2024年10月7日月曜日

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。トラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。この後にトラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。推定で約120万人のルワンダ難民が、自国での内戦勃発後に、ザイール共和国へ避難した。ザイール共和国のキブンバ難民キャンプはゴマから北へ40分ほど、ルワンダとの国境に近く、ルワンダ難民キャンプの廃墟の上に建てられた。約10kmほど離れたルガレや約40kmほど離れたトンゴから難民が集まった。ギブンバ難民キャンプは、難民自身によって運営され、国連やNGOが難民委員会と協定を結び、難民キャンプ内でサービスを提供した。

 ルワンダ共和国にて、16世紀から少数部族のツチ族と多数部族のフツ族が対立した。1990年には、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)で内戦が勃発した。1993年8月に停戦合意したが、1994年4月に、ハビヤリマナ大統領の搭乗機が撃墜されて、内戦が再発して激化した。内戦で発生した大量の難民が、ザイール、タンザニア、ウガンダに流入した。1994年7月にルワンダ新政権が樹立されて、特にザイール共和国のゴマとブカブ地区を中心に約140万人を超えるルワンダ難民が流入した。その結果、ゴマとブカブ地区の難民キャンプは、コレラ、赤痢等が伝染病が流行して、一時は1日に約2,000人近い多数の死者が発生して、悲惨な危機的状況に陥った。

 約80万人を虐殺した側のフツ族側は、ルワンダで敗北したした事実を深く刻んだまま大量の難民が、コンゴ共和国に敗北の中に避難した。ルワンダ共和国内で政権を奪取した勝者のツチ族(RPF)は、殺害された側はフツ族を追及した。フツ族の殺人者たちを求めて深くコンゴ領内へと侵入した。敗者となったフツ族は、追われた祖国のルワンダへの帰還を信じて、コンゴ領内にできた難民キャンプからルワンダへの越境攻撃を仕掛けた。ルワンダ虐殺が1994年から1999年にかけてコンゴ戦争に変貌した。




2024年10月6日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)の中等度の損壊を1946年12月6日に撮影した。

                              非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-273263































SC-273263

487

FEC-47-70154

6 DECEMBER 1946

WRECKAGE AT THE COMMERCIAL SCHOOL IN NAGASAKI.

PHOTOGRAPHER: DR. PS. HENSHAW

Atomic Bomb DESTRUCTION DAMAGE 

RELEASED FOR PUBLICATION,BUREAU OF PUBLIC RELATIONS, WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps US. ARMY

14468


SC-273263
487
FEC-47-70154
1946年12月6日
長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)は中等度に損壊した。
写真家: PS.ヘンショウ博士
原子爆弾による破壊の被害
ワシントン、戦争省報道局、公開用にリリース
写真: 米国陸軍通信隊
14468

追記: 校舎は中破程度の損壊に止まり、被爆者の救護所に充てられた。1945年9月以降は爆心地近くで壊滅的打撃を受けた長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の臨時本部がここに移転された。10月には新興善国民学校に移転された。

2024年10月5日土曜日

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死傷者が出て、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で慟哭して嘆き悲しんだ。

イスラエル軍がレバノン南部のエイン・デルブを2024年9月末に空爆した。その週末に多数の死者が出たことを受け、女性が2024年10月1日に開かれた集団葬儀で嘆き悲しんだ。レバノン省庁は、9月29日のイスラエルに軍よるアインデレブ攻撃により、死者数が45人に達したと公表した。

 イスラエル軍は2024年10月1日から、国境を越えてレバノン南部に侵攻して、イランに支援されたイスラムシーア派過激派組織ヒズボラに対する地上攻撃を行った。ヒズボラ軍をイスラエル国境から遠ざけることを目的とした。まず、イスラエル国防軍は、レバノン南部のヒズボラ・テロリストの標的とインフラに対する地上空襲を開始した。イランの支援を受けたレバノンの民兵組織で政党であるヒズボラは、2023年10月7日のテロ攻撃以来にイスラエルと戦争状態にあるハマスを支援するため、10月8日にイスラエルへの発砲を開始した。

