戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年8月23日木曜日
2018年8月22日水曜日
朝鮮戦争で中共軍が最も南の方まで侵攻した戦闘にて、中共軍兵士の死体が放置されて散乱した。
朝鮮戦争にて、中国軍と北朝鮮の中共軍は、1950年12月に平壌を奪回して、1951年1月4日にはソウルを再占領して、国連軍は漢江の南に退却した。すごく極寒の冬の夜間に、ソウルから南に40キロ離れた西北部の都市である水原付近で、アメリカ軍は合流した。アメリカ軍本部近辺では戦闘の準備しても、兵士らは寝るときにも軍靴を脱げない。1月25日の夜間にも、戦闘が迫っていた。一晩中銃声が聞こえ、アメリカ軍の戦車が重い機械音を出して本部の前を通った。四方から銃声が激しく鳴って、兵士は浮目づかいで夜中を明かすしかなかった。次の日の朝、宿泊した本部の近くにあった街路地に、中国と北朝鮮の中共軍の死体が散乱していた。前日の夜中の激しい戦闘により、中国と北朝鮮が戦死者の死体を放置したまま撤退していた。その夜間は、朝鮮戦争で中国と北朝鮮の共産軍が最も南の方まで侵攻した。朝鮮半島のほとんどの地域では森林が破壊されて、戦場は常に荒廃した地域に変貌した。水原付近で行われた戦闘で、射殺された中国と北朝鮮の共産軍兵士は、アメリカ軍の管轄区域だった。中国軍は日中戦争や国共内戦の実戦と、ソ連が支援した最新兵器や日本軍の残存兵器で、中国軍が1950年10月19日に参戦して優勢だった。、度重なる戦闘で膨大な戦傷者や補給線が乏しく、侵攻が鈍化し始めた。アメリカ軍は最新兵器でようやく反撃して、3月14日にはソウルを再奪回したが、戦況は38度線付近で膠着状態となった。
2018年8月21日火曜日
関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。
関東軍の防疫給水部であった第七三一部隊の上部機関である陸軍軍医学校から、生体実験された人骨が多量に発掘された。日中戦争にて、日本関東軍は1933年に満州関東防疫班を満州の背陰河に設立して、1939年にハルピン郊外の平房に移設した。1940年に関東防疫給水部の本部とする七三一部隊を設置した。満州鉄道衛生研究所や関東軍軍馬防疫・ハルビン医科大学・満州医科大学も協力した。七三一部隊は、毒ガスや細菌兵器の製造のため、監獄捕虜を「丸太」と呼称して、人体実験の実験と開発で、約3,000人以上を虐殺した。ソ連と中国は、戦争犯罪を指摘したが、アメリカ軍のGHQは東京裁判では訴追しなかった。アメリカ軍は細菌兵器・実験の全資料を独占して、石井四郎中将らの七三一部隊を免責に処した。中国の本部・支部跡・満州医科大学などからは生体実験の遺骨や証言が残存していた。1989年に七三一部隊を管轄した陸軍軍医学校の跡地からも実験の痕跡や多数の人骨が発掘された。アメリカは1983年のサンダース・トランプ調査官の報告書に引続き、1992年に細菌感染の人体実験の資料を押さえた。牡丹江憲兵隊が七三一部隊に送還された夫の名簿から、妻の敬芝蘭が日本政府を告発した。1950年に勃発した朝鮮戦争で、アメリカ軍はペスト・炭疽菌・コレラ菌などの細菌や毒ガスの科学兵器の使用を、中国・北朝鮮は告訴した。国際科学委員会は、アメリカ軍が七三一部隊と類似の細菌化学兵器の空爆を報告した。七三一部隊兵士は免責された上に、北野政次・内藤良一は、輸血とエイズの化学製剤のミドリ十字を創設して、その他は科学研究所や大学教授などの社会的厚遇を受けた。
2018年8月20日月曜日
ドイツ軍の歩兵隊が、ソ連軍の戦車を至近距離で防御して、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。
第2次世界大戦の東部戦線で、クルスクの戦いが1943年7月5日朝に勃発した。ドイツ軍の歩兵隊が脆弱な部隊で、ソ連軍の対戦車の軍団を至近距離で防御していたが、強烈なる戦闘で虐殺された死体と大破した戦車が荒野に散乱した。ドイツ軍は1943年2月にスターリングラードの戦いで敗退して、さらに3月にモスクワからも撤退した。劣勢に立たされ始めたドイツ軍に、ソ連軍がクルスク周辺で大きく突起した戦況となった。ドイツ軍は、その戦局を挽回するために、東部戦線の機甲部隊の全てを使ってクルスクの突起部を挟撃した。ドイツ軍兵士は約780,900人に対して、ソ連軍は約1,910,360人が集結した。1943年7月5日朝からドイツ軍とソ連軍がクルスク周辺で総力戦となった。ドイツ軍兵士は多くの戦車が地雷で大破しても、その放棄は厳禁と厳命されて、ロシア軍から砲撃や狙撃により流血して焼きつくされた。ドイツ軍は7月13日にはクルクスの攻撃を中止して敗退をしてた。さらに8月5日にはオリョールも放棄した。ドイツ軍は、クルクスの戦いで約49,822人もも、ソ連軍は約177,847人の戦傷者に達した。ドイツ軍は東部戦線で撤退に陥り2度と大規模な攻撃作戦をとれずに,東部戦線は崩壊をした。
