2020年1月6日月曜日

ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。

ナチス・ドイツ軍は、1941年5月20日から大規模な空挺部隊によって、地中海に面したギリシアのクレタ島にパラシュートやグライダーに侵攻した。ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。ドイツ軍空挺部隊が5月20日にクレタ島に侵攻して、6月1日にクレタ島を占領して、連合軍は撤退した。連合軍の激しい銃撃の中で、パラシュート部隊に甚大な犠牲を伴った。クレタ島は、ドイツ軍空挺部隊の墓場となった。約12日間の戦闘で、約31,700人のドイツ軍は、約4,041人が戦死して、約2,640人が戦傷する甚大な犠牲を伴った。約40,000人の連合軍も、約4,000人が戦死して、約1,900人が戦傷して、約17,000人が捕虜になった。
 ギリシアのイギリス連邦軍は、1941年4月にドイツ軍を主体とする枢軸国軍に敗退して、クレタ島に避難した。第ニ次世界対戦当時に、クレタ島の住民は生まれて始めて、空からパラシュートで降下するドイツ軍に侵略された。激怒したクレタ島の住民は、連合軍に参戦した。侵入したドイツ軍の空挺部隊に対して、大切なオリーブ畑に落下したドイツ軍空挺部隊を、囲板に巻き釘付けて、武器や農機具などで容赦なく殺害した。クレタ島の住民は、武装して、ナイフや鎌などの武器で、戦闘にも参加した。クレタ島の住民は、ドイツ軍空挺部隊を鎌や刀で首を切断したり、刺殺したり、棍棒で打殺した。ドイツ軍は、民間市民による広範な抵抗を初めて受けて、クレタ島の住民に激しい敵意を持って報復した。ドイツ軍は、クレタ島の住民を軍人あるいはゲリラとして無差別に集団的な虐殺をした。ドイツ軍は、戦闘服を着用しないクレタ民兵はハーグ陸戦条約から除外して、約1,000人を問答無用で銃殺した。ドイツ軍は6月1日に南部戦線のクレタ島を占領して、6月22日の東部戦線のソ連侵攻の起点となった。


2020年1月5日日曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が首都ガラパンで射殺された。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が射殺された。サイパン島の首都であるガラパンの市街戦に巻き込まれた。左下肢や左手に銃撃を受けて、日本海軍の少年兵は自ら駆血帯をして止血していた。日本海軍の少年兵が水筒の蓋を開けて、水を飲んでいる際に射撃されて殺害された。絶望的な戦闘に巻き込まれて虐殺された。6月28日にアメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始した。日本軍は、起伏が多い地形を活用して、市街地の建築物を利用した市街戦で肉薄攻撃と白兵突撃を駆使した。食糧も飲料水もない戦いとなり、日本軍の守備隊の主力はほぼ全滅した。
 日本軍は、6月15日にサイパン島に上陸したアメリカ軍に首都ガラパンからしばしば夜襲をかけていた。アメリカ軍は夜襲に対抗して陣地の周囲に鉄条網とトタン板で日本軍兵士を察知しては射殺した。1944年6月28日に日本軍は瓦礫となった首都ガラパンに侵攻した。アメリカ軍は、侵攻に対して地雷を敷設して、粉砕されたコンクリートの壁に銃座を設置していた。生存していた日本軍兵士や水を求める民間人も含めて、廃墟の中で市街戦が約5日間も引き続いた。7月2日に日本軍の本部も崩壊してほとんど壊滅して、首都ガラパンにて多数の日本軍兵士の死体が散乱した。7月3日の夜明けにサイパン島の北部へ撤退した。北部のタナパクに向かって北上して、日本軍兵士と民間市民が、北端のマッピー岬の崖からの飛び降りる自決に追い込まれる悲劇が待ち受けていた。サイパンの戦いの犠牲者は、日本軍約31,629人のうち約30,000人が戦死して、生存者の約921人が捕虜となった。民間市民は約10,000人程度が巻き添えで死亡した。アメリカ軍は約66,799人のうち約3,441人が戦死して、約11,685人が戦傷した。


