2018年11月10日土曜日

沖縄戦にてアメリカ軍は多数の戦傷し重態の海兵隊員らを病院船に運び入れて護送した。

沖縄戦にて、アメリカ軍は多数の戦傷して重篤の海兵隊員らを病院船に運び入れて護送した。アメリカ軍側の死者・行方不明者は20,195人、戦傷者は55,162人、イギリス軍は死者85人で、アメリカ軍の戦闘外傷病者は26,211人であった。沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人で、日本側の負傷者の総数は不明である。
 沖縄戦は1945年3月26日の緒戦から、沖縄本島で行われた主戦は4月2日に勃発して、日本軍が6月23日に壊滅した。アメリカ軍は日本本土に侵略するために、マリアナ基地から航空基地と補給基地の移転であった。日本軍は、大本営が航空機が突撃体当たりする特別攻撃隊により連合国軍に大打撃を与えて、『一撃講和』を狙った。沖縄の軍司令部は想定される本土決戦に対する時間稼ぎの「捨石作戦」の持久戦を覚悟した。太平洋諸島で失敗した水際の防御を避けて、内陸部に誘い込み持久戦に持ち込んだ。首里の北方で最も激戦となった。大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を繰り返して、戦艦「大和」などの日本海軍の残存艦隊による沖縄特攻も行われた。1945年5月末には日本軍の首里司令部は陥落して、日本軍は南部に撤退した。6月23日には司令官らが自決して、組織的戦闘は終結した。連合軍は、その後も掃討戦は続けて、7月2日に沖縄戦終了を宣言して、最終的には戦後の9月7日に沖縄守備軍の降伏調印式が行われた。
  両陣営とも大兵力が投入され、連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官も日本陸軍の攻撃で戦死した。フィリピンや硫黄島の戦いだけでなく、沖縄は太平洋戦争の最激戦地となった。使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。地形が原型を留めない激しい艦砲射撃が行われた。残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続いている。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件発掘された。



2018年11月9日金曜日

第2次チェチェン紛争で2000年2月にロシア軍がアンカラ周辺の村を爆撃して、チェチェン人兵士や住民の死体が散在した。

地獄の第2次チェチェン紛争は1999年秋から勃発した。2000年2月に約4000人のチェチェン人兵士は降伏したグロズヌイから撤退した。アンカラ周辺の村がロシア軍により爆撃を受けて、チェチェン人兵士や住民の死体が散在した。
   チェチェンのイスラム系武装勢力のバサーエフが1999年8月7日にダゲスタン侵攻した。直ちにロシアはダゲスタン解放を名目に介入して、攻撃を加えてバサーエフは撤退した。数日後にはロシアの都市で相次いでアパートの爆破のテロ事件が発生した。ロシア市民がテロの恐怖に怯えると、エリツィン大統領はソ連国家保安委員会(KGB)出身のプーチンを首相に就任させた。就任当初からプーチンは対チェチェン強硬策を進め、ロシア市民の圧倒的な支持を得た。1999年9月23日にロシア軍はチェチェンの首都グロズヌイへの爆撃を開始して、第2次チェチェン紛争が勃発した。
 ロシア軍の侵攻を受けて、マスハドフ大統領とバサーエフも和解し、対ロシア戦闘で共闘して、チェチェン独立派は再び結束した。ロシア側は、12月31日にエリツィンが辞任してプーチンが大統領に任命された。第2次チェチェン紛争により、プーチン大統領の権力委譲がロシア国民に支持された。
 第2次チェチェン紛争は、1999年から2009年までの10年間も続いた。第1次チェチェン紛争と同じく、チェチェン人兵士は正面からの攻撃を避け、山岳地帯でゲリラ戦を展開した。ロシア軍は、チェチェン全土を占領するために徹底的な掃討作戦を実施した。テロリストを逃避したと疑われる村を包囲し、住民を尋問により選別して、テロリストと疑われる者や無差別にも収容所に送還された。家族を取り返すために賄賂がない場合は殺害される場合も多かった。ロシア兵による虐待・婦女暴行・殺害・虐殺も相次いで起こった。
 ロシア側の徹底的な情報封鎖もあり、第2次チェチェン紛争は全体の死者数も不詳で、約20万人以上とも想定された。チェチェン側はロシア本国へのテロ事件で報復を行った。2002年に人質129名が死亡したモスクワ劇場占拠事件が勃発した。第2次チェチェン紛争は2009年に終結宣言が出されたが、チェチェン人のテロ事件は続いて、未だに紛争は終わっていない。最も悲劇なのは一部の人間の搾取と欲望の犠牲となるチェチェン市民の人々であった。



