2018年7月20日金曜日

ハンガリーの矢十字党により虐殺された市民や膨大なユダヤ人の死体が発掘された。

ハンガリーには、1939年から1945年まで、ファシズム政党である矢十字党(ハンガリー主義運動)政権がハンガリー王国を帝国主義化した。サーラシ・フェレンツが指導する反ユダヤ的なハンガリー主義(Hungarizmus)を掲げた民族主義政党となった。ナチス・ドイツの支援を受けて、1944年10月15日にナチス・ドイツ軍と矢十字党員はブダペスト市内を占領して、1945年1月までハンガリーを統治した。サーラシ政権はドイツの反ユダヤ主義に協力し、国内に居住する約100,000人以上ものユダヤ人を虐殺して、約80,000人のユダヤ人市民をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送した。サーラシは首相兼国家元首に就任して、ソビエト軍およびルーマニア王国軍と戦って、東部戦線のナチス・ドイツ軍と同盟した。矢十字党の虐殺部隊が闊歩して、ユダヤ人市民らを捕まえては銃殺して土中に埋め込み、凍りついたドナウ河にも投げ込んだ。ブダペストの戦いが1944年12月に始まり、矢十字党政権はナチス・ドイツ軍と共に1945年4月30日の終戦までハンガリーの西端で戦い続けた。大戦後には、矢十字党により虐殺されたハンガリー市民の犠牲者の死体が発掘された。大戦後にはサーラシらの矢十字党の指導者は、ハンガリーの法廷で戦犯として処刑された。



2018年7月19日木曜日

アメリカ軍兵士が、歩兵連隊の軍服を着服してアメリカ雑誌も携帯した中国人義勇兵を処刑して死体を見下した。

朝鮮戦争にて、中華人民共和国が1950年10月25日に参戦して、北朝鮮を支援した。中国義勇軍と北朝鮮軍は、南下に侵攻して12月5日には平壌を制圧して、1月4日には、ソウルを再奪還した。1951年初頭に、第5歩兵隊に所属したアメリカ軍歩兵士が、処刑した中国人義勇兵の死体を見下した。中国義勇兵の死体には、アメリカ軍の一般歩兵連隊の(General Infantry : GI)の軍服を着用して、アメリカ雑誌も携帯していた。アメリカ軍の治安維持活動の一環として、中国人義勇兵を秘密裏の窃盗として処刑した。アメリカ軍の地上軍の優位な武力とアメリカ韓国軍の強力な空爆により、中国人義勇兵と北朝鮮軍の南下に対抗した。最新兵器で態勢を立て直して反撃を開始して3月14日にはソウルを再奪回した。戦況は38度線付近で膠着状態となる。全戦線に塹壕を掘られ、中朝軍はさらに兵力を増強した。トルーマン大統領は4月1日にマッカーサーを解任した。1951年7月から休戦会談を繰り返すも不成立となり、最終的に1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印された。



2018年7月18日水曜日

日中戦争の南京にて、日本軍兵士が日本刀で便衣隊と嫌疑者の首などが切断した中国人の死体が散乱した。

日中戦争にて、南京に入城した日本軍は、中国人の若者を根拠もなく便衣隊と嫌疑をかけて虐殺した。日本軍兵士は、日本刀で便衣隊の容疑者の首などを切断して、中国人の死体が散乱した。便衣隊は、日中戦争にて一般市民と同じ私服や民族服などを着用した市民に偽装して敵対行為をする軍隊を呼称した。国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけずに処刑するのは、国際法上違反であった。 1937年12月13日に日本軍に南京城は陥落して、城内では約6週間に及ぶ大量虐殺と破壊がされた。虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員の市民を殺害することで、国際法上違反であった。東京裁判では約200,000人以上の虐殺が認定され、中国では約300,000から400,000人以上と推定した。大虐殺や数値には根拠がないとして否定する日本人の批判論者も多数いるが、しかし日本側の多く研究者も約300,000人と想定している。日本軍による集団的虐殺は、下関煤炭港・魚雷営・漢中門外・下関上元門・下関中山碼頭・下関草鞋峡・漢西門・上新河一帯・四条巷・三汊河河岸・燕子磯江辺などの地域で執行された。



