2019年11月27日水曜日

ブーゲンビル島でアメリカ軍の掃討により、多数の日本軍兵士が殺害され、死体が森林のジャングルに散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル島の戦いにて、1944年3月18日に日本軍兵士はアメリカ軍陣地に夜襲をかけた。それに対抗して早朝のアメリカ軍の掃討作戦により、多数の日本軍兵士が殺害された。その死体が森林のジャングルの中に散乱していた。日本軍兵士は1944年3月8日からアメリカ軍の飛行場があるタロキナ岬に侵攻したが、圧倒的な武力で壊滅した。日本軍兵士の約2万人のうち戦死傷は約13,000人にも達した。その直前から食料や武力の補給は途絶えて、栄養失調による餓死や感染症で約4,000人以上は戦病であった。アメリカ軍は、降伏する日本軍兵士も捕虜とせずに、多数を虐殺した。ボーゲンビル島の戦いは、墓島(ぼとう)と呼称された。
 ブーゲンビル島は、ニューギニア島の東に位置しているパプアニューギニアの島である。ブーゲンビル島は、約2000m級の山脈とジャングルが連なる険しい地帯であった。アメリカ軍が上陸した1943年11月1日から終戦後の8月21日の降伏まで戦闘が持続した。主にアメリカ軍はフィリピンの戦いのために1944年11月まで攻撃して、その後は主にオーストラリア軍が攻撃した。日本軍兵士に対して1944年4月に通常は約750グラムの米配給が、1944年4月に約250グラムに削減され、9月からは米配給は停止した。日本軍兵士は、食料を育てて時給自足に陥った。士気は非情に低下して、強盗、不服従、反抗なども発生した。ジャングルで、見つけるヘビ、ネズミ、ワニなど全て食い尽くした。ブーゲンビル島の民間市民は、戦前の約52,000人の人口のうち最大で約13,000人が戦争中に死亡した。約144,000人のアメリカ軍兵士のうち約727人が戦死して、約30,000人のオーストラリア軍兵士のうち約516人が死亡した。約45,000人を上回る日本軍兵士のうちで約18,500人を越えて死亡した。アメリカ軍と交代したオーストラリア軍の攻撃に対し、戦時中から戦略的にも無意味で無駄な戦闘であったとの批判がある。


2019年11月26日火曜日

インドネシア軍は、軍事作戦地域のアチェ州の自由アチェ運動と戦闘して、殺害した一味の死体を木に縛り付けて運搬した。

インドネシア政府軍は、軍事作戦地域(GOM)としたスマトラ島北部のアチェ州のバユ郡で、自由アチェ運動(GAM)の武装勢力と戦闘した。インドネシア軍は、戦闘で殺害したGAMの一味の死体を木に縛り付けて運搬して排除した。GAMに対して、1999年2月に約28人の虐殺、5月に約46人の虐殺、7月に57人の虐殺など大規模で市民を含めた無差別な虐殺事件が頻発した。2003年から2004年にかけて、GAMに対してインドネシア軍は戒厳令下で大規模な侵攻をして、GAMは甚大な損害を受けた。
 1976年から2005年にかけて、インドネシア対する分離独立を求める自由アチェ運動(GAM)により、約15,000人以上のアチェ人が虐殺された。GAMは、GAMⅠ(1976-1979)、GAMⅡ(1989年-1991年)、GAMⅢ(1999-2002年)は3段階にわたり変遷した。GAMⅠでは、大規模天然ガスの利権をめぐり闘争するも小グループで支援もなく一掃されて鎮圧された。GAMⅡでは、リハビアとイランからの資金援助されて約1,000人規模の武装勢力となって、アチェはGOMに指定された。GAMの一味の疑いある村は全焼されてたり、家族は連行されて拷問を受けて、約10,000人が虐待と虐殺の犠牲者となった。GAMⅢは、1998年にインドネシア政府の政権交替により、インドネシア軍が撤退後から、GAMの反政府運動が活発化して、約27,000人規模となって大規模な紛争を引き起こした。
 インドネシアのスマトラ島北部アチェ州で、同国からの分離・独立をもとめるアチェ人の独立運動が1953年から勃発した。インドネシア共和国は、アチェをイスラム法に基づく自治区として、1949年12月にアチェ州が設置された。1950年8月に、オランダの植民地の統合を済ませたインドネシア共和国は、1950年8月に州再編を行い、アチェ州を北スマトラ州に併合した。アチェ人の武装勢力は、1953年にインドネシア共和国から離脱し、ジャワ島西部を中心にインドネシア・イスラム国を目指した。1960年にインドネシアの反スカルノ勢力によるインドネシア統一共和国に参加した。1961年にインドネシア統一共和国が鎮圧されて、アチェ・イスラム国として再び抵抗運動をして、1963年にアチェ特別州に統合された。1976年に自由アチェ運動(GAM)が結成されて、アチェ・スマトラ国として武装闘争した。インドネシア軍が、1979年にGAMは一旦は鎮圧されたが、1989年からアチェは特別軍事作戦領域(GOM)に指定されて戦闘が再燃した。2004年12月のスマトラ沖大地震により、アチェは津波で壊滅的な震災を受けて、2005年にアチェは平和合意で武装解除して独立運動は終結した。