2018年11月8日木曜日

韓国の光州事件で虐殺された若い学生らの死体を、ドイツのシュピーゲル誌は「韓国の血まみれの反乱」を掲載した。

 韓国の朴正煕大統領が1979年10月26日に暗殺されて18年にわたる軍事独裁政権が幕を下ろした。しかし1979年12月12日に軍事クーデターで、全斗煥は政権の実権を握った。軍事政権の復活を警戒する学生らと市民の民主化デモは韓国全土に拡大した。
 1980年5月17日に軍の実権を握っていた全斗煥は、非常戒厳令を全国に拡大した。金大中や金泳三ら有力政治家を拘束した。1980年5月18日に南部の光州市では民主化を求める学生デモはさらに激化した。南部の光州市に空挺部隊が投入され、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出た。5.18記念財団によれば、犠牲者は死者154人、行方不明者70人、負傷者1628人の計4,362人に上った。5月27日には戒厳軍は市内を制圧した。光州市内の電話がこの日まで不通になり、マスコミも情報統制され、光州市内の真相は長く隠蔽された。ドイツのシュピーゲル誌は、光州事件で虐殺された若い学生らの死体を「韓国の血まみれの反乱」と掲載した。
 戒厳令が下された5月18日の全南大学前では、学生と戒厳軍の間に最初の衝突が起きた。戒厳軍は、学生を無慈悲に鎮圧した。戒厳軍は、学生が光州市内に行進した街頭デモ隊と市民に向かって銃剣と鎮圧棒を振り回した。これに激怒した光州市民は5月19日朝から綿南路に集まった。人波はますます増えて、5月20日午後になると数万人にも増えた。デモ隊の規模が大きくなると、戒厳軍は5月21日に市民に向けて一斉射撃を加えて、数多くの死傷者を出した。衝撃と怒りに包まれたデモ隊は、警察署で奪取した武器で武装して、戒厳軍と銃撃戦を繰り広げた。光州市民は自らの秩序維持と治安を担当して、市民収拾委員会を設けて戒厳軍と交渉を行う一方で、市民軍の武器を回収するなど、無政府状態を収拾するために努力した。しかし、戒厳軍は5月27日未明に、光州市に再入して包囲して残って抗争していた市民を電撃的に鎮圧した。
 5・18記念財団は、1995年の国会で、5・18特別法を制定して、事態の責任がある新軍部主要幹部を起訴する法的根拠を用意した。最高裁は1997年に全斗煥・盧泰愚元大統領にそれぞれ無期懲役と懲役17年を宣告して追徴金を課した。

2018年11月7日水曜日

メキシコ市トラテロルコ地区で、政府の軍隊や警察が反政府集会を鎮圧して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。

