2019年7月20日土曜日

ソ連は1961年10月30日に人類の歴史上で、最も強力な核兵器である水爆をノーヴァヤ・ゼムリャー島で爆発させた。

ソ連は、1960年代初頭に連続して水素爆弾の核実験をした。1961年10月30日午前3時30分に、ソ連は人類の歴史上で、最も強力な核兵器を爆発させた。北極に浮かぶノーヴァヤ・ゼムリャー島で核実験された核爆弾は、TNT爆弾で約58メガトンに相当した。爆弾は核融合段階で、さらに強力なウラン238の代わりに、鉛タンパーを使う3段階の核融合した。空中投下され爆発して、少量の核分裂生成物が放出されて、何百マイルもの空間を照らした。重水素化リチウムと重水素化リチウムの核融合によって熱核エネルギーが生成された。順番に配置されたシリンダ内で、各段階が次の段階を発火した。1962年には、さらに20から30メガトン級のTNT爆弾に相当する4つもの水素爆弾が核実験された。アメリカ軍とソビエト連邦軍の冷戦における軍拡競争は互いの軍事行動に過激に反応して大きく軍拡された。
  他の原子力大国も水素爆弾の開発を追求した。第3番目のイギリスは1954年に、独自の水素爆弾の開発を決定した。1957年11月8日にクリスマス島で、TNT1.8メガトンに相当する水素爆弾を爆発した。第4番目の中国は、1967年6月14日に水素爆弾を爆発させた。最初の原子爆弾から32か月後にはTNT3.3メガトンに相当する熱核爆弾を爆発させた。最後にフランスが、水素爆弾の熱核融合装置を、1968年8月24日に太平洋のファンガタウファ環礁でTNT火薬2.6メガトンに相当した結果、環礁をひどく核汚染した。その他にインドとパキスタンの両国が、1998年の核実験に熱核装置またはブースト核分裂装置を実験したと推定された。イスラエルには核分裂に基づく核兵器があると推定された。世界の核兵器は、約6,000個以上もの核兵器があり、その大部分は熱核爆弾で構成した。既存の核の備蓄以外にも、核兵器計画を積極的に追求する国が他にもある。2006年に北朝鮮は限定核兵器を爆発させ模様である。イランの核実験計画の真意も未だに不明である。



2019年7月19日金曜日

北朝鮮の人民裁判で反動分子と断定され、死刑を宣告されると、直ちに市民の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。

朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時において、北緯38度線から北朝鮮軍が突如の侵攻して勃発した。北朝鮮の奇襲でパニックに陥った韓国に対して、6月28日には、北朝鮮軍が韓国の首都であるソウルを侵略した。1950年7月2日に、北朝鮮のソウル市民会館前の路上で、韓国のソウル警察所長が人民裁判された。人民裁判で反動分子として断定された。人民裁判が死刑を宣告すると、直ちに人民裁判の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。膨大なソウル市民は大混乱に陥り、土地と家や家族を失って、難民が発生した。
 北朝鮮の侵略地域に対する占領方針は、朝鮮労働党政治委員会が策定した。その方針は、1) 政治的・思想的な敵対者を粛清する。2) 韓国青年を徴兵して、義勇軍として北朝鮮の人民軍を補助させる。3) 道路や橋などのインフラの復旧に韓国市民などを使役して強制労働させる。4) 韓国の地下組織を掃討して、北朝鮮幹部が実験を握る。5) 食糧などを徴収する。6) 韓国農民の支持を得るために土地を早期に無償分配する。
 韓国軍は6月28日に北朝鮮の南方侵略を阻止するために、残存していた韓国軍と難民が避難していた漢江大橋をもろともに爆破した。膨大な韓国軍兵士と難民は、漢江の以北に取り残された。北朝鮮軍は7月3日に漢揚江を渡河して南方に向けて急侵略した。アメリカ軍は6月26日の韓国軍の支援から6月27日から韓国への武力支援して朝鮮戦争に参戦を指令された。アメリカ軍が仁川の上陸してから攻勢に転じる9月16日まで、韓国南部の各地では、鮮血で染める悲惨な朝鮮戦争の戦闘により、兵士だけでなく市民も巻き込まれ、膨大な犠牲者出しながら、その死体が散乱した。