2020年1月4日土曜日

第2次世界大戦にて、ドイツ軍のダンケルクへの侵攻に抵抗した3人のイギリス遠征軍兵士がベルギーの国境の付近で殺害された。

第2次世界大戦にて、1940年5月にナチス・ドイツ軍のダンケルクへの侵攻に抵抗した3人のイギリス遠征軍(BEF)兵士がベルギーの国境の付近で殺害された。殺害された3人のイギリス遠征軍兵士の死体が路上に散乱した。イギリス遠征軍とフランス軍は、フランス最北端のダンケルクに追い詰められる過程で、膨大な犠牲を伴った。ダンケルクから西部約40kmのカレーで包囲されたイギリス遠征軍は、ドイツ軍を引き寄せるも、救出はされず壊滅した。イギリス遠征軍だけでも、フランス遠征中に約68,000人が犠牲となった。
 ナチス・ドイツ軍は、1939年にポーランドでの勝利を西部戦線で攻撃することを計画したが、悪天候のために攻撃計画は延期された。1940年1月にドイツの飛行機が中立のベルギーで落下して攻撃命令のコピーが残り、再考を余儀なくされた。フランス軍のマジノ線に、ドイツ軍は直接に侵攻しないで、オランダとベルギーを介したアルデンヌ森を介してフランスに侵攻した。ベルギーとフランスの国境にある丘陵地であり、森林に覆われた地域であり、連合軍は脅威となる電撃戦を予期してなかった。
 1940年5月10日に、ナチス・ドイツ軍が電撃攻撃でオランダ、ルクセンブルク、ベルギーに侵入した。ドイツ軍は5月10日にルクセンブルク、オランダは5月14日に、ベルギーは5月28日に占領した。5月14日からマジノ線ではなく、アルデンヌの森を通り、ソンム渓谷に沿ってイギリス海峡に向かって着実にフランスを侵攻した。ドイツ軍は、連合軍を北部沿岸のダンケルクに追い詰めた。ダイナモ作戦で、5月27日から6月4日までに約338,226人のイギリス軍兵士約215,000人とフランス軍兵士約123,000人がイギリス本土へ救出された。フランス軍は崩壊して、6月13日にパリを占領されて、6月21日に降伏した。


2020年1月4日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 350,000回

1. 日本 295,000
2. アメリカ合衆国 23,400
3. ドイツ 4,900
4. ウクライナ 4,100
5. ロシア  3,400
6. 不詳国 2,200
7. 韓国 1,600
8. トルクメニスタン 1,500
9. アラブ首長国連邦 1,100
10. フランス 1,000