 イスラエルとレバノンの紛争の歴史は、1978年3月11日に、リタニ作戦でイスラエル軍は、テルアビブ近郊の民間バスを襲撃して35人を殺害、71人を負傷させたパレスチナ解放機構(PLO)の過激派を追ってレバノンに突入した。イスラエル軍兵士はレバノン南部でおよそ1週間を費やし、PLOをレバノンのリタニ川の北に追い出した。1982年に、イスラエル軍はレバノン南部に侵攻し、レバノンを拠点とするPLOを再び追い出した。戦争で派生したヒズボラは1997年以来、アメリカが指定したテロリストで、イランから資金援助を受け、イランの最高指導者ハメネイ師に忠誠を誓った。シーア派民兵組織は1980年代初頭にイスラエル軍に抵抗する目的で結成された。イスラエルは2000年にレバノン南部から撤退して、ヒズボラは人気を博した。2006年8月、両国の間で1ヶ月に及ぶ戦争が行われ、空爆と地上攻撃の両方が勃発した。34日間の紛争で、レバノンでは約1,200人、イスラエルでは43人が死亡した。その後17年間、両国はは国連安全保障理事会決議1701に従い、国境線での敵対行為を最小限に抑えた。















Warning: A woman mourns during a funeral Tuesday for people killed over the weekend in Israeli strikes on Ain Deleb in southern Lebanon. (Amr Abdallah Dalsh / Reuters)

2024年10月4日金曜日

ソ連軍兵士らや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街の白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。

ソ連軍兵士たちや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街角での白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。この都市は、1944年6月28日にI.D.チェルニアホフスキー少将が率いる第2白ロシア戦線によって解放された。ドイツ軍の第4軍の一部である第39軍団が防御するモギリョフ市は、ソ連軍の大規模な夏季攻勢である「バグラチオン作戦」によって圧倒された。ドイツ軍の中央軍集団は、この作戦で30個師団以上を失い、第二次世界大戦におけるドイツ軍最大の敗北となった。

 モギレフは、ひどく破壊され、すべてが死滅した。主要な通りにはドイツ軍兵士の死体が溢れた。パニックに陥ったドイツ軍兵士たちは、目の前を通り過ぎて後退した。救急車から、ドイツ軍の負傷者の叫び声やうめき声が発した。道路沿いの都市の廃墟で、道路に死体が散乱して、踏みつけられ、絶望的な叫び声が聞こえた。ヒトラーはモギレフを最後の一人まで守り抜くよう命じていた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ソ連赤軍のモギレフ攻勢はベラルーシ戦略攻勢の一環であり、バグラチオン作戦と呼称された。ベラルーシのモギレフの都市を占領して、ドイツ第4軍の大部分を圧倒した。モギレフ攻勢は6月23日朝に、ソ連赤軍によるドイツ軍の防衛線に対する激しい砲撃で勃発した。バグラチオン作戦は、1944年にソ連のベラルーシ戦略攻勢作戦のコードネームである。1944年6月22日から8月19日にかけて勃発した。第二次世界大戦の東部戦線のバグラチオン作戦が、西部戦線のノルマンディ上陸作戦から2週間余り後に、ドイツ軍は開戦以来初めて2つの主要戦線を同時に遭遇した。ソ連赤軍はドイツ陸軍集団中央の34個師団のうち28個師団を破壊して、ドイツ軍の前線を完全に粉砕した。全体的な交戦はドイツ軍史上最大の敗北であり、約45万人のドイツ軍死傷者を出した。一方、他の30万のドイツ軍兵はクールランド・ポケットで断絶した。

 1944年6月22日、ソ連赤軍はベラルーシのドイツ陸軍集団中央を攻撃し、その主要構成軍を包囲して破壊して、6月28日までに、ドイツ軍の第4軍は、第3パンツァーと第9軍の大部分とともに崩壊した。ソ連赤軍はドイツ軍前線の崩壊から、ミンスク近辺のドイツ軍陣形をミンスク攻勢で包囲して、ミンスクは7月4日に解放された。ベラルーシにおけるドイツ軍の有効な抵抗が終結して、ソ連赤軍の攻勢は7月から8月にかけてリトアニア、ポーランド、ルーマニアへと続いた。