2019年7月18日木曜日

太平洋戦争のニューギニアのギルワの戦いで、ジャングル内の塹壕の入口で、連合国軍が殺害した日本軍兵士の死体が散乱した。

太平洋戦争におけるニューギニアの最終となるギルワの戦いで、ジャングル内に備えた塹壕の入口で、連合国軍により殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。ニューギニアは、日本の真南の約5000kmの赤道直下にあり面積は2倍で、ジャングルに覆われて、中央に約4,000mの山脈が連なった。1942年3月から悲惨な残酷な戦闘が勃発していた。日本軍兵士は、近隣のラバウル基地の防衛のために、日本軍兵士の約15,000人が北東のバザブアに上陸した。支離滅裂な大本営の命令により、日本軍兵士は8月から連合国の南東のポートモレスビー基地に向けて侵攻させられた。急峻なオーエン・スタンレー山脈を越えられても、連合軍の封鎖により補給が途絶えて9月から悲惨な撤退をした。再び山脈を越える退却の途上で、栄養失調による飢餓と伝染病などで到るところで餓死に陥った。
 日本軍の基地であったブナ地区のバサブア、ブナとギルワの拠点に残存兵が帰還した。約10倍もの連合国軍のブナ地区に対する11月からの猛攻撃により、最初にバサブアが12月8日に壊滅した。次いで、ブナが1943年1月2日に壊滅した。最終的に残存したギルワの日本軍が、連合国軍の総攻撃により1月17日に全滅した。ニューギニアを脱出した約1,000人を除いて、ニューギニア各地のジャグルの中に日本軍兵士の死体が散乱した。1943年2月9日に、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と、ブナ地区の日本軍守備隊は全滅して虚偽の公表をした。


2019年7月17日水曜日

アメリカ軍は極度の栄養失調なって飢餓から餓死になりかける日本軍兵士の捕虜をサンダカン保領収容所に護送した。

太平洋戦争が終戦を迎えていた1945年10月に、北ボルネオのサンダカンの捕虜収容所に、アメリカ軍は極度の栄養失調なって飢餓から餓死になりかける日本軍兵士の捕虜を護送した。補給品を運搬する日本の船舶は、アメリカ軍により入港できないように封鎖された。
 逆に日本軍は1945年1月から、捕虜にした連合国兵士をサンダカン捕虜収容所からラナウまで虐待と虐殺のサンダカンの死の行進を強制した。約1,000人の捕虜のうち 約99.3%が飢餓に陥ると虐殺されて餓死して、わずか約7人のみが生存した。戦後にBC級裁判で、日本軍の幹部は極刑に処された。
 太平洋戦争において各地で日本軍兵士に食糧の供給が完全に停止して、多数の悲惨な餓死の犠牲になった。餓死した死体があちこちに散乱して、腐敗した死臭が漂い、ウジ虫などにたかられて、骸骨やミイラなどに変態した。栄養失調で移動できない日本軍兵士には、手榴弾や拳銃での自殺を迫った。特に太平洋諸島では、自家栽培や略奪による自給自足は困難を極めた。
 太平洋戦争のガダルカナル島では、日本軍兵士の全戦死者数の約20,000のうち、餓死者数は約4分3の約15,000人を占めた。ニューギニア島では、派遣された日本軍兵士の約157,646人のうち生存者はわずかに約6%の約96,000人のみであった。戦死者のほとんどは餓死あるいは伝染病である熱帯熱やマラリアなどで死亡した。フィリピンの戦いでは、日本軍兵士の約498,000人のうち約400,000人の約80%を占めた。太平洋戦争の期間中である1941年から45年に、総計で約1,740,000人が死亡して、その内で約1,000,000以上が栄養失調に伴う餓死あるいは疾病で死亡した。大本営は食糧の供給をせずに、日本軍兵士に敵国の軍隊が奪い取り自給自足を指令して、悲惨で膨大な餓死者を見捨てた。



