戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年10月18日木曜日
2018年10月17日水曜日
ロシア内戦で、骨が浮き上がりやせ細り疲弊して、農民家族が餓死を直前に虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。
骨が浮き上がるほど全身がやせ細って疲弊して、餓死を直前にして、農民家族が虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。膨大な農民がレーニン新政権の割当て徴収制度に反発して、農作業を放棄して穀物料が極端に落ち込み、飢饉と餓死に陥った。
第1次世界大戦が1914年7月に勃発して、兵士と市民の死亡は約365万人にも達した。ロシア革命により、1917年2月に約300年にわたるロマノフ王朝は崩壊した。10月からレーニンの新政権が樹立された。1918年5月から内戦による対ソ連干渉戦争で、14ケ国が約13万人をロシアに派兵するも、1920年秋に終結した。特にロシア南東部の穀倉地帯が戦闘に巻き込まれた。新政権と干渉国の双方が、膨大な農民から強制的に食糧を徴収した。さらに穀倉地帯では、降雨量の減少と気温上昇の天候不順が拍車をかけて、食糧価格が急騰した。ロシアで1921年から1922年に甚大な飢饉が発生した。1921年にソ連の総生産は戦争前より約7分の1まで落ち込んで国家経済は統制されて民間経済が禁止され疲弊して落ち込んだ。レーニン新政権は1921年3月に民間規制して国家経済を独占して、農業には現物税制にする新経済政策(ネップ)を導入して、食糧の価格が高騰して偏在した。長期間の戦争により、穀物と家畜が極端に減少した。広大な地域における飢餓に陥った市民は、ソ連人口の約4分の1に相当する約3,500万人にも達した。収穫不良から飢餓に陥って、栄養摂取量が低下して、体力を奪われ流行した伝染病で死亡した。
第1次世界大戦が1914年7月に勃発して、兵士と市民の死亡は約365万人にも達した。ロシア革命により、1917年2月に約300年にわたるロマノフ王朝は崩壊した。10月からレーニンの新政権が樹立された。1918年5月から内戦による対ソ連干渉戦争で、14ケ国が約13万人をロシアに派兵するも、1920年秋に終結した。特にロシア南東部の穀倉地帯が戦闘に巻き込まれた。新政権と干渉国の双方が、膨大な農民から強制的に食糧を徴収した。さらに穀倉地帯では、降雨量の減少と気温上昇の天候不順が拍車をかけて、食糧価格が急騰した。ロシアで1921年から1922年に甚大な飢饉が発生した。1921年にソ連の総生産は戦争前より約7分の1まで落ち込んで国家経済は統制されて民間経済が禁止され疲弊して落ち込んだ。レーニン新政権は1921年3月に民間規制して国家経済を独占して、農業には現物税制にする新経済政策(ネップ)を導入して、食糧の価格が高騰して偏在した。長期間の戦争により、穀物と家畜が極端に減少した。広大な地域における飢餓に陥った市民は、ソ連人口の約4分の1に相当する約3,500万人にも達した。収穫不良から飢餓に陥って、栄養摂取量が低下して、体力を奪われ流行した伝染病で死亡した。
2018年10月16日火曜日
太平洋戦争にて、日本軍がニューギニア東部のブナを拠点に対して、連合軍兵士が塹壕に潜伏した日本軍の全兵士を射殺した。
太平洋戦争において、アメリカ軍とオーストラリア軍らの連合軍は1942年11月からニューギニア東部にある日本軍の拠点であるブナに侵攻した。ブナを拠点とした日本軍は1943年1月2日に全滅して全兵士が戦死した。しかし、大本営は全滅して全戦死を極秘にした。連合軍兵士が、ブナの塹壕に潜む日本軍の全て兵士を射殺した。
ブナを拠点とするため1942年7月21日に日本軍が上陸した。11月中旬から連合軍が、ブナ・ゴナ地区へ侵攻した。ブナ方面の日本軍は疲弊して孤立していた。連合軍の侵略により12月8日にバザブアに配備された日本軍の兵員は全滅した。1943年1月2日にはブナの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。ギルワの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。の一連の陸上戦により、日本軍兵士の約11,000人のうち約7,600名が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、バザブア、ギルワにて、連合軍の日本軍兵士の捕虜は約200人程度のみ生存した。ブナの最後拠点であるギルワは、連合軍が1月21日に侵攻して、極度に衰弱した日本軍兵士が全戦死して、ブナ地区の戦闘は終結した。1943年2月9日、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と誤報した。