2018年7月17日火曜日

独ソ戦において1942年2月にロスラヴリで、ナチス・ドイツ軍は捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。

ナチス・ドイツ軍は独ソ戦争で、1942年2月19日にモスクワ州の西側のスモレンク州南部であるロスラヴリの土中に、捕虜にしたソ連軍兵士を残酷な大量虐殺をして死体を廃棄した。ナチス・ドイツ軍は1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動され、枢軸軍はソビエト連邦へ侵攻した。緒戦にはソ連の赤軍は各戦地で大打撃を被り、敗走して孤立した兵士の数百万人以上がナチス・ドイツ軍の捕虜(POWs : Prisoners of War)となった。ジュネーブ条約等国際条約の捕虜に関する保護・待遇規定は何ら適用されず、即戦場で処刑され、最前線からの死の行進、生存者も完全な根絶のために強制収容所へ送られて、非人道的に虐殺された。約3,300,000人以上ものソ連兵士が死亡して、捕虜となったソビエト兵の約57%であった。連合軍では死亡したのは3.6%の約8,300人であった。戦争初期から捕虜虐殺は横行して、屋外での完全な放置と飢餓と伝染病、即時処刑を執行して、1941年6月から1942年1月だけでも約2,800,000人のソ連軍の捕虜が虐殺された。ソ連軍は報復して約374,000人以上ものドイツ兵捕虜をソビエト強制収容所で虐殺した。




2018年7月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 700回

2018年7月16日月曜日

一人の歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺され、悲惨な死体が塹壕に落ち込んでいた。

第2次世界大戦末に、連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸からフランス・ベルギーを解放して約3ケ月でドイツ国境まで侵攻した。1944年月9月14日から1945年5月8日の無条件降伏までの約8ケ月間が、ドイツ本土を侵略した最後の大決戦場となった。連合国の圧倒的な武力により膨大な犠牲者の死体が散乱した。歩兵軍隊のドイツ人が連合軍に虐殺されて、悲惨な死体が塹壕の中に落ち込んだ。各地で敗退を続けたドイツ軍は、1944年12月16日から西部戦線のバルジでの反抗戦も敗戦した。1945年3月28日から連合軍はドイツ国内の865kmの最長の河川であるライン川を渡河した。東部戦線ではソ連軍が東プロイセンを占領して、オーデル・ナイセ戦線を越えた。1944年4月にはソ連軍によるベルリン総攻撃が勃発して、5月2日にはベルリンはソ連軍によって占領された。5月8日に連合国に対する降伏文書に署名して終戦した。




2018年7月15日日曜日

ウクライナでは、ソ連により小作農が大飢餓の犠牲となり、ハルキウの路上で、多数の餓死の死体が転がり、路上の周辺に散乱して死匂が漂った。

ウクライナでは、1933年4月に小作農が大飢餓の犠牲となって、北東部の都市であるハルキウにて、多数の餓死による死体や瀕死状態者が転がり、各地の路上の周辺に散乱して死匂が漂った。ウクライナでは1919年の独立から、1922年にソビエト連邦に編入された。ウクライナの小麦による外貨獲得のため、ソ連は飢餓になっても、小麦を徴発して、食糧不足となり飢餓が発生した。1930年代初頭から農業集団化で収穫減から厳しい食料徴発されて飢餓が深刻となり、ソ連は反抗者は容赦なく処刑した。1932年12月27日から通行手形により、小作農らを集団農場に縛り付けた。1933年春には飼料を悪用するば10年以上も強制収容所へ送還さた。ソ連系オルグ団のスパイは農場を監視して、肉親を告発した家族には食物を賞与した。食料を没収された小作農は下手物まで食べた。遂にウクライナ人は病死馬や人間の死体も食べた。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂って、飢餓の犠牲者は約2500,000人以上に達した。ウクライナは反ソ・反共感情が高まり、独ソ戦のナチス・ドイツ軍を「解放軍」として歓迎し加担した。しかし、スラヴ系諸民族の撲滅を目指すナチス・ドイツも、ウクライナ人に残酷な政策を実施した。ソ連はウクライナ飢餓を1980年代になり承認した。2014年2月からロシア軍による軍事干渉クリミア自治共和国の住民投票から、3月17日にロシア軍の支配下で編入が決議された。ウクライナの東部2州(ドネツィク州、ルハーンシク州)の抗議運動が、武装した分離主義勢力による反乱へと広がり、暫定政権が軍事的弾圧をした。




