2018年4月6日金曜日

NATO軍の空爆などで多くのセルビア系市民の生活圏が崩壊して、犠牲者に対する長く悲惨な葬儀が行進した。

米軍を主力とする北大西洋条約機構(NATO)軍は、1999年からユーゴラビア自治州であったコソボ紛争に介入した。ユーゴスラビア政府があった首都ベオグラードを集中的に空爆した。空爆などにより多くのセルビア系市民の生活圏が悲惨にも崩壊した。多くの市民の犠牲者に対して長く悲惨な葬儀が行進した。国連は1995年にユーゴスラビアで、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認した。セルビア共和国が各地のセルビア人難民を強制的にコソボ自治州へ移民させた。そこで多数を占めたアルバニア系住民たちも残虐な虐待された。2006年にはモンテネグロが独立して、セルビア共和国は単一国家となり、ついにユーゴスラビア連邦は消滅した。

 

2018年4月5日木曜日

北アイルランドで、血の日曜日事件が勃発して、デモ行進中の市民14名がイギリス陸軍落下傘連隊に無差別に銃殺された。

北アイルランドにて、1972年1月30日に血の日曜日事件(Bloody Sunday)が勃発した。北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された。北アイルランド市民14名が死亡して、13名が負傷した。事件のあった地区の名から、ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)とも呼ばれた。長年にわたるイギリスからの弾圧から、北アイルランド共和軍(IRA)は1969年から暫定派が分裂して、北アイルランドのイギリス統治からの独立紛争をした。イギリス軍が無実の非武装の市民を殺傷して、北アイルランド史における悲惨な虐殺な事件となった。1997年にはIRAの暫定派から真のIRAが分離して、北アイルランドにて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。



2018年4月4日水曜日

フィリピンのネグロス島スマッグの内戦で、多くの国内難民の児童が飢餓で死亡した。

フィリピンの4番目に大きなビサヤ地方のネグロス島は、スペインによる植民地化以来、約6割も占める砂糖農園だけに依存する経済が200年以上も続いた。1980年代前半、砂糖の国際価格が暴落して、ネグロス島では深刻な困窮から飢餓が発生した。農園地主が砂糖価格が上昇するまで砂糖キビ生産を中止して、農民の仕事がなく食料も買えず、約15万人以上もの子どもが飢餓になった。農村部には新人民軍(NPA)が結成されて、ネグロス島では1986年2月からのアキノ政権の国軍とネグロス島では、反政府勢力NPAと全面内戦が1988年から勃発した。山間部の農民たちは国軍の軍事化によって強制退去となり、国内難民が続出した。ネグロス島スマッグの国内難民の児童が飢餓となり、麻疹と気管支炎にて1989年12月24日に死亡していた。



2018年4月3日火曜日

フジモリ大統領は、ペルー日本大使公邸内で銃殺されたMRTAのテロリーダーらの死体をらせん階段から見下した。

ペルーのリマで1996年12月7日に日本大使公邸のパーティを左翼ゲリラであったトゥパク・アマル革命運動(MRTA) が襲撃した。約700人以上もの参加者と大使館関係者を人質に占拠した。 MRTAは獄中の仲間の釈放,戦争税 (身代金) などを要求しながら、人質の大部分は釈放した。最終的には日本大使職員,ペルー政府高官,日本企業駐在員など 72人を抑留した。ペルー政府は、MRTAの武装グループの海外亡命の予備的交渉を開始した。日本政府は事件直後の1997年2月1日に橋本龍太郎首相はアルベルト・フジモリ大統領とトロントで会談して武力行使の自制を求めた。占拠事件は長期化し,交渉対も決裂した。特殊部隊140人が4月22日に公邸に突入を決行して,MRTAの 14人全員を銃殺して、その他に人質1人と特殊部隊員2人が死亡した。翌日4月23日にフジモリ大統領は、公邸内のらせん階段で銃殺されたMRTAリーダーのネストロ・セルパとテロリストメンバーらの死体を見下した。

 

2018年4月2日月曜日

ペール・ラシェーズ墓地でコミューン市民らは全滅して、変わり果てた悲惨な市民の死体が、墓地の埋葬前に集積された。

普仏戦争は1870年9月のスダンで皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、プロイセンは1871年1月にヴェルサイユからドイツ帝国軍として3月1日パリに入城した。国民軍の武装解除に激高したパリ市民が3月18日に蜂起した。臨時政府はパリを放棄してヴェルサイユに逃走した。パリ市庁舎前に3月27日に約20万の市民が集まり、コミューン政権を樹立した。その政権には、急進派や無政府主義派、共産主義派が混在した。パリ以外の都市や農村部の保守ままでパリは孤立した。ヴェルサイユ臨時政府軍はパリを4月2日から攻撃して、激しい市街戦から5月21日突入した。パリ市街に火を放ち抵抗するも、ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン市民らは5月28日に全滅した。変わり果てた悲惨な市民の多数の死体が、墓地の埋葬前に集積された。コミューン市民には弾圧が続き、約4万人が逮捕されて約270名が死刑となり、その他は強制労働、禁固、流刑で虐待された。



