戦争により、横たわり、苦しんでいる市⺠を静かに⾒守る事しかできない。迫りつつある戦争を⽬前にして、市⺠の地域と家族における生命の尊厳が失われている。 それぞれの生命が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つのは市⺠である。他⼈や部外者などから⾒れば、市⺠は微かな存在にすぎないであろう。それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他⼈や部外者には、共感できない事にもよる。 世界⼤戦の戦争から原爆による終⽌符の犠牲で、市⺠は多くの⾟酸を受けた。戦争の経験による戦争市⺠に悲惨な戦争の記録を授けたい。戦争の荒波を渡る市⺠代弁者として、平和の羅針盤として、多くの平和市⺠の⼼に送りたい。いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされるのは市⺠です。JNWNは閲覧と掲載も慎重に留意します(Ref:参照; Blogger:免責; SNS:勧告等)。思い出の戦争は戦争の真の抑⽌⼒となります。 ⽇本から地球に向けて、地球平和市⺠連盟は地球平和を探求します。Japan No War NGO 日本平和市民連盟 @JNWN, May/12/2016 Access 700,000 News 2,877 July/17/2024
2018年4月1日日曜日
2018年3月31日土曜日
日露戦争で旅順203高地のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なった。
日露戦争でに旅順203高地の争奪は日本軍とロシア軍で約8,000人もの悲劇的な戦死者を出した。ロシアの旅順要塞は1904年8月19日から12月5日まで、旅順要塞は厚いコンクリートの要塞に砲撃の効果が無く、次々に突撃した日本兵は倒れて戦死した。山頂からの攻撃の炸裂に対して身を隠すものがなく、狙い撃ちにされた日本兵は次々と倒れて戦死した。日本兵が決死の突入は、頭上からのロシア要塞の砲台から容赦なく銃弾と手榴弾と砲弾で戦死した。1904年12月5日に9日間に及ぶ日本軍の絶え間ない突入にロシア軍は力尽き203高地は陥落した。山頂のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なっていた。
2018年3月30日金曜日
2018年3月29日木曜日
硫黄島の戦闘で、日本軍兵士は苦悶しながら飢餓状態で戦死して、腐敗し白骨化した死体が硫黄島に散在した。
太平洋戦争の末期の1945年2月19日から3月26日まで硫黄島で膨大な戦闘の犠牲者が出た。日本軍には増援や救援は当初よりなく、兵士20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍兵士は戦死者6,821名と戦傷者21,865名の計28,686名の犠牲を受けた。太平洋戦争の上陸侵攻のアメリカ軍の戦死と戦傷者数等の合計数が日本軍を上回った悲惨な最激戦地となった。日本大本営は3月21日に全滅を公表して「17日夜半ヲ期シ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」と美化した。日本軍兵士は厳しく苦悶しながら飢餓状態から戦死して、腐敗して白骨化した死体が硫黄島には散在していた。
2018年3月28日水曜日
アメリカ軍兵士が、農村部にてベトナム人青年を射殺して死体に面と向かいながら、一人の青年を連行した。
ベトナムの共産主義化を阻止する口実でアメリカ軍は、1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援して、北ベトナムに北爆を開始した。さらに地上軍を投入して、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。ベトナム戦争は長期化して、解放戦線による1968年1月のテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まり、1973年3月から撤退した。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによる統一が行われて終結した。アメリカ軍兵士が、ある農村部において一人のベトナム人青年を射殺した。彼の死体に面と向かって見下しながら、もう一人の青年を連行した。後方では女性と子供らが集まってアメリカ兵士を恨みながら蔑視した。
2018年3月27日火曜日
ナチス・ドイツのワルシャワー・ゲトーの路上では至る所で、子供も餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。
ナチス・ドイツは第2次世界大戦中に、植民地となったポーランドのワルシャワに、最大のユダヤ人隔離地域であるワルシャワ・ゲトーで人種隔離して封鎖した。ユダヤ人は、1940年7月9日以降か、ポーランド紙幣の交換は厳しく制限された。監視下におかれて、外部から食糧を入手することは困難となった。さらに追放後に移住して来たドイツ人が、ゲットーの市民に奴隷労働を強制した。大量のユダヤ人が、ゲトー内外で虐殺された。ワルシャワ・ゲトーでは農地や緑地が少なく、小柄なユダヤ人や子供たちは、資金も途絶え、食糧の運搬もできず、飢餓状態に陥った。路上では至る所で、1941年から1942年にかけて子供たちも餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。
2018年3月26日月曜日