1943年春頃から日本軍兵士は連合軍に追い詰められ、内地からの補給も途絶え、南部のバボに撤退を命令された。ニューギニアの地図上で斜線を引っ張っただけで、絶望的な約2ケ月にわたるニューギニアの死の行進が強行された。道なきジャングルに置き去られ、徘徊して、飢餓と伝染病に侵されて膨大に戦死した。
1943年春頃から日本軍兵士は連合軍に追い詰められ、内地からの補給も途絶え、南部のバボに撤退を命令された。ニューギニアの地図上で斜線を引っ張っただけで、絶望的な約2ケ月にわたるニューギニアの死の行進が強行された。道なきジャングルに置き去られ、徘徊して、飢餓と伝染病に侵されて膨大に戦死した。
2018年10月15日月曜日
ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
大都市の成長の陰では多くの市民の犠牲を伴った。大火災が1911年3月25日に、婦人用古着再生工場であるトライアングル・シャツウェスト工場で発生した。アメリカでは多くの工場で労働運動の対立と和解があった。トライアングル社は最後まで決着がつかなかった。トライアングル社は8から9階のビルが工場であり、8階から火災が発生して、多くの女工が死亡した。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になった。火災により500人のうち縫製工146人(女性123人、男性23人)が、火災や煙の吸引による窒息、さらに転落から飛び降りにより死亡した。犠牲者の大半は16歳から23歳までのユダヤ人やイタリア人の移民女性であった。46~60人以上がの人が火災からの逃げ場を失って、窓枠から飛び降りて死亡した。窓から落下して、街頭に叩き付けられて即死した。多くの死体は道路に積み上げられていた。
1929年にニューヨークの州知事となったフランクリン・ルーズベルトは、工場調査委員会により州内の労働問題を一掃させた。ルーズベルトは、大恐慌を克服し、経済の蘇生から労働者の待遇を改善するニューディール政策を公約して、1933年に大統領に選出された。日本軍による1941年12月8日の真珠湾攻撃に対して、ルーズヴェルトは正義の戦いを市民に訴え、日本と同盟国に宣戦布告した。
2001年3月11日のニューヨークの同時多発テロにより、突入した航空機の燃料で火災が発生し、高熱で強度の低下した鉄骨に、荷重が下層に座屈の連鎖を起し、短時間で2つのタワーは崩壊した。約2749人も死亡する大惨事となり、世界貿易センターは崩壊した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタン・イラクに宣戦布告した。
2018年10月14日日曜日
ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。
ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。
グラーグは、スターリン時代に生まれた恐怖の収容所である。ソ連内で市民同士の密告システム、秘密警察が拿捕する。何ら証拠もなく市民は手当たり次第に逮捕される。一度囚えると裁判なども省略して、シベリアの強制収容所に送られる。極寒の中で餓死状態で悲惨な重労働を何十年も強制され、生還はほとんど皆無である。強制収容所は、敵対者や反体制勢力を隔離する施設であった。シベリアの開発のために労働力の確保も必要な収容所でもあった。ソ連邦の社会主義は、初期には強制収容所が基盤となった。ゴルバチョフは、収容所システムに迫害された勢力の出身であった。ペレストロイカとともに、強制収容所は実質的に閉鎖された。ソ連邦崩壊に伴って、存在すら化石になっている。生き証人もなくなると、強制収容所の全貌を明らかにできない。