2024年10月3日木曜日

ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。

アフリカのローデシア戦争におけるテロリストの標的の一つは、白人が所有する農園で働くアフリカ人労働者であった。アフリカ人労働者は裏切り者とみなされて、1976年にはモザンビーク国境近くの紅茶農園で、27人の労働者が一斉に捕らえられて、銃殺された。アフリカ人労働者の家族らは恐怖に震えて見詰めた。ローデシアのソールズベリーにて、モザンビークとの国境に近いイニャンガ山脈で活動する民族主義ゲリラは、27人の茶園労働者を1976年12月19日遅くに一網打尽に銃殺した。無残にも銃殺された27人の妻や家族は、親族の亡骸を見詰めた。ローデシア治安部隊によると、民族主義ゲリラが茶園労働者を別の茶園に連れて行って、そこで殺害した。

 ローデシア・ブッシュ戦争(Rhodesian Bush War)は、1964年7月から1979年12月にかけて、国連の未承認国であるローデシアで起こった内戦である。この内戦では3つの勢力が対立する紛争が勃発した。イアン・スミスが率いるローデシア政府軍、ロバート・ムガベ率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟の軍部であるジンバブエ・アフリカ民族解放軍、ジョシュア・ンコモのジンバブエ・アフリカ人民連合のジンバブエ人民革命軍と、3つの勢力が互いに対立して紛争した。この内戦とそれに続く1978年にスミスとムゾレワが調印した内部和解により、1979年6月に普通選挙が実施されて、ローデシアにおける少数派の白人支配は終わりを告げた。黒人多数派政府の下でジンバブエ・ローデシアと改名された。しかし、この新秩序は国際的な承認を得ることができず、内戦は継続した。

 1979年12月、ジンバブエ・ローデシア政府、イギリス政府、ムガベとンコモの統一「愛国戦線」の交渉がロンドンのランカスター・ハウスで行われ、ランカスター・ハウス協定が調印された。一時的にイギリスの支配下に戻り、1980年3月にイギリスと英連邦の監督の下で新たな選挙が行われた。この選挙でジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANU)が勝利し、ムガベは1980年4月18日にジンバブエの初代首相となり、国際的に承認され独立を達成した。ローデシア政府の統計によると、1964年から1982年の間に、ローデシア軍兵士2,000人以上、ゲリラ15,000人以上、黒人市民10,590人、白人市民1,247人を含む、合計20,000人から30,000人が殺害された。




2024年10月2日水曜日

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るして公開した。共産党ゲリラの死体の周りに無言の群衆が集まっていた。

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るす準備をした。保安隊はゲリラのリーダーであった丁西山の首を切り落として、城壁に吊るして公開した。丁西山など共産党ゲリラの死体の周りには無言の群衆が集まっていた。共産ゲリラ部隊の一部が捕らえられて銃殺されて、死体が上海の城壁の外の川の浜辺に公開された。国民党による中国共産党員の処刑を撮影した写真である。

 1948年2月13日に中国人民解放軍は、蘇州・浙江国境地帯のゲリラ隊長の丁西山が60人以上のゲリラを率いて南下した。上海市奉賢県前橋の胡佳ドックに到達した時に、裏切り者の密告により国民党軍に包囲された。丁西山大尉が率いる共産党率いるゲリラ部隊は、上海の松江県庁所在地への武力攻撃に失敗した。ゲリラは捕らえられて、主要メンバーは松江駐屯の保安隊によって死刑で殺害された。リーダーの丁西山は公衆の面前で斬首されて、頭部は城壁に吊るされて公開された。上海解放後に、丁西山の遺骨は上海龍華烈士墓地に埋葬された。

 1927年に、中国国民党の蒋介石は党内掃討の名目でクーデターを起こして、共産党員を追い詰めて殺害し始めた。1940年7月15日には日本軍の傀儡の王景偉政権がクーデターを起こし、共産党との協力体制は完全に崩壊して、両者の長い内戦が始まった。1945年の日本軍に対する抵抗戦争終結後に、中国共産党と再び内戦状態に陥った。相互の敵対期間中に、国民党は何度も中国共産党員を逮捕し、公開処刑して殺害した。中国内戦の中国共産党革命で国民党に勝利した中国人民共和国の毛沢東は1949年10月1日、正式に中華人民共和国を宣言した。




