戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年9月29日土曜日
2018年9月28日金曜日
ヨルダン川西岸から投石するパレスチナ人の18歳青年の右目から後頭部に、イスラエル軍の射撃が炸裂して虐殺された。
イスラエル軍に向けて2000年10月20日午後3時に投石中に、ヨルダン川西岸のラマラ自治区において、パレスチナ人の18歳の青年のサイール・アリ・ダウドがイスラエル軍により射殺された。パレスチナ人の青年は、頭部に銃撃をうけて、右目から後頭部に炸裂して即死していた。イスラエル軍の銃撃を避けながら、多数のパレスチナ人同志が、頭部から多量の出血しているサイール・アリ・ダウドを救護するために、死体を持ち上げながら小走りで救急車に運搬した。イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が約1,000名の武装したイラク軍とアル・アクサモスクに入場して武力衝突が勃発した。2000年9月30日には、アル・アクサ・インティファーダ(第2次)発生して、PLO(バレスチナ開放機構)との和平交渉が決裂した。パレスチナ軍のインティファーダとはイスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する市民抵抗運動の衝突が勃発した。
それまでにパレスチナ自治政府は、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区に存在したパレスチナ人による自治機関であり、1994年に成立した。第1次インティファーダは、1987年に4人の死亡者の衝突事故から勃発して、暴力行為は1993年8月のオスロ合意および1994年5月のパレスチナ自治政府で沈静化した。同時に1887年からイスラエル人とパレスチナ人双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動もあった。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としたが、武力の弱点をおぎなうためテロ戦略の武装組織も存在して、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に駆使していた。一方で、イスラエル政府は占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、市民を不法な領土拡張政策に加担させた。イスラエル人の入植者達やイスラエル軍が、パレスチナ人地区をイスラエル人の地区として植民地化した。
2018年9月27日木曜日
連合軍がノルマンディーに上陸してから猛撃して、虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。
連合軍が1944年6月6日にノルマンディーに上陸してから猛撃した。虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。1944年6月6日から7月11日までフランス国内において、ナチス・ドイツ軍は、約2,000人の将校と約85,000人兵士の戦傷者が犠牲となった。7月17日までには、ナチス・ドイツ軍は、約2,360人の将校と約97,640人兵士の戦傷者が犠牲となった。ナチス・ドイツ軍は、フランスにおける兵力損失は12%以上に達して、戦力を補充することは不可能となった。
連合軍は侵攻を開始するために、まずフランスのノルマンディ地域のヘッジエルから突破した。まずクタンス地域に向かって進軍すれば、ナチス・ドイツ軍は瞬時に崩壊すると想定した。連合軍は軍事力とスパイ情報から、ナチス・ドイツ軍は、士気が消失して武力の深刻な不足に陥っていると過信した。しかし7月初旬になると想定外となり、ナチス・ドイツ軍は再編成と補給されて強化された。連合軍の侵攻の勢いは頓挫して、7月11日から逆にナチス・ドイツ軍が反撃を開始した。連合軍はノルマンディーで明らかな軍事的膠着に陥った。攻略するために、ナチス・ドイツ軍の背後にある水陸両用または空中着陸を考慮した。連合軍はコブラ作戦で7月25日から31日までの約2,000機による殺人的な絨毯爆撃を実行した。サン=ロー・ペリエの戦場は辺り一面がクレーターの様になり、ドイツ軍は壊滅状態となり屍の死体で溢れた。ドイツ軍兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか、発狂した。
2018年9月26日水曜日