2019年11月25日月曜日

米比戦争の初日の1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。

米比戦争の初日である1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。1899年から1913年の間に、アメリカ合衆国のフィリピンに対する植民地戦争である米比戦争は、フィリピン人に激しい反抗を引き起こした。抵抗を鎮めるために約126,000人のアメリカ軍兵士が派遣された。アメリカ人が行った苦難、大量殺人、焼け焦げる火炎により、約400,000人のフィリピン人兵士がアメリカ軍の武力で死亡し、約100万人のフィリピン人市民が殺害されて、総計で約140万人にも達してフィリピンのルソン島の約1/6が一掃された。1899年にアメリカは、フィリピン人を教育し、キリスト教化し、文明化するために、フィリピンとの戦争を宣言して、フィリピン虐殺が始まった。1899年から1905年の間にフィリピン人がジェノサイドで殺された。虐殺が突然停止した可能性は低い。多くのアメリカ軍のフィリピン人に対する人種差別主義を示した。多くのアメリカ軍兵士が殺害を楽しむようになった。
 フィラデルフィア・レジャーのマニラ特派員は、「アメリカ軍兵士は容赦なく、男性、女性、子供、囚人と捕虜、反乱軍、10代の若者の容疑者を根絶するために虐殺した。」と1901年11月に公表した。アメリカ軍兵士は、「兵士は、平和的に降伏したフィリピン人の囚人を連行して、1時間後に反乱者を示す証拠なしで、弾丸で射殺され橋から落下して水に浮いた死体を見つけた。」「上官は殺害と焼却を命じて、殺害と焼却が多いほど喜んだ。」と証言した。死んだフィリピン人の死体が非常に多く、アメリカ軍は防御壁として使用した。「トム・ソーヤーの冒険」で最も有名な作家マーク・トウェインは、「数千人の島民を埋葬した。畑を破壊して、村を燃やし、未亡人と孤児を戸外に追い出した。残りの1千万人を、慈悲深い同化のために征服した。アメリカ国旗の星条旗を頭蓋骨と十字骨に置き換えるべきだ。」と提案した。強制収容所は密集して病気で一杯となり、約20%もの非常に高い死亡率となった。上官はすぐに町を燃やし、目の前の先住民の殺害を命令された。約1,000人もの男性、女性、子供が殺害された。フィリピン人の目撃者は「これは戦争ではなく、単に虐殺と殺人の屠殺である。」と述べた。
 1898年4月25日からフィリピンで勃発したアメリカとスペインの米西戦争が、1898年8月12日に終結した。1898年6月12日にフィリピン人は独立宣言をして、フィリピン人は独立のための闘争をした。その直後の8月14日からフィリピン占領するために、約11,000人のアメリカ軍をフィリピンに派遣した。1898年12月10日のパリ条約により、スペインはフィリピンをアメリカに譲渡した。1901年4月19日に、捕虜となった大統領が第一共和国を終結させて、フィリピンに対するアメリカの主権を認めた。1913年までフィリピンは、さまざまな地域で特にイスラム教徒の南部で、散発的な反乱闘争が続いた。