アブグレイブやグアンタナモの捕虜収容所等では捕虜虐待が起きている。強制収容所の教訓が生かされていない。戦争捕虜の処遇の問題であり、ソ連の強制収容所は、完全に社会体制の一部として機能していた。グラーグの問題は、囚人の待遇以前の問題である。
反対勢力は、強制収容所を否定し隠蔽してきた。社会主義はすばらしい、決めつけでっちあげ裁判ですら肯定し、強制収容所はデマだウソだと言い続けた。否定できなくなったときには適当に言葉を濁してごます。ソルジェニーツィン『収容所群島』も世界にソ連強制収容所の実態を初めて、西側世界に衝撃をもたらした。
2018年10月13日土曜日
甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)
城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。
2018年10月12日金曜日
日本軍の襲撃で虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は夫の右手を握り、子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。
日本軍による襲撃により虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は左手で夫の右手を握り、妻の右手で子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。
満州の奉天郊外で柳条湖にて1931年9月18日の南満州鉄道の爆破を、国国民軍の犯行であると提訴し、鉄道防衛から軍事衝突を繰り返して満州事変に拡大した。日中間の緊張がにわかに高まり、上海にて日本軍は中国人の抗日運動を1932年1月28日から3月3日にかけて弾圧した。上海市の共同租界周辺で衝突して市街戦となり、第一次上海事変が勃発した。上海にて1月18日に日本人僧侶ら約5名が襲撃されて、中国人の容疑とした。1月27日に日本総領事の抗議で、上海市当局は陳謝と処罰を受諾しながら、戒厳令を強要した。各国租界の警備隊が警備につく中、1月28日に日本海軍は日本政府の許可を受けずに海軍陸戦隊による戦闘が勃発した。終戦後の東京裁判では、関東軍が満州事変に対する国際連盟などの非難を逸らすため、買収された中国人の無頼漢に日本人僧侶を襲撃させたと証言した。上海の共同租界には列強の権益が集中して、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアは日本に対して、上海事変の停止の協議を求めた。その会議日程中の4月29日に、上海派遣軍司令官が、爆弾テロリストによって虐殺された。中国人の犠牲者は、死者が約12,354人、戦傷者が約12,070、行方不明者は約10,400人にも達したと中国政府が報告した。そのうち民間市民の犠牲者は、約6,000人の死者と行方不明は約10,000人と推定された。それに比較して、日本軍の犠牲者はわずかで、死者は約769人、戦傷者は約2,322人と指摘された。イギリスの妥協案による調印が5月5日に成立して、 日本政府は上海からの撤兵を決定して、5月中旬に陸兵のすべてを上海から撤退することを閣議決定した。
2018年10月11日木曜日
フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がった「戦場のバレエ」の写真を終戦まで未公開にした。
第1次世界大戦中において、フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がっていた「戦場のバレエ」の写真を、終戦まで公開するのを禁止した。フランスもドイツも徹底した検閲を行いながら、大規模な宣伝戦を繰り広げた。第1次世界大戦では、連合国も同盟国も、写真班を従軍させて、写真による戦争記録を残した。写真は徹底した当局の検閲により、自国に有利となるプパガンダのみが公表された。
フランスはドイツ占領下の地域に手紙を出すには、直接に郵便物のやり取りは不可能で、フランス検閲局の印章がある専用葉書で20語以内の伝言だけが許可された。戦争中の検閲により、重要な情報が敵国に漏れないためだけでなく、市民らに敗北や莫大な犠牲者の数を秘密裏にした。終戦後になってから、フランスの犠牲者は、兵士が約140万人、民間人が約30万人、戦傷者は約430万人に達した。フランスの人口は約4000万人弱なので、人口の15%が戦死あるいは戦傷した。終戦後に、膨大な犠牲者の公表により、連合国は全ての戦争責任をドイツに転嫁して膨大な賠償金を課した。莫大な賠償金が、ドイツに大きな経済的な低迷を強して、ヒトラー政権を生む要因となった。