日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。
日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。
2018年9月25日火曜日
2018年9月24日月曜日
南北戦争の南軍兵士の死体を葬儀するため、1864年にスポットシルベニア郡に集積した。
南北戦争において死んだ南軍の兵士の死体を葬儀するために、1864年5月にバージニア州北東部のスポットシルベニア郡に集積した。
150人以上の兵士の死体は、整頓するよりもむしろ投げつけて集積することが多った。腐った死体が破裂した悪臭が消滅するまで、致し方なく埋葬の担当者は他の場所で働かされた。南軍兵士たちは銃をならびに、死体の下肢と上肢をまっすぐに伸ばして、できるだけ多くの穴の中埋め込むように踏みつけた。時には、担当者が自力で押し付けて、大量の死体を埋葬することが必要になった。コネチカット州の牧師は戦争の最後の日に約23人関係者が虐殺された絶望的な場面に遭遇した。短期間の滞在でできることは、死者を共通の墓に急いで埋葬することであった。長い道のりを歩いて行こうとすると、役人たちが、近くにいる人々を徴兵していた。それを避けるために、明らかに自らの居住者の名前を抹消した。1862年9月17日のアンティタームの戦いで、虐殺して塹壕に埋葬された「80人の反逆者」を示す簡易な木製の標識つけた。通例では、北軍と南軍の兵士は別々に埋葬をした。軍事病院の戦死者を無差別に埋葬したことが発見された。自らの死亡した勇敢な兵士の墓と、無価値な侵略者の土壌の墓を区別しないと牧師は表明した。兵士の頭を地面に覆うために、金を得るだけの気遣いをしている葬儀屋が原因であると思えて、病院墓地の別々の墓地に埋葬して、南軍と北軍の死体は死体は分離した。疲れた兵士らは、自然の塹壕と既存の斜面を利用した。 2回目のブルランの戦いの後、鉄道発掘で作られた尾根の横に約85人の死者が埋葬された。その後に塹壕を平坦化する埋葬方法で覆った。バージニの戦闘では、死者を1863年の春に、兵士を道路の両側にある深い溝の下に落として、その上を土砂で覆うために掘った。
2018年9月23日日曜日
タイの左翼学生が絞首刑で虐殺され、右翼の学生が非常に興奮して、折り畳み椅子で頭部を拳打し続けた。
タイは、1976年10月に2年ぶりの第3政権は、右派の市民右派組織と左派の大学生の間の衝突によって揺れ動いた。一晩遅く、2人のリベラルな学生がリンチされて首吊りで虐殺された。右翼の学生は、大学近くで左翼の学生を虐待して攻撃した10月6日の朝に、彼らは極秘にジャングルで虐待した。ジャングルでは、右翼の学生たちは、ますます興奮して暴力的になった。ライフルを武装した政権勢力の軍隊が現れた。左翼の学生は武装しておらず防御できずに、大学の建物内に避難した。自動小銃の激しい爆発音がサッカー場を越えて放たれた。避難した建物は全てのガラスが破壊されて、左翼の学生が逃避する場所はなかった。最後に、左翼の学生は降伏した。木々の中でいくつかの騒動が勃発した。身体が首吊りで針金で樹木からぶら下がった。左翼学生は確実に絞首刑で虐殺されていた。右翼の学生集団は非常に興奮して激怒して、折り畳み式の椅子で頭部を拳打し続けた。
タンマサート大学虐殺事件または血の水曜日事件は、タイ王国で1976年10月6日クーデターの過程で発生した。タイ王国の首都であるバンコク市内タンマサート大学の構内で勃発した。左翼学生は、亡命先から強行帰国したタノーム・キッティカチョーン元首相の断罪を政府セーニー・プラーモート内閣に要求する約10,000人の集会運動をした。左翼の学生集団に、サガット・チャローユー国防相率いる国境警備警察、バンコク市警察と民間右派組織が攻撃した。集会参加者の約100人が検挙と拘束された。集会参加者の約2人は虐殺されて、約36人の負傷者が虐待された。さらに集会参加者の検挙拘束は約100人、集会参加者の犠牲者46人、負傷者167人を弾圧した。集会を制圧した午後6時に、サガット国防相は国家統治改革評議会の名の下に戒厳令と軍事クーデターを宣言して、セーニー・プラーモート首相は失脚して排除された。
第2次世界大戦後に、タイではピブン政権から、軍事クーデーターによるサリット政権、クーデターによる政権の成立で、軍事政権の勃発から新憲法制定して、政党政治の復活するも、政治権力が腐敗を起こした。市民集会やデモに軍が軍隊が発砲して犠牲者が出る事件も相次いだ。軍事クーデターよる軍事政権の樹立する悪循環が現在まで何度も繰り返された。
2018年9月22日土曜日
