2018年3月31日土曜日

日露戦争で旅順203高地のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なった。

日露戦争でに旅順203高地の争奪は日本軍とロシア軍で約8,000人もの悲劇的な戦死者を出した。ロシアの旅順要塞は1904年8月19日から12月5日まで、旅順要塞は厚いコンクリートの要塞に砲撃の効果が無く、次々に突撃した日本兵は倒れて戦死した。山頂からの攻撃の炸裂に対して身を隠すものがなく、狙い撃ちにされた日本兵は次々と倒れて戦死した。日本兵が決死の突入は、頭上からのロシア要塞の砲台から容赦なく銃弾と手榴弾と砲弾で戦死した。1904年12月5日に9日間に及ぶ日本軍の絶え間ない突入にロシア軍は力尽き203高地は陥落した。山頂のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なっていた。



2018年3月30日金曜日

太平洋戦争でアメリカ軍が撃沈した神国丸の後部の船室には、日本人の白骨の遺体が散在していた。

神国丸は、太平洋戦争の開戦前の1941年8月に日本海軍の特設給油船となった。太平洋戦争に突入して、真珠湾攻撃やミッドウェー作戦には空母機動部隊として参戦した。アメリカ海軍の空母ヨークタウンの艦載機から、1944年2月18日のトラック空襲(ヘイルストーン)で攻撃を受けてファイチュック諸島(七曜諸島)のウドット島(曜島)の北東の水深37mの海底に沈没した。神国丸は、神戸川崎造船所で1940年2月に竣工した排水量10,020総トンで全長153mであった。神戸桟橋のタンカーとしてアメリカから重油を輸送していた。アメリカ軍が撃沈した神国丸の後部の船室には、日本人の白骨の遺体が散在していた。



2018年3月29日木曜日

硫黄島の戦闘で、日本軍兵士は苦悶しながら飢餓状態で戦死して、腐敗し白骨化した死体が硫黄島に散在した。

太平洋戦争の末期の1945年2月19日から3月26日まで硫黄島で膨大な戦闘の犠牲者が出た。日本軍には増援や救援は当初よりなく、兵士20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍兵士は戦死者6,821名と戦傷者21,865名の計28,686名の犠牲を受けた。太平洋戦争の上陸侵攻のアメリカ軍の戦死と戦傷者数等の合計数が日本軍を上回った悲惨な最激戦地となった。日本大本営は3月21日に全滅を公表して「17日夜半ヲ期シ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」と美化した。日本軍兵士は厳しく苦悶しながら飢餓状態から戦死して、腐敗して白骨化した死体が硫黄島には散在していた。



2018年3月28日水曜日

アメリカ軍兵士が、農村部にてベトナム人青年を射殺して死体に面と向かいながら、一人の青年を連行した。

ベトナムの共産主義化を阻止する口実でアメリカ軍は、1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援して、北ベトナムに北爆を開始した。さらに地上軍を投入して、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。ベトナム戦争は長期化して、解放戦線による1968年1月のテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まり、1973年3月から撤退した。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによる統一が行われて終結した。アメリカ軍兵士が、ある農村部において一人のベトナム人青年を射殺した。彼の死体に面と向かって見下しながら、もう一人の青年を連行した。後方では女性と子供らが集まってアメリカ兵士を恨みながら蔑視した。


2018年3月27日火曜日

ナチス・ドイツのワルシャワー・ゲトーの路上では至る所で、子供も餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。

ナチス・ドイツは第2次世界大戦中に、植民地となったポーランドのワルシャワに、最大のユダヤ人隔離地域であるワルシャワ・ゲトーで人種隔離して封鎖した。ユダヤ人は、1940年7月9日以降か、ポーランド紙幣の交換は厳しく制限された。監視下におかれて、外部から食糧を入手することは困難となった。さらに追放後に移住して来たドイツ人が、ゲットーの市民に奴隷労働を強制した。大量のユダヤ人が、ゲトー内外で虐殺された。ワルシャワ・ゲトーでは農地や緑地が少なく、小柄なユダヤ人や子供たちは、資金も途絶え、食糧の運搬もできず、飢餓状態に陥った。路上では至る所で、1941年から1942年にかけて子供たちも餓死つつ死亡して、死体が路上に散在した。


