戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年10月8日月曜日
朝鮮戦争にて、虐殺された北側朝鮮市民の死体が1950年10月22日に平壌で散在していた。
朝鮮戦争(6・25戦争)期間に、平壌で虐殺された北朝鮮の民間市民の死体が1950年10月22日に散在した。南北ので起きた民間人虐殺は、戦争の残酷から、報復は報復を生み、悲憤と憎しみ、傷だけが大地に残った。
2018年10月7日日曜日
アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。
アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。
イギリスは、豊富なダイヤモンド鉱山を独占するためトランスヴァールの併合を狙った。1877年4月に併合宣言を出して、イギリス軍は混乱するトランスヴァールの首都プレトリアを占領した。1880年12月にトランスヴァール内で、オランダ系を主体とする白人移住者を主体とするボーア軍が挙兵して、第1次ボーア戦争が勃発した。地の利のあるボーア軍が、イギリス軍を撃破して、プレトリア講和会議によるロンドン協定に追い込んだ。
1886年にトランスヴァール共和国・ヨハネスブルグ西方の町ラントで世界有数の金鉱脈が発見された。ゴールドラッシュがスタートして、ボーア人系も約7,000人がラントに移住して、イギリス系も約2万人が移住した。イギリス系大財閥が本格的に金採掘に参入した。トランスヴァール併合するために、1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した。イギリス軍は軍事力で圧倒的するも、ボーア軍側の抵抗が凄まじく、戦争は3年半以上も継続した。イギリス軍は1900年1月19日から24日にレディスミスを攻略するスピオン・コップ の戦闘で敗退して、約1,000人もの犠牲者を出した。一連の敗退から大英帝国はボーア戦争に威信をかけ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、ビルマなど、大英帝国から義勇兵による大英帝国の戦争となった。ボーア軍はゲリラ化して、大英帝国軍は泥沼化が続いた。大英帝国軍は、ゲリラ化する農村地帯を焼き払い、女性・子供・老人などのボーア人非戦闘員を強制収容して虐待と虐殺した。主導者であるオランダ系住民への弾圧を強化して、1902年5日にプレトリア講和に導いた。 トランスヴァール、オレンジ両州は直轄植民地としてイギリスの統治下に入れた。大英帝国の市民が多く犠牲となり、大資本家は利潤を得るため富国強兵に導いて、膨大な戦費は国税から賄わせた。オランダ系のボーア人は困窮から脱出するためにアフリカ原住民の黒人を奴隷化して人種差別するアパルトヘイト政策を構築した。
2018年10月6日土曜日
広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)
広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。
2018年10月5日金曜日
ロシア軍により捕虜となったドイツ軍の下士官のポケットから発見されたコヴノにおけるユダヤ人虐殺。
ナチス・ドイツ国防軍兵士は、残虐行為の証拠写真を記念に持ち帰っていた。1941年の冬に捕らわれたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、コヴノのユダヤ人虐殺の惨状を示す下記の写真があった。ナチス・ドイツ軍は、暴力に快感を感じているようだ。避難民を、銃の乱射で皆殺し、パルチザンを拷問にかけた。ガソリンをかけた薪の上で犠牲者を焼いて、酒を飲んで談笑した。1941年12月13日に捕虜の赤軍を、有刺鉄線で囲んだ四階建てのビルに押し込めた。ドイツ軍は深夜に、建物に火をつけて、窓から飛び降りる赤軍を撃った。約70人の赤軍が射殺されて、その他多数は焼け死んだ。その他に、ロープで首を吊られた2人のロシア人をドイツ兵が眺める写真も所持していた。