2020年1月3日金曜日

日中戦争の徐州会戦で、日本軍は多数の中国人市民を虐殺した死体で溝は一杯となった。

日中戦争において、1938年に中国の徐州にて、日本軍は、多数の中国人の市民を虐殺した。その死体で溝は一杯となり、それを日本軍兵士が見下した。日本軍は1938年4月7日から6月7日まで徐州会戦が勃発した。日本軍が南京を1937年12月に攻略して、中国軍は黄河作戦で敗退して徐州周辺に集結した。対抗する日本軍は1938年4月中旬から徐州に侵攻を開始した。北から、青島から、そして南の南京から徐州包囲を行った。日本軍は5月12日に、中国軍前に渡河を敢行して、大会戦となった。
 日本帝国の戦争犯罪は、帝国主義時代、主に第二次日清戦争から第二次世界大戦中に、多くのアジア太平洋諸国で日本帝国によって犯された。戦争犯罪は、アジアの大量虐殺と非難された。一部の戦争犯罪は19世紀後半の明治時代に、日本軍人により犯された。ほとんどの日本帝国の戦争犯罪は、日本帝国の無条件降伏まで、天皇に治世が与えられた明治・大正・昭和時代に犯された。日本帝国の戦争犯罪は、日本帝国陸軍と日本海軍を巻き込み、何百万人もの死者を出した。日本帝国の戦争犯罪に起因する死亡数の推定値は300万人からの1400万に達した。さらに大量虐殺、人体実験、飢餓、および強制労働、直接的に犯されたり、日本帝国と日本軍が直接的に犯して容認した。一部の日本軍兵士は、これらの戦争犯罪を犯したことを認めた。日本帝国陸軍と日本海軍の航空隊員は、第2次世界大戦前または第2次世界大戦中には、空中戦の違法行為を禁止する特定的な国際人道法がなかったために、戦争犯罪者として含めていない。帝国日本陸軍は、第2次日中戦争および第2次世界大戦中に、敵国市民に対して化学的および生物学的攻撃を実施して、戦争にその武器の使用は、ハーグ条約(1899年と1907年)を含む日本帝国が署名した国際協定で一般的に禁止されていた。戦争における毒または毒兵器の使用を禁止されていた。
 戦争犯罪は、東京裁判によって「法律または戦争慣習の違反」として定義された。敵の戦闘員および非戦闘員に対する犯罪が含まれる。戦争犯罪は、意図的な攻撃を含め、中立状態の非戦闘員の市民及び財産の攻撃を含めた。日本帝国と日本軍は、日本帝国主義時代に多くの戦争犯罪を犯して非難または有罪判決を受けた。日本帝国は、19世紀後半から20世紀半ばまで、東アジアおよび西太平洋地域全体で、民間市民および戦争捕虜に対する一連の人権侵害を犯したと非難された。これらの戦争犯罪は、1937年から1945年までの第2次日中戦争と第2次世界大戦のアジア太平洋地域の侵略の間に最高犯罪に達した。日本の市民および軍人に、日本帝国の強制的に致し方なく韓国人と台湾人らは、日本帝国軍の一部として戦争犯罪を犯した。


2020年1月2日木曜日

アメリカ軍が沖縄本島に造成した墓地で膨大なアメリカ軍兵士の死体を埋葬して、十字架を並べた。

アメリカ軍が沖縄本島の読谷村に造成した墓地でアメリカ軍兵士の膨大な死体を埋葬した。1945年20年5月頃には、午前と午後に1回ずつ、トラックが沖縄戦の南部戦線で戦死したアメリカ軍兵士の死体を積んで運搬してきた。5月頃の沖縄の暑さで、死体からはものすごい悪臭が漂った。死体は身元を確認した後に、アメリカ軍兵士によって埋葬された。墓地には死体を埋める深さ約2メートル弱ほどの穴が掘られて、埋葬後には白く塗られた十字架が整然と並んでいた。捕虜となった日本人は埋葬作業ではなく、通路の縁石を整える作業に従事した。日本人の捕虜生活は7月頃まで続いた。 沖縄戦の南部戦線では多くの日本人同級生が15~16歳頃で死んでいった。沖縄本島の中部西海岸に位置する読谷は、1945年4月1日にアメリカ軍が、沖縄本島への最初の上陸地点であった。
 約12,000人を超えるアメリカ軍兵士が、沖縄島を占領した地上と神風特攻隊の攻撃を受けた艦船で死亡しました。 アメリカ軍の戦闘ならびに非戦闘による戦死傷者の合計は約72,000人に達した。約7万6,000人の軍事訓練を受けた日本軍の防御兵士の戦死数とほぼ同数であった。多くの日本人の一般市民が沖縄戦に巻き込まれて約9万4000人が死亡した。日本軍が沖縄南部に追い詰められてから、特にアメリカ軍の無差別な攻撃に、日本軍兵士も、沖縄市民も次々と戦死傷した。沖縄戦だけは、日本軍兵士よりも多くの市民が戦死した。沖縄市民は県内外に疎開をが思うように進まず、約50万人の市民が取り残された。沖縄戦の兵士と市民の戦死者総数の割合は約25%以上に達した。
 戦死した要因は、(1) 戦闘に巻き込まれた戦死。(2) 間接的な戦死。(3) 戦闘以外の戦死。(1) 戦闘に巻き込まれた戦死には、1. アメリカ軍による直接的な殺害 2. アメリカ軍による間接的殺害 3. 日本軍による直接的な殺害 などの要因による。(2) 間接的な要因には、1. 戦闘時の事故死 2. 戦傷・栄養失調・衰弱など病死 3. 自殺・ 中毒・精神・不明死 などの要因による。(3) 1. 日本軍よる直接的殺害(刺殺・銃殺・絞殺・斬殺・毒殺などの虐殺) 2. 日本軍による間接的殺害(塹壕から追出虐殺・殺害強要虐殺・自決・集団自決の強要虐殺死など) 3. アメリカ軍による直接的殺害 (暴行虐殺・投薬虐殺・戦犯射殺など) 4. アメリカ軍による間接的殺害(レイプ・間接虐殺・不発弾死など) などの要因による。激しい戦闘の中で、沖縄住民の死体は、砲弾穴・畑・道の側、あるいは壕(ガマ)の内外に放置されて腐敗していた。 