2018年4月1日日曜日

満州に南下したロシア軍は、中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭すると、頸を切断して虐殺して見せしめにした。

ロシア帝国は、1891年からシベリアから満州への鉄道を敷設を開始した。義和団と清国軍が、1900年3月から反抗して鉄道の敷設を妨害した。それらを防御するためにロシア軍とコサック軍が南下し、6月に衝突して武力に劣る数百人の中国人を虐殺した。8月に黒竜江を渡ると、切り裂かれたロシア軍の捕虜を発掘して、周辺の地域を延焼した。中国人らは、満州北部に避難して、9月には南部の中国人軍は敗北して粉砕された。ロシア軍は、収容した中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭して来ると、頸を切断して虐殺した。中国人の頭部を壁に貼り付けて見せしめにした。切り裂かれた身体からは、蝿がたかり、腐敗した。



2018年3月31日土曜日

日露戦争で旅順203高地のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なった。

日露戦争でに旅順203高地の争奪は日本軍とロシア軍で約8,000人もの悲劇的な戦死者を出した。ロシアの旅順要塞は1904年8月19日から12月5日まで、旅順要塞は厚いコンクリートの要塞に砲撃の効果が無く、次々に突撃した日本兵は倒れて戦死した。山頂からの攻撃の炸裂に対して身を隠すものがなく、狙い撃ちにされた日本兵は次々と倒れて戦死した。日本兵が決死の突入は、頭上からのロシア要塞の砲台から容赦なく銃弾と手榴弾と砲弾で戦死した。1904年12月5日に9日間に及ぶ日本軍の絶え間ない突入にロシア軍は力尽き203高地は陥落した。山頂のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なっていた。



2018年3月30日金曜日

太平洋戦争でアメリカ軍が撃沈した神国丸の後部の船室には、日本人の白骨の遺体が散在していた。

神国丸は、太平洋戦争の開戦前の1941年8月に日本海軍の特設給油船となった。太平洋戦争に突入して、真珠湾攻撃やミッドウェー作戦には空母機動部隊として参戦した。アメリカ海軍の空母ヨークタウンの艦載機から、1944年2月18日のトラック空襲(ヘイルストーン)で攻撃を受けてファイチュック諸島(七曜諸島)のウドット島(曜島)の北東の水深37mの海底に沈没した。神国丸は、神戸川崎造船所で1940年2月に竣工した排水量10,020総トンで全長153mであった。神戸桟橋のタンカーとしてアメリカから重油を輸送していた。アメリカ軍が撃沈した神国丸の後部の船室には、日本人の白骨の遺体が散在していた。



2018年3月29日木曜日

硫黄島の戦闘で、日本軍兵士は苦悶しながら飢餓状態で戦死して、腐敗し白骨化した死体が硫黄島に散在した。

太平洋戦争の末期の1945年2月19日から3月26日まで硫黄島で膨大な戦闘の犠牲者が出た。日本軍には増援や救援は当初よりなく、兵士20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍兵士は戦死者6,821名と戦傷者21,865名の計28,686名の犠牲を受けた。太平洋戦争の上陸侵攻のアメリカ軍の戦死と戦傷者数等の合計数が日本軍を上回った悲惨な最激戦地となった。日本大本営は3月21日に全滅を公表して「17日夜半ヲ期シ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」と美化した。日本軍兵士は厳しく苦悶しながら飢餓状態から戦死して、腐敗して白骨化した死体が硫黄島には散在していた。



2018年3月28日水曜日

アメリカ軍兵士が、農村部にてベトナム人青年を射殺して死体に面と向かいながら、一人の青年を連行した。

ベトナムの共産主義化を阻止する口実でアメリカ軍は、1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援して、北ベトナムに北爆を開始した。さらに地上軍を投入して、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。ベトナム戦争は長期化して、解放戦線による1968年1月のテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まり、1973年3月から撤退した。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによる統一が行われて終結した。アメリカ軍兵士が、ある農村部において一人のベトナム人青年を射殺した。彼の死体に面と向かって見下しながら、もう一人の青年を連行した。後方では女性と子供らが集まってアメリカ兵士を恨みながら蔑視した。