2019年7月16日火曜日

沖縄南部の戦いの悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。

太平洋戦争の末期に、沖縄の戦いにて、本島南部で最終的な悲惨で容赦のない戦闘に、アメリカ軍兵士と日本軍兵士さらに沖縄住民が巻き込まれた。1945年5月27日から、約3万人の兵士が沖縄の首里を撤退して、沖縄住民が従った。5月下旬の梅雨による泥川の中を日本軍兵士と沖縄住民の集団が南部に向けて逃避した。5月27日にアメリカ軍の観測機が、日本軍と沖縄住民の南下して後退を発見した。直ちに、アメリカ軍の砲兵隊と戦艦からの砲撃して、容赦なく襲撃して、膨大な日本軍兵士と沖縄住民が殺害された。さらに南風原の山川橋付近の死の十字路では、砲弾と射撃により、殺害された死体が石垣山のように重なった。
 アメリカ軍は6月7日には、南部の喜屋武半島を包囲して、容赦のない総攻撃をした。摩文仁丘の周辺に逃げ惑う約3万人の日本軍兵士と約10数万人もの沖縄住民が混在と混乱を来した。あらゆる砲撃や射撃をさけるために、地下のガマや民家から森やアダン林、岩陰に潜伏した。無差別に掃討するためのアメリカ軍の砲撃と射撃から火炎放射や手榴弾などで焼け尽くし崩壊した。日本軍兵士と沖縄住民の死体が散乱した上を、地獄のような戦場から日本軍兵士と沖縄住民が逃げ惑った。沖縄本島の南部の戦場に巻き込まれて、沖縄の戦いの犠牲者の約8割以上を占めた。沖縄の戦いの犠牲者の推定では、日本軍兵士の戦死者数は約94,136人で沖縄住民は約94,000と総計で約200,666人にも達した。アメリカ軍兵士の戦死者数は約12,520人に及んだ。最終的に1945年7月2日に沖縄の戦いは終結した。



2019年7月15日月曜日

ビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の少年と女性の2人の生存者が解放され、周囲には多数の子どもの死体が散乱した。

アウシュヴィッツのビルケナウ第二強制収容所から、ユダヤ人の若い少年と中高年の女性の2人の生存者が解放された。その周囲には多数の子どもの死体が散乱していた。ソ連軍により、オシフィエンチム市のブジェジンカ村のビルケナウ第二強制収容所は、1945年1月27日に約7,000人の囚人が解放された。その中には、約200人の子どもたちも含まれた。アウシュヴィッツ第一強制収容所は1940年5月20日に、ナチス・ドイツ軍が占領したポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語: アウシュヴィッツ)に、ビルケナウ第二強制収容所は1941年10月8日に、近隣であるブジェジンカ村(ドイツ語: ビルケナウ)、さらにモノヴィチェ村に1942年10月に、モノヴィッツ第3強制収容所(ドイツ語: モノヴィッツ)が開所した。
 ナチス・ドイツ軍は、ソビエト連邦に対する1941年夏と秋のバルバロッサの戦いに勝利して、ナチスの反ユダヤ人の過激主義とアウシュヴィッツに搬送される囚人の要件に変化をもたらした。アウシュビッツ第一強制収容所の混雑を緩和するために、約3km離れたビルケナウ第二強制収容所の建設が1941年10月に開始した。強制収容する約5万人のソ連兵の捕虜を収容することを意図した。ビルケナウ第二収容所には当初は約15万人が、最終的には約20万人もの囚人の収容が求められた。1941年10月に最初の約1万人のソビエト軍の捕虜がアウシュビッツ第一収容所に到着したが、1942年3月までに約945人のみ生存した。彼らのほとんどはビルケナウ第二収容所に移送されて、1942年5月までに死亡した。ナチスはユダヤ人を全滅させために、ビルケナウ第二収容所は強制労働から絶滅収容所となった。
 戦闘にはかかわらず、ビルケナウ第二収容所は必要な建設を遂行した。ビルケナウ第二収容所には、4つの火葬場、新らたな収容所ビル、その他何百ものビルが建設された。死の門から強制収容所内まで延びる鉄道引込み線は1944年5月に完成した。各兵舎のために当初は約890万RM(1924年-1948年はReichsmark)の予算に基づいて、約550人の囚人を保持した。その後に各兵舎を約744人に変更した。収容所は約97,000人から約125,000人を収容できた。親衛隊は兵舎を破壊するほど人々を収容した。約174の兵舎があり、各約35.4×11.0mの面積で、約62平方mを約4平方mに分画した。最初は3人の収容から、4人の寝所に分画された。生存するために必要な最低限の空間に、受刑者は強制収容された。