アメリカ白人市民による黒人の絞首刑のリンチの様子が1890年代から新聞や雑誌に告知され絵葉やカードにも印刷された。
アメリカ合衆国は、南北戦争における1963年1月1日の奴隷解放宣言から1865年1月31日の憲法第13条修正の提示をした。しかし、黒人に対して人種的偏見が根付いていた。最高裁判所が1896年の「プレッシー対ファーガソン判決」で人種分離しても平等と判決して、人種的分離が合法化された。1890年代から法律を無視した市民によるリンチ(私刑)が増加して、南部14州で毎年約100人も虐殺された。黒人リンチの犠牲により、白人市民らは感情的に団結して、黒人らを恐怖に陥れた。公然と新聞や雑誌で、リンチの処刑も公表された。白人市民による黒人の絞首刑の様子が絵葉やカードにも印刷された。最後のミシシッピー州が最近の1995年3月16日になって憲法第13条修正が批准された。
2018年3月25日日曜日
2018年3月24日土曜日
ガダルカナル島のムカデ高地の峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約数十人が戦死した。
太平洋戦争において、アメリカ軍は1942年8月7日からガダルカナル島に上陸を開始した。ヘンダーソン飛行場の南東部に連なる血染めの丘と呼ばれるムカデ高地で、日本軍は9月12日からアメリカ軍の猛烈な砲撃と射撃を受けた。地形も険しく周辺の深いジャングルの中で混迷した日本軍は、アメリカ軍は上空から戦闘機からも攻撃を受けた。追い込まれて総攻撃するも、強力で膨大な正確な銃砲撃により壊滅した。峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約30人から40人が戦死した。血染めのムカデ高地には、両軍の死体が折り重なって散在した。その後も日本軍は10月上旬まで散発的な戦闘を繰り返しながら、次第にガダルカナル島は飢餓地獄に陥っていった。
2018年3月23日金曜日
日露戦争の遼陽会戦で、ロシア軍が撤退した満州の黒英台の荒野には、膨大な日本軍兵士の戦死者が散在していた。
戦争の写真は、戦場の日常を映し出すも、戦死者はより一層に戦争の悲惨な真実を伝える。戦争における戦死者の写真は、文字や絵では描き出せない戦争の日常の中に死という現実を映し出した。遼陽会戦で1904年9月4日にロシア軍は退路の遮断を恐れて、奉天へ撤退した。黒英台附近の戦場の写真では、ロシア軍が去った満州の荒野に日本兵の戦死者が散在していた。両軍は膨大な兵力損失や戦死者から追撃は阻止された。苦難に立ち向かう味方兵士の美談・武勇などを讃えて、敵国兵士の残虐性・非道を引き立てた。次第に戦死の問題を遠ざけるために戦死者の写真は排除されて極秘にされた。逆に非人間的な近代兵器による自然や物体に対する威力は、士気高揚に資する壮大さ破壊力などが強調された。
2018年3月22日木曜日
2018年3月21日水曜日
イスラエル軍がベッカー高原に猛烈な爆撃をして、レバノン人が頭部の爆破で虐殺された死体が路上に散在した。
イスラエルが1948年5月14日に独立宣言をしてから、周辺のアラビア諸国と中東戦争が頻発した。レバノン内戦では、1976年9月にシリア・パレスチナ軍に対抗する市民兵組織連合体であるレバノン軍団が結成された。1978年にシリア軍が東ベイルートへの砲撃に対抗して、レバノン軍団に同調したイスラエル軍は、空爆と特殊部隊によりレバノン南部を占拠して、レバノン軍団に支配させた。1980年には各地でレバノン軍団と同調するイスラエル軍が、侵攻するシリア軍と紛争した。1982年にシリア軍がミサイルを配備したレバノンのベッカー高原に、イスラエル軍が猛烈な空爆した。イスラエル軍の爆撃でレバノン人の頭部の爆破で虐殺された死体が路上に散在した。
【閲覧留意】
2018年3月20日火曜日
朝鮮戦争にて、北朝鮮軍の捕虜となった1人のアメリカ軍兵士は死刑が執行された。
朝鮮戦争にて、1950年7月に一人のアメリカ軍の第21歩兵連隊の兵士が北朝鮮軍に捕虜となった。両手を後ろで拘束したアメリカ軍兵士は両手を後手に拘束されたままで、北朝鮮軍によって死刑を執行された。北朝鮮軍が1950年6月25日に宣戦布告もなく、38度線を越えて南朝鮮に侵攻した。北朝鮮軍は、大田でアメリカ軍と韓国軍を撃破して、朝鮮半島の南端の釜山まで迫った。国連安全保障理事会は6月27日に中国とソ連が欠席のままで6月27日に国連軍を形成して、アメリカ軍は国連軍として9割以上を占めて集団的戦争に突入した。7月7日から悲惨な戦闘状態の緒戦で国連軍は敗北して、北朝鮮軍は無差別に朝鮮人市民だけでなくアメリカ兵捕虜も虐殺された。
2018年3月19日月曜日
2018年3月18日日曜日
【閲覧留意】イスラエル警察は、パレスチナ人による自爆テロリズムで頭部だけを残して身体は粉々に散乱した死体を検証した。
イスラエルに対するパレスチナ人による自爆テロリズムが頻発している。イスラエルにて、2004年9月20日にパレスチナ人らが自爆テロリズムを実行した。頭部だけを残して身体は粉々に破裂して散乱した。イスラエル警察が、自爆テロ犯人の自爆死体の検証をした。テロリズムによるイスラエル人の死亡者数は、2002年だけで456人にも達している。パレスチナ自治区には、ハマス、パレスチナ・イスラミック・ジハード(PIJ)等の武装勢力がガザ地区を拠点に存在している。一部は継続的にイスラエルに対するテロリズムを実行している。パレスチナ武力勢力は、イスラエルに対する自爆テロリズム戦略として、若者や女性を頻繁に自爆テロの実行犯に追い込んでいる。
【閲覧留意】
登録:
投稿 (Atom)