終戦後になってから、アメリカのニュヨークで1919年に「イラステッド・デイリーニュース」紙、フランスでは1929年に 「ビュ」誌、1936年に「ライフ」誌が創刊された。その他にも、イギリスでは1939年に「ピクチャー・ポスト」誌、フランスでは「パリ・マッチ」誌、アメリカでは「ルック」・「ホリディ」誌、ドイツでは「デル・シュピーゲル」誌などが次々に発刊された。戦争中の写真は、日刊新聞・週刊新聞・週刊誌に掲載されて、「ライフ」雑誌は、創刊して3年間で約300万部にも達した。しかし、従軍した写真は厳しい情報管理下で規制されていた。戦時下で検閲局が最も規制したのは、「死者の写真」であった。検閲で却下された一例は太平洋戦争中に1934年のニューギニアの戦いにて「ブーナ海岸で待ち伏せにあった3人のアメリカ兵」は、検閲局により1943年2月に「ライフ」誌の掲載が禁止された。しかし、アメリカ軍の方針転換して、市民の好戦を高揚するために、同じアメリカ兵の3人の死体写真が、「ライフ」誌の1943年9月20日号に掲載された。彼らの顔はヘルメットで隠れて見えず、ジャングルと座礁した船舶のみで、戦意高揚のために「死者の写真」を掲載させた。
フランスはドイツ占領下の地域に手紙を出すには、直接に郵便物のやり取りは不可能で、フランス検閲局の印章がある専用葉書で20語以内の伝言だけが許可された。戦争中の検閲により、重要な情報が敵国に漏れないためだけでなく、市民らに敗北や莫大な犠牲者の数を秘密裏にした。終戦後になってから、フランスの犠牲者は、兵士が約140万人、民間人が約30万人、戦傷者は約430万人に達した。フランスの人口は約4000万人弱なので、人口の15%が戦死あるいは戦傷した。終戦後に、膨大な犠牲者の公表により、連合国は全ての戦争責任をドイツに転嫁して膨大な賠償金を課した。莫大な賠償金が、ドイツに大きな経済的な低迷を強して、ヒトラー政権を生む要因となった。
終戦後になってから、アメリカのニュヨークで1919年に「イラステッド・デイリーニュース」紙、フランスでは1929年に 「ビュ」誌、1936年に「ライフ」誌が創刊された。その他にも、イギリスでは1939年に「ピクチャー・ポスト」誌、フランスでは「パリ・マッチ」誌、アメリカでは「ルック」・「ホリディ」誌、ドイツでは「デル・シュピーゲル」誌などが次々に発刊された。戦争中の写真は、日刊新聞・週刊新聞・週刊誌に掲載されて、「ライフ」雑誌は、創刊して3年間で約300万部にも達した。しかし、従軍した写真は厳しい情報管理下で規制されていた。戦時下で検閲局が最も規制したのは、「死者の写真」であった。検閲で却下された一例は太平洋戦争中に1934年のニューギニアの戦いにて「ブーナ海岸で待ち伏せにあった3人のアメリカ兵」は、検閲局により1943年2月に「ライフ」誌の掲載が禁止された。しかし、アメリカ軍の方針転換して、市民の好戦を高揚するために、同じアメリカ兵の3人の死体写真が、「ライフ」誌の1943年9月20日号に掲載された。彼らの顔はヘルメットで隠れて見えず、ジャングルと座礁した船舶のみで、戦意高揚のために「死者の写真」を掲載させた。
2018年10月10日水曜日
強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者であったカポが看守として火ばさみで引きずり出した。
ナチス・ドイツの強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者らであったカポ(Kapo)が看守として火ばさみで引きずり出した。
