戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年4月15日日曜日
2018年4月14日土曜日
南アフリカのアパルトヘイト反抗者が、裸で枷で尋問を受け、頭部を殴打され脳挫傷で虐殺された。
南アフリカのアパルトヘイトに対抗するために、スティープ・ピコは、1968年に南アフリカ学生機構(SASO)を結成した。1969年には、SASOの初代代議長に選出された。1972年にダーバンで黒人共同体プログラム(BCP)の活動して、名誉議長に任命された。BCP東ケープ支部の活動制限処分を受けたが、BCP東ケープ支部で社会運動した。1975年にテロリズム法により、有罪判決もなく101日間勾留された。さらに1977年8月18日に再び拘禁された。収容所では、裸で枷をはめられで尋問を受けた。9月12日の頭部を殴打されて、脳挫傷で虐殺された。妻と2人の子供を残して膨大な黒人市民らに葬儀された。全世界からアパルトヘイト不正に抗議が勃発した。1994年に南アフリカの大統領となるネルソン・マンデラ大は、南アフリカ全土で光輝いた野火と呼称した。
2018年4月13日金曜日
アメリカ軍の爆撃機が、砂嵐の強風でリビア砂漠上に不時着して、脱出途上の白骨の死体と墜落機が偶像化された。
第2次世界大戦中に、アメリカ軍は爆撃機にて、各都市部を無差別爆撃をした。リビアから離陸してイタリアのナポリに爆撃をしたB-24が、1943年4月4日に戦闘して帰還中にリビア砂漠上で消息不明となった。ナポリ港湾への連続爆撃するための9名の乗務員が搭乗した「善良なる貴婦人(Lady Be Good)」と呼称されていた。砂嵐の強風のために編成隊に合流できずに、単独の爆撃機となり、夜間飛行となり、燃料が切れてアフリカのリビア北岸のリビア砂漠上に不時着した。リビアのスルーク基地から探索されたが未発見となり、乗務員らは地中海方面にむけて灼熱の砂漠上から脱出を試みた。極限の疲労すと脱水により、全員が砂漠に埋もれて死亡した。1958年に偶然に現場の上空から墜落機かぜ発見されて、アメリカ軍は1962年から本格的に大規模な遺体の捜索をして8名の白骨が発見された。搭乗員を英雄化して、航空機をは名誉化するために、敵の対空砲火により墜落したと根拠もなく偶像化されて各地空軍博物館に展示されている。
2018年4月12日木曜日
オデッサで地域住民がユダヤ市民を破滅するポグロムによる死体を、生存者のユダヤ人を悲嘆しながら見守った。
ロシア帝国の市民らが、ウクライナ地方のオデッサにて、1821年にユダヤ住民に対して破滅的な暴力や虐待をする「ポグロム」と呼称される暴動をした。それ以後にロシア南部の広範囲にわたり、ユダヤ人に対してポログムが執行された。宗教的反ユダヤ主義を許容して強化するために、地元の役所や警察署や軍隊までもが、ユダヤ市民に対するポログムをロシア市民に奨励して誘導した。1905年にはオデッサで市民によるユダヤ市民に対するポログムが再発して勃発した。多数のユダヤ人が虐殺されたユダヤ人の死体を、生き延びたユダヤ人が集積して呆然と悲嘆しながら見守った。ロシアの内戦や革命中にもポログムが全域に拡大した。1938年11月9日にはドイツ各地までポログムが波及した水晶の夜が暴発して、先導したナチス・ドイツによる組織的な大量虐殺するホロコーストに繋がった。
2018年4月11日水曜日
太平洋戦争のテニアン島では、約81,00人の日本軍兵士が戦死して絶滅して、日本は敗戦期に突入した。
第2次世界大戦における太平洋戦争の戦死者数は、約1,751,400名にも達したと推定される。民間市民の戦死者数は、海外日系市民は約30万人、日本国内の市民は約50万人と良さうされた。その過半数は、1944年6月以降のマリアナ沖と諸島の陥落して、ずるずると敗北に向けた抗戦期に死亡した。アメリカ軍も、太平洋戦争の日本軍の敗戦期に全死傷者数の約100,000人のうち53%を占めた。その過半数に、補給が途絶して、食糧難から栄養失調による餓死が主な死因となった。マリアナ諸島では、1944年7月24日から8月2日にかけて、テニアン島で約81,00人の日本軍が戦死して絶滅した。8月2日に、最後に残存した日本軍と市民兵士が、無謀な突撃をして、アメリカ軍の猛烈な砲火で全滅した。1945年8月6日の広島原子爆弾と1945年8月9日の長崎原子爆弾を投下したB-29爆撃機がテニアン島から発着した。
2018年4月10日火曜日
私服のセルビア人警察官が、ムスリム人に狙撃兵の容疑をかけ、背後から頭部に発砲により銃殺で虐殺しようとした。
