2018年3月17日土曜日

アフリカ独立戦争にて、ポルトガル軍はアンゴラ植民地のウイリアム村でアフリカ黒人に無差別の大量虐殺をした。

ポルトガル王国がヨーロッパ諸国で、最初に1415年からアフリカ植民地を占領し始めた。1455年からギニア地方から金鉱と黒人奴隷貿易をした。第2次世界大戦後になって、1961年からのポルトガルとアフリカ植民地との独立戦争が勃発して、ポルトガル軍はアフリカ植民地で虐殺と残虐行為を繰り返した。1973年にはポルトガル軍は、アンゴラのウイリアム村でアフリカ黒人に無差別の大量虐殺をした。ポルトガル本国で1974年4月25日にカーネーション革命が勃発して、民主化で独裁政権が崩壊した。革命後になって、1974年1975年9月10日にギニア・ビサウ共和国、1975年6月25日にモザンビーク人民共和国、1975年11月11日にアンゴラ共和国が、ポルトガルから完全に独立できた。


2018年3月16日金曜日

イギリスのインド兵士が、天津で義和団の農民を虐殺して、白河の川辺に散乱した死体に整列した。

清国にて、日清戦争の敗北から農民が排外主義により反乱した。1899年と1900年には中国北部で扶清滅洋を掲げて、外国人宣教師、国民、中国人キリスト教徒を攻撃して虐殺した。清国の西太后も乗じて賛同して、1900年6月21日に列強8ヶ国に宣戦を布告した北清事変が勃発した。これに対して、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵して、天津に上陸から北京に入り義和団を鎮定した。イギリス軍は連合軍の中で3番目の約12,000人規模 (1番日本軍約2,100人、2番ロシア軍約13,00人)であったが、大部分はインドからで傭兵であった。インド兵士が、天津で義和団の農民を虐殺して、白河の川辺に散乱した死体に整列した。


2018年3月16日 Japan No War (Nonfiction) 

日本平和の市民連盟 視聴回数 100,000回



2018年3月15日木曜日

少数移民民族であるロマの4人が、オーストリアで爆弾の炸裂により虐殺された。

ロマの4人が、オーストリアのブルゲンラント州のオバーヴァルトで、1995年2月に爆弾により虐殺された。オーストリアは最も多くのロマが約300年前から移住して定住していた。彼らが、「ジプシーはインドに帰れ」と記載された看板を取り去る時に、爆弾が炸裂した。ロマは「ジプシー」と蔑称されて、北インドからヨーロッパに約700万人以上も移住した少数民族であった。ナチスドイツによる民族浄化では、1935年にロマの劣等民族法から強制収容されて虐待や虐殺の対象となった。ジプシーはインド方面からのロマ(単数はロム)・中部ヨーロッパではスィンティと自称したが、欧州連合はロマと提唱している。




2018年3月14日水曜日

中国に対する大規模な抗議デモでチベット青年が大きな炎を走り巻き込み焼身自殺した。

中華人民共和国による1950年のチベット自治区の支配により、チベット人は次第に国土、権利、文化、経済を失った。その期間に中国は圧倒的軍事力と漢族移民によりチベット市民に対して弾圧、強制収容、搾取、虐待や虐殺を行った。首都のラサの三大僧院の僧侶たちが、1987年9月にチベット国旗で抗議デモをして弾圧された。2001年から仏教の弾圧が強化され、中国人が社会資源を奪い、チベット市民との格差が拡大した。大規模なデモが鎮圧されて、反発して独立を求めるチベット市民や僧侶による焼身抗議自殺が頻発した。2012年3月26日に、中国に対する大規模な抗議デモのただ中で、27歳のジャンペル・イシュが、大きな炎を巻き込み約50m走り込んだ。チベット人が国旗で消火するも、3月28日に亡命政府があるインドで焼身自殺した。2009年から2015年でも143人のチベット人が焼身自殺をした。


2018年3月13日火曜日

アメリカ軍が太平洋戦争にて、虐殺して遺骨となった日本軍兵士の頭蓋骨を並べて得意げに記念写真を撮影した。

戦争では、どの国の軍隊でも、ひどい行為がおこなわれる。どちらの国も善であり悪でなく、相手は善でなく悪であると一般市民や軍隊らを洗脳します。太平洋戦争でも、アメリカ軍も日本軍に対して残虐的な行為をした。一部の軍隊は、規律を守らず統制が取れなく、卑劣で野蛮な行為をした。アメリカ軍が、虐殺して遺骨となった日本軍兵士の頭蓋骨を並べて得意げに記念写真を撮影した。日本兵は残虐であったと非難することで、アメリカ軍の卑劣で野蛮な行為をも賞賛した。