ナチス・ドイツの親衛隊が、軍務として強制収容所を監視した。1942年から1943年にかけて、ソ連との東部戦線が苦境に陥るにつれて、次第に親衛隊の幹部が戦地へ徴用された。そのために、高齢の親衛隊を中核として、予備警察隊として非ドイツ人が徴用された。予備警察隊は、親衛隊を支持しながら、強制収容所の看守や監視役も担った。少数の親衛隊のみが、収容所長や副官として監督していた。さらに強制収容所内では、親衛隊の地位や規律が崩れて、野蛮な虐待と虐殺が執行された。強制収容所は、ユダヤ人だけでなく、様々な出身者や多数の犯罪者も収容された。元犯罪者らが、カポと任命される囚人の看守に成り上がった。カポは牢名主として、直接的に囚人らに強制収容所の規律を遵守させて、ナチス・ドイツの親衛隊が嫌悪する作業などを執行した。生き延びるために、カポは他人に対して残虐となり、囚人たちを拷問から虐殺に陥れた。アウスビッツ強制収容所では、カポが数千人にも達した。強制収容所の囚人には、既決囚人は緑、エホバの証人は紫、政治犯は赤、同性愛者はピンク、浮浪者は黒の三角形のバッジを胸に付けられた。特に緑のバッチの既決囚人が劣悪なカポに任命された。ユダヤ人の囚人だけは特別に区別できるように、三角形を2つ重ねたダビデの黄色いバッチを付けられた。1951年から1964年の間に、主にカポであると訴追された約40件が裁判された。
2018年10月9日火曜日
アメリカ兵士はレイテ島の飛行場に撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。
レイテ島のタクロバン飛行場にて、アメリカ軍兵士は撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。
太平洋戦争のレイテ島の戦闘にて、日本軍兵士が軽装備をして落下傘で敵陣地に降下する奇襲作戦をした。太平洋戦争が勃発する以前の1940年11月頃から落下傘部隊が編成された。最初の落下傘部隊は、第二次大戦中の1940年4月にドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下した。約476人の日本軍の落下傘部隊が、レイテ島でアメリカ軍が奪取した飛行場を奪回する戦闘をした。ブラウエン北(ブリ)飛行場には1944年12月6日朝から日本軍歩兵の斬り込み突撃をした。ブラウエン北(ブリ)とブラウエン南(パユグ)及びサンパブロの各飛行場には、12月6日夜間に日本軍兵士は落下傘で降下するも、全滅して生存者が1人も無かった。アメリカ軍が既に奪還していたブラウエン飛行場は草地に覆われて重爆撃機には利用価値が乏しかった。それらの飛行場の奪回の戦況はアメリカ軍の記録しかない。全滅となる甚大なる犠牲により、その後日に日本軍は落下傘部隊によるレイテ島の飛行場の奪回は中断となった。日本軍の爆撃機が12月7日にタクロバン飛行場とドラッグ飛行場の奪回に向かった。同様に日本軍兵士は全滅により生存者はなく、アメリカ軍には、飛行場の奪回する戦闘に関する記録は皆無であった。アメリカ軍は、タクロバン飛行場に撃墜された日本軍の爆撃機の残骸と、搭乗した日本兵士の焼死体の戦場写真(下記)のみが残存した。
2018年10月8日月曜日
朝鮮戦争にて、虐殺された北側朝鮮市民の死体が1950年10月22日に平壌で散在していた。
朝鮮戦争(6・25戦争)期間に、平壌で虐殺された北朝鮮の民間市民の死体が1950年10月22日に散在した。南北ので起きた民間人虐殺は、戦争の残酷から、報復は報復を生み、悲憤と憎しみ、傷だけが大地に残った。
朝鮮戦争の傷や痛みは軍人だけでなく、民間市民にも及んだ。南北の民間市民は戦争の期間にわたって避難民の苦痛を経験し、戦争物資を生産するために動員されて、生存のために凄絶な虐待を受けた。膨大な犠牲者により、北朝鮮の民間市民の死者数だけでも約200万人にも達した。北朝鮮側は公式記録で、連合軍と韓国軍が38度線以北の地域を占領した1950年10月と11月50日余りの間に、約17万2000人を虐殺したと主張した。旧ソ連の文書では、朝鮮戦争期間に爆撃や虐殺による民間市民の犠牲者は約28万2,000人と推定した。北朝鮮で受けた民間市民の犠牲者は約40〜48万人と推算した。
朝鮮戦争中に左右翼の思想により報復が報復を生む悪循環が繰り返された。北朝鮮地域で戦争期間に起きた虐殺はほとんど右翼青年に執行された。北朝鮮政府は、アメリカ軍が最も深刻な被害の新川郡虐殺事件を起こしたと主張した。土地改革を巡って右翼青年は38度線以南に下り、地下に隠れた。朝鮮戦争期間に北朝鮮地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンだった。第二次世界大戦中にドイツに投下された弾数をはるかに超えた。残っていた民間市民と後退して北に来た難民たちも疑惑を受けて処罰の対象となった。民間市民の犠牲は右翼が後退する過程でアメリカ軍の爆撃に遭遇して、約3万5,000人余りが死亡した。左翼と右翼の間に行われた虐殺の傷は南と北に深い不信と憎悪の感情を残した。