ナチス・ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密協定を結んだ。独ソは、ポーランドを共に侵略して分割占領して、バルト諸国はソ連に割譲を取り決めた。ソ連は1940年6月にリトアニアに赤軍を侵攻させてコヴノなど全土を占領した。1941年6月に独ソ戦が開始されると、リトアニアやコヴノからソ連軍はは撤退してドイツ軍が占領した。
コヴノには全人口の約4分の1を占める約4万人のユダヤ人が暮らした。リトアニアでは反ソ連と反ユダヤ主義が蔓延した。リトアニア人は報復的な殺人行為をドイツ軍に協調して、ドイツ軍の占領から約1カ月間でコヴノで約1万人のユダヤ人が虐殺された。ドイツ軍はユダヤ人の強制隔離地区であるゲットーを創設した。コヴノのユダヤ人住民全員をゲットーに移住させた。ナチス・ドイツは、収容所に送るまでの間、ゲットーにユダヤ人を隔離した。狭い場所に大勢の人間が詰め込まれ、毎日のように収容所への移送した。食糧は不足し、人々は餓死して、不衛生で伝染病が流行した。道端に死体が転がっていた。ゲットーと外部は3m59cmのレンガの壁が遮断して、とても乗り越えれない。ユダヤ人は壁の向こうに願い望み焦がれて叫び憎み呪った。
1941年8月にはゲットーが封鎖されて、約3万人のユダヤ人が隔離された。数カ月でゲットーの約3,000人が虐殺された。1941年10月28日に約9,000人が郊外の要塞に連行され殺害された。コヴノは約18,000人のゲットーとなった。1943年秋に親衛隊が直接のゲットーを支配して、コヴノ・ゲットーは強制収容所に転換された。1943年10月に基幹収容所の約2,700人の囚人を移送した。健常者はエストニアの労働収容所へ、労働不可者、老人、子供などはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送した。ソ連軍の接近に伴い、1944年7月8日に親衛隊はコヴノ強制収容所の撤収をした。残った囚人たちはダッハウ強制収容所やシュトゥットホーフ強制収容所へと移送された。ソ連軍がコヴノに到着する前に、ゲットーや収容所は徹底的に破壊され、約2,000人ほどのユダヤ人が虐殺された。
2018年10月4日木曜日
戦争は人道に対する犯罪です(WPU)。フランス北東部のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である。
アメリカの女性平和連合(WPU: Women's Peace Union)は、戦争に伴う犠牲をアメリカ人に再考させるため、1920年代に下記の写真付きのチラシを配布した。(戦争は人道に対する犯罪です。フランス北東部の国境近郊のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である)。私たちWPUは平和を主張します。『戦争に襲われた人類の苦しみで恐怖に満ちているあなたに。約1,000万人が虐殺されたことを覚えているあなたに。最後の戦争で育った。戦争の現実に直面する勇気を持っているあなたに、感傷的な栄光を取り除いてください 停戦協定の署名から8年!平和はまた戦争の準備によって覆われています。次の戦争では、より強力な殺人光線、ガス、病原菌、武器などによって、より多くの男性、女性と子供たちは非人道的で残虐な虐殺されるでしょう。あなたが愛する人たちの全世界の破壊を共有しなければなりません。あなたは世界を粛清に尽力しないようにできますか?妥協しない平和組織にあなたの貢献を送ってください。私たちWPU(女性平和連合)は、暴力と流血は道義的に悲惨な行為と信じています。私たちは、戦争を不法にし、世界平和を確保するよう努めています。』
世界大戦間の時期に、多くの平和社会活動団体の一つであるWPUは、1930年代に戦争宣言に国民投票を必要とする憲法改正のためにロビー活動を行った。アメリカ救済庁と私的慈善団体は、1921年と1922年に飢饉に見舞われたロシア人を含む貧しいヨーロッパ人に食糧を届けた。アメリカ人は絶望的なヨーロッパ人に食糧を供給するだけでなく、政治的過激主義を抑えることを望んでいた。
2018年10月3日水曜日
北朝鮮軍は、アメリカ軍兵士の両手を有刺鉄線で背中に縛って射殺して、後頭部に弾丸が炸裂した。