2018年3月12日月曜日

ルーマニアの食糧難と困窮から孤児が約20万人も発生し、極度の栄養失調にエイズウイルスの輸血されて多くは感染した。

ルーマニアでは、ニコライ・チャウシェスク政権が1965年3月19日に発足して、独裁政権となった。国家財政の破綻による経済低迷による飢餓輸出から貧困を伴った。1966年から人口政策で、出産奨励と中絶禁止政策による人口増加に対して、食糧難と困窮から捨て子が約20万人も発生した。その孤児は施設に収容されるも、極度の栄養失調に陥った。その孤児に処置として輸血されるも、エイズウイルスが混入して感染した。一般市民の生活を虐待と虐殺する政権となり、ソ連のペレストロイカの波及によるルーマニア革命にて1989年12月25日にニコライ・チャウシェスク大統領夫妻は銃殺された。1999年9月時点で約4,308人の感染した幼児、エイズ発症して子供が約5,179名にも達した。


2018年3月11日日曜日

アメリカ軍は突然にイラク領内を空爆して、防空避難所からも無差別空爆により膨大なイラク人が死亡した。

アメリカ軍は湾岸戦争にて、1991年1月17日から布告もせず突然にイラク領内を空爆した。1991年2月13日にバグダットの2ケ所のアメリア防空壕がアメリカ軍の空襲の砲弾で崩壊した。その防空避難所に子供や女性を含めた無差別空爆により約1,500人のイラク人が死亡した。イラク市民らは死亡したイラク人の遺体を運び出した。多くの遺体は熱症により黒焦げになったり、その他に爆風や窒息などでも死亡した。ほとんど原型を留めない崩壊した死体も多かった。それらのイラク市民の遺体は地上に積み上げて放置され散在していた。


2018年3月10日土曜日

フランス統治下からベトナム戦争ではアメリカと南ベトナムは、島民のいないコンダオ監獄で膨大なベトナム人を虐殺した。

ベトナムから南方約200kmの孤島であるコンダオ島では、フランスが1861年に独立派の政治犯をコンダオ監獄に収容した。フランス統治下から、ベトナム戦争時下はアメリカと南ベトナム(ベトナム共和国)によって、島民のいない流刑地としてベトナム人を虐待していた。その期間、実に113年間にも渡り、約20,000人以上も虐殺された。ベトナム戦争の終結時の1975年5月1日には、7,488人の囚人がコンダオ監獄に勾留されていた。



2018年3月9日金曜日

スペイン内戦でマドリードは砲撃や空爆により廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民の死体が市内に放置された。

スペイン内戦の緒戦にて、マドリードの市街地で1936年7月17日に蜂起した反乱軍に対してスペイン市民らは戦い抜きモンターニャ兵舎を包囲して、立て籠もる反乱軍に1936年7月20日に市民らが乱入して双方が虐殺し合った。市民らは銃器や鉄砲などの武器などを獲得して、モラ将軍の反乱軍による首都の制圧を阻止した。 マドリード市内は、その後も絶え間ない反乱軍の猛撃を受けた。マドリードは、激しい砲撃や空爆により、ほとんど廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民の死体が市内に放置された。


2018年3月8日木曜日

リトアニアの多くの人々も、ユダヤ人らをユルキシュク監獄などに収容して、パネリアイの森で大量虐殺をした。

第2次世界大戦で1941年6月22日からドイツ軍は、リトアニアを占領して、リトアニア人は洗脳されてユダヤ人虐殺に同調した。リトアニアにおけるユダヤ人の虐殺率は、90%以上にも及んだ。ドイツ軍とリトアニア人で混成した警備隊も集団でユダヤ人を大量虐殺をした。リトアニアには、大量のユダヤ人を虐殺したパネリアイ(Paneriai; リトアニア語)の森があった。リトアニアの多くの人々も、ユダヤ人らをユルキシュク監獄などに収容して、パネリアイの森で大量虐殺をした。射殺されたユダヤ人の死体がパネリアイの森に捨てられた。その当時リトアニアで、危険を冒してまでユダヤ人を救出した723人のリトアニア人や1940年7月18日から9月5日までに2,139人のユダヤ人に査証を発行し続けた杉原千畝は諸国民の中の正義の人と戦後に認証された。