2024年10月1日火曜日

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は通常に、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。ドイツ軍は、ソ連軍がピャチゴルスクに接近した時に、ドイツ軍はドイツに避難させるという口実で捕虜にした数百人のソ連軍兵士や指揮官、民間人を街の外に連れ出して、機関銃で射殺した。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年8月9日にドイツ軍は、ロシア南部の北コーカサス地方に位置するピャチゴルスクを占領した。アインザッツグルッペ Dの本部は1942年にピャチゴルスクにあった。ドイツ軍の占領はこの地域の多くのユダヤ人住民の殺害をもたらした。1943年1月11日にソ連軍が、ピャチゴルスクを解放した。

 1942年8月9日、ドイツ軍の第一パンツァー軍は2週間足らずで480km以上侵攻して、コーカサス山脈のふもとのマイコップに到達した。マイコップ近郊の西部油田は8月8日から9日にかけてのコマンド作戦で占領された。ソ連赤軍は、油田を十分に破壊して、修復には約1年を要した。その直後の8月9日に、ピャチゴルスクが占領された。8月12日にはクラスノダールが占領され、ドイツ軍の山岳部隊がコーカサスの最高峰エルブルス山にナチスの旗を掲げた。

 1942年7月末に、ドイツ軍の夏の攻勢の間に、第3軍がドン河下流から南、南東へと侵攻した。第1パンツァー軍がロストフ南方のマイコップまで侵攻する一方で、第4軍と第17軍はピャチゴルスクまで侵攻して、コーカサスまで達した。1942年12月の時点で、ドイツ軍は征服された領土と通行不可能な山岳地帯から撤退した。約13万人のドイツ軍兵と約34万人以上のソ連軍兵士とソ連市民が、恐ろしい攻撃の犠牲になった。行方不明の兵士の多くは、コーカサス山脈での行軍や戦闘で戦死した。




2024年9月30日月曜日

1956年のハンガリー革命の蜂起の際に、首都ブダペストでハンガリー共産主義の秘密警察(ÁVH)のメンバーが、ハンガリーの反乱軍により略式処刑により射殺された。

1956年のハンガリー革命の蜂起の際に、首都ブダペストでハンガリー共産主義の秘密警察(ÁVH)のメンバーが、ハンガリーの反乱軍により略式処刑により射殺された。ÁVHの秘密警察官たちは、身を守るために両手を挙げていた。がれきが並ぶ歩道には治安警察官の死体と重体が散乱していた。 

 ハンガリーの国家保護局は、"アボス "と呼ばれるハンガリーの政治警察(ÁVH: Allamvelmi Hatosag)を1945年から1956年まで創設された。1945年から1952年の間、多くの残酷さ、残忍さ、多くの政治的粛清を執行した。1956年のハンガリー革命の間に、反乱軍の一団は、容疑されるÁVHの将校や情報提供者を追跡して、殺害した。革命が始まると、数千人の群衆がブダペストの警察本部を襲撃して、共産主義の象徴である建物の屋根の上に立ってスローガンを叫んだ。 警察署長は自身と警官の命を恐れ、群衆を建物の中に入れ、彼らが望む政治犯を連行することを許可した。

 1956年10月23日に首都ブタペストでの学生運動から勃発したハンガリー革命は、1956年10月29日にドゥダシュ民兵がブダペストの秘密警察本部を攻撃し、内部のAVHを虐殺した。ハンガリー市民は革命的な民兵組織を組織し、ÁVHと戦い、地元のハンガリー共産主義指導者やÁVHの警官は捕らえて、即座に処刑した。戦闘は苛烈で容赦がなく、包囲されて、弾薬も尽きたÁVH隊員が降伏しても、反乱軍に撃ち殺された。ÁVH将校の死体が木に逆さ吊りにされ、群衆に唾を吐きかけられ、何度も殴られた。

 ソ連軍は1956年11月4日にハンガリーに侵攻してハンガリー革命を弾圧し、11月10日にソ連が勝利するまでハンガリー革命派と戦った。逮捕された26,000人がハンガリーの法廷に引き出され、22,000人が判決を受け投獄され、13,000人が抑留され、229人が処刑された。ハンガリー蜂起の弾圧により2500人のハンガリー人と700人のソ連軍兵士が死亡し、約20万人のハンガリー人が政治的避難を余儀なくされた。




