2018年11月16日金曜日

カンボジアのクメール・ルージュによるバチュク村の大量虐殺は、ベトナムとの国境紛争で勃発した。

バチュク村の虐殺は1978年に、カンボジアとベトナムの国境紛争で勃発した。カンボジアの国境から7kmほどに南ベトナムのアンザン省チトン県バチュク村で起きた無差別の虐殺事件である。カンボジアのポルポトが引導するクメール・ルージュ軍は、1978年4月18日から4月30日までの2週間でベトナム住民を大量虐殺した。人口約16,000人のバチュク村のうち、トゥオン山とザイ山の周辺地区に住む民間人約3,157人のほとんどが虐殺された。多くの犠牲者は4月18日に集中して発生した。クメール・ルージュ軍隊が侵入してきた時に、住民たちは寺院と学校に押し込められて虐殺された。森林に逃げて生き残った住民も、掃討されて虐殺された。奇跡的に逃げ延びたのは約2名だけであった。ほとんどの犠牲者は射殺されるか、斬られるか、首を切断されて虐殺された。ほとんどの女性はレイプされ、下腹部に杭を打たれた。子供たちは殺される直前に銃剣で刺殺された。ベトナム軍のカンボジア侵攻の誘引につながった。アンザン省政府は1979年に1,159の白骨が慰霊碑に納められた。ベトナム政府も1980年7月10日にタムブー寺とフィライ寺と墓の建物を憎しみの痕跡と認定した。