2018年3月7日水曜日

日清戦争で旅順の近郊にて、日本軍は清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。

朝鮮半島にて、1894年(甲後)に朝鮮人農民が4月に全土にわたる内乱を起こして、甲後戦争が発生した。それに東学の信者が関与して、東学党の乱と別称される。朝鮮の反乱に対して、清国軍と大日本帝国軍が李王朝の援軍として出兵するも、厳しく対立して日清戦争が7月25日から勃発した。日清戦争にて、日本軍が旅順を11月に侵略した時に、旅順の市内と近郊にて、日本軍が清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。



2018年3月6日火曜日

太平洋戦争で、サイパン島の各地には、ほとんど放置された全ての日本軍兵士の死体がるいるいと散在した。

太平洋戦争において、アメリカ艦隊の猛烈な艦砲射撃から援護を受けながら、アメリカ軍は1944年6月15日にマリアナ諸島のサイパン島に上陸した。6月19日には、マリアナ沖の洋上では、6月19日にアメリカ機動部隊により日本機動部隊の航空母艦の9隻のうち3隻が撃沈された。サイパン島の中心地のガラパン町にあった日本軍司令部は、膨大なアメリカ軍の上陸で地獄谷に撤退した。7月3日に日本海軍の守備隊は壊滅して、アメリカ軍はサイパン島をは占領した。7月7日に日本軍は全滅する最後の突撃をして玉砕した。アメリカ軍により、日本軍の守備隊は全滅して、サイパン島の各地に、ほとんど放置された全ての日本軍兵士の死体がるいるいと散在した。



2018年3月5日月曜日

アメリカ南北戦争でスポットシルヴェニアは激戦地となり、南軍は戦死者の死体を埋葬するために長い列に集積した。

アメリカの南北戦争は、1861年から1865年の4年間の内戦が勃発した。第二次世界大戦での約40万人の戦死者を超える約62万人が戦死した。首都ワシントンD.C.の南方で南部連合に属したヴァージニア州内が約6割の主戦場となった。その主戦場内であったスポットシルヴェニアでは1864年5月に激戦地となった。生き残った兵士のために、味方の戦死者は見えないようにして、敵の犠牲者は見えるように放置した。南軍のほとんどの戦死者の死体を、長い列に集積して埋葬した。次第に余裕がなくなり、遺体を回収するのに危険をおかす事は回避されて、放置されて白骨化した。残忍な戦争は生存者だけのものになり、死者は死をもって葬られた。



2018年3月4日日曜日

グアテロマにて軍と自警団は、ダム建設のためリオ・ネグロ村の全女性と子供らは無差別に虐殺した。

グアテロマにてダム建設により水没するリオ・ネグロ村は抵抗運動をした。それを鎮圧するため、1982年3月13日朝6時頃、12名の軍隊と15名のショコク自警団はリオ・ネグロ村に来た。彼らは住民を集め、丘への3kmの道のりを歩かせ、パコショム頂上で、軍と自警団は非武装の女性と子供に拷問して無差別に殺害した。午後5時頃に生き残った18人の子供だけを連行した。虐殺数は山腹に潜伏した男性を除いて在住した177名(女性70名、子供107名)で、非武装の一般市民であった住民数と一致した。リオ・ネグロ村の女性の遺体と首飾りとウィルビルが発掘された。


2018年3月3日土曜日

イラク戦争にて13歳の男子の右眼は失明して全身に鉄の破片も迷入して、重症となった。

イラク北部のキルクークは、約100億バレルもの油田地帯であった。2003年からのイラク戦争にて、アメリカ軍に支援されたクルド人民兵によって占領された。民族浄化のためにに、アラブ人に対する報復の虐殺をした。2007年10月にキルクークの警察署に対してアラブ人による自爆テロ攻撃がされ、10人が死亡し、25人が重軽傷を被った。頻発するテロにより、13歳の男子の右眼は失明して、全身に鉄の破片が約13個も迷入して、テロも受けた病院で包帯された。報復テロで虐殺されるのは、兵士でも警官てもなく、ほとんど一般市民であった。クルド自治政府と争う油田都市キルクークは、2014年10月にイスラム国に、2017年10月にイラク政府軍が占領した。