2024年9月29日日曜日

原爆傷害調査委員会のメンバー(A.バウズ博士、J.ニール、MC1等陸尉)と都築正男博士(東京大学)が、夜間に使用した第406衛生研究所の特別実験室の鉄道車両トレイである。

                     非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-273230































SC-273230

487  SC-47-70153

6. DECEMBER 1946

THE 406TH MEDICAL LABORATORY'S SPECIAL LABORATORY RAILROAD CAR TRAY, SHOWN IN USE AT NIGHT BY MEMBERS OF THE ATOMIC BOMB, CASUALTY COMMISSION (DR. A. BAUES, J. NEEL, 1ST LT. MC) AND DR. M. TSUZUKI, DECEMBER. 1946.

PHOTOGRAPHER DR. HENSHAW

Laboratories

RELEASED FOR PUBLICATION

BUREAU OF PUBLIC RELATIONS WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps. U.S. Army 

14468



SC-273230  

487 SC-47-70153

1946年12月6日

原爆傷害調査委員会のメンバー(A.バウズ博士、J.ニール、MC1等陸尉)と都築正男博士(東京大学)が、夜間に使用した第406衛生研究所の特別実験室の鉄道車両トレイである。

1946年12月。

写真家: ヘンショー博士

研究所

出版物: ワシントンの陸軍省広報局

アメリカ陸軍通信兵団撮影 アメリカ陸軍 

14468

2024年9月28日土曜日

2024年2月20日にドネツク州トルディフスク地域のロシア軍訓練場が攻撃された。戦闘員の編成が行われ、ロシア軍の大将を待機していた。ウクライナ軍は、クラスター弾を使用して65人のロシア軍兵士が死亡した。 

ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシアの情報筋は、2024年2月20日にドネツク州トルディフスク地域のロシア軍訓練場が攻撃された。トルディフスクでは、訓練場の一つで戦闘員の編成が行われ、彼らはロシア軍の大将を待機していた。ウクライナ軍は、クラスター弾を使用して、その結果65人のロシア軍兵士が死亡した。 

 ロシアの連隊や旅団は、白昼堂々と、ウクライナに対するロシアの2年間にわたる大規模な戦争の最前線からわずか10マイルか20マイル離れた場所に部隊を集結させる悪い癖がある。 訓練のためか、高官の視察のためか。ウクライナのアメリカ製M30/31ロケットの射程圏内である10マイルや20マイルは、車輪付き高機動砲ロケット・システムの主要弾薬である。だから、2024年2月20日からの2日間に2度もウクライナ側がドローンでこれらの集会を発見し、砲撃したことは驚くべきことではない。 多くのロシア人が死亡したと報じられている。

 最初の攻撃は2月20日に、ウクライナ東部のトルディフスクにあるロシア軍第39別働隊自動車ライフル旅団の兵士を標的にした。歩兵の2個中隊は、指揮官のG・ムサエフ大佐とともに、第29複合武器軍司令官のオレグ・ルボヴィッチ・モイセーエフ空軍大将が演説できるように整列していた。モイセーエフ大将が移動中にウクライナの無人偵察機が頭上に到着して、HIMARSを発砲したと伝えられた。前線は西へわずか約32kmのヴフレダル周辺にあった。HIMARSは、1発に18万2000個のタングステン球が詰まったGPS誘導のM30/31ロケット弾を、91.7km先まで飛ばせた。生存者が撮影したビデオや写真には、ロシア軍兵士の死体の山が写っていた。 モイセーエフ大将含む65人のロシア軍兵士が死亡したと報告されている。生存者の一人が、「クソ司令官どもめが、野原にロシア軍兵士を並ばせ、野原に死体が散乱した。」と戦場の惨状を記録しながら呟いた。ロシア軍はドネツク地方で整列していたロシア歩兵部隊へのウクライナ軍の攻撃について報告した。2月21日に、同様の攻撃がヘルソン地方のオレシキ森林地帯で発生した。


















Warning: The aftermath of the Trudivs'ke raid.(Via social media) Harrowing footage taken by horrified survivors shows how dozens of bodies were left strewn across a pockmarked, charred field in the aftermath of the strike, At least 65 Russian soldiers standing in formation were killed.