2018年3月27日火曜日

ナチス・ドイツのワルシャワー・ゲトーの路上では至る所で、子供も餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。

ナチス・ドイツは第2次世界大戦中に、植民地となったポーランドのワルシャワに、最大のユダヤ人隔離地域であるワルシャワ・ゲトーで人種隔離して封鎖した。ユダヤ人は、1940年7月9日以降か、ポーランド紙幣の交換は厳しく制限された。監視下におかれて、外部から食糧を入手することは困難となった。さらに追放後に移住して来たドイツ人が、ゲットーの市民に奴隷労働を強制した。大量のユダヤ人が、ゲトー内外で虐殺された。ワルシャワ・ゲトーでは農地や緑地が少なく、小柄なユダヤ人や子供たちは、資金も途絶え、食糧の運搬もできず、飢餓状態に陥った。路上では至る所で、1941年から1942年にかけて子供たちも餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。


2018年3月26日月曜日

アメリカ白人市民による黒人の絞首刑のリンチの様子が1890年代から新聞や雑誌に告知され絵葉やカードにも印刷された。

アメリカ合衆国は、南北戦争における1963年1月1日の奴隷解放宣言から1865年1月31日の憲法第13条修正の提示をした。しかし、黒人に対して人種的偏見が根付いていた。最高裁判所が1896年の「プレッシー対ファーガソン判決」で人種分離しても平等と判決して、人種的分離が合法化された。1890年代から法律を無視した市民によるリンチ(私刑)が増加して、南部14州で毎年約100人も虐殺された。黒人リンチの犠牲により、白人市民らは感情的に団結して、黒人らを恐怖に陥れた。公然と新聞や雑誌で、リンチの処刑も公表された。白人市民による黒人の絞首刑の様子が絵葉やカードにも印刷された。最後のミシシッピー州が最近の1995年3月16日になって憲法第13条修正が批准された。


2018年3月25日日曜日

義足を装着したパレスチナの老人が、難民キャンプから逃避するも、路地でレバノン軍団に射殺された。

レバノンにおけるベイルート南部のサブラー・シャティーラで、パレスチナ難民キャンプにおいて、1982年9月16日から18日にイスラエルが支持するファヘラン党のレバノン軍団がパレスチナ難民を大量虐殺した。レバノン軍団に完全に包囲されている難民キャンプ内でパレスチナ人が虐殺された。義足を装着したパレスチナの老人が、難民キャンプから逃避するも、路地で射殺された。イスラエル軍の国防大臣のアリエル・シャロンが主導して、2001年からは首相として、2001年9月11日のアメリカ軍のテロ戦争に乗じて、パレスチナ解放機構(PLO)に全面対決して、パレスチナ自治区の弾圧とテロ攻撃の内乱に陥った。


2018年3月24日土曜日

ガダルカナル島のムカデ高地の峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約数十人が戦死した。

太平洋戦争において、アメリカ軍は1942年8月7日からガダルカナル島に上陸を開始した。ヘンダーソン飛行場の南東部に連なる血染めの丘と呼ばれるムカデ高地で、日本軍は9月12日からアメリカ軍の猛烈な砲撃と射撃を受けた。地形も険しく周辺の深いジャングルの中で混迷した日本軍は、アメリカ軍は上空から戦闘機からも攻撃を受けた。追い込まれて総攻撃するも、強力で膨大な正確な銃砲撃により壊滅した。峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約30人から40人が戦死した。血染めのムカデ高地には、両軍の死体が折り重なって散在した。その後も日本軍は10月上旬まで散発的な戦闘を繰り返しながら、次第にガダルカナル島は飢餓地獄に陥っていった。


2018年3月23日金曜日

日露戦争の遼陽会戦で、ロシア軍が撤退した満州の黒英台の荒野には、膨大な日本軍兵士の戦死者が散在していた。

戦争の写真は、戦場の日常を映し出すも、戦死者はより一層に戦争の悲惨な真実を伝える。戦争における戦死者の写真は、文字や絵では描き出せない戦争の日常の中に死という現実を映し出した。遼陽会戦で1904年9月4日にロシア軍は退路の遮断を恐れて、奉天へ撤退した。黒英台附近の戦場の写真では、ロシア軍が去った満州の荒野に日本兵の戦死者が散在していた。両軍は膨大な兵力損失や戦死者から追撃は阻止された。苦難に立ち向かう味方兵士の美談・武勇などを讃えて、敵国兵士の残虐性・非道を引き立てた。次第に戦死の問題を遠ざけるために戦死者の写真は排除されて極秘にされた。逆に非人間的な近代兵器による自然や物体に対する威力は、士気高揚に資する壮大さ破壊力などが強調された。