アメリカ軍は1944年6月16日の八幡空襲から日本本土に無差別の空爆をした。1945年5月29日には、横浜市に空襲があった。午前9時22分から約1時間、B-29爆撃機が約517機、P-51戦闘機(ムスタング)100機が来襲して、焼夷弾を43万発を、横浜を中心に無差別に空襲した。横浜の上空は燃える黒煙で真夜中のように真っ暗となった。横浜は焦土となり、多数の黒焦げになった悲惨な死体が散在した。焼き焦げた死体に、防空壕の上から棒を突き刺すと、ブシュッと死体の瓦礫が吹き出した。
ベトナムの共産化主義化を阻止する口実でアメリカは1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援した。1965年2月から北爆を行って地上軍を投入し、北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線との戦闘が勃発した。戦争は長期化したが、1968年1月からの北ベトナム解放戦線によるテト攻勢から南ベトナム軍とアメリカ軍が劣勢となり、1973年1月からアメリカ軍は撤退し始めた。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによるベトナム統一が行われ完全に終結した。テト攻勢で急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、混乱状態に陥ったものの、体勢を立て直し反撃を開始した。解放民族戦線は壊滅状態に陥り、南ベトナム軍は解放戦線の北ベトナム軍のアジトを襲撃して銃殺した。
朝鮮戦争は1950年6月25日から緒戦で北朝鮮の人民軍が突如に急南下した。撤退していた地域の韓国軍は、1951年2月頃から残留していた市民の中のパルチザンの完全な抹殺と地域の焦土化を展開した。韓国軍は市民を包囲しては、村落を焼き尽くし、無差別に共匪とした市民に向かって子供・女性・老人を含めて集団銃殺や刺殺をした。アメリカ軍も、無差別な空襲と機銃掃射の虐殺を繰り返した。李承晩政権は共匪を軍法会議に委ねた虐殺として隠蔽した。1951年4月に、ヘルメットの韓国軍憲兵により、慶尚北道の市民は共匪の大邱附逆者として土豪の中で集団銃殺された。朝鮮戦争の前後の大量虐殺は、完全に隠ぺいされ、北朝鮮人民軍の虐殺のみが強調された。
第2次世界大戦の直前の世界恐慌から再興するとして、ベニート・ムッソリーニ独裁政権はイタリアをファシズム化した。植民地の獲得によるイタリア帝国の再興のために、イタリア軍はエジプト帝国を1935年から1936年に侵攻して全土を占領して東アフリカ帝国を樹立した。エチオピアを侵略したイタリア帝国軍は、首都アディス・アベバを撃破して、かつては文明の中心地であったが、その大部分を瓦礫とした。その街路にて、イタリア帝国軍は1936年5月25日にエジプト市民を無差別に虐殺して死体が散乱した。それに対して国際連盟からの孤立化により、イタリア帝国はドイツと日本との枢軸国に第2次世界大戦に参入した。
太平洋戦争のニューギニア島の戦闘にて、アメリカ軍は1944年4月24日に北岸中部の陸上揚げ場であったポーラジアからも上陸した。フィリピンへ侵攻する前進基地として占領した。分断され抵抗も困難となった日本軍兵士は混乱して山林のジャングルに逃避して散り散りになった。補給もなく飢餓とマラリアと密林にてほとんどが戦病死して、白骨の死体が散乱した。日本軍兵士は5月25日に西の沿岸部のアラレでアメリカ軍を夜襲するも多数が絶命した。その生存者にアメリカ軍が降伏を呼びかけたが、降伏を拒否して、手榴弾で自爆して、死体が散乱した。
スペイン内戦は、陸軍勢力が第二共和国政府に対してクーデターを起こした。内戦1936年7月17日から1939年4月1日まで、スペイン国土と国民を荒廃させて、ドイツ・イタリアのファシスト政権が支援する陸軍勢力が共和国政権を打倒して、フランコ政権下で完全なファシスト体制の樹立に反転した。その緒戦である1936年11月8日のカサ・デ・カンポの戦闘では、首都マドリードの西北部のカサ・デ・カンポの台地で、共和国政府を包囲していた陸軍勢力の進撃を阻止した。共和国政府勢力を支援する外国人義勇兵である国際旅団には膨大な犠牲者を伴って戦死者が散乱した。
東中央アフリカのウガンダは、1962年10月にイギリス植民地から独立した。イディ・アミン・タダが、1971年1月に軍事クーデターにより独裁者となった。アミン大統領は、恐怖政治により市民を含めて無差別に恐るべき約30万人以上を大虐殺して、ナイル川にもそれらの死体も捨て流した。アフリカで最も血にまみれて、邸宅からも政敵たちの生首が発見されて食人大統領とも呼ばれた。元ウガンダの首都であったエンテベの目抜き通りで、ゲリラの容疑をかけられてた市民が、公開にて銃殺刑するために縛りつけた。