2018年8月19日日曜日
トルコ国境の近隣でシリア北部のアレッポにある射撃場で、フランス軍兵士団が2人のドイツ人をスパイ容疑として公開で銃殺した。
第2次世界大戦にて、1943年9月29日にトルコ国境の近隣でシリア北部のアレッポ付近にある射撃場で、フランス軍兵士団が2人のドイツ人をスパイ容疑として公開で銃殺した。フランス軍の射撃隊員が小銃に実弾を装填して、両手を背中で縛って、支柱に縛り付けた。フランス軍兵士は、セルビア人兵士らに射殺したドイツ人の死体を粗製の棺に詰め込めさせて処理した。第一次世界大戦によるオスマン帝国滅亡後、アレッポはフランス委任統治領シリアの一部となっていた。ドイツ軍に占領されたフランスは亡命政府に転落した。それに対抗して、フランス委任統治であったレバノンとシリアは亡命政府のフランスから独立を果たした。1941年4月1日にイラクが軍事クーデター政権となりドイツに支援を求めた。ドイツ空軍は亡命フランス領のシリアを経由して派遣された。ドイツ軍の侵攻により1940年6月10日にパリが陥落して、6月17日にロンドンに亡命したシャルル・ド・ゴールが、6月23日にフランスの正統な政治勢力である自由フランスをを設立した。 ドイツ軍の侵攻に対抗して、イギリス連邦軍軍と自由フランス軍による連合軍は、7月14日にフランス領であったシリア・レバノンに軍事進攻して、その地域を自由フランスに接収した。
2018年8月18日土曜日
フィリピンの戦いにて、日本軍に救護室に取り残された傷病兵士は、全員が病室の周辺で自殺をして玉砕をした。
フィリピンの戦いにて、撤退した日本軍に救護室に取り残された傷病兵士は、自らの病室の周辺で、自殺をして玉砕をした。身動きのできない重傷や重病の兵士らは、手榴弾や拳銃などで自爆あるいは自死した。アメリカ軍が1945年6月8日にバヨンボン付近の救護室で日本人兵士の自殺者の死体を検証した。フィリピンの戦いは1944年10月上陸からアメリカ軍に追い込まれた日本軍と在留日本人市民は、最終局面で1945年6月からルソン島の北部のバヨンボン盆地に撤退した。アメリカ軍は6月5日にはアリタオ、6月7日にはバヨンボンを侵略した。6月中旬から下旬にかけて、雨季の豪雨にバンヨンボン盆地を敗走して、さらに北部へと逃避する日本軍兵士や在留日本人市民は膨大な悲惨な犠牲となった。日中はジャグルに潜み、夜間に北部へと逃避した。アメリカ軍に追撃されて、氾濫するラムット河畔では悲惨な虐殺に陥った。アメリカ軍は7月12日にはルソン島北部のキアリガンに侵攻して、日本人兵士と市民はアシン渓谷地帯に迷入した。峡谷と密林に潜伏した日本人兵士と市民には、アメリン軍の迫撃だけでなく飢餓と疫病により、多数の死傷者が続出した。フィリピンの最後の戦いである地獄のアシン峡谷で、1945年8月15日終戦までに北部ルソン島の戦死者は約12,7000人に達して、潜伏した約40,000人の日本人が生き残って日本への復帰を祈念した。
2018年8月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 150,000回
2018年8月17日金曜日
国連軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。
朝鮮戦争では、アメリカを初めとする国連軍によって、ナパーム弾が北朝鮮軍と中国軍の攻撃のために投下された。主燃焼材のナフサにナパーム剤の増粘剤を充填した油脂焼夷弾で、高温で広範囲を焼尽と破壊した。 アメリカ軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。朝鮮戦争では、B-29爆撃機から約32000トンものナパーム弾を北朝鮮に対して空襲をした。朝鮮戦争では、1950年9月27日から、国連軍は中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に向けて侵略した。中国は、10月5日には北朝鮮軍の支援を決定した。10月19日に北朝鮮との国境である鴨緑江を越えて、人民志願軍と呼称した中国軍の大部隊が集結した。1950年11月1日から中国軍が大規模な攻勢を開始した。