2018年7月14日土曜日

アメリカ軍等による激しい空爆等によるイラク戦争の犠牲となった瀕死イラク人児童を母親が側で見守った。

アメリカ軍は、2003年3月20日にイラクの首都バグダードへの空爆からイラク戦争が勃発した。42日間の戦闘で,有志連合軍の死者は172人,イラク人死者数は約100,000人以上と推計された。2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件からイラクの大量破壊兵器を敵視した。ジョージ・W.ブッシュ大統領は2003年3月20日にアメリカ軍は国連を無視して、イラク攻撃を先制攻撃した。4月9日にアメリカ軍がバグダードを陥落させてフセイン政権は崩壊した。2003年5月1日の戦闘終結宣言したが、連合軍による占領が 2004年6月のイラク暫定政府まで続いた。イラクに駐留を続けて、2005年12月にアメリカ系イラク政権を成立させた。駐留や宗派偏向的政権に、住民の反発と反米・反政府勢力による攻撃が増加した。2006〜07年には宗派対立から内戦が悪化し,駐留軍とイラク民間人ともに死者が急増した。イラクの不安定化とアメリカ軍の犠牲や,大量破壊兵器が未確認などから,アメリカ国内ではイラク戦争反対のバラク・オバマ政権が2009年1月に成立した。2010年8月18日にアメリカ軍はイラクから撤退をした。開戦以来のアメリカ兵の死者は 2010年4月までで 4,000人に上った。2009年10月にイラク政府は 2004〜08年のイラク人犠牲者数を,市民と兵士で終結後から85,000人以上と推計した。最後のアメリカ軍約 500人が 2011年12月18日に完全撤収した。



2018年7月13日金曜日

無差別大空襲で完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。

第2次世界大戦において、連合国がドイツのハンブルグに無差別空襲をして壊滅した。1947年9月7日から1942年5月10日までロンドン大空襲を受けたイギリス軍は、ドイツ軍を「悪事を犯した奴らが今こそ酷い報いを受ける番だ」とゴモラ作戦の空爆で復讐した。特に1943年7月27日は、異常に乾燥し温暖であり、地域に爆撃が集中し、消防隊が火災の現場へ到達できなかった。空襲は甚大な被害をもたらし、爆撃は「火災旋風」を引き起こした。家屋の石炭やコークスなどの燃料が火災の規模を拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、屋外は溶鉱炉様となった。最大風速は240km/h、気温は800℃に達し、市街は21kmに渡って焼け落ち、防空壕に避難した市民もしない市民も無差別空襲を受けた。無差別大空襲で、完全に黒焦げになったハンブルグ市民の焼死体が、街路地に大散乱した。ハンブルグの犠牲者は民間市民であり、約50,000人の多くが空爆で死亡した。第二次世界大戦が終結するまでハンブルクは7月24日から1945年4月14日にかけて約69回空爆を受けた。最も甚大な空爆を受けたハンブルグは、イギリス政府は「ドイツのヒロシマ」と大戦後に宣告した。



2018年7月12日木曜日

塹壕からフランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。

第1次世界大戦の西部戦線では、緒戦の突撃肉弾戦から、全長で約700kmにも及んだ塹壕に立てこもる長期の消耗戦に至った。イギリス・フランス軍とドイツ軍ともに網の目に鉄のワイヤーを張り巡らせた。重ねた鉄条網の柵を塹壕の前に構築した。双方ともに、敵兵の侵入を阻止するために、鉄のワイヤーの鉄条網をいたる所に設置した。フランス軍兵士が、鉄条網が視界に入らずに絡まって動けなくなったドイツ軍兵士を銃殺した。塹壕を鉄条網から銃身と周辺の地雷で防御した。北はドーバー海峡からスイス国境まで塹壕が繋がった。張り巡らした鉄条網は、約300,000kmにも達した。進撃と反撃の繰り返しによる消耗戦で、膨大な犠牲者を出した。1916年2月から12月に、ドイツ軍とフランス軍とのヴェルダン戦では、数キロの進退戦で、フランス軍は約360,000人、ドイツ軍は約340,000人の死傷者は犠牲となった。戦場は砲火で焼き尽くされ、砲弾による夥しい戦死者の死体と兵器が散乱したまま放置された。