メキシコシティ・オリンピックの10日前の1968年10月2日にメキシコのメキシコ市でトラテロルコ地区の三文化広場で、学生とさまざまな職業の市民による反政府集会が軍や警察によって鎮圧されて約30人から300人の死者を出した。トラテロルコの虐殺は、エレナ・ポニアトウスカの著作「トラテロルコの夜」により国際的に周知された。「誰がこんなことを命じたのか? こんなことを命じることができたのは誰か? これこそが重罪である。」
 1968年はアメリカ合衆国におけるベトナム反戦デモやフランスのパリの5月革命、日本の大学紛争など、学生デモが頻発した年でもあった。メキシコは高度経済成長の成果を国際的にアピールする初のオリンピックを直前に控えていた。メキシコ政府は「平和の祭典」の準備しながら、治安を乱す恐れのあるデモに反抗した。メキシコ軍により治安維持を名目に大量虐殺が執行された。
 1968年7月にメキシコ国立自治大学に軍隊を侵入させ、無差別に教師や学生を逮捕した。学生側が民主的な要求をするほど、両者間の緊張は高まった。8月27日には医療総合団体が学生側と連帯した。学生たちは市の中心部の大聖堂に「赤と黒の旗」をかかげ大衆にデモ活動を誇示した。8月31日に政府は過激活動を弾圧する声明を公表した。9月13日に学生側は弾圧を避ける「沈黙のデモ」を決行した。このデモは大衆の支持を得て、250,000人もの参加者が静かに街をデモ行進した。膨大な市民の異議に対抗して、政府はより強硬な弾圧によってデモの鎮静化した。1968年10月2日にメキシコ市トラテロルコ地区三文化広場で、政府の軍隊や警察は予告もなく反政府集会に銃撃して、学生や市民らに約30人から300人の死者を出した。1968年にはクーデターによりペルー、パナマに軍事政権が樹立された。ラテンアメリカ及びカリブ核実験核兵器禁止条約は調印した地名からトラテロルコ条約と呼称した。


2018年11月6日火曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の北爆再開で、集合や睡眠中の時間帯の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。

ベトナム戦争にてアメリカ軍による北爆再開により、1972年8月14日に睡眠していた時間帯と集合した建物の空爆により膨大な女性や子供が虐殺された。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍による北爆により無差別に殺傷されたベトナム人女性や子供の犠牲者数は、ジョンソンよりもニクソン政権の方が膨大となった。ベトナム北部の湾口都市であるハイフォンでは、1972年4月16日から約半年間の北爆による殺傷者は約1,500人に達して、女性の約650人と子供の約350人が含まれた。アメリカ軍は、無差別に女性や子供が集合する建物や時間帯に集中爆撃した。北ベトナムの大都市ナムディンでは、1972年4月16日から9月26日までに、約33回にわたり空爆されて、約188人が殺害されて、多くの女性と子供が含まれ犠牲となった。首都ハノイには4月16日から9月30日までに約57回の空爆により、約150人が殺害された。女性は約52人と子供は約39人が含まれ犠牲となった。
 ニクソン大統領は1972年に北ベトナムに講和を迫るために、北爆再開を決定した。空爆で圧倒してホーチミン・ルートを遮断し、アメリカ軍の削減と南ベトナム軍事化して、北ベトナム軍を徹底的に壊滅した。アメリカ空軍は第2次世界大戦の日本空襲以来の本格的な空爆をした。兵士や市民を問わない無差別に集中的な空爆した。約15,000機の爆撃機が約60,000トンの爆弾を投下した。12月18日には、首都ハノイとハイフォン港に、2週間で約20,000トンの爆弾が投下された。ハノイやハイフォン区域は完全に焼滅して、軍事施設だけでなく社会生活資源にも甚大な被害を与えた。中越国境地帯にも大規模な空爆がされて、北ベトナムへの軍事援助が途絶えた。アメリカ軍の空爆により、北ベトナムは甚大なの死傷者を出して大打撃を受けた。北爆再開により、北ベトナム軍は戦闘が困難となり、北ベトナム政府は1973年1月にパリ和平会議に追い込まれた。



2018年11月5日月曜日

アメリカ軍によるマニラの集中砲火が、日本軍のトラックを直撃して全員が吹き飛ばされてが爆死した。

アメリカ軍がマニラ市街に集中砲火して、日本軍のトラックに直撃して乗車した兵士が吹き飛ばされて全員が爆死した。
 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1945年2月4日から日本軍が占領したフィリピンの首都マニラに侵攻して、マラカニアン宮殿を急襲して破壊した。日本軍を南北からの市街戦により、マニラ市街は壊滅的に破壊された。激烈な戦闘がマニラの東部地区から勃発して、2月中旬には日本軍はマニラ湾の周囲にまで撤退した。マニラ市内に取り残された日本軍兵士に2月17日になって全面撤退が指令された。アメリカ軍に取り囲まれた約20,000人の日本軍兵士は、全面撤退する突破口も皆無となり、次第に戦況も悪化して、全滅する玉砕に追い込まれた。アメリカ軍は、発煙弾で地下壕の日本軍を集中砲火した。
 アメリカ軍は、マニラ市内を無差別に砲撃して、2月20日からイントラムロス地区の城内の日本軍を掃討して、城内は壊滅的に破壊されて廃墟になった。ルネタ広場の建物に潜伏した日本軍兵士を個別にビルを撃破した。日本軍は2月26日に死ぬ気のバンザイ突撃で玉砕して、農商務省ビル内の司令部は自決した。財務省に残された日本軍は、3月3日に全滅して、アメリカ軍はマニラの戦闘の終結を宣言した。