韓国軍は国境の南90マイルで中国軍に攻撃され壊滅状態となった。11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始に対して、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍を撃破した膨大な中国軍は山岳地帯から国連軍に襲い掛かった。遂に国連軍には11月29日に前進命令を撤回して退却の許可がなされた。中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら、11月30日から12月1日に「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を犠牲を受けた。国連軍は撤退して壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく死傷者数は約12,975人にも上った。
2018年8月16日木曜日
北ビルマのミートキナ戦にて、新編中国軍兵士は全滅した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。
北ビルマのミートキナ戦にて、新編した中国軍兵士は全滅により散乱した日本軍兵士の死体と悪臭を避けながら侵攻した。大東亜戦争において、北ビルマと雲南地域ののミートキナにて日本軍は、アメリカ軍とイギリス軍に支援された新編の中国軍の侵略によって全滅した。北ビルマから昆明を通じて重慶に至る要所を1943年12月24日から1944年7月4日まで攻防戦があった。インパール作戦のために北ビルマの日本軍には補給や連絡網も途絶えて崩壊して退却した。すでに日本軍兵士は約3,200人が戦死して、約1,800人が重戦傷した。重症の兵士には、昇汞水で安楽死させた。司令部は7月10日に持久困難な僅か約1,200人の日本軍に対して最後まで死守する玉砕を厳命した。軍隊は階級社会で、上官の身勝手な命令も兵士は手出しも撤退もできなかった。その日本軍の残兵に対して雲南遠征軍が、日本軍を全滅に追い込んだ。ミートキナ市民の約13,000がほとんど難民となって逃避した。ミートキナの戦後には、約10人の朝鮮人慰安婦が確保された記録と写真が残存した。ミートキナの途上に、1944年3月8日からは日本の大軍は、インドのインパールに侵攻しするも7月10日からは最悪の敗退と犠牲を伴った。
2018年8月15日水曜日
戦争終結の大詔渙発さる、新爆弾の惨害に大御心、帝國,四國宣言を受諾、畏し、萬世の為太平を開く (1945年8月15日正午)
戦争終結の大詔渙発さる
新爆弾の惨害に大御心
帝国、四國宣言を受諾
畏し、萬世の為太平を開く
大東亜戦争は遂にその目的を達し得ずして終結するのやむなきにいたった。科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾とこれに続いて突如として起ったソ連の参戦とは大東亜戦争を決定的な段階まで追ひ込んだ。九日午前に開かれた最高戦争指導者会議とこれに引続いて同日午後二回に亙って開かれた臨時閣議において帝國戦力の徹底的測定と諸般の国際情勢に関する検討とが行はれたのをきっかけとして、大東亜戦争終結の方式は急速なる進捗を見せ、同夜半畏くも天皇陛下の親臨の下、最高戦争指導会議が開かれ、帝國の基本方針ここに決定。帝國政府は、これを中立國を通じて米英支蘇の四箇国に通達したのである。このポツダム宣言に対する帝國政府の通告文の要旨は「日本政府はポツダム宣言が、陛下の國家統治の大権を変更するがごとき如何なる要求をも含まざるものとの諒解の下に同宣言を受諾する用意ある」旨のものであった。これに対する米英支蘇の公式回答は十三日朝帝國政府に到達。我方の通告文とこの四國政府の回答文を縛り閣議を始めとして統師と國務の最高首脳部の間において「國體の護持」といふ最後の一線に関する全く真剣なる議論が重ねられたのであるが、結局十四日の午前会議において添き聖断を拝し、この大御心によって四箇國の回答文を受諾するという方向は一決。ここに大詔は厳かに渙発せられ、大東亜戦争は遂に終結を見ることになったのである。
朝日新聞(昭和20(1945)年8月15日号)
第2次世界大戦の終結から2018年8月15日まで73年間
2018年8月14日火曜日
沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れて公表した。