2018年7月11日水曜日

激しい戦闘があったブーゲンビル島で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。

太平洋戦争にて、1942年3月に日本軍はソロモン諸島のブーゲンビル島を占領して、飛行場を整備した。日本軍は、砲火力が低く対戦車装備も不足していた。島内の交通路の整備も不十分で、迅速な部隊機動も難しかった。アメリカ軍は、1943年11月1日にタロキナ岬に上陸した。 激しい戦闘があった105高地とアオギリ丘で、多数の日本人兵士の死体が散乱して、アメリカ軍兵士が戦車上から眺めた。湿地帯で膠着状態になったが、11月9日にアメリカ軍が日本軍を撃退して、日本軍は補給も続かず11月11日に撤退した。アメリカ軍は12月までにタロキナ岬に飛行場を完成した。ジャングルに潜む日本軍は激しい空襲を受けて犠牲が続出した。圧倒的な火力でのアメリカ軍の1944年3月8日の反撃により3月25日に攻撃停止をした。日本軍の死傷率80%を超え、死傷1万3千人で、4,000以上は病死して壊滅的であった。アメリカ軍は、日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令して多数が虐殺された。日本軍は1944年2月には補給は途絶えて食料は減少した。現地自活体制から、大多数の餓死者を出したガダルカナル島には至らなかった。ガダルカナル島の「餓島」に対して、ブーゲンビル島の「墓島」と呼ばれた。1945年8月15日に日本が降伏して、ラバウルからの停戦命令で日本軍は戦闘を停止し、9月3日に武器を引き渡して降伏した。



2018年7月10日火曜日

ソ連に抑留された元日本軍兵士が舞鶴港に上陸するたびに、母と子は必死で兵士の顔を探し求めた。

ソビエト連邦軍が1945年8月9日に日本に対して参戦して、満州で防衛した膨大な日本軍兵士が捕虜となった。第2次世界大戦後に長期間にわたり、シベリア抑留されて強制労働させられた。引揚船が着くたびに母子が岸壁でいつまでも肉親を探し続けた。いつも見られた喜びと悲喜こもごもの光景であった。歳月の経過とともに、毎回に同じような顔ぶれの人が桟橋の脇に立つ姿が見受けられれた。これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられた。
 思い出の戦争の真実として、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)の子供である端野新二(1926年生)は満洲国に渡り関東軍として、ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。戦後に、いせは新二の生存と復員を信じて1950年1月から引揚船が舞鶴に初入港してから以後6年間にわたり入港する度に舞鶴の岸壁に立った。1954年9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、1956年には東京都知事が1945年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行した。しかしながら、帰還を待続けた新二は戦後も上海で生存していたのが、明らかになったのは、母の没後の2000年8月であった。1954年9月、テイチクレコードから発売された菊池章子の「岸壁の母」は100万枚以上の国民的反響を受けた。






作詞:藤田まさと
作曲:平川浪龍
歌唱:菊池章子
(一)
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて
(二)
呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に
 (三)
 悲願十年 この祈り
 神様だけが 知っている
 流れる雲より 風よりも
 つらいさだめの つらいさだめの
 杖ひとつ

2018年7月9日月曜日

日本軍は、武装解除した中国人兵士や警察官の数百人を南京の安全地帯から連行して銃殺した。

日本軍の南京軍政部の向かいには処刑場が設置された。防空壕のそばの処刑場には、30人の中国兵の死体が散乱していた。日本軍による即決の軍事裁判によって、1937年12月17日に銃殺刑が執行された。その後に中国兵の死体は、無造作に溝に投げ込まれていた。日本軍は1937年12月8日に南京を包囲して、12月10日には攻撃を開始した。12月13日には中国軍は総崩れとなり南京城は陥落した。12月16日には、武装解除した中国人兵士が数百人が、安全地帯から連行されて、銃殺された。その中には、中国人兵士を安全区に入れた罪状で、約50人の中国人警察官も含まれた。下関の周囲の道端は、死体置き場となり、片付けられていない中国人の死体が散乱して、一面に悪臭を放っていた。強制収容所となった最高法院からは約500人の中国人兵士が連行されて機関銃で銃殺された。12月19日から、日本軍が南京を焼き払い炎に包まれた。