2018年11月4日日曜日

ナチス・ドイツ武装親衛隊は、しばしば攻撃の先頭や最も困難な戦況下に置かれて、犠牲となる戦死傷者数は膨大となった。

ナチス・ドイツ軍の東部戦線においても、多数のドイツ武装親衛隊が戦死した。ドイツ武装親衛隊は、しばしば攻撃の先頭に立たされた。さらに最も困難な戦況下に配置された。ドイツ武装親衛隊の戦死傷者数は、ドイツ国防軍に比較しても膨大に拡大した。
 ナチスの突撃隊(SA)が、1921年に勢力拡大をしたナチ党の防衛で組織化された。SAは街頭での闘争や示威行進などで市民に恐怖感を与えた。SAは元陸軍大尉のエルンスト・レームが司令官になった。SAは無制限に隊員の受け入れ、ドイツ国防軍をしのぐ勢力に膨れ上がった。レームはSAがドイツ国防軍に代わる新正規軍を画策した。ドイツ国防軍は職業軍人の集団で、ナチの私的軍事組織SAを危険視していた。ヒトラーはSAを党の統制下に置くため、「長いナイフの夜」の1934年6月30日にヒトラーは、ミュンヘンでレームらSA幹部らを急襲し情け容赦なく処刑した。レーム事件で国民はヒトラーの断固たる措置を崇拝した。 代わって親衛隊(SS)が台頭した。SSははヒトラーの身辺警護を任務で、ハインリッヒ・ヒムラーはレーム事件を主導して実績を上げた。SSは1934年7月20日にSAから独立してヒトラー直属の機関となり、ナチ党の軍事部門の地位を確固した。SSの機能はナチス党の組織防衛の私兵的性格が強く、ドイツ国防軍とは分離した。SSはま保安諜報部SDを設け、党内外の反ナチス的人物の監視と摘発をした。
    西部作戦に向けて1940年4月22日に親衛隊特務部隊は、親衛隊作戦本部の司令で武装親衛隊と改変した。大戦を通じて武装親衛隊は38個師団で約90万の兵力を有した。武装親衛隊は、崩壊の危機にさらされる最前線の火消し役として犠牲者になった。実践戦闘訓練を十分に受けれず戦死者も多かった。 第2次世界大戦では前線に立たされた武装親衛隊は犠牲者が膨大となった。




2018年11月3日土曜日

生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到して手当を受けた。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月6日午前11時2分に投下されて、長崎市内は壊滅した。生存していた膨大な被爆者が、長崎市内から北北西約3.5kmにある長崎本線の道ノ駅に殺到した。直ちに、大村海軍病院から8月9日に第1次救護隊が派遣された。8月10日に第2次救護隊と交代した。重態の被爆者は、大村海軍病院に列車で護送された。8月10日の午後3時頃に、大村海軍病院の第2救護隊が、背部に重度の熱傷を受けた被爆者の背中に、薬液であるチンクオイルを医師と日赤看護婦が塗布した。海軍の甲板上の熱傷で使用していた。その間にも、続々とリヤカーで被爆者が道ノ駅に搬送されて、手当の順番を待ったその間にも、多数の被爆者が道の駅で死亡した。




