イラク軍がクルド人に対して1988年3月16日にハラブジャにて化学兵器である不詳な毒ガスにより、多数の住民が虐殺された。その毒ガスでクルド人の母親とその子供が死亡した。第1次世界大戦でドイツ軍が初めて毒ガスを使用し、大戦後残酷なために毒ガス等の化学兵器を禁止したジュネーブ議定書が国際連盟で1924年10月5日に採択されていた。
太平洋戦争にて、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に1944年6月15日から7月9日まで侵攻して、日本軍は全滅した。アメリカ軍は、大兵力の武力と物量などで日本軍を圧倒した。日本軍も民間人も砲爆撃などで、北部に追い詰められて、海にも飛び込み自決した。日本軍兵士が末期にサイパン島の波打ち際にうつぶせになり戦死していた。
陸軍将校らが昭和維新を訴えて、1936年2月26日に1483名の青年兵士に軍事的クーデターをさせた。官邸・私邸・警察庁など占領して要人を暗殺した。靖国神社付近の九段坂より反乱軍を車中から隠し撮りがされた。反乱軍として2月26日から鎮圧されて3月4日で終結となった。その後の廣田弘毅首相が、思想保護観察法で治安維持法を強化して軍事政権に移行して、第2次世界大戦の起因となった。
武装した海軍の青年兵士らが1932年5月15日に立憲政友会の犬養毅首相を銃殺した。1932年2月の総選挙で大勝した憲政の常道に反発して、昭和維新を訴えて天皇親政を求めて政治的暗殺をした。「問答無用」と叫ぶ中尉らに「話せばわかる」と絶命した首相の祭壇前で納棺式
を官邸で挙行した。
南アメリカのエルサルバトルの内戦により、1981年12月1日に山間部のエル・モソテの住民の約800名以上が、アメリカ軍に支援されたアトゥラカトゥル大隊の政府軍により虐殺された。一方的にゲリラ組織に加担しているとして、将来のゲリラ抑止のために多数の子供達も幽閉されて虐殺された。
満州事変にて、1931年9月18日の日本軍の関東軍が、満州の柳条湖にて満州鉄道の爆破事件から満州に侵攻した。1933年5月31日に中華民国との協定で満州を占領した。関東軍は満州の住民を捕虜にして、中国人の抵抗者を集めては、多数の見せしめの公開処刑をした。
太平洋戦争にて、フィリピンのミンダナオ島でアメリカ軍のマラマス飛行場に対して、1945年5月に日本軍兵士は全滅をする万歳攻撃をした。日本軍は71名の全員が機関銃と小銃で死亡するも、アメリカ軍は戦死2名と戦傷者7名であった。
第1次世界大戦は1914年6月8日にオーストリアの皇太子がボスニアのサラエボでボスニア系セルビア人に暗殺されたセラエボ事件から勃発した。オーストリア帝国は7月8日に独立国セルビアに、同盟帝国であったドイツ帝国は対抗するロシア・フランスに宣戦布告した。セルビアとオーストリアの国境付近では、オーストリア軍はセルビア人捕虜を大量に銃殺した。
第2次世界大戦にヒトラーはドイツ軍の欧州の東部戦線に向け、敵となる兵士から民間人も含めて、特にユダヤ人を全滅することを指令した。特別行動隊(Einsatzgruppen)を編成して、全欧州のユダヤ人を殺害の対象とした。1941年8月からは女子や子供も殺害した。特別行動隊はウクライナのユダヤ人を集団で大量に銃殺するも、隊員の精神的負担から銃殺以外手段の毒ガスの大量殺害もした。
カンボジアはシアヌーク国王の下で1953年にフランス領から独立した。アメリカ軍と南ベトナム軍が1970年にカンボジアに侵攻した。クメール・ルージュが侵略して1975年4月に民主カンプチアを設立した。ポル・ポト政権の内戦から、カンボジア人からベトナム系市民を含めて強制収容や飢餓から殺戮により国民の約1/4を虐殺した。強制収容したカンボジアの青年市民を拘束して絞首刑を執行した。
第2次世界大戦にて、日本軍はビルマ(ミャンマー)北方のイラワシ河沿岸都市で飛行場を有するミートキーナを1945年6月に占領した。アメリカ軍・中国国民党軍との激戦で1944年6月9日にはミートキーナに近いジャングル地帯のモウガンにて、膨大な日本軍兵士の死体は打ち捨て放置されて散在した。
第2次世界大戦では、ナチス・ドイツ軍の親衛隊は、ソビエト連邦と東部戦線にて、抵抗運動を行うとしてロシア人や捕虜を虐殺した。地域住民もパルチザンと疑われ、ロシア人の犯人として逮捕した。親衛隊は連行した多数のロシア人らをパルチザンとして見せしめのため公開の絞首刑を執行した。
第1次世界大戦の西部戦線において、フランス北部のソンムで最も凄惨な戦闘となった。連合国と同盟国で戦争者は約100万人にも及ぶも、無謀な一進一退で終結した。機関銃と戦車により塹壕戦となり、政治宣伝のため1916年10月8日にフランス軍とドイツ軍兵士の両者が戦死した遺体をフランス新聞に掲載した。
太平洋戦争において、日本軍はニューギニア島の東部のブナ海岸に1942年7月2日に攻略した。アメリカ軍がブナ海岸に11月14日から1943年1月22日まで侵攻して厳しい死闘となり日本軍は壊滅した。その翌日まで戦闘をした日本軍兵士がアメリカ軍兵士にブナ海岸で射殺された。
第2次世界大戦にて連合国は1944年6月6日にナチス・ドイツが侵略下のフランス北西部のノルマンディーから上陸して侵攻した。6月6日のD-デイ後に、オハマ海岸に膨大で最悪の犠牲となったアメリカ軍兵士の戦死した遺体が集積された。周辺市民らが呆然としてイギリスに輸送する死体群を虚しく見守った。