2024年9月27日金曜日

1945年3月10日に、アメリカ軍の空襲により火災で死亡した一般市民の膨大な黒焦げの焼死体が、浅草の花川戸の道路上や避難所や壕の中に取り残された。

1945年3月10日に、アメリカ軍の空襲により火災で死亡した一般市民の膨大な黒焦げの焼死体が、浅草の花川戸の道路上や避難所や壕の中に取り残された。

 約6,019kmの航続距離がのB-29爆撃機が、日本軍の防御が弱い高度約9km以上の高空から東京空襲した。サイパン島とテニアン島に飛行場からB-29が日本への爆撃が可能となった。爆撃範囲を広げ、被害を拡大する爆撃機が約1,400~2,400mを飛行し、焼夷弾を投下して木造・紙造りの建物を燃やした。暗闇の至る所で、夜空高く炎を掲げ、地に舞い降りる閃光が走った。爆撃開始から15分後に、火の手が日本の木造都市の密集地帯を炎上した。

 東京の住民たちは、爆弾が投下されても留まり、各家庭が防御する命令に従った。火風が吹き荒れる中、数千発の爆弾が降り注いだ。ナパーム弾は、爆弾が落下する中、円筒形まき散らし、屋根を伝って落ち、すべて燃やし、踊る炎の波を拡大した。人々を倒し、触れたものを燃やしていった。悲鳴を上げる家族が逃げ出すも、すでに手遅れだった。

 煙が濃く立ち込め、風が熱風が肺を焼く中、もがき苦しみ、炎に包まれ、焼死した。荷物を抱えた避難民は、交差点や庭、公園など数少ない空地に集合した。荷物は衣類よりも早く燃え上がり、群衆は内側から炎に包まれた。数百人が脱出を諦め、避難の穴の中で焼け焦げて、死体は空襲後に発見された。家屋は頭上で崩れ落ちて燃え上がり、穴の中で焼死した。河川では、水の中に身を投げた。風と火は、至る所で巨大な白熱渦が、渦を巻いて、家屋全体を火の渦に吸い込んだ。溺死ではなく、燃える空気と煙で窒息死した。河川は隅田川に直接流れ込んで、潮位が上昇して、身を寄せ合って溺れ死んだ。浅草や本所では、橋から川に落ちて流れた。隅田川の両岸に並ぶ公園や庭園には数千人が押し寄せた。

 東京の狭い土地に押し寄せて、壁が崩れ落ち、深い水中に消えた。隅田川の河口から数千人の溺死体が回収された。第二次世界大戦で最大の被害をもたらしたこの空襲では、330機のB-29爆撃機が東京に焼夷弾を投下し、火災が発生して、10万人以上が死亡し、市街地の4分の1が焼け野原となり、100万人が家を失った。戦略爆撃調査団は、空襲による死者は8万7793人、負傷者は4万918人、家を失った人は100万8005人に上ると推定した。死者数は男女や子供を含め10万人以上と推定し、負傷者は100万人、家を失った人は100万人に上ると述べた。東京消防庁は死者9万7000人、負傷者12万5000人と推定した。東京警察は死者と負傷者を合わせて12万4711人、建物と家屋の損壊は28万6358棟と発表した。




2024年9月26日木曜日

朝鮮半島の慶尚北道の安東地方の検察庁前の掲示板に、みせしめの首を切断された義兵の写真と義兵に対する懸賞金が掲示された。警察分遣所に、義兵の「指名手配」写真と罪名を書いた指名手配者名簿を掲げた。

朝鮮半島の慶尚北道の安東地方の検察庁前の掲示板に、みせしめの首を切断された義兵の写真と義兵に対する懸賞金が掲示された。警察分遣所に、義兵の「指名手配」写真と罪名を書いた指名手配者名簿を掲げた。義兵は、正義の兵士または義のために立ち上がった兵士を示唆した。