2020年1月1日水曜日

翌日に広島本通から西方を遠望すると、以前として煙を吐き出し、中央右より後方に原爆ドームの産業奨励館が映し出された。

広島原子爆弾の炸裂による火災が、広島市内の各所で発生した。火災の炎が広範囲に広島市内を襲った。爆心地から半径約2km以内のコンクリート製のビル以外は、跡形もなく燃え尽きた。広島原爆が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した被爆当日の午前10時頃から午後15時頃まで火災がピークに萌え続けた。火災の終焉には、およそ8月8日まで約3日間を要した。8月7日に広島市の現本通りから西方を遠望すると、煙が以前として残って煙を吐き出した。中央右より後方に原爆ドームとなる産業奨励館が映し出された。破壊された広島市に白い煙がくすぶった。広島市で最もにぎやかな通り、本通は一瞬にして破壊された。広島原爆の爆心地の近くの原爆ドームは、残っている建物の間に見れた。残存したビルは、安田銀行の広島支店、大林組の広島支店、三和銀行、住友銀行、中央芸備銀行である。鉄筋鉄筋コンクリートの建物を除き、本通商店街の裏地にある店舗は爆風と火災により完全に破壊され焼失した。鉄骨とコンクリートの建物はほとんど爆弾に耐えたが、ガラスと木などの備品は溶けて燃焼した。レンガ造りの建物は大きな被害を受け、木造の建物は火事で完全に焼滅した。 
 広島市は当時には約35万人が居住して、1945年12月末までに約14万人が原爆死した。被爆により人口は約8から13万人と激減した。爆心地から半径1.5kmから2kmの木造の建物は、ほぼ全壊して全焼した。2kmから3kmまでは、木造の建物は、ほぼ半壊と半焼した。被災戸数は、約6万7,860戸全壊と全焼を免れたコンクリート製のビルは、外壁だけでを残して内部は焼き尽くされた。
 アメリカ軍の「エノラ・ゲイ」と故障されたB-29スーパーフォートレス爆撃機は、1945年8月6日早朝にテニアン島から離陸し、約4,000kg(8,900 lb)の「リトル・ボーイ」と呼称されるウラン型原子爆弾爆を運搬した。午前8時15分に、リトルボーイは広島市の上空の約9,400m(31,000フィート)から落下して、57秒間はパラシュートで自由落下した。一連の複雑な炸裂は、地上約600m(2,000フィート)の目標の高度で炸裂した。炸裂の瞬間に、小さな爆発物が約64kg(141lbs)のウランで超臨界量を越えて核分裂を引き起こした。その約64kgのうち、わずか約0.7kg(1.5lbs)だけが核分裂し、その質量のうち、わずか600ミリグラムがエネルギーに変換された。その核分裂が、数km内のすべてを焼き尽くす爆発的なエネルギー暴発した。猛烈な火災が覆って、すべての生物に致命的な放射線を浴びせた。


