戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年5月28日月曜日
2018年5月27日日曜日
上海4・12事件で、国民党は即決裁判で多数の中国共産党員を路上で処刑し、広州にも悲惨な死体が路上に散在した。
中華民国にて、1927年4月12日に上海からの北伐に蜂起した武装労働者らが、国民党軍から武力弾圧を受けた。武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対して国民党軍が発砲して虐殺して、共産党系労働組合に離散を命じて上海総工会の根城を占拠した。国民党は上海の中国共産主義者や市民らを虐殺して撃退した。国民党は即決裁判により、多数の中国共産党者を路上で処刑した。この処刑は広州にも広がり、中国共産党員には悲惨な死刑が執行されて、死体が路上に散在した。上海4・12事件により、国民党と孫文の未亡人であった宋靄齢らの上海浙江財閥が結託した。蒋介石は1927年12月1日に妹である宋美齢と結婚した。蒋介石は孫文の義理の弟となり、中華民国総統の血統を獲得して、絶大な政治的勢力を獲得した。
2018年5月26日土曜日
朝鮮戦争の直前に、李承晩勢力の韓国警備隊、韓国軍、韓国警察などが済州島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。
朝鮮戦争の直前に、韓国の済州島の騒乱にて、韓国軍と警察による島民の大量虐殺が勃発した。駐留アメリカ軍による食料挑発で疲弊した上に済州島に多数の島民が帰還した。1947年3月1日の独立運動に対して、韓国警官隊が島民6人を銃殺して、約3,000人を逮捕した。それに反抗して、1948年4月3日午前2時に、済州島の全域でゲリラ蜂起して、韓国警察隊の12名を虐殺した済州島4・3事件が勃発した。南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に済州島の島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。済州島は流刑地・左遷地として朝鮮半島から差別され、困窮した済州島民は、済州島4・3事件で日本に密入国して在日韓国・朝鮮人になる要因になった。韓国は共産主義労働党の扇動として、投入した膨大な韓国政府軍・警察により、島民の約27,000人以上が虐殺されて、住宅も約70%が焼き尽くされた。1992年4月には、済州島東部の旧左村・月郎峰の洞窟の中に、虐殺された白骨化した11遺体が発掘された。
2018年5月25日金曜日
徐州の荒野に散在する中国軍兵士の死体は、日本軍の占領により、故郷の土地を奪われた貧農の難民兵士であった。
日中戦争において、1938年4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本軍と国民党軍と徐州会戦が勃発した。日本軍は5月19日に徐州を占領するも、撃退は頓挫してますます戦域と人災が拡大した。日中戦争にて、中国人兵士の死体が荒野に散在した。日本軍は、徐州では海原のように荒野が拡大していた。その荒野の麦畑の中を軍馬とともに延々と進軍した。徐州の荒野に散在する中国軍の死体は、日本軍の占領により、故郷の土地を奪われた貧農の難民兵士であった。日本軍は圧倒的な武器と武力で、貧農の中国人を各地で虐待と虐殺を繰り返した。日本軍も中国軍も広大な中国大陸の泥沼の戦闘に陥って膨大な犠牲者を出した。
2018年5月24日木曜日
ワルシャワ・ゲトーにて、ダビデの星を身につけられたユダヤ人男性が、死亡した幼児を埋葬するために片手で持ち上げて運搬した。
ナチス・ドイツ軍が、1939年9月1日にポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発した。1940年11月に首都に最大のユダヤ人隔離地帯であるワルシャワ・ゲットーを設置して、約20万人のユダヤ人を隔離した。ゲットーは、飢えと不衛生に苦しめられた。ゲットーの食糧配給は一日180cal程度しかなかった。栄養不足は、伝染病を招き、衰弱して命を落とす者が続々と道端に倒れて、1942年までに総計で約83,000人が死亡した。ワルシャワ・ゲトーにて、ダビデの星を身につけられたユダヤ人男性が、死亡した幼児を埋葬するために片手で持ち上げて運搬した。1941年12月にナチス・ドイツ軍のポーランド総督りハンス・フランクは、率直に言ってしまえば、ユダヤ人など根絶やしにすべきであると怨嗟した。1943年4月19日にユダヤ人が初めて、ナチス・ドイツ軍に武力抵抗をしたが、直ちに鎮圧され大多数が虐殺された。
2018年5月23日水曜日
グアム島では、1947年に日本軍の戦犯人が、両腕を固定されて目隠で吊り下げられて絞首刑が執行された。
太平洋戦争にて、日本軍は1945年8月15日に無条件降伏して敗戦した。1945年から1950年にかけて、日本軍の戦争犯罪者に対して、連合国によってアジア全域で約50の軍事裁判が開催された。日本軍の約6,000が、残虐と虐殺の戦争犯罪によって起訴された。そのうち約900人以上に絞首刑の死刑が執行された。グアム島では、1947年に日本軍の戦犯人が、両腕を固定されて目隠しをされた状態で吊り下げられて絞首刑が執行された。日本軍が無条件降伏した時点で、日本軍による戦争犯罪に関する連合国の処罰の方針は、既にポツダム宣言に盛り込まれていた。われわれの捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えるべし。特に日本軍による連合国の捕虜の虐待と虐殺に対して憤った。ドイツ軍とイタリア軍による連合国の捕虜の死亡率は約4%に対して、日本軍の連合国の捕虜の死亡率は約27%にも達した。連合国は1948年頃から共産主義の封じ込めの方針の転換により、1946年10月1日のニュルンベルク裁判と1948年11月12日の極東軍事裁判による国際的な平和の秩序形成に繋がらなかった。