ユーゴスラビア紛争が1991年6月から勃発して、ユーゴスラビア連邦が分裂した。1991年8月にはクロアチアが独立宣言をした。1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言して、その人口約430万人の構成は、ムスリム人が44%、セルビア人が33%とクロアチア人が17%と多民族が混在した。ムスリム人とクロアチア人は分離独立を訴えて、セルビア人が対抗して反対して内戦となり、1992年から1995年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。各民族が権力の勢力の拡大のために異民族を排除して、単一民族にする民族浄化を強要した。ボスニア・ヘルチェゴビナにて、私服のセルビア人警察官が、ムスリム人に狙撃兵の容疑をかけて、背後から拳銃で頭部に向けて発砲して銃殺で虐殺しようとした。スプレニザでは1995年7月にセルビア人勢力が、約8,000名のムスリム人の民族や人種を消滅させる大量虐殺のジェノサイドが執行された。
2018年4月9日月曜日
第1次世界大戦で、タンネンベルグの平原には、ドイツ軍に虐殺された膨大なロシア兵士の死体が散乱して埋め尽くした。
第1次世界大戦の緒戦にて、東プロイセン内のにてドイツ帝国軍とロシア帝国軍の東部戦線が1914年8月17日から勃発した。ヒンデンブルグ将軍が率いたドイツ軍の第8軍団は、ロシア軍の第1軍団と第2軍軍団をタンネンベルグにて撃破した。 8月30日にドイツ軍に包囲されたロシア第2軍団は、戦死者と行方不明を合わせて約30,000人、捕虜が約92,000人もの膨大な犠牲となり、わずか約10,000人のみが生存した。タンネンベルグの平原地帯には、ドイツ軍に虐殺された膨大なロシア兵士の死体が散乱して埋め尽くした。「タンネンベルグ村近くで勝利」と打電して、ヒンデンブルグ将軍は最大の名誉を賞賛され英雄化された。第1次世界大戦に敗北したドイツ帝国は、1918年11月11日に敗北を受諾した。ワイマール共和国が1919年7月31日に成立して、ヒンデンブルグはタネンベルグの勝利で英雄化され1925年5月12日に大統領に就任した。アドルフ・ヒトラーを1935年7月31日に首相に指名してナチスに政権を譲渡した。
2018年4月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 600回
2018年4月8日日曜日
南北戦争のアンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘で最大数の死者を出した戦場となった。
アメリカ合衆国の南北戦争にて、1864年9月17日にメリーランド州のアンティタームの戦いが、犠牲者が最も悲惨で最大となった。アンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘において最大数の死者を出した戦場となった。アンティータムの戦場で、北軍は約50,000人のうち死傷者12,401人のうち戦死2,108人、南軍36,000人のうち死傷者が10,316人のうち戦死1,546人にも達した。早朝の地獄のような砲撃を受けた南軍スタークのルイジアナ旅団の兵士が犠牲者となった。ダンカー教会の北方の台地にあるヘイガータウン・ターンパイクに多数の横倒しの死体が散在した。多大な戦力を失った南軍は、9月18日夕刻から、夜陰に紛れて後退して、ポトマック川を渡って、バージニア州へ撤退した。南軍の北部侵略を阻止した5日後に、北部連邦のエブラハム・リンカーン大統領は9月22日に奴隷解放を宣言した。
日本平和の市民連盟は2018年4月8日にBloggerの投稿数は600回に達した。
2018年4月7日土曜日
オウム真理教の新興宗教集団が、東京の地下鉄にて同時に多発に猛毒な毒ガスによる無差別な殺戮をした。
日本にて、麻原彰晃を開祖とするオウム真理教の新興宗教集団が、1995年3月20日午前8時頃に東京の営団地下鉄にて同時に多発にサリンの毒ガスにより無差別の市民を殺戮した。地下鉄サリン事件は、猛毒のサリンを地下鉄社内に散布して、13名の市民が死亡した。多くの被害者の市民は、路上に仰向けに寝かされたまま、呼吸困難な状態から危篤に陥った。教団は、1990年頃から生物科学兵器を準備して、細菌から放射性物質や科学物質の生物実験を展開していた。社会と軋轢が増し、布施と過激化が図られ、、教団内部に信者同士の監視、密告、締め付けも強くなった。過激化した教団は猛毒のサリンを、1989年11月4日の弁護士一家殺害事件や1994年6月27日に松本サリン事件などにも使用された。1995年3月22日に、山梨県上一色村の教団本部に強制捜査により、教団の開祖と幹部の信者らが次々と逮捕されて、殺人犯として死刑や重罪が宣告された。
2018年4月6日金曜日
NATO軍の空爆などで多くのセルビア系市民の生活圏が崩壊して、犠牲者に対する長く悲惨な葬儀が行進した。
米軍を主力とする北大西洋条約機構(NATO)軍は、1999年からユーゴラビア自治州であったコソボ紛争に介入した。ユーゴスラビア政府があった首都ベオグラードを集中的に空爆した。空爆などにより多くのセルビア系市民の生活圏が悲惨にも崩壊した。多くの市民の犠牲者に対して長く悲惨な葬儀が行進した。国連は1995年にユーゴスラビアで、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認した。セルビア共和国が各地のセルビア人難民を強制的にコソボ自治州へ移民させた。そこで多数を占めたアルバニア系住民たちも残虐な虐待された。2006年にはモンテネグロが独立して、セルビア共和国は単一国家となり、ついにユーゴスラビア連邦は消滅した。