沖縄戦での日本人兵士の死体の写真を、アメリカ軍の海兵隊が「良いニップ」と説明文に入れた。日本軍兵士をJapaneseのジャップではなく、Nipponのニップと呼称した。アメリカ軍は沖縄に1945年4月1日に、激しい艦砲射撃後に嘉手納飛行場に面した海岸に上陸した。水際での上陸時に何ら攻撃も少なく、上陸して約一か月間は戦闘も乏しかった。日本軍は敵を引きつけて叩く防御戦により、5月1日から戦闘が勃発した。沖縄に豪雨が降り、ぬかるんだ沼地の大地と、激しい攻撃に双方とも多数の死傷者を出した。アメリカ軍は、圧倒的な武器と物資が優位となり、次第に侵略地域を広げた。5月15日の安里52高地の戦闘は、玉砕した太平洋諸島と匹敵する激しい死闘となった。双方とも死体を後方に連れ戻る余裕もなく、死体は放置された。5月21日から高温多湿で激しい豪雨となり、戦地には耐え難い悪臭が漂った。アメリカ軍は5月29日に日本軍の司令本部がある首里高地に侵攻して、沖縄戦は激しさを増した。6月中旬からの国吉丘陵が最後の厳しい死闘となった。死者が続出しまさに双方の屍と悪臭の沼地の劣悪な戦地となった。アメリカ軍は沖縄戦の収束から、洞窟に潜む日本兵を、火炎放射器で掃討した。6月21日に沖縄の日本軍が降伏して沖縄戦は終結した。沖縄戦でのアメリカ軍の死者・行方不明者は7,613人で、精神病兵士は26,221人にも及んだ。日本軍の戦死者は107,539人で、さらに悲惨なのは民間人の死者が42,000人にも達した。市街地が戦火に巻き込まれた戦場となり、沖縄市民には悲惨で残酷となった。
2018年8月13日月曜日
ドイツのハンブルグは連日の大空襲を受けて廃墟になり、高熱と放熱が継続して黒化した死体が歩道や街路に放置された。
ドイツのハンブルグは、イギリス空軍が主体となり1943年7月24日から、ロンドン空襲を報復させる連日の大空襲を受けて廃墟になった。火災で崩壊した建物や瓦礫や地下室は、高熱と放熱が継続して、処理するまでに死体が黒化した。タライに集積された焼死体が、歩道や街路に放置されていた。時限爆弾も投下されて、36時間、72時間、144時間後に再爆発して、救護も困難となった。ナチス・ドイツ軍は、集合墓穴禁止令で1944年2月になっても、爆撃による市民の死体の収容を、集合墓穴に土葬することを厳しく禁じた。大量虐殺の強制収容所の死体の焼却による抹消の手段に類似された。市民の死体には火葬しか選択肢がなく、ガソリンをかけたり、火炎放射器で焼却した。膨大な墓地の面積の不足によって、虐殺された市民には、自分の墓もなく死後の権利も剥奪された。遺骨も灰となり残骨と混在して、身元の識別は不可能となった。捕虜や囚人が土中の墓穴を掘らされた。都市部では、墓と死後の権利が保持された兵士用墓地も、市民には用意されなかった。
2018年8月12日日曜日
日本軍による重慶の爆撃で、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足で窒息死した死体が散在した惨状となった。
日本軍は1941年6月5日に重慶を爆撃により、防空壕に避難した膨大な市民が、酸素不足の窒息死した死体が、十八悌大隊道に散在した惨状となった。日中戦争にて、1937年7月7日の北京郊外にて、軍事演習中の日本軍が盧溝橋で中国軍と激突して、日中全面戦争が勃発した。戦災の犠牲は迅速に華北から華中にまで拡大した。中国軍は、国共内戦状態にも陥った全中国に、対日全面抗戦の総動員令を指令した。第2次国共合作により、中国国民党と共産党に救国統一戦線が成立した。日本軍は、1931年の満州事変、1932年の上海事変など次々に中国全土に侵攻した。日本軍は、中国軍が土地を譲って時を稼ぎながら、日中戦争が沿海岸部から内陸部の奥地にまで拡大した。広大な戦域に対して、内陸都の空中爆撃の翼を転換した。南京政府の陥落直前に1937年11月に重慶遷都を宣言した。1938年から重慶に対して市民無差別爆撃を継続した。日本軍は、ドイツ軍が空爆したスペインのゲルマニカの爆弾と焼夷弾を投下した。特に1939年5月3日と4日の重慶被爆により、中心街が炎に囲まれ、細道の石段の市民居住地は阿鼻叫喚に陥った重慶市民に甚大な犠牲を伴った。両日で死者約3,318人、負傷者約1,937人と5000人以上に達した。日本軍は、1941年8月から日米開戦に向けて南方に戦力を回して、約3年間に及んだ重慶に対する連続爆撃が終結した。
2018年8月11日土曜日
日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、犠牲となった戦死者の死体を満州の高地に埋葬した。
