の大空襲して、路上の至る所に黒化した焼死体が散乱した。

東京大空襲にて1945年3月10日午前0時8分からB-29が東京都江東区に無差別の大空襲して、路上の至る所に黒化した焼死体が散乱した。3月10日早朝から死体処理する各隊により、焼死体を集積してメモ書きして片付けた。
 太平洋戦争の初期の1942年4月18日からアメリカ空軍による日本の本土への無差別の空襲が始発した。1941年12月8日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発して、半年以内に空母ホーネットからB-25爆撃機が、東京、横浜。横須賀、名古屋、神戸の6都市を空爆して、約45人が死亡して、約162人が爆傷となった。超高空速のB-29大型爆撃機が、マリアナ群島の空軍基地から1944年6月16日に北九州を空襲した。その後に帝都の東京には、空襲が約130回にも及んで、死者は総計約115,000人にも達した。約6割は全焼した。特に1945年3月10日のB-29約321機による東京都江東区への東京大空襲により約100,000人もの死者を出した。B-29から約1,700トンと約1,000,000発もの無差別の焼夷弾により、約30分間の猛火で周囲全域を燃え尽くした。広島原子爆弾の次ぐ犠牲者を伴った。北風による火事風となり、密集した木造の家屋敷と人命が焼き尽くされた。焼夷弾で直爆撃で死亡、吹き出す油脂などで焼死、煙の一酸化炭素中毒死、川や運河で溺死などの無差別の大量虐殺となった。


https://drive.google.com/file/d/1ycXbPeBS2bSP9kscoeTqjc4iAgQmSB0t/view?usp=sharing

2018年12月27日木曜日

太平洋戦争のルソン島にて日本軍とアメリカ軍は、無差別に女性から子供も含めたマニラ大量虐殺に関与した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1945年1月9日にフィリピンのルソン島の日本軍に侵攻した。フィリピン住民らは、アメリカ軍を支援して日本軍の情報を漏らして妨害した。日本軍には、近づくフィリピン人を射殺する命令が下された。日本軍は、無差別に女性から子供も含めて、マニラにおける大量虐殺に関与した。
 マニラ市内には約70万人のフィリピン市民が残存していた。その多くはアメリカ軍に協力的で直接ゲリラとして日本軍と戦闘した。1941年3月3日にアメリカ軍はマニラを制圧した。巻き込まれたマニラ市民の犠牲者は約10万人とされた。大戦の直後はアメリカ軍はマニラ市民の犠牲の関与を否定した。その後にアメリカ軍の無差別の重砲火によるマニラ市民の死者数は約4割に達すると推定された。


https://drive.google.com/file/d/1nh6Admv_rZ02Xd9C6cp5R3xGAsIbUYwV/view?usp=sharing

2018年12月26日水曜日

イタリア軍はリビア市民を含めた反イタリア抵抗勢力を、無差別に虐待、砲撃、毒ガス、地雷などあらゆる武力で虐殺した。

イタリア軍はリビアを植民地化を保持するために、多数のリビア市民を厳しく弾圧した。イタリア軍はリビア市民を含めた反イタリア抵抗勢力を、無差別に虐待、砲撃、毒ガス、地雷などあらゆる武力で虐殺した。
    北アフリカに対してイタリア王国は1911年にオスマン王国との伊土戦争に勝利して、リビアを植民地化した。イタリア人が入植するも、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられた。1926年からイタリア王国はリビアに対して厳しい弾圧が行った。1931年9月16日にムフタールが絞首刑で殺害され、抵抗運動は衰退して、1932年にリビアはイタリアに占領された。第2次世界大戦中は北アフリカ戦線で、連合国と枢軸国で激戦が繰り広げられた。枢軸国のイタリアの敗北により、大戦後は連合国のイギリスとフランスが共同統治した。
  1949年の国際連合の決議により、1951年に連邦制によるリビア連合王国が独立した。サヌーシー教団の指導者であるイドリース1世が国王に即位した。1963年に連邦制を廃止してたリビア王国を樹立した。1969年9月1日にナーセル主義者であるムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ, 27歳)大佐らによる軍事クーデターにより、イドリース1世は亡命して、カダフィ大佐が事実上の元首となった共和国が成立した。2010年のアラブの春の内戦により、長期独裁政権のカダフィ大佐は2011年に69歳で殺害された。


https://drive.google.com/file/d/1bioNH6kfvdW9ssCbqTNuOq4tuWdXtYU4/view?usp=sharing