2018年11月2日金曜日

ナチス・ドイツ親衛隊は、森林の野原でユダヤ人労働班に、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所にて、1944年8月にガス室兼焼却炉(第5クレマトリウム)の前方にある森林の片隅で、ナチス・ドイツ親衛隊は、ユダヤ人の大量虐殺が執行された。森林に囲まれた野原で、ユダヤ人労働班は、裸にされて虐殺されたユダヤ人女性らの死体を焼却させられた。強制収容所内のユダヤ人抵抗グループが、秘密裏に写真を撮影した。
 大量虐殺を撮影された写真は、メモ書きとともに強制収容所の外に持ち出された。それらのメモ書きには、緊急、カメラ用のフィルム・ロールを可及的に早めに補給してくれ。この命をかけて撮影した写真は無駄にしないでほしい。ガス殺害の場面を送る。死体が焼いた薪を積み上げた写真がある。ガス室兼焼却炉では容量不足になり、死体を焼却している。死体を投げ込むために、死体を積み上げた。森の中で、シャーワーを浴びると騙して、衣服を脱がせて、ガス室だけでなく、森林へ向かわせて虐殺した。クラクフにおけるポーランド・ユダヤ人地下活動組織に渡ることを祈る。
  ナチス・ドイツ親衛隊は、アウシュビッツの第1収容所の被収容者増を補強するため1941年10月に、ポーランドのブジェジンカ村に絶滅収容所である第二強制収容所ビルケナウが開所された。総面積は1.75平方kmで、約300以上の施設があった。1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかにロマ・シンティが介在した。ガス室は、農家を改造したガス室が2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があった。撤退時に証拠隠滅により壊滅して破壊された。 1945年1月27日にソ連軍がアウシュビッツ強制収容所を解放した。



2018年11月1日木曜日

ベトナム戦争で射撃を受けたベトナム人夫の側に、妻が児童を抱えて側に近寄り悲しみうなずいた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍は1966年にベトナムのハウギア省の農村部を攻撃した。アメリカ軍は農村部を戦闘した。アメリカ軍兵士は、南ベトナム解放戦線のベトナム人兵士を狙撃した戦果に興奮していた。射撃を受けて重態で倒れた農民であったベトナム人兵士の妻が児童を抱えて、すぐさま側に近寄って来た。瀕死の状態の夫にうなずきながら何か話しかけていた。夫は自分の戦傷の宿命を悟ったように、息苦しさを耐えながら、一生懸命に妻と子供に話しかけた。おそらくベトナム人兵士の夫は死亡した後のベナム戦争中の生活を話し合っていた。妻と児童は悲しみに満ちながら、慟哭するのを抑えて、しきりにうなずきながら夫の声を何度も拝聴した。瀕死の父親を、少し離れたところで子供たちが見守っていた。子供たちは何も言わず、突然に襲われた父親の不幸にじっと耐えていた。
   アメリカ軍兵士は戦傷して重態の夫もさらに尋問するために、板の上に乗せて連行した。妻は子供を抱えながら、連行される夫を追った。ベトナム人妻はアメリカ軍兵士に、何度も一緒に連行してくれと必死に頼むようだ。アメリカ軍兵士は、ベトナム戦争の非情さから妻からの依頼を無視した。残された妻は子供達の手をとり悲しみながら、ふるさとの農村部にとぼとぼと戻った。



2018年10月31日水曜日

ハイチの警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。

ハイチの首都ポルトープランスで、警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。約10,000人にも及ぶ抗議活動者らは、デュヴァリエ親子の独裁政権による犠牲者を追悼した。市民らに対する政権の弾圧は、デュヴァリエ息子が脱国した直後からも再燃した。
 アメリカからの圧力で、1986年1月までに最悪独裁国家のハイチから外国の銀行、投資家、生産者は国外に引き抜かれ操業を停止した。エイズの高い発生率で傷ついた観光産業は廃墟になった。アメリカ国務省はハイチの援助を全面停止して、デュヴァリエ息子に政権の放棄を警告した。首都ポルトープランスで暴動が広がり、企業や工場が閉鎖し、ハイチ経済は低迷した。 「デュヴァリエ野郎!」と叫ぶ抗議活動者は、車を壊し窓を閉鎖して、タイヤを燃やしゴミで道路を塞いだ。デュヴァリエ息子は状況が悪化したために、父親から独裁政権でハイチ人を弾圧した。無秩序と無秩序が状況を悪化した。首都の死体安置所には、抗議中に虐殺された7人の死体があった。警官らは、死体をトラックで運搬して、土中に投げ込み、カルシウムを注入し、薄い土壌で覆った。警察は潮で舞い戻るので死体を海に投げ込まなかった。
 2月6日の木曜日の夜、デュヴァリエ息子はアメリカ大使館に政権の放棄を告げた、空港に向ってアメリカ空軍の貨物機に乗り込み、フランスに亡命して飛び降りた。しかし、デュヴァリエ息子はすでに誰が政権を運営するかを決めていた。脱国する前に、新大統領を選出し政権を引き継ぐ4人の軍人と2人の民間人からなる6人の与党評議会を選んだ。 6人のうち5人は軍事勢力のアンリ・ナンパフィ大佐を含む長年のデュヴァリエ政権支持者であった。