 1910年8月29日に韓国併合条約が発効されて、日本は景福宮に日章旗を掲げ、朝鮮半島の日韓併合による国権奪取を象徴した。義兵は、自発的に痛ましい朝鮮民族の苦難を阻止して、滅びゆく朝鮮国に身を捧げた。第1次抗日義兵は、1895年の乙未事変で、日本軍が景福宮に侵入して明成皇后を暗殺した直後に、魏正斥邪派の柳仁錫の指揮下で全国の義兵抗争が1896年まで勃発した。1894年高宗の甲午改革後に、金弘集の親日内閣が発足すると、義兵が発足した。

 第2次抗日義兵は、1905年の乙巳保護条約後に、元參判閔宗植の指揮の下、江原道洪川で1906年3月16日に義兵は起兵した。日本軍と警察に対する義兵闘争を皮切りに全国で野火のように義兵抗争が展開された。京釜線鉄道が開通した2日後の1905年1月3日に、日本軍は鉄道破壊陰謀という濡れ衣を着せ、義兵を公開処刑した。1906年5月に、全国的に広がった義兵闘争を鎮圧するために、日本軍は全国12ヵ所に警務分遣所を設置した。日本軍と警察は、朝鮮半島各地で義兵を捕まえると、裁判もなく、無差別に現場で首を吊って公開処刑を行った。 

 義兵の下層部の一般義兵は、同族、洞契の遊生、家奴、農地で結ばれた農民、同じ村や近隣の村民が一般義兵を構成した。敗残兵と官軍兵士、避難民の浮浪者が加わった。官軍に所属する義兵は戦場を転戦して、一般義兵は郷里の防衛にとどまった。郷土防衛を主な目的として、居住地を中心にその周辺地域で活動した。装備の普及も官軍に比べて劣化した。民間人の義兵に武器を与えて暴徒化すると手に負えないので、武器の補給はさらに困難であった。




2024年9月25日水曜日

1918年4月15日、フランスのラーン近郊にて、塹壕内のアメリカ軍塀しの2人の戦死した死体が散乱した。アメリカ軍の伝令部隊は、電話回線が切断されたため、伝書鳩を使ってメッセージを送信した。

1918年4月15日、フランスのラーン近郊にて、塹壕内のアメリカ軍塀しの2人の戦死した死体が散乱した。アメリカ軍の伝令部隊は、電話回線が切断されたため、伝書鳩を使ってメッセージを送信した。第一次世界大戦の前線の塹壕で、ドイツ軍の砲弾により破壊された電話により、アメリカ軍の信号員は電話線が破れて、伝書鳩によりメッセージが送信それた。塹壕と有刺鉄線の防衛により地上軍と電話・電信網を破壊され、伝書鳩を妨げた爆撃の暴力性と持続性でも、他の伝書鳩を犠牲にして、伝書鳩の伝達手段が選択された。

 伝書鳩は武力紛争に利用された。1870から71年の普仏戦争後に、ヨーロッパの軍隊が伝書鳩部隊を創設した。第一次世界大戦中の伝書鳩の死傷・行方不明率は5%を超えないと推定された。第一次世界戦争末期までに、数千羽の鳩舎が西部戦線で活用された。アメリカ軍は2万羽、イタリア軍は5万羽、フランス軍は6万羽、ドイツ軍は15万羽もいた。戦争中の任務中に死んだ鳩はわずか5%程度だった。フランス軍はも、ベルダンの戦いで伝達したハトを死後に、表彰した。

 1870年9月に、普仏戦争のパリ包囲戦で、推定800羽の伝書鳩が40,000通以上のメッセージを送信した。1896年3月26日に、フランスの海運会社が、初めてハトを海を渡らせた。蒸気船から80羽のハトを3羽ずつ放した。1912年にハーネスで鳥に小型カメラが装着され、カメラマンに活用された。1917年2月~3月に、ドイツ軍が前線との連絡に伝書鳩を使い、ヒンデンブルク戦線に後退した。1918年10月4日に 伝書鳩のシェール・アミが194人のフランス軍兵士の命を救った。鳩は英雄的な功績により、フランスのクロワ・ドゥ・ゲール勲章とパルムを授与された。