2019年7月14日日曜日

長崎原子爆弾により這って出る姿のまま黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。(長崎)

長崎原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が1945年8月9日の午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機B-29「グーレート・アーティスト」から投下されて炸裂した。8月10日に爆心地から南約300m付近の長崎市浜口町北端に、這って出る姿のままの黒焦げになった骸骨が瓦礫に埋もれていた。民家の屋内防空壕から逃避するも、家の崩壊して脱出できずに、まる焦げになり焼死していた。跡形も無くなり、何も見分けもつかない死体が散在していた。原爆が炸裂した直後から焼ける猛煙で一面が真っ黒になった。家の下敷きになって生きたまま焼け死ぬ多数の悲鳴が響いた。下敷きになり焼け死ぬ者の救出は、猛火の中を逃げ回る被爆者らにはとても不可能となった。
 原子爆弾は、炸裂時に猛烈な熱線を放出する。熱線により、爆心地付近は一晩中にわたり燃え続けてほとんど焼失して全滅した。何千度の高熱で、人も建物も何もかもが炭化した瓦礫になった。爆心地から約2km付近までは、非常に重態の火傷を受けた。爆心地から約4km付近までは、露出した皮膚に火傷を受けた。


2019年7月13日土曜日

南ベトナム政府軍兵士は、農村部で一緒に暮らした息子が、ベトナム戦争に巻き込まれ殺害された死体を抱きながら悲嘆して泣いた。

ベトナム戦争にて、南ベトナム政府軍兵士は、農村部にて一緒に暮らしていた息子が、ベトナム戦争に巻き込まれて殺害された死体を抱きながら悲嘆して泣いた。彼の息子の遺体は、土葬するために、わらで編まれた敷物に包まれた。1964年6月12日のライフ(Life)雑誌に掲載された。ベトナム戦争の日本人報道カメラマンの先駆者であった岡村昭彦が撮影したベトナム戦争の真実について、驚くべき9ページもの特集が掲載された。「遠く離れて卑劣な醜いベトナム小戦争」を、あまりにもほとんど何も知らなかったアメリカ本国の市民は、すでに悲惨な戦争になっていることを知らせた。南ベトナム政府軍の父親は、彼の息子の死体と一緒に写真を撮影を岡村昭彦にお願いした。
 南ベトナムの首都であるサイゴンの南西にある農村部の住民は、ベトナム戦争の攻撃の犠牲者になっただけでなく、南ベトナム軍によって北ベトナムのゲリラの容疑者として拷問されていた。その直後の1964年8月2日のトンキン湾事件により、アメリカ軍はベトナム戦争を泥沼に引きずり込んだ。