2019年11月24日日曜日

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争で、リフ地方のベルベル人の頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争にて、アマジゲのリフ地方のベルベル人を断頭した頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。スペインの植民地政策に対して、モロッコの北部山岳地帯のリフにてベルベル人が組織的な武装闘争をしたリフ戦争が1921年から勃発した。リフ戦争は、1921年7月22日からスペインはモロッコ北東部で戦闘が勃発した。スペイン軍とリフ地域の反乱軍との軍事紛争となった。最初の年はスペイン軍は歴史的な敗北に見舞われた。スペインは敗北による母国の政治的危機により、リフ地域の植民地政策を短期的に見直した。イゲリベンの守備隊のスペイン軍の駐屯地は、厳しく包囲された5日後の1921年7月22日に、武器、装備、負傷者、病人を取り残して、メリリャに退却した。リフ共和国は、1923年1月18日に独立宣言をした。1923年9月13日にスペインでは軍事クーデターにより、独裁政権がスペイン国王から絶対的な権力を引き継いだ。
 1925年春にリフ軍はフランス領モロッコにも攻撃を仕掛け、フランス軍側に多くの死傷者が発生した。フランス政府はリフ共和国に宣戦布告し、約30万人を越す大軍で北部モロッコに侵攻した。圧倒的なフランス軍の攻勢で、リフ軍は大きな損害を受けた。壊滅的な敗北の後に、フランコ率いるスペイン軍はリフ地域で、無防備な人々に対する毒ガス攻撃で、圧倒的な武力行使した。1919年のベルサイユ条約で化学兵器は禁止されても、ドイツの支援を受けてスペインは条約を守らず毒ガスで残酷な虐殺をした。最終的には1926年5月に、スペイン軍およびフランス軍の約250,000人による数か月の激しい攻撃の1年後に、リフカビレンの最後の部族が降伏して、リフ戦争は終結した。リフ戦争で、スペイン軍は約43,500人が、フランス軍が約18,000人も犠牲となった。モロッコのリフ軍では、約10,000人の戦死と約30,000人の戦傷の犠牲を受けた。第二次世界大戦後の脱植民地化の潮流の中で、モロッコは1956年3月2日にフランスから独立宣言をした。


2019年11月23日土曜日

チェチェン紛争でグロズヌイ近郊の村で、親族が土中から掘り出した死体を検死した。

ロシア軍は反政府であるチェチェン共和国に1999年10月2日に侵攻した。 3年後まで戦争は続き、大量の墓地にはロシア軍の恐ろしい虐殺が暴露された。2002年5月13日午前3時にロシア軍兵士に誘拐されたゴラゴルスク村の4人の男性の死体が発見された。拷問、流血、認識不能な約15の遺体を含む大規模な墓地が発見さた。チェチェンの農民はイスラム教徒として、葬式のために家族に加わった。イングーシとの国境近くにあるグロズヌイの北西約50キロのゴラゴルスク付近で2002年9月8日に集団墓地が発見された。墓場の近くの土中から掘り出された村のチェチェン人の男たちの死体を、親族が検死をして確認した。この村では、ロシア軍に連行された村人が行方不明となっていた。連行された村人は拷問を受けて、虐殺されて土中に埋められた。直後の2002年10月23日にて、約42人のチェチェン人テロリストにより、モスクワ劇場占拠事件で、人人質は約129人とテロリスト約42人が死亡した。 
 1999年10月2日にロシア軍がチェチェン共和国に侵攻して、3年間続いた紛争で、ロシア軍当局は、証人の通行を厳しく制限した。住民はロシア軍や地元のチェチェン親ロシア民兵によって虐殺され、行方不明になった。失踪した人は数千人にも及んだ。死体は頻繁に、建物の廃墟、テラス、道端で発見され、時には爆発や破壊されて、拷問で刻まれた死体が、墓地から多量に掘り出された。写真の死体は、44歳の男性、20歳、50歳、37歳の男性の死体であった。5月13日に、ロシア軍兵士が民家に侵入した時は、彼らはベッドで寝ていた。襲撃で、兵士たちはマスクをして、頭は黒い目出し帽で覆われた。ロシア軍は、6人の男性を連行して、そのうち2人は3日後に道路で生存していた。生存者は、「目を覆われ、手を縛られ、装甲車で連行され、未知の建物の地下室に収容された。」と証言した。
  ロシア軍は兵士は、「あなたの不幸はあなたがチェチェン人であることである。」と述べた。彼らは裸の死体で発見され、頭はビニール袋に入れられ、首に接着剤を付けていた。非常に痩せて、食物なしで長い間に閉じ込められた。「頭部は包帯に包まれ、足がつぶれ、頭蓋骨が折れ、骨が皮膚だけ保持され、バッグに入れられ、折れた歯が口の底にあった。死体は裸で、ビニール袋に頭があった。他の2つの遺体は、身元不明で、胴体が切り取られた。」と、家族は一瞬で身内を認識するのは困難であった。大量の墓地はロシア国防省の特殊部隊に関連していた。 駐留したロシア軍は6月10日に、近隣のイングーシ共和国に退却した。集団墓地で、拷問した死体を取り除いた。6ヵ月後にプーチン大統領がチェチェン共和国の「安定化」を宣伝するも、到達方法は不明であった。チェチェンの人々は、ロシア人が排除するために追放したい人々であった。死体はロシア軍の駐屯地の近くで発見された。チェチェンではすでに大規模な墓地が発見された。2001年2月に50人以上の遺体、民間人、女性、チェチェン戦闘機が含まれた墓地は、グロズヌイ東部のロシアの主要軍事基地の近くで発見された。虐待と虐殺に関する国際調査は、戦争の開始以来、モスクワに承認されていない。チェチェン共和国南部の山岳地帯で、地面に掘られた深さ2mの穴に埋葬した。ロシア軍は、チェチェン共和国で「反テロリスト作戦」を実施したと主張した。2001年9月11日以降のテロリズムに対する世界的な作戦の一部とした。紛争により数万人が犠牲になった。ロシア政権は軍事段階が終わり、憲法の採択の国民投票が実施されると吹聴した。地雷の戦争、鉱山での紛争は続いて、ゲリラの待ち伏せは枯渇せず、人々の恐怖を焚き付けた。グロズヌイの通りでは、「私たちの強さは団結です! ロシアの他の人々との友情はチェチェンの繁栄の道です!」のスローガンを宣伝した。