2018年10月30日火曜日

ソ連軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人夫は妻と娘が撲殺された死体の側で路地に座り込み悲嘆した。

ソビエト連邦軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人の妻と娘が撲殺された。その死体の側で、ユダヤ人の夫は路地に座り込み、悲しみに暮れて慟哭した。
 連合軍がノルマンディーに上陸した1944年6月6日には、ソ連の赤軍がハンガリーの首都であるブタベストに約数100kmに迫った。その頃に後方の支援を受けて、ドイツ親衛隊の虐殺者たちは、わずか12週間でハンガリー・ユダヤ人約43万5,000人を強制連行した。列車を毎日操業して、1日あたり約14,000人にものぼるハンガリー・ユダヤ人が強制連行された。
 1944年7月7日には強制連行されたハンガリー・ユダヤ人はすぐに虐殺された。それに報復するために、7月2日に連合国のアメリカ軍はブタペストに空爆した。それに逆ってナチス・ドイツ軍は7月14日にユダヤ人評議会を拘束して、さらに約1,500人も連行して輸送した。
 強制連行されたハンガリー・ユダヤ人は途中の中継もなく、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室に直送され虐殺された。焼却場による膨大な死体処理は困難となり、ガス虐殺された死体を集積して、戸外の穴で焼却した。強制収容所の周囲は炭化した死体の悪臭で満ち溢れた。
 1944年10月14日にハンガリーのファシストである矢十字党がクーデターを起こして、元首ホルティ・ミクローシュは失脚した。テロリズムは最後の瞬間まで続き、ソ連軍がブタペストまで約100Kmに迫った11月6日に、ハンガリー・ユダヤ人約40,000人は徒歩でオーストリア国境まで連行された。その行軍の途中で数千人のユダヤ人が絶命した。


https://drive.google.com/file/d/1H6FYqi_MgRpO239VeDrvCzp8VGOgyqdR/view?usp=sharing

2018年10月29日月曜日

モロッコは植民地である 西サハラの独立活動家を、劣悪な監獄に押し込め悲惨な暴行と尋問で虐待と虐殺した。

西サハラの独立活動家の多数を、劣悪なモロッコの監獄に押し込められて、モロッコ占領当局から、悲惨な暴行と尋問を受けて瀕死の状態となった。
 アフリカ大陸で、未だに最後の植民地として西サハラはモロッコに占領され続けている。北をモロッコに国境を接して、西サハラの有用な国土の約80%を、地雷防御である砂の壁でモロッコに占領支配されている。残り20%の不毛な砂漠地帯を、アルジェリアのティドフに西サハラ難民政府が関与している。
 1884年にスペインはボハドール岬からブラン岬までの海岸を植民地とした。1958年にスペインは地域を併合してスペイン領サハラとした。1975年の11月に非武装のモロッコ人の約30万人が、タルファヤに集結して、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入する緑の行進が勃発した。遂にスペインは1975年11月14日に西サハラを手放した。
 モロッコは1976年から西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコはモーリタニア共和国の撤退後1979年に領有地を占領した。1976年2月27日からポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国を建国宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立した。モロッコに対してゲリラ戦を開始した西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。停戦の合意であったモロッコからの独立か併合かを選択する住民投票は未実施で、西サハラはモロッコの植民地である。
 モロッコによる被占領民が、2010年10月10日から約2万人が、蜂起キャンプの抗議活動を起こした。11月8日に、モロッコ軍は非武装の蜂起キャンプを襲撃して、無差別に虐殺した。連行された被占領民には、暴行と拷問による虐待を受けた。国連や国際社会が蜂起キャンプの虐待と虐殺を非難するも、逆にモロッコは西サハラを戒厳令下で占領した。

https://drive.google.com/file/d/1ZjHp5Am6lqiF31HE8tLZSkavKjSyyU2n/view?usp=sharing