アメリカ軍には、北朝鮮が1950年7月9日に捕虜して翌日に処刑したアメリカ軍兵士の死体を発見したのは衝撃的であった。4名の死体は路地に散在して、両手は有刺鉄線で背中の後ろで縛られて、後頭部に弾丸が炸裂していた。アメリカ軍が北朝鮮に侵攻中には、鉄道のトンネルに約100人の処刑されたアメリカ人捕虜を見出した。アメリカ軍は激怒して、北朝鮮捕虜に対する無差別の復讐的殺人行為が激化した。
20世紀のイデオロギー戦争は、無数の残虐行為と非人道的虐殺を生み出した。1950年から1953年まで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の軍隊は、民間人や捕虜までも殺害した。韓国軍の警察が、約40人の衰弱した北朝鮮人を、手が縛ってライフルで射殺した。突然の北朝鮮が1950年6月25日に侵略した後には、北朝鮮人に対する処罰は厳しかった。数百人以上もの北朝鮮の囚人らは、自らの墓を溝掘りを強制した後に、射殺された。北朝鮮の侵略中に起きた残虐行為に対する苦痛と復讐から、韓国政府は報復的措置を命じた。朝鮮戦争の開戦期に北朝鮮の侵略による広範な残虐行為は、李承晩政権に対して抵抗する韓国人も信任に導いた。1950年6月から9月まで、約26,000人の韓国人の民間人が北朝鮮によって殺害された。大田広域だけでも、北朝鮮の退去後に約5,000人の死体が発見された。ソウルを解放時にはアメリカ軍は、数百人の死亡した韓国人の男性、女性、および子供たちで悪臭で満たされた溝を検証した。
2018年10月2日火曜日
鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑を掘り出し、塹壕に膨大な白骨が積み重なっていた。
主に満州を中心として中国各地に存在する日本人の鉱山や工事現場で使役できず不要となった多数の中国人労働者を生き埋めにした万人坑が存在した。万人は犠牲者の数、坑は生き埋めを示唆して、万人坑と呼称した。日本軍が満州を占領して、中国人市民は南満州鉄道や大連港の荷役、鉱山の坑夫、土木建築、工場から農畜産などの労働者として、満州に中国人を強制連行した。日朝満漢蒙民族の平等繁栄を目指す五族協和は夢想となった。日本の富国のために、民族差別をされて中国人は土地を奪われて、低賃金で苛酷に使役された。虐待や拷問により、中国人労働者は虐殺されて死体が各地で山積みとなった。
鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑があった。掘り出した塹壕には膨大な白骨が積み重なっていた。囚人を強制労働させる監獄も鉱山に設置された。万人坑は、拷問や事故などの死者だけでなく、飢餓や重篤な疾病で労働不能者も、虐殺されて土中に埋められた。監獄や矯正院に、入所した中国人は虐待と虐殺された。埋める土中の代わりに、古井戸にも中国人の死体を遺棄した。朝日新聞による「中国の旅 第2部万人坑」などの連載記事に対して、昭和史研究者らは万人坑から韓国・済州島での女性狩りの慰安婦も虚偽とした。
中国人による強制労働により、中国から日本に強制連行された約4万人もの中国人が、花岡鉱山鹿島事業所などの約135カ所の事業所で強制労働させられて、約7,000人が虐殺された。日本への強制連行と虐殺は周知の事実である。中国本土における強制連行と強制労働は、犠牲者の実態が特定し難い。日本が中国東北地方に建国した満州国では、1934年から1945年までに徴用され、鉱山などの現場で強制労働させられた中国人は約1,640万人と考察した。割り当てや強制連行により満州国で徴用された犠牲者は約850万人、華北など中国各地から満州国に強制連行された犠牲者は約790万人と想定された。
各地の事業所に連行された中国人労工は、日本人から長時間の過酷な労働を強制され、栄養失調となり、飢餓と疾病等で、多くが過労死あるいは病死した。膨大な数の犠牲者の死体は、事業所近くの山間地などを人捨て場としての万人坑が形成された。
2018年10月1日月曜日
ドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザン容疑の民間人を、ソビエトのヴィヤジマで銃殺した。
ヒトラーのドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザンとして逮捕した民間人を、1941年10月にソビエトのヴィヤジマで銃殺した。ナチス・ドイツ軍がソビエトに侵攻した後方では、一斉射撃による組織的虐殺が繰り返された。ナチス・ドイツの保安警察と親衛隊保安部から組織した銃殺部隊であるアインザッツグルッペンが、ドイツ軍の後方で、ユダヤ人やパルチザンの敵性分子を虐殺した。国家保安本部長官となったラインハルト・ハインドリッヒが、1938年のオーストリア併合時にスパイ部隊として創設した。ナチス・ドイツ軍の東部戦線の拡大するにつれて、保安警察と保安部から組織された。緒戦ではアインザッツグルッペンは、主に敵性指導者を銃殺していた。ドイツ・ソ連戦ではアインザッツグルッペンは、ユダヤ人・ロマ・赤軍幹部を銃殺した。侵略して占領した地域から、敵性分子の容疑者を駆り集めて、荒野や森林の中で銃殺して、死体は塹壕の土中に埋めた。敵性分子には、民間人の抵抗勢力のパルチザンだけでなく、ユダヤ人も含めて大量虐殺をした。
移動虐殺部隊であったアインザッツグルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された部隊であった。 保安警察と親衛隊保安部の部隊として、占領下のソ連にて、ドイツ戦線の背後で人種的と政治的な敵性分子の容疑者を銃殺した。ユダヤ人、ロマ族、ソ連政府やソ連共産党も含めた。アインザッツグルッペンは、精神障害者や身体障害者の施設でも数千人の収容者を殺害した。1941年6月に、アインザッツグルッペンはドイツ軍に続き、ソ連領に深く侵入した。1941年夏の後半になると、あらゆる年齢や性別に関係なくユダヤ人の男性、女性、子供を銃殺して、集団で塹壕に埋めた。受刑者は、自分自身の墓穴を掘り、貴重品を押収され、衣服を脱がされ、銃殺されて、塹壕に埋められた。1941年夏の後半から、ガストラックに搭載された毒ガス室で犠牲者を殺害した。アインザッツグルッペンの隊員は、親衛隊、武装親衛隊、親衛隊保安部、治安警察、およびその他の警察部隊から組織された。1943年春までに、アインザッツグルッペンは、約100万人以上のソ連のユダヤ人、数万人のソ連人民委員、パルチザン、ロマ、障害者を殺害した。移動虐殺の銃殺の非効率的と精神的負担から、ユダヤ人を大量虐殺する絶滅収容所に特殊なガス施設を建設し始めた。
2018年9月30日日曜日
エジプト軍事勢力がデモ隊を弾圧と虐殺して、ムスリム同胞団の多数の死体がモスク内に集積された。
カイロのラバア地区でデモ隊が2013年8月14日に弾圧された。イスラム主義者のデモ市民の死体は、モスク内に集積された。支援者が、死体に腐敗予防の氷を置いた。死体を巻いていた敷布からカーベットに、氷が溶け出した水分が溢れ出した。支援者は、その水たまりの中で素足で見守りながら立ち続けた。
アラブの春によるエジプト革命でムバラク政権が2011年1月25日革命で崩壊して、スンニ派のムスリム同胞団のムルシー大統領が2011年7日に就任した。中東戦争で活躍していた軍部は、ムスリム同胞団のムルシー大統領を軍事クーデターで2013年8月7日に追放されると、同胞団を中心としたイスラム主義運動が、モスクと周辺のテント村を拠点として、デモ抵抗運動をした。エジプトの治安当局は、カイロのモスク周辺におけるイスラム主義のデモ抵抗運動者を襲撃した。当局との相互の発砲によって、周辺の歩道の通行者などの多くの市民が流れ弾を受けて死亡した。2013年8月7日はエジプト暫定政権は、ムルシ支持派による座り込みの抗議デモに、地元住民からの苦情を受けたとして強制排除警告を発していた。8月14日に中央治安部隊が、ムルシー前大統領の母校で前大統領支持派の拠点となっていたカイロ大学前及びラーバア・アダウィーヤ広場の2カ所で抗議デモの強制排除を行って、多数のデモ隊などが死亡した。15日夜までの死者数は全土で638人以上とされた。警察は、「デモ参加者らの殺害は違法性のかけらもなく、非常に静かに行われた」と無視した。2014年6月からシーシー大統領による軍事政権は、反体制的言論や勢力の撲滅を全土で行った。テロリスト掃討運動の監視として、治安当局の権限を拡大して弾圧した。
2018年9月29日土曜日