日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、南方高地に戦死者の死体を埋葬した。日露戦争にて、遼陽を侵略した日本軍に対して、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させた。両軍は1904年10月8日から18日にかけて、沙河付近で沙河会戦が勃発した。双方に大きな人的犠牲がでた。10月8日夜半に本渓湖の日本軍が、ロシア軍の攻撃を受けて沙河会戦が勃発した。日本軍は10月10日には防御から攻撃に転じた。各地で激戦が展開されて、10月12日に日本軍が三塊石山を占領し、ロシア軍は後退した。日本軍は15日に沙河河畔の要地である万宝山を占領した。ロシア軍は翌16日に万宝山を奪回した。日本軍はロシア軍の追撃も困難となり、10月18日に日本軍は沙河南岸に防御を固めた。10月下旬に旅順第2次総攻撃を控えた日本軍は、北部戦線に余力はなかった。北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、1905年春まで対峙した。沙河会戦にて、日本軍の参加兵力は約120,800人で、戦死者約4,099人・戦傷者約16,398人が犠牲となった。ロシア軍は、参加兵力約221,600人で、戦死者約5,084人・戦傷者約30,394人・行方不明者約5,868人の犠牲を出した。
2018年8月10日金曜日
同時多発テロで、火炎と砂煙で救助不可であった礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。
アメリカ合衆国のニューヨークにて、2001年9月11日火曜日に同時多発テロが勃発した。世界貿易センター(WTC)がテロの標的となった。広島原子爆弾などの核爆弾の爆心地の跡地を連想して、グラウンド・ゼロと呼称された。ニューヨーク市消防局の礼拝堂の牧師の死体を消防隊員らが苦悶しながら搬送した。その爆心点は火炎と砂煙で救助するのは不可能となり、牧師はグラウンド・ゼロで礼拝中に爆死した。アメリカン航空11便が午前8時46分にWTC北棟109階、ユナイテッド航空175便が9時3分にWTC南棟109階に突入した。多量のジェット燃料で、火災と黒煙が全階に充満した。WTC南棟は午前9時59分に、WTC北棟が午前10時28分に全崩壊した。同時多発テロ死の犠牲者数は約2,749人で、その内の約412人が消防士、約147人が航空機の乗客であった。衝突時から崩壊までに102分間の猶予により、WTCビル内から約14,000人以上は避難できた。アメリカ政府は捜査の過程から、テロ攻撃がサウジアラビア人のオサマ・ビンラディンをリーダーとするテロ組織「アルカーイダ」が実行した断定した(アルカーイダは否定も肯定もしない)。アフガニスタンのターリバーン政権に引き渡しを要求した。ターリバーン側は、「証拠があれば引き渡す。今の段階ではアルカーイダとは断定できない。」と引き渡しを拒否した。アメリカ合衆国軍はターリバーン政権に対して、アメリカ軍とイギリス軍を主体とした有志連合軍が、10月2日にアフガニスタンに侵攻して、11月13日に首都カブールを征服した。アフガニスタン紛争はソ連軍に引き続いて、アメリカ軍により再燃して、中東紛争が長期間に泥沼化して、いつでもどこまでも中東市民が犠牲者となった。
2018年8月9日木曜日
長崎原子爆弾が炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍がは16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。
長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分から投下しれて炸裂した瞬間からきのこ雲が立ち上るまで、アメリカ軍が16mmカラー映像を3分50秒間まで撮影した。ボックスカーと呼称したB-26爆撃機の窓からレンズの焦点を当てると真赤な火玉が撮影された。長崎市内は、原子爆弾の火玉により反射して一部地域に赤味がかった。やがて白いキノコ雲が出現して、膨張しながら高度を上げて、巨大なきのこ雲に変貌した。ファットマンと呼称されたプルトニウム239型の長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下された。爆心地の長崎市松山町171番地の上空約500mの爆心点で炸裂した。ファットマンは、TNT火薬では約22,000トンに相当した。
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