2018年5月22日火曜日
南アフリカ北部のジンバブエにて、黒人警察官が虐殺した7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。
南アフリカ北部のジンバブエにて、1977年に黒人警察官が虐殺し7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。ローデシア地域の治安部隊の兵士や警察の多くは黒人であり、しばしばジンバブエのZANU(アフリカ民族同盟)とZAPU(アフリカ人民同盟)勢力と戦闘した。1979年には総計で約25,000人の黒人と約2,000人のイギリス系白人が、10年間の独立戦争で虐殺された。1965年にはイギリス系白人はローデシア共和国の独立を宣言して、アパルトヘイトを強制した。黒人側は黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開した。1979年に黒人に参政権が付与されたが、イギリス系白人体制が実権を持ち続けた。1979年末にイギリスの調停により議席中のイギリス系固定枠でローデシア紛争は終結した。1980年にジンバブエ共和国が成立して、1987年にロバート・ムガベが1987年から大統領制に移行し、93歳となる2017年まで独裁した。
2018年5月21日月曜日
エジプト人ゲリラが、絞首刑にしたイギリス人兵士を吊るしスエズ運河占領を警告した。
スエズ運河地域におけるイギリス軍の1882年からの継続的な占領に対して、エジプト人は激怒した。イギリス軍隊に対するエジプト人のゲリラ攻撃が頻発していた。イギリス人兵士が、1952年1月にカイロ通りに絞首刑されて高くに吊るされた。この声明文には「イギリス人の絞首刑」と警告した。エジプトのナセル大統領が、1956年7月にスエズ運河国有化を宣言した。イギリスがフランスとイスラエルの協同で出兵しエジプトに侵攻した。スエズ運河をめぐるイギリス軍とエジプト軍の対立は、パレスチナ問題と結びつき中東戦争を拡大させた。10月30日にアメリカは安全保障理事会の緊急会合開催を要請、イスラエルの撤兵を求める決議案を提出した。翌31日に1950年の「平和のための結集」決議を利用し、停戦・撤兵決議案を提出し採択した。イギリスとフランスとイスラエルは国際的に孤立して撤退した。
2018年5月20日日曜日
アメリカ軍の空爆と内乱で、アフガニスタンの農村部は疲弊して、水と食糧が不足して弱者の子供らが大量に犠牲となり死亡した。
アフガニスタンで、ソ連が1989年に侵略から撤退した後に、1992年のムジャヒディン勢力が無差別な内戦を激化して、無政府状態に陥った。農村部の代表勢力であったタリバン(イスラム神学生)政権が1994年に突如に成立して内乱を制圧した。そのアフガンを混乱させたビンラディンに対して、タリバンは巻き込まれ、2001年からアメリカ軍は理不尽な空爆と侵攻をした。動乱と標的に残されたのは貧民層と崩壊した農村部から流入した飢餓難民であった。シリアやイラクでの過激派組織「イスラム国(IS)」の戦闘が峠を越し、アフガニスタンを占領するアメリカ軍は、2018年2月から空爆による掃討を強化した。内乱と空爆によって、農村部は疲弊して、水と食糧が不足して栄養失調となった弱者である子供らが大量に犠牲になり死亡した。
2018年5月19日土曜日
強制的にペルシャ改革のために、ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。
ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。パフラヴィー王朝の1代目は、強制的なペルシャの変革を、1934年からイランに国名を変更することを含めて、しばしば厳罰的な処刑によって強要した。 イスラム教会も砲撃することを命じて、イランをイスラム教徒の聖職者が支配する教育制度と法制度を攻撃して廃止しようとした。2代目のモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)は1979年1月16日までパフラヴィー朝イランの最後の2代目皇帝となった。「白色革命」を推進して、イランの近代化を進めた。フランスに亡命していたルーホッラー・ホメテニーが引導するイラン革命で失脚して脱国した。ホメイニーは、2月11日にイスラム革命評議会を唯一の政権として、4月1日に「イラン・イスラム共和国」の樹立をして独裁者となった。1980年から死去する1989年まで、イラク・イラン戦争を主導した。
2018年5月18日金曜日
連合国が解放した元ナチス・ドイツ人らに強制収容所の悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させて死体処理を強制した。