カリフォルニア州ブロデリックにおいて、無職の父親と子供兄弟は一緒にホームレスで飢えた困窮の生活に陥った
カリフォルニア州ブロデリックにおいて、1989年にマーレイ家は、無職の父親と子供兄弟は一緒にテントで飢えた困窮のホームレスに陥った。アメリカ合衆国では、果てしない貧困と戦う貧困戦争が頻発している。普通の市民も、アメリカの過去の繁栄から坂を転げる落ちるように、ワーキングプアやホームレスに転落した。貧困戦争により弱肉強食の社会になり、強者に甘く弱者に厳しい格差社会が到来した。どん底の生活で生存しているアメリカ人もまぎれもなくいる。脱工業化時代となったアメリカでは、アメリカ工業時代の普通の市民が犠牲者となった。1960年代には世界で最も豊かな国であったアメリカでも限られた分野に貧困は存在した。特定の地域的に集中した貧困地区を撲滅する諸活動を貧困戦争とした。
1984年12月5日に、カリフォルニア州サンタバーバラでは、ホームレスで35歳のケネス・パーが虐殺された。その周辺には、高級住宅街・ホームレスの殺人・警察の暴力・自衛団などが混在した。生活の基盤を失った息子らを、貧困徴兵に応じて一兵卒として戦場に駆り出している。長いあいだ貧困に苦しむ普通の市民層は救われず途方に暮れていた。貧困と戦争は切っても切れない関係がある。戦争の根底には貧困問題が潜在している。貧困と汚職が戦争に駆り立てていると「戦争の代償(The Cost of War)」を2009年11月18日に公表された。アフガニスタン戦争の主な要因として70%が「失業」と「貧困」を挙げ、48%が「汚職」と「機能していない政府」と回答した。アメリカ合衆国には、1960年以降に生まれた男子は18歳の誕生日を迎える30日以内に兵役登録の責務がある。
2018年9月28日金曜日
ヨルダン川西岸から投石するパレスチナ人の18歳青年の右目から後頭部に、イスラエル軍の射撃が炸裂して虐殺された。
イスラエル軍に向けて2000年10月20日午後3時に投石中に、ヨルダン川西岸のラマラ自治区において、パレスチナ人の18歳の青年のサイール・アリ・ダウドがイスラエル軍により射殺された。パレスチナ人の青年は、頭部に銃撃をうけて、右目から後頭部に炸裂して即死していた。イスラエル軍の銃撃を避けながら、多数のパレスチナ人同志が、頭部から多量の出血しているサイール・アリ・ダウドを救護するために、死体を持ち上げながら小走りで救急車に運搬した。イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が約1,000名の武装したイラク軍とアル・アクサモスクに入場して武力衝突が勃発した。2000年9月30日には、アル・アクサ・インティファーダ(第2次)発生して、PLO(バレスチナ開放機構)との和平交渉が決裂した。パレスチナ軍のインティファーダとはイスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する市民抵抗運動の衝突が勃発した。
それまでにパレスチナ自治政府は、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区に存在したパレスチナ人による自治機関であり、1994年に成立した。第1次インティファーダは、1987年に4人の死亡者の衝突事故から勃発して、暴力行為は1993年8月のオスロ合意および1994年5月のパレスチナ自治政府で沈静化した。同時に1887年からイスラエル人とパレスチナ人双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動もあった。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としたが、武力の弱点をおぎなうためテロ戦略の武装組織も存在して、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に駆使していた。一方で、イスラエル政府は占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、市民を不法な領土拡張政策に加担させた。イスラエル人の入植者達やイスラエル軍が、パレスチナ人地区をイスラエル人の地区として植民地化した。