2018年7月8日日曜日

日露戦争の満州侵略の途上にて、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の戦死者を集積しては火葬した。

日露戦争の緒戦にて、満州を侵略するために、日本軍は中国と北朝鮮の国境となる鴨緑江を渡河した。日本軍は1904年4月25日の夜に、北朝鮮北西部の虎山として知られる鴨緑江に面した九里島に侵攻した。4月26日朝に義州元化洞の九里島に攻撃して上陸して占領した。それを阻止するロシア軍の砲兵隊に砲撃を受けて、多数の戦死者を出した。日本軍は4月30日から5月1日まで鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、それを防御するために待機していたロシア陸軍との間で戦闘が勃発した。戦争下の日本軍は不利な状況になり窮地に至って、日本軍はロシア軍の砲撃により多大な犠牲を受けた。苦しい状況で攻めあぐねて、悲惨な戦況ともなった。ロシア軍も、悪路・悪天候の戦地の環境にも混迷して、戦地で苦戦をした。鴨緑江渡河の途上で、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の日本人兵士の戦死者の死体を集積しては火葬して処理した。5月1日の午後にはロシア軍の撤退によって日本軍は九連城一帯を占領した。



2018年7月7日土曜日

アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦などで戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。

連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸から6週間もの消耗戦の後に、連合軍はサン=ローでドイツ軍の防衛線を突破した。ドイツ軍の西半分は撃破されて、8月1日にはアメリカ軍はアヴランシュを占領した。ドイツ空軍の空爆にも関わらず、ブルターニュ港から、西方向のブレスト、ロリアンの港まで進撃をした。ドイツ軍の側面と後方まで進撃して、8月7日までにル・マンを占領した。ドイツ軍はリュティヒ作戦で8月6日にモルタンを占拠したが、8月12日まで高地を守ったドイツ軍兵士の約700人のうち、約300人以上が戦死した。8月13日にドイツ軍はモルタンから駆逐されて、8月19日にはドイツ軍の約150,000人が閉じ込めらた。8月21日まで包囲網を突破しようとするドイツ軍の攻撃は封じ込められてて、約50,000名のドイツ軍将兵が降伏した。アメリカ軍兵士は、モルテンの攻防戦において戦死したドイツ軍の膨大な死体を集積して見下ろした。


2018年7月6日金曜日

ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士をウクライナの首都キエフで絞首刑にして死体を見上げていた。

第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍がウクライナの首都キエフ近郊で、1941年7月7日から防衛するソビエト赤軍を包囲した。バルバロッサ作戦の一環として9月26日までキエフの包囲戦を続けた。ドイツ軍のキエフ東側での包囲戦により、ソビエト赤軍は膨大な犠牲を伴って壊滅した。ドイツ軍はソビエト赤軍兵士の約452,700名を包囲して、その内の約15,000人だけが10月2日までに包囲網から脱出した。作戦の全体として、ソビエト南西方面軍は犠牲者は約700,544名人となり、約616,304名がキエフでの戦いの1ヶ月間で戦死するか捕虜となり、ソビエト赤軍の南西方面軍はほとんど壊滅した。キエフを占領したナチス・ドイツ軍は嬉々として、抵抗勢力から難民まで虐待と虐殺して、その死体を焼き尽くした。有刺鉄線を取り巻いて4階建ビルに監禁したソビエト赤軍兵士を、1941年12月13日の夜間に銃撃して、窓から逃避した約70人のソビエト赤軍兵士の多くは虐殺された。ドイツ軍兵士は2人のソビエト赤軍兵士を絞首刑にして死体を見上げていた。戦死していたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、ロシア人を絞首刑した場面のスナップ写真が検出された。