2019年12月31日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、エニウェトク環礁の戦いで背後から日本軍兵士の狙撃兵により殺害されて仰向けに倒れた。

アメリカ軍の海兵隊員は、エニウェトク環礁の戦いで背後から日本軍兵士の狙撃兵により殺害されて仰向けに倒れた。海兵隊員は、直前に日本軍兵を殺害するために使用したナイフをまだ握しめていた。後方には殺害された日本軍兵士の死体が倒れていた。日本軍の飛行場の建設に関わった軍属の労働者の約290人も全滅した。約299人の内訳は、約55人が日本人で、約235人は強制連行された朝鮮人であった。
1944年2月19日にエンゲビ沖から、連合軍はマーシャル諸島のエニウェトク環礁に上陸した。日本軍兵士の戦闘に耐えられない病気で負傷した人は自殺した。再編成されて、部隊として戦闘に戻り、戦闘で全滅死した。弾薬の供給と食料が枯渇して、衛生的状況は非常に劣悪であり、多くの日本軍兵士は、割り当ての任務を遂行が不可能となった。日本軍は2月22日に2回にバンザイ突撃をして全滅した。2月22日に終結したエニウェトク環礁の戦いでは、連合軍は約10,367人のうち約348人が死亡、約866人が負傷し、日本軍は駐留した約3,500人のうち約3,380人が死亡して、105人が捕虜になった。
 世界初の水素爆弾が、1952年11月1日にエニウェトク環礁でアンビー・マイク作戦の核実験で炸裂した。1948年4月から1958年8月の間に、アメリカは、水素爆弾の最初の実験を含め、マーシャル諸島の環礁で約43の核実験を強行した。約2億3900万ドルの放射線浄化プロジェクトの後に、環礁は1980年に再び居住の安全性を宣言された。約850人の住民が島に生息している。半減期が約24,110年であるプラトニウムを約45cmのコンクリート・ドームで蓋をした。2019年5月に国連総長が、マーシャル諸島は、海面から約1.8mであり、冠水と浸水で放射性物質の流出の危険性を警告した。


2019年12月30日月曜日

サイパンの戦いで、多数の日本軍兵士が殺害された死体が塹壕内で積み重なり散乱した。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いが、1944年6月15日から7月9日までサイパン島で勃発した。上陸したアメリカ軍に対して、日本軍は6月15日から17日まで総力を上げて近接した戦闘による夜襲の突撃をした。アメリカ軍は夜襲を待ち構えて圧倒的な武器で対抗して、日本軍は壊滅した。アメリカ軍の陣地の前の塹壕には、多数の日本軍兵士が殺害された死体が塹壕内で積み重なって散乱した。アメリカ軍は、塹壕内外で積み重なった日本軍兵士の死体を検死した。
 日本軍の軍司令部はアメリカ軍のサイパン島の上陸に対して、夜襲によって撃退する命令を出した。日本軍兵士は、6月15日夜間から6月16日真夜中にかけて、アメリカ軍に対して4回の夜襲の突撃をした。アメリカ軍の照明弾の下で猛烈な砲撃と射撃による反撃により、6月16日明け方までに約700人が殺害されて死亡した。サイパン島に上陸したアメリカ軍兵士も、約2,500人の戦死傷の犠牲を伴った。6月16日午後17時夕方頃には、日本軍の軍司令部は総力による再度の夜襲を命じた。6月17日午前2時30分頃にも、6月16日と同様に夜襲の突撃をした。夜襲を予期していたアメリカ軍は、連夜の日本軍の夜襲に対してあらゆる武器により猛反撃した。日本軍兵士は、撃ち倒されて壊滅状態となった。6月1ユチまでに、日本軍はサイパン島の海岸の防御から撤退して、丘陵や山岳地帯に内陸に移動して防衛した。



2019年12月29日日曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍は1967年12月8日に多数の南ベトナム解放戦線の青年兵士を射殺した。