日本軍兵士はアメリカ軍海兵隊に正面突撃してガダルカナルのムカデ高地台上で草生す屍となった。
太平洋戦争において日本帝国軍とアメリカ軍の海兵隊が、1942年9月12日から14日までソロモン諸島のガダルカナルで激闘した。海兵隊は1942年8月7日にガダルカナルに上陸して、ヘンダーソンフィールド飛行場を防御するためにルンガ河周辺で守った。日本軍は、海兵隊の上陸に応じてガダルカナルに、約6,000人の日本軍兵士を投入して、9月13日の夜間にアメリカ軍の防衛網に正面突撃を行った。主な日本の突撃は、ヘンダーソンフィールド飛行場のルンガ南部の尾根周辺で発生した。海兵隊の防御網により、日本軍はは全面的に壊滅して敗退した。
日本軍はガダルカナルのジャングルを突破して大きく南に迂回して、海兵隊の後方を狙った。大砲などの重火器は運べず、刀や銃剣による突撃になった。迎え撃つ海兵隊は、鉄条網に高圧電流を流し、多量の地雷を設置した上に、機関銃と大砲で射撃した。ムカデ高地南部は「血染めの丘」と呼ばれて、日本軍兵士は「突撃!」と叫びながら、刀や銃を振り回しながら、海兵隊の防衛戦に激突した。約800人もの日本兵が即死して、ジャングルと急峻な地形の中を撤退して、多数の日本軍兵士が外傷から飢餓や感染症などで死亡した。
2018年9月21日金曜日
日本軍により武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。
日中戦争において、日本軍が武漢を1938年10月26日に占領した。武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。1938年に南京を追われた蒋介石は、武漢に仮首都を置いた。日本軍は武漢攻略作戦で猛烈な総攻撃を加えた。日本軍の戦力は最大規模の約300,000もに達した。日本帝国は戦力調達のために1938年5月に国家総動員法を施行した。武漢攻略作戦は1938年8月に開始した。中国軍は兵員数は約4倍もあり、日本軍はマラリアや中国軍の激しい抵抗と犠牲を伴うも、10月25日に武漢を陥落した。日本軍の犠牲者数は戦死者約7,000人、戦傷者約25,000人に達した。蒋介石は占領の直前に政府をさらに奥地の重慶へと移転させて、 日本軍は中国国民党を降伏するのにまた挫折した。
1931年に中国・奉天(現在の瀋陽市)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が発生して満州事変が勃発した。1931年の暫定総動員計画は戦時の軍需品供給を優先する応急総動員計画iに移行した。1938年の第73帝国議会に国家総動員法案を提出、4月1日に公布され月5日より施行された。日本国民にとり非常に厳しい戦時下体制に至った。
2018年9月20日木曜日
ロシア帝国のオデッサでは、約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺された。
ツァール・ニコラス2世が1905年10月に声明文を発行した後に、反ユダヤ人によるユダヤ人虐殺の波が席巻した。革命期の帝国ロシアの民族的と政治的な緊張と暴動を反映した。基本的な市民権と政治的自由をロシア人に付与した数週間後に、主にユダヤ人に向けられた虐殺だけでなく、何百人もの市町村で学生、知識人、その他の少数民族が数多くの市町村で反乱が勃発した。港湾都市オデッサだけ、少なくとも約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺され、ユダヤ人を中心に約300人が負傷したと警察は報告した。約1,600以上のユダヤ人の家屋、アパート、店舗が破壊されて、その被害は膨大となった。1905年のロシア帝国では、他のどの都市も、オデッサのユダヤ人に匹敵する虐殺は発生しなかった。ロシア帝国後期の反宗教主義とユダヤ人虐殺は過剰となった。オデッサはロシア帝国で4番目のに大都市で、人口約40万人で、約138,000人のユダヤ人が居住していた。19世紀から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパやロシアの多くの地域で、民族的差別により、民族宗教的対立と政治経済的危機が影響した。19世紀の大半の間は、ユダヤ人は特にオデッサで歓迎されていた。オデッサのユダヤ人は、一般的には潜在したままであった。度重なる戦争が始まった19世紀になり、愛国主義や民族主義が勃発して、ユダヤ人は反ユダヤ人主義に巻き込まれた。戦争によるオデッサからの穀物輸出をユダヤ人が仲介して敵対主義が扇動された。