東地中海のトルコ近隣のキプロスは、1968年8月16日にイギリス支配より独立した。1974年に南部ギリシャ系勢力の内乱に対して、トルコが北部トルコ系勢力に加担して侵攻して、それぞれが共和国に分裂した。1978年からのギリシア系のキプロス軍の侵攻に対して、北部トルコ系のキプロス軍とキプロス島北部で内戦が勃発した。ギリシア軍の介入に対抗して、トルコ軍はキプロス島北部を占領した。ギリシャ系勢力とトルコ系勢力との内戦で、北部と南部にて、キプロスの市民らも巻き込まれて虐殺された。1978年7月28日にキプロス紛争により虐殺された犠牲者の死体がぶら下がった。
ベトナム戦争において、アメリカ軍は北ベトナムの補給ルートがあるラオスに対し1965年からラオスに膨大な空爆をした。アメリカのCIAは、共産主義政権となったラオス愛国戦線に対して、バン・パオ将軍に指揮される山岳地帯のモン族に戦闘をさせた。アメリカ軍が全面撤退して、南ベトナムが1975年4月30日に消滅した。そのためモン族は、ラオスから悲惨な陸地系難民として無差別に膨大なモン族は虐殺されながら逃避した。ラオス愛国戦線は、アメリカ軍に加担したモン族を復讐として絶滅する攻撃をした。ラオスのフレスノにて、1998年12月27日にもラオスに駐留していたベトナム軍が無差別にモン族に復讐するために掃討して無差別な虐殺をした。
ユーゴスラビアにおいて、クロアチアにてファシズム政党であるウスタシャが、第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍とイタリア軍と同盟して、1941年から1945年までクロアチア独立国を宣言した。セルビア人からユダヤ人及び反対勢力などを弾圧して、特にヤセノバッツ収容所などで、ホロコーストによる約70万人に及ぶ大量の残酷な虐殺が行われた。膨大な収容者は自ら墓穴や地下洞で処刑されて埋められた。終戦後に、ウスタシャに虐殺された白骨や頭蓋骨が発掘されて十字架に銘記された。民族と宗教間の大量虐殺が、冷戦後の1991年からのユーゴスラビア紛争の遠因となった。
沖縄戦にて、全死亡者(軍人・軍属・民間人合計)は約18万8千人以上に達して戦没率36.9%以上に上った。特に沖縄市民の犠牲者は約3万9千人以上となり、市民として太平洋戦争にて最大の犠牲者となった。沖縄戦で負傷して歩行困難となった沖縄市民の母親が、子供ともに担架に乗せられた。アメリカ軍の無差別な攻撃に、軍人も住民も次々と命を奪われていった。捕虜になった母親は、アメリカ軍の虐殺に不信と恐怖から睨みつけた。幼い子供も、母親の側で呆然と不安に見つめた。
アフリカのナイジェリアの東部州で、迫害されたイボ族の難民らを中心としたビアフラ共和国が分離独立を宣告した。ナイジェリア内戦が1967年7月6日から1970年1月21日まで勃発した。ビアフラ共和国はナイジェリア連邦国に侵略されて、物資や食糧が途絶えて、厳しい飢餓と虐殺により、膨大なビアフラのイボ族が死亡した。1968年7月から8月に極度の飢餓では、1日あたり約10,000人も餓死して、そのうち児童らは約2ケ月間で約20万から30万人にも達した。膨大なビアフラ難民の子供たちには栄養失調による蛋白質の枯渇からクワシオルコ症候群が発生して餓死した。
第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国が皇太子の暗殺の1ヶ月後の1914年7月28日にセルビア王国に戦線布告して勃発した。
セルビアに対して第一次侵攻する際には、セルビア市民を含めて無差別に虐殺した。さらに東部戦線において8月1日に参戦したドイツ帝国と1915年
10月14日から参戦したブルがニア王国との中央同盟国により、1915年11月5日にはセルビア王国は侵略された。ドイツ帝国軍の捕虜となった多数のセルビア人兵士が、悲惨にも虐殺された。
第2次世界大戦においてイタリア軍は、ドイツ軍の参戦により、ギリシアを侵略から分割して占領した。ギリシア市民の多くは1941年から1942年の冬期にかけて占領軍の蛮行と搾取による経済的な危機により悲劇的な餓死者を出した。特にアテネやそのほかの都市では、食糧の極度の欠乏により、大半の市民が急激な栄養失調となり、約300,000人もの餓死者が散乱した。ギリシア市民は多数の餓死者の死体をトラックに積載して処理した。
朝鮮戦争に巻き込まれた朝鮮人市民らは、国連軍と北朝鮮軍との激しい戦闘に襲われた。朝鮮人市民らは、1950年6月25日から1953年7月23日の約3年間にわたる戦闘により全土にわたり全壊や崩壊から虐殺されて最大の犠牲者となった。家を焼かれ、両親を失った戦争孤児は、約175,000名にも上り、朝鮮半島の全域にわたり散乱して多数の難民となった。戦争孤児は、荒廃した地域にただ一人で取り残されて呆然としてして泣き叫びさまよった。