2019年11月22日金曜日

ヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。

第一次世界対戦のヴェルダンの戦いで、フルーリー・デヴァント・ドゥモン村は崩壊した。第一次世界大戦の前夜には約422人の住民が居住した村は、フランス北東部のロレーヌ地方ムーズ県で、ヴェルダンから北東約8kmのドゥオーモン丘にあった。村の近隣でのヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。死者を戦場から取り除くことはできず、生きている兵士たちは悪臭を放つ腐敗した死体の横で眠り、食べ、戦うことを余儀なくされた。
 第一次世界大戦における主要な西部戦線の戦いであるヴェルダンの戦い、1916年2月21日から12月19日まで、フランス軍が約377,231人とドイツ軍が337,000と合わせて約714,231人以上の死傷者を出した。ヴェルダンの戦いに向かうドイツ軍が村に攻勢した1916年2月16日までに、村人はヴェルダンとブラスシュルムーズに避難した。2月24日にドゥオーモン砦がドイツ軍に占領されて、村は崩壊の運命を迎えた。1916年6月7日にドイツ軍は、絶え間ない砲撃によりヴォー砦を攻略して、村を最前の戦線に押し上げた。6月23日にドイツ軍が村を再占領し、その後7月11日に斜面をさらに侵攻して、ラプードリエールまで占領した。
 フランス軍は6月24日にフルーリー・デヴァント・ドゥモン村の陣地を再占領したが、まもなく失った。村はヴェルダンの戦いの重要な戦場になった。6月23日から8月18日までの間に、フランス軍とドイツ軍は、約16回にわたり交互に村を占領した。フルーリー・デヴァント・ドゥモンは崩壊して広大な荒野となり、フランス軍は村を攻撃の起点として、ドゥオーモン砦とヴォーの砦を再占領した。村は崩壊して、全てが崩壊して無人となった。それまでは、1870から71年の仏プロイセン戦争後に建設された防衛要塞により、それから19世紀後半までは平和な村であった。
   第一次世界大戦の荒廃後にフランス政府によって居住不可能と宣言された村となった。土地は汚染され、死者の遺体とともに、毒やその他の危険なガスが鉛と水銀とともに土壌に染み込んだ。村の入り口から数百mにあるドゥオーモンは、数ヶ月にわたるベル弾の戦いで死亡した数千人のフランス軍兵士の国立墓地となった。納骨堂には、ヴェルダンの戦いで戦死した約130,000人を超えるフランス軍兵士およびドイツ軍兵士の遺骨が収納された。