ロシア帝国は1905年1月22日に血の日曜日事件で市民を虐殺した。6月14日にロシア海軍の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱を起した。ポチョムキン号はウクライナ南部のオデッサ港に入港して、反乱兵士を迎えた市民がコサック兵に大量虐殺された。反乱の発端は、スープの肉が腐ってウジ虫を乗組員が訴えても、肉を食べない乗組員を士官が命令違反で銃殺しようとした。乗組員は、6月27日に艦長以下の士官を殺害し、艦を占領して、商業港オデッサに入港した。6月28日にロシア帝国軍はコサック兵を派遣して反乱は鎮圧した。
2018年9月19日水曜日
アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。
ダバオ刑務所が1932年にフィリピン南部のミダナオ島に大規模に設置された。太平洋戦争直後の1941年12月20日から日本軍侵攻によるダバオを侵略した。ダバオ占領期間中には、日本軍はアメリカ軍兵士の捕虜収容所として転用した。約2,000人のアメリカ人捕虜が太平洋戦争中にダバオ捕虜収容所に監禁された。日本軍が占領したほとんどの捕虜収容所では、アメリカ人捕虜に対して厳しく取り扱われて、虐待と虐殺から過酷労働や飢餓と感染症などで多数が死亡した。アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。1943年8月にパラオ島において日本軍はアメリカ軍に敗北した。次いで米軍機による最初のダバオ空襲は1944年8月と9月の空襲によりダバオ市は全焼した。1944年9月7日には、ミンダナオ沿岸の潜水艦が、劣悪な地獄船であった移送船を沈没した時には、何百人も乗船した元ダバオ囚人のアメリカ人捕虜が水没した。1945年の4月17日にミンダナオ西部のコタバトから上陸したアメリカ軍は、ミンダナ島を横断して南からダバオに5月3日に侵攻した。ダバオは日本軍にとって島内の最大の軍事拠点ではあったが、約1ヶ月間の激しい戦闘の後に、日本軍は北西部方向のダバオ川上流部のタモガン渓谷に撤退した。
2018年9月18日火曜日
ナチス・ドイツ軍が、戦争捕虜と政治犯を含む約1016人の強制労働者を納屋に入れて無差別に焼殺した。
ナチス・ドイツ軍は、1945年4月13日にガルデレーゲンの郊外で約1,016人以上を虐殺した。囚人たちはこの農家の穀物貯蔵所であった納屋に追い込まれて、火が放たれて、脱出する者も無差別に虐殺された。ナチス・ドイツ親衛隊とドイツ空軍の部隊が、戦争捕虜と政治犯を含む約1016人の強制労働者を納屋に入れて火をつけて焼殺した。ガルデケーゲン納屋から焼死した死体を、アメリカ軍兵士は4月15日に発見して消失した納屋から外の荒野上に、膨大な死体を搬送した。
連合国軍が侵攻してくる際に、ドイツ軍は退却する直前に,ソ連軍の捕虜など囚人を納屋に閉じ込めて,火をかけて約1016名を焼殺した。ガルデレーゲンには、大戦末期にV1とV2ロケットを製造していたミッテルバウ・ドーラ収容所などから、1945年2月頃から多数の囚人がガールドレスに強制移送された。アメリカ軍が1945年5月7日によって。ガルデレーゲン虐殺が発見された。4月13日金曜日に、強制収容所収容者が、ガソリンを含んだ藁をつけた納屋の中に拘束された。納屋はナチス・ドイツ軍によって射撃された。引火して火から逃げようとした囚人たちは、機関銃で射殺された。4月14日土曜日虐殺の翌日、ドイツ人は遺体を墓地に埋葬して証拠を隠滅した。連合軍の爆弾によるドイツの都市の破壊やロシア軍の残虐行為を伏せて、ドイツのガルデーゲン虐殺を1945年5月7日にタイム雑誌で報道された。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、市民の思考・世論を誘導する戦争情報の操作であり、人種民族差別を推し進めた。
2018年9月17日月曜日
似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に広島原子爆弾の被爆者の遺骨が千人塚に埋葬された。(広島)
広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。
2018年9月17日
Japan No War (NGO)
日本平和の市民連盟
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2018年9月16日日曜日
第2次世界大戦末期の東京空襲による犠牲者の死体の一部が、隅田川から引き上げられた。