2018年12月25日火曜日

フランスのダンケルク海岸にはドイツ軍の侵攻により多数のイギリス軍とフランス軍兵士の死体が散乱した。

フランスのダンケルク海岸にはドイツ軍の侵攻により多数のイギリス軍とフランス軍兵士の死体が散乱した。ダンケルクの大部分の街路を引火して火災により通行止めにした。イギリス軍の約68,111人が殺害または捕虜となり、約40,000人のフランス軍も捕虜となり、ダンケルクの民間人約1,000人も殺害された。
 第2次世界大戦の欧州戦線にて、連合軍はドイツ軍に追い詰められて、ダンケルク撤退は1940年5月26日から移動を開始して、5月28日に全連合軍にダンケルク橋頭堡へ撤退命令が出た。撤退には1週間以上もかかり、最終的に撤退した6月4日までに、イギリス軍約223,000人とフランドル地方に残存したフランス軍の約115,000人を含む約338,000人以上の兵士がイギリス本土に撤退した。港が非常に浅く大型船の接近は困難となり、ドイツの空軍の爆撃をイギリス空軍の犠牲で防御した。イギリス海軍は民間人に船の貸出しを要求して、約665の小型民間船を救助に使用した。頑強に橋頭堡を守った約26,000人以上が6月4日にドーバーの最後の船で救出された。イギリス本土のフランス軍は約3,000人が居残り、約120,000人がフランスに戻るも、フランスは6月22日はナチス・ドイツに降伏の調印をした。



2018年12月24日月曜日

カンボジアのポル・ポト政権下で虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められ朽ち果てて白骨化した。

カンボジアのポル・ポト政権下で死亡した人は約200万人に上り、虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められた。殺伐とした荒野には、多数の土穴が幾つも並び、その中に数十体の朽ち果てた白骨化した遺体が、無造作に放置されていた。大量虐殺の刑場の多くは切り開かれた土地に設置されて、犠牲者の死体が遺棄された場所は国内に約2万か所と推定された。
 ベトナム戦争によりアメリカ軍が、1970年に北ベトナムへの浸透ルートであるカンボジアを爆撃して、国土の多くが荒廃して国内が混乱に陥った。混乱に乗じて猛烈な農村ナショナリズムを伴う共産主義であるクメール・ルージュが台頭した。階級や格差の全くない原始時代の状態に戻す原始共産主義を浸透させた。1975年にクメール・ルージュ政権が樹立されると、都市住民を敵対して、数百万人もの市民らを農村部に強制連行した。クメール・ルージュは食糧増産を図る為、大都市の市民から知識階級などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させて、農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務から貨を廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。酷い強制労働で虐待して、飢餓や過労死など大量の餓死者を出した。




2018年12月23日日曜日

エルサルバドルにて反政府デモ後に市街戦勃発し、警察により殺害された多数の男性の死体が聖ロザリオ教会内に散乱した

カンボジアのポル・ポト政権下で死亡した人は約200万人に上り、虐殺された膨大な死体は急ごしらえの穴に埋められた。殺伐とした荒野には、多数の土穴が幾つも並び、その中に数十体の朽ち果てた白骨化した遺体が、無造作に放置されていた。大量虐殺の刑場の多くは切り開かれた土地に設置されて、犠牲者の死体が遺棄された場所は国内に約2万か所と推定された。

 ベトナム戦争によりアメリカ軍が、1970年に北ベトナムへの浸透ルートであるカンボジアを爆撃して、国土の多くが荒廃して国内が混乱に陥った。混乱に乗じて猛烈な農村ナショナリズムを伴う共産主義であるクメール・ルージュが台頭した。階級や格差の全くない原始時代の状態に戻す原始共産主義を浸透させた。1975年にクメール・ルージュ政権が樹立されると、都市住民を敵対して、数百万人もの市民らを農村部に強制連行した。クメール・ルージュは食糧増産を図る為、大都市の市民から知識階級などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させて、農業に従事させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務から貨を廃止し、宗教を禁止し、一切の私財を没収した。酷い強制労働で虐待して、飢餓や過労死など大量の餓死者を出した。