ベトナム戦争において、1967年12月8日にアメリカ軍は空軍師団の兵隊をベンキャット地区フオックビン州を移動させる通路を確保した。ジャングルの中を侵攻して、南ベトナム解放戦線や北ベトナム兵を探索して、道路を封鎖して、偵察の任務を遂行した。1967年12月8日に多数の南ベトナム解放戦線と思われる兵士を射殺した。アメリカ軍が、その戦闘後の周辺を探索すると、8人の南ベトナム解放戦線の青年兵士の死体が散乱していた。
 1966年にアメリカ軍はベトナムに駐留する兵士数が約40万人に増員され、1967年には約50万人にも増大した。1965年12月から1967年12月までの2年間は、アメリカ軍兵力は約2.6倍増え、戦死者総数は約14,.385人と約10倍以上にもなった。南ベトナムのジャングルでゲリラ戦が展開され、アメリカ軍の強力な兵力をあまり発揮できず、人間であるアメリカ軍兵士は重い負担をかけらた。ゲリラ戦中に、無力感が虐待と虐殺につながり、怒りや不安感などを抱えた。1968年1月に、フエやサイゴンを含む約100以上もの都市と陣地に、ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が複数攻撃をした。1968年2月11日から17日の1週間で、ベトナム戦争で最大数の約543人ものアメリカ軍兵士が殺害された。1968年3月16日朝に、アメリカ軍が数百人もの非武装の民間人を殺害したソンミ村虐殺事件が起きた。見えない敵に狂気を強めて、理由もないのに人を殺しまくる悲惨な無差別な残虐行為を引き起こした。流血と犠牲がアメリカ軍に衝撃を与えて、ベトナム戦争の転換点となり、アメリカ軍のベトナムからの遅々とした撤退に影響を与えた。1969年の最大数の約54,900人から1972年には約69,000人に削減された。


2019年12月28日土曜日

窒息でもがき死んだフランス軍兵士の死体がマジノ線の要塞の回廊に積み重なった。

第二次世界大戦の西部戦線において、1940年にドイツ軍は電撃戦でフランスを急襲して侵攻した。1940年5月18日早朝に、ベルギー国境沿いにあるモンメディ要塞地区のブロック2の要塞は、ドイツ軍により全ての兵器が粉砕された。フランス軍の要塞からの砲撃が停止すると、ドイツ軍は攻撃を防ぐためコンクリートなどで造られたブロック2の要塞を爆破した。フランス守備隊兵士は、ブロック2からブロック1の要塞に避難するも、直ちにその要塞も破壊された。ブロック1の要塞の回廊に退避していたフランス守備隊兵士は、要塞の換気装置が破砕した上に、要塞に生じた火災の煙と煤が回廊に流れ込んだ。一酸化炭素により、要塞のフランス守備隊兵士は全員が窒息した。窒息でもがき死んだ多数のフランス軍兵士の死体が要塞の回廊に積み重なった。
 1935年から1937年にかけて、フランスのマジノ線のモンメディ要塞の砦は、緊縮策の結果、2つの歩兵ブロックからなる小要塞のみが構築された。フランスの防衛線であるマジノ線は、1930年代にドイツとの国境に沿って建設され、アンドレ・マジノ戦争大臣にちなんで名付けた。主にラフェルテからライン川まで延びて、要塞もライン川やイタリアの国境に沿って伸びた。北東線の主な要塞には、22の地下の大要塞と36の小要塞、およびブロックハウス、バンカー、鉄道が含まれた。1940年5月10日にマジノ線がアルデンヌの森で途切れたベルギー北部経由でフランスに侵攻したドイツ軍の侵略を防御できなかった。1940年5月16日にドイツ軍は、後方からマジノ線の最西端のラフェルテにある隔離された要塞から攻撃した。難攻不落と信じた要塞は、フランス防衛にはほとんど役に立たない無用の長物であった。マジノ線の地下壕や砲台、機関銃座の跡がのどかな野原の中にぽつんと取り残された。