第2次世界大戦が1945年に終結して、連合国により解放されたドイツ軍兵士たちを、ナチス・ドイツの強制収容所における悲惨なユダヤ人の虐殺に直面させた。元ドイツ人市民らを、ベルゲン・ベルゼン強制収容所における死体処理を強制した。1945年4月15日にイギリス軍は無抵抗でベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。埋められた囚人の遺体を掘り返しては死体を処置した。イギリス軍が収容所を解放した4月15日から6月20日にも1万5000人もの囚人が死亡した。ナチス・ドイツの親衛隊が解放直前に書類などを焼却処分して、正式な犠牲者数は不明である。解放直前の数カ月だけで約5万人に達して、収容所開設から約17万人以上が虐殺されたと推定された。逆に、イスラエル建国前に、ナチスに追われたユダヤ人を締め出すイギリス軍に対して、メナヘム・ベギンは地下組織 「イルグン」でレジスタンスの総指揮をした。1979年には首相として、イスラエルとエジプトとキャンプ・デービットの和平交渉に合意した。
2018年5月17日木曜日
イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。
イラクに駐留したアメリカ軍兵士が、軍服を着ていなかったイラク人も敵として無差別に銃殺した。アメリカ軍の駐留地の通用門の外側にいたイラク人が射殺された。イラク人は、背中にはサッカーのシャツを着て、足はサンダルを履いていた。彼は、身分証明書を保持していなかった。アメリカ軍兵士には、このような連中はだれなのか、どこから来たのかは不明であった。イラク戦争で敗戦した旧イラク軍は、隠した武器でアメリカ軍にレジスタンス攻撃を行った。イラクに侵攻をした占領軍に対して爆弾や自爆テロで攻撃をかけ、身分を隠したレジスタンス反抗のために阻止が困難であるために、無差別攻撃に巻き込まれて双方に大量の犠牲者が出た。開戦した2003年3月20日から撤退した2011月12月14日まで内乱となり、2014年6月29日にはイスラム独裁国(ISIS)が勃発した。
2018年5月16日水曜日
カンボジアのプノンペンにて、クメール・ルージュによる無差別の砲撃で、母子含め膨大な市民が犠牲者になった。
ポル・ポトに先導された共産主義勢力であるクメール・ルージュは、1970年代の初頭から、カンボジアの軍事クーデーによるロン・ノル政権は弱体化して侵攻された。カンボジアでの共産主義化は、ベトナム戦争による北ベトナムの共産主義化に影響を受けた。アメリカ軍が1973年の半年間に、カンポジア全域に539,126トンも無差別に空爆した。空爆等による膨大な市民の虐殺と困窮により、逆にクメール・ルージュは地域を占領し勢力は強化された。ベトナムでは北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの首都であったサイゴンでの攻防で勝利して、アメリカ軍が撤退した。カンボジアの首都であるプノンペンに向けて、クメール・ルージュによる無差別のロケット砲撃により、母子も含め多数の市民が犠牲者になった。クメール・ルージュのゲリラは、約1年もの間に首都のプノンペンへ砲撃を続けた。1975年4月17日に、クメール・ルージュによりプノンペンは陥落した。逆にポル・ポト政権は、1979年1月7日にベトナム軍とカンボジア救国統一戦線により陥落するまでに、総人口800万のうち約200万以上の市民を虐殺した。
2018年5月15日火曜日
戦艦武蔵の乗組員の約2,400人が、撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。
太平洋戦争末期、戦艦武蔵はフィリピンのレイテ島に侵攻するアメリカ軍と戦闘するため、戦艦大和と出撃した。三菱重工業の長崎造船所で大和の二番艦として建造された武蔵は、アメリカ軍の爆撃機による1944年10月24日午前10時頃からの猛攻撃で、1944年10月24日午後7時35分にシブヤン海上で沈没した。武蔵の転覆と同時に積載した爆薬で2回大爆発して大破した。戦艦武蔵の乗組員は主に10代から20代の若者で約2,400人が乗船していた。撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。その上に沈没時に救助された乗組員は、直ちにフィリピン・ルソン島の戦闘に送還されて、アメリカ軍と激戦に投入された。陸上戦に投入された武蔵の生存者約430人のうち、生き残ったのは50人に満たない。2015年3月に、フィリピン沖1,200mの深海で眠り続けてきた武蔵が発見された。
2018年5月14日月曜日
南ベトナム人の農民らが、ナパーム弾の炸裂で死亡した母子の側でしゃがみ込み、重度の火傷を負った少女を抱えた。
北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線は、南ベトナム軍とアメリカ軍に対する1968年1月にテト攻勢で戦局が変化した。特にベトナム中部の都市のダナン市外では、激しく無差別に攻略された。幼い南ベトナム人の農民らが、ナパーム弾の炸裂で死亡した1人の母親と1人の子どもの側で、悲嘆に暮れてしゃがみこんだ。その隣の婦人は、泣きながらナパーム弾で激しい重度の火傷を負った少女を抱えていた。アメリカ軍と南ベトナム軍は、ジェリー状のガソリン混合物であるナパーム弾を、射程にしたベトコンの拠点に投下して炸裂させた。アメリカの局面的戦略の撤退に繋がり、アメリカは1968年5月からパリ和平会議の出席から、1975年4月30日のベトナム南部の完全解放・祖国統一に繋がった。
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