2018年9月27日木曜日
連合軍がノルマンディーに上陸してから猛撃して、虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。
連合軍が1944年6月6日にノルマンディーに上陸してから猛撃した。虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。1944年6月6日から7月11日までフランス国内において、ナチス・ドイツ軍は、約2,000人の将校と約85,000人兵士の戦傷者が犠牲となった。7月17日までには、ナチス・ドイツ軍は、約2,360人の将校と約97,640人兵士の戦傷者が犠牲となった。ナチス・ドイツ軍は、フランスにおける兵力損失は12%以上に達して、戦力を補充することは不可能となった。
連合軍は侵攻を開始するために、まずフランスのノルマンディ地域のヘッジエルから突破した。まずクタンス地域に向かって進軍すれば、ナチス・ドイツ軍は瞬時に崩壊すると想定した。連合軍は軍事力とスパイ情報から、ナチス・ドイツ軍は、士気が消失して武力の深刻な不足に陥っていると過信した。しかし7月初旬になると想定外となり、ナチス・ドイツ軍は再編成と補給されて強化された。連合軍の侵攻の勢いは頓挫して、7月11日から逆にナチス・ドイツ軍が反撃を開始した。連合軍はノルマンディーで明らかな軍事的膠着に陥った。攻略するために、ナチス・ドイツ軍の背後にある水陸両用または空中着陸を考慮した。連合軍はコブラ作戦で7月25日から31日までの約2,000機による殺人的な絨毯爆撃を実行した。サン=ロー・ペリエの戦場は辺り一面がクレーターの様になり、ドイツ軍は壊滅状態となり屍の死体で溢れた。ドイツ軍兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか、発狂した。
2018年9月26日水曜日
日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。
日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。
2018年9月25日火曜日
2018年9月24日月曜日
南北戦争の南軍兵士の死体を葬儀するため、1864年にスポットシルベニア郡に集積した。
南北戦争において死んだ南軍の兵士の死体を葬儀するために、1864年5月にバージニア州北東部のスポットシルベニア郡に集積した。
150人以上の兵士の死体は、整頓するよりもむしろ投げつけて集積することが多った。腐った死体が破裂した悪臭が消滅するまで、致し方なく埋葬の担当者は他の場所で働かされた。南軍兵士たちは銃をならびに、死体の下肢と上肢をまっすぐに伸ばして、できるだけ多くの穴の中埋め込むように踏みつけた。時には、担当者が自力で押し付けて、大量の死体を埋葬することが必要になった。コネチカット州の牧師は戦争の最後の日に約23人関係者が虐殺された絶望的な場面に遭遇した。短期間の滞在でできることは、死者を共通の墓に急いで埋葬することであった。長い道のりを歩いて行こうとすると、役人たちが、近くにいる人々を徴兵していた。それを避けるために、明らかに自らの居住者の名前を抹消した。1862年9月17日のアンティタームの戦いで、虐殺して塹壕に埋葬された「80人の反逆者」を示す簡易な木製の標識つけた。通例では、北軍と南軍の兵士は別々に埋葬をした。軍事病院の戦死者を無差別に埋葬したことが発見された。自らの死亡した勇敢な兵士の墓と、無価値な侵略者の土壌の墓を区別しないと牧師は表明した。兵士の頭を地面に覆うために、金を得るだけの気遣いをしている葬儀屋が原因であると思えて、病院墓地の別々の墓地に埋葬して、南軍と北軍の死体は死体は分離した。疲れた兵士らは、自然の塹壕と既存の斜面を利用した。 2回目のブルランの戦いの後、鉄道発掘で作られた尾根の横に約85人の死者が埋葬された。その後に塹壕を平坦化する埋葬方法で覆った。バージニの戦闘では、死者を1863年の春に、兵士を道路の両側にある深い溝の下に落として、その上を土砂で覆うために掘った。
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