第2次世界大戦末期の東京空襲による犠牲者の死体の一部が、隅田川から引き上げられた。川岸には数千人もの死体が列をなして体積していた。民間市民が火炎と熱傷から避難しようと隅田川に飛び込んだ死体であった。特に1945年3月10日の大空襲により、死者は約10万人以上と被災者は約100万人に及んだ。空襲の火炎から逃げのに、隅田川や荒川に架かる多くの橋、鉄筋コンクリート造の学校などに避難した。至る所で巨大な火災旋風が発生し、滝のように火炎が流れ込み、火の粉の川と変貌して、巻かれて焼死や窒息死した。焼夷弾の空襲は、分離した子弾が大量に投下されて、避難民に大量に降り突き刺さり、爆発的に燃え上がる凄惨な状況が多数発生した。川も水面は焼夷弾の油により引火し燃える川と化し、水中は冬期の低い水温のために凍死した。翌朝3月10日には隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。
第二次世界大戦は、連合国と同盟国の当局による決定した戦争政策であった。ナチス・ドイツによるホロコーストで、約600万人のユダヤ人や他民族を殺した。アメリカ軍による日本の空襲により、約200万人以上の日本人は遺体を失い、約30万人の民間人が殺害されて約50万人の市民が負傷した。1998年にオランダのハーグで国際刑事裁判所を設立する条約が、承認は20と否決は7で、圧倒的多数で通過した。裁判所の設立に反対した7つの国は、アメリカ・中国・イスラエル・イラク・リビア・インド・メキシコであった。国際刑事裁判所は人道に対する重大な犯罪を罰せられない。連合国の戦争犯罪は、無差別の空襲をしたドイツのドレスデンの破壊や日本の火爆撃があった。第二次世界大戦が終結して以来、アメリカは他の諸国の軍事に介入した。アメリカは、世界の単一の超大国で自己任命の警察官を世界に誇示した。同盟国をニュルンベルク戦争と東京戦争犯罪裁判で罰してて国際的正義を確立した。半世紀後には「勝利者の正義」以下となった。世界の平和には、勝利者や征服者にも戦争犯罪を執行しなければならない。
2018年9月15日土曜日
第1次世界大戦にて、2人のロシア帝国軍兵士が有刺鉄線に巻き込まれ、ドイツ・オーストリア帝国軍の標的にな射殺された。
第1次世界大戦の東部戦線にて、2人のロシア帝国軍兵士が有刺鉄線に巻き込まれて身動きが不可能となった。ドイツ・オーストリア帝国軍の標的になり容易に射殺された。有刺鉄線は、いくつもの刺のついた鉄線である。主に鉄条網として、陣地である塹壕の防御のために、有刺鉄線で何重にも囲んだ。ロシア帝国軍は、オーストラリア・ドイツ帝国軍が、ポーランド地方に侵攻した期間に、約1,000,000人が犠牲となった。戦場から膨大な難民が避難するも、その途上を退却するロシア軍隊が妨害した。
ロマノフ朝帝国はニ月革命により、1917年3月16日に崩壊して、ロシア臨時政府が成立して、連合軍が東部戦線の攻勢を要求された。7月攻勢にでる体制を固めて、広正面での突破をはかった。ロシア軍兵士は650万人と同盟軍を上回っていたが、二月革命から前線で脱走兵が急増した。6月18日から攻勢は開始され、ロシア軍はウクライナ南西部の東ガリシアでドイツ・オーストリア帝国軍の前線を崩壊した。突然6月20日以降から、厭戦ムードになり前線兵士と突撃部隊らが前進を拒否した。結局、ドイツ・オーストラリア軍が7月6日に反攻に出て、東部戦線は再び元の位置に戻った。ロシア帝国軍は、攻勢を中断して、7月19日にドイツ軍はズロチョフで攻勢に出た。約20Kmにわたりロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走して壊滅状態となった。ガリシア東部でもオーストリア軍の攻撃が開始され、7月29日にタルノポリが占領された。ロシア国内では、ボリシェヴィキによる武装デモである七月蜂起が7月16日に勃発して、騒乱が20日まで続く程の混乱状態に陥った。9月1日にドイツ軍は、バルト海のリガを目指して渡河を行った。砲兵と毒ガス弾によってロシア軍は弾圧され、ドイツ軍は容易に渡河した。9月4日にドイツ軍はリガ諸島を占領して、ロシア軍は多大な犠牲を受けた。10月21日までに何千ものロシア人兵士を捕獲した。内乱を収拾できなかったロシア臨時政府は、十月革命により過激共産派のボリシェヴィキにより11月7日に打倒された。ロシア領のウクライナ内戦にロシア革命政府は、同時期の11月8日に介入してウクライナ・ソビエト戦争が勃発した。
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