2018年10月28日日曜日

ソマリア人群衆は激怒してアメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。

 1990年代初め、ソマリアは一族戦争により荒廃した。飢饉が広がった。アメリカ主導の多国籍軍は供給ラインを回復したが、その存在が新たな緊張を生じた。1993年7月、4人のジャーナリストが怒っている暴徒によって殴られて虐殺された。ほとんどのヨーロッパのジャーナリストは逃げた。
  ソマリアの武装勢力が1993年9月下旬にアメリカ軍のヘリコプターを撃墜したとき、数人のジャーナリストが同乗していた。 目撃者によると、アメリカ軍兵士の死体の一部は袋に入れて展示された。アメリカ国防省は、アメリカ人の死体の一部が、ソマリアのモガディシュ通りを通り過ぎて見せしめになったことを平然に否定した。
  アメリカ軍部隊は1993年10月3日に、ソマリアの武装勢力であるモハメド・ファラ・アイディドと激しい戦闘に従軍していた。その結末に、ソマリアの武装勢力は一人のアメリカ軍兵士を抑留した。ソマリア人の暴徒は、アメリカ軍兵士の死体を引っ張って、群衆の暴徒が脅威となった。
  ソマリア人の群衆は激怒して、アメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。ソマリア人の群衆は恐怖に敏感に反応した。アメリカ軍は1994年3月にソマリアから完全撤退した。
    1988年にソマリア内戦が勃発した。1969年のクーデターからバーレ軍政権を1991年 1月に排除して、アリ・マフディ・ムハンマドが暫定大統領に就任した。1991年5月に反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧した。USCの内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派が、アリ・マフディ暫定大統領派と対立した。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂した。1991年6月に北部の旧英国領地域が「ソマリランド共和国」として独立宣言した。
    1991年 アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。1992年6月にアイディード将軍がいくつかの軍閥を統合してソマリ国民同盟(SNA)を結成した。1992年12月にクリントン大統領が派遣するアメリカ軍を主体にして、国連は多国籍軍によるPKO部隊を派遣した。1993年5月に武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を展開した。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告した。1993年10月にモガディシュの戦闘が勃発した。1993年にアメリカ合衆国は、ソマリアから撤兵した。


https://drive.google.com/file/d/1JbTTdOsltBUtLner6w5ZXENaLdYAdOt5/view?usp=sharing

2018年10月27日土曜日

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。
 日中戦争にて、中国国民政府軍は1937年8月13日から10月36日までの第2次上海事変に敗退により、中国から南京の郊外に撤退して防衛を図った。中国国民政府は、中国軍の13個師の約11万人の中国人兵士を、南京の防衛のために終結させた。日本軍は、1937年12月8日に南京の郊外に接近した。中国国民政府は、日本軍と軍事衝突が勃発するも、中国軍の形勢が不利となった。中国国民政府は敗北する前に、12月12日夕刻には南京放棄を内定して、南京に中国国民軍を放置して揚子江北岸に遁走した。
 しかし、置き去りにされた南京防衛軍の大部分の中国人兵士らは、日本軍の南京の包囲網から敗退することが困難となった。そのために、突破を放棄した中国人兵士は、武器と軍服を捨てて、南京の国際安全区の周辺などに潜伏した。12月13日に日本軍は、南京城南の入り口の中華門を突破して南京市内に突入して、日本軍は南京を侵略して占領した後には、中国防衛軍は無力となっていた。日本軍は南京を占領した後に、潜伏した敗残兵を掃討する名目により、約6週間にわたり、民間市民も含めて大量の虐待と量の虐殺が執行された。日本軍は、無差別に膨大な人数の南京市民を取り調べては、青年や軍人らを容疑者として無差別に虐殺した。多数の青年や軍人の容疑者を捜査して逮捕して、南京郊外に連行して大規模に集団虐殺した。


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