2024年9月24日火曜日

ユーゴスラビアを侵略したドイツ軍は、国防軍に発砲したパルチザン への報復として、1942年4月にパンチェボ市でセルビア人市民36人を殺害し、絞首刑に処した。

ユーゴスラビアを侵略したドイツ軍は、国防軍に発砲したパルチザン への報復として、パンチェボ市でセルビア人市民36人を殺害し、絞首刑に処した。パンチェヴォの処刑は、セルビア人民間人36人をパンチェヴォで、第二次世界大戦中の1941年4月21日から22日に略式処刑を執行した。処刑は、ドイツ軍とりわけドイツ戦線師団の部隊によって実行された。待ち伏せは偽旗作戦であり、地元のドイツ軍によって組織された。

 1941年4月21日の朝に、ドイツ軍とヴァッフェンSSは、パンチェヴォの各地から100人を逮捕した。100人のうち40人が軍事法廷に出頭した。軍事法廷の後に、36人のセルビア人が死刑と4人が無罪と宣告された。処刑は、クルトゥルブントとヴァッフェンSSの支援を受けたドイツ軍隊によって行われた。半数は絞首刑で、残りの半数は銃殺刑だった。死体は処刑後3日間公開された。

 ドイツ軍は1941年4月初頭にユーゴスラビアとギリシャに侵攻した。1941年4月21日に、4人が射殺された。翌日の1941年4月22日に、18人が絞首刑に処され、14人が射殺された。絞首刑は旧正教会墓地で行われ、絞首刑の遺族は強制的に墓地に来て処刑を見守った。地元の多数のドイツ人が絞首刑と銃撃を目撃した。パンチェヴォ近郊の出身を除き、全員パンチェヴォ出身であった。犠牲者の死体は全員、絞首刑と射殺の両方で24時間放置されて、親族が埋葬した。前日に射殺された4人の犠牲者も同時に埋葬された

 犯罪を撮影した多数の数十枚の写真が保存された。段階的な裁判の写真、処刑場に連行される犠牲者、墓地での絞首刑とノヴォセリヤンスキー・プットの墓地の壁に沿った銃撃の両方の処刑の写真が保存された。ドイツ国防軍の写真家ゲルハルト・グローネフェルトによって撮影されたが、それ以外は国家社会党の公式写真家ハインリヒ・ホフマンであった。





2024年9月23日月曜日

1928年5月3日に勃発した中国の済南事件によって、日本軍兵士が1928年5月に済南市内を警備した。済南市の路上には済南市民の死体が散乱していた。

中国の済南事件によって、日本軍兵士が1928年5月に済南市内を警備した。済南市の路上には済南市民の死体が散乱していた。1928年5月3日に、日本軍は山東省済南市で国民党軍への攻撃を開始した。国民党軍の妥協と譲歩、無抵抗命令により、多数の中国人兵士と民間人が虐殺された。

 1928年5月3日に済南事件が勃発した。済南は、山東省にある商業都市で、日本人をはじめ、多くの外国人が居住していた。済南で、中国の軍閥同士の大規模な衝突が起こった。日本は日本人の居留民保護のために、1928年年4月下旬に済南へ日本軍を派兵した。日本軍は少数の派兵として、目的は日本軍の居留邦人の保護であった。日本派遣軍は、済南城の外にある商埠地にバリケードを築いて、戦いの衝突が及ばないようにした。

 国民革命軍が済南を占領した時に、日本は日本人保護を口実に介入し、1928年5月3日、山東省国民政府委員の蔡公士を含む17人の外交官を残酷に殺害して、済南市を強制占領した。約6,123人の中国人民と中国軍兵士を無惨にも殺害した。1929年2月28日に、日本政府は国民党政府と合意に達して、済南から日本軍の軍隊を撤退させ、済南事件は終結した。

 1928年5月3日に、蒋介石の国民党軍兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃した掠奪が勃発した。国民党軍の掠奪は凄まじく、中国人の警察官から役所の職員まで全員が略奪した。暴動が勃発すると、日頃の職務等は一切関係なくなった。武器を持った群衆も暴れ始め、軍の統制も効かなかった。暴徒たちは、駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えた。日本陸軍は、救援部隊を現場に急行させた。中国軍兵士たちは遁走し、国民党の兵舎に隠れては銃撃を加えた。済南市内全域は修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女も、中国人暴兵の手で惨殺された。