朝鮮戦争期間に北朝鮮地域で民間市民の死亡者数が増加したもう一つの要因は、アメリカ軍の大規模な空襲だった。戦争初期から制空権を掌握したアメリカ軍は、1950年6月29日から停戦発効前まで絶えず襲撃をした。戦争期間に北側地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンであった。太平洋戦争期間である3年8ヶ月の間、各国に投下した爆弾量だけでなく、二次世界大戦の期間にドイツに投下した爆弾の数をはるかに超える量であった。米軍は爆撃で北朝鮮の都市地域と産業施設も破壊した。1952年6月23日の空襲で、アメリカ軍は、効果的な攻撃のために、空襲には空母四隻、約500機以上の飛行機を動員した。空襲で米空軍の爆撃機は、わずか数分の間に約900トンの爆弾を水豊ダム上などに投下した。アメリカ軍は、産業施設に加え、農業施設も空襲を敢行した。
2018年10月7日日曜日
アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。
アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。
イギリスは、豊富なダイヤモンド鉱山を独占するためトランスヴァールの併合を狙った。1877年4月に併合宣言を出して、イギリス軍は混乱するトランスヴァールの首都プレトリアを占領した。1880年12月にトランスヴァール内で、オランダ系を主体とする白人移住者を主体とするボーア軍が挙兵して、第1次ボーア戦争が勃発した。地の利のあるボーア軍が、イギリス軍を撃破して、プレトリア講和会議によるロンドン協定に追い込んだ。
1886年にトランスヴァール共和国・ヨハネスブルグ西方の町ラントで世界有数の金鉱脈が発見された。ゴールドラッシュがスタートして、ボーア人系も約7,000人がラントに移住して、イギリス系も約2万人が移住した。イギリス系大財閥が本格的に金採掘に参入した。トランスヴァール併合するために、1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した。イギリス軍は軍事力で圧倒的するも、ボーア軍側の抵抗が凄まじく、戦争は3年半以上も継続した。イギリス軍は1900年1月19日から24日にレディスミスを攻略するスピオン・コップ の戦闘で敗退して、約1,000人もの犠牲者を出した。一連の敗退から大英帝国はボーア戦争に威信をかけ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、ビルマなど、大英帝国から義勇兵による大英帝国の戦争となった。ボーア軍はゲリラ化して、大英帝国軍は泥沼化が続いた。大英帝国軍は、ゲリラ化する農村地帯を焼き払い、女性・子供・老人などのボーア人非戦闘員を強制収容して虐待と虐殺した。主導者であるオランダ系住民への弾圧を強化して、1902年5日にプレトリア講和に導いた。 トランスヴァール、オレンジ両州は直轄植民地としてイギリスの統治下に入れた。大英帝国の市民が多く犠牲となり、大資本家は利潤を得るため富国強兵に導いて、膨大な戦費は国税から賄わせた。オランダ系のボーア人は困窮から脱出するためにアフリカ原住民の黒人を奴隷化して人種差別するアパルトヘイト政策を構築した。
2018年10月6日土曜日
広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)
広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。
2018年10月5日金曜日
ロシア軍により捕虜となったドイツ軍の下士官のポケットから発見されたコヴノにおけるユダヤ人虐殺。
ナチス・ドイツ国防軍兵士は、残虐行為の証拠写真を記念に持ち帰っていた。1941年の冬に捕らわれたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、コヴノのユダヤ人虐殺の惨状を示す下記の写真があった。ナチス・ドイツ軍は、暴力に快感を感じているようだ。避難民を、銃の乱射で皆殺し、パルチザンを拷問にかけた。ガソリンをかけた薪の上で犠牲者を焼いて、酒を飲んで談笑した。1941年12月13日に捕虜の赤軍を、有刺鉄線で囲んだ四階建てのビルに押し込めた。ドイツ軍は深夜に、建物に火をつけて、窓から飛び降りる赤軍を撃った。約70人の赤軍が射殺されて、その他多数は焼け死んだ。その他に、ロープで首を吊られた2人のロシア人をドイツ兵が眺める写真も所持していた。