2019年11月21日木曜日

アッツ島の戦いで最後のバンザイ突撃をした日本軍兵士が、荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱した。

太平洋戦争において、アメリカ軍が上陸した1943年5月12日から5月29日までのアッツ島の戦いで日本軍兵士は全滅した。5月29日の真夜中に、最後となる約1,000人みの日本軍兵士の部隊が、「工兵隊の丘」にて残酷なバンザイ攻撃でアメリカ軍の陣地を襲った。突撃に衝撃を受けたアメリカ軍の後部隊は、すぐに日本軍兵士を白兵戦で撃退した。夜明け頃には、アッツ島の荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱していた。わずか19日間の戦闘により、日本軍兵士は約2,351人以上が戦死して、最後に生き残っても自殺して、残存者は約28人の捕虜のみとなった。上陸した約12,000人のアメリカ軍兵士のうち、約549人が死亡して、約1,200人以上が戦傷や病気に罹患した。太平洋諸島の戦闘では、退却する場所がなかった。日本軍にとり降伏は非常に不運であり不名誉であり、兵士は捕えられるのではなく自殺するように指示された。太平洋戦争当時に日本軍兵士の全員が死滅する「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは、1943年5月29日のアッツ島玉砕である。日本軍の大本営は、アッツ島の戦いは全滅する玉砕にもかかわらず、アリューシャン諸島の作戦を感動的な虚偽の叙事詩として賛美した。太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕である大本営は、アッツ島の戦い中の5月21日に、アッツ島の守備隊を放棄して見殺して、までアメリカ軍が上陸していないキスカ島の守備隊の撤退を決定した。アッツ島の玉砕を戦争遂行への天意の指揮刀と解釈して、勇士諸氏の奮闘を大忠大孝と惜しみなく讃えながら、戦争への勇気を称賛した。
 アッツ島は、北太平洋のアラスカのアリューシャン諸島の最西端である。アッツ島は、火山や山岳地帯もあり、悪天候で樹木のない不毛の地で無価値な島であった。日本軍は、1942年6月7日にアメリカの領土であったアッツ島を占領していた。アッツの戦いは、アメリカの領土で戦った第二次世界大戦の唯一の戦いである。同時に日本軍が中央太平洋で6月4日から7日まで惨敗するミッドウェイ島の戦いの直前であった。アラスカ地方の悪天候による降り注ぐ雪と雨、凍える寒さと泥などにより凍傷と壊死して、相互の兵士らは十分な装備も補給もなく悲惨な戦闘となった。最後の全滅となる突撃の前に、野戦病院の日本軍の衛生兵は手榴弾を渡して戦傷者を自滅に導いた。
 「夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
 聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。お大事に。さようなら。
 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」(辰口信夫、33歳、軍医)

2019年11月21日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 330,000回




2019年11月20日水曜日

広島原子爆弾により顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。

広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
 1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
 国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。