2019年7月12日金曜日

関東軍の討伐隊は、吉林省から南の白頭山に、共産匪の司令官である楊靖宇を包囲して川原に追詰めて射殺し断頭した。

満州国にて、溥儀が執政から皇帝になった1934年3月から、満州の中国人農民と日本関東軍の大規模な紛争となる土竜山事件が勃発した。関東軍は、日本人移民のために満州の農民から大量の土地を強制的に買収して、満州国の約14.3%にも達した。反満抗日集団である匪賊に対抗できる退役軍人を武装移民させた。日本は1937年から二十カ年百万戸計画を掲げて、満州への大量の日本人移民を排出した。1931年の満州事変から終戦までに約27万人もの日本人の満蒙開拓団が入植した。
 1930年から共産党の指令を受ける匪賊である共産匪によるゲリラ式の反満抗日活動が展開された。特に1935年から1937年にかけて、満州全域で約20,000人の共産匪が反満州抗日をを激化した。その幹部として、北朝鮮の朝鮮民主主義人民共和国の独裁者となった金日成も参戦していた。反満州抗日活動がある満州地域に、七戸の中国人農民に相互の監視をさせて共同責任である連座制の保甲制度を導入した。散在して生活していた中国人農民を、約百戸の農家を一ヵ所に集めた集団部落の生活をさせた。中国農民を生地を離れさせて別地に追いやり、匪賊から分離して妨害して協力させなかった。
 関東軍は、保甲制度と集団部落により次第に弱体化した共産匪を1934年10月から徹底的に討伐して、山間地や森林に追い詰めた。1940年2月23日に、吉林省から南に約170kmの朝鮮との国境にある白頭山に、共産匪の司令官である楊靖宇(Yang Jingyu)は包囲された。関東軍の討伐隊は、川原に追い詰めて射殺した。討伐隊は、楊靖宇の死体を回収してから断頭して、頭部は公開処分された。満州の共産匪を掃討して壊滅させた。



2019年7月11日木曜日

イラクのモスルにて、イスラム国兵士の首から断頭された死体が、弾痕の壁に向けて倒れて放置された。

イスラム国(ISIS)の兵士の首から断頭された死体が、2016年12月頃に弾痕の壁に向けて倒れて放置された。イスラ国兵士の死体の側に、切断された頭部が転がっていた。約1万人から構成したISIS軍は、約40万人の市民を人間の盾してモスルを防御した。市民が生活する市街地で、無差別で悲惨な紛争が長期化した。モスル市民は閉じ込めたイスラム教徒の寺院であるモスクが、防波堤にされた。モスルは銃弾の瘢痕だらけで、建物も崩壊した。紛争に巻き込まれ兵士よりも多くの市民の死体が散乱して、腐敗した死臭が停滞した。
 イスラム国(ISIS: Islamic State of Iraq and Syria)は、イラク戦争後からイスラム教のスンニ派が支配して、国際テロ組織であるアルカイダから2004年に分派した過激組織が起点となった。イスラム国は、イラクの約100万人以上の北部の都市であるモスルで、2014年7月に最高指導者のアブバクル・バグダディが国家の樹立を宣言した。イスラム国は、イスラム市民を無差別に奴隷にして処刑などによる恐怖政治に基づく独裁国家となった。イスラム国は、インターネットによりSNSでプロパガンダを国際的に拡散した。2015年1月には日本人も巻き込まれて拘束された民間軍事会社の湯川遥菜とフリージャーナリストの後藤健二が、イスラム国軍兵士により断頭されて虐殺された。さらにイスラム国の勢力が拡大して、2015年5月には紛争中のシリア領にまで占領した。2016年10月からイラク軍とアメリカ軍らの有志連合などが、イスラム国の主要拠点であるモスルの奪還の戦いを主導した。イラク軍らがモスルの東南側から、シーア派民兵軍が西側から、北東側からはクルド人部隊がイスラム国の奪還を展開した。イラク軍が2016年11月23日にモスルを完全に包囲して、モスルの一部を制圧した。2018年12月19日にアメリカ軍はイスラム国を撃破を宣言して、シリア北部のクルド人地域からの突然の撤退を開始した。