2018年3月26日月曜日

アメリカ白人市民による黒人の絞首刑のリンチの様子が1890年代から新聞や雑誌に告知され絵葉やカードにも印刷された。

アメリカ合衆国は、南北戦争における1963年1月1日の奴隷解放宣言から1865年1月31日の憲法第13条修正の提示をした。しかし、黒人に対して人種的偏見が根付いていた。最高裁判所が1896年の「プレッシー対ファーガソン判決」で人種分離しても平等と判決して、人種的分離が合法化された。1890年代から法律を無視した市民によるリンチ(私刑)が増加して、南部14州で毎年約100人も虐殺された。黒人リンチの犠牲により、白人市民らは感情的に団結して、黒人らを恐怖に陥れた。公然と新聞や雑誌で、リンチの処刑も公表された。白人市民による黒人の絞首刑の様子が絵葉やカードにも印刷された。最後のミシシッピー州が最近の1995年3月16日になって憲法第13条修正が批准された。


2018年3月25日日曜日

義足を装着したパレスチナの老人が、難民キャンプから逃避するも、路地でレバノン軍団に射殺された。

レバノンにおけるベイルート南部のサブラー・シャティーラで、パレスチナ難民キャンプにおいて、1982年9月16日から18日にイスラエルが支持するファヘラン党のレバノン軍団がパレスチナ難民を大量虐殺した。レバノン軍団に完全に包囲されている難民キャンプ内でパレスチナ人が虐殺された。義足を装着したパレスチナの老人が、難民キャンプから逃避するも、路地で射殺された。イスラエル軍の国防大臣のアリエル・シャロンが主導して、2001年からは首相として、2001年9月11日のアメリカ軍のテロ戦争に乗じて、パレスチナ解放機構(PLO)に全面対決して、パレスチナ自治区の弾圧とテロ攻撃の内乱に陥った。


2018年3月24日土曜日

ガダルカナル島のムカデ高地の峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約数十人が戦死した。

太平洋戦争において、アメリカ軍は1942年8月7日からガダルカナル島に上陸を開始した。ヘンダーソン飛行場の南東部に連なる血染めの丘と呼ばれるムカデ高地で、日本軍は9月12日からアメリカ軍の猛烈な砲撃と射撃を受けた。地形も険しく周辺の深いジャングルの中で混迷した日本軍は、アメリカ軍は上空から戦闘機からも攻撃を受けた。追い込まれて総攻撃するも、強力で膨大な正確な銃砲撃により壊滅した。峡谷では、アメリカ軍の砲撃にて日本軍兵士は一挙に約30人から40人が戦死した。血染めのムカデ高地には、両軍の死体が折り重なって散在した。その後も日本軍は10月上旬まで散発的な戦闘を繰り返しながら、次第にガダルカナル島は飢餓地獄に陥っていった。


2018年3月23日金曜日

日露戦争の遼陽会戦で、ロシア軍が撤退した満州の黒英台の荒野には、膨大な日本軍兵士の戦死者が散在していた。

戦争の写真は、戦場の日常を映し出すも、戦死者はより一層に戦争の悲惨な真実を伝える。戦争における戦死者の写真は、文字や絵では描き出せない戦争の日常の中に死という現実を映し出した。遼陽会戦で1904年9月4日にロシア軍は退路の遮断を恐れて、奉天へ撤退した。黒英台附近の戦場の写真では、ロシア軍が去った満州の荒野に日本兵の戦死者が散在していた。両軍は膨大な兵力損失や戦死者から追撃は阻止された。苦難に立ち向かう味方兵士の美談・武勇などを讃えて、敵国兵士の残虐性・非道を引き立てた。次第に戦死の問題を遠ざけるために戦死者の写真は排除されて極秘にされた。逆に非人間的な近代兵器による自然や物体に対する威力は、士気高揚に資する壮大さ破壊力などが強調された。


2018年3月22日木曜日

アメリカ軍は敗走しているイラク兵士を虐殺して、死体だらけの砂漠の戦場を進軍した。

イラク戦争は、2003年3月20日からアメリカ軍を主体とした有志連合が、イラクへ侵攻した。圧倒的なアメリカ軍の武力に対して、イラク軍の兵士たちは退却し続けた。イラク兵士は、足り取り射撃しては、立ち去るも、砂漠の中では逃げ場がなかった。彼らは、イラク戦争で退却しながら銃殺されて死亡した。砂漠の中の敗走したイラク兵士は、奇妙な体位で倒れ散乱した死体だらけの砂漠の戦場となった。アメリカ軍は死体の砂漠の中を迅速に進軍して、2003年5月19日にイラク全土を占領したと戦闘終結を宣言した。しかし開戦の事由としたイラク軍の大量破壊兵器は全く残存していなかった。