2019年11月19日火曜日

硫黄島の戦いで砂浜に掘った塹壕の中で玉砕した2名の日本軍兵士の死体が腐乱した。

硫黄島の砂浜に掘った塹壕の中で玉砕した2名の日本軍兵士の死体が腐乱した。彼らは天皇のために死んだとアメリカ軍米海兵隊の記録が残っている。大本営からの玉砕命令は、戦争犯罪となる日本軍兵士と記録は残されなかった。大本営と日本軍に対する賛辞と語られた。大本営が戦争犯罪と裁かれる日本軍兵士と記録は抹殺された。太平洋戦争中に大本営は天皇の名のもとに 日本軍兵士を余りにも大量に虐殺した。大本営は戦争犯罪を自認していたのか硫黄島の日本軍兵士と記録は捨て石と見限って抹殺した。硫黄島がアメリカ合衆国から1968年に返還された。以後は自衛隊の管理下に置かれて、一般市民の立ち入りは厳しく制限されている。
 硫黄島は、東京から南約660マイルの火山島であり、幅が約2マイル、長さ約4マイルである。1944年にグアム、サイパン、テニアンのマリアナ諸島を確保する地上作戦が終了する前から、アメリカ海軍はすでに新しいB-29爆撃機に適した空軍基地の土地を開拓していた。巨大な爆撃機であるB-29は、日本の本島に向けて最初に1944年10月から始まった。しかし、小さな硫黄島から離陸した日本の戦闘機がB-29を迎撃して、マリアナ飛行場を攻撃した。アメリカ軍は、硫黄島の占領を決断した。
 1945年2月19日に、海軍が空爆した後に、アメリカ軍海兵隊が硫黄島に侵攻した。硫黄島の日本の守備隊は、火山岩の奥深く塹壕をを掘った。約70,000人のアメリカ軍海兵隊と約18,000人の日本軍兵士が戦闘に参戦した。硫黄島での約36日間の戦闘で、約7,000人にも昇るアメリカ軍海兵隊員が死亡した。さらに約20,000人が戦傷した。硫黄島の戦いで日本軍は全滅して、海兵隊は約216人の生存した日本軍兵士のみを捕獲した。硫黄島は最終的に1945年3月16日に占領が宣言された。海兵隊史上最も血なまぐさい悲惨な戦闘となった。戦闘後、硫黄島は約2,200機を超えるB-29爆撃機の緊急着陸地点として機能して、多数の航空隊員の命を防御した。硫黄島を確保することで、太平洋戦争の沖縄戦に繋げた。
 摺鉢山の山頂でのアメリカ国旗は1945年2月23日に掲揚された。戦闘開始の5日後。 AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールは、5人の海兵隊員と1人の海軍隊員がアメリカ国旗を掲げている有名な写真を撮影した。硫黄島との戦いが終わる前に、これらの3人の男性は日本軍により殺害された。アメリカ全土の新聞に掲載されて、アーリントン国立墓地の海洋記念館の象徴となった。市民による戦死と戦傷による戦争による代償に対して、市民には永遠に取り戻せない名誉と尊敬の賛美で代償した。


2019年11月18日月曜日

イスラエル軍のガザ地区侵攻で、腹部に重傷を被った少女の娘を、父親が悲しみながら介抱した。

イスラエル軍は、パレスチナのガザ地区に、攻撃機、ヘリコプター、無人飛行機の爆撃だけでなく、戦車と大砲が侵入した。2009年1月5日に、パレスチナのガザ地区のシファー病院は、パレスチナ人の約16人の子どもと7人の女性を含む約39人の民間市民が死亡した。死者数は、すでに約540人以上に昇り、負傷者は約2,600人にも達した。父親が、腹部に重症を被った少女の娘を、悲しみながら介抱した。パレスチナ人の市民は逃げ場を失って、ますます緊張と不安に追い込まれた。。人口が特に過密な地区であるガザ市内のシュジャイヤで、妊娠していた母親と4人の娘が砲撃で殺害された。戦争がガザ地区を覆い尽くしている。血と大量の死体の悪臭がする。毎日のように不吉な知らせが届いた。崩壊したガザ地区に死体、切断された四肢、泣き叫ぶ子どもと両親、子どもや家族を探し回る肉親が迷って徘徊していた。イスラエル国防軍(IDF)は、ハマスが戦争に巻き込んだ民間人、特に子供を人間の盾として使用したと主張した。
 イスラエル空軍は、6ケ月間の一時停戦を破って、2008年12月27日からガザ地区の全域に猛烈な空爆を始めた。2009年1月3日に空爆と砲撃しながらガザ地区に無差別攻撃しながら侵攻した。ハマスとの激烈な戦闘により、ガザ地区の市街戦に陥った。イスラム世界では、ガザ虐殺と呼称した。パレスチナ自治政府を主導するハマスは、報復として、多数のロケット弾をイスラエル南部に発射した。1月15日には、国連のパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の避難所を砲撃して、約40人以上が死亡した。イスラエル軍は約3週間にわたるガザ地区侵攻から、1月18日に一方的に停戦を宣言して、1月21日までにガザ地区から完全に撤退した。ガザ地区侵攻により、パレスチナ人は約1,166人以上、イスラエル人は約13人が死亡した。国連の世界保健機関は、約122の医療機関の約48%が崩壊したと公表した。2008年、2009年、2012年、2014年と、イスラエル軍は逃げ場のないガザ地区に無差別に大規模な侵攻で攻撃と破壊を繰り返した。現在もガザ地区の周囲はイスラエルに軍事封鎖されている。繰り返される戦争で最大の被害者は、常にガザの一般市民である。