2018年4月5日木曜日
北アイルランドで、血の日曜日事件が勃発して、デモ行進中の市民14名がイギリス陸軍落下傘連隊に無差別に銃殺された。
北アイルランドにて、1972年1月30日に血の日曜日事件(Bloody Sunday)が勃発した。北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された。北アイルランド市民14名が死亡して、13名が負傷した。事件のあった地区の名から、ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)とも呼ばれた。長年にわたるイギリスからの弾圧から、北アイルランド共和軍(IRA)は1969年から暫定派が分裂して、北アイルランドのイギリス統治からの独立紛争をした。イギリス軍が無実の非武装の市民を殺傷して、北アイルランド史における悲惨な虐殺な事件となった。1997年にはIRAの暫定派から真のIRAが分離して、北アイルランドにて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。
2018年4月4日水曜日
フィリピンのネグロス島スマッグの内戦で、多くの国内難民の児童が飢餓で死亡した。
フィリピンの4番目に大きなビサヤ地方のネグロス島は、スペインによる植民地化以来、約6割も占める砂糖農園だけに依存する経済が200年以上も続いた。1980年代前半、砂糖の国際価格が暴落して、ネグロス島では深刻な困窮から飢餓が発生した。農園地主が砂糖価格が上昇するまで砂糖キビ生産を中止して、農民の仕事がなく食料も買えず、約15万人以上もの子どもが飢餓になった。農村部には新人民軍(NPA)が結成されて、ネグロス島では1986年2月からのアキノ政権の国軍とネグロス島では、反政府勢力NPAと全面内戦が1988年から勃発した。山間部の農民たちは国軍の軍事化によって強制退去となり、国内難民が続出した。ネグロス島スマッグの国内難民の児童が飢餓となり、麻疹と気管支炎にて1989年12月24日に死亡していた。
2018年4月3日火曜日
フジモリ大統領は、ペルー日本大使公邸内で銃殺されたMRTAのテロリーダーらの死体をらせん階段から見下した。
ペルーのリマで1996年12月7日に日本大使公邸のパーティを左翼ゲリラであったトゥパク・アマル革命運動(MRTA) が襲撃した。約700人以上もの参加者と大使館関係者を人質に占拠した。 MRTAは獄中の仲間の釈放,戦争税 (身代金) などを要求しながら、人質の大部分は釈放した。最終的には日本大使職員,ペルー政府高官,日本企業駐在員など 72人を抑留した。ペルー政府は、MRTAの武装グループの海外亡命の予備的交渉を開始した。日本政府は事件直後の1997年2月1日に橋本龍太郎首相はアルベルト・フジモリ大統領とトロントで会談して武力行使の自制を求めた。占拠事件は長期化し,交渉対も決裂した。特殊部隊140人が4月22日に公邸に突入を決行して,MRTAの 14人全員を銃殺して、その他に人質1人と特殊部隊員2人が死亡した。翌日4月23日にフジモリ大統領は、公邸内のらせん階段で銃殺されたMRTAリーダーのネストロ・セルパとテロリストメンバーらの死体を見下した。
2018年4月2日月曜日
ペール・ラシェーズ墓地でコミューン市民らは全滅して、変わり果てた悲惨な市民の死体が、墓地の埋葬前に集積された。
普仏戦争は1870年9月のスダンで皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、プロイセンは1871年1月にヴェルサイユからドイツ帝国軍として3月1日パリに入城した。国民軍の武装解除に激高したパリ市民が3月18日に蜂起した。臨時政府はパリを放棄してヴェルサイユに逃走した。パリ市庁舎前に3月27日に約20万の市民が集まり、コミューン政権を樹立した。その政権には、急進派や無政府主義派、共産主義派が混在した。パリ以外の都市や農村部の保守ままでパリは孤立した。ヴェルサイユ臨時政府軍はパリを4月2日から攻撃して、激しい市街戦から5月21日突入した。パリ市街に火を放ち抵抗するも、ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン市民らは5月28日に全滅した。変わり果てた悲惨な市民の多数の死体が、墓地の埋葬前に集積された。コミューン市民には弾圧が続き、約4万人が逮捕されて約270名が死刑となり、その他は強制労働、禁固、流刑で虐待された。
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