ナチス・ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密協定を結んだ。独ソは、ポーランドを共に侵略して分割占領して、バルト諸国はソ連に割譲を取り決めた。ソ連は1940年6月にリトアニアに赤軍を侵攻させてコヴノなど全土を占領した。1941年6月に独ソ戦が開始されると、リトアニアやコヴノからソ連軍はは撤退してドイツ軍が占領した。
コヴノには全人口の約4分の1を占める約4万人のユダヤ人が暮らした。リトアニアでは反ソ連と反ユダヤ主義が蔓延した。リトアニア人は報復的な殺人行為をドイツ軍に協調して、ドイツ軍の占領から約1カ月間でコヴノで約1万人のユダヤ人が虐殺された。ドイツ軍はユダヤ人の強制隔離地区であるゲットーを創設した。コヴノのユダヤ人住民全員をゲットーに移住させた。ナチス・ドイツは、収容所に送るまでの間、ゲットーにユダヤ人を隔離した。狭い場所に大勢の人間が詰め込まれ、毎日のように収容所への移送した。食糧は不足し、人々は餓死して、不衛生で伝染病が流行した。道端に死体が転がっていた。ゲットーと外部は3m59cmのレンガの壁が遮断して、とても乗り越えれない。ユダヤ人は壁の向こうに願い望み焦がれて叫び憎み呪った。
1941年8月にはゲットーが封鎖されて、約3万人のユダヤ人が隔離された。数カ月でゲットーの約3,000人が虐殺された。1941年10月28日に約9,000人が郊外の要塞に連行され殺害された。コヴノは約18,000人のゲットーとなった。1943年秋に親衛隊が直接のゲットーを支配して、コヴノ・ゲットーは強制収容所に転換された。1943年10月に基幹収容所の約2,700人の囚人を移送した。健常者はエストニアの労働収容所へ、労働不可者、老人、子供などはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送した。ソ連軍の接近に伴い、1944年7月8日に親衛隊はコヴノ強制収容所の撤収をした。残った囚人たちはダッハウ強制収容所やシュトゥットホーフ強制収容所へと移送された。ソ連軍がコヴノに到着する前に、ゲットーや収容所は徹底的に破壊され、約2,000人ほどのユダヤ人が虐殺された。
2018年10月4日木曜日
戦争は人道に対する犯罪です(WPU)。フランス北東部のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である。
アメリカの女性平和連合(WPU: Women's Peace Union)は、戦争に伴う犠牲をアメリカ人に再考させるため、1920年代に下記の写真付きのチラシを配布した。(戦争は人道に対する犯罪です。フランス北東部の国境近郊のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である)。私たちWPUは平和を主張します。『戦争に襲われた人類の苦しみで恐怖に満ちているあなたに。約1,000万人が虐殺されたことを覚えているあなたに。最後の戦争で育った。戦争の現実に直面する勇気を持っているあなたに、感傷的な栄光を取り除いてください 停戦協定の署名から8年!平和はまた戦争の準備によって覆われています。次の戦争では、より強力な殺人光線、ガス、病原菌、武器などによって、より多くの男性、女性と子供たちは非人道的で残虐な虐殺されるでしょう。あなたが愛する人たちの全世界の破壊を共有しなければなりません。あなたは世界を粛清に尽力しないようにできますか?妥協しない平和組織にあなたの貢献を送ってください。私たちWPU(女性平和連合)は、暴力と流血は道義的に悲惨な行為と信じています。私たちは、戦争を不法にし、世界平和を確保するよう努めています。』
世界大戦間の時期に、多くの平和社会活動団体の一つであるWPUは、1930年代に戦争宣言に国民投票を必要とする憲法改正のためにロビー活動を行った。アメリカ救済庁と私的慈善団体は、1921年と1922年に飢饉に見舞われたロシア人を含む貧しいヨーロッパ人に食糧を届けた。アメリカ人は絶望的なヨーロッパ人に食糧を供給するだけでなく、政治的過激主義を抑えることを望